愛の故郷 第8章 保安・衛生・観光

昭和の小漁師
湧別町史
川西郷土史top


第1節 治安と防犯
一、警   察 入植当時は鬱蒼たる森林地帯に点々と5町歩に1戸宛入植して、木を
伐り、焼き払い開拓も鍬で一鍬一鍬耕すのだから、年間8反歩位がよう
やであった。隣りの家も見えない、わが家だけのわびしい住いである。
集団で十数戸入植しても、時々逢って、営農について語り合ったり、慰
め合ったり、故郷の噂をしたりすること自体、あまり行わなかった。
集まる場所もないのである。
 入植、4,5年経つと、明治31年紋別道路が湧別まで開削されたし、
湧別から野上(遠軽)を経て峠を越え旭川に至る道路も開削されていた。
即ち明治30年頃から幹線の交通が可能になり、他からの人の出入りが次
第にふえて来て、行政も紋別戸長役場から、湧別戸長役場が置かれた。
 北海道に渡った人も本州から渡った由緒正しい人ばかりではない。
本州で極道の限りを尽くして来た人もあろうし、周旋屋の手にごまかされ
て送られた人、いわゆる「たこ」と呼ばれた人、囚人で監獄から逃亡し
た人、など雑多な人々が「新天地」を目ざして来ていた。
 だから治安の面では、非常な危険をはらんだ土地と見てよかった。
 湧別も、四号線、川西に続々入植があり、屯田兵の入地に伴って湧別
四号線、湧別原野随一の市街地を形成したことから、明治34年に警察
分署が置かれた。湧別市街では、さすがに、色町も栄えた当時だから殺
人事件もあったが傷害事件は日常茶番事であったようだ。
 しかし川西は永年培った、川西気質が底流にあったことと、青年団の
積極的な活動があったことなどから、部内での不祥事はあまりきかな
いのである。時々、湧別から警察が戸口調査に廻ること位が恒例に行わ
れていた程度であった。

二、警防団  消防組については後述するが、戦時になり昭和12年頃、消防団が全
国的に警防団と名をかえた。消防団は地域の消火にあたるのを主任務と
していたのだが、既に人を動員する必要がある、洪水など防災面では重
要な役割を背負っていたのである。戦時になった、治安・警備・防災な
ど更に大きな役割を与えられ、昭和17年の「湧別の機雷処理」に動員
され、尊い犠牲を払ういたわしい結果となったのも100年の中にまだ
昨日のように思い浮かぶのである。
 され終戦になって、軍国日本の下で組織された警防団は解体された。
そして平和で国民的な消防団に再編されたが、昔から川西には、湧別
村消防団の中の分団の一小班として、川西消防班が設けられ、区の青年
が専任されてそれぞれ任務を果たして来ているのである。

三、防犯協会  終戦後の混迷の社会を背景にして、昭和23年「遠軽警察署」への協
力団体として「民警懇談会」が結成され、治安維持に協力したのが、防
犯協会である。戦後の特質的な傾向として、増加してきたのが、青少年
の非行問題である。
 特に昭和40年以降高度経済成長による景気の上昇と裏腹に社会のひ
ずみが少年犯罪を増加させたと見られるが、幸いにして、当川西には特
にとり立てるほどの事態を見ないで経過して来たことは、何より喜ばしい
事であろう。
 昭和32年に組織の改善で、「遠軽防犯協会」と改め、前進的な強化を
図ったが、支部長には、歴代の町長が就任している。
 防犯協会の業務内容について、項目をあげれば、
 一、消防団と提携して諸行事の警備
 二、春夏・年末の防犯運動と防犯診断に協力する
 三、広報紙や立て看板などの広報活動
 四、防犯燈及び防犯連絡所の設置
 以上の事業を通じて、防犯と青少年の非行防止に寄与している。
川西地区の防犯員と防犯連絡所には看板が玄関先に掲示されている。


第2節 消    防  
一、湧別消防組の始め  開拓地の入植初期は、火入れが多く行われた。これがしばしば山火事
の原因となり、災害をまねく例が多かったと云う。
 当時は現在と違って、機械力はまったくなく、すべて開墾作業は人手
で労働力を軽減するには、伐木を積み重ねて焼却すると云う方法で開拓
地を広げていった。
 この様な事から村内の火災の被害が一般家庭にも常に危険であり、町民
は自警の組織が必要であった。
 明治38年浜市街に「湧別村設消防組」が設立された。これが本町の
最初の消防組織とある(町史)しかし乍ら公設消防組の成立は明治27
年5月、北海道庁令消防組は、1町村1組を原則として設置する事が定
められ、明治43年本庁に消防組公設されたのである。
 消防組は警察署長に任免権と指揮権があり、器具・機械等の施設及び
出場手当は村費で維持された。日支事変の拡大につれて、防空関係が緊
迫した。そのために備えて、防護団が昭和12年に結成された。
 さらに14年に防護団と消防組が統合して警防団の設置となる。
 警防団は警察署長の指揮下に置かれて、戦争中の警防団は重要な役割
を果たしていた。
 昭和17年湧別海岸、ポント浜にて機雷爆発事故あり遠軽警察署長の
命令により湧別警防団の作業中に爆発事故が起きて川西から小谷幸一
が警防団員として殉職したのである。

