芭露百年のあゆみ

第7章 戦後のまちづくり
第8章 総合的な地域振興

第9章 産 業 と 経 済

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第7章 戦後のまちづくり

●戦後の改革  戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により、政治犯が釈放、戦争協力者、職業軍人は公職から追放、財閥は解体、地主制は否定され、教育改革も進められた。一方、引き揚げ者、食糧不足、インフレと、戦後の混乱は数年続いた。
 1945年(昭20)の第1次農地改革はGHQから不徹底さを指摘され、翌年の第2次農地改革では在村地主の小作限度は府県1町歩、北海道4町歩となった。同年婦人参政権が確立した。
 1947年(昭22)5月3日、日本国憲法が発布、大日本帝国憲法の軍国主義的封建的君主国家から、主権在民、戦争放棄、人権尊重、自由平等をうたった民主主義福祉国家に転換する路線が確立された。
 同年地方自治法が施行され、特別扱いだった北海道(地方長官制)も含め都道府県と市町村に民主自治の行政権が与えられた。また村会で選任されていた村長は村民の直接選挙で選ばれることになった。
 同年第1回下湧別村長選挙と村議会選挙が実施された。村長選は大口丑定1人の立候補で無投票当選。芭露出身の最初の首長の誕生である。村議会選挙は26人の定数に対して女性1人を含む46人が立候補した。
 下湧別村では農地改革により5割を占めた小作農が解消され、農家戸数は1943年(昭18)1,006戸が1949年(昭24)1,318戸に増加した。未利用地は農地に変わり、農業生産が拡大された。
 さらに1947年(昭22)農業協同組合法、農業団体の整備に関する法律の施行により、戦時中に官僚統制の末端期間として機能していた農業会が1948年(昭23)解散を指令され、農業協同組合が誕生することになった。
 農協は農家15人以上の同意により設立が出来るという簡易さから、同年湧別、芭露、上芭露、計呂地に4つの農協が発足した。しかし、子世帯のデメリットから、1951年(昭26)上芭露農協が芭露農協に吸収合併、1953年(昭28)芭露と計呂地農協が対等合併、現在の芭露農協が誕生した。
 太平洋戦争(大東亜戦争)末期から行政の末端組織として機能していた隣保班(町内会、部落会)は1947年(昭27)5月末、戦争遂行組織の残滓だとして、占領政策により消滅した。これに代わり下湧別村は旧町内会部落回単位に駐在員を任命、駐在員は1958年(昭33)の条例による区設置まで続いた。
 教育改革としては、1947年(昭22)教育基本法、学校教育法が制定され、国民学校令、臨時教育令、学徒動員令など旧法令は全て消滅したほか、義務教育を小学校6年に中学校3年(新制中学)を加え、高等学校3年、大学4年の、6・3・3・4制が採用された。これにより、同年湧別、芭露、上芭露、東芭露、計呂地の各中学校、西芭露、登栄床、信部内の各学校が開設された。
●分村問題の再燃  戦中、終戦の混乱で棚上げされていた芭露方面の分村問題は、1946年(昭21)9月の村議会で大口丑定議員の動議により再び討議され再び゙湧別村を湧別地区、芭露地区、計呂地地区に分村する決議がされた。
 同決議を踏まえ、1947年(昭22) 10月村議会に分村の具体的な実施方法が諮問察として提出されたが、島崎仰一議員の「慎重なる答申を要する」との発議により保留。1948年(昭23) 1月再度提出された同案は「3分村決議のまま実行に移すjと答申された。
 しかし、分村地域側議員の考え方は、「新村の経済的自立が可能である場合においてのみ実施すべきである」との慎重論が支配的で、分村当初の地域格差の解消などは第二義的問題に追いやられ、1948年(昭23) 5月村議会で決議実施の可否を諮問した結果、「財政調査の結果は分村後の住民負担の過重が予想されるため、分村は白紙に戻す」と議決が変更された。これにより分村問題は終息した。
 この結論を前後して、1947年(昭22) 8月湧別村役場の芭露出張所、1949年(昭)芭露出張所、計呂地出張所が開設された。出張所には職員が常駐し、納税、墓地、火葬場、印鑑登録、妊産婦、国民健康保険国民年金、転出入、使用料・、手数料、災害発生報告などの手続き・交付、出納業務を行うもので、地域住民はこれらの用事で役場本庁に出向く必要がなくなった。
●人口のピーク    (芭露の人口の推移)   (昭和5年以降は国勢調査の結果、平成7年は概数。ほかは『村勢要覧』などによる))
 明30(1897)年      68人( 18戸)  昭40(1965)年   1,592人(363戸) 
 昭 6(1931)年  1,127人(191戸)  昭45(1970)年  1,257人(336戸)
 昭10(1935)年  1,467人(235戸)  昭50(1975)年  1,021人(290戸)
 昭22(1947)年  2,500人前後(440戸)  昭55(1980)年    908人(276戸)
 昭25(1950)年  2,122人(375戸)  昭60(1985)年    867人(259戸)
 昭30(1955)年  2,080人(385戸)  平 2(1990)年    804人(247戸)
 昭35(1960)年  1,806人(385戸)  平 7(1995)年    746人(240戸)

『芭露80年の歩み』によると、芭露の人口のピークは1947年(昭22)で、440戸が居住していた。戦後、引き揚げ者や農業移住者により増加した。1950年(昭25)の1世帯当たりの人数(5.7人)から試算すると、人口は2,500人程度ということになる。
 芭露の人口推移の記録はないが、断片的なデータにより推察すると、人口2,000人台を維持した時期は1955年(昭30)ころまでのようだ。
 1950年(昭25)の産業別世帯人口は、農業175戸(1,050人)、水産業15戸(90人)、林業3戸(18人)、工業53戸(277人)、商業10戸(52人)、その他119戸(635人)計375戸2,122人となっていた。
 1950年(昭25) 375戸2,122人、1952年(昭27) 348戸2,100人、1955年(昭30)385戸2,080人(国勢調査)、1960年(昭35) 385戸1,806人・・・1995年(平7) 240戸746人。
 この間の出来事をひろうと、行政区の分割や出張所の開設など人口増を背景にしたまちづくりが進展していたことがうかがえる。
 ◇昭22 芭露地区に役場出張所開設
 ◇昭23 農家戸数の増加などにより、芭露の行政区を芭露第1区(市街地)と
      芭露第2区(農業地帯)に分割、2部落制を敷く
 ◇昭24 芭露中学校4教室増築
 ◇昭28 湧網線全通
 ◇昭29 国保芭露診療所建設、芭露季節保育園開設
 (地区別戸口)昭27
    区分 
 区別
 戸  数   人  口   一 戸
 当人員 
全村に対する比率(%)
 戸  数   人  口 
湧別(4号線を含む)
登  栄  床
川      西
信  部  内

福 島 団 体
緑      陰
芭      露
上  芭  露
西  芭  露
東  芭  露
志  撫  子
計  呂  地
710
101
95
59
114
52
28
384
180
66
134
117
246
4.008
649
649
381
742
333
213
2.100
1.119
465
863
789
1.560
5・64
6・43
6・83
6・45
6・51
6・40
7・60
5・46
6・22
7・05
6・44
6・74
6・34
31、1
4.4
4.2
2.6
5.0
2.3
1.2
16.8
7.9
2.9
5.9
5.1
10.1
28.9
4.7
4.7
2.7
5.3
2.4
1.5
15.1
8.1
3.4
6.2
5.7
11.2
2.286 13.871 6・07 100.0 100.0

