芭露百年のあゆみ

第1章 古代の湧別地方
第2章 奥農場の開設
第3章 バロー(芭露)原野の解放

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1章 古代の湧別地方 
● 先史時代    湧別町の先史文化は、先縄文文化(無土器文化)に始まり、縄文文化、続縄文文化、擦文文化を経て、アイヌ文化の時代に推移した。よって湧別町に人類が住みはじめたのは、およそ1万年前にさかのぼると推測されている。
 先史時代の生活は、住居は河川や湖沼近くの段丘に竪穴を掘って造られ、食糧は河川や湖沼の魚介類や海獣、丘陵で捕獲した陸獣だったと考えられる。道具は金属器や鉄器が出現するまで、黒曜石を材料にした石器がほとんどだった。
 湧別町内の遺跡は、縄文中期ごろまでは、現在見られる丘陵の麓付近に分布していたが、同後期以降擦文文化期までは、湧別川の河岸段丘やサロマ湖畔段丘上に存在した。これは海侵海退が影響したものである。
 芭露地区には、BR〜02(二軒橋)遺跡、BR〜03遺跡、BR〜04遺跡、BR〜05遺跡、芭露遺跡、キナウシ遺跡があり、全てが遺物の包含地となっている。
 先縄文文化期の石器が西芭露や上芭露でも開墾した笹薮などから出土していることから、芭露川、志撫子川、計呂地川沿いの丘陵地帯にも、中期の古代人の気配があったものと推察される。
 縄文文化期に入り、北海道の地形が現在とほぼ同じ形状となった。芭露市街地南方の山の手で、芭露川の上流に当たる地点と福島の山の手地点から、同文化早期と考えられる絡縄体圧痕文土器と同前期^中期の北筒式土器のほか、装身具を思われる直径1pの平玉1個が出土している。
 本州では漁労と狩猟を基調とした縄文文化から、新たに金属器を使用し、農耕を生活の基盤とする弥生文化に移ったが、北海道は地理的環境から農耕を受け入れられず、弥生文化の影響は少なく、縄文文化同様の生活状態が続いた(続縄文文化)。
 続縄文文化の遺跡は、サロマ湖南岸の芭露地区では、湖岸台地上に竪穴が見られ、特にテイネーから芭露市街の中間地域と二間橋付近に多く、前北式土器を後北式土器が出土している。
 北海道ではやがて続縄文文化から擦文文化に移行した。これは本州中枢部の文化でいえば、奈良〜平安朝の年代に並行するものと考えられている。擦文文化の遺跡としては、湧別町内には竪穴住居跡がある。これらは1辺5×10p×深さ0,5〜1mで矩形の凹地で、地表からもわかる。立地条件は縄文文化及び続縄文文化と同様で、河川や湖沼の台地上に分布が濃い。
 芭露のサロマ湖畔や河川に沿った段丘上にも遺物が散在的に出土しており、芭露市街西方の河川沿いの台地上からも擦文式土器の破片が出土している。
 擦文文化の時代に特色在る文化が北海道に伝えられ、遺跡の大部分がオホーツク海に沿う地帯にあることから「オホーツク文化」と名づけられている。北海道北東部沿岸地帯を主とし、サハリン、利尻島、礼文島、南千島を分布圏とし、時代的に並行する擦文文化と明らかに異なる特徴を持っている。
 オホーツク文化の遺跡は、擦文文化の遺跡と同様の立地条件を持ち、海岸に近い河川や湖沼の辺りに見られ、ところによっては、擦文文化の遺跡と隣接している。湧別町では登栄床と川西の分布が確認されている。
アイヌ文化と和人の渡来  擦文文化の時代を過ぎて、近代アイヌの文化が幕開けた。湧別川流域を根拠とする湧別地域のアイヌも繁栄の一時期を形成したとみられている。擦文文化が終わった1,500年ころから200年間、アイヌの社会が全道に成立し、湧別川流域にも「湧別アイヌ」の文化が存在した。
