愛の故郷 | 第6章 | 社会福祉 |
第7章 | 地域団体 |
福祉行政 老人福祉 児童福祉 青年の集い 婦人の集い 趣味同好会
第1節 福祉行政 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、司法保護司 | 保護司は社会奉仕の精神をもって、 犯罪を犯した者の更正を助けると 共に、 犯罪の予防と世論の啓発に努め、 地域社会の浄化と個人及び公共 の福祉に寄与する事を使命とする。 又、 保護司は法務大臣から委嘱され、 次の事項に掲げる条件を具備す る者。 一、人格及び行動について社会的に信望を有すること。 二、務の遂行に必要な熱意及び時間的余裕を有すること。 三、生活が安定していること。 四、健康で活動力のあること。 保護司は一定の区域に置かれ、 保護監察官では、 充分観察出来ないた め、 これを補うため、 地方更生保護委員会又は保護監察所長の監督を受 けて、 すでに発見された不良行為少年等を、 引き続き注意、 助言を行い、 必要ある青少年に対し継続補導を行い、 釧路保護監察所の方に毎月報告 されている。 大正12年に少年法による嘱託少年保護司が置かれる。 昭和14年司法保護事業法が公布、 司法保護委員に改める。 昭和16年免因保護規定の任務も併せて受けもつ。 昭和25年保護司法が制定、起訴猶予者刑務所からの仮出所者、保護処分 を受けた少年少女等に対する更生、 社会復帰保護等を任務とし各市 町村にて奉仕活動をされている。 川西歴代保護司 友澤 喜作 昭25・5〜昭42・5 伊藤 誠司 昭4210〜昭63・10 黒田 勝雄 平3〜現在 保護司も名誉職である。 |
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二、方面委員 | 困窮者の救済機関として、 北海道方面委員規程が大正6年 (庁令) 大正7年に本町でも5名任命され、 川西から小川清一郎が任命されて いる。 (町史) |
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三、民生・児童委員会 | 方面委員は昭和21年に民生委員と改められ、 方面委員をされに強 化して、 民生委員の誕生となった。 23年4月から児童福祉法施行に より、 児童委員も兼務することになり、 23年7月に 「民生委員法」 が公布され、即施行され民生委員は社会奉仕の精神を以って保護指導 に当たり社会福祉の増進に努めるものとす。 実費支弁の名誉職であり、 民生委員の委嘱については、 市町村に設 置される 「民生委員推せん会」 の選考を経なければならず、 本町でも 28年に推せん委員、 12名が出て改選及び補充の歳の適正な人選を 行う。 推せんいより委嘱を受けた歴代、方面委員、民生委員は次の人々 である。 (川西のみ)
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四、川西会館 | 昭和43年8月、 川西会館建築、これ迄の部落の会合はすべて旧青年会 館や学校を利用していた。 農事組合の会合等は、 それぞれ農事組合長宅持ち廻りとする事もあっ た。 昭和22年建築した青年会館も老巧化して、 大修理又は建て替えの必要 に迫られ、 部落役員会、 総会等により種々立案の結果、 現在の敷地 (寿の家) を、 黒田誠二の好意により譲り受けて新築する事になった。 設計を町に依頼し、湧別町栄町の宮本組が請負する。 総建築費200万円で近代的な会館を目ざし起工したところ、 たまたまこ の会館建築の事を知った川西出身者で、 東京都に在住の宮田慶三郎が故 郷の会館建築に寄附させてもらいたいと、 私財100万円という多額の寄附 の申出が有り、 一方では町から60万円の助成金を交付されたので、 建 築も順調に進んだ。 又、 部落民各戸の負担額も軽く、 付属品、 テーブル、 暖房具、 物置等 と内容の充実した会館として部落民の会合行事に利用する事が出来る様に なった。 尚、昭和48年3月、川西小学校廃止に伴ない、今迄の会館を老人会の集まる 場所も無い現況であるため、 今迄の会館を老人の家に譲って、 小学校校 舎を造作して、 部落会館 (分館) とした。 尚、 運営は独立した委員会を結成し、 管理人を委嘱、 利用規則を制定 した。 