芭露の電化  1946年(昭21) 12月芭露市街と周辺地区が電化された。ようやく開拓時代のランブ生活から脱皮。各戸で「電灯がついた」と喜びをかみしめた。これは馬老簡易教育所の開設、湧網線開通以来の大きな朗報だった。
 なぜ電化が遅れたのか。湧別村では1918年(大7)湧別電気株式会社が火力発電により湧別と4号線市街に送電。のちに水力発電に切り換え、水力発電会社に併合、供給エリアを拡げていったが、営業上市街地に重点が置かれていたため、住居が散在する芭露など農村地域への普及は戦後となった。
 芭露では1942年(昭17)、1943年(昭18)ころ、産業組合が木炭ガスによる自家発電施設で事務所を点灯していたに過ぎなかった。
 電化期成会を組織し配電会社と交渉を重ねた結果、電柱、電線などの資材と労力は受益者負担という条件付きで、電化が決定した。資材調達は食料を背にして関係方面に奔走した。当持続割高だった電線は汽車で運べず、馬橇で運搬した。
 大阪の戦災地区の電線を使用したが、その後、消灯事故が続出したため、電化期成会は管轄の中湧別電業所の手が回らない状況を踏まえ、建物の提供を条件に電業所の設置を要請、1947年(昭22) 10月には北電遠軽営業所芭露電業所が新設された。
      米、麦、配給酒、たばこ、ビートの煎汁を提供し、闇
     ブローカーから、中古の資材を入手。住民は電柱建てや
     切れた電線のジョイントに労力奉仕を重ねました。
      自宅、畜舎、ラジオ……。家の中は明るく張り合いが
     ありました。
      闇黒の日々の生活もこれによって解消し、電灯のつい
     たうれしさは一生を通して忘れることはないでしょう。
      電灯、1灯500円のほか、建設費の一部員負担として北海
     道電力に1,500円支出しました。
               (茂手本一著『我が家の歩み』)
 芭露で無電灯地区として残っていた本間沢とボン川部落上の沢の12戸の農家に1964年(昭39) 9月送電された。1956年(昭31)電気導入期成会を発足させ、芭露農協を中心に町や電力会社など関係機関に強い働きかけを行い、実現した。
下湧別村から湧別町に  1953年(昭28) 10月1目、下湧別村は町制施行し、「湧別町」と改め、新しい時代に向けてスタートした。この節目に町章と前例小唄を制定したほか、祝賀行事が盛大に実施された。
 町制施行に伴い、村の三役と村会議員は村政時代の在任期間務めた。町長(19代)は大口丑定。下湧別村の人口は1925年(大14)にすでに1万人を突破し、1952 (昭27)年度末には13,871人となっていた。
湧網線の全通  1953年(昭28) 10月湧網線が全通した。残されていた中湧網線の常呂一佐呂間間は1938年(昭13)着エし線路の敷設のみとなり、第2次世界大戦で中断。関係町村が再度陳情を重ねた結果、1946年(昭21)再着手になったのも束の間、政府の方針が既存施設の改良、復興に専念すると変更されたため、工事が再び中断していた。
 再三にわたる陳情と根強い熱意により、1952年(昭27) 8月着工、10月22目、湧網線の中間部分をなす同区間が完成し、住民の夢が実現した。
 処女列車は中湧別と網走からそれぞれ発車し佐呂間駅に到着。佐呂間駅には花が飾られ、ホームには保安隊音楽隊が軽快なマーチを奏で、列車と乗客を迎えた。
街にはアーチが立ち、商店は全通記念の大売出し、記念のばんば競走も行われ、祝賀ムードでいっぱいだった。
 550人の来賓を迎えた全通式は佐呂間小学校、祝賀会は網走で開催された。栗林旭鉄局長は「皆さんと心を1つにして最も明るい鉄道とするよう努力したい」とあいさつした。
 湧網線全区の駅、開駅、駅間の距離は次の通り。
 ◇中湧別(大5 .11.21)
 ◇芭 露(昭10.20) 9.9km
 ◇計呂地(昭10.20) 6.6km
 ◇床 丹(昭11.10.17) 4.5km
 ◇佐呂間(昭11.10.17) 8.3km
 ◇知 来(昭28.10.22) 6.7km
 ◇仁 倉(昭28.10.22) 5.4km
 ◇浜佐呂間(昭27.12.6) 4.6km
 ◇北見富丘(昭27.12. 6) 3.4km
 ◇北見共立(昭27.12.6) 4.6km
 ◇常 呂(昭11.10.10) 5.5km
 ◇能 取(昭11.10.10) 7.2km
 ◇北見平和(昭29. 1 . 1) 6.4km
 ◇卯原内(昭10.10.10) 3.5km
 ◇二見ケ岡(昭10.10.10) 5.5km
合併論浮上  町制施行後、1955年(昭30)初の町長選挙には元村長の森垣幸一、村上庄一、現職助役の上原安雄が出馬、村上が当選した。同じく町議会議員選挙では芭露から清水清一、越智修、大沢義晴、内山繁太郎が当選している。
 1953年(昭28)公布の町村合併促進法、紋別の合併事例を受けて、大ロ丑定が湧別町と上湧別の合併論を打ち出し、1955年(昭30)前後に住民の関心を高めた。
 大口は両湧別町合併問題調査研究促進委員会の委員長となり、ほか5人の住民が請顕者となり、1957年(昭32) 6月湧別町長と町議会議長に「両湧別合併問題調査機関に関する請願書」を提出している。委員は大口のほか、阿部秀光、可知源次郎、橋本仁助、上田 清、木戸政雄。請願書の内容は次の通りである。
      町村合併法の施行以来、町村合併推進の動きは全国津々
     浦々を覆て居る観があります。翻って湧別地区において
     は、これらの勧告合併に依るものとは全<無関係に住民
     の自主的要望として両湧別合併を望む声が茫洋として湧
     きて居ります。
      もとより町村合併は文字通りの大事業であり、両町民
     将来の幸福と地方発展に立脚する郷土の大計ともなる可
     き太湧別建設のスタートとして行われるべきであると思
     考数します。
      従って多数住民の意思として表現されつつある両湧別
     合併はこの大目標に照らして果して是か非か科学的分析
     に基づき、十分なる調査研究の上に立って下さるべき結
     論であろうと考えるものであります。
      世論も又これを願望する所であります。地方自治体の
     発展と住民の福祉増進に最も深く理解を持たれ、かつそ
     の実践を担当せられている町理事者並びに町議会に置か
     れては以上申し上げました住民多数の意思を採り上げら
     れ、連々かに町議会に調査研究の機関を設置され、この
     機能を発揮し速やかにその結論を出されるようお願い申
     し上げます。以上に基づき町理事者並びに町議会に請願
     申し上げます。
 当時の実情について、『湧別町百年史』では次の3点をあげ、中心を中湧別市街とする大同合併を志向するものだったとしている。
      @地図上、上湧別村が下湧別村を抱く形となっており、
     特に芭露地区は上湧別村の南限を超えて南に伸び、下湧
     別村人口の約半数を占める同地区住民は、行政と関係の
     ない経済行為や文化吸収の面で上湧別村の中湧別市街を
     拠り所にしており、自村の中心地(役場所在地)との交
     通も中湧別市街経由を余儀なくされている。
      A国鉄2線の開通以来、分岐点の中湧別が交通、経済、
     文化の面で湧別平原の要衝となり、農漁村のセンクー的
     機能と容態を備えるにいたった。
      B土地改良区は地勢は1つであるから、当初は1つの
     単一体であり、放牧場や種付所も共同経営、さらに高等
     学校も、ごく自然に組合立となった。ほかにも森林組合、
     農業共済組合の合併説など、両村合併の底流は動いてい
     る。
      そうした中で、各地区の思惑は交錯していた。
     芭露地区=場合によっては芭露地区だけでも上湧別村
      と合併したら……
     湧別地区=開村以来の行政の中心地(本家)に不便と
      凋落を招く……
    上湧別地区=屯出兵ゆかりの地として上湧別町をリー
     ドしてきたのにさびれては……
    中湧別地区=大湧別の中心地として都市形態的な発展
     が約束される……
    西芭露地区・開盛地区=地勢と交通の関係からむしろ
     遠軽町に編入すべき可能性もある…
  ・・・という具合で、利害の上からいたずらに時日を経過、
  この合併構想は決着をみることなく立ち消えとなった。
  『芭露80年の歩み』では「当時上湧別と中湧別に対立関係かおり、合併問題に一致しない事情下にあったため、ついに目の目を見るに至らなかった」と結論づけている。

