上芭露開基百年 



   年表
 郷土のあゆみ  序  章
 上芭露の自然 
 上芭露の開基
 行    政

昭和の小漁師
湧別町史
上芭露郷土史 


  
井上 剛  開基100年記念事業実行委員長

上芭露開基100年にあたり、ここに記念誌の発刊が出来る事は誠に感慨深く喜びとするところであります。
 先人がこの地域に一鍬を入れた実際の年は先輩方の話によりますと多少のずれがある様にも聞いておりますが、ともあれ明治41年に教育所の建設を機に上芭露開基・開校の起源とされ、平成19年にこの歴史の一区切りとなる100年を迎えることになりました。
 顧みますと、この緑豊かな郷土、上芭露の現在ある陰には厳しい風雪に耐え、明治・大正・昭和と1日も休むことなく幾多の困難と闘ってこられた先人の不屈の闘志と開拓精神の正に血と汗と涙の歴史であると改めて深甚なる敬意を表すところであります。
 明治から大正にかけての開拓主産であった農作物、自家食糧の外に薄荷の作付増加で地域全体が薄荷一色で農家経営の豊かさと共に、市街地の商業施設も栄えて、この地のお正月・お盆・秋祭り等の賑やかさに憧れて、遠くは佐呂間方面と云った近隣町村から多くの人々が遊びに来るなど、他町村の人々に羨望されていた話しは地域の先輩から幾度か聞いた事がありました。 その薄荷景気の終わりに近づいた昭和は世界大戦後の正に激動の時代、終戦による引き揚げ者対策の開拓による人口増の為の農業面での食糧増産から始まり、陸・海・山・工、それぞれの産業に活気があった時代、さらに列島改造による製作から、都市開発、リゾート施設の開発と日本中が沸きに沸いた時代、そんな最中に突然と思われるバブルの崩壊などと云う言葉により一変して世相は徐々に下降状況に陥った様に思われます。 そんな影響により、この上芭露も徐々に人口の流出、時代の流れによる少子高齢化の状況も進み本当の過疎地域になった事は歪めない事実でありますが、ともあれ開基100年の歴史の一区切りとなるこの大事業を我々昭和の人々が先頭に立って実行できる事は本当に幸栄に思うところでございます。

 平成17年度の自治会総会に於いて、この100年記念実施計画の決議後、住民一丸となり準備委員会を立ち上げ、各事業推進の為の総務委員会、記念碑建立委員会、記念誌発刊委員会、神社改築補修委員会を設置し、それぞれ担当委員会に所属して準備を進め、平成18年度は事業実施の年と差だけ手降雪時期までの完成を目指し、公私ともに忙しい皆様方に100年事業目的達成の為に熱意溢れる行動と適切な判断の行動力と実行力は本当に敬意を現すものであります。 さらには、此の事業を推進する最も重要な財源につきましては、自治会の皆様方の一方ならぬ寛大なご理解と多大なる御協力を頂いた事は目的達成へ向けての何よりの豊井団結力だったと考えられます。
 この平成19年4月、開基100年記念式典と祝賀会の栄えあるお祝いに当り、自治会一同双手をあげて喜びに浸るところであります。
 此の地域の戸数も60戸弱の過疎地とは云いながらも、湧別町内では勝るとも劣らない地域活動に於いての行動力、団結力、実行力さらに、それぞれの分野でのリーダーシップによる相互理解の出来た協同力のある実態は本当の意味で実証され、正に地域みんなが主役という言葉があてはまる地域と思われます。
 こう云った現状から先に記した様に最初に一鍬が入れられて始まったこの上芭露を先人から大先輩、先輩と引き継がれた歴史を我々の年代で大きな節目であります100年の歴史を、この記念誌発刊の機会にこの地の開拓の玄人幾多の先人、先輩の開拓魂と業績を後世に正しく伝えて行く事が、携わった我々の大きな責務だと思っております。
 終わりになりますが、2年間の各担当委員会が計画された事業を目標に向かって日夜努力された皆様に対し、心から感謝申し上げますと共に、目ざした諸計画事業が今達成され、念願の喜びを先人、先輩にご報告させていただきながら、明日へ向けて、未来へ進む次代を担う方々と共に郷土の発展と地域の繁栄を心から祈念しつつ序文とします。

上芭露の自然
一、位置・面積  湧別町上芭露は網走管内のほぼ中央部、風光明媚な日本第2の湖、サロマ湖の南、湖岸から約10kmを中心に芭露川の流水に添って開拓された狭い沢地帯の農村である。
 北は11号線を境にして芭露と接し、東は素晴らしい人工林と緑豊かな自然林の王子山林を経て志撫子、西は高い山嶺によって上湧別町、南は、東の沢方面は22号線を境に東芭露と西の沢は西5線を境にして西芭露に接している。
 面 積  約21・086平方km
湧別市街より  約22km
芭露市街より  約 8km
遠軽市街より  約16km (西芭露を経由して)

二、地勢地質  この集落の地勢を見ると、芭露川は東の沢川と西の沢川が16号線で合流し、芭露を経てサロマ湖にそそいでいる。 この川の中央部を占めており、川はどの場所でも東側に位置している。 西側は比較的なだらかな傾斜地となって起伏した農地から山林に続いている。
 16号が中心部で東、西、下と分かれており、三方に手を伸ばした細長い農地を形成している。
 地質は湧別地層と呼ばれる上に第三期新層、第四期層があり、芭露川の流域は太古の時代からの洪水等によって肥沃な沖積砂礫土壌で最も農耕に適している。 高台と呼ばれている、起伏した農地は重粘土地帯が多く表土も浅く、強酸性の土壌も見られ、河川の流域からみると地力は落ちる。 然し石礫はなく耕作し易い状況にある。 近年土地改良事業等によって、地質の改良が進み、近代農業の基礎となっている。


三、気象状況  オホーツク海の潮流はリマン海流と呼ばれる寒流で、サハリンの東岸を南下してくる。 冬はアムール川河口で発生した流氷が南下し、1,2月にはオホーツクの沿岸に接岸し厳寒の時期を形成している。 
 一方、対馬海流は暖流で日本海を北上し宗谷海峡からオホーツク海に出て北見沿岸を洗っている。
 これら両海流の影響と気圧の関係から「オホーツク海型気候」と呼ばれている北風が吹き、「ガス」と呼ばれる濃霧が来て冷涼な気象となる。
 この様な気候が7月の半ば以降も続く年は大凶作となる事が多い。
 大正2年頃の大凶作、昭和7年、29年頃連続の凶作は大きな被害を農家にもたらし、地域経済に計り知れない影響を及ぼしている。
 年間の日照時間は長く、降雨量は全国的にみても低位にある。

四、 気  温  上芭露の気温は12月、1月、2月は極寒で大正から昭和の初めは特に寒い日が多く、零下30度にもなった事があったと言われている。
 3月になると流氷も去って暖かくなり、4月、5月は快適な春の気温になる。 6月、7月は年によって割合涼しい日もある。 7月の後半から8月は盛夏で近年は内地を凌ぐ程の暑さになる事もある。
 秋は過ごしやすく空気は乾燥して湿度も低く人々にとって一番暮らしやすい季節になる。


五、霜と雪  霜は、春と秋にあってその早い遅いは農作物の収穫に大きな差がある。 春の霜は6月の中頃には終わり、秋の初霜は10月の初めとされている。
 近年は地球温暖化の関係からか秋の霜は遅くなっている。 昭和40年代までは9月の20日頃に大霜があって、農作物は収穫皆無の大凶作になる事も時々あった。 近年は10月の10日頃まで霜のない事は珍しくなくなっている。
 雪は、日本海沿岸に比べ少ない方であるが、年によって差が大きい。
 普通の年で約1mから1m50cm位であろう。 大正次代と現在を比較してみると、昔は初雪は早く12月には馬で、馬草や薪、木材の運送が出来たと言われている。 近年は初雪も遅く12月の積雪量は少ない。 何年かに一度は大吹雪があって交通麻痺になる事もあるが、昔に比べ近年は少なくなっている。 雪解けの時期は、4月の上、中旬である。 昭和の初め頃は5月になっても残雪があった年がたまにあったと言われている。