 湧別(上湧別町中湧別)に「湧別アイヌ」のコタン(集落)があった。古老の話によると、芭露方面も東の沢(東芭露)に和人の定住以前からアイヌ人2戸が居住していた。1戸は夫婦と子供2人で、1920年(大9)ころまで24号の山裾に住んでいた。
 今からおよそ300年前、牧只右ェ門の「津軽一統志」によると、「ユウベツ村秋300人程大将シホサヌ」とある。紋別や網走などの集落が100人から200人程度だったことから、ユウベツはオホーツク沿岸の中心的部落であったことがわかる。
 さらに「ユウベツより北高麗に渡る」と記述されおり、これは「当時ユウベツは川も海もマス、サケ等の魚が豊富にとれるし、湧別川をさかのぼって白滝から峠を越えて石狩川上流に通じ、オホーツク海と上川、石狩を結ぶ通路であり、その上ユウベツから船でオホーツク海を航し、樺太・山丹高麗に渡る交通の要衝時代があったと思われる」(上湧別町史)。
 元禄時代(1688〜1703)末期に松前藩が幕府に提出した「松前郷帳」には、北見沿岸のアイヌ部落18居のうち、ユウベチ(湧別)以西ツウヘチ(頓別)までの7居はユウベチの支配圏と受け取れる記載がある。
 14世紀ごろ和人が道南に定住するようになり、次第に勢力を拡大し、アイヌと和人の争いが繰り返された。江戸時代に入り松前藩が北海道を支配するようになり、1669年シャクシャインの蜂起でアイヌがこの戦いに敗れると、松前藩の支配が一層厳しくなった。
 1685年松前藩は宗谷場所を開設した。宗谷場所及び北見国方面のオホーツク海沿岸の漁獲及びアイヌの狩猟品と生活物資の交易のためで、これは湧別方面の開拓のはしりともなった。自由な漁獲の場だったオホーツク海の前浜やサロマ湖水を収奪されたアイヌは漁業労働力として酷使された上、住居も集約された。こうしてアイヌは生活の自由を喪失し、衰亡に追い込まれていった。
 道内の地名のほとんどはアイヌ語地名を由来としている。アイヌ語地名は地形や自然、生物の生息などからつけられている。

◇ 芭露 「バロー」「バロ」(口)が濁音化し「バロー」となったと考えられる。
◇ポン川 「小さい。役に立たない」川の意味。
◇サロマ湖 サロマはサロマ湖に入る佐呂間別川の名で、「サル・オマ・ベツ」(葦原にある川)。
        アイヌは「ポロ・ト」(大きな大事な沼)と呼んでいた。
◇丁 寧  「テイネ」(濡れている)で、湿地のこと。
◇志撫子  「シュプン・ウシ」(ウグイの多い)だが、明らかではない。
◇計呂地 サロマ湖に注ぐ小川「ケロチ」からきた。「ケレ・オチ」(非常に削られたところ)
◇湧 別  「ユペ」(サメ)からきた。アイヌはサケのことをサメと言った。ユペの多いところから名づけられた。
第2章奥農場の開設
開拓使の設置  1869年(明2)明治政府は開拓を進めるため開拓使を設置し、蝦夷を北海道に改め、全道に11国86郡を置いた。11国は渡島、後志、石狩、日高、天塩、十勝、根室、胆振、釧路、北見、千島。
 また入植を計画的に進めるため、開拓使10年計画(明5〜15)をスタートさせた。開拓施策として土地の私有化を前提、私有権を明確にする地所規則、北海道土地売買規則、北海道地券条例などを施行し、移民の誘致を促進した。
 開拓使10年計画が進行した当時の北見国を含む開拓使根室支庁管内の人口は、ほとんど根室を中心とした太平洋に集中し、北見国には1879年(明12)、1880年(明13)年ころから根室方面から転居する人がみられる程度であった。
湧別原野の開拓  1880年(明13)網走郡役所、紋別、斜里に戸長役場が設置された。1882年(明15年)網走郡役所勤務の半沢真吉が辞職し、湧別町5番地に農業を目的に移住した。
これが湧別町の「開基」とされている。
