芭露百年のあゆみ

第10章 住民の暮らし
第11章 交通通信機関の変遷

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第10章 住民の暮らし

●保 健  ● 伝染予防
 1915年(大4)ころ芭露、上芭露でチフスが流行した。当時は河川の水を飲用と洗濯に利用しており、それが原因と考えられた。終戦後、上芭露で赤痢が多発したことから、1947年(昭22)上芭露に隔離病舎が建設された。
 1953年(昭28)湧別の隔離病舎の老巧化による廃止に伴い、1956年(昭31)芭露の国保診療所に65坪の近代的な隔離病棟が併設、これによって上芭露の隔離病舎も廃止された。
 1970年(昭45)湧別町は一部事務組合方式の遠軽町・上湧別町伝染病隔離病舎組合(遠軽地区伝染病隔離病舎組合)に加入、隔離病棟は遠軽町の厚生病院敷地内に設けられた。芭露診療所の隔離病棟は廃止され、その後、診療所の付属施設として利用された。

 ● 助産婦と保健婦
 湧別町での保健婦は、1945年(昭20)下湧別村国民健康保険組合が組合員の保健指導のため上芭露に遠藤松子を配置したのが始まり、テイネー以東をエリアに乳幼児から老人までの健康指導、妊産婦指導、栄養指導などをした。
 1949年(昭24)からは国民健康保険事業が村営化している。現在、湧別町の保健婦は3人、芭露では年2回保健婦による健康相談が老人寿の家で行われている。
 芭露初の助産婦は金子芳江で、1947年(昭22)ころから芭露市街で開業した。
これ以前は素人産婆が出産を助け、昭和になってからは中湧別や湧別の産婆を招いていた。昭和30年代から妊婦は病院に入院して出産するようになった。
● 医 療  ● 湧別町芭露診療所
 芭露での医療機関は1924年(大13)ころ神吉章の開業に始まる。以前は医師が不在で、上芭露の医師に頼っていた。1926年(大15)道の優遇借置がある拓殖医に承認され、住民の寄付により、診療所が建設された。
 診療所は3階建ての洋館風の建物で、芭露ではひと際目立つ存在で、診療室、入院室、薬局のほか、床の間付きの宿舎を完備していた。
 以来、5人の医師が同診療所を継承したが、1940年(昭15)医師の上芭露への転居により診療所は閉鎖状態。住民は上芭露の出張診療に頼った。診療所の建物は芭露農協婦人部の保育所、木材工場経営者の住宅、道路工事の飯場にも使われたが、老巧化が著しいため取り壊された。
 戦後、1948年(昭23)佐藤隆雄が芭露市街で開業したが、1954年(昭29)10月転居した。
 1954年(昭29)12月湧別町直営国民健康保険診療所として芭露診療所が開設された。住民の永年の要望に応えたもので、これにより医師の常駐態勢ができ、芭露地方の医療体制が充実した。新築された施設は病棟1棟(118坪)、ベット10床、レントゲンも完備した近代的施設だった。
 初代所長は下佐呂間国保診療所所長だった山野茂樹医師。1955年(昭30)から1年余り岩代学が北大から出張勤務し、外科長を努めた。その後、1957年(昭32)10月から1960年(昭35)8月までは柴田正雄が1人体制で所長を務めた。
 1960年(昭35)9月住民の要請の応じて釧路市立病院外科医長だった岩代学が専任医師として着任。1961年(昭36)から委託経営制に移行、湧別町芭露診療所と称し、自営している。
 その後、診療諸施設は1977年(昭52)事業費6,084万5,000円で改築、木造モルタル一部2階建て525u、病床は10床、温水暖房を施した。
 1995年(平7)4月から医療行政の改変により、入院を休止した。同年の体制は岩代医師、看護婦4人、事務員、用務員各1人の計7人で、地域医療を支えている。
● 環境衛生  1903年(明35)のチフス患者発生を契機に、伝染予防を集団で取り組む気運が盛り上がり、翌年湧別村衛生組合が発足した。村が補助金を交付し、伝染業予防の啓蒙、衛生検査など組合業務を助長した。
 1941年(昭16)隣保班組織(町内会、部落会)の整備に伴い、同組合は隣保班衛生部に組み込まれ、下湧別村連合衛生部が発足。国策だった体力と出生率向上推進の末端機関となり、終戦後まで活動が続いた。
 1953年(昭28)公衆衛生に関する民主組織の育成要領が示され、公衆衛生がクローズアップされる中、衛生組合が復活した。事業内容は従前の組合とは異なり、モデル衛生地区の指定に基づく清掃美化運動運動、遠軽保健所との連携などによる啓蒙活動を実践している。
● 生 活  ● 簡易水道
 芭露地区への入植時、河川やわき水などがある地を求めて着手小屋が建てられた。芭露市街は泥炭地のため、河川を飲用水にしていた。その後チフス患者が出たこともあり、井戸の掘削が増加した。
 水質の良い井戸水は”もらい水”として重宝された。バケツに入れた水は天秤棒でかついだり、リヤカーに乗せて運んだ。湧網線開通後、住民は回送していた鉄道職員用の水槽車の余剰分を1955年(昭30)過ぎまで分けてもらっていた。
 また、1960年(昭36)ころ佐藤誠宅の古井戸(戦時中は豆腐店が使用)を利用して水道を整備、電動ポンプで約80戸に給水されたが、水量不足のため時間給水するほどで不便だった。
 湧別町は1969(昭44)、1970(昭45)の両年、芭露市街の人口増と衛生上の問題に対応し、ポン川を水源池に浄水場と導水管(延長2万1,197m)を完備、1970(昭45)12月から給水した。給水人口は205戸・810人。総事業費は4,664万円。

 ● 開拓飲雑用水施設
 水不足は営農上の障害にもなっていた。特に酪農経営には飲雑用水の確保は緊急課題だった。開拓農家の営農用水は開拓飲雑用水施設として実現した。
 戦争末期に緊急開拓施策で、解放された内山牧場に入植した29戸の開拓民は用水不足が大きな悩みとなっていたが、農林省は1950年(昭25)、1951年(昭26)に各2ヵ所ずつ井戸を開削した。
 1962年(昭37)には東方山麓を水源池に受益者も負担し、延長3,100mの導水管を敷設。その後、東地区開拓水道を連結、本間沢川を水源に拡張した。
 1961年(昭36)、1962年(昭37)に入植した芭露第2開拓団8戸についても、1062年(昭37)井戸と2,023mの導水管が整備された。