二、火の見櫓  川西の火の見櫓の建てた年次は記録にないが、大正9年頃小川清一郎
・宮本正則の2人で川西四線現在の馬頭碑の西側附近に建て、厚い木の
板を下げ、火事の時はこの板を木槌でたたいて知らせたという。
 其の後腐蝕して危険のため、国道ぞいに小川・宮本両名で建て替えら
れた。此れも長年の風雨雪にさらされ腐蝕がひどく建て替えなければ危
険の状態となった。当時部落の区長であった掛橋清美が火の見櫓の原木
を町より払い下げを受け、西ノ沢町有林(三角点)から伐り出すため、
筋機正雄・高桑武2人に出役を頼み掛橋区長の道案内で早朝出発、山の
中は雪が深くバチバチの入る処まで行き、馬を立木につないで3人は切
れぬ鋸で伐採バチバチの処まで1本ずつ「カン引き」をして1台のバチに
2本ずつ積み長さは約15米と云う長材で暗くなってから帰宅大変難儀
をした思い出がある。数日後宮本正則が折角難儀をして運んでくれたが
これ程長いものは必要ないと根本の方を切り捨てられた。非常に残念で
あったが今はなつかしい思い出の一つである。昭和29年3月であった。
                               高桑 武(談)
 同年宮本正則一人で切り込み国道の北側現在黒田誠吾の西側小玉宅寄
りに建設された。
 櫓の上には釣鐘と手廻しのサイレンが取り付けられた。其の後腐蝕が
ひどいため、撤去し、あたらしく鉄骨で再建したが、通信連絡及び車の増加
等情報も俊足になったため、長い間利用された火の見櫓も、余り必要性
が無くなったため、49年夏錦町の交差点角に移転された。

三、湧別消防団川西班  昭和20年川西より友澤市男・滝本広見両名が湧別消防団に入団した。
28年に川西自衛消防団を結成し部落内青年数名の参加を得て、正消防
団員を中心に結成自衛消防にあたる。28年に湧別亜麻工場より川西へ
中古腕用ポンプが寄付されたがポンプ保管場所が無いため、当時火の
見櫓の横に現在の小玉宅より30米位東側の国道辺りにポンプ保管小屋を
建てた(6坪)材料については柱材の丸太を野津不二三から寄附をして
頂いた又其の他の材料は友澤市男の知人から頂いた材を遠軽から友澤市
男・滝本広見両名が馬橇で運び、さらに不足の材料は、丁度其の年の雪
解け水で湧別橋が流失其の時に仮り橋を掛けていたので、ポンプ小屋の
資金かせぎに自衛消防団員が働きに出て親方に話しをしたら沢山の材料を
頂き座板から壁板迄製材して使用、大工も友澤市男を中心に一切団員の
労力奉仕で建てられた。
 其の後35年頃湧別分団に要請して、小型動力ポンプを配置してもら
うが現場に向かう体制であったが、其の後町消防の機動体制も充実し通信道
路の整備等もととのった事から町消防に返納、自衛消防も解散した。
 此の間幸いにして川西では火災の発生が一度もなく使用せずに終わった
事は有り難い事と思う。尚昭和46年「遠軽地区広域消防組合」が設立さ
れ各町村に支署を設け、機動力・設備も充実された中で各町村消防団と
協調して消防業務を行っており俊足名消火態勢がとれるよになった。
 又防火用水は昭和35年頃までは防火用水の池があったが小学校の近く
に防火用水が必要で有ると声が上がり9尺4方の池を掘った。場所は、
本間勝義宅入口より10間位西側で、現在は本間宅の牛の電牧地になって
いる。
 学校生徒や幼児の入らぬ様金網が張られていた。 其の後排水の整備及
び池の水が渇水して来たので現在の防火水槽より少し道路側(中尾寄り)
に設けた処が、昭和59年四線道路の拡張及び舗装工事の邪魔になるた
め撤去し60年7月本間勝義所有地に工型防火水槽新設工事を行った。