第8章 総合的な地域振興

1950年代
    (昭25〜34)
  1950年(昭25)朝鮮戦争が勃発。目本に特需景気をもたらレ戦後の復興を促進、高度成長の基礎をつくった。一方、1956年(昭31)に1913年(大2)以来の大冷害凶作に見舞われた。1954年(昭29)の“洞爺丸台風”は遭難、死者、行方不明者1,526人の大惨事となった。
 1953年(昭28)湧網線が全通した。同年下湧別村は町制を施行し、湧別町と改称。1956年(昭31)湧別町が集約酪農地域の指定を受けた。1957年(昭32)湧別町開基60周年記念式典、1959年(昭34)湧別町乳牛2,000頭突破祝賀会が実施された。同式典の席上、初の公選村長を務めた芭露の大口丑定に名誉町民の称号(第1号)が贈られた。1950年代にはサロマ湖のカキとホタテの養殖事業が始まった。
 1958年(昭33)湧別町区設置条例が制定され、行政区と区長制度が定められた。
これによって、1947年(昭22)から続いていた駐在員制度は廃止された。初代区長は芭露第1が上田清、芭露第2は可知源次郎。
 芭露地区では、1954年(昭29)国民健康保険事業により芭露診療所が開設。翌年同診療所に近代的伝染病治療施設として隔離病棟が併設され、医療体制が充実した。
 また、上芭露農協(昭26)、計呂地農協(昭28)が芭露農協と合併、芭露農協の下部組織として青年部(昭26)と婦人部(昭30)が発足した。1953年(昭28)芭露酪農組合は乳質改善共励会で全国第4位、全道1位に輝いた。
 1955年(昭30)芭露川が氾濫した。罹災住民は芭露川の改修工事を要望した結果、1958年(昭33)から堤防工事が着手。1960年(昭35) 2級河川に指定され、これら治水事業が促進された。
 学校関係では、1954年(昭29)芭露季節保育所が開設。芭露小中学校は1956年(昭31)から3ヵ年計画で学校林の植樹に着手した。
1960年代
    (昭35〜44)
  1960年代は、岩戸景気、いざなぎ景気で、経済成長率ほぽぼ2ケタ台で推移。
高度成長が進み、都市化と工業化が進んだ。!964年(昭39)東京オリンピックが開催された。こうした中、農村の労働力が都市に流出した。
 1963年(昭38)芭露農協組合長の清水清一が湧別町長選挙に立候補し、初当選を果たした。1966年(昭41)湧別町乳牛5,000頭・乳量1万屯達成記念式典、1967年(昭42)湧別町開基85周年開町70周年記念式典が実施された。1965年(昭40)日本繊維工業(株)湧別工揚が閉鎖。 1969年(昭44)両湧別3農協共同利用による電算システムが稼働した。
 芭露地区では、1960年代は中学校の統合が集中的に進められた。志撫子中学校(昭38)、計呂地中学校(昭39)、東芭露中学校(昭41)、上芭露中学校(昭43)、西芭露中学校(同)が統合され、湖陵中学校が誕生している。湖陵中学校校舎は1963年(昭38)着工、3期工事の末1965年(昭40)に落成した。
 1960年(昭35)度重なる冷害凶作の影響で、芭露地区でも離農が相次いだo 1967年(昭42)芭露地区が第1次農業構造改善事業に指定され、翌年以降事業が実施された。 1969年(昭44)ホクレン芭露クーラーステーションが完成した。
 1960年(昭35)商工会の組織に間する法律の公布により、法律上各種の保証が商工会に付与されることになり、湧別町でも全町の商工業者を網羅する組織づくりが進められ、翌年1月湧別町商工会が誕生した。同年の会員数は176人、うち芭露は24人。
 1961年(昭36)町内で湧別橋に次いで長い橋梁である芭露橋が架け替えられた。
1967年(昭42)湧別町公民館芭露分館が開館、同分館を拠点に芭露の社会教育活動が活発化していった。
1970年代
    (昭45〜54)
  1970年代は、ドルショック、円の変動相場制への移行、2度にわたる石油危機などがあり、経済活動は失速し、低成長の時代となった。国家財政も硬直化した。
日本列島改造論などにより土地開発ブームをまきおこし、地価の高騰も招いた。
 1970年(昭45)湧別町は過疎地域対策緊急措置法による過疎地域の指定を受け、湧肋町過疎地域振興前期、後期計画を策定した。町の人口は196O年(昭35} 12,192人だったが、19701年(昭45)には7,627人(いずれも同勢調査)と減った,、芭露も同1,806人が同1,257人と激減している。
 1972年(昭47)湧別町の将来方向と町政運営の基本指針とする湧別町総合開発計画(〜55年度)が策定された,、基本方向は未来像として「サロマ湖の自然を生かしたやすらぎのある町」とし、自然観光レクリエーション基地の町、やすらぎとうるおいのある町を目指した。
 基本方針の中で、芭露関係としては、酪農経営を主体する高生産性寒地農業の確立、町内ローカル路線交通輸送の確保、サロマ湖を拠点とした観光開発、サロマ湖の大規模栽培漁業基地などが据えられた。
 以後、1973年(昭48)のオイルショック、200カイリ漁業問題など経済環境の変化を踏まえ、同計画は見直され、1979年(昭54)新湧別総合開発計画(〜62年度)を策定。基本方針として
 @暮らしの基盤づくり
 A満たされた暮らしづくり
 Bゆとりある暮らしづくり
 C郷土の繁栄を担う人づくりを設定した。
 1975年(昭50)湧別町郷土館・武道館、1976年(昭51)湧別町林業研修センター、湧別町総合体育館、1977年(昭52)湧別地区農業研修センター、1978年(昭53)湧別町役場庁舎がそれぞれ建設された。
 また、1975年(昭50)国道238号線の湧別町内全区間の舗装工事が終了した1978年(昭53)湧別町乳牛1万頭・肉牛3,000頭達成記念式典が実施された。
 芭露関係では、水道、電気、通信、社会教育などの施設整備が進んだ。1970年(昭45)ボン川を水源にした芭露簡易水道が完成、給水を開始した。自家水道や鉄道給水車からの“もらい水”などで対応していた水不足から解消された。同年6月北見バスの運行廃止に対応して町営バス東芭露線(湧別一中湧別一芭露一上芭露一束芭露)、1972年(昭47)計呂地線(芭露一志撫子一計呂地)が運行を始めた。
 一方、赤字経営が深刻化していた国鉄は、1972年(昭47)芭露駅の駅務を民間(日本交通観光社)委託、計呂地駅の手・小荷物、貨物取扱を廃止した。
 1972年(昭47)島田琢郎が衆議院議員選挙で初当選。遠軽地区初の代議士が誕生した。
 1975年(昭50)バルククーラーなど機械施設の多様化・大型化に対応して、芭露地区に三相動力電気が導入。同年上芭露の王子山林に芭露テレビ中継局が開局、芭露老人寿の家が建設されたほか、芭露地区が第2次農業構造改善事業に指定された。
 1976年(昭51)芭露局地区の集団電話が直通式の一般電話に切り替わり、共同回線による不便が解消された。またこの年、芭露市街に湧別町内初の消火栓から6基設置されたほか、酪農短大芭露校が開設された。
 1978年(昭53)湧別町畜産総合研修センター、湧別町ファミリースポーツセンター、芭露保育所園舎が建設された。同年度芭露地区直轄暗渠排水工事が着工した。
 学校関係では1971年(昭46)湖陵中学校に町営プールが完成。1977年(昭52)芭露方面の小学校統合の第1号として、東芭露小学校が芭露小学校に統合された。
湧別地区の小学校の統合は既に終わり、1973年(昭48)に統合湧別小学校が開校している。
1980年代
    (昭55〜平1)
  1980年代は、急速な円高傾向、貿易収支の黒字幅の拡大により、目本に対する外圧が強くなり、農業の自由化にも迫られた。低調だった景気は昭和60年代前半以降回復し拡大、いざなぎ景気を抜き、戦後最長となったが、1991年(平3)秋以降、景気は減速しバブル経済が崩壊した。
 また、この年代は、飛行機の墜落事故が相次いだほか、国鉄の再建・民営化が進められ、赤字ローカル線が姿を消す一方、青函トンネルが開業した。
 湧別町関係では、1982年(昭57)湧別町が開基100年を迎え、式典はじめ、町民憲章、町花・町本の制定、町民憩いの広場造成など、さまざまな記念事業や行事が実施された。
 シンボルマークとシンボルテーマは町民を対象に公募したが、採用されたシンボルテーマ「拓いた百年はぐくむ未来」は芭露診療所長の岩代学が作成したもの。
 1985年(昭60)ファミリー愛ランド・ユウがオープンしたほか、第5回全国豊かな海づくり大会が湧別町登米床漁港で皇太子夫妻をお迎えし開催された。1986年(昭61)湧別町営野球場、1987年(昭62)湧別町ごみ焼却施設、町民運動公園、1989 (平1)特別養護老人ホーム「オホーツク園」がそれぞれ完成した。
 1988年(昭63)湧別町第3次総合計画(〜平9)が策定された,,政策的ブロジェクトの実現を目指すものとして、芭露関係分は道営草地整備改良事業の推進、国営明渠排水事業の推進、芭露漁港の早期完成、サロマ湖周遊道路並びにサイクリングロードの建設などが挙げられている。
 1982年(昭57)芭露漁港が第1種漁港に指定された。1983年(昭58)芭露地区道営畑地総合土地改良事業が完成したほか、酪農短大芭露校が閉止された。同年の道内の冷害による被害は1,531億円にのぼった。
 御園山は、開基100年の記念事業の一環として位置づけ整備され、!984年(昭59)公園として開園。同年芭露漁港の局部改良工事が着工された。
 1986年(昭61)芭露農協事務所が新築、1987年(昭62)芭露地区道営草地整備改良事業が着工。1988年(昭63)芭露中央排水路整備工事により、市街の環境整備が図られた。また同年芭露農協設立40周年記念式典が開催された。
 1989年(平1)芭露自治会が誕生した。合併は前年から自治会組織の強化のため、両自治会が合同で本格的に準備を進めていた。初代会長には根布谷秀男が就任した。
 学校・社会教育関係では、中学校に続いて、小学校の統合が始動。1980年(昭55)志撫子小学校、1987年(昭62)計呂地小学校が芭露小学校に統合のため廃校された。
 この間、1980年(昭55)統合芭露小学校屋内運動場、1983年(昭58)町営芭露テニスコート、1984年(昭59)湖陵中学校校舎、1985年(昭60)湖陵中学校屋内運動場、1989年(平1)芭露プールがそれぞれ完成した。
 交通関係では、住民による鉄路廃止反対運動が展開されたが、ついに1987年(昭62)湧網線、1989年(平1)名寄線がそれぞれ廃止され、代替バスの運行が開始された。
1990年代
    (平2〜7)
 1990年代の前半は、釧路沖地震、北海道南西沖地震、阪神大震災、オウム真理教事件など、災害や事件が相次いだ。芭露地区も1992年(平4)台風17号の大雨により、床上浸水住宅49棟など大きな被害を受けた。また、1993年(平5)の道内の冷害による被害額は戦後最大の1,682億円にのぼった。同年所多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)が合意したほか、コメの部分開放が決まった。
 湧別町関係のハード面では、1990年(平2)湧別消防庁舎、1991年(平3)機雷殉難の塔、湧別卸売市場施設、1993年(平5)湧別町屋内ゲートボール場、1995年(平7)レイクパレス、1996年(平8)湧別町文化センター、図書館がそれぞれ完成。
 1991年(平3)湧別町内の乳牛が2万頭を突破。1993年(平5)総合検診、福祉バスの運行を始めた。
 1995年(平7)湧別町過疎地域活性化計画(〜11年)が策定された。芭露関係分としては、道営畑地整備改良事業、芭露漁港改修、芭露8号線道路改良舗装、経営林道芭露線舗装、芭露分遣所の改築、芭露小学校コンピューター機器整備、同ML施設整備、同視聴覚施設整備などが計画されている。
 芭露地区関係では、1990年代に入り、芭露小学校への統合がようやく進展, 1990年(平2)西芭露小学校、1991年(平3)上芭露小学校が廃校となり、芭露地区の小学校は全て芭露小学校に統合された。
 一方、1993年(平5)湖陵中学校の開校30周年式典が開催され、統合・開校後の節目を祝い合った。
 遠軽地域の5農業共済組合(湧別、上湧別、遠軽、生田原、佐呂間)が合併し、1990年(平2)3月遠軽地区農業共済組合としてスタート、本部事務所は芭露に置かれた。同年大型麦乾燥調整施設が芭露に建設され、良質な麦の出荷に貢献している。
 1994年(平6)敬老の日に湧別町初の100歳(数え年)2人にお祝いが贈られたが、そのうち1人は芭露の田川七太郎。1995年(平7)湧別町による芭露地区水害対策排水路整備事業が実施された。大雨による増水時に対応できる排水路が整備された。