 ● し尿処理とごみ処理
 1958年(昭33)から町の指定業者のバキュームカーが特別指定地域の芭露、湧別市街、錦町のし尿の汲み取りを開始した。1967年(昭42)からは7ヶ町村による遠軽地区町村し尿組合の終末処理場(遠軽町)が操業。くみ取り地区も拡大し、組合の指定業者が収集している。芭露市街は湧別市街地区同様3回の収集となっている。
 公的なごみ処理は湧別市街と同時に芭露市街が収集地区となり、1956年(昭31)から月1,2回のペースでスタート。芭露方面は荒谷の沢に埋め立て方式で投棄していた。
 1974年(昭49)廃棄物の処理及び清掃に関する法律を踏まえ、湧別町は清掃条例を改正強化、清掃車を1台備え、収集地区に上芭露、計呂地市街などを加えた。現在、芭露地区は週1回収集している。
 投棄場所は1973年(昭48)に芭露地区用に3,697uの用地を確保し、埋め立て方式により処理していたが、1990年(平2)6月閉鎖。一般ごみは港町の焼却施設で処理されている。

 ● 火葬場と墓地
 1941年(昭16)芭露に火葬場が設置された。その後、1964年(昭39)重油バーナー焼却炉が取り付けられた湧別火葬場が利用されるようになり、芭露火葬場は1974年(昭49)に廃止。1979年(昭54)湧別火葬場が「湧別葬祭場」として新築されたのに伴い、他の火葬場も廃止された。
 芭露墓地は、1902年(明35)に創設されたものだが、1938年(昭13)北海道国有未開地処分法による付与で正式に村営の共同墓地となった。面積は12,569u。
● 子どもとお年寄り  ● 芭露保育所
 戦時中の農業労働不足から、道は食糧増産体制の一環として、婦人の労働力動員を意図し、農村季節託児所の設置を指導勧奨した。これを踏まえ、芭露託児所が1939年(昭14)青年会館内に開設、1942年(昭17)旧芭露診療所建物に移転、1944年(昭19)まで運営された。
 その後、保育施設の必要性が高まり、芭露婦人会長の松田こふじが保育所設置を計画。中沢初子らの熱意により、町費の助成を得て、婦人会の事業に位置づけ、1954年(昭29)5月に消防番屋の一部を間借りし、季節保育園として開設された。
 1960年(昭35)町から学校校舎解体材を無償提供され、部落の寄付により、独立した園舎が建設された。1962年(昭37)から通年制、1968年(昭43)施設が町に移管され、保育所と改称。運営委員会による、公営に準じた運営となった。
 その後、1977年(昭52)町営に移管。1978年(昭53)11月園舎を新築、翌年(昭54)常設保育所としてスタートした。
1995年(平7)の園児数は44人、保母は3人体制となっている。
 町営後の歴代所長は、井尾朋史、岩佐好博、佐藤博、蔦保太毅、木戸周平、佐藤実

 ● 芭露児童館
 芭露児童館は、1978年(昭53)12月、放課後の児童対策として、旧芭露公民館(町公民館芭露分館)に開設。主な施設として、遊戯室、集会室、和室、図書室を備えた。実質的な運営は、準備期間を経て、1991年(平3)12月からスタートした。
 児童厚生員1人を配置し、耕作や各種の遊びを年中行事にからませた活動を重ねている。1995年(平7)の開館日数は265日、延べ利用者数は3,183人、1日平均12人が利用している。

 ● にこにこ倶楽部
 老人クラブ「にこにこ倶楽部」は1961年(昭36)9月、70歳以上のお年寄り21人で発足した。当初は活動拠点がなく、小学校や民家の一室、旧保育所、消防番屋など地域の施設を転々とし会合を持っていた。ストーブ用の薪や茶器などを持ち寄ったという。
 1968年(昭43)湧別町公民館芭露分館が完成後は、同館内の和室を例会場とした。例会、物故会員の慰霊祭、福祉大学の実施、国旗掲揚塔の寄贈、花壇の造成などのほか、クラブの機関紙や歌も作った。こうした活動が評価され、1972年(昭47)厚生大臣表彰を受けた。
 1975年(昭50)には、地域老人の活動場所として、談話室、集会室、調理室、浴室を備えた芭露老人寿の家が開設された。以降、同施設を活動拠点をして自主的に運営している。
 例会、お楽しみ会、敬老の日の集い、ゲートボール大会や研修会の参加のほか、長期入院者の見舞い、交通安全の祈願祭、地域施設の清掃、芭露保育所、芭露小学校、湖陵中学校の学芸会への出席、釧路沖地震、北海道南西沖地震、阪神大震災の義援金募集など、地域や社会とともに歩んでいる。
 この間、1980年(昭55)に発足10周年、1990年(平2)同30周年記念行事を開催し、節目を祝っている。30周年記念式典では、感謝状と表彰状を功労者に贈った。そして40周年記念行事に向けて、すでに事業費の積み立ても始めている。1995年(平7)現在の会員は60人。
 歴代会長は、豊島幸之進、島田梅十、竹中馬治、西川治六、茂手木一夫、大崎竹茂、樋口久郎、尾関義一、多田藤雄、如沢次郎、小畑安夫。
● 社会福祉  ● 民生委員
 1917年(大6)北海道令により、生活困窮者の救済機関として、方面委員が設定された。芭露地区では大口丑定が任命された。その後関係法令により任務が広範囲となり、戦後の行政改革まで続いた。
 1946年(昭21)生活保護法、民生委員令が施行され、ほうめん委員制を強化した民生委員が誕生。同年小湊金吉が選任された。終戦直後とあって、戦災、引き揚げ者などの事態に対応した。
 1948年(昭23)民生委員法が施行され、民生委員の性格は「社会奉仕の精神を以て、保護指導のことに当たり、社会福祉の増進に努めるものとする」と定義づけられた。また同年から児童委員も兼ねることになった。庁内の定数は18人、同年芭露からは3人が委嘱された。