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     100年語り草
             (その二五)・・・衛生
     手押しポンプ
 何時頃から使用していたのか不明だが恐らく大正後期頃であろう時代の
進むにつれて川西にも手押しポンプが入り始めた。
 いろいろと形式はあったが、最初は川本式、後年になって津田式など便利
なポンプが入ってきた。
 ポンプは井戸と違って家の中に流し物の用に鉄管を打ち込んで使用できる
ので主婦にとっては非常に労力的にも時間的にも有り難い道具であった。
 津田式では風呂場までパイプで水を送ることができたので本当に助かった
。 昭和30年過ぎ頃から急に電化製品と共に自家用水道が多く使用される
ようになり、井戸や手押しのポンプを見るのも珍しくなった。 しかし乍ら川西
では、飲用水の悪い家が多く、水汲みの人は大変労力も軽減されたが、水
質が悪いため最終的には営農用水に頼らざるを得なかった。
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第3節 治    水
一、洪水の記録  湧別川は昔から降雨、融雪期等に於いていかに荒狂い、多大な被害を
沿線流域にもたらして来たか計り知れない。
 しかし湧別川は、住民にとっては古くから母なる川であった。現在も
それに変わりはない。原始時代から、自然の流下にまかせた湧別川の長
流は88キロメートルもあり、融雪といえばあふれ、雨といえば洪水と
なり、台風といえば大地を荒れ狂い巨木を倒した。こうした自然の脅威
と闘った開拓者の苦難は村の歴史にも多く語り継がれている。
 又こうした災害時にまつわる悲しい事柄の云い伝えは、別掲百年の語
り草にのせた通りである。湧別大橋についても過去、渡船から架橋と
交通の需要といいながら、肝心な治水の築堤が完成しないためには、怒
濤のような水の猛威に耐えられず幾度も流失の参事に見舞われた。
 幸いにして戦時の国家財政の危機にも、治水の重要性を強く理解され
て昭和11年から概ね終戦までかけて湧別川の治水の最も重要な両岸
の築堤を完成させようやく、川西・四号線湧別の両岸に住む人達が枕を
高くして休むことが可能になった。この感激や喜びは永年洪水に傷めつ
けられて来た住民が最も身にしみて感ずることができるもので川の岸に
永年住んでいた。湊つねの百年語り草を呼んで当時の苦労を理解してほ
しいのである。
 次に網走開発建設部が昭和63年にまとめた「湧別川治水報文」によ
る洪水記録を年表で掲げよう。

  年次
明治31  降雨水害堤防のない湧別原野は一面洪水現在の錦町は1
 米の冠水・展望橋・金山橋・社名渕橋流失
明治34  降雨・水害被害大4日間の両で交通壮絶・学校休校
明治43・44   両年度共水害湧別橋流失
大正 2  融雪出水・氾濫日数7日間 浸水面積197ヘクタール
大正 4  融雪出水・橋梁流出方橋 氾濫面積413ヘクタール
大正10  湧別橋流失
大正14  橋梁流失
昭和 5  融雪出水 氾濫面積600ヘクタール
昭和 7  洪水損害30万9千円
昭和 8  降雨出水
昭和11  降雨出水・冠水略全域被害大
昭和12  融雪出水
昭和23  融雪水害
昭和24  河道の変移極に達す 河岸の決壊・堤防の流失
 各署に発生沿岸住民に被害大
昭和28  融雪水害上湧別橋(179m)流失 中湧別川西橋流失
昭和41  豪雨−中土場河・富美河流域に被害
昭和45  右  同
昭和50  降雨各地に被害出る
昭和56  集中豪雨降雨量白滝178ミリメートル 湧別河口右岸
 外氾濫
○ 橋の流失
 堤防の完成によって戦時中中断していた、湧別大橋は、戦時工事が再
開されて昭和31年待望の永久橋の完成を見たのであるが、それまでの
川西は入植以来水の出るたびに湧別橋が落ちたり、流失するのではない
かと心配したり、特に大水に弱い木橋であるがために、関心は高く地域
住民の心配と心労は筆舌に尽くし得ざるものがあったのである。
 橋が落ちると川西は忽ち陸の孤島と化し、通学や湧別、四号線の用足
しに出るときは、遠く七号線の鉄橋を列車におびえながら監視の目を
盗んで遠廻りするより道はなく、精米所又は農協からの肥料の受け渡し
さえ、鉄橋を一俵一俵かついで渡したこともあった。
 又子供の通学も鉄橋を渡ったり、後年は旭の乗降場から汽車を利用し
た。
 仮設の渡船を設けたことも幾度かあったが、増水時には危険なために
利用出来なかった。
 橋一本が頼みの湧別橋にまつわる、苦しい思い出は、数多く古老から
語り残されている。
 明治31年渡船取締規則により規定された料金をかかげておこう。
 湧別川渡船 渡賃人間一人1銭2厘  馬の渡賃 一頭2銭0厘