六、水  害  芭露川は小河川で水量は少ない方と思われるが、春先の融雪時期の増水、秋の台風による集中豪雨によって開拓以来幾度も水害を受けている。
 特に昭和53年から治水工事が国営直轄明渠排水工事によって行われるまでは自然河川で川は蛇行していて、増水の度に氾濫し、畑地の決壊や橋梁流失が繰り返され、作物が水浸しになる事も度々であった。
 主な水害の年を振り返ってみると、
  ・大正11年8月   大洪水の為7,8尺の増水となる
  ・大正12年9月   台風の集中豪雨による
  ・昭和10年8月   各地の橋流失
  ・昭和16年6月   6月には珍しい豪雨で水害起きる
  ・昭和28年9月   台風による洪水、芭露小学校床上浸水  
  ・平成 4年   台風10号、17号本道直撃被害発生
  ・平成10年   台風5号、大洪水となる  
  ・平成18年10月   低気圧により大洪水となる

七、上芭露の生物 イ、 動  物
 開拓以来、羆はいたが人里に現れる事はめったになかった。 近年になって農作物を食べに夜間各所に出てくる事がある。
 エゾ鹿はほとんど絶滅したと思われていたが、昭和50年以降急速に増え、農作物に被害を与えている。
 狐、狸もいたが現在は少ない。
 小動物では、野兎、イタチ、リス等も戦前はたくさんいたが、今はほとんどいない。 野ねずみは大発生する年があって人工林に被害を及ぼしている。

ロ、鳥   類
 開拓以来、野鳥にとって住みやすい所だったと想像される。
 現在上芭露で見られる鳥は、カラス、雀、春のカッコウ、美しい声で鳴くウグイス、セキレイ、トビ、タカ、ツバメ、ハヤブサ、カモ、鳩、キツツキ等、多彩である。

ハ、魚   類
 芭露川には戦後30年代迄はあらゆる川魚がいた。
 ヤマベ、ウグイ、アカハラ、マス、サケ、ドジョウ、カジカ、ヤツメ、川エビ、川カニ等がいたが今は姿を消してしまった。
 春先にアカハラ、ウグイが多少見られるくらいである。

二、昆虫、爬虫類
 戦前、多くの昆虫が見られたが、近年は少なくなった。 バッタ、トンボ、セミ、チョウの類、ハチ等はいる。 蛍は殆ど見られない。
 爬虫類は、アオダイショウ、カラスヘビ、トカゲ等がいるが数は少なくなった。


ホ、樹   木
 この地方の山林にある広葉樹の種類は多いが、近年は人工林が多く広葉樹林は少なくなっている。
 イタヤ、ナラ、シラカバ、カツラ、セン、ドロ、ワタドロ、ハン、タモ、ヤチダモ、アカダモ、シユウリ、コブシ、ヤナギ、キハダ、サワシバ、ハクオンボク、ホオノキ、ニワトコ、エンジュ、クワ、カシワナラ、ドスナラ、ナナカマド、サクラ、アサダ、ポプラ、等。
 針葉樹では、エゾ松、トド松、赤松、エゾ赤松、カラ松、等があり、人工林は針葉樹が多く用いられている。

ヘ、 草
 ハコベ、アカダ、タデ、カマドガエシ、ヨモギ、イラクサ、フキヒエ、ユリ、ゼンマイ、ワラビ、トクサ、ミズバショウ、スゲ、ミツバ、ガマ、イタドリ、オオバコ、ワサビ、クローバー、ヤマゴボー、ツユクサ、センナリ、タンポポ、シダ、クマザサ、ビンボクサ、等北方系に属する草の数は極めて多く、食用や薬用に供されるものもある。

第1章 上芭露の開基
一、入植の経過  我が国の近代的土地所有制度の成立は、明治5年地租改正が行われ、これによって土地の所有権の制度が明文化されたことに始まると言われている。
 然し、内地府県に於いては以前として地主制度は温存されていた為、大事主の土地を借受にし、面積も少ない小作農が多く(3反百姓、5反百姓)、細々と生計を営む者が多かった。
 明治19年北海道庁の設立と共に殖民地選定事業が起こり、湧別原野も明治22年殖民地として選定され、芭露原野は明治31年殖民地区画制が実施され、入植地の配分を受けることが可能になった。
 土地は巾100間、奥行150間、1区画5町歩と定められた。 この為、北海道に行けば5町歩の土地が貸し付けられ開墾に成功すれば、この土地の所有者になれるという事で大量の人々が北海道の開拓を志して入植する様になった。
 明治31年、32年に入地の湧別兵村が始まる前、明治15年、網走郡役所に勤務していた、半沢真吉が本町5番地に職を辞して開墾を始めた。 この年を湧別町の開基と定められている。
 湧別町史によると 「明治29年には50戸あまりの市街地がすでに出来ており、30年には戸長役場が設置された。
 一方、四号線は明治31年紋別道路の完成によって分岐点となり、交通の要衝となった為、各種商店、旅館等の開業もあり、43年には郵便局の設置もあって。小市街を形成し浜市街を上回るものであっとた言われている。
 こうした事から上芭露方面の入植は、浜市街、四号線を経由して行われ、初期の入植者も明治34、5年と言われているので、多少の準備はこれ等の市街では行われたものと思われる。
 上芭露の入植は湧別町史によると、学田農場を離脱した、加藤作次郎、橋本亀太郎、市川清吉、楢崎勇五郎、西脇留五郎、等の諸氏が最初の人達であったと記されている。 又、初代の部長になった上伊沢傅氏は野付牛屯田(現在の北見)の出身者で、八田留次郎氏も屯田兵の出身者であった。 外の入植者も一度他の土地に府県から来たものの、色々な事情により、芭露の沢の薄荷耕作を目ざして入地した人達が一番多いと思われる。
 従って国が奨励した団体入植は、大正3円年19号〜21号に入植した福島団体が唯一の団体であった。
◎ 福島団体入植者

 団体長  加藤新四郎
 団  員  小山 春吉
 柳沼 光治
 小山 豊治
 遠藤辰三郎
 秋山千代吉
 柳沼 平治
 斉藤 隆吉
 小林金次郎
 阿部亀次郎
 渡辺 栖蔵 
  以 上  11名
 いずれにしても、北海道の開拓に一攫千金の夢を抱いて来たひと、又この地を永住の地と定め理想郷の建設に思いを託した人、それぞれに異はあっても、困難な開墾の仕事に渾身の力を振り絞って励んだ人々であった。
 これ等入植した人の土地の権利の関係はどうなっていたのだろう。 少し遡るが明治10年 「土地発行条例」が定められ私有権を明確にする為、面積を記載した 「地券」 が発行され、これが後に法務省の下に登記所ができ、土地の移動の際は必ず土地の権利証の発行を受ける事により土地に私有権が明記された。
 こうして入植した移民の大木は資力も乏しく、鍬一丁での開墾は遅々たるものであった。 従って初期入植者の中には生活上漁場労働や兵村の建設工事に出る者が出来、入植した土地の条件も一定でなかった事から土地をホウキする者も出るなどこの上芭露に於いても所有者は大きく変わっていった。


二、上芭露部落の独立  上芭露地区の行政上の独立は、開基50周年(明治32年)発行の小冊子 「郷土の歴史」によれば、明治44年芭露部落より行政措置が分離して上芭露部落を創り、初代部長に上伊沢傅氏が就任したとある。
 一方、湧別町史の記載によると明治39年二級町村制施行により部制が定められ、テイネー以東は「19部」とされ、40年計呂地方面、志撫子以東21部に分轄され、上芭露方面は、明治41年1月10号線の仮校舎が開校され、同年5月13号に校舎が新築され、学校の独立を期として此の年12月12号線を境に部落の分轄が行われ、12号以南は20部と行政区画が定められたとある。
 従って、これはどちらが正しいのかは判断の分かれる処かも知れないが役場の資料はそれなりの根拠があっての事と思われ、41年説が正しいのではないかと思われる。 なお、部落の境は大正9年に1号線下がって「11号線に変更」になったとある。
 後に大正2年8月、22号線以南は東芭露に独立、西芭露も大正3年教授場の設置とともに西5線以西は西芭露となり、上芭露は現在の姿になる事となった。