 ● 里 親
                 【北見児童相談所管内登録里親数と委託里親数】
    年度
区分
昭35 昭40 昭44 昭48 昭50 昭51 昭60 昭63
登録里親数 85 100 128 115 114 97 82 70
芭露里親数 10(11,8) 12(12,0) 16(12,5) 23(20,0) 20(17,56) 21(21,6) 16(19,6) 8(11,4)
委託里親数 56 71 78 83 62 66 38 37
芭露里親数 5(8,9) 15(21,0) 25(32,1) 32(38,6) 24(38,7) 15(22,7) 5(13,2) 0(0,0)
 1955年(昭30)山中春男、武藤国光が里親に登録し、芭露の里親運動が始まった。管内にも身寄りのない不幸な子供たちが多く、里親を慕っていることから、山中を中心に親類・縁者らを皮切りに、地域の人たちに呼びかけた。そして、里親同士が連携して里親を増やしていった。
 登録里親数と委託里親数の推移(北見児童相談所)は表の通りだが、40年代が芭露における里親実践のピーク期だった。登録里親数は1972(昭47)年度、1973(昭48)年度の23人、委託里親数は1973(昭48)年度の32人がピーク。北見児童相談所(網走)管内全体との比較では、登録里親数は1976(昭51)年度の21、6%、委託里親数は1975(昭50)年度の38,7%がピークで、芭露の占める割合は極めて高く、これら実績は先進地として注目を浴びた。
 この間、日本女子大学教授の松本武子らが視察に訪れたほか、NHKや民放テレビで”芭露方式”の里親運動が放映された。松本は1991年(平3)に出版した『里親制度の実証的研究』の中で、芭露の里親についても紹介し、「芭露部落の里親受託の実態は驚異そのものであり、児童福祉に貢献する部落の人々の努力と熱意は礼賛に値するものであった」と大きく評価している。
 ”芭露方式”とは、里親の実践を通じて培われたもので、里親同士の連携により、里親の変更など問題を地域内で解決できたこと、複数の里子を受け入れる里親が多かったこと、地域と密接に関わりながら養育してきたことーーーなどがあげられている。
 また、芭露の里親は、養子縁組のケースもあるが、ほとんどが養子縁組を目的とするものでないことから、里子委託数が多くなった。
 しかし、1975年(昭50)以来、新規の里親登録はなく、里親数は横ばいで推移、1987年(昭62)から里親は8人、1988年(昭63)から委託里子はゼロでそれぞれ推移。里子の高齢化や家族形態の変化、少子化などから、里親活動は休止状態になった。この間、子の代に引き継がれた里親は1例だけだった。
 1993年(平5)18年ぶりに新しい里親が登録したほか、「芭露里親の火は消すな、登録は続けよう」と里親8人全員が里親を継承した。これまでの養育実績を踏まえ、全国的に紹介された里親先進地であること、里親制度の啓蒙、後継者の育成のためなどに決断したものだ。
 北海道生活福祉部の『北海道児童相談所研究紀要第22号』(平7)に芭露の里親実践について報告されているが、その中でも「児童福祉が地域社会に浸透していない時代、芭露において山中里親が種をまき、地区の中で多くの実をつけたこと、それが管内全体をリードしたという歴然とした事実に驚愕するものである」と評価している。
● 公安と防災  ● 芭露警察官駐在所
 1901年(明34)8月網走警察署湧別分署が設置された。同分署管轄下の進展に伴い、1911年(明44)4月巡査駐在所が芭露郵便局前に設置、芭露方面を管轄とした。初代所長は宮下巡査。
 1918年(大7)上芭露に巡査駐在所が設置され、芭露方面の体制強化が図られた。1021年(大10)紋別署昇格により湧別分署は同署分署、1926年(大15)湧別署として独立したが、1935年(昭10)湧別警察署は廃止され、その後遠軽警察署湧別警部派出所に縮小、湧別警察官派出所となった。
 1959年(昭34)11月芭露警察官駐在所は276番地に移転新築、遠軽署下に置かれた。1968年(昭43)機構改革により、巡査駐在所は警察官派出所、1969年(昭44)宿直勤務をしない派出所は警察官駐在所と改称、湧別町内の派出所は全て同駐在所となった。
 上芭露駐在所は、事件事故がないため、遠軽署に通勤する状態のため,1974年(昭49)5月に廃止された。これに伴い芭露警察官駐在所の管轄は拡大し、芭露地区全域(芭露、上芭露、西芭露、東芭露、志撫子、計呂地)となった。1983年(昭58)芭露警察官駐在所が新築された。
 歴代警察官は、阿部芳郎(昭20・7)、目黒俊男(昭23・6)、佐藤末信(昭27・8)、北原恒男(昭28・10)、五十嵐友次郎(昭30・10)、下野広明(昭37・4)、鈴木五男(昭41・11)、大竹忠男(昭42・4)、武田留太郎(昭46・5)、若松友吉(昭50・8)、大山正信(昭52・4)、伊藤隆雄(昭56・8)、藤中幸吉(昭60・8)、佐々木隆行(昭62・10)、新保龍朗(平4・9)。

 ● 防犯協会芭露分会
 1950年(昭25)遠軽警察所管内防犯協会が結成、芭露、上芭露の各巡査駐在所ごとに支部が設置された。1952年(昭27)同署管内町村内支部を統一する連合会が組織、事務局が役場内に置かれた。1957年(昭32)遠軽地区防犯協会、連合会は支部、支部は分会に改称された。
 芭露分会では、車上狙いや盗難防止、歳末取締運動で、チラシを配るなどし住民を啓蒙。また小学生と中学生を対象に防犯標語を募集し、標語集は公民館分館に置かれ、防犯意識高揚に一役買っている。
 歴代支部(分会)長は小沢虎一、大沢義時、小林国雄、根布谷秀男、越智豊。

 ● 交通安全協会芭露支部
 1951年(昭26)遠軽地区交通安全協会の下部組織として、湧別、芭露、上芭露に各支部が発足。自動車運転免許所有者を会員に交通安全運動の中核となり、各種の啓発や広報活動、表彰などを実施している。
 1969年(昭44)湧別町交通安全指導員設置条例制定により、芭露地区でも指導員が委嘱され、指導員による街頭指導などが行われている。
 芭露支部では交通安全運動期間中を中心に街灯啓発やパレード、模範ドライバーの表彰、免許更新時講習会などを実施している。
 歴代支部長は、大沢義時、岩代学。