第9章 産業と経済

● 農 業
食糧難から農産物の
輸入自由化へ
 戦後は食糧難で闇市が横行、農村への買い出しが頻繁化した。当時の国政の最大課題は食糧増産対策で、配給公団が発足し配給体制が敷かれた。1949年(昭24)以降農産物統制は撤廃へと進み自由取引に入った。1950年(昭25)に勃発した朝鮮戦争による特需が戦後復興を後押し景気が上昇する中、農村の労働力が都市へ吸収された。
 1953年(昭28)、1954年(昭29)の網走管内作況は2年連続の冷害凶作、さらに1956年(昭31)の作況指数は51.2と明治以降最悪となった。この影響で芭露地区でも一部農家が離農したほか、経営転換により酪農、中小家畜の導入が図られた。
度重なる凶作により1961年(昭36)には芭露農協全地区で最多の74戸が離農した。
 こうした農家の苦境を背景に、1961年(昭36)農業基本法が制定された。同法のもとで、農業構造改善事業を中軸に機械の導入や農業施設の整備などに助成。
農用地開発事業は既存農家の規模拡大施策に転換、草地開発事業の創設など、各種事業制度の改変・整備が行われた
 1967年(昭42)から3年間、米が大豊作で供給過剰となり、政府は初めて減反政策を打ち出し、1970年(昭45)から自主減反を開始。転作が農政の大きな課題となり、米の生産調整に代表される総合農政が推進された。
 1966年(昭41)湧別町農業構造改善推進協議会が発足、地域ごとに営農類型を設定、湧別町の農業の方向性が示された。芭露地区では1968年(昭43)第1次農業構造改善事業が始まり、土地基盤や近代化施設が整備された。
 第1次(昭48)、第2次(昭54)のオイルショックを経て、国内経済は低成長の時代に入り、国は財政難に陥り、農業関係の補助金など、農政への風当たりが強まった。
 1976年(昭51)芭露地区では第2次農業構造改善事業により、乳牛飼育農家全戸にバルククーラーが導入された。
 1979年(昭54)乳製品の輸入は、国内牛乳生産の過剰を招き、生産者が経費を拠出し、牛乳の消費拡大運動を始めた。1980年(昭55)農地法改正など農地関連3法の改正により、農政は構造政策に移った。米、麦、畜産物、畑作物価格の据え置き、あるいは実質的な据え置きにするとともに、構造政策によるコスト引き
下げ策を柱にした。
 1985年(昭60)から急速に円相場が上.昇し、農産物の輸入圧力が強まった。1988 (昭63)日米交渉により、牛肉、オレンジの輸入自由化が決定。平成に入り農産物の国際交渉はさらに活発となる一方、円高が進行した。1991 (平3)年度からは牛肉の輸入枠が順次撤廃。肉類、果実、穀物調整品などの輸入が急増した。
 1993年(平5)は低温、長雨などの異常気象により農産物に大きな被害をもたらした。被害総額は約1兆3,000億円。被害金額をまとめた1954年(昭29)以来最大。特に米作は戦後最悪の凶作となった。
 同年12月5目7年余りの交渉の末、ウルグアイ・ラウンド農業交渉の合意案が受け入れられた。この影響を緩和するため内閣に緊急農業農村対策本部、農林水産省にウルグアイ・ラウンド関連国内対策本部が設置された。
 1994年・(平6)10月にはウルグアイ・ラウンド農業合意関連対策大綱、併せて農業関係の関連対策を以降6年間に事業費ベースで6兆100億円の規模で実施することなどが決定された。
● 酪 農  ← 森永乳業芭露集乳所(昭25年)