三、教育の始まりと開基の決定  上芭露に入植が始まったのは、明治34,5年と言われており、明治41年には約38戸の入植者を数える様になり、芭露迄の通学にな難渋していた為、上伊沢傅氏の住宅を借り受け簡易教育所が開かれたと、「郷土のあゆみ」にある。
 開基の決定は昭和32年、開基50周年記念事業が行われたがその時、上芭露の始まりを入植者が初めて入った明治33年にすべきか、教育所の発足に合わせて明治41年にすべきかで議論になった経過がある。
 当時の区長、和泉達三氏を中心に真剣に検討が重ねられた結果、芭露から独立して20部となり行政上も独立した事であり、当時の住民が熱望した学校が設置された年を開基と定める事に当時の役員一致の中で決定された。
 上伊沢氏の住宅は、黒田実氏の記憶によると、黒田志の住宅から約2百m位以南、伊藤清氏の住宅の道路向いあたりと思われる。
 又、此の簡易教育所の先生には松尾伝吉先生、4月からは越智頼義先生があたられた。 (越智先生は現在の芭露自治会長、豊氏の祖父である) 簡易教育所が明治41年5月に新築された経過は詳しく「郷土のあゆみ」に記されているので、此処では簡単に述べるのみにするが、13号の学校は現在種馬所の所で道々の西側、少し小高い所にあったと思われる。 ここで大正5年16号線の高台に移転するまで、約8年間子弟の教育が行われた。 此の時期の先生の移動は詳しい記録はないが、次の通りである。
明治41年   松尾 傅吉
  越智 頼義
明治44年   貝瀬
  島田 梅十
明治45年   塩川 幸太郎
 大正2年3月に上芭露尋常小学校となり、それ以降の校長、教師の移動の状況は 「郷土のあゆみ」に記されているので省略する。
 この頃から16号線高台の時代は約35年間、昭和27年から平成3年までは現在の公民館のある場所に移り、併せて84年間、常に子弟の教育に心魂を傾け、前自治会員が一致協力して来たが、子供の数が時代を反映するバロメーターであり、日本の農村を襲った過疎化の現象は止まることを知らず、遂に平成3年閉校となったのである。

四、部制から自治会まで イ、部制度
 湧別村の発足当初から各地区は部制が行われており、明治43年の上湧別村の分村で大きく縮小した。 下湧別村では行政措置として、部長制に基づく区画改編が行われ、村内を12部に分画した。 上芭露は10部になり、大正2年に現在の東芭露、西芭露の分画があったので、初代部長に就任した、上伊沢傅氏以降、長屋藤助氏迄は東・に昭和射場地区を含めた部長であった。 尚、部長は支庁長の任命であった。

ロ、区制度
 昭和2年8月に二級町村制度の改正があって区長制が採択され、区長は町村長の推薦した者を町村議会が決定する事に改正されている。
 次いで昭和3年にそれまで、部と呼ばれていた制度を字名に変更する決定がなされ、上芭露区と呼称される様になり、従って区の代表者を区長と呼ぶ様になり、江島亀吉氏以降の方は区長と呼ばれている。

ハ、隣保班制度
 昭和15年8月に「部落会町内会整備要領」が出され、それまで区長のもとに編成されていた区組織が改編され、徹底した戦時行政浸透のため、部落会、町内会の下にさらに通称「隣り組」といわれた、隣保班が設置され、貯蓄増強、公債消化、金融回収、物資配給、防空訓練、各種指示通達、等区長や班長の心労は大変なものであった。
 昭和18年8月、戦時体制を強化する為に区長制が廃止され、新たに部落会、町内会が組織され、これを統轄する連合部落会町会制がとられる様になった。 更に従来独立していた衛生組合、火災予防組合、森林防火組合、道路河川保護組合、納税組合を吸収合併してそれぞれ連合会の部とした一元体制が取られる様になり、部落会の長は区長から「部落会長」と呼ばれる様になった。

二、 部落会町内会の解散
 昭和22年3月、村行政の末端組織として太平洋戦争中、連絡中継の役目を果たして来た「隣保班」部落会、町内会は戦争遂行の協力組織であるとして、占領政策により解散廃止が通達され、同年5月31日を以て消滅する事になった。

ホ、駐在員の配置
 昭和22年当時は、まだ生活物資の配給や行政改革の通知など、住民に直接関係する業務が多く、末端機能を欠くことは住民の福祉に著しく反する事から、村内各地区毎に駐在員を配置することとし、適任者を選んで6月1日付を以て任命した。 名目は駐在員となったが戦時体制への協力はなくなったとはいえ、戦後の混乱の時代で仕事は多岐にわたり、大変な任務であった。

ヘ、行政区新設置
 戦後の混乱期に村行政のパイプ役として活躍した駐在員の任務も、民生の立ち直りと社会の安定が進んだ事により、昭和33年8月に「区設置条例」が設定され、駐在員制度は廃止され、区長制が設けられた。
 区長は、区域内の諸般の事項について町の諸機関との連絡調整にあたると共に他地域との協調を密にして町の健全な発展に寄与するものとされており、再び区の代表者の呼称は「区長」となった。

ト、自治会制度への移行
 昭和63年になって、それ迄の区制度は上意下達的な性格をもっており、戦後民主主義の根幹となるべき住民意識はその行政組織の末端となる「区」中に於いてこそ自主、自立の精神が生かされなければならないとの議論が起こり、同年3月1日「自治会設置」条例が設けられ、同年4月1日から発行となった。 従って、それ以降の会長さんは「自治会長」と呼ばれる様になっている。
 然しその後の自治会運営を見ると依然として「区」時代と大差なく財政的にも大きく町に依存しており、自主、自立の精神が生かされているとは言えない。 今後の町財政の状況を考える時、大きな変革が必要とされているところである。


◆部長から自治会長まで◆
 ◎ 部長時代
明治41年〜  上伊沢 傅  伊藤 万平  高橋時太郎  
 長屋 藤助
 上田 金松  小山 春吉  森田 為市  
 野原 岩作  三木 武吉  中山 雄吉
 野原 小作  上田 金松  田中徳太郎
 清野兵五郎  遠藤辰三郎  野原 小作
 青山 観吉  上田 金松  野原 岩作
 今尾 為吉
 ◎ 区長時代
昭和 3年〜  江島 亀市  小山 春吉  宇和野益治
 野原 岩作  島田和三郎  野原 岩作
 黒田 弥平  佐々木雄之進  小山 春吉
 福永 栄助  横山 清一  高島千代吉
 宇和野益治  宇和野春治  井上  秀
 上田徳次郎  井上  秀
 ◎ 部落会長時代
昭和18年〜  青山 崎重  長沢 政市  島田和三郎
 恩田 林作
 ◎ 駐在員時代
昭和22年〜  福永  章  伊藤清太郎  後藤徳三郎
 恩田 林作  長谷川清治郎  遠藤 孝吉
 加茂 武雄  加茂 武雄  和泉 達三
 和泉 達三
 ◎ 区長時代
昭和33年〜  長谷川兼松  高木 喜助
 日下 通平(4年間)
 藤根 正重(8年間)
 上田 健治(12年間)
 福原  保 (4年間)
 ◎ 自治会長時代
昭和63年
平成 8年
平成14年
平成15年
平成16年
 福原 保   (8年間)
 中西喜久雄(6年間)
 中川 藤雄 (1年間)
 安彦 英則 (1年間)
 井上  剛 (現 在)

第2章 行  政
opへ 一、平成3年以降の自治会  平成3年小学校廃校という事になり、かねて地域の人口の減少から予測されていたとは言え、自治会の運営には大きな問題が残った。
 それまで総ての行事は学校中心であり、子ども達の参加が総ての自治会行事の活力になっていた事は歪めない事実であったからである。
 平成3年までの自治会の動きは「郷土のあゆみ」に詳細に述べられているので、ここでは、それ以降の自治会がどの様にして今日まで運営されて来たか基本的な考え方を野辺ながら検証してみよう。
 一、公民館を建設し、公民館を中心とした社会活動を展開する。
 一、もう民間活動委員会を設置し、運営資金の円滑な利用を計る。
 一、老人会、婦人会のほか、出来るだけ多くのサークルの結成を促し、その活動の活発化を計る。
 一、公民館の利用を高め、町内の類似施設中、第1位を目差す。
 以上のような考え方を基本に、総ての行事は自治会長を中心に各役員が結束して事に対処して行く習慣が自然のうちにじょうせいされ、戸数、人口の減少にもかかわらず、公民館の利用状況は常に町内トップの位置を占めて来ることが出来た。
 然し、開基100年を迎える今日になって時代の推移は、こうした山村にあまりにも冷たく、自治会戸数も50戸を辛うじて維持している状況にある。
 かって繁栄した上芭露市街はその面影はなく、高齢者と呼ばれる老人世帯が多く将来に多くの不安をかかえているが、今は懸命に前に向かって自治会活動を進めている状況にある。