 ● 消防組織   芭露分団・芭露分遣所
 1910年(明43)湧別村の公設消防組が設置され、芭露方面も管轄の下湧別消防組と中湧別消防組の2組で構成された。
 1935年(昭10)5月芭露に自警消防組が設立された。寄付により手押しポンプを配備、芭露市街に番屋(2階建て25坪)を地域の事業として建設した。初代組長は小沢虎一。
 1937年(昭12)4月芭露自警消防組は下湧別消防組第3部とされ、区域は芭露、計呂地、床丹、志撫子の一部とした。人員配置は部長1人、小頭3人、消防手30人。
 その後、戦中、敵機の来襲に備え、防護団が結成。戦時対応の警防団令が公布され、1939年(昭14)4月防具団と消防組が統合、警防団が誕生した。警防団は警察署長下に置かれ、戦時の広範な警護事項を任務。1942年(昭17)5月ポント浜の浮遊機雷の爆破にも動員され、殉難者を出している。
 1947年(昭22)消防団令、消防法の公布、消防団設置条例の制定、1948年(昭23)同条例の廃止。消防団員の定数並びに任命に関する条例改定により、自治体消防として下湧別村消防団が正式に発足した。
 芭露分団には、1947年(昭22)自動車ポンプ。1951年(昭26)サイレン施設。1955年(昭30)ポンプ車、1967年(昭42)車庫新築、1968年(昭43)可搬式小型動力ポンプ車、1969年(昭44)芭露消防会館改修、積載車1台など、施設が整備された。
 昭和40年代に入ると広域消防体制の確立が求められ、1971年(昭46)7ヶ町村による遠軽地区消防組合が発足、遠軽に本部、各町村に支署が置かれた。これにより湧別町は遠軽地区消防組合消防署湧別支署と湧別消防団が据えられた。消防団の組織には変動はなく、本部が消防組合に移り、支署が配置されたもの(湧別支署芭露分遣所、湧別消防団芭露分団)。
 囲碁、芭露分団には1971年(昭46)普通消防車1台、1972年(昭47)可搬式小型動力ポンプ車1台、1974年(昭49)消防会館改修、1976年(昭51)芭露市街に湧別町初の消火栓6基設置、水槽付消防車1台など施設を拡充。1991年(平3)には可搬式小型動力ポンプ車が更新された。
 湧別支署庁舎は1990年(平2)新築し、隣接して職員待機宿舎が建設された。芭露分遣所には職員が24時間態勢で配置されている。
 芭露分団の現況消防車輌は、ポンプ車、タンク車、小型ポンプ積載車が各1台配置。老巧化した芭露分団(分遣所)施設の新築も計画されている。芭露消防団の団員は35人(定員40人)。
● 火 災  入植者の増加に伴い、山火事が多くなった。開墾に際した火入れの頻度が多かったことが災いとなったようだ。1908年(明41)芭露初の山火事が発生した。1911年(明44)5月東芭露に発生した山火事は、芭露にも達し、人家数戸が焼失。芭露小学校の沿革誌では「一夜を徹して学校の防火に尽せり」と記述されている。
 その後、1917年(大6)「春、ポン川から発生した山火事が本間沢の山まで燃えた」、1924年(大13)「8月計呂地方面から志撫子方面までを延焼した」、との記録が残っている。
 建造物の火事は、1899年(明32)7号線の住居が全焼したのが最初のようだ。
 以降、大正、昭和を通じて発生しているが、1971年(昭46)6号線の住宅が全焼し、12歳と18歳の姉妹が焼死する悲惨な火事もあった。
 その後、1979年(昭54)3月芭露市街で住宅が全焼し、焼死者1人を出した。
このほか、芭露分団管轄では、1973年(昭48)8月開拓で牛舎、同年11月志撫子で漁業作業場、1974年(昭49)7月計呂地で町有林、1975年(昭50)9月芭露で住宅内部、1977年(昭52)6月芭露で木工場、1982年(昭57)7月ポン川で牛舎、1983年(昭58)9月志撫子で畜舎、1992年(平4)6月農協倉庫で火災があった。
● 水 害  ● 芭露川の概要
 芭露川は、湧別町と佐呂間、遠軽、上湧別、生田原の4町との町界付近に源を発し、芭露地区を貫流してサロマ湖に注いでいる。流路延長は22,4km。町内最大の流域を擁し、流域面積は143,4ku。支流は、キナウシ川、本間の沢川、ポン川、西の沢川、東の沢川。
 蛇行わん曲が連続する湧別川に次ぐ原始河川で、増水のたびに氾濫していた。
10号〜11号線、7〜8号線の間ははんらん地点となり、これらの下流域は冠水、落橋の被害に悩まされた。

