愛の故郷   第9章  戦  時

昭和の小漁師
湧別町史
川西郷土史top


第1節 第1期 まえがき
    いまわしい戦争体験
 川西は過去100年という輝かしい歴史を歩んで来たが、本当に輝く
歴史であったろうか。 100年の長い道程の仲に、必ず話題になるのが、
不幸な出来事 「戦争」の記憶である。
 日本は明治維新によって世界の中の日本が、 いかにチッポケな国で
あったかを初めて知らされた。 外国に比べて軍事・文化・産業すべてに
劣っていることに目を開かざるを得なかった。 イギリス・アメリカ・フ
ランス・ロシア・オランダ等の国が通称を求めに来ても、知識のない為
政者(徳川幕府)はただオロオロするばかり。
 前記の主要国等は既に数百年前から地球上を自由に航海し、殖民地を
手に入れ、アジアの各地は主要国の植民地化していた。日本は島国の中
で多くの人口を抱え、如何に国を立ててゆくか、明治時代の考え方とし
ては、他の国を侵略して殖民地とし、そこに余剰国民を送り込むより手
がなかったのかも知れない。 そうしたことが 「征韓論」 となり、日清・
日露の戦争に結びついている。 幸いにして自国内の統一を欠いていた当
時の清国 (孫文等による革命) と露国 (レーニン等による革命)のよう
に自国の存亡がせまり、危険な状態になっていたために大国といえども
全力を尽くすことが不可能な情勢から、日本に敗退したといえるのであ
る。
 さて二大国に勝った日本は、世界の列強に伍して、大正年間 「シベ
リア出兵」 等、他国に干渉したのも自国の富国強兵政策に外ならず、知
らぬ間に世界の五大強国に祭り上げられていたのである。 昭和の初期
には自他共に認める軍事大国で、小学校の生徒でも将来は兵隊さんに
というのが普通のように、国民は馴らされた意識を持つようになった。
 この様な状態が照明されるように、歴代の総理を観ても明治以来、軍
人出身者がいかに多いかを観れば明らかだろう。
 そこで 「戦争」 に突入することになるが、永年培ってきた軍国優先を
改めることもならず、旗印に天皇を掲げ軍部の画策によって当然導かれ
た結論が 「戦争」 だと思う。昭和6年の満州事変、昭和7年の上海事変、
国内では5・15事件、2・26事件は首謀者の国粋主義と目される軍
部の台頭を圧える政治家がまず倒される運命にあった。 昭和12年の
日支戦争が起こるまでに既に国家国民の思想体制は概ね出来上っていた
と思われる。 こうして以降9年の永い 「戦争」 が起こされたのである。
 「戦争」 の様相や国内の体制などは町史はじめ各史実に詳細語られて
いるので、ここで長々と述べる必要もないので、一般的な理解を得るべ
き主要事項について述べ、川西関連事項に移りたい。
 ここで 「戦争」 を語る前に筆者なりに一応、分かりよく分類して説明を
加えたい。

一、第1期の主な出来事
昭和12・ 7・ 7  日中戦争始まる (鷺溝橋事件)
12・ 8・ 1  「進軍の歌」「露営の歌」 発表会
12・11・ 6  日・独・伊防共協定
12・12・13  日本軍南京占領、この年 全国各地で千人
  針・慰問袋・出征のぼり・小旗がよく売れる
13・ 4・ 1  国家総動員法公布
13・ 7・15  張鼓峰で日ソ両軍衝突
13・11・ 2  国際連盟脱退
14・ 5・11  ノモンハン事件、日ソ衝突
14・10・20  物価統制令実施
14・ 9・ 1  第2次世界大戦始まる(ドイツ・ポーランド)