二、公民館の建設  平成2年3月に自治会に於いて、平成3年3月を以て上芭露小学校が芭露小学校に統合する事になり、自治会として閉校式の準備と同時に、閉校した跡地に新たに公民館を町に建設してもらうべく強く運動を展開して来た。 平成2年の6月には他の自治会の公民館の施設調査を実施し、9月に自治会長を長とする公民館建設委員会を立ち上げた。
 建設委員会で慎重に新公民館の設計について協議を重ね、先ず町教育委員会に代表が数回出向いて要望と協議が重ねられた。
 平成3年に入り、3年の予算に間に合わすべく1月の24日には町長に具体的に新公民館の内容を説明、特段の配慮を以て公民館を建設されるよう要望した。 町も基本的には閉校の条件として新公民館の建設は既定の事柄であった為、町長から間取りの一部についての質問はあったが、平成3年度中に建設する事が了承された。
 5月には公民館建設委員会を公民館新築推進委員会とし、諸般の対応にあたる事とした。
 新築工事は、木造平屋建1棟
 ・面 積     571、76u
 ・工事費     99,910.000円
 ・竣工年月日 平成3年11月10日
 ・竣工業者   西村・長谷川一般共同企業体
 以上の結果、6月初旬より光治に取りかかり11月24日までに新備品の納入も終了して無事新公民館は完成し、自治会会員全員、役場関係者、建設業者等、多数の来賓の出席をいただいて新築落成祝賀会が平成3年12月14日盛大に行われた。
 尚、この公民館の舞台幕、放送設備一式、照明設備等は、自治会が負担する事になった為、自治会では特別会計を引き当ててこれ等の購入に充てた。
 この特別会計のお金は、上芭露学校林の代金の残金である。
 又、請負業者の西村組から20万円の寄付があった。


三、上芭露地区公民館環境整備庭園造成事業  小学校の校舎を取り壊した跡地に公民館が建設され、その周辺の整備をどうするかという事になり、小学校の前庭を再整備し、閉校記念碑を中心に簡素な庭園に知る事に案がまとまり、町の助成を頂き、造成責任者を梅沢三郎氏に依頼し、平成4年の春工事で立派に完成された。
四、パークゴルフ場の造成  立派な公民館は出来たものの小学校の敷地は広く、校舎の取り壊した跡地はそのまま放置して置くと雑草が繁茂する恐れがあった。
 そこで自治会は種々協議の上、パークゴルフ場を造設しようという事になり早速、町に要望する事になった。
 その頃パークゴルフは一つのブームになっていて、各町村でも立派なゴルフ場が出来ていた。 湧別町では運動公園の周囲を利用して、間に合わせのコートはあったが本格的なものはなかった。
 上芭露から湧別までの距離は遠く、小学校の跡地の管理や地域の住民の健康や交流の場としてその必要性を認め、平成4年の予算を持って造成する事が決定された。
 尚、平成15年になって、小学校時代のグランドはソフトボール等に利用する為グランドの状態で管理がなされて来たが除草も大変であり、ソフトボールにも殆ど使用する事はない為、パークゴルフ場にすべく町に芝の種子を購入してもらい協同作業で造成がなされた。
 現在は柴の草生も良く、9ホール、2コースの立派なパークゴルフ場になって多数の人々に利用されている。
 尚、パークゴルフサークルの事については、第5章社会のサークル活動の中に記されている。


五、班編成の推移  上芭露自治会の資料によれば、昭和48年当時百31戸の住民が11班に編成されていたものが、急激な社会の変化によって、約30年の間に現在は50数戸が4班に編成されている。
 これは農家の後継者不足や老齢化による離農、市街地の小中学校の廃校によって住民の移動、商店の移転等によって人口は大幅に減少になった。 この間、農家1戸当たり経営面積は飛躍的に増大したが、後継者不足の状態は解消されておらず、高齢化世帯が多く更に大きな減少が見込まれる。
 昭和40年代の半ばから今日に至る人口と班編成の推移は上芭露の自治会の変化を如実に表している。 その跡をたどってみた。

◎ 昭和48年当時の自治会員と班編成の状況は次の通りである。

1 班 2 班 3 班 4 班
高木 喜助
黒田  實
安彦 英則
伊藤  清
伊藤 宗春
富永 君代
渡辺 永治
井上  剛
上田 幸定
越智 公久
加藤 作蔵
大村 仙吉
安彦 五助
  計13戸
 吉田 竹次
 三浦 単道
 和泉  正
 佐々木喜六
 福永  清
 渡辺 精護







    計6戸
 真鍋 武人
 江島国次郎
 工藤 定一
 稲垣 寿雄
 江島 末雄








    計5戸
 中西喜久雄
 矢崎喜美雄
 加藤  肇
 大塚辰次郎
 平井 悦治
 伊藤清太郎
 横山 清市
 多田 タカ





    計8戸
5 班 6 班 7班甲 7班乙
伊藤  宏
菅野 忍三
小坂  満
村井 庄司
藤田 清幸
名和 良三
千坂 房雄




   計7戸
 地山 善蔵
 猪股 武男
 三浦 正巳
 大橋 正一
 青木 清澄
 小林 勝見
 安彦小三郎
 上伊沢忠男
 長岡 義見
 谷口 マツ
 長田 洋之
   計11戸
 長岡 敏光
 福原 敏雄
 小林 セツ
 四木 ヤス
 横山 誠一
 高橋 光夫
 後藤徳三郎
 金沢金重郎
 野原  信
 福永  太
 沢辺市太郎
   計11戸
 後藤 革光
 加藤 尊司
 笹田 征利
 小林 清春
 今野 誠司
 安立 中之
 高橋巳之松
 出口 幹芳
 根布谷健一
 藤原 春巳

   計10戸
8 班 9 班 10班 11班
森田 泰市
井上 良夫
梅沢 三郎
金井  潔
中村 好美
村井  繁
小林 勝義
矢崎 次郎
岡田国太郎
鈴木みつえ
加賀美芳夫
中村 好美
中谷  清
三浦 義治
佐々木早苗
熊田 福松
横山吉太郎
吉田 重義
成田 賢一
為広 準一
  計20戸
 今尾  栄
 日下 通平
 三浦 寿章
 高島 三郎
 吉田 きく
 遠藤 広吉
 小泉 美春
 野原 義雄
 藤根 湧治
 加茂 義成
 加茂  武
 志筑  潔
 福原  保
 森谷 忠雄
 松永 長光
 柴田  猛
 二ツ森 要
 上田 健治
 伝住 直之

   計19戸
 三木 定夫
 東海林秀信
 中川 藤男
 野村 正人
 加藤 晴山
 八田 春雄
 太田清太郎
 東海林芳雄












    計8戸
 田中  実
 清野  宏
 青山 幸治
 清野 岩雄
 清野 初男
 長谷川 隆
 長谷川国夫
 那須野一雄
 那須野春雄
 永沼 暢男
 遠藤 省徳
 長岡みよし
 黒田 正晃







    計8戸
昭和48年上芭露部落戸数131戸
 昭和51年に山方面の3班が戸数減少したので8班と合併する事になり、21戸で新7班が結成された。
 従って自治会は10班編成となったが、戸数は55年当時114戸となっている。
 昭和57年になり市街地区の急激な戸数の減少から班編成を8班として編成替えが行われた。 この年の戸数は107戸である。

◎、昭和57年当時の自治会員と班編成の状況は次の通りである。

1 班 2 班 3 班 4 班
高木カメヨ
黒田  實
安彦 英則
伊藤  清
伊藤 宗春
越智 公久
渡辺 ハル
井上  剛
上田 幸定
  








   計9戸
 吉田 竹次
 大隅 政次
 三浦 修真
 佐々木喜六
 福永サワ子
 渡辺 精護
 和泉  正


  








    計7戸
 平井 悦次
 中西喜久雄
 加藤  肇
 梶沼 政雄
 多田 タカ
 横山 清一
 高橋巳之松
 直原オナヲ
 中山 勝義
 千坂 房雄
 伊藤  宏
 笹田 征利
 芳形 忠司
 小坂  満
 石井  勝
 新海 隆男
 高橋 光夫
 長嶋 光信
   計18戸
 猪股 武男
 三浦 正巳
 横山 誠一
 小林カネ子
 谷口 マツ
 安彦小三郎












    計6戸
5 班 6 班 7 班 8 班
野原  信
福永  太
金沢スエノ
長岡 義見
長岡 敏光
鮎沢 秀之
木村 恭子
福原 敏雄
小林 清春
三好 敏夫
沢辺市太郎
植松 葉子
加真田 稔
松田 茂昭
  