 ● 水害の記録
 明治から大正の半ばにかけては、特記すべき水害はなく、以降の山林の乱伐以降に激しくなったようだ。洪水の記録は次のように残っている。
  ◇ 1898年(明31)秋
      1週間の豪雨により、本間の沢川がはんらんし、現在の市街地が被害
  ◇ 1922年(大11) 8月24,25日
      大洪水のため、7,8尺増水(芭露小学校沿革誌)
  ◇ 1923年(大12) 9月16日
      9尺増水 (芭露小学校沿革誌)
  ◇ 1935年(昭10) 8月
      大豪雨来襲して大洪水となり各地に被害多し(上芭露小学校沿革誌)
  ◇ 1941年(昭16) 6月
      豪雨のため洪水、各所に被害多し(上芭露小学校沿革誌)
  ◇ 1953年(昭28) 11月1日
      豪雨によりポン川野村橋付近ではんらん、6号線から4号線の農地に冠水し、
      芭露小学校校庭、校舎裏を経て、芭露川に流下。一方、本間の沢川の洪水は市街地にあふれ、
      太田商店前で2尺余りに達した。(芭露農協の記録)
  ◇ 1955年(昭30) 9月
      被害額は6,388万8,000円(網走土木現業所調べ) 
  ◇ 1950年(昭25)から1960年(昭35)
      10ヶ年の被害総額は1億7,525万5,000円(網走土木現業所調べ)
  ◇ 1969年(昭44) 5月25日〜28日
      4日間にわたる長雨の影響(雨量約30mm)で、芭露8号線橋が流されたのをはじめ、
      芭露川水系一体のビート、ハッカ、ジャガイモの畑、採草地約50haが冠水、
      芭露小学校、農家など5戸が床下浸水した。(広報ゆうべつ)
  ◇ 1971年(昭46) 11月1日
      前夜来の豪雨により、芭露小学校及び住宅床上20cmほど浸水し臨時休業。
      翌2日消防による水洗作業、4日消防団、PTA、中学生の支援により復旧作業。
      5日登校開始(芭露小学校80周年記念誌)
  ◇ 1979年(昭54) 10月24日
      暴風雨水害のため、全町の小学校が臨時休業
 1990年代に入り、1992年(平4)8月9日には台風10号から変わった低気圧の影響による大雨で芭露市街の国道、道道が通行止めになったほか、床上、床下浸水45戸の被害があった。
 同年9月の台風17号による被害が近年では最も大きい。10日から12日までの降水量は147mmに達し、湧別町では過去に例のない最大の降水量となった。芭露では芭露川のはんらんなどにより、大きな被害を受けた。
 芭露の浸水被害は、床上が住宅49棟、老人寿の家、郵便局、芭露小学校、倉庫12棟の計64棟、床下は住宅35棟、湖陵中学校、倉庫7棟の計43棟、被害者は芭露児童館、湧別町畜産綜合研修センター、芭露農協クーラー詰所に避難したが、避難者は9月11日から13日までの延べ70世帯180人。冠水や流出などの農業被害は、芭露農協全地区で延べ439、5haに及んだ。
 さらに、1994年(平6)9月20日、台風24号により、家屋浸水19戸、畑の冠水7haの被害を受けた。

 ● 芭露川の改修と水害対策
 芭露川の改修は、住民の改修要望が盛り上がり、1958年(昭33)網走土木現業所が着手。1960年(昭60)2級河川に指定後、諸事業の実施が促進された。
 1960年(昭35)度から1967(昭42)年度にかけて、ポン川合流点〜旧国鉄橋間の3kmを芭露川小規模改修工事として改修。1968(昭43)年度から1973(昭48)年度芭露川局部改良工事としてポン川合流点から8号線までの1,8kmを改修。次いで、1977年(昭52)災害復旧工事として旧国鉄鉄橋から河口まで矢板護岸を施工。1978(昭53)年度から1993(平5)年度にかけて、8号線以南の上流地帯10,8kmの改修が国営土地改良事業として施工された。
 ポン川は1973年(昭48)から1980年(昭55)にかけて、ポン川局部改良工事として、芭露川合流点から約0,8kmの区間を改修。1975年(昭50)から1978年(昭53)にかけてポン川砂防ダムを建設。この間、1977年(昭52)ポン川一部が河川法による準用河川に指定。本間の沢川は芭露川小規模改修の中で、芭露川合流点から約0,4kmの区間が改修された。
 1992年(平4)、1994年(平6)の台風による洪水では、農地と宅地が冠水しており、特に未改修の河口から旧国鉄橋の区間は、漁民の集落があり、床下・床上浸水などの被害は大きく、住民の改修要望が高まる中、網走土木現業所は近い将来改修する計画だ。
 湧別町も、芭露地区の水害対策として、1995年(平7)芭露地区水害対策排水路整備事業を実施した。事業費は1億5,450万円。市街地区の排水路の拡張・新設(延長854m)のほか、湖陵中学校側の堤防に排水ポンプを向上した。
 また、これら水害対策事業と連携して、網走開発建設部が国道238号線下の横断函きょの改修工事を進めている。

第11章 交通通信機関の変遷

● 鉄 道
 ● 湧網線の盛衰と廃止反対運動
 鉄道網の広がりは、地方の陸上交通と運搬に革命をもたらし、地域の発展を促進した。湧別町内にはかって3線が走っていた。湧別線(北見ー湧別)、名寄線(中湧別ー湧別)、そして湧網線(中湧別ー網走)。湧別線の1916年(大5)を皮切りに、名寄線1921年(大10)、湧網線が1953年(昭28)に全通した。
 汽車が走る以前、運送手段は馬車と海運。湧別線開通当時は、ニシン景気で沸いていたが、鉄道輸送は、魚の鮮度の維持と大量輸送を可能とした。農産物も同様で、亜麻の原料や製品の輸送も盛んに行われた。
 芭露を走った湧網線は、当初湧網西線として、1935年(昭10)10月中湧別ー芭露ー計呂地、床丹の3駅が開業。同線の開通以前中湧別駅に集まっていた木材などの貨物が沿線各駅からの輸送となった。一方、湧網東線も1936年(昭11)網走ー常呂間が開通した。
 唯一残った中佐呂間(佐呂間)ー常呂間は、太平洋戦争(大東亜戦争)による中断や予算の都合などから工事は遅れたが、1952年(昭27)8月再開され、1953年(昭28)10月22日、湧網東線と湧網西線を接続し、中湧別ー網走間が全通した。これにより、路線名は湧網西線を湧網線とした上で、湧網東線を湧網線に編入した。
 芭露、計呂地、下湧別の3駅の1936年(昭11)の営業状況は、乗車50,087人、降車50,176人、貨物発送13,324t、到着10,875t。1937年(昭12)の芭露駅の営業状況は、乗車28,887人、降車27,253人、貨物発送25,738t、貨物到着3,406t。貨物発送は、床丹も含め4駅の中で一番多い取扱量だった。
 その後、湧網線では、1956年(昭31)レールバス、1961年(昭36)気動車、1966年(昭41)大型ディーゼルカーがそれぞれ運行を開始。SLは1975年(昭50)6月8日が最後の運行となり、湧網線から姿を消した。芭露駅舎は1060年(昭35)工費60万円で改築された。
     戦後の復員により、国鉄職員が増えました。私が所属していた保線の芭露分区でも10人ほどに増えました。芭露駅も4,5人いましたね。戦中の男手が不足していたころは女子職員もいました。
 鉄道官舎は、芭露農協の近くにあり、最盛期には確か駅関係が2戸、保線関係が6戸ぐらい入居していたね。 家族を含めると、芭露に国鉄関係の住民は40人近くいたのでは。    (上湧別町  井野昭一)