二、築堤の完成  治水としては最も大事業は、湧別川両岸にわたる築堤であろう。
 本アック的に着手した第1・2期の概要を開発建設部扁の「湧別川治水報
文」から要約引用すると
 湧別川流域の概要は遠軽橋から下流の平均巾が急に広くなり、遠軽湧
別間は3キロメートルから5キロメートルに及び平坦部では、蛇行がい
ちじるしく、毎年の融雪及び夏や秋の洪水氾濫によって河岸に土砂が堆
積して、低地帯の水はけが悪いため、河口地域で粘土層にまじり、一部
に泥炭層が形成されている。
 したがって切り替え工事による築堤盛土が湧別川治水工事の初期の傾向
であった。
 この地域はん26年に解放されたが、屯田兵・一般農民の幽居で急に開拓
がはじめられ戸口の増加を見たが、当時の河川は殆ど自然のまま放置され、
河川の改修も行われず、河岸の決壊や流失に対して性分の修理をするに
すぎなかった。
 この川での組織的な治水計画は第1期拓殖計画ではじめて登場するが基
礎的な資料を集めただけであった。大正8年、流域の中で一ばん被害の大き
い遠軽から下流河口に至る区間に対して沿岸平野2.300町歩の開発促進を
目的とする。治水工事の計画をたてたが、国の財政不足のため着工出来な
かった。
 そして第2期拓殖計画(昭2〜21年)の中に総額440万7.520円・昭和13
年から7ヶ年継続事業として編入された。
 しかし、昭和7年に被害額301万9.000円余にのぼる大水害があった
ので治水工事の緊急実施の必要に迫られた。 処が政府は財政上一挙に
多額の予算が組めないので、昭和9年以降、5ヶ年間に総額601万円で
緊急を要する部分の治水工事を施すことにして、河口から上湧別間
をその対象区間としたのである。
 その第1期工事は河口から第2湧別川鉄橋までの延長14キロメート
ルの改修で沿岸耕地700町歩の水害を防止するとともに、濃厚適地
100町歩の開発促進を目的とした。
 また第2期工事は第2湧別川鉄道橋から遠軽までの区間で延長6・1
キロメートルの築堤を建設することにし、これらに要する土量を105
万立方メートルと見込んだ。
 湧別川は前述のように、河相・地勢の関係で河岸の決壊が甚だしく、
洪水氾濫の原因となっていたため、当時は護岸工事を重点に進めた。
 その両岸に築堤を行い洪水流量毎秒(約1.000屯)を安全に流過
させる計画で工事としては築堤と護岸の2つに大別されていた。
 計画では築堤工事は河口から遠軽までの間を高台を除き河岸の一方ま
たは両岸に馬踏み(上幅)3間(約5・4メートル)両測法2割5分土盛り(高さ)
約1・5メートルの堤防を築設する。延長は左岸が3ヶ所(約10・8キロメート
ル)右岸は1ヶ所(約15・3キロメートル)通路巾が約5・5メートルであった。
護岸工事はこれらの区間で特に河岸の決壊がひどい部分を選び(延長約
18・8キロメートル)を対象とした。
 三、「西村組築堤を担当」
 このような湧別川治水工事の背景には、地崎組がありその配下にいた
西村幸太郎が大きく浮かんで来るのである。地崎配下で全道的に各工事
を担当した。西村がこの地を「青山」として独立して築堤工事を担当し
た西村組にとっては因縁のある地となった。
 昭和7年の大洪水の後昭和9年から湧別川築堤は急遽着工の運びとな
ったがこれが予定通り昭和13年からとなっていたらどうであろう。昭
和12年は日支事変がはじまり翌13年には国家総動員法昭和16年に
太平洋戦争へと発展拡大し昭和20年まで戦時非常体制が続いたことを
考え合わせれば恐らく築堤の着工は無理だったろう。この川の治水の重
要性から戦時といえどもこれを強行したことによってどれだけ早く沿線
の住民に喜びを与え、農作物の供出にも貢献できたか計り知れないもの
があるのである。
 西村組は湧別川の治水工事を成し遂げたことが建設業の足がかりと
なって発展を続け湧別の企業として全道的に名を挙げることとなるので
ある。又築堤工事に於いて西村組が「馬トロ」を考案開発して大いに能率
をあげたことも、四号線上下の築堤がはじまりと云われている。