  計14戸
 青山 茂富
 小林 勝義
 森田 泰市
 高橋 昭司
 梅沢 三郎
 岡田国太郎
 加賀美芳夫
 安立 中之
 中村 好美
 工藤 定一
 鈴木みつえ
 江島国次郎
 真鍋 竹人
 三浦 義治
 中谷  清
 横山 コト
 村井  繁
 大野 博孝
 矢崎 次郎
 江島 末雄
   計20戸
 上田 健治
 福原  保
 森谷 忠雄
 今尾  栄
 日下 尚夫
 三浦 寿章
 高島 三郎
 吉田 瞬司
 加茂 義成
 加茂  武
 藤根 湧治
 野原 義雄
 小泉 美春
 二ツ森 要
 柴田  猛
 伝住 直之
 遠藤 広吉



   計17戸
 三木茂太郎
 中川 藤男
 東海林秀信
 長谷川 隆
 長谷川国夫
 遠藤 省徳
 黒田 正晃
 清野 岩雄
 清野  宏
 田中  宏
 長岡  勝
 青山 幸治
 東海林芳雄
 野村 正人
 那須野一雄
 那須野春雄




   計16戸
昭和57年上芭露部落戸数107戸
昭和57年4月班編成を行う。 10班を8班に編成替えした。
 更に、平成年間に入っても戸数の減少は止まらず、80戸台になったので自治会全体を6班に再編し、通常の業務に差し支えのない態勢が取られた。

◎ 平成4年当時の自治会員と班編成の状況は次の通りである。
1 班 2 班 3 班
黒田  實
安彦 英則
伊藤  清
井上  剛
上田 定幸
越智  信
渡辺 ハル
和泉  正
三浦 修真
渡辺 精護
大隅 政次
佐々木喜六
吉田 竹次
  

  計13戸
 中西喜久雄
 梶沼 政雄
 加藤  肇
 高橋 光夫
 高砂 高志
 千田 春雄
 三浦  栄
 笹田 征利
 道原 和幸
 千坂 房雄
 高橋巳之松
 伊藤  宏
 鳥山 憲一
 佐竹 久男
 多田 タカ
   計15戸
 加真田 實
 長岡 義見
 福原 敏春
 小原 修一
 安彦小三郎
 山沢  稔
 岩崎  忠
 須藤 光春
 中原 明生
 沢辺市太郎
 鈴木みつえ
 猪股 武男
 三浦 正巳
 横山 誠一
 小林カネ子
   計15戸
4 班 5 班 6 班
青山 茂富
森田 泰市
横畠 忠夫
梅沢 三郎
加賀美芳夫
江島国次郎
真鍋 竹人
江島 末雄
湯浅 健治
村井  繁
矢崎 次郎
横山 コト




  計12戸
 上田 健治
 福原  保
 森谷 忠雄
 今尾  栄
 日下 尚夫
 三浦 寿章
 吉田 瞬司
 遠藤 広吉
 野原茂利雄
 藤根 湧治
 加茂 義成
 加茂  武
 柴田  猛
 高島 三郎
 伝住ナツエ
 二ツ森 要
   計16戸
 三木茂太郎
 中川 藤男
 東海林義幸
 長谷川 隆
 長谷川国夫
 遠藤 省徳
 黒田 正晃
 清野 岩雄
 田中  宏
 長岡  勝
 青山 幸治
 野村 正人
 清野  宏
 那須野春雄
 那須野一雄
 東海林芳雄
   計16戸
平成4年上芭露自治会戸数 87戸
 それから10年、高齢化の波は更に大きく、現在は50数戸を4班の編成によって自治会の活動が行われている。
 戦後、昭和27年頃には180戸を数えた自治会も時代の荒波に抗する事もできず、全国的な山間僻地の傾向と同じく過疎地と言われる状況になっている。

◎ 現在の自治会員と班編成の状況は次の通りである。

1 班 2 班 3 班 4 班
黒田  實
安彦 英則
菊地 得典
井上  剛
上田 定幸
佐々木喜六
渡辺智逗子
三浦 修真
  













   計8戸
 中西喜久雄
 長岡 義見
 高橋 光夫
 長岡  勝
 金子 至弘
 笹田 征利
 渡辺 律子
 三浦 正巳
 宮原  一
 酒井 聖二
 猪股 武男
 二ツ森 要
 青山 信孝
 森田 泰市
 梅沢 三郎
 鈴木みつえ
 江島ハルエ
 真鍋  仁
 小林カネ子
 福原 敏春
 岩崎  忠
 野村フジ子
   計22戸
 上田 一義
 福原  保
 森谷 忠雄
 今尾  栄
 三浦 孝司
 吉田 舜司
 遠藤 広吉
 野原茂利雄
 藤根 湧治
 高島ゆきえ
 加茂  武











   計12戸
 三木繁太郎
 中川 藤男
 東海林義幸
 長谷川 隆
 長谷川国夫
 遠藤 義美
 黒田 正晃
 清野 岩雄
 清野  宏
 那須野静子












   計10戸
平成17年上芭露自治会戸数 52戸

六、上芭露選出議会議員
(平成3年以降)
 長谷川 隆

 昭和50年4月〜平成15年4月まで  7期  28年

 上田 定幸

 昭和62年4月〜平成15年4月まで  3期  12年

 中川 藤男
 平成15年4月〜現在           1期   4年
七、歴代自治会長
()平成3年以降
 福原  保
  昭和59年4月より平成8年4月まで  6期 12年
 中西喜久雄
  平成8年4月より平成14年4月まで  3期  6年
 中川 藤男
  平成14年4月より平成15年4月まで 1年
 安彦 英則
  平成14年4月より平成15年4月まで 1年
 井上  剛
  平成15年4月より             現在

◎ 自治会長の仕事
 自治会長は、開基以来百年の間に部長あるいは区長と呼称は変わったが上芭露では実に50人の方々がその任に当たられた。
 自治会長の仕事は、役場の連絡調整、緒会議への出席、自治会内の諸行事の立案実行等、その範囲は広く多岐に及んでいる。
 この責任があり困難な仕事をしっかり処理してこられた方々に改めて感謝しなければならないと思う。

八、叙勲褒章を受けた人々
(平成3年以降)
 長谷川  隆  (昭和2年10月24日生)
  勲五等双光旭日章  平成10年4月29日
 履歴の概要
  昭和
 17年旧制北海中学入校  19年海軍兵学校入校  26年農協青年部初代部長  31年教育委員拝命ー7年
 38年報国寺護持会長ー44年  38年農業委員ー15年  39年人権擁護委員ー44年(全道最長を記録)
 40年芭露農協理事ー12年  50年湧別町議会議員ー28年  58年保護司ー16年
 61年芭露農協代表監事ー6年
  平成
 7年湧別町議会議長ー8年  10年勲五等双光旭日章授賞

 清野  宏   (大正7年3月27日生)
  藍綬褒章
 履歴の概要
  昭和
 12年陸軍大演習に参加天皇の御親閲を受ける  15年陸軍航空隊入隊  20年8月復員  21年国勢調査員拝命ー53年  26年農協理事ー1期  29年トラクター利用組合結成・会計  50年神社神主  55年農民連盟委員長ー8年
  平成
 7年上芭露老人会長ー7年  7年湧別老人会連合会長ー8年  9年4月段寿褒章受章  12年社会教育委員ー1期

 黒田  実   (大正7年2月1日生)

  藍綬褒章

 履歴の概要
  昭和
 22年同窓会会長ー21年  22年統計調査員ー50年  31年芭露農協理事ー10年  38年教育委員ー7年
 46年議会議員ー8年  47年社会貢献賞  50年農業委員ー3年  61年乳検組合長ー10年
  平成
 13年老人会会長ー現在  13年藍綬褒章受賞  14年老人会連合会長ー現在

 福原  保   (大正11年4月22日生)
  藍綬褒章  
 履歴の概要
  昭和
 12年小学校卒業 営農  30年10月国勢調査員ー50年  30年農業センサス調査員ー50年
 31年芭露農協理事ー15年  46年代表監事ー6年  53年湧別町農業委員ー9年
 58年湧別町国民健康保険協議会委員ー22年  59年上芭露自治会長ー12年
  平成
 16年藍綬褒章受賞