二、兵役の義務  日本の軍隊は、日清戦争・日露戦争で一応の勝利により、漸次軍国主
義的色彩を強め、昭和の初期の不況期にも着々と軍備の増強を図り、特
に農村の青年は富国強兵の第一要員とされた。
 兵役・納税・教育は国民の三大義務とされた。 当時、満20歳になる
と徴兵検査を受け、甲種合格となると現役兵として万歳の声に送られ入
隊、2ヶ年間軍務に服し、満期除隊する。 その後予備役(7ヶ年)に編
入され、在郷軍人として有事に備え、その後は後備役国民兵として60
歳まで義務があった。 また乙種合格以下で現役入隊しない者も、補充兵、
国民兵として60歳までの義務があった。
 当時は甲種合格で入隊する事が名誉とされた。 しかし農村の労働力
の減退は大きかった。 日華事変が勃発すると検査基準を下げて増兵され
るようになり、太平洋戦争の戦局が悪化した昭和16年には徴兵年齢を
1年繰り下げ 「満19歳」 とし、国民兵を65歳まで延長した。 翌19
年には 「満18歳」 まで繰り下げた。 こうして、兵役についた軍人は明
治15年に出された 「軍人に賜る勅諭」 の 「我が国ノ軍隊ハ世々
天皇ノ統率シ給フ所ニゾアル」 に始まる長文は、天皇に対し絶対服従す
る事を第一主義とされ、軍人たる者の本文を示す5ヵ条で結び、長文の
勅諭の暗誦は兵士にとって大変な苦痛であった。
  一、軍人ハ忠節ヲ本文トスベシ
  一、軍人ハ礼節ヲ正シクスベシ
  一、軍人ハ武勇ヲ尊ブベシ
  一、軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
  一、軍人ハ質素ヲ旨トスベシ


三、在郷軍人分会  明治43年、帝国在郷軍人会規約を陸軍省が制定した事により、大正
元年に下湧別分会が出来て、分会長・武野明、副分会長飯豊健吾、川西
では理事評議員を置く事になり、班長2人が置かれた。
 分会は会の目的を軍人精神及び軍事能力の涵養に置き、壮丁の教育、
教育召集、簡閲、点呼への予備教育等が戦時中には大きく取り上げられ
た。 平時においても射撃大会、武道大会が行われ、川西班からも剣道で
野津不二三が御前試合に出場したほどの腕前であった。 また銃剣術では
掛橋清美が管内大会に出場、優秀な成績をあげた。 戦時中の川西分会の
活動は真に目覚ましい限りであったという。
 しかしながら、会員の中から続々と応召者を出し、また戦死者を出し、顔ぶ
れも漸次変わっていったが、銃後を守り生産を増強し、軍人精神の涵養に努
めた分会の目的は完全に果たされたというべきであろう。
 しかしながら我に利なく20年8月15日、終戦の詔書で同年同月22日、下
湧別在郷軍人解散式が行われたので、川西分会も同時に解散された。


四、出征兵士  日華事変の拡大さらに太平洋戦争突入と共に川西にも通称 「赤紙」 と
呼んだ召集令状が容赦なく舞い込み、 「出征兵士」 として多くの青壮年
が川西を後にした。
 区民や親戚の者が、こぞって配給の酒で壮行会を行い、湧別神社に武
運長久を祈願し、小学生から婦人会、青年団と地域のほとんどの人が見
送りをし、万歳と軍歌と日の丸の旗の波の中、湧別駅を汽笛と共に征途
についたのである。
 出征兵士に贈ったものに寄せ書きがある。 日の丸の旗に激励の言葉や、
武運長久を祈る言葉を筆で書いて贈り、たすきがけにした。 また国防婦人
会の人達は白布や日本手ぬぐいに、赤糸で千個の結び目を綴って(一人
一個ずつ) 贈るほどの白布に、日の丸が染めぬかれ、その下に筆太に
「祝出征○○○○君」 と大書きしたのぼりを見送りに景気をつけたもので
ある。
 こうして千人針の腹巻き、日の丸の寄せ書き、のぼりを背にして、いつ
帰還出来るかあてもなく、ただ一途に 「天皇陛下のためならば何の命が
惜しかろう」 と征途みついた。 一家の主柱や働き手を失った家は大変
な苦労であった。 軍国の母、軍国の妻と讃えられたが、戦争の悲惨さは
計り知れないものがあった。