 1882年(明15)開拓使10年計画の終了により開拓使を廃止。3県1局(函館、札幌、根室の3県、農務省北海道事業管理局)時代を経て、1886年(明19)北海道庁が設置、農業資本導入の基本となる。「北海道土地払下規則」が公布された。
 道庁の初代長官・岩村通俊は健全な移民誘致と土地処分の簡素化を図るため、全道の主要原野を対象に植民地選定と区画測設事業を行った。之に基づき1891年(明24)湧別原野の区画測設が実施された。
 湧別原野は屯田兵村予定地1,294万2,000坪を除き、2,344万7,596坪が、1,492区画に測設された。湧別原野の解放と屯田兵村の設置から、農業入植者はもちろん、各種業種が入り込み、1896年(明29)には50戸の湧別市街を形成した。
芭露地区初の入植者と
  奥農場による開拓
 テイネー以東、芭露地区への初めての入植者は石川県輪島出身の坂田長右ェ門、1895年(明28)現湖陵中学校長公舎付近で自活のため農業と漁業を営み、単身生活していた。1899年(明32)ころには東に転居していたというが、入植経路や、その後のことは不明である。
 そして1897年(明32)7月バロー(芭露)原野に岐阜県と福井県から16戸64人が入植した。これがテイネー以東の本格的な開拓の始まりである。同原野100万坪の貸付を受け、農場を計画した東京の奥三十郎の小作人募集に応じた人達だった。
 小作人募集の際に出した条件は、開拓自立できるまで米、味噌、農具、種子などを補給し、将来は地主になることができること。
 この1年前の1896年(明29)同農場主の奥が芭露に訪れている。老人寿の家前には、「芭露発祥の地」の石碑が建てられ、碑文には「明治29年奥三十郎氏が川舟でこの地に上陸せしことを持って芭露の開基とす」と記されている。
 小作人の入地経路については、岐阜県の13戸は越前三国港から船で日本海沿岸の港に寄港しながら北上し小樽港に到着。小樽で船を乗り換え、宗谷岬を経て、沿岸各港に寄港し、湧別港に到着した。
 この間1花月余りを費やした。さらに芭露まではテイネーから磯舟でサロマ湖を通り、芭露川を遡り、現在の3号線から50m下流の古川の畔にあったニレの大木のある地点に上陸したという。
 奥農場は現在の国道テイネー以東、サロマ湖岸から西方、芭露川を境とし、本間沢までの広大な面積、樹林地帯で重粘土質、湿地という悪条件下にあった。入植者は開墾に努め、1年目にはわずかにそばを蒔いた。2年目は馬鈴薯などを栽培したが不作だったという。
 その後、奥は一度農場を訪れているだけで、農場経営は支配人任せだった。支配人は初代千葉宗助、2代目本間省三。本間は行政区名「芭露」の名付け親、芭露初の村会議員になる人物であり、地域おこしに貢献した。その功績から「本間沢」という集落名が今も残っている。
 奥は農業収益を上げる見込みが立たないことから、入植から2年後の1899年(明32)に一方的に契約を破棄して農場を閉鎖した。契約により食糧や農具を支給されていた小作人は、至急を絶たれ苦境に立たされた。資力のある者は帰郷したり、転出したが、ほかは本間沢など周辺に四散、再び開墾に汗を流した。
 奥農場閉鎖に当たり、本間支配人が、適地に再入植して開墾することを勧めたことで、小作人は国有地に無願入地した。食糧自給を目指し開墾するが、はかどらず、山でウバユリやフキ、川でサケやマスを獲り、食糧とする生活で、食べるものにも困る生活が続いた。
奥農場と軍港候補地
だったサロマ湖
 奥農場開設の理由について、詳細はわからないが、「サロマ湖の軍港計画を察知し、将来の発展を見越したのでは」との古老の話が残っている。『佐呂間町史』や『網走市史』などにサロマ湖が軍港候補地だったことが記載されている。