第4節 衛生と医療
一、衛生組合  川西衛生組合の発足粘土は記録が無く不明で有るが、湧別町史に依る
と明治33年4月清潔に関する規定が定められ、毎年春秋、2回の大掃
除を行う事を、義務づけられ、明治37年7月衛生組合が結成されたと
ある。以後大正時代を経て、昭和12年に「疾病予防健康増進」に関す
る指導の専門機関として、17年2月に遠軽保健所が開設された。
 戦時中は保健所長は警察署長が兼務し、結核対策に力が注がれたが戦
後22年保健所法の改正で、衛生行政は警察署から保健所に移り所長も
医師とされた。
 保健衛生の指導は充実強化され、昭和29年に清掃法の公布と共に、
衛生組合に町から、助成があり保健所による検便が実施されたのも此の
頃である。 又川西でも戦時は衛生指導日には役場の衛生係と区長が案内
して、各戸を巡回玄関先に、白紙、赤紙をはって指導にあたった。
 毎年春秋2回実施の清掃優良之家には「優良清掃之家」の表彰ステッ
カーが昭和29年頃より玄関先にはられた。
 部落内では10戸程が「優良清掃之家」となっていたが、38年より3ヶ年
継続優良清掃之家には表彰状と記念品が町連合会より送る制度を定めた。
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     100年語り草
            (その二六)・・・団体
     ウーマンパワー    小川 敬子さn
 日本の農業は変革期を迎えている。こうした中で想像力に充ちた意欲
ある農業者が、生き生きとしてとり組める農業を確立するためには、ど
うしたらよいか、というざだんかいが農林水産省で東京で開催された。
本町代表として湧別町生活改善実行グループから、北海道代表として川
西・小川敬子さんがグループの意見を発表したが、この内容は、ビデオ
録画され、全国に放映された。
  湧別生活改善実行グループ(大別して3グループあり会員90名)
一、湧別簿記学習グループ(60名)
   企業簿記を取り入れた新子異母期に挑戦足腰の強い農業者を目ざす。
二、湧別 はまなす会 (18名)
   本州から嫁いで来られた花嫁さん、農村の封建的な考えを改め、都
   会的センスを取入れ、地域の活性化に努力
三、湧別グルメ研究会 (15名)
   農業と漁家と一般の人達が知恵を出し合い湧別の豊かな食資源を利
   用して料理を研究する。
 以上のグループ90余名の活動が認められ、北海道代表となり会長の
小川さんが東京で発表となったもの。
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二、飲料水の移り変わり  川西地区は湧別川の伏流水があるので、良水を得られる地域と見られ
る向があったが、実はこの地域でも国道から海岸に至る3線・4線の地
下水は特別悪く開拓以来の念願は何とかして良水を得ることであった。そ
のための永年の苦労話が小川さんの切実な話しとして別途掲載する。
 飲料水の水を得るためには当初湿地帯を流れている川水を利用するこ
とから始まったわけだが、家が本格的に建てられることによって井戸掘
りを行い本ワクを入れくずれないようにし、つるべを以て汲み上げ使
用した。大正時代に入って井戸掘りにかわって鉄管を打ち込み、手押し
ポンプにより汲み上げる方法が考案されて、大いに利用された。これは
家庭の流しに付設できる便利さもあり、戦中戦後にかけて一般に普及さ
れていた。井戸は主として外に造ったのに対して「ポンプ」は主として
家の中につくられたのである。
 こうして戦後に至って井戸又はポンプに連続して揚水には動力が用い
られるようになったが、良水を遠方から引いて、飲料水・自家用水・家
畜用水等目的毎に区分して利用するに便利になったので水道のない地
帯では大いに利用された。その後時代の移行に伴って地下水の汚染が指
摘されるに至って全般的に安全に衛生的に取水された水道水を用いるよう
に変わって来た。川西に於ても全般地下水の衛生的試験検査の結果、地
下水といえども使用して安全とは云えず、そうした検査結果が新しい取水
方法として水道水の実現へと変わって行ったのである。
 川西総戸数の約3分の1は 水に永年なやまされた人々で鉄分が多く白
いものの洗濯には主婦は大変苦労をして来た。飲料水としては勿論、不
適当だがお茶を入れても紫色にかわり、白米麦をたいてもこげた様な色
がつくそのため砂濾過などをして使用していた時もあった。
 何とかよい水の供給が出来ないものかと、当時の区長、清原松太郎
が町に要請し、町の取り上げる処となり実現の経過は4,のとおり

三、我が家の水の記録(小川清巳談)  私の家の水は昔から悪く、私の記憶に残る以前から洗濯物や炊事用の
水は海岸から砂を取って来て、四斗樽に入れてこして使っていた、
 昭和36年湧別の北川ポンプ屋を頼んで、家の廻りを数ヶ所試験堀り
をして見たが、遂に良い水を得られず、最後に国道238号線四線交差
点西側、菅野・原田両家の畑境から水をもらい我が家迄280米引き
此の施設家庭用電気ポンプ合わせて、12万余円やっと良水に恵まれ家族
中が大変喜んだものです。
 其の後引水・距離が長く、しかも水アカが多いため種々と故障が出て
毎年ポンプ屋の支払も3,4万円を下らない有様、其の後見よう見ま
ねで自分で直す様にしたが其の苦労は一通りでなく、加えて最近水位の
低下からたのみの水も水質が悪くなるばかりであった。
 昭和50年住宅を新築すると同時にボーリングをする決心をし美幌の神田
ボーリングをたのみ現場を見た上で話し合う事に決まった結果1米1万円で
取りあえず50米のボーリングをする契約をする。 9月に作業開始
 38.9米の処で、水質は不明だが水のある事は、間違いないと云う処迄
達したが一応最初の契約の50米は掘って見ようと云うことになり更に
掘り進んで40米を越えると結層岩に当り、此の層の厚みがどの位いか
解らないが此の層の中には水が無いとの事で有る。
 50米掘ったが水は出ないで終わった。此の時点でもう一度協議して
1米5.000円と云う事にし30米掘って水が出ない場合は最初の
38.9米の水を出してもらう事にして、水量調査も9日間昼夜ポンプ
を掛け通して汲んで水の切れる心配が無い事がわかり、保健所の水質検
査も受けたが濁りと鉄分が有る事が分り、其の後鉄分を取る濾過機のあ
る事を聞き、釧路の業者に依頼をして、水質検査をしてそれに合せた濾
過機を取り付けする事になり、これを東京に送り又水質検査をして濾過機
を造ってもらい取付したが充分でなく更に小型のものを一つ取り付けど
うやら良くなった。此の濾過機の費用は43万余と減菌機に10万円を
かけた。其の後も種々問題があって、手をつくしたが、まだ充分とは云
えず良い水を得るには、営農用水に頼る以外にない様な気がして居る。
との小川清巳の話であった。
 昭和36年頃から、多額の資金を投じて行って来た苦労は大変な事で
あったと思う。