五、戦争と銃後の守り  川西は畑作が主であったので、作付統制が行われ、麦類・エンバク・
亜麻・甜菜・馬鈴薯等・割当供出制のため、これを実行することがお互
い大変であった。 また生活物資の不足が大変で、米・塩・酒・タバコは
勿論、働くための作業衣、靴一足買うのも衣料の切符制で 「ほしがりま
せん勝つまでは」 の合言葉で頑張ったが、戦争ほど物資の消耗の激しい
ものはなく、厖大な軍需をまかなうために 「国民貯蓄奨励運動」 が行わ
れた。
 毎年貯蓄強調月間が制定され、小学校・男女青年団・婦人会・町内会
等毎月積み立てを行った。
 この外にも 「愛国公債」 「国防献金」があり、地域ごとに半ば強制的
に各町及び区域に実績を競わせた。 また住民の気持ちをふるい立たせたの
がスローガンであった。 二、三あげると 「義勇奉公」 「滅私奉公」 「一億
火の玉」 「一億玉砕」など狂信的な氷原で国民の士気を鼓舞したのである。
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     100年語り草
            (その二八)・・・福祉
     郷土が生んだ偉大な人物
         ”宮田 翁”
 宮田慶三郎さんは、川西開拓早期に入植した高知県人宮田亀之助氏
の3男として明治39年川西で出生。 大正6年川西小学校を卒業した。
 宮田家の川西転出の詳細は知る由もないが昭和6年に現在の大阪歯
科医大を卒業し直ちに歯科医院を開業している。 よく見ると大正6年か
ら順調に上級学校を卒業せず色々社会的な多方面の学問をしながら医
学校を出られたように思う。 その後、金属関係の会社の研究員、更に工
場長などを歴任歯科診療の傍ら将来の基礎を着々と整えつつあった昭
和34年ふるさと川西に於いて会館建設を知り、当時としては大金の100
万円をポンと寄附されて大いに住民から感謝された。 200万円の工事費
の半分を負担されたのだから申すまでもない。 昭和45年に城西歯科大
学設立(昭60・明海大学とし一般学部増)
 昭和46年岐阜歯科大学設立(昭60・朝日大学と変更法学・経営学部増
設)するなど大学2校を設立し、外国との姉妹校など歯科のみならず広く
交流しながら別にのべる建学の精神を基礎として人材育成に献身された。
 高齢をいとわず現役の理事長をして寧目ない献身の日々である。
 この記念すべき100年にあたってもふるさとの慶事として祝福の意を
表されて御好意御厚志は長く忘れてならぬ人だ。
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六、戦争と家族の苦労  戦争の激化に伴い、あらゆる物資の不足と労力の不足は本当に厳
しいものであったが、終戦まで、馬ほど農民の為に貢献したものはな
い。
 毎日の仕事が馬と共に苦労を分かち合って来たのは農村の娘や婦
人達であった。
 また川西から現役兵や召集令によって入隊した者は、合わせて70
名(満州事変より終戦まで)の多数の大黒柱を戦争に送り出した。 残
された20歳前後の若者と、女、老人で銃後を守ったのである。


七、川西から軍隊に入隊した人々     (努めた年数は人により異なる)
岳上 広治   本間 資義   橋本 清吉  藤崎 豊次  今井  茂 
浅井 原作 桟    初 黒田  清 山崎 政一 岳上 秀雄
吉田 麗水 増田 熊雄 今井 秀八 釜神登志蔵 佐々木吉一
滝本  光 小笠原政治 堀部 秋夫 藤本 清治 伊藤  晃
滝本 房光 今井  定 出口 利雄 野津竜三九 岩佐 清一
鈴木 正雄 小川 清巳 尾崎 貞一 吉野 吉三 久平市太郎
谷岡 末隆 伊藤 誠司 佐々木利安 山崎 敏雄 鈴木 繁之
宮本 正好 湊    明 本宮 哲夫 大柳 武徳 掛橋 雅幸
山下 良雄 谷岡文太郎 小川 浅雄 吉田 隆春 増田 正雄
片岡 詮人 山下 義一 羽田  宏 佐々木 正 菅井正三郎
江澤 隆吉 佐藤 春之 山下 正雄 堀部 孝三 井上  廣
伊藤  務 今井 富雄 本間 喜八 宮本 尚明 友澤 市男
湊    巌 本間 義秋 大水 一男 大柳 勇市 伊藤 吉信
一ノ口定明 谷岡  茂 佐藤  進 鈴木  清 70名