 鉄道輸送は、各沿線に恩恵をもたらしたが、昭和40年代以降、道路網の整備と自家用車の急激な普及により、深刻な影響を受けた。各駅の営業状況の推移がそれを物語っている。
 芭露駅の発送貨物は、1050年(昭25)12,410t、1960年(昭35)23,770t、1966年(昭41)17,006t、1072年(昭47)277t、1978年(昭53)37tと激減。乗車人員も1950年(昭25)54,750人、1960年(昭35)56,688人、1966年(昭41)94,659人と増加したものの、1972年(昭47)39,741人、1978年(昭53)25,745人と減少している。
 国鉄は経営の合理化を余儀なくされ、査問委員会を設け、抜本的な再建策の検討に入った。1968年(昭43)同査問委員会の答申に廃止路線に湧網線など管内5路線が含まれていた。この間、関係沿線1市4町による国鉄湧網線廃止反対期成会などが発足し、反対運動は活発化。政治的配慮もあり、赤字ローカル線廃止問題は”一時休戦”に。
 その後、1979年(昭54)国鉄は「特定地方交通線の整理」構想により、再び赤字ローカル線廃止を打ち出した。具体的な実施に向けては、1980年(昭55)国鉄経営再建特別借置法を制定、翌年同法施行令を公布。この中に赤字ローカル線77線路線の廃止が盛り込まれ、第2じ廃止路線対象に湧網線と名寄線が入った。
 この間、1972年(昭47)「国鉄営業近代化計画」が発表され、芭露駅の合理化も進められた。翌年手荷物の取り扱いを廃止、駅務を民間委託、1982年(昭57)貨物の取り扱いが廃止、無人化された。
 1982年(昭57)臨調が国鉄の分割・民営化を答申。同年11月国鉄は第2次廃止路線を運輸相に承認申請。1984年(昭59)運輸省が第2次廃止路線を承認し、湧網線は1986年(昭61)2月にバス転換が決定した。
 同時に国鉄の分割・民営化の作業も進んだ。1984年(昭59)国鉄再建管理委員会が分割・民営化を提案、1986年(昭61)国鉄改革5法案閣議決定、同委員会が民営・分割化を最終答申、国鉄関連法案が成立し、国鉄の分割・民営化が決定した。
 こうした国鉄再建に伴う、赤字ローカル線の廃止に対して、湧別町、湧別町議会は、沿線自治体と連携して、湧網線と名寄線の存続運動を展開した。1980年(昭55)国鉄名寄本線ほか地方交通線対策協議会、1983年(昭58)北海道地方交通線(第2次線)確保対策市町村会議、湧別町国鉄地方交通線確保対策協議会、1984年(昭59)国鉄湧網線議員連盟がそれぞれ発足した。これら団体や網走管内開発期成会が中央陳情や対策会議、決起大会などを重ね、鉄路の存続を訴えた。
 1983年(昭58)6月、湧網線沿線の5市町の住民200人が列車に乗り、車内で住民総決起大会を実施した。湧別町と上湧別町の住民60人は中湧別駅から乗り込み、佐呂間駅で網走市、常呂町、佐呂間町の住民ら140人と合流し、湧網線の廃止反対を決議した。
 この中で、お年寄りを代表して、芭露の樋口久郎が「お年寄りや病弱者にとって最適の交通手段であり湧網線の廃止は絶対に許せない」と存続を訴えた。網走駅に到着後は、中央公園までプラカードを持って行進、同公園で網走集会を実施した。
 一方、オホーツク縦断鉄道(オホーツク本線)構想が沿線自治体間で高まり、1981年(昭56)同鉄道実現のための期成会発足、関係方面に陳情した。同構想は、天北線〜興浜北線〜(未開通区間)〜興浜南線〜名寄本線〜湧網線〜釧網本線を結ぶ、稚内ー釧路(500km)を一本化しようというものだったが、鉄路の寸断により、夢物語となった。
 湧網線は国鉄の民営化直前、1987年(昭62)3月19日で廃止された。名寄線は国鉄が民営化後、2年間暫定運行された後、1989年(平1)4月30日幕を閉じた。

 ● さよなら湧網線
 湧網線のお別れ列車(6両編成臨時列車)は1987年(昭62)3月19日、中湧別ー網走間を往復し、網走、常呂、佐呂間、計呂地、中湧別の5つの駅でお別れ会が開かれた。同列車には鉄道マニアら300人を超す乗客が乗り、各駅には地元の人たちが詰めかけ廃止を惜しんだ。
 芭露郵便局(芭露郵趣会)では、板はがきと記念はがきを作製した。板はがきはサロマ湖畔を走る列車のイラストをデザイン。記念はがきはSLとディーゼルの2枚組。鉄道ファンらの人気を集めた。
 湧網線沿線跡地は駅舎も含め湧別町が買収した。計呂地駅は交通公園となった。芭露駅の活用は、自治会に委ねられ、検討されている。
 芭露出身の作家、金子きみは『国鉄 北海道ローカル線』(昭62)の湧網線の部分で、「牧歌の駅」と題した随筆を寄せている。
  亀がいないと甥たちが騒いだ。祭りの露店で買ったものである。「湖の方に行ったよ、亀は水のある方へ行くんだ」と子等の母が言う。本当に、砂の中で卵を出た亀の子がそろそろと海に向かうのをテレビで見たことがある。「探そう、まぐれに見つかるかもよ」疎林の間にサロマ湖の光ってみえる距離だが、駅も畑も牧場もある。亀を探すという無謀に子ども等は目を丸くしたが、帰郷の叔母の遊び心に同調した。300m行くと湧網線が通っている。
 「のろい亀でも、ひと晩で線路は越えたわね」線路を横切り、カメイナカと唄いながら駅の裏の土場に来た。
マッチ箱のような芭露駅だが、土場の丸太の眺めは盛大である。頑丈に組まれた土台に△に積み上げられた丸太の山が並んでいる。大木が素材の力強い構図に見とれてしまう。丸太扱いの昔を言えば、冬期に馬で湖畔に運ばれ、氷が解けると流木にして外海に出し、オホーツク海沿岸の港に揚げられたという。この土場には間もなく紺菜が搬入されるそうだ。偏狂の鉄道のどの駅も乗客よりも生産物出荷に功績がありそうだ。
 湧別と網走間の約90kmの、オホーツク海沿岸の16駅を結ぶ湧網線は戦時下をはさんで全開通に18年かかった。
昭和10年最初に開通したのが、網走常呂間と、中湧別計呂地間の両端で、わが郷里の芭露が入る。開拓40年目、延びてきた文明の足に苦節の頬をかがやかせ合い、荒地を拓いて建てた停車場前の開通祝に群れた日が忘れられない。馬市もあった。湖畔に広大な牧場をもつせいで馬産地だった。何かと言えば馬が登場する。地べたに酒瓶を立てて、馬喰と鳥打帽の下で指をつかみ合い値をさぐっていたのを25年過ぎた今も妙にあざやかに記憶している。