四、待望の水道実現へ    西湧地区道営営農用水事業実施の経過
 昭和46年に町政懇談会の中で清原区長が良い飲料水を得るための方
策について町長に要請したことに対し説明では20戸以上でなければ採
択規準(補助事業)に入らず、戸数が足りないということで実現には至ら
なかった。その後、昭和50年に岩佐区長になってから、川西全戸を対
象に水質検査を行った結果多くの家の地下水が、大腸菌、其の他に汚染
されているとの検査結果がでた。
 その年の12月川西の臨時総会が開かれ、営農用水も含めた「総合的
基盤整備事業」を行う事が決定されて、即座に「川西地区総合土地改良促
進期成会」が結成されて会長に山下良雄が就任した。
 当初は「畑地帯総合土地改良事業」の中でこの営農用水も取り組むと
いうことであったが、水の問題は1日も早くとの要望で「道営営農用水
事業」の単発事業で進めることになった。
 昭和51年6月29日、期成会総会を開き、農協から組合長外、町から産
業課長外出席して「湧別地区道営営農用水事業」実施についての検討が
なされ、湧別川の伏流水を取る事に決定したのである。
 しかし乍ら堤防を破っての工事は大変なことであったために、堤防外地の
湊宅の借用地を水源地に決定してボーリング調査を事業費169万5000円
を以て、昭和51年明きに行った。 ここは水質もよく、水量については、昭
和52年3月、上山試錐工業とようすい試験を0万円で契約し工期は同年3月
11日から3月30日と3月の渇水期に行った結果は12メートルの深さで毎分
500リットル1時間30屯の揚水が可能で、川西全戸に給水し、しかもこれ
からふえる家畜頭数にも充分対応ができるとの確信を得た。
 事業主体は農協で事業費の2分の1を町が補助、残りは受益者負担と
なる。昭和52年度、計画樹立昭和53・54年で完成を見た。
 採択受益面積978ヘクタール受益戸数44戸、総事業費1億6千625万円
であった。
 今後の運営については水道組合による運営が望ましいという事で山下
期成会長が発起人となり、昭和54年5月「川西地区水道利用組合」の
設立総会が開かれ役員の選任が行われた。
 今後の給水工事の指導は町建設課水道係に要請する。

五、開拓当時の医療と現代医療まで  明治30年屯田兵の入村に当って軍医の配置がなく後年、庄田萬里を
屯田で医師として養成したいという。さて、昭和28年耕地から四号線に
入植した、高橋謙造は医師であったが、医師を業とするほどの戸口も
ないために家族と共に開墾をしながら生計をたてていたらしい。湧別・
四号線と後年戸口の増加に伴って医師2名の生活がなり立ち診療上支障
がない形となった。
 しかしながら、当時の医師と云えば内科医であり、漢方的な治療を施
す療法であったようで、別編の小川清一郎の手記にあるように、盲腸炎
の診断はしたものの旭川に出なければ手術不可能で何回も不眠不休の冷
却によって炎症を鎮静させたという記録から見れば急性でなかったので
一命をとりとめることができたようである。
 その後に於ても、湧別に於ては診療所があって医師2名程度は常に居た
が昭和12年上湧別に厚生連の設置した厚生病院によってこの地区初の
近代的病院として遠軽地区の農民達が喜んで迎え入れた病院であった。
院長外科医曽我耕策により手術も可能になった。戦後医療の傾向として
は、地域に病状診断程度の診療所を置き、重要な検査や手術は基幹病院
を中核として建てて地域の重病患者を収容する形がとられるようになっ
て来た。平成4年遠軽厚生病院はこの地域の基幹病院として建てられた
代表的なものであろう。伝染病隔離病舎にあっても古くは各町村で人里
離れた所に建てていたが、その後各町村統合して遠軽に集めて治療を施
すことになってから便利になったといえる。医療面では現代最も力を入れ
ているのが早期発見であり、戦中戦後における結核予防と併せ現在死
亡率の最も高い各種の癌と心臓・高血圧等の早期発見のための検診を各
町村共熱を入れて実施しているのが実状である。