昭和49年暮れから、 旧川西校を町の分館として使用する。 旧川西会館は同年から老人会館として、 老人のいこいの場となった。 委員長 (歴代) 岩渕 一男 (学校長) 高久喜三郎 管理人 浅井 周策 中尾 庄一 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100年語り草 (その一七)・・・・老人福祉 川西の古老たち (高桑 記) 開拓者始め部落づくりに活躍された古老の方も今は亡く、 百年間の大きな 時代の移りの中で努力と苦労を重ね今日の郷土川西を導き上げた多くの先人 達の史跡の全容を書き残すにもおのづと限界があり、 そのすべてを書き残す ことができず残念に思う。 昭和35年頃から急激な日本の高度経済成長は、 全道的に農村の過疎化現象を招き例外なく、 ここ川西にも過疎化の波が押し 寄せることになった。 しかし残った人々の人情あふれる心のつながりは一層かたく、 後継者は先人 の意志を継ぎ、豊かな川西を築く希望を持って酪農に取り組んでいる。 現在先輩諸氏は、老人憩いの家に集まり、ゲートボールや昔話に楽しい日々 を送っている。 いつまでも御健康と幸せを祈りたい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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五、川西寿の家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2節 老人福祉 | topへ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、老人会 | 川西には昭和10年頃、 年寄りの人達が申合せで、年寄親睦会と名付 けた集いがあった。 当時は男子部と、 女子部があって、 1年に2,3回 の会合を開き、 碁や将棋をしたり、 慰安・茶話会を催していたと云う。 当時の顔ぶれは、 本宮徳太郎・小谷幸栄・黒田眞次郎・小川清一郎・ 小笠原福次郎・佐々木梅吉・島村戒三郎・出口助次郎・原田浅一・伊藤 代助といった十名程であった。 (清原松太郎談) 其の後、 昭和39年11月、 町内3番目の老人福祉法に基づく公的な老 人クラブを結成、 「川西菊花会」 として発足した。 |
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二、川西老人クラブ菊花会 | 当時の会員は60歳以上で33名、 会則、 役員を決め運営は会員及び 町と福祉協議会の助成金と寄附金によって運営する事にした。 尚、 会名の 「菊花会」 は創立総会に於て会員より募集、 小川清一郎、 提案の名称を決議、 決定し採用された。 事業としては、 当初は月1回の 例会を青年会館や野外で催した。 奉仕作業として、 川西小学校に雑巾の寄附、 会館周辺の清掃・ 植樹・ 花壇の手入等も実施し、 会員の病気見舞・ 葬儀・ 御通夜の参列等も怠 らず行っていた。 又、 社会や周囲も老人クラブへの認識も高まり、 助成・ 寄附金等も増 えてきたので、 例会も毎月1回に増し、 誕生祝に記念品の贈呈、 温泉旅 行など、 福祉的行事をどんどん取り入れられてきた。 昭和38年、 老人福祉法の制定により、 全額町費を以って、 川西婦人 部と共催、 町長も出席、 婦人部から歌や踊りを披露して、 老人達を楽し ませている。 又、 川西老人クラブに対し、 町より昭和47年度、 3万円、 社協より 5.000円、 川西より1.500円、 其の他寄附金を得て、 順調な運 営を行い、 町連合会等にも参加、 交歓会をはじめ、 48年度から、 全町 老人クラブで、 町社教主催による高齢者学級を開催され、 川西老人クラ ブでも講師を招き開催された。 |