 丸太が崩れても、人なら死ぬけど亀は死なないね、などと話している牧夫が通りかかった。「なにしてる」わけを話すと、「この広いとこで亀だって、ばっかな」と笑ったが、表情を変えると「鉄道を越えてはいないし。あいつら金物にさわらん筈」という。ほんと?そうなら線路の手前でうろうろしてるわね。みんなは勇んでとって返した。鉄道沿いを十分もたずねたろうか、いたいたと奇跡的な声があがった。まぐれ当たりが嬉しくて線路の上で笑いが崩れた。折しも雑木林から赤い列車が現れた。近づく四角い顔のなつかしさ。「早くこい、運転手におこられる」いっときわれを忘れた私は注意される。先日牧柵を破った牛が線路に座り込み、列車の警笛にも横着に動かない。運転手は列車を止めて降りてきて、牛を追いたてたのだそうだ。
 その頃が湧網線の最盛期でなかったか。
50年、牧歌を奏でたあの鉄道にも、時代の変遷は酷簿に迫り、分割民営を機に廃線になる。となりの志撫子のサロマ湖の風光は音に高いが、水際を走り、いっときの心を、湖と海の続く青の世界に誘ってくれた。あの玩具のような汽動車は、むらの人をさびしがらせどこへ行く。
どの駅もいつも花を咲かせて待っていたのに。


 
● 旧芭露駅保存会
 湧網線の廃止に伴い、芭露駅を保存しようと同駅周辺の住民が旧芭露駅保存会(為広準一会長)を発足させた。同駅舎を管理するとともに旅行者の無料宿泊所として開放した。畳を敷き、テレビと水道を完備。為広会長らは駅舎の清掃や周辺の草取りを行い、旅行者を温かく迎え入れている。利用は夏場に集中し、年間に50〜60人ぐらいという。本州からのバイクや自転車を利用した旅行者が宿泊している。
 旧駅舎に置かれた「旅行者名簿」には、駅舎が残っていたことの感想、保存会への感謝などが綴られている。

  ◇ 芭露駅に2年前に来たことがあります。駅保存会ができておりよかった。実はもうさら地と化し、跡形もないと思っておりました。また来てここに宿泊するつもりです。
  ◇ ここの駅舎のことは北海道に入ってきてから話を聞いてしっていました。快く泊めていただいてありがとうございました。旧芭露駅保存会の皆さん、いつまでもこの駅舎を守ってください。
  ◇ 廃止されてしまった駅で泊まれるなんて少し驚いています。今にも列車が走ってきそうな雰囲気で旅好きの僕にとって良い思い出になると思います。
  ◇ この駅は懐かしい思い出の駅。湧別駅は壊されて既に跡形もなくなっていたのに、この駅が残っていてうれしかった。来年も自転車でここに泊まろうと思います。ぞっと残しておいてください。
  ◇ 湧網線の線路跡、駅舎跡をめぐる旅を続けています。しかし、ここまで駅舎がほぼ完全に残っていたのはここと計呂地ぐらいか。しかも残っている駅はどいつもこいつもツーリングトレインと化していた。この駅が営利のためでも観光目的でもなしにきちんと保存されているのに感動しました。ぜひまた来たい。
  ◇ ここに泊まれて良かった。大変良く眠れました。保存のために手を入れてくださった人がいてのことだと思います。どうもありがとうございました。

● バ ス  芭露芭露でのバスは、1929年(昭4)ころ、浜湧別で設立された湧別乗合自動車会社が定期路線の1つとして下湧別ー上芭露を運行したことに始まるが、1932年(昭7)同社の倒産により廃止。
 その後、1934年( 昭9)湧別乗合自動車合資会社が下湧別ー上芭露間、1936年(昭11)芭露ー東芭露間を運行し、やがて戦争のため北見乗合自動車株式会社に統合され運行を継承。しかし、戦局の悪化、燃料、修理の物資の配給減から、1944年(昭19)には町内の運行は中止した。
 終戦後は、北見乗合自動車が北見バスに改組して営業を再開したが、芭露方面は再開されなかったので、1950年(昭25)1月村営バスが開設され、同年下湧別ー東芭露間(中湧別ー芭露ー上芭露経由)、1952年(昭27)下湧別ー若佐間(中湧別ー芭露ー志撫子ー計呂地経由)を運行した。
採算の見通しがついたため、湧別町は経営権を北紋バスに委譲、その後、同社は北見バスに委譲したが、過疎化が進み、赤字路線として廃止された。
 廃止を受けて、町は1970年(昭45)再び町営バスを運行した。芭露方面は同年東芭露線(中湧別ー芭露ー上芭露ー東芭露)、1972年(昭47)計呂地線(芭露ー志撫子ー計呂地)を運行開始。1976年(志撫51)一般住民のスクールバスへの混乗が認可され、芭露方面では西芭露線、志撫子線の各スクールバスを利用できるようになった。
 現在、芭露方面は町営バスが東芭露線(上芭露経由)と計呂地線(志撫子経由)、湧網線廃止による網走バスの中湧別ー網走線が運行している。
 
 
● 運送業  湧網線の一部開通により、芭露駅に中沢猶何時が同駅に集散する物資を取り扱う運送店を開店した。1937年(昭12)1937年(昭12)小売運送業法、日本通運株式会社法(政府半額出資)の公布による運送業者の整理統合により、1942年(昭17)遠軽駅を中心とする33駅の運送店が合同し、遠軽通運株式会社を発足、芭露は同社の営業所になり、中沢が所長を務めた。
 1944年(昭19)遠軽通運は統合により日通遠軽支社になった。終戦後、日通は民間会社となり、運送業は民営化。日通の合理化により、芭露営業所は中湧別営業所管轄の委託営業所となり、1972年(昭47)廃止された。湧別の同委託営業所も1978年(昭53)廃止され、湧別方面の鉄道貨物は同中湧別営業所が取り扱った。