九、自治功労者
(平成3年以降)
平成 2年
平成 3年

平成 4年
平成 7年



平成 8年


平成 9年

平成10年

平成11年


平成12年
平成14年
平成16年
平成18年
 井上  剛
 森田 泰市 
 安彦 稔幸 
 福原 敏春
 福原  保
 三浦 孝司
 井上  剛
 長谷川 隆
 福原  保
 中川 藤男
 長谷川 隆
 井上  豊
 渡邉智逗子
 安彦 英則
 井上  豊
 井上  豊
 今尾  隆
 上田 定幸
 黒田  実
 井上  剛
 岩崎  忠
 井上 翔悟
青少年問題協議会委員 
消防団員
消防団員
消防団員
国民健康保険運営協議会委員
交通安全指導員
社会教育委員
社会功労 保護司
自治会長
農業委員
社会功労 人権擁護委員
体育指導委員
多額金品寄付
教育委員
消防団員
交通安全指導員
消防団員
議会議員
社会功労 湧別福祉会役員
全道高齢者剣道大会優勝
消防団員
スポーツ奨励賞
 12年5ヶ月
 12年8ヶ月
 12年6ヶ月
 12年
 12年4ヶ月
 12年4ヶ月
 12年6ヶ月
 12年7ヶ月
 12年
 12年
 32年9ヶ月
 12年6ヶ月

 12年5ヶ月
 12年5ヶ月
 12年10ヶ月
 12年
 12年
 12年

 12年
 

十、役場出張所  上芭露の役場出張所については、湧別までは遠方のため、戦後早くから置かれていた。 出張所には役場職員が常駐して、納税・印鑑登録・国保・年金・使用料・手数料・その他役場の仕事を行ってくれる様になって大変便利になっていた。 しかし、近年交付税等の減額が引き続き、役場では郵便局との契約によって平成18年4月から行うようになっている。
■ 歴代役場出張所職員(平成3年以降)
 竹中 英雄  平成元年〜平成7年まで
 山口 秋寿  平成7年〜平成14年まで
 柴谷 勇太  平成14年〜平成16年まで
 桑原 洋美  平成16年〜平成18年まで