第2節 第2期    topへ
主な出来事  
昭和15. 1. 3  紀元2600年祝賀式典
15. 4.24  米・味噌・醤油・マッチ・塩・砂糖切符制となる
15. 9.27  日独伊三国同盟調印
15.10.12  大政翼賛会発会
15.11. 2  国民服制定
16. 4.13  日ソ中立条約調印
16. 7. 1  全国の隣組一斉に常会を開く
16. 7.28  アメリカ在住の日本資産を凍結
16.12. 8  対米英宣戦布告
17. 4.30  翼賛選挙(衆議院候補者各区1名推薦)
17. 1.16  大日本翼賛壮年団結成
17. 2. 2  大日本婦人会結成(国防・愛国を統合)
17. 4.18  本土初空襲
17. 2. 1  衣料の点数切符制
17. 6. 5  ミッドウェー海戦で大敗
17. 6. 7  米軍アッツ・キスカ・ガダルカナルに上陸
17. 8. 7
 この時期には中国大陸の主要都市も制圧したので、長期戦に備えて対
米交渉をもったが、侵略意図を見抜かれて在来日本資産を凍結されるな
ど日本の資源不足は深刻なものになった。 そこで南方・東南アジアの豊
富な資源を手に入れる目的で対米英に宣戦を布告し、真珠湾攻撃に踏み
切った。 国内的にはいよいよ体制を引きしめ、来たから南まで陸に海に、
広い戦線を維持するために万全の方策を整えつつあったが、南方占領も
直ちに資源の補給につながらず、昭和17年、アッツ・キスカ・ガダルカナ
ルと米軍の逆上陸を許し、ミッドウェー海戦で大打撃を被り、さしもの日本
海軍も大きく敗退したのである。


一、軍   馬  明治27,8年の日清戦争で、本道から3.000頭余りが軍馬とし
て徴発され、戦勝の陰に大きな働きをしたことから軍馬の認識が高まっ
た。 陸軍での騎兵隊、砲兵隊そして輜重隊と、各兵科にとって馬の重要
性を高めた。 この需要を供給したのが農村であった。
 馬は兵器として、特に戦争では重要な役割を果たしたため、非常に大切
にされたものである。 昭和14年4月7日を愛馬の日と定めたほどで
あった。
 明治33年、野津幾太郎がオホーツク海岸附近を牧野経営の開設で、
大面積を土地付与の条件で取得すると同時に馬の導入を行った。 以後、
春4月頃から11月までの間、放牧で育成を図ったため、骨格の良い、
たくましい馬が育った。 これも大部分が海岸と湖畔にあって、夏は涼し
く飲料水から適度の塩分を摂取されるので理想的な条件の放牧が出来た
と思われる。
 本町で初めて軍馬の購買が行われたのは明治36年ともある。 米60キ
ロ6円位の時、馬1頭(2歳馬)50−180円で買い上げたという(町史)。
 当時の農家経済にとって、軍馬の魅力は大きかった。 昭和6年満州事
変に突入するや、急激に戦争は拡大し、軍人の犠牲者と同じく、馬にも
多くの犠牲馬が続出した。 その補充のために次々と軍馬の買上げが行
われた。
 買上げ馬は2歳馬であるため、3,4歳までは軍馬補充部(軍隊の一機
関)が指定する牧場で管理育成してから戦場または国内の部隊で使用して
いた。
 昭和7年志那事変が始まり、ますます軍馬は不足し始め、育成してい
ては間に合わず、すぐ戦力として使用できる農耕馬を、徴用という形で
軍馬補充部が買上げを行った。
 買上げられた農家では、名誉といって祝宴を催して近所の人に振る舞っ
たほどで、馬の引き付け時には出征兵と同様にのぼりを立て見送りをし
た人もいたほどであった。
 徴用馬は値段が高いため、農家所得に占める比重は非常に大きかった。
しかし一面では、子馬の時から手しおにかけて育て、家族同様可愛がっ
てきた馬の中で、一番優秀な馬を手放す農民の胸の内は複雑であったが、
それでもお国のためと皆んなが耐えしのんだのである。


二、勃発した機雷の悲劇     機雷の犠牲者
 昭和17年、湧別海岸のワッカ寄りに浮遊機雷2個が漂着しているの
を住民が見つけ、通報された。 遠軽警察署では、これを安全な場所で爆
破除去するため、 5月26日昼間、ポント浜において千葉遠軽警察署長の
指揮により警防団員がロープをかけて、波打ち際より曳く者、押す者で、砂
山を越し、路上に達した時、突然大音響と共に機雷が爆発した。 11時30
分頃であった。
 一瞬にして署長以下警防団員、青年学校生徒、一般見学者合わせて2百
数十名が飛散、折り重なって倒れ、ハマナスの木には鮮血と肉片がさがり、
慄然たる光景になった。 遺体の収容所は劇場とされたが、運ばれる遺体は
次々と増し、小学校裁縫室、寺院等にも収容された。
 この大惨事の原因については、危険物に対する一般者も含む警察署な
ど当局責任者の科学的専門知識の浅薄さであろう。
 爆破実施については、学校及び近隣町村にまで連絡され、当日は臨時
列車も運行され、見学者の便宜も図られた。 また当日は好天に恵まれた
せいもあり、中湧別・湧別の国民学校生徒も列をなして現場に向かってい
た。
 爆発した時間が予定より早かったため、一般人も含む児童の到着が遅
かったのが不幸中の幸いであった。 また爆発現場には直径10メートル
くらい、深さ数メートルの大穴があき、広い範囲に死傷者の悲鳴とうめき
声で、地獄絵そのものであった。