 戦後の食糧事情の悪化は、乳牛の濃厚飼料にも悪影響を及ぼし、1947年(昭22)全道的な再建運動が展開され、増産対策報奨制度も実施。乳価も物価に合わせて上昇、1946年(昭21) 6円10銭、1948年(昭23) 10円85銭、1949年(昭24) 49円30銭(1,8g当たり)となった。
 1954年(昭29)酪農振興法の制定による政策、北海道乳業の再編は、酪農の新しい展開に影響を及ぼした。昭30〜40年代初期には畑作の不振時期でもあり、網走管内全域で酪農振興が打ち出され、1961年(昭36)以降、各種の酪農振興策に助長され、多頭飼育化、専業化が進んだ。
 また、戦後は管内的に乳牛の資質向上のため、種牛の輸人々人工授精の本格化、乳業検定事業の開始などがあった。また、サイロやサイレージが普及し、産乳量の向上に寄与した。
 昭40年代後半には、酪農主産地化の一環として、更迭乳の合理化が図られ、バルククーラー〜タンクローリー〜工場という集送乳システムが整備され、集乳コストの削減、乳質改善に大きな成果をあげた。
 これらの施策、状況にあって、湧別にあっては、1950年(昭25)から1965年(昭40)の間に、下湧別村畜産導入資金転貸条例及び自給肥料増産施設資金転貸条例、道有牝牛貸付制度の制定、芭露農協人工授精の開始、集約酪農地域の指定、湧別町家畜貸付条例、湧別町牝牛改良資金貸付条例の制定、湧別町酪農近代化計画の策定、湧別町優良種牝牛貸付条例の制定、湧別町優良種牛増殖事業協会の設立など、行政や農協が一体となった酪農推進策により、本格的な酪農路線定着の歩みを示した。
 この間、湧別町は、1964年(昭39)国内が東京オリンピックで沸き返る中、水田から酪農に一犬転換を図り、町内の乳牛頭数、生産乳量は急激に増加した,,
1966年(昭41)には5,000頭、生産乳量は1万tを突破し、酪農は湧別農業の核に成長した。
 芭露の飼育戸数・頭数は、1962年(昭37) 75戸・421頭、1966年(昭41)には57戸・705頭で、戸数は減っているが、1戸当たりの頭数は2倍余の12 ・ 36頭となった。
 酪農近代化計画(昭40〜44)は、優良種牝牛の導入、酪農経営の近代化、集約拡大を促進レ湧別町を網走管内屈指の酪農地域に躍進させた」司計画を経た1970
年(昭45)の農業センサスでは、飼育頭数は6,712頭、飼育戸数504戸、1戸当たりの頭数は13.3頭となった。
 以後、芭露牧野の造成、酪農短期大学芭露分校の開設、アメリカ、カナダからの輸入牛の導入、同湧別分校の開設、ホクレン優良種牝牛貸付事業、オイルショクによる飼料の高騰などを経て、1973年(昭48)飼育頭数は7,674頭と人口(7,176人を上回り、1978年(昭53)には10,887頭と1万頭の大台を突破し乳牛1万頭達成記念式が催された。酪農転換の年から数えて15年目のことである。
 一方、酪農の機械化にも力を入れ、1968年(昭43)第1次農業構造改善事業により、トラクター利用組合を設置し機械を導入、1976年,(昭51)の第2次農業構造改善事業では全戸にバルククーラーを導入レ酪農の近代化と生乳共販体制の確立を目指した。
 1978年(昭53)、1979年(昭54)には過剰乳製品が増加、限度数量の大幅の超過、乳価の引き下げ、乳業メーカーの受乳拒否など、酪農経営を脅かす問題が続出。
さらに1979年(昭54年)以降は限度数量の超過分は面倒をみない、との国の方針が示され、酪農史上初の生産者による生乳の計画生産が実施されることになった,
 1980年(昭55)から翌年にかけて生産者が資金を拠出し、消費拡大運動を開始したほか、厳しい計画生産が進められた。1982年(昭57)には需給関係が回復基調に向かい、大手乳業メーカーが乳製品の集中生産に動き出した。
 芭露農協全地区では、1983 (昭58)年度は生乳生産量が増加、14,995 t を出荷した。過去に例がない高い伸び率(10.7%)だった。1984 (昭59)、1985 (昭60)年度も増産体制が維持された。
 1986 (昭61)年度は消費が伸び悩み、一部廃棄も行われ、生産量は前年を4t下回った。1987 (昭62)年度は乳価が引き下げられた。しかし需要の高まりから1988 (昭63)年度は無制限増産体制をとることになった。
 集乳体制は、戦後、乳業メーカーによる集乳合戦も行われ、地区にメーカーが集乳所を配置していたが、逐次農協が引き継ぎ、芭露農協は芭露クーラーステーションを運営。生産は雪印乳業中湧別工場に搬入していたが、1974年(昭49)農協系統の北海道農協乳業北見工場の操業に伴い同工場に送乳。1982年(昭57)には直送体制に移行し、同ステーションは閉鎖された。
 1983 (昭58)年度乳牛能力検査3歳型の部で、松田一夫所有のローズ・インテリーグ・ホープ号が乳量日本一に輝いた。
 芭露農協全地区の1995年(平7)の乳牛頭数は、6,081頭(芭露2,991頭)、うち搾乳牛は2,887頭(同1,411頭)。そのうち芭露は、他地区を上回り、全体の半数ほどを占めている。
 芭露の乳牛・搾乳頭数は、1992年(平4) 2,976頭・1,410頭、1993年(平5)3,078頭・1,419頭、1994年(平6) 3,040頭・1,422頭、1995年(平7) 2,991頭・1,411頭と推移している。
●酪農の先覚者
内山之成と酪農組合
  芭露酪農の開祖、内山之成の功労を讃え、1955年(昭30)御園山のふもとの芭露神社の境内に内山之成氏報恩之碑が大口丑定により建設された。
 内山は大口と同郷の新潟県の出身。慶応大学卒業後、三菱銀行神戸支店に勤務したのち、北海道の開拓に憧れを抱き、下湧別村に移住。1909年(明42)本間牧場を買収し、内山牧場を開設。いち早く乳牛を導入し、飼育・増殖に取り組み、牛乳やバターを販売するなど、先駆的な経営をし、乳牛飼育を奨励した。公職として学務委員、村会議員も務めた。
 しかし、父親の病気で、牧場の経営を大口に任せ帰郷した。1929年(昭4)牧場の事業を縮小し、乳牛を小作人と酪農希望者に売却。その後、戦後の農地改革により牧場を解放。1949年(昭24)牧場は芭露酪農組合に分譲し、内山牧場は閉鎖に至った。
 1965年(昭40)芭露酪農組合が同神社境内に酪農記念碑を建立。同碑には法人設立登記(昭24)、放牧事業・貸付牛制度開始(同)、全道乳質改善共励会1位入賞(昭28)、全国乳質改善共励会4位入賞(同)、湿地牧野事業開始(昭32)、草資源開発整裾事業(昭33)、組合牧野の町営移管(昭39)、農業機械化トラクター事業開始(同)など、芭露の輝かしい酪農の歴史が刻まれている。
●肉用牛  1973年(昭48)以降、肉の高騰、乳牛の流出などから、内用牛飼育は急激に増えた。ホルスタイン雄牛を肥育するもので、1978年(昭53)湧別町乳牛1万頃達成式に肉牛3,000頃達成も祝った。
 芭露農協では、北海道農業開発公社の肉用牛貸付事業により、広島県の黒毛和種の純粋種を1987年(昭62) 50頭(8戸)、1988年(昭63) 60頭(9戸)、1989年 (平1)には40頭(7戸)導入した。
 芭露農協全地区の和牛飼育頭数は、1995年(平7)雄91頭(芭露11頭)、雌271頭(同39頃)となっている。
● 馬  戦後、馬産は、軍馬資源保護法や種馬統制法が廃止され、軍馬中心から大きく転換。1950年(昭25)施行の家畜増殖法で、役馬本位の改良増殖を指導するに至り、生産意欲は急激に減退した。
 その後、食肉用の需要もあり、1951年(昭26)種馬事業は民間から農協経営となり、肉用としてフランスからブルトン種レストゼックス号を導入するなどした。
しかし、昭和30年代の大型農業機械の導入、自動車の普及などから、飼育頭数は衰退の一途をたどり、1972年(昭47年)種馬事業が廃止された。1952年(昭27)、1953年(昭28)ころには農村の娯楽や馬産改良を目的に挽馬競走が上芭露種村所などで実施された。
●農業生産の推移  ●飼料作物
 芭露農協全地区で、飼料作物は戦後、酪農経営の進展に伴い増加した。芭露地区の総耕作面積に占める割合は、1967年(昭42)には5割ほどだったが、現在は8割近くを占めている。芭露では、デントコーン27,466a、牧草地55,150a、採草放牧地4,402a、永年牧草地708a (平7)となっている

 ●甜 菜
 甜菜は、開拓使設置以来、耕作を奨励されたが、生産量はほとんど固定化し、馬橇で中湧別まで運搬していた。1935年(昭10)湧網線の一部開通により作付が増加した。芭露方面の作付は、1925年(大14) 68.3町だったが、1939年(昭15)には124.6町と2倍近くになっている。
 戦時体制下、作付が割当されたが、配給されない砂糖の代用品として自家用甘味料として消費されたため、収益は伸びず、さらに戦後は闇市商品となった。このため製糖会社は集荷策として、製糖還元の報奨方法を採用し、原料の確保に努めた。
 1952年(昭27)、1953年(昭28)、1956年(昭31)の連続冷害で、寒さに強い甜菜に対する認識は高まった。さらに1953年(昭28)甜菜生産振興臨時措置法の制定、1957年(昭32)芝浦製糖北見工場(北海道糖業北見製糖所)の操業、美幌、斜里にも製糖工場が増設されるのに併せて、作付は年々漸増し、販売作物の首位を占めるようになった。
 1960年(昭35)には生産額で、馬鈴薯を抜き、販売作物の第1位となった。昭和40年代後半にはペーパーポット式の移植方式が普及、耕作作業の機械化に伴い、大面積の耕作が可能となり、寒地農業と酪農経営を結ぶ基幹作物となっている。
 1995年(平7)芭露農協全地区では19,599a、芭露では6,605a作付されている。