 それは、奥農場開設の10年前に遡る1887年(明20)、「政府から派遣された外国人設計士が軍港候補地としてのサロマ湖を訪れているが、その結果は不適当。しかしサロマ湖の地名を世に広めることとなり、次第に炊煙を増していった」(佐呂間町史)
 『網走市史』にも、同じ年の1887年(明20)道庁が招いた港湾技師、イギリス人のメークが全道主要港湾調査の一環で、修築予定地として網走港とサロマ湖をあげ現地入り、比較検討した上、網走港を推薦していると記述されている。
 これは、1886年(明19)北海道を巡視した外相・井上馨、内相・山形有朋が意見書の中で、「東海岸及び北海岸の渡航険悪極め、運賃高額なため、拓殖を妨げており、道庁はこれを打開するために技師を招へいして港湾の測量・修築、灯台の増設を図るべき」と述べていることを受けたものと考えられる。
 また網走築港期成会が1899年(明32)に発行した『網走港』には、サロマ湖は「本道第1の大湖にして、往年技師を派して調査を遂げ、以て東北海岸唯一の軍港修築の計画を此湖に於いて実行されんとせしが故、普く世人の知る所となれり」と記されている。
屯田兵の入植  1897年(明30)屯田兵村に湧別屯田第1回移住200戸1,285人、学田農場に30戸が集団入植し、湧別の人口が急増した。これに伴い行政事務が増大したことから役場設置の条件が整った。同年6月の道庁告示により湧別村戸長役場の設置が決まり、7月15日開庁し、紋別外9ヵ村戸長役場から分離した。
 またこの年、北海道国有未開地処分法が公布され、以降大地積処分が進み、道内各地に数多くの大農牧場が開設されていった。
 屯田兵制度は1874年(明7)設けられたもので、開墾や農業の合間に兵隊としての訓練を受け、ロシアなどに対する北の守りを固めるのが目的だった。
 湧別屯田第2回移住では1898年(明31)199戸1,174人が来村した。全道では1875年(明8)から1900年(明33)まで屯田兵が入地した村は併せて37カ所となり、屯田兵とその家族は4万人近くになっていた。
第3章 バロー(芭露)
原野の解放
原野の開拓  湧別原野に続いて1900年(明33)バロー(芭露)原野の殖民区画測設が実施され、翌年貸付告示されると、入植者が相次いだ。北海道庁の『殖民公報』(明34)に「北見国バロー原野」が道内新区画地の一地域として、次の通り告示されている。
  
 【地理】
 紋別郡湧別村に属し、サロマ湖の南西バロー川に沿へる狭長の原野にして、南北3里余に亘るバロー川は其下流約千間の外は水質清良飲用すへし。
 【気候】
 初霜は9月下旬、終霜は5月下旬なり、冬間積雪凡2尺7,8寸に達し4月中旬融消す
 【地味及植物】
 下流湿地を除く外は地味概ね肥沃なり、樹木はアカタモ、ヤチタモ、ナラ、イタヤ、カバ、ハンノキ等とす樹下笹を生し、河畔には雑草を見る湖畔の湿地は丈余の蘆葦繁茂す。
 【交通】
 湧別市街へ3里にして交通便利なり、湧別は好市街にして戸長役場、郵便電報局、村医等あり
 開墾ではまず「着手番屋」という家屋が建てられた。間口2間、奥行3間。入り口にむしろを垂らし、屋根や壁は笹や刈草を木の皮で、丸太の柱や桁にゆわえた粗末なものだった。そして郷里から持参した幼稚な農具を頼りに鬱蒼と茂る原生林の伐採、つまり畑をつくることから始まった。
 空を覆うような大木の森に囲まれ、熊笹が密生する原野には山ぶどうやコクワなど豊かな自然の恵みがあった。小川にはザリガニが住み、秋の芭露川には鮭や鱒の群が川いっぱいにあがってきた。まるで熊の天国のような地だった。食料が豊富であったせいか、熊による人間の被害はなかった。それでもトウモロコシ畑が荒らされたり、小屋の窓に熊が頭を突っ込むということはあった。