 ● 自動車
 湧別町の1台目の自動車は、1930年(昭5)上芭露の横山武一商店が購入した中古トラック「ページ」という。1946年(昭21)村農業会が軍用トラックの払い下げを受け、一般貨物の託送を開始した。その後昭和40年代から自家用乗用車の普及が本格化し、保有台数が増加。ほとんどの家庭が保有するようになった。1994年(平6)の町内自動車保有台数は5,113台となっている。

 ● 道路と橋
 町内の幹線道路網である国道や道道は、開拓期の開削により、ほぼアウトラインはできており、戦後、起伏や曲折の改修、砂利の敷き込みなど、計画的に改良が加えられ、利便性を機能性が向上した。
 現在の道路交通網は、国道238号線と、湧別上湧別線、遠軽芭露線、芭露停車場線、湧別停車場サロマ湖線、計呂地若佐線の5道道となった。町道も延長や改修が進み、路線が拡充されている。1975年(昭50)国道238号線町内全区間の改良舗装が完成した。
 湧別初の永久橋は、1937年(昭12)ころ、芭露原野道路8号線付近の村道(廃道)の小湊金吉付近に架けられた鉄筋コンクリートの底付箱型橋。以降、芭露地区内の国道、道道、町道の橋梁は漸次永久橋に架け替えられた。
 町内長大橋のベスト5に芭露川に架かる芭露橋(90m)、芭露4号橋(72,6m)、8号橋(58,1m)が入っている。
● 郵 便  芭露での郵便業務は、1906年(明39)芭露橋のそばにあった本間旅館に郵便箱が設けられたのが始まりで、切手類も取り扱われた。芭露地方の開拓が進み、戸数が増加した1909年(明42)芭露の小野鶴治が湧別郵便局の集配人を務め、住民に「配達さん」と親しまれた。
 1916年(大5)11月湧別郵便局の集配区域の分割により、テイネー以東を集配区域とする芭露郵便局が旧・山本多平商店の建物を改造して開設、同時に同旅館の郵便箱は廃止された。
 1920年(大9)2月湧別ー芭露間に電信線が架設され電信業務、1936年(昭11)9月市内電話9基が架設され電話交換業務の取り扱いをそれぞれ開始した。1970年(s45)局舎移転落成、1971年(昭46)3月地域集団自動電話化、1975年(昭50)日曜配達廃止、1976年(昭51)電話交換業務廃止、1977年(昭52)風景入通信日付印設備などの経過をみた。1995年(平7)には局舎が新築された。
 島崎卯一初代局長は、開局当時の世巣を次のように回想している。
 道路沿いに商家2戸、その他1,2戸、農家2〜3戸に過ぎず、道路は極度に悪く、特に雨が降ると泥沼となり、馬腹に達するほどのぬかるみで通行は困難だった。
 未開の原野は狐狸の鳴き声に驚かされ、逃げだそうと思ったこともいく度となくあった。

 現在、芭露郵便局は、集配区域面積169ku、区域内世帯数は356戸、集配延粁程は直轄337ku、請負28kuとなっている。
 歴代局長は、島崎卯一(大5)、黒川政太郎(昭34)、鎌沢英一(昭38)、島崎正也(昭44)。
● 電信電話  1896年(明29)12月湧別郵便局で電信の取り扱いを始め、村内一円を担当区域としていた。1920年(大9)2月電信電話線の架設延長により芭露郵便局が電信業務を開始。電報は緊急の場合重宝されていたが、近年は電話の普及で、電信利用は激減した。
 電話は明治初期アメリカから輸入され、のちに国営事業とされたが、戦前、戦中は電話の普及は市街地に限られていた。開発途上の芭露に加入電話が導入されたのは1936年(昭11)9月で市内電話が9戸に架設された。
 戦後、電信電話業務が郵政から分離、1949年(昭24)電信電話公社の発足以降、電話の需要が開拓された。1969年(昭44)両湧別、佐呂間町を管轄する中湧別電報電話局が開局し、さらに電話の普及を促した。
 芭露地区の個人電話架設の要請が高まり、1971年(昭46)2月芭露農協が設置主体となり、テイネー以東を区域に213戸が加入した地域集団電話(農集電話)が開通。これにより区域内は自動交換方式となった。
 その後、集団電話の不便さ、割高な経費を踏まえた希望もあり、芭露局は1976年(昭51)直通式の一般加入電話に切り替えられた。
 芭露の電話の普及状況は、単独設置が321基、公衆電話は街頭に2基となっている。
● 放 送  ● 有線放送
 1949年(昭24)12月芭露地区で有線放送が開始された。農家への営農指導や連絡、ラジオの共同聴取を目的に、芭露農協と上芭露農協の共同事業として、上芭露に本機を置き実施された。
 両農協の合併により本機を芭露農協本部に移転。その後、ラジオとテレビの普及の進展、地域集団電話の架設により、施設の老巧化もあって廃止された。
 
 ● ラジオとテレビ
 ラジオ放送は1925年(大14)3月開始された。1928年(昭3)6月札幌放送協会が開局して関心が高まったが、芭露地区は電化されておらず、ラジオは電化後の戦後急速に普及した。
 テレビ放送は1953年(昭28)始まった。道内では1956年(昭31)NHK札幌放送局がテスト放送を実施したが、湧別町内は受像できなかった。1961年(昭36)4月のNHK網走放送所の運用開始に伴い、テレビの普及が高まった。
 カラーテレビ放送は1960年(昭35)開始されたが、湧別は難視聴区域だったため、カラーテレビの普及は遅く、1970年(昭45)、1971年(昭46)ころから活発になったようだ。
 1975年(昭50)11上芭露市街以外の沢地帯の受像不鮮明解消のため、芭露テレビ中継局が上芭露の王子山林の頂上に建設された。
 湧別町内のテレビの受信契約台数は、1994年(平6)で、1,656台となっている。
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