 川西からは小谷幸一郎(警防団員)、早坂久松(一般住民)が死亡、6月
5日湧別小学校校庭にて合同慰霊祭が行われた。
 昭和18年に警防団員40名と村内犠牲者82名の霊を弔うため、村費を
もって発生現場ポント浜に殉難者慰霊碑が建立された。 昭和26年、湧別
神社境内に慰霊碑を移転、毎年6月15日の招魂祭に合わせて慰霊祭を
行っている。
  死者   112名   うち町内  82名   町外   30名
 傷者   112名   うち町内  80名   町外   32名

三、合同慰霊祭  昭和17年6月5日に、湧別書学校校庭において合同慰霊祭が執行さ
れた。 村内外からの多数の参列者があったが、その中に北海道長官・戸
塚九一郎、泉北海道警察部長、釧路検事局検事正、札幌鉄道局長代理、網
走支庁長らの参列のあったことは時局柄、事の重大さを物語っている(町史)。


四、殉職者慰霊祭  機雷爆発事故発生の翌年、警防団員40名を含めた村内犠牲者82名
の霊を弔うため、村費をもって発生現場ポント浜に殉職者慰霊碑が建立
され、一周年追悼祭が行われた。 碑には次のように刻まれている。
 
昭和17年5月26日御前11時30分、突如一大轟音凄まじく爆破作業中
の浮遊機雷爆発し、瞬時にして106名の生霊を奪ふ凄惨の状筆舌に尽くし
難し
                        昭和18年5月26日

 その後、殉難者慰霊碑が波浪で倒壊して荒れており、管理も行き届か
ないため、湧別神社境内への移転を戦没者遺族会長に勧奨され、翌26
年6月、消防団の協力で移転を実現した。 移転跡地には木標を建てたが
波浪に洗われ、当時の参事を偲ぶハマナスの花も今はなく、町有牧場と
なり牛がのんびりと草を食んでいる。

五、機雷爆発の地の殉職の塔建立  町内ポント浜で機雷が爆発し、尊い命が奪われてから50年を迎えた。
平成3年に町は、ポント浜の機雷爆発現地に塔を建立、同年5月
26日御前11時30分、当時の爆発時刻に除幕され、町長を始め遺族
及び関係者多数が参列した。
 塔が建立された場所は、東5線と6線間のオホーツク海に面したポン
ト浜で、総工費は820万円で、高さ4・3メートル、横6メートル、奥行
3メートルの大きさで白御影石造り、中央塔はV字型にカットし機雷の
爆発を表し、左右の副塔は加工を少なくして石の素材を生かしたも
のである。
 
機雷殉難の塔の原文
 昭和17年5月26日、このポント浜に漂着した浮遊機雷の爆破作業中
に不測の爆発により、一瞬にして多くの尊い人命を失いました。 この犠牲
者の鎮魂と平和の尊さを後世に伝えるため、爆発より50年にあたり建立
したものであります。          平成3年5月26日
                   湧別町長  羽田  宏

六、戦争と物資の不足  昭和12年7月7日、突如として起きた支那事変をきっかけに、16
年12月8日、我が海軍の真珠湾攻撃によって、大東亜戦争に突入した。
国は総力を挙げて戦ったが、ついに空しく20年8月、敗戦となって終わっ
たのである。
 この間、川西でも困苦欠乏に耐えつつ、若者のほとんどを戦場に送り
出し、老幼婦女子で銃後を守ったのである。 また、いたいけな学童まで
も遺家族慰問や援農に出たり、たばこの代用にするイタドリの葉の採取
などと、学業を放棄して戦争に協力した。 そして戦局いよいよ我に非と
なるや、婦女子及び子供までも竹槍訓練を受けさせ、敵の上陸に備えたの
である。
 日に日に欠乏していく生活物資は、厳重な統制下に置かれていた。 乏
しい配給生活に耐え、農産物を1俵1俵、収量調査のうえ強制出荷を命
ぜられたのである。
 昭和19年に入るや、ついに台所用品・鍋・釜まで弾丸をつくるため
献納をさせられ、耐乏生活に耐えては来たが、残念ながら敗戦となる。