 ●麦 類
 1902年(明35)ボン川の今村信次郎が裸麦を栽培、収穫したのが、湧別の麦類栽培の起源。以後、農家が自家用として裸麦や小麦を栽培、主食化した。
 戦時中、食糧管理制度に基づく作付統制と供出割合によって主要食糧の仲間入りをし、販売作物となった。
 1949年(昭24)には裸麦、小麦合わせて湧別町の全作付面積の20%を占めたが貿易の自由化による外国産の安い麦の輸入、主食としなくなったことなどから、作付面積は減少し、芭露での作付は1975年(昭50)ころ全作付面積の0.4% (lOha)まで落ち込んだ。
 しかし、米の生産調整で、転作作物として麦類の栽培が奨励され、コンバインなどの機械化、乾燥貯蔵施設の整備などがあり、以後、増反している,
 1989年(平1)4月全町組織の麦生産組合・湧別町麦生産組合が設立。芭露農協が主体となり、同年から2ヵ年計画で新農業構造改善事業を導入レ芭露に大規模乾燥調整貯蔵施設(乾燥施設、保管先般各1棟)を車業費5億7、960万円で建設。従前、麦は個人の小規模乾燥施設で処理されていたが、同施設は全町の麦を処理できる規模。これにより良品質の麦類を出荷している。
 1995年(平7)現在、芭露ではチホク小麦が栽培されており、2、925aの面積を有している。

 ●豆 類
 大豆、小豆など豆類は、開拓当初から自給作物として栽培されていたが、第1世界界大戦で輸出農産物となり、市場の高騰により、豆成金が続出、販売作物の玉座にのしあがった。主力は手亡と青豌豆で、これらの作付を増やす農家が相次いだ。
 しかし犬戦後、輸出は激減、生産過剰もあって、価格は暴落。家畜の飼料になるなど惨稽たる状況となった。
 終戦後、自由経済の復活とともに、豆類は相場の花形となり、小豆は「赤いダイヤ」とも称されたが、次第に輪作経営の手段として耕作される程度になっている。
 豆類は、1995年(平7)現在、芭露では小豆が270 a作付されている。

 ●馬鈴薯
 馬鈴薯も開拓当初は自家用だけだったが、豆類同様に第1次世界大戦で輸出農産物として澱粉の価格が暴騰すると、道内各地に澱粉工場が操業。一時的に澱粉景気が起こったが、大戦後は価格が下落、自家用生産に戻った。
 再び商品作物として復活したのは、昭和10年代下湧別村内に澱粉工場が操業するようになってからである。芭露では1935年(昭10) 6号線に内山澱粉工場が操業以来、作付面積が急増。太平洋戦争中は広い面積が割当され、食糧難の戦後も反当生産量が最も多いとあって依存度が高かった。
 その後、1947年(昭22)ころから澱粉工場が増え、テイネー以東に8工場が操業していた時期もあった。1949年(昭24)薯類の統制が撤廃され、昭和30年代には全盛となり、全町の馬鈴薯耕作面積は760ha (16.8%)に達した。
 1961年(昭36)スノー食品工場が建設されたころから、中小工場は相次いで閉鎖。酪農化への転換もあり、耕作面積は減少した。1995年(平7)現在、芭露では販売作目としては作付されていない。

 ●ハッ力
  「芭露薄荷」に代表された湧別町のハッカ。芭露の一部では「白木」「白毛」と呼ばれていた新品種「芭露白毛」(北見白毛)は、1932年(昭7)優良品種になった実績もある。
 栽培のピークは1939年(昭14)の1,365.2町だったが、戦時中は貿易の途絶で価格が下落、さらに戦時不急作物として栽培が圧縮されて減少の一途をたどり1945年(昭20)503町、1946年(昭21) 192.3町、1948年(昭23) 96.6町と激減。
 食糧事情の好転と経済の立ち直りから、営農の自主性が回復し、ようやくハッカヘの関心が復活。1949年(昭24)道が増反奨励費を計上したのを受けて、復興の兆しをみせ、1953年(昭28)には全町の作付面積が430町となった。
 しかし、安価なハッカ油の輸入、畑が栽培に適さない状況になっていたことなどから、作付は伸び悩み、昭和30年代には合成ハッカも登場し、1954年(昭29)1組(1.2kg) 1万円を記録したのを最後に、他の作物同様、酪農への転換の波とともに減少の一途をたどった。
 1983年(昭58)ホクレン北見薄荷工場の閉鎖とともに、北見地方のハッカは消滅ブラジルでの本格的生産、合成ハッカが普及するに至り、大刀打ちできなくなった。
 芭露農協では、1986年(昭61)「芭露薄荷」の名声を後世に残すために標柱を「芭露薄荷」発祥地である道道遠軽芭露線のボン川入口に設置した。

 ●亜 麻
 湧別町での亜麻の栽培は、1917年(大6)日本製麻湧別工場が操業してから始まった。亜麻の茎が繊維原料となるもので、耕作奨励されたが、連作が不可能なため、爆発的な増反はみられなかった。戦時中は軍需衣料の原料として作付が割当され、衣料の還元配給もあった。
 湧別町の作付面積は1925年(大14) 128.9町、1945年(昭20) 367.3町。戦後は化学繊維の登場により需要が減少、1964年(昭39) 71haの作付を最後に姿を消し、1965年(昭40)同湧別工場は閉鎖された。

 ●土地、草地改良事業
 1984年(昭59)芭露地区道営畑地帯総合土地改良事業が着工以来12ヵ年で完工した。同事業により、農道12,501m、客土222.7ha、暗渠排水304.6haなどを整備した、総事業費は14億4,620万円。
 1987年(昭62)芭露地区道営草地改良事業が着工した。草地整備改良、草地造成、付帯施設などで、当初の計画事業費は40億3,700万円。1995年(平7)現在、9割ほど進捗している。
●農業関係団体  ●芭露農業協同組合
 1948年(昭23) 5月芭露と東芭露、西芭露上芭露の一部の農家を組合員に下湧別村芭露農業協同組合が設立認可を受けた。初代組合長は中原円次郎、組合員数421人(正組合員381人)、出資金は25万5,500円。本部事務所は同エリアの地理的事情を考慮して上芭露に、芭露には支所が置かれた。
 1951年(昭26)上芭露農協を吸収合併、1953年(昭28)計呂地農協と対等合併、本部を芭露に移転、上芭露と計呂地に支所を設置し、1985年(昭60)両支所は事業所に改称。1973年(昭48)開拓農協関係組合員25人が加入した。芭露農協のエリアは、芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地となった。
 組合員数(営農戸数)は1992年(平4) 164戸 (芭露57戸)、1993年(平5) 160戸(同56戸)、1994年(平ら) 156戸(同54戸)、1995年(平7) 146戸(同50戸)と減少している。
 この間、農業経営の指導、販売、信用、共済の各事業、農業基盤整備を柱に、青年、婦人両部の創設、農民祭の開催、ラジオ共同聴取施設の設置、種馬事業、冬季洋裁学校の開設、『農協通信』の発行、農業共済組合と提携した人工受精事業、芭露家畜市場の設置、組合員勘定システムの採用、クーラーステーションの運営、タンクローリーによる牛乳の集荷、酪農短大芭露分校の開設、事務所の新築、肉用牛の導入、乳牛の受精卵移植など農業経済の向上のため多彩な事業を実施している。
 歴代組合長は、中原円次郎(昭23・ 5)、清水清一(昭28・6)、越智 修(昭38・5)、梶井政雄(昭60・ 5)、清水隆二(平4・5)。