 食料は全て自給自足、主食は麦や稲黍、豆類などの穀物、副食は自然の恵み、山菜や魚だった。米が食べられるのは盆や正月、病気の時ぐらいだった。味噌、醤油、佐藤、塩などの調味料は、定期船が湧別港に入港するたびに出向き、石油、布地、農具などと合わせて買い求め蓄えた。
教育の始まり  1902年(明35)バロー原野の解放により、同原野への入植戸数は33戸を数えた。子供の教育に熱心だった奥農場の元支配人・本間省三、部落部長の新井松吉らが簡易教育所(4ヶ年課程)の設置運動を進め、その結果、施設費を部落民の寄付によりまかなうという条件で学校が誕生することになった。
 しかし入植直後であり、部落民の経済力は乏しく、芭露基線28番地の岩見光馬の建物を3ヶ年の期限で借り、村費70円13銭で校具を整備。同年9月1日湧別尋常小学校所属馬老簡易教育所(芭露小学校の前身)が児童18人で開校した。
 初代教師は湧別町兵村五ノ一和田義一。代用教員として。17歳で赴任した和田は、日曜日ごとに湧別尋常小学校に通って校長に教授の方法や事務処理などを学び授業に挑んだという。
 当時の通学区域はバロー原野全域、志撫子、計呂地、床丹と広域だったが、交通手段は足に頼るしかなかった。上芭露地域から馬老簡易教育所への通学は2里(7,8q)もあった上、道路は悪く、馬車がようやく通る状態で、雨天や融雪時にはどろんこ道となり、膝までくるほどだった。また雨が降ると学校周辺に水がたまり臨時休校になった。
 1907年(明40)になると芭露地区奥地への入植者も増え、児童数100人に増たため、翌年1月同簡易教育所は尋常小学校に昇格し、芭露尋常小学校と改称、同時に芭露12号を境界に通学区域を分割し、同校所属としてバロー簡易教育所(上芭露小学校の前身)を11号69番地の上伊沢伝所有の民家を借り開校。
 同年4月から義務教育の年限が6年間に延長され、校舎が狭隘化したため、芭露尋常小学校とバロー簡易教育所校舎がが新築された。芭露尋常小学校は現神社の地を敷地に、バロー簡易教育所は13号にそれぞれ5月に落成した。児童数は本校58人、バロー校42人。費用は住民の募金と村費でまかなった。
 両校舎の落成会が芭露小学校で開かれた。そのもようが『芭露小学校沿革誌』に記録されている。

   其日ヤ天気晴朗ニシテ1点ノ雲ナク、村長、村会議員、
   学務委員、村医、各部長ヲ始其他有志ノ参列頗ル多ク約
   300人トモ称セラル、実ニ開村未曾有ノ盛典ナリキ
 1910年(明43)卒業生は『芭露小学校80周年記念誌』の中で回想している。
    1つの教室で1年から6年まで一緒でした。桑原先生と越智先生の2人、越智先生の
   舎弟、彰君は特待生のような立場で時折先生の助手の役目を果たしていたと思う。
   ポン川の児童の家が全焼して教科書を失ったので、校長命令で全児童が金2銭ずつ
   持ち寄りました。
また、当時のエピソードを次のように述べている。
    放牧馬が熊に襲われる被害は北海道の至るところでおきているが、芭露の牧場では
   これとは逆で、馬に熊が殺された。熊の利鎌のような爪を馬の尾根にかけようとする
   一瞬、驚いた馬の蹴上げた蹄が熊の頭に命中し、熊は顎をくだかれ絶命する前代未聞の出来事。

 さらに同原野の奥地に入植者が増加すると、各地で学校の設置運動が進められ、住民負担により実現した。1907年(明40)計呂地簡易教育所(計呂地小)、1913年(大2)東の沢特別教授所(東芭露小)、西の沢特別教授所(西芭露小)、1914年(大3)志撫子特別教授場(志撫子小)がそれぞれ設置された。