七、代用食時代  米穀配給制法が昭和14年4月に公布された。 10月1日から施行さ
れた石炭・石油の統制に始まった戦時規制は、ついに主食にまで及び、
民衆は米の飯に代わる代用食をとるように強制された。
   都市のある食堂に、こんな広告文が貼り出された。
    節米昼食
  うまくて栄養満点、ご家庭でも真似して下さい。
 ○月○日   大豆入りこんぶ飯
 ○月○日 かぼちゃめし
 ○月○日 にしん入りうどんめし
 ○月○日 落雁甘露めし
 ○月○日 しのだ入り大根めし
ご試食後、炊き方ご入用の方は書きものをさしあげます。 中に品物よく
分からないものもありますが、皆、米の代用として食用させられたものな
んですね。

八、パーマネントと国民服  敵国語だというので 「パーマネント」 を 「電髪」に名を変えた。 こ
のような外来日本語のように馴染んでいる言葉が次々と漢字に改められ
た。
 野球用語も然り、投手・捕手ばかりでなく用語一切だ。 これは他の競
技同様だ。 また自動車等の部品も改められた。 「ハンドル」 は 「走行
転把」、「クラッチ」 は 「連動践板」、「ブレーキ」 は 「手動制御銅棹」な
ど運転もゆるくない。
 昭和14年6月に、その 「電髪」 も禁止となった。 その理由は軍需資
源の電気を節約するためだ。 戦争遂行のためには庶民の風俗まで規制さ
れた。 街には 「パーマネントはやめましょう」 という標語がベタベタ貼
られて、子供達の流行語になったところもある。
 次に男の国民服が登場した。 色はカーキ色(国防色といった)で当時
の陸軍の軍服に色は似ていたが、甲・乙の2型あり、この2着さえあれ
ば仕事着・訪問着・礼服まで間に合わせることができた。 しかし市販の
国民服の生地は、大半がスフ(人絹といった)入りで質が悪く、すぐヨ
レヨレになってしまった。
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     100年語り草
            (その三○)・・・婦人団体
     「機関誌発行」が道新で紹介された
               川西 (いずみ会)
 嫁・姑の問題は何処にでもあること。 特に農家に於ては旧来の家風を
守ろうとする風潮が強く、農家の嫁さんは封建的な中で暗い人生を過ごす
ことが多かった中で、川西では30年−40年前の、昭和35年頃当時の姑
さんの提唱によって若妻会が発足町内にも婦人の新風をまき起こした。
 これに対し、川西では、皆が理解し協力したり、学校長・社教主事の適
切な指導で広く各般にわたって学ぶところが大であった。
 この活動を記録に残そうと機関誌を発行して継続したのを北海道新聞
社で取り上げ写真3枚入りで大きく報道された。
  内容の項目のみを紹介すると
  ○ 生活記録  ○ 川西地域婦人会員の思いやり
  ○ 恵まれた酪農地帯  ○ カロリーを汁算する若妻たち
  ○ 楽しい休日     ○ 姑様のほこり
  ○ 明日の希望   ○ 生活記録を残そう  等々
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第3節 第3期
主な出来事   
昭和18. 2. 1  ガダルカナル島撤退
18. 5.29  アッツ島守備隊玉砕
18. 7.29  キスカ島日本軍5.600人撤収に成功 
18. 6.25  戦時学徒動員体制確立(農村に勤労動員も
 含む)
18. 8. 7  婦人会で過程のボロ供出(繊維会社に引渡
 し)
18. 9. 8  イタリア無条件降伏
18.10.21  学徒出陣壮行会
18.12.24  徴兵適齢を1年引下げ発表
19. 2.25  決戦非常措置要綱発表
 労働力不足で炭坑に助成も作業
19. 6.30  学童の集団疎開
19. 7. 7  サイパン島玉砕(41.244人戦死)
20. 3. 9  東京大空襲(死者12万人、焼失家屋23
 万戸)
20. 4. 1  米軍沖縄本島に上陸開始
20. 6. 6  本土決戦大綱決定(最高戦争指導会議)
20. 8. 6  広島に原爆投下(20数万人死亡)
20. 8. 8  ソ連・対日宣戦布告、ソ連満州へ侵攻
20. 8. 9  長崎に原爆投下
20. 8.15  「終戦の大詔」 玉音放送