 ●遠軽地区農業共済組合
 1948年(昭23) 6月農業災害補償法(家畜保険法と農業保険法の統合改善)の施行を受けて、下湧別村農業共済組合が設立した。組合長は大口丑定、事務所は芭露農協に置かれた。1956年(昭31)事務所を芭露市街に移転、独立した。1950年(昭25)直営家畜診療所を芭露、湧別、上芭露、計呂地に置いたが、1981年(昭56)に芭露以外の診療所を閉鎖。
 その後、厳しい農業情勢を背景に、国の指導もあり、広域合併の準備が進められた。遠軽地域では1985年(昭60)合併推進委員会を設置し、70人の推進委員により慎重な検討が行われた結果、1989年(平1)合併予備契約等調印式で湧別、上湧別、佐呂間、遠軽、生田原の5組合の合併が決定した。
 1990年(平2)5農業共済組合が合併し、遠軽地区農業共済組合として再スタートした。新しい組合本部事務所の場所は5町からそれぞれ誘致希望が出されたが、芭露市街に建設された。同事務所には職員約30人が常勤している。歴代組合長は、小野 豊、渡部哲鶯。

 ●湧別町乳牛検定組合
 1974年(昭49)芭露乳牛検定組合が発足し、組合による検定業務を重ね実績を上げた。湧別地区でも検定組合旗揚げの機運が盛り上がり、1980年(昭55) 12月全町を網羅する計画で湧別町乳牛検定組合が発足。事務所は芭露クーラーステーション内に置いた。翌年4月芭露乳牛検定組合と湧別乳牛検定組合が合併し、乳牛検定事業の一本化が実現。検定戸数118戸、検定頭数2,215頭と本格化した。
 卓上型半自動式赤外線分析装置を導入し、生乳成分を測定していたが、1987年 (昭62)以後、北海道生乳検査協会紋別事業所(現網走事業所)にこれらの測定などを委託している。
 1988年(昭63) 4月現地情報処理システム事業補助により、ハンディーターミナルとパーソナルコンピューターを導入し、迅速な乳牛検定となった。1990年(平2) 12月同組合事務所は旧・湧別農業共済組合事務所に移転した。
 歴代組合長は小野 豊(昭56・2)、黒田 実(昭58・4)、越智 豊(平7・5)。

 ●芭露ホルスタイン改良同志会
 1975年(昭50) 3月乳牛個体の資質向上を目的に芭露地区の酪農家15人により芭露ホルスタイン改良同志会が発足した。以降、バーンミーティング、改良講習会、視察研修、毛刈講習会、酪農講習会、ベビーショーなど、各種事業を積極的に実施し、研さんを積む一方、各地区共進会、B&Wショーに参加し、上位入賞を果している。
 1982年(昭57)計呂地の斉藤正孝牧場(2歳型、乳量13,204kg、乳脂量434kg) 、1983年(昭58)芭露の松田一夫牧場(3歳型、乳量14,202kg、乳脂量514kg)所有のホルスタインがぞれぞれ乳量日本一の記録を樹立。1985年(昭60)には上芭露の越智信牧場の乳牛が全道共進会で1位となり全国共進会に出陳し、上位入賞を果たすなど、同会の会員が全国的記録のホルスタインを育て上げている。
 歴代会長は折野 勝(昭51・52年度)、久保隆幸(昭53〜56年度)、中塚一彦(昭57・58年度)、久保隆幸(昭59年度)。

 ●芭露農民連盟
 1966年(昭41)芭露農政協議会が273人で発足、北見地区農民組織連絡協議会に加入し、管内組織と連携した農民活動を続けている。
 1972年(昭47)芭露農民連盟に改称。同年12月院長の島田琢郎が衆議院選挙に社会党公認で出馬、初当選を果たした。
 定期総会、作況調査、各班の研修会、農業者大会、総決起大会への参加などを通じて、農村の経済的地位の向上を目指している。
 歴代委員長は次の通り。
 島田琢郎(昭41)、渡辺豊春(昭49)、野村勇一(昭55)、嶋田喜一郎(昭57)、清野宏(昭61)、野原大三(昭63)、多田祐一(平6)。
● 林 業  終戦後、木材は軍需に代わって、戦災復興を目的に重要指定生産資材とされ、戦時中同様の乱伐が続いた。1950年(昭25)同指定解除、1951年(昭26)には農林省森林荒廃復興対策として国有林の縮伐方針、積極的に造林を進める改正森林法が打ち出された。
 そんな矢先の1954年(昭29)9月台風15号が北海道に上陸し、森林に大きな被害を与えた(洞爺丸台風)。被害は風倒木8,000万石に及んだ。しかし、風倒木の処理と一般住宅などの需要の伸びが造材量を増やし、木材景気を一気に回復させ、木工場が増加し、チップ材の製造にも着手された。
 戦後、王子製紙は三井物産の社有林を買収するとともに伐採を再開、これらの造材を元三井物産社有林管理人の西坂仁四郎、遠軽の箱崎清八らに請け負わせ、1969年(昭44)まで搬出したが、囲碁は原木不足などから、造材事業は大きく縮小された。
 木材景気の回復時期、地元企業では、大沢木工場(操業13年)はじめ、小沢木工場(同29年)、山本木工場(同36年)が操業していた。しかし、その後、道内産原木不足、輸入材への依存の時代に変わり、造材・木材工業は厳しい時代を迎えた。湧網線各駅土場の木材の山積み状態は昭和30年代で解消した。1965年(昭40)国内木材供給量に占める輸入材の比率が50%を超え、木材チップの輸入が急増した。

 昭和24,25年ころ、木材景気で芭露が一番活気があったのでは。沢という沢に集落がありました。芭露の人口は2,000人以上いましたね。
 当時、王子製紙の下請け会社・箱崎の特約店となり、トラックで人夫と布団を飯場まで運びました。
 人夫は上湧別、生田原、白滝などから来ていました。店は人夫のたまり場でした。争い事も結構ありましたね。
                                        (太田留吉)
 戦後の芭露の造材の最盛期は、20年代中から30年代中ころまででしょうか。上芭露、東芭露、西芭露から芭露駅に木材が集中。ビートなどの輸送が優先され、木材は駅土場に積まれ、1年ぐらいかかって輸送されていました。芭露ー中湧別ー遠軽経由で各地に運ばれました。
 ハッカ栽培農家以外は零細農家が多く、冬場は造材を請け負い、生活費を稼いでいました。飯場は粗末なバラック造りで、20〜30人が寝泊まりしていました。
 30年中ころ以降、造材が衰退したのは、資源が先細りした結果です。外国産木材の影響以前に伐採する木がなくなったのです。
                                        (湧別・吉竹政雄)

 地場の木材工業は昭和40年代に入り、脇山木工場と西木工場が設立されたが、のちに廃業。その後、大沢木工場だけが操業していたが、同社も1985年(昭60)閉鎖。芭露の木材工場は全て姿を消した。
 一方、戦後造林は国の方針として、積極的に取り上げられ、芭露方面でも国有林、町有林、私有林、学校林の造林事業が進展した。芭露小中学校では昭和31年以降、PTAに造林部を設け取り組んだ。
 湧別町の面積・蓄積量の元凶は、国有林が5,832ha・642,000平方b、町有林が2,473ha・349,686平方b、私有林が11,666ha・1,890,448平方bの計19,971ha・2,882,134平方b、人口林率は全体で61,1%となっている。

●大沢木工場ー芭露最大の地場企業だった
 大沢義時が
1938年(昭13)計呂地から芭露に転居し、大沢木工場を創業した。当初は造材と製材を主な業務にしていたが、製材施設を完備し従業員を増強。1948年(昭23)ころからは鉛筆の軸板を製造し、製品は大手メーカーのコーリンに納入。道内屈指の鉛筆軸材業者に成長した。当時は鉛筆軸材で売上げの半分を占めていたという。
 コーリンとは30年ほどの取り引きだったが、安価な外国産の輸入などにより、取り引きが中止。これに伴い、鉛筆軸板の生産を休止、魚箱や製材などの製造に転換したが、1985年(昭60)工場を閉鎖した。
 この間、チップ材、オガ炭製造のほか、澱粉工場も経営。澱粉工場も含め、最盛期の従業員は躍0人、地場雇用を創出し、芭露の過疎化に歯止めをかけていた。大沢社長は木材関連で池田と釧路にも進出した。
 大沢木工場製のコーリン鉛筆は鉛筆に記された番号でわかります。赤鉛筆の製造は大沢木工場だけでした。芭露産のセン、大沢木工場の技術でできた鉛筆が全国に出回っていました。
 