 芭露小学校は、1909年(明42)2学級編成、1910年(明43)床丹特別教授場開設、1911年(明44)教室16坪を含む校舎27坪の増築と、充実していった。

●「芭露」という名称  芭露は、アイヌ語の「パロ」「パロー」(口、河口の意味)などが、和人によって濁音化した「バロー」が起源となり、「バロー原野、」「馬老簡易教育所」、「芭露尋常小学校」を経て生まれた。
 起源となる「パロ」「パロ−」は、芭露川がこの辺では大きな川口、漁労や交通の要衝だったため、よう呼んでいたという説がある。アイヌ人は川筋が内陸と各地の交通の唯一の道で、内陸への入口を「パロー」と称したという。
 松浦武四郎の『第26巻 西部登宇武都誌』では、芭露周辺について次のように記述している。

  ハロープト(芭露) 茅原の中に川口有、巾凡30間も有る也。当湖中第3番の支流也。
  川口より10丁も奥より樹木有る也。惣て是よりトイトコ、ユウベツの方皆平地也。
  其名義は本名ハロシュマといへるより也。ハロシュマは病して死で仕舞しと云事の由也。
  扨此又川すじ(芭露川筋)の事はトウフツの者は知らず、却てユウベツの者どもよくしり
  たるとかや。先10丁計も上るや左の方キナウシ。此処蓖(簾)多く、土人等敷物に織る
  草は皆此処まで取に来るとかや。よって号。また10丁上りてチカウテツ(本間沢?チカ
  ポツナイ?)右の方に有。是より左り本川。魚類は鯰、桃花魚、チライ、雑喉のよし也。
  ユウベツ土人の飯料小屋有と云り。源高山にして皆ユウベツの山より来るとかや。
  右ユウヘツ、ハウカアイノ、ニシリキン両人申候也。扨いよ扨いよ湖水浅く成、処々牡蠣
  の島有と。また茅萩多く生茂りぬ。

また地名照合表では、『登宇武津』ハロー(ハロシュマ)、『午九手控』同、『西蝦夷巻八』同、『松浦山川図』ハーロ、『陸測20万図』同、『道庁20万図』バロー、『間宮蝦夷図』バル、としている。
 「バロー」を音訳してい「馬老」「芭露」に表現したのだろうが、由来は不明だ。本間省三の提案によりつけた「芭露」(尋常小学校)について、『芭露80年の歩み』で推察している。
      「馬老」(尋常小学校)では、将来性がないため、未来
     の発展を願い、松尾芭蕉と代表作「夏草やつわものども
     の夢のあと」にちなみ、あるいは日露戦争の戦勝に沸い
     た世相を反映し、新熟語「芭露」を誕生させたのではないか。
 『芭露小学校80周年記念誌』の中で、明治43年の卒業生は、頭に浮かんでくる大きな事件として、5つの項目を列挙している。
その筆頭に「バローから馬老、芭露に改称される裏話」をあげているが、「いずれも開拓当時の副産物的な事件であり、学校に大いに関係あるが、周囲に差し障りを生じ、80年の記念誌にふさわしくない点があり、残念ながら不筆」にとどめている。
 今となっては「芭露」の由来を知る人はもちろん、資料も見当たらない。しかし「バロー」がなぜ「芭露」になったのか、興味は深まるばかりである。

●開拓と交通  入植当時は、芭露に道路はなく、サロマ湖上が唯一の通路だった。湧別市街に行くには山麓沿いの五鹿山(現上湧別町)を抜けて、中湧別コタンに通じる「踏み分け道」を経由した。この道は中湧別のコタンのアイヌが漁労や狩猟ののため使っていたものだった。
 奥農場の閉鎖後、本間沢と6号線に通じる踏み分け道、ポン川の踏み分け道ができ、さらに奥地に行くのには芭露川沿いを往来していたが、やがて公道が整備されるようになった。