一、終    戦  昭和18年から終戦までの概略は次の通りであるが、昭和18年頃か
ら米軍の攻撃が著しく、南方の島々も奮回しはじめ、海戦においても敗
北が続いた以後、サイパン外の南洋の諸島、レイテ半島上陸からフィリ
ピン、沖縄と本土に迫る一方、空襲も激しくなり、昭和20年4月、
遂に本土沖縄に上陸した。 ここにおいて政府も本土決戦の大綱を決定、
国土を守るために除し・子供に至るまで竹槍を持って最後まで抵抗する
ような訓練を行ったが、そのことは本土の僻地である下湧別村、それに
川西でも行われるなど、非常に悲惨なものであったのである。 一方、本
土に対する空襲も昭和20年3月の大空襲のあとも間断なく行われ、東
京も焼野原と化し、北海道の各都市も空襲から艦砲射撃を受けたのであ
る。
 8月6日、アメリカは世界初の原子爆弾をB29から広島に投下、 一発
で広島を灰燼に帰し20万余の人命を奪った。 予想もしないアメリカの
戦略に恐れおののいた直後、8日にソ連の参戦、追い打ちをかけるよう
な形で9日に長崎に第二弾目の原爆投下により、抗戦を叫ぶ軍部も遂に
屈服せざるを得ないこととなり、陛下の国民を思う気持ちから、8月15日
の戦争終結への大詔発布 「玉音放送」 となって、10年に及ぶ戦乱
に終止符を打ち、ここは日本は敗戦を受諾したのであった。
 考えてみれば、資源のない日本が、大国を相手に戦いを挑むこと自体、
無謀であり、短期間に勝敗を決めようとする我が国軍部の甘い考えが、
日本国民のすみずみまでを永年苦難に追いやり、戦地に贈り戦死させる
など、いくら考えても釈然としない思いを残したのである。

二、戦い終えて  昭和15年、戦争も三国同盟のドイツ・イタリアが手をあげてしまい、
遂に連合軍との戦いは日本一国になっては如何とも抗し難いものがあ
り、加えて世界初の原子爆弾の投下による2都市壊滅の猛威を目の前に
し、引き続きソ連の参戦という現実を踏まえ、遂にポツダム宣言受諾の
天皇放送によって、戦火は治まった。 しかし戦争の悲惨さは目に余るも
のがあり、我が軍の損害は300万といわれるが、この大戦のために世
界の民衆の犠牲がその10倍にも及んでいることを忘れてはならない。
 軍部は最後まで国土内での決戦を唱え、引こうとしない姿勢は示した
ものの、既に勝敗は明白であり、もっと早い拾々が望まれたのである。
 斯くして、今まで敗戦の経験のなかった神国日本も、敢えなく潰えて
しまったのである。 アメリカ・イギリスの物量に対し、竹やりで女性・
子供まで闘うことに非なることは、誰が考えてもおかしいのである。 こ
うした面子にこだわる軍部が、いかに国民を苦しめ、まどわし、家の柱
を失わしめ、国土を焼土化させ、更に後世に残した中国の日本人残留孤
児の問題、抑留者の未帰還の問題、ソ連抑留60万の問題、北方領土の
問題等、まだ未解決の問題が50年を経た今日、まだ山積しているので
ある。


三、困窮する生活  終戦の年の昭和20年は、日本は稀に見る凶作の年に当たったのであ
る。 日清・日露で得た国土・権益は全部失ってしまった。
 朝鮮・樺太・台湾・満州・千島・南洋諸島などから邦人がどんどん引
揚げて来る。 外地の軍人の復員は当然のことながら、これらの人々が狭
い国土に帰って来たのである。
 狭い国土では生活できぬと云って始まった戦争も、終わってしまえば
他国に迷惑をかけて、国民をまどわし、10数年に及ぶ戦いは、単に多
くの犠牲と多大な苦難を国民に負わせて終わった。
 終戦で、あくまで抗戦を叫んだのは軍の一部のみで、大半はやっと安
堵の気持ちで平和を喜んだのである。
 復員・引揚げ等で、川西にも縁故を頼っての入植もあり、一時95戸
という戸数増を見ることになるが、終戦後の悲惨な生活は、他の地帯に
比して農業地帯の川西と称せられるだけに、住民の和と相互扶助が実を
結び、挙って困苦に耐えてこの困難を切り抜けようという、先輩達の指
導・激励によって数年を経ずして立ち直りの気配を見せてきたのであった。