六、成人病検診  レントゲン車の巡回による結核検診も昭和47年度住民結核検診対象
者205人中188人受診平均90%と44年以来町内上位の良い成績
をあげ又胃腸検診も46年より川西地区にも巡回し47年受験者70%
とこれ又町内上位の良い成績であった。 (役場調査)
 昭和43年秋より、老人会月例会に併せて定期健康相談を月1回保健
婦による健康相談を実施、町内では川西が初めてであった。
 其の後町内全部落の老人クラブ月例会を対象に行い、現在は2ヶ月に
1回行っているが一般の人の受診者の少ないのが淋しい。


七、年度別結核検診受診率調
八、富山の薬売り  医療施設の不充分な、開拓時代、住民の健康管理に大きな役割をはた
していたのが、富山県の売薬であったろう。
 医師の診断を受けるまでの家庭常備薬をしての存在は大きかった。
 この売薬は松前藩のころから、北海道にもたらされたものと言われ
湧別地方には、明治33年湧別浜市街の石山宅を訪れた刻にたまたま、
 三枝薬房の行商人が来合せて、近所に広めてほしいと詰合せの薬袋3
個ほど委託された(町史古老談)とあるように、湧別原野の移住と共に、
始まったようであるが、川西に配置された年月日の記録がないので不明
で有るが、おそらく兵村建設(屯田兵入植住宅建設)時代明治30年頃
と思われる。
 1年1回の薬剤の入れ替にくる配置員は、大きな柳こうりの、4段5段重
ねにした、こうりの中に薬を一杯入れて、大きな風呂敷で背負って1戸1戸
歩いて廻って来たものである。
 薬屋さんが廻って来て、一番喜ぶのは、子供達であった。かならず、
紙風船がもらえるからで、当時遊び道具の少ない開拓時代の子供達には
楽しみの一つとして想い出の中に残っている。現在では考えらぬ事で
ある。 戦後著しく発達した、市販薬品の普及と医療施設の拡充した現在
においても、開拓過程に築かれた富山の置き薬は、住民生活と結びつい
て、現在も家庭常備薬として、利用しているが、減少の傾向にある。

 薬名の種類を参考迄に書き置く
正露丸  目  薬   鼻炎カプセル
胃 散  トローチ  風邪カプセル
ケロリン  実母散  風邪アスピリン
おきう膏  桃 源  子どもトンプク
絆創膏  セメン円  腹トンプク
神 薬  シップ薬  赤玉ハラ薬
雪の元  キズテープ  熊胆円
仁 丹  セキドメ  フラジン軟膏
メンターム  乗物酔  オロナイン軟膏
頭痛歯痛  生理痛  アンマ膏
六神丸  救命丸  虫下し

第5節 天然の美
一、シブノツナイ湖  川西には特に名前の売れている観光資源はないが、シブノツナイ湖は
最も身近な地域的な観光場所である。
 開拓以来、此の湖は地域民の最も親しんで来た湖で、殊に夏の土用牛
等は水泳に潮干狩に好適な遊園地で、特にこの湖には自然のシジミや其
の他の貝類が沢山いた。
 昭和の中頃迄は引き潮を利用して波打ち際や、引き潮で露出した中
島等に舟を借りて乗り出し、スコップ等で掘ると、かます一杯位とれた然
し乱獲がたたって、ほとんどとれなくなったばかりでなく湧別と紋別漁
協の漁業権下に入ったので、許可なくしてはとれなくなった。
 又両漁協で、ワカサギ、シジミ貝等の養殖を始めた。
 冬期間の氷下魚釣りは有名で、かっては国鉄でも時間表等にもPRして
宣伝されたので遠く、遠軽旭川方面から釣りマニアが押しかけて冬のシブ
ノツナイ湖の氷下魚釣りは一躍有名となった。
 しかし乍ら氷下魚も前記両漁協により、人工養殖が始められ、取締りがき
びしく、資源保護のため、入漁料を徴収する様になった。
 此の湖は何と云ってもKの観光資源と云えよう。
 又4線から6線間の海岸線には、古川や沼が多く点在し、昔は鮒、ウグイ
等が良く釣れ休日には街のマニアが、自転車で沢山入り込んで居たが今
は何故か釣れない。


二、先住民族穴居跡と原生花園  次に道の指定保護地になった。 川西6線地先の先住民族穴居跡とその
崖下に広がる紫アヤメの原生花園はすばらしいものである。
 位置は湧別牧場内にあるが夏期満開期には此の湿原一帯が紫一色にい
ろどられ其の中に群れ遊ぶ牛の群れと共にオホーツク情緒豊かな花と牧牛
の風景やオホーツク海の砂丘に咲くハマナスや遺跡を巡る周囲のナラの
古木の下に咲く山百合の花、ワラビ採り、秋にはきのこ取りも自然に親
しむ好適な、レクレーションの場であったが最近は土地改良其の条件で
昔の姿は随分と消え何か淋しい感もある。