工場の前は芭露駅土場で、木材が高く積まれていました。芭露の最盛期の象徴ですね。そのころは農家の人たちが農閑期の冬場に造材をしていました。工員の賃金の3倍は稼いでいましたね。
 昭和26年大沢社長が芭露劇場を引き継ぎ、私は切符切りや暖房係をしていました。旅芝居はいつも満席でした。3分の1は無料の工場従業員でした。        (辻 元雄)

 
●水産業  終戦直後、職のない引き揚げ者は漁労労務者になるケースが多かった。芭露でも同様だったという。また無許可の漁獲も横行し、戦後は漁業分野も混迷していた。
 1948年(昭23)水産業協同組合法、1949年(昭24)新漁業法が公布され、漁業制度の民主化が推進された。同組合法により湧別漁業協同組合が発足。漁業法に基づき漁業権が設定され、サロマ湖は1951年(昭26)湧別、佐呂間、常呂の3町の漁業協同組合の共同漁業権に変更。翌年サロマ湖養殖漁業協同組合が設立された。これにより、採苗事業が統一的に進むこととなった。
 一方、水産業界は資源保護の立場から、漁業法により魚場の適正配分と漁獲規制が行われ、その対策として「獲る漁業」から「育てて獲る漁業」に転換。サロマ湖の養殖事業が大きく進むバックボーンとなった。
 その後、サロマ湖では1952年(昭27)宮城県から種カキを移植、1965年(昭40)ホタテ稚貝の育苗技術に成功し、以降、それぞれ本格的に養殖が進められ、これらは芭露においても代表的な水産物になっている。
 ノリの養殖も1963年(昭38)企業化を目指したが、ホタテ養殖が軌道に乗ったことなどから、1970年(昭45)以降、生産が激減し姿を消した。
 この間、芭露地区のサロマ湖では、沿岸漁業振興対策事業や漁業協同組合単独事業により、カキ洗浄施設(昭38)、ノリ共同加工施設(昭39)、養殖作業基地(昭50)など施設が整備された。
 1973年(昭48)から1979年(昭54)にサロマ湖浅海漁場開発事業で、サロマ湖東部(常呂町栄浦地区)に第2湖口の開削が行われた。1929年(昭4)に開削された湖口(第1湖口)は湖内漁業を発展させてきたが、各種の栽培漁業の大幅な進展から、内水事情が万全とはいえなくなっていた。
 芭露港は1982年(昭57)漁港法の第1種漁港(利用範囲が地元の漁業を対象とするもの)に指定され、道の事業により漁港整備に着手。1984、1985の両年(昭59,60)は局部改良工事、1988年(昭63)からは護岸工事に入っている。
 芭露港は、けい留施設や物揚場など施設用地もなく、漁業者は芭露川河口や河川敷を利用している。計画では、漁港としてこれらの基盤施設、道路などを整備する。
 芭露漁港地区は、テイネー、志撫子の3地区36戸、うち芭露は17戸、1993(平5)年度の同漁港の漁獲量は1,825d、漁獲高は約5億7,600万円、養殖ホタテが7割を占めている。ほかに養殖カキ、エビなどを出荷している。

 昭和40年ごろまでは半農半漁。30歳前後のころは、3,4時間眠って、夜も漁に出ていました。獲れるものはなんでも獲っていました。カキより、チカやキュウリの方が値段が良かった時期もありました。
 ホタテは40年代、カキは50年代にようやく軌道に乗り、漁業として成り立つようになりました。サロマ湖の漁業は将来的にも貝類を中心とした形態でしょう。
                 (田宮 孝明)


   第1湖口は、1988年(昭63)サロマ湖漁港として第4種漁港(離島その他辺地にあって、漁港の開発、漁船の避難上特に必要なもの)に指定、漁港整備計画により外郭施設、船溜の修築事業が着手された。
 流氷のサロマ湖への流入は、湖内の結氷期間が短くなり、全面結氷しないこともあり、昭和40年代後半から顕著になり、ホタテやカキの養殖施設に被害が出ている。流氷流入対策として、現在、防氷提の工事が網走開発建設部によって進められ、1997年(平9)に完成する予定。
 防氷堤は、コンクリート、ワイヤー、フロート、ネットなどにより構成され、第1湖口に向かって弧を描くように設備。水面下に張りめぐらされたネットが流氷の侵入を防ぐ仕組み。
●ばろうかき出荷組合  ばろうかき出荷組合は、1986年(昭61)芭露産の殻付きカキを全国にと、芭露地区の漁民15人で発足した。以来、発案者である芭露郵便局と共同で、殻付きかきを北海道郵便局承認の「ふるさと小包」として全国に出荷している。
 組合発足前の1シーズンは、組合長の石本武男だけの取り組みだったが、本格的な出荷を目指し、仲間を募り組合を設立した。組合発足後も新鮮な殻付きカキは評判を呼び、年々注文が増加。御歳暮としても利用され、道内各地、遠くは沖縄まで出荷されている。
 また、同組合と同郵便局が中心となり、実行委員会組織で、1987年(昭62)からかき&スノーフェスティバルを開催。カキを格安で販売したり、各種イベントを催し、消費者や地域住民との交流を図っている。
● 商 業  戦時中、配給指定店以外の店は閉鎖を余儀なくされていたが、戦後再開された。1951年(昭26)物資統制の解除により、商品の流通が活況をみせ、ようやく消費動向も活発化。闇取引も沈静化した。
 こうした中、金融や税制などの分野で商工業者の結束が必要となり、1954年(昭29)湧別市街で申し合わせ商工会が発足。1958年(昭33)には芭露、上芭露、計呂地の各地区市街商工業者55人が申し合わせの「東湧商工会」(大崎竹茂会長)が発足した。1960年(昭35)商工会の組織に関する法律の施行に伴い、芭露方面の商工業者も参加した全町的な法人団体として湧別商工会が誕生した。
 その後、過疎化の進行による消費人口の減少、町外商店利用率の増加傾向がみられ、小売店の退潮を招いた。
 湧別商工会が1969年(昭44)に実施した地域別買物動向調査によると、芭露、計呂地地区の地元商店を利用する人は52,3%、「町外流出」は44,1%、「移動販売・その他」が3,6%だった。「町外流出」の内訳は、中湧別21,7%、遠軽21,0%で、湧別地区より、遠軽方面への流出が多かった。

 1972年(昭47)の芭露市街の商工業者は次の通り(カッコ内は創業年、従業員数)。 梅津美容院(昭47,1)、山口理容院(同44,1)芭露館(同12,2)東海林モータース(同20,2)、鬼越鉄工場(同36,1)、小野商店(同39,2)、川田商店(同23,3)、山川商店(大3,3)、福浦商店(昭31,2)、小林時計店(同24,1)、小林新聞店(同45,6)、芭露食堂(同28,1)、太田商店(大10,4)、工藤食堂(昭45,3)、阿部理容院(同42,1)、芭露農協店舗(同41,10)、木戸美容院(同42,1)、鎌田組(同20,8)、長谷川建設(同22,9)、大沢木材店(同13,30)、西木工場(同47,8)、今野ふとん店(同28,1)、佐藤家具店(同29,1)、小野車輌(同43,1)、工藤海産(同22,15)。

 以降の商工業者の推移を、湧別町商工会芭露支部の会員名簿でみると、次の通りである。

△ 昭和57年
 叶田商店、工藤勉、鎌田一男、小林国雄、今野繁次郎、鬼越昇、山川保男、椛セ田商店、佐藤誠、小野一男、大沢義時、樺キ谷川建設、福浦常忠、東海林豊治、小野直敏、小畑安則、梅津茂雄、大口秀夫、高丸君子、為広準一、鰹髞工業所

△ 昭和60年
 叶田商店、工藤勉、太田豊行、鎌田一男、小林国雄、今野繁次郎、鬼越昇、山川保男、椛セ田商店、佐藤誠、小野一男、大沢義時、樺キ谷川建設、福浦常忠、東海林豊治、小野直敏、小畑安則、梅津茂雄、大口秀夫、高丸君子、為広準一、鰹髞工業所

△平成7年
 太田豊行、滑剴c組、佐藤誠、小野直敏、椛セ田商店、工藤勉、小林アサ、鬼越昇、東海林豊、山口ミエ子、高丸君子、泣vラザ為広、梅津茂雄、叶田商店、小畑安則、樺キ谷川建設、大口恵子、鰹髞工業所、長谷川睦雄

 湧別町商工会芭露支部では、共同の大売り出し、先進地視察などのほか、芭露の各種まつりに協賛するなど、地域と一体となった取り組みや会員の研修事業を行っている。
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