年  表  topへ
年 度 上芭露自治会の年表 湧別町の年表
明治30 屯田兵第1次200名移住。 湧別戸長役場設置。
31 芭露の沢殖民地区画割実施。
35 芭露簡易教育所設置。
39 二級町村制施行。 戸長役場廃止。 湧別村役場設置。
41 上芭露は日露戦争の終結と共に急激に入植者が増加し、此の年1月学校分教所を設置する等部落が形成され、入植者35戸を数え此の年を開基開校の年とする。 北湧校焼失。 計呂置道路開削(11号まで)。
42 上芭露道路竣工東ノ沢23号と西ノ沢4線迄通ず。 芭露原野告示。
43 上湧別村を分村氏下湧別村と改称現在の区域に改まる。 6号線以南を上湧別村、以北を下湧別村と改称
44 芭露部落より分離し上芭露部落を創設初代部長に上伊沢傅氏推さる。 芭露原野(東西芭露)増区割。
45 7月30日明治天皇崩御され、大正天皇が即位され年号も大正元年と改まる。
薄荷の大豊作で値段も1組(320匁)15円となる。
天皇崩御、大正となる。 シブシ川沿原野貸付告示。
大正 2 大凶作が訪れ農家は疲弊した。 大凶作(霜害、風水害)による。
前年の凶作に主作薄荷値段2円50銭と云う安値で農民は経済的に困難をきたした。 第1次世界大戦。 計呂置原野区割。
湧別町に鉄道建設され、5年11月祝賀会が催された。
大干魃となり農作物枯死状態迄になった。 芭露郵便局開局。
湧別亜麻工場設立。
上芭露市街地に巡査派出所建設す。 初代巡査青田氏赴任する。 村貧困家庭救助規定定む。
拓殖補助医師、沢本利之助氏赴任する。 湧別川氾濫被害多く堤防施行の声起こる。
上芭露校庭に御真影奉置所を新設する。 工費600円。
部落寄付による。
村区域12部に変更。
10 上芭露郵便局(無集配)設置さる。 初代局長渡辺精司氏就任。
名寄線開通する。 西芭露道路4線より奥地に開通する。
大町桂月来湧、サロマ湖の砂州を竜宮街道と命名。
11 上芭露国有種馬所設置さる。 大霜害。 客用自動車運行。
12 5月拓殖補助医師、菅原通之助氏着任さる。 関東大震災起こる。 水害に見舞い。
13 小野寺医師赴任さる。 東分教所廃止。
14 芭露西の沢特別教授所尋常小学校に昇格。
15 上芭露病院の建築なる。 郵便局長更迭・渡辺精一氏任命さる。 湧別警察分署を湧別警察署と改める。
小学校に青年訓練所併置。
昭和 1 大正天皇崩御により、昭和天皇即位12月25日より年号昭和と改まる。
薄荷検査発令さる。 検査員長谷部好吉氏、検査院藤根正重氏委嘱さる。
郵便局集配局に昇格する。 11月遠網線建設運動をする。
委員に宇山三平、島田和三郎、小山春吉の3氏。
部を区と称し、部長を区長に改める。
上芭露消防組創設。 組頭横山武一氏、上芭露消防番屋設置する。
11月御大典奉祝行事を行う。
計呂地、湧別産業組合結成される。
下湧別、上芭露間に初めて乗合自動車を遠藤氏によって運行される。 サロマ湖開削。 村内区名を字名とする。
電信電話期成会誕生、会長島田和三郎、副横山武一、庶務会計には
渡辺精一氏の3氏選任される。
大不況深刻となる。 湧別消防番屋新築。
消防団長横山武一氏退き、小林定次郎氏選任される。 冷害大凶作。 湧別火葬炉設置。
大凶作来襲、農民は極度に疲弊する。 薄荷組16円下る。 石北線全通。 遅霜。 大洪水あり。
上芭露地区計呂地産業組合に大挙して加入する。 湧別原野2号線道路開削。 大豊作。
10月西湧網線(中佐呂間)まで開通する。 産業組合上芭露支所開所、
支所長江島亀市氏任命。 医師武田幸治山形より赴任される。
湧別川築堤工事始まる。
10 8月大豪雨大洪水となり各地に被害多し。
8月上芭露郵便局に電信電話事務を取り扱う。
湧別・芭露産業組合合併、青年訓練所を青年学校に改組。
11 上芭露病院改築新装となる。 皆既日食。 西湧網線計呂地まで開通。
12 7月志那事変勃発する。 第1回動員下令で三浦、佐々木、高須藤根の4氏応召さる。 武田医師瀬戸牛に去る。 後任に安藤氏来る。 10月芭露神社拝殿新築落成する。 7月7日志那事変勃発。
13 6月国民貯蓄組合の結成。 道路保護組合の設置。
医師上杉栄治氏赴任する。
14 産業組合上芭露支所事務室、店舗落成する。 上杉医師去る。
消防分団長宇和野益治氏に変わり、高須郁男氏推さる。
15 5月医師稲熊篤氏赴任する。 霜湧別村一級町村制施行さる。
紀元2600年に因み神社にて記念式典挙行する。
一級町村制施行。
16 6月豪雨のため洪水各所に被害多し。
第1回の村葬執行、田中久之、阿部源次郎の両氏。
12月8日大東亜戦争に突入する。
12月8日太平洋戦争起きる。 町内会、部落会結成。
17 5月ポント浜にて機雷爆発死者108名、上芭露出身者22名、消防分団長高須氏殉職し後任に伊藤清太郎氏推さる。
上芭露に忠霊塔建立せらる。 村有地会報さる西3線以南23戸。
ポント浜にて機雷爆発多数の犠牲者を出す大惨事発生。
18 8月下湧別村民体育大会、上芭露3位入賞。 衣料品も切符点数制で配給物資に不足を告げ、世は統制時代に入る。
19 2月下湧別村農業会設立さる。 軍用機下湧別号献納応募、部落割当金8.500円。 上芭露神社に大鳥居を建設する。 産業組合、農会統合し下湧別村農業会設立。
20 3月農業会が針葉油の採集に部落民の協力を求む。
8月15日電池式ラジオにて玉音放送終戦を知る。
電化期成会を創設会長に伊藤石松推さる。
太平洋戦争日本敗戦。 芭露市街点灯。
21 消防分団長に伊藤氏に変わり小山康雄氏選任せらる。
農村電化決定資材購入に伊藤石松、藤根正重両氏上京する。
22 神芭露部落点灯祝賀会を6月挙行。 隔離病舎建築される。
農業委員制度発令、農地委員横山吉太郎氏、吉田]吉氏、調整委員に藤根正重氏、日下通平氏選任さる。
全町にわたって電灯がつく。
23 農業協同組合法発令。 神芭露農協創立され組合長に福永章氏推さる。
芭露農協も神芭露に事務所を移す。
上芭露局電信電話事務取扱する。
東湧小学校設置。 湧別・芭露・計呂地・上芭露農協設立。
24 4月桜井医師上芭露に開業する。 8月小笠原正巡査転任。
12月有線ラジオ建設祝賀会を挙行する。
湧別〜遠軽間、中湧別〜東芭露間バス運行。
25 担当区主任更迭佐々木作助氏転任、菊地勝男氏赴任する。
斉藤金市巡査3月に着任する。
床丹部落、佐呂間村に編入。
26 上芭露消防団に自動ポンプ車購入披露式挙行。
農業3団体統合による新法令による委員に藤根正重氏当選する。
遠軽〜上芭露間にバス開通する。
27 担当区主任更迭菊池市転任、児玉初男氏赴任する。
10月巡査斉藤氏上湧別に転任、藤原義雄赴任する。
湧別公民館設置。 中湧別〜計呂地〜若佐バス運行。
28 芭露農協は26年上芭露農協を、亦計呂地農協を統合し戦後別れた農協の合併成る。 10月湧別町制施行し祝賀会挙行する。 町政施行。 湧別高校設置。 湧網線全線開通。
29 3月藤原巡査転任。 9月大山正信巡査着任する。
上芭露郵便局長渡辺精司氏退職、渡辺清三氏就任する。
消防番屋にサイレン取り付ける。
担当区更迭児玉氏去り門崎時雄氏就任。
芭露・計呂地農協合併、芭露農業協同組合となる。
国保芭露診療所開設。
30 5月湧別町長に村上庄一氏初当選就任す。
2期就任された大口丑松引退す。
31 新法による教育委員に長谷川隆氏選任せらる。
大凶作に見舞われ内地方面の救農物資を受ける。
部落に救農土木工事始まる。
湧別高等学校、道立移管。
32 4月稲熊医師大阪市に転出される。 消防番屋新築落成をする。
10月開基開校50周年記念式典を学校において挙行する。
湧別大橋完成。 登栄床漁港。 湧別漁港起工。
33 10月上芭露地区の団地暗渠排水工事事業は32年度より、4ヶ年継続事業実施施行された。 計呂地水道完成。 バロー川堤防着工。
34 山中保健婦死亡さる。
駐在所巡査遠藤清隆氏遠軽署に、後任鈴木源吾氏来る。
東筑水道着工。 乳牛2千頭達成。
35 西3線道路町道に認定せらる。
機雷殉難碑建設除幕式を挙行、碑石寄贈者加藤乙弦氏。
湧別中学校、葬改築工事竣工。
36 上芭露担当区庁舎新築落成する。 市街地水道施設完成する。
上芭露テレビ共同視聴組合設立。 施設完成聴取始める。
神社大鳥居奉納式挙行する。 観月橋永久橋となり、渡橋式に福永栄助氏3夫婦渡初す。
消防分団に自動車ポンプ新車配車となる。
湧別商工会設立。
37 渡辺局長私宅より失火局舎類焼する。
担当区主任更迭千葉浩氏着任。 聖明寺本堂新築上棟式挙行す。
上芭露局開局40周年並に新築落成式典挙行する。
10月上芭露巡査駐在所新築落成式施行する。
信部内中学校、湧別に統合。 遠信湧別支店開業。
38 役場出張所長小山康雄氏死亡、後任に小林清春氏就任。
トラクター利用組合長に福永章氏推さる。
郵便局長渡辺清三氏恵庭局に転任、川本正雄氏着任す。
上芭露に乳牛百頭祭挙行。
湖陵中学校着工。 志撫子中学校、湖陵中学校に統合。
39 上芭露〜志撫子間峠道路改良工事自衛隊田中隊により完成する。
旧番屋を改装して婦人青年の家として発足する。
9月末極度の大霜来襲し農作物に大被害を来し大凶作となる。
担当区更迭新任神野成徳氏。 救農土木工事砂利採集事業始まる。
計呂地中学校、湖陵中学校に統合。 農業・林業構造改善事業指定。
上芭露〜志撫子間道路、自衛隊工事で完成。
40 上芭露農協支所長に長田正雄氏着任する。
8月駐在所巡査鈴木源吾氏転任。 小樽署より山田与三郎氏着任す。
10月小学校長住宅新築落成する。
登栄床中学校、湧別中学校に合併。 湧別消防会館落成。
湧別町史発行。 湧別町森林組合チップ工事用落成。
41 担当区主任神野成徳氏生田原に、後任羽二生慎一氏着任す。
上芭露市街地の道路舗装工事竣工する。
救農土木事業20号線迄の道路工事竣工する。
農事組合を統合団結。 8組合を共和、上芭露、共栄の3組合とす。
東芭露中学校、湖陵中学校に統合。 乳牛500頭達成。
日本繊維工業湧別工場閉鎖。
42 上芭露老人会寿倶楽部創設発会式を挙げる。 初代会長藤根正重氏。
西5線橋が永久橋となり松操橋と共に完成渡初めする。
清水町長来り湖陵中学校に統合問題で部落協議会を行う。
10月開基開校60周年記念式典を挙行、表彰式と祝賀会を催す。
開基85年・開町70周年記念式典挙行。
東地区農村集団電話設置。 林構事業終了。