 道庁の設置により、北海道の開拓が統一政策によって進められ、これに基づき、北見国開発の幹線道路、上川ー北見ー網走間の中央道路(北見道路)が1891年(明24)に完成した。1892年(明25)中央道路上(現遠軽)から分岐する基線道路が湧別原野を縦断するルートでオホーツク沿岸に達した。
 中央道路は囚人により開削された。延長約163qに及び、1891年(明24年)8ヵ月余りで開削された。出役した囚人はおよそ1,500人。過激な労働から200人以上の犠牲者が出た。完成後、野上、滝の下、滝ノ上に人馬継立所(駅逓)が設置された。宿泊、人馬の継立を行う駅逓は交通上のみならず、開拓路線の展開の上からも重要な拠点となった。
 稚内ー根室間の北海岸線道路は1898年(明31)4号線ー紋別間、1902年(明35)7号線ー計呂地間、1908年(明41)ケロチ川ートップシ間がそれぞれ完成。これらの道路を「仮定県道」と称し、拓殖警備などの重要幹線として、道庁書記の開発計画の一環とする交通施策が実施された。
 これに付随する各原野の「殖民道路」も次々に開通していった。1897(明30)湧別原野道路、1902年(明35)湧別市街道路、1904年(明37)バロー原野道路(湧別網走道路〜14号)、1907年(明40)同(14号〜19号)、1910年(明43)同(16号〜23号)が開削された。道は地域間の交流を促進、地域発展の原動力となった。

    大正7年13歳の時、湧別からポン川に入地しました。当時、内山牧場の道路の両側は、ナラの巨
   木の密林地帯。道路沿い左側にナラの割木の牧柵が延々と続き、現農協本部の地に延びていた。密
   林に阻まれたこの道路は、大正の初めのころ芭露に帰る途中の1人歩きの少年が追いはぎに襲われ
   たという話を聞いた。大正11年ころ大口丑定が部落区長の時、部落に諮り、道路補修共同事業を行
   いました。少年だった私も出役し、3日間ぐらいかかったと思います。大口区長は「川砂利ぐらいでは
   期待できない」と、批判覚悟で大きな岩石を投入しました。「積荷が崩れ落ちる」など批判の声が出まし
   た。しかし、これが道路の基盤となりました。
    (茂手木一夫 芭露老人趣味の会『明日の潤第5号』)

●鉄道の開通  1911年(明41)陸別ー野付牛(北見)間が開通し、網走管内で初めて汽車が走った。続いて1912年(大1)野付牛ー網走間が開通し、池田ー網走間が全通した。
 その後、湧別地方で1916年(大5)11月湧別線鉄道が開通した。湧別村初の鉄道だけに喜びは大きかった。当時の様子を古老が次のように語っている。
        処女列車が湧別駅に向かってくると小学生や若い人た
       ちは日の丸の小旗を振り、老人や婦人たちは線路脇に土
       下座し汽車を拝み、涙を流して喜び合った。祝典は村挙
       げて行われ、夜は提灯行列で浜から4号線まで練り歩き
       ました。
 1910年(明43)軽便鉄道法の施行に伴い、野付牛(北見)ー湧別間の湧別線軽便鉄道敷設決定、1911年(明44)測量着手、1912年(大1)11月野付牛ー留辺蘂間開通、1914年(大3)10月留辺蘂ー下生田原間開通、1915年(大4)11月下生田原間ー社名淵間開通、1916年(大5)8月社名淵ー湧別間完工、同年11月21日全通した。
 また1921年(大10)3月25日には名寄線(中湧別ー紋別ー名寄)が開通した。
分岐点を湧別とする誘致運動が進められたが実らなかった。
 サロマ湖沿線を走る中湧別ー網走間の湧網線は、建設運動から全線開通まで明治、大正、昭和にわたり、およそ半世紀もかかった。芭露方面を走った唯一の鉄道でもあった。