四、戦後の改革  終戦により、日本を占領したアメリカ軍は、マッカーサーを長とする
占領軍総司令部を東京に置いて、占領政策を強力に進めることになるが、
政策を実行するためにまず国民の食糧確保を重視し、アメリカからの補
給も大きな援助となった。
 一、平和憲法を制定して、軍国主義を廃して民主主義の国に改革
 二、主権は人民の手にあることを明確にした。
 三、戦争放棄を憲法で明らかにした。
 四、自由平等と人権を尊重することを重視した。
 五、戦争犯罪者、協力者、A・B・C級戦犯を公職から追放した。
 六、農地を改革して大地主をなくし、小作社に土地を与えた。
 七、教育の民主化、労働組合の設立などを進めた。
 主な事項を挙げたが、民主主義として占領政策の上を歩んだ日本は、
平和のお陰で経済成長が進み、世界有数の経済国に成長するに至ったの
である。


五、護国の英霊  大東亜戦争において川西では大勢の人が、南方から北方及び本土防衛
と征途についた。 華々しい戦果の陰には、痛わしい犠牲者がある事は言
うまでもない。 戦局も悪化の一途をたどるようになると、戦死、戦病死
者が続出し、川西でも多くの犠牲者が 「無言の凱旋」 と表現して、白木
の箱に遺骨が納められ、遺品なども添えて送還された。
 戦局が混迷して遺体が確認できない時には白木の箱のみであった。 国
のためとは言いながら、前途ある青年や、妻子を残して戦死された方は
本当に国の犠牲になったことであり、戦争の悲惨さを痛切に物語るもの
であり、平和国家の礎となられた英霊に対し、心から冥福を祈るもので
ある。 次に川西の英霊を紹介しよう。


六、北に南に海に陸に散華され護国の英霊となった皆さんとその面影
鈴木  清  陸軍兵長  中国江蘇省無錫   昭和13年7月1日
大柳 武徳 陸軍伍長  中国山東省青島陸軍病院  昭和17年12月25日
山崎 久道 陸軍  満州
増田 正雄 海軍上等水兵   モリツカ諸島方面 昭和19年6月29日
増田 熊雄 陸軍曹長  沖縄本島国吉 昭和20年6月2日
吉本 清治 陸軍伍長  北千島守占島 昭和20年8月18日
谷岡  茂 陸軍上等兵  満州
伊藤  晃 陸軍曹長  ソ連国境ノモンハン 昭和14年8月30日
山下 正雄 陸軍曹長  沖縄本島運生森 昭和20年5月20日
高久 秋男 陸軍兵長  旭川陸軍病院 昭和20年4月24日
佐藤  進  満州
宮本 正好 陸軍上等兵  上湧別厚生病院
小川 浅雄 陸軍兵長  硫黄島 昭和20年3月17日
一ノ口定明 軍属  北太平洋方面 昭和19年9月26日
藤本 忠雄 陸軍上等兵  パラオ島東南 昭和17年2月16日

七、忠魂碑  湧別神社境内の忠魂碑は、大正11年(今上天皇)の本道巡行記念
事業として在郷軍人分会が建立されたもので、以来毎年6月15日に招
魂祭が行われ、村内の戦没者を合祀してきた。
 終戦後21年、GHQが公的機関による宗教儀式の一切を厳禁したが、
控え目に継続されていたが、26年から遺族後援会主催で盛大に招魂を
行う様になった。 もちろん町費で執行されている。


八、遺族会  遺族会は昭和29年2月に湧別町に在住する戦没者の遺族が主体とな
り結成された。 目的は遺族相互の親睦と、お互いに相助け合い、郷土の
繁栄と平和への貢献等で、目的を達成するため次の事業を行っている。
 ・ 靖国神社、北海道護国神社、北海道戦没者追悼式さらに毎年6月15
   日に町が主催する招魂祭に参拝参列する。
 ・ 遺族連合会が主催する各種大会への参加及び親睦旅行等である。
 会の結成以来、吉本ユキ子は39年間理事として使命を果たしてきた功
績が認められ、平成3年10月27日、北海道連合遺族会会長・堂垣内尚弘
から表彰を受けている。


九、川西の叙勲者
功六級金鶏勲章   伊藤  晃 
勲六等単光旭日章   増田 熊雄   増田 正雄   鈴木  清
勲七等青色銅葉章   小川 清巳   伊藤 誠司   伊藤  晃
勲七等瑞宝章   釜神登志蔵   宮本 正好
勲八等白色銅葉章   山下 良雄   高久 秋雄

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