43 中学校統合問題特別委員会度々討議。 公民館建設協議会発足。
上芭露郵便局長川本正雄氏留辺蘂局長に転任。 後任吾妻蔵民氏着任。
北海道開道百年記念道博天皇を迎え開幕する。
担当区主任羽二生慎一氏置戸に転任。 後任森谷治三郎氏。
湧別商工会館建設。 ホッコン湧別工場落成。
両湧別給食組合設立。 給食センター建設。
44 上芭露中学校廃校決定。 4月廃校式挙行す。
志撫子校旧舎2教室交付受け共同事業で取壊し、保育所新設の資材とす。
上芭露学校林の除草除伐に部落全戸の共同事業実施。
11月9日矢崎次郎氏住宅出火し全焼する。
計呂地、登栄床消防庫建設。
計呂地無水農漁家生活環境整備事業(水道完成)。
東芭露、志撫子小学校改築落成。
45 上芭露駐在所巡査長山田与三郎氏退職され小樽市に引き上げる。
上芭露特別母と子の家建設決定建築委員に吾妻、藤根両氏委嘱。
10月11日特別母と子と老人の家落成式挙行される。
診療所新築の請願書出す。
過疎地域対策緊急措置法に基づき過疎地域に指定。
町営バス運行開始。 湧別〜東芭露間。
湧別中学校屋体完成。
46 芭露地区農業電話開通式挙行。 上芭露駐在所巡査岡本実氏着任。
上芭露保育所新築落成式挙ぐ。 道々舗装工事全部完成する。
凶作の為救農工事始め部落民出役。 消防番屋新築落成式挙行す。
担当区大林八郎氏。 大洪水で橋の被害多し。 病院新築落成式挙ぐ。
大町桂月歌碑登栄床サロマ湖畔に建立。
遠軽地区消防組合発足(7ヶ町村)。
47 学校林除伐共同事業実施する。 冬期オリンピック札幌市で開催。
佐藤、ニクソン会談で沖縄返還決定す。 佐々木しづえ保母退職。
岡本巡査遠軽署に転勤する。
北見バス路線廃止問題で上、東、西各会議する。
湧別町管轄区内電話自動化なる。
東湧、登栄床、湧別小学校に統合。
湧別町総合計画策定、第2次林業構造改善事業指定。
48 3月湧別公民館620平方米全焼、損害1800万円。
吾妻蔵民局長沙留局長に転任、後任成田賢一氏着任。
湧別中央公民館及び湧別小学校新築落成式挙行。
12月19日湧別公民館落成祝。
湧別公民館一部焼失。 湧別統合小学校開校。
スクールバス東湧〜登栄床運行。 湧別中央公民館竣工。
49 上芭露巡査駐在所存置陳情す。 5月25日駐在所閉所さる。
消防団ジープ型ポンプ車入魂式。 担当区大林氏変わり村井庄司氏着任。
上芭露墓地樹木伐採環境整備なる。
北海道自然条例に基づき「シブノツナイ沼」指定。
サロマ湖に流氷流入被害甚大。
50 神社所有山林売却する。 金井潔獣医心不全にて逝去。
上芭露3町議誕生、黒田実、矢崎次郎、長谷川隆、3氏。
農水産加工場、湧別産業株式会社建設さる。
東芭露簡易郵便局閉鎖。 武道館・郷土館竣工。
老人バス無料化実施。
51 担当区村井氏転任、馬場利男氏着任。
上芭露に道営住宅2棟8戸建設さる。
湧別大橋歩道橋完成。 湧別常設保育所竣工。
52 上芭露神社土台基礎整備工事施す。
上芭露老人会創立10周年祝賀会催す。
湧別町林業研修センター竣工。 湧別町総合体育館竣工。
芭露診療所新築落成。 東芭露小学校芭露小学校に統合。
53 上芭露局区内電話自動化される。 湧別産業倒産。
役場庁舎新築落成。
農業委員、高島三郎、福原保、長谷川隆、3氏。
湧別農協農機具修理施設完成。
湧別町役場庁舎完成(総面積2.787・2u)、乳牛1万頭達成。
畜産センター・ファミリースポーツセンター完成。
54 町議会改選、矢崎次郎、長谷川隆両氏。 牛乳過剰時代に入る。
担当区馬場利男氏転出、後任遠藤貞氏着任。 寿の家新築。
かおる保育所完成。 湧別町葬祭場完成。
55 農協役員改選、理事、眞鍋武人、井上剛、監事藤根湧治、3氏。 錦水産種苗併給施設(養魚場)完成。
志撫子小学校、芭露小学校に統合。
56 郵便局、成田賢一氏転出。 大野博孝氏着任。
農業委員中川藤男、福原保両氏。 西3線、17号線舗装完成。
登栄床漁港完成。 湧別漁業協同組合事務所完成。
湧別町営プール完成。 湧別町森林組合発足。
57 湧別町開基百年。 豊作。
担当区、遠藤貞氏転出、芳形忠司氏着任。
湧別町簡易水道工事施設着工(上湧別と共同)。
58 町議会改選、矢崎次郎、長谷川隆、両氏。
農業役員改選、理事井上剛、上田定幸、監事藤根湧治、3氏。
開基百年式挙行、町民憲章制定。
湧別川1号橋架橋工事に着手。
59 農業委員中川藤男、福原保、両氏。 西3線、17号千舗装完成。
担当区、芳形忠司氏転出、加茂宮雄氏着任。
郵便局大野博孝氏11月死亡。 芭露局長兼務。
湖陵中学校新校舎完成。
60 郵便局、湯浅健治氏着任。 11月局舎新築完成。
佐竹木工場、湧別産業跡地にて操業開始。
皇太子(現天皇)御夫妻来町、町民こぞって送迎す。(豊かな海づくり)
ファミリー愛ランドYOU開園。
全国豊かな海づくり大会登栄床漁港で開催。
皇太子殿下、同妃殿下出席。
61 農協役員改選、理事、上田定幸、黒田正晃、監事長谷川隆、3氏。
町教育委員、安彦英則氏選任。
農協本部事務所新築完成。
国鉄民営化JR、湧網線廃止。 道路拡幅。
湧別野球場完成。 芭露農協事務所新築落成。
湧別町振興公社発足。
62 町議改選、長谷川隆、上田定幸、両氏。
農業委員中川藤男、上田定幸、両氏。 農産物自由化反対運動。
担当区、加茂宮雄氏転出、菅野勝四郎氏着任。
計呂地小学校、芭露小学校に統合。 国鉄湧網線廃止。
ごみ焼却場完成。 町民運動公園完成。
63 神社大鳥居完成(野原信氏寄贈)。 豊作、小麦史上最高収量。
64 昭和天皇崩御、1月8日より年号が平成となる。 湧別中学校校舎改築。 湧別町第3次総合計画策定。
平成 元 役場出張所、小林清春氏退職、役場出張所長竹中英雄氏着任。
農協役員改選、理事、上田定幸、黒田正晃、監事、長谷川隆、3氏。
特別養護老人ホーム(湧別オホーツク園)完成。
定期総会に於いて小学校閉校に決定。
10月12日現天皇即位の礼。
閉校実行委員会発足。
遠軽地区共済組合広域合理化。 大型麦乾燥調整施設完成。
消防庁舎完成。 西芭露小学校芭露小学校に統合。
3月16日、小学校閉校式、お別れ会。
閉校記念碑建立、タイムカプセル埋蔵。
記念誌「84年の学窓・郷土のあゆみ」発行。
4月、校長、教頭、他3名の先生見送る。
湧別町議会選挙、長谷川隆、上田定幸、両氏。
小学校解体処分。
新公民館完成。 12月14日落成祝賀会。
12月25日、保育所お遊戯会(初舞台)。
ふるさとセンター完成。
機雷殉難の塔建立。 湧別卸売市場落成。 乳牛2万頭達成。
パークゴルフ場完成。 盆踊りの櫓、和泉正氏寄贈。
上芭露ごみ捨場廃止。 9月、19号台風、床下浸水2戸。
11月、民生委員、黒田房子退任、三浦昌子新任。
開基百十年記念事業に社会人野球大会開催。
湯浅局長転出、渋谷局長着任。
パークゴルフサークル設立、初代会長長谷川隆氏。
8月25日パークゴルフ場オープン記念大会。
台風10号・17号本道を直撃、道路河川に被害。
高齢者生活福祉センター落成。
屋内ゲートボール場(スパーク)落成。
サロマ湖100kmウルトラマラソン世界大会開催。
3月、役場出張所町竹中英雄氏転出。 山口秋寿氏着任。
湧別町長選挙、加藤貞夫氏当選。
町議会選挙、長谷川隆、上田定幸、両氏。 議長に長谷川隆氏。
7月、参議院議員選挙。
湧別川河川パークゴルフ場供用開始。 女性消防団結団式。
緑地等管理中央センター「レイクパレス」落成。
芭露・東両自治会開基百年記念式典開催。
中西喜久雄氏自治会長に選任。 5月、墓地道路残余部分舗装完成。
10月、衆議院議員選挙。
湧別町文化センター「さざ波」落成。
図書館落成。 生きがい就労センター発足。
民生委員、三浦昌子氏選任。 16号沢川着工。
墓地管理費を転出者で墓地に墓のある方より徴収、除草剤の散布を始める。
11月、上芭露老人クラブ30周年記念式挙行。
12月、上芭露保育所閉所式。
湧別町第3次教育中期計画策定。
登栄床開基80周年記念式典。
登栄床漁業集落排水施設供用開始。
10 長谷川隆叙勲祝賀会。
7月、渋谷局長湧別に転出、平野局長着任。
9月、台風15号で大洪水となる。 藤根、中川家公民館へ避難。
保健福祉センター落成。 芭露消防分団車庫・団員詰所完成。
台風5号、7号により災害発生。
11 町長選、加藤貞夫氏無投票当選。
町議会選挙、長谷川隆、上田定幸、両氏。 議長に長谷川氏。
社文委員長に上田氏。
湧別町、ニュージーランド・セルウィン町と友好都市調印。
町道東芭露線道路幅拡張の為、立木伐採、オンコ移植。
両湧別町学校給食センター新施設完成。
資源ごみ分別収集開始。
12 ニュージーランド・セルウィン町友好都市提携。
13 湧別町一般廃棄物処分場完成。
6月、平野局長転出、酒井局長着任。
民生委員、三浦昌子氏退任、黒田正晃氏新任。
5月、チャレンジデー町内対抗2001で上芭露第1位。
東湧福祉の家落成。
移動通信用鉄塔施設完成。 上東西芭露方面供用開始。
湧別町一般廃棄物最終処分場完成。
合併処理浄化槽による水洗化事業開始。
14 自治会長に中川藤男氏選任。
市街、停留所兼トイレ完成。
役場出張所長山口秋寿氏転出、柴谷勇太氏着任。
5月、チャレンジデー町内対抗2002で上芭露第1位。
道々遠軽、芭露線市街の分、工事完成。 青山橋架替え。
湧別農協、芭露農協、畜産農協合併、 湧別町農協発足。
公共下水道一部供用開始。 終末処理場完成。
計呂地地区活性センター「かがやき21」完成。
計呂地開拓百年記念式典開催。
15 湧別町町選、奥谷公敏氏当選。
議会議員選挙、中川藤男氏。 自治会長、安彦英則氏選任。
湧別消防団上芭露分遣所新築落成。
5月、チャレンジデー2003で上芭露第1位。
11月、上芭露消防分遣所消防職員湧別本部に引き上げる。
16 自治会長、井上剛氏選任。
3月末、上芭露診医療所廃止。
役場出張所長柴谷勇太氏転出。 桑原洋美氏着任。
17 百年記念事業準備委員会編成。
18 10月7日・8日、大洪水となり、 長谷川、中川、三浦の3家公民館に一夜避難する。
神社改築。 10月12日落成式。
百年記念碑建立。 11月完成。
19 4月1日 記念碑除幕式。
4月1日 開基百年記念式典開催。
      同祝賀会開催。

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