三氷下漁とシジミの養殖  シブノツナイ湖は部落的にも部落外の人にとっても自然の良いレクレー
ションの場であったため、湧別、紋別漁業協同組合で人工養殖を始めた。
 昭和48年頃からワカサギ釣りには承認証が必要で密漁すると違反にな
る。
 禁止区域は
 シブノツナイ川及び左右信東川及び左右
 遊漁料
 昭和48年 1日 200円  1ヶ月3.000円
 昭和51年 1日 250円
 幼児及び小学生・身体不自由者は無料
 承認証発行は、湧別・紋別漁業協同組合
 冬期間の氷下漁は釣りマニアが多く、国道には何十台もの乗用車が道
切に並んでいるのも珍しくなかった。
 監視員として藤崎豊次・堀部春美がオホーツク海より吹きつける寒風
の中で毎日スノーモビル250ccに乗って巡回していたが、昭和52年
に退職其の後、漁業取締員として、本間勝義が委嘱されている。
 シブノツナイ湖の養殖事業は昭和47年から湧別・紋別両漁業協同組
合とか協同で幼貝(シジミ貝)を青森県北津軽郡市浦13湖から購入、
毎年次のような量を5年間放流養殖した。

昭和47年  11屯  5.365千粒
48年  11屯40k  4.640千粒
49年  13屯900k  5.184千粒
50年  11屯50k  4.785千粒
51年  12屯600k  6.476千粒
   52年度より操業に入る
   52年   漁獲量 1.256キログラム
53年 1.500キログラム 
 余り良い成績は上がっていない。シジミ貝の生食は良好であるが、湖内
には雑草が生え藻の様な物が沢山あって、漁法に問題点があり漁獲量も
1日1人60kgと制限され人数も両組合員が1日5,6人と割り当ての状態
で、シジミ貝の漁獲時期には丁度外海の仕事が忙しいのと価格が余り
良くないため低調の様である。
 しかし乍らシジミ貝は湖内全般に生殖しているため、密猟者がいて乱
獲するので漁業組合では漁業取締員を選任監視している。 監視の委嘱
を受けたのが本間勝義で、昭和52年から監視員として毎日巡回してい
たが、其の後57年からは佐久間善男が後任として現在に至っている。


四、シブノツナイ湖水門  シブノツナイ湖は、オホーツク海に面し、湧別町・紋別市の2市町に
またがり、比較的農耕地の少ない低地帯であるが、改良整備によっては、
2市町にとって主要な農耕地帯の一部である。
 シブノツナイ湖は海水の出入りがあるが、冬期間は完全に湖口は閉塞し
てしまい、融雪時には湖内は最大に増水する。 又夏期渇水期及び秋期の
大時化には、ときどき湖口が砂で閉塞される。
 そのため湖内の水位が上昇して、湖の周辺の低地は水害を受ける。 湖
口が自然に開口するには湖内の水位が国道238号線を越え、 路上を流
れ開発局が通行禁止にする事もあったが、路上を流れる頃ようやく海岸
の砂山がくずれて湖水が、外海に流れ出すと云う。昔からの繰り返しであ
った。
 したがって自然に湖口の開くのを待っていては、夏期秋期等は直接農
家は被害を受けるため、住民がスコップで水道を掘り外海に排水を行った。
 町は此の状態を解消すべく国や道に働きかけ、昭和42年国費事業によ
る「シブノツナイ沼沼口処理工」によりオホーツク海に通水する様になってか
ら、湖内の水位が下がり今迄の被害も解消された。
 名称は、沼ノ上地区国営明渠排水事業で、昭和44年に完成を見た。
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     100年語り草
            (その二七)・・・団体
     川西の青年剣士
 川西の開拓は四国土佐の人高知県人である。 川西での剣道の先駆者
は明治29年入植者の達人小松先生から当時の青年に奨めた。 はじめは
仲々盛んにならなかったが西沢収柵さんの長男健一等が稽古をはじめた。
その後高知から一刀流の山崎慶造先生が西一線の浜口方へ来たがこの
人極意をきわめた達人だった。
 相当の年配ながら四号線で毎夕稽古をつけることになり、俄然湧別の剣道
熱が高まったのである。 先生の風姿に接するときは、如何にも古武士の風
格に威圧されたという。 当時小松先生は国に帰っており、日露戦争後島村
川西校長の計らいで学校の教室を借りたので夜毎練習できることになり、こ
れを機に集まる者毎夜十数人以来川西の青年ならばたとえ3ヶ月でも竹刀を
握らねば相手にされない状態だった。 島村校長の父君は坂本龍馬の盟友・
母堂は山内藩娘子会で薙刀を身につけた名門母堂も当時かなりの年配であ
りながら毎度教室に出て来て声援したという。時は流れ世は移り敗戦によって
「武道」は連合軍により中止を命ぜられ一時日本から姿を消した時代もあっ
た。
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