 湧網線は1896年(明29)名寄ー網走を結ぶ第2期予定線に編入されたことから、1900年(明33)紋別、常呂、網走の3郡の住民により北見鉄道期成会を結成し、下湧別で第1回鉄道速成大会を開き、運動を盛り上げた。
 1909年(明42)の実地調査を経て、翌年第26回帝国議会で工費228万円で局部予定線に編入された。しかし、野付牛ー名寄間の鉄道が優先されたことから湧網線は先送りされた。
 1919年(大8)地域住民は開発期成会を結成し、代議士を巻き込み、沿線自治体の首長らが北海道長官、札幌鉄道局長に陳情。1912年(大10)には中湧別で沿線5ヶ町村の連合大会が開かれ、本線促進の宣言が決議された。同年全国期成会同盟会に加入するなど住民の運動も活発になっていった。
 1923年(大12)には網走で連合速成大会を開催し弾みをつけ上京・陳情したが不運なことに関東大震災により書類を全て消失し、測量、書類作成のやり直しとなった。
 しかし、1925年(大14)第48回帝国議会に請願し採択となって、1927年(昭2)測量を実施。1928年(昭3)中湧別、中佐呂間(現佐呂間)で関係5ヶ町村連合大会を開催し、請願運動は熾烈となった。
 同年12月鉄道省の会議で、湧網線を東西(湧網西線、湧網東線)に分けて両方から起工することにし、1931年(昭6)年度着工、1937年(昭12)完成との事業計画を決定し、第51回帝国議会で議決された。しかし、またしても悲運に遭遇した。金解禁後の緊縮政策によって繰り延べになったのである。
 住民の落胆は大きかったが、1931年(昭6)網走で有志大会を開き決起、関係町村長が陳情のため上京した。1932年(昭7)着工予定との朗報が伝わり、中湧別で連合大会を開き、実行委員を選出して、同年着工を実現すべく鉄道省に働きかけた。こうした粘り強い運動の結果、同路線の建設が確定した。
 湧網西線(中湧別ー佐呂間)、湧網東線(網走ー常呂)は、中湧別ー網走を連絡してオホーツク海沿岸の開発を目的として、1932年(昭7)鉄道省告示第90号により北海道建設事務所の所管に編入。両線とも全区間を3工区に分けて起工した。
 湧網西線の第1工区中湧別ー芭露間は1934年(昭9)5月に起工し、中湧別停車場から下湧別方面の線路に沿って分岐し、道路に並行して東に進み、丘陵地帯の下降、上昇の急こう配を通って芭露停車場を設け、1935年(昭10)10月完成。
 第2工区芭露ー計呂地間は1934年(昭9)6月に起工し、芭露川を渡ってサロマ湖岸と道路の中間を進み、志撫子川を渡って、計呂地停車場を設け、1935年(昭10)10月完成した。
 そして中湧別ー芭露ー計呂地は、同年10月20日処女列車が発車した。一方、湧網東線の網走ー卯原内間は、これより10日はやい10月10日に開業した。
 翌年10月湧網西線の床丹ー中佐呂間間、卯原内ー常呂間が開通した。鉄路の出現による輸送の変革は、沿線の産業開発に画期的な刺激をもたらし、近代社会に向け前進していった。
 しかし残る中湧網線(佐呂間ー常呂)の開通による湧網線の全通は戦後を待たなければならなかった。
     湧網線の中湧別ー芭露ー計呂地が開通した時は小学
    校1年生。開通祝は市街で旗行列、夜は道路沿いには
    当時珍しかった夜店が出て、にぎわいました。クルマが
    ない時代。人馬は人通りを避けました。また駅近くの倉庫
    で芝居が2晩興行。わたしは残念ながら乗れなかったが、
    小学3年生異常は祈念として計呂地まで汽車に乗ったね。
                        (太田留治)
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