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三、川西老人会ゲートボール大会 | 昭和58年春に、佐々木京子が傘の柄の様な物で、 玉を打つ遊びを札幌 の娘から聞き、 これを川西老人会で話しをしたのが始まりである。 これは面白い競技で、 心身共に健康的なスポーツであるとのことで、 老 人会一致した結論で、 同年夏に用具一式を購入し、 湧別町総合体育館の 佐藤、 阿部主事等を招き、 ルールの説明を受けた。 翌59年3月には町体育館に於て、 講師を招き、 講習会が催された。 此の講習会には、 小川清巳・ 山崎敏雄の両人が参加受講し、 大いに 技術の向上と普及に努めると同時に、 町教育委員会主催で年2, 3回の 老人クラブを対象とした大会が催されるに至り、 川西老人クラブでも親睦と 技術の向上を目的とし、 中湧別・ 東・ 錦町・ 信部内・ 計呂地等の老人 クラブとの交歓試合が実施されている。 昭和61年には湧別ゲートボール協会が結成発足に至り、 小川清巳が 初代協会長に選ばれ、 同年第1回ゲートボール協会結成記念大会が開催 された。 併せて各方面へ要請活動を行い、 其の輪は大きく広がった。 同年白滝で開催された審判員資格認定講習会に、 小川清巳が受講、 審判員の資格を取得、 62年には黒田辰夫、 山下良雄、 菅井正三郎、小 玉リノ、山崎春江が資格取得、 63年には山崎敏雄、 宮本尚明、 小川静 子、 64年に伊藤千代子が取得した。 又、 平成3年に宮本尚明が非常に難しい2級審判員に見事合格した。 此の2級審判員の資格を持っている人は各町村でも少なく、 大きな大会の 審判を行うため、 心理的肉体的に大変であるが、 今後の活躍が期待され ている。 昭和61年に初めて湧別町内のゲートボール大会が町営グランドで行わ れた。 以後町内の主な大会は次の通り行われている。 一、湧別町杯ゲートボール協会杯 二、町村杯争奪大会 三、社会福祉協議会杯 四、ロータリークラブ杯 五、議長杯争奪大会 六、自民党杯 この年間の大会を6回行い、 其の他町外の大会にも参加、 管内高齢者大 会、 遠軽地区老人クラブGB大会、 119まとい争奪、 其の外にも多く 参加し、 小川清巳会長を中心に川西ゲートボール部長山下良雄、 宮本尚 明2級審判員等全員が日頃の技術向上の努力と、 心身共に健康でチーム の和の良さと親睦を発揮して、 それぞれの大会に入賞している。 |
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四、第27回川西老人クラブ菊花会総会 | 平成3年事業計画 一、本年度は毎月の例会、 高齢者学級、 花見旅行及び町老連研修旅行。 二、高齢者学級合同学習会、 高齢者運動会への参加。 三、寿の家の花壇、 ゲートボール場の整備。 四、ゲートボール練習各種大会への参加、 近隣クラブとの交歓試合。 五、会員相互の親睦をはかり、 特別養護老人ホームオホーツク園訪問等。 六、本年も元気で明るく、 生き甲斐のある一年でありたい。 |
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五、花壇づくり | 老人クラブの花壇は、 昭和61年小川清巳会長の提唱で役員と相談の結 果、 現在地に決定された。 ブロックは川西小学校の花壇で使用していたの を譲り受け、 伊藤英夫の好意でトラクターで運搬し、 設計は小川会長が行 い町の大型トラック10台程の土砂で土盛し整地ブロック並べ等は会員で行っ た。 又、 オンコの木は高久喜太郎・ 山崎敏雄の寄附を受け、 砂は山本ブ ロックから寄附、 町から環境美化運動助成金を頂き、 花壇は何時も満開で あった。 |
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六、川西老人クラブ菊花会歴代会長 | 初代 小川清一郎 釜神祐次郎 大柳 喜作 清原松太郎 高久喜太郎 本間 資義 小川 清巳 (現) |
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七、川西老人クラブ菊花会班編成表(平成4年) |
100年語り草 (その一八)・・・老人福祉 中尾のばあちゃん 1世紀の長寿 昭和55年、 町の長寿番付で最高齢者、 東の横綱となったのが中尾ヨ シエさん。 敬老の日に町長が早速訪問お祝いの品をプレゼントされ、 直 接激励に大いに喜んだヨシエさんもその栄誉の下にその年安らかな一生 を終わった。 そこでこの機会に中尾ヨシエさんの数奇な一生についてのべて見よう 明治42年中尾龍之助と婚姻、 大正6年36才の時女満別に入植、 大正1 3年西芭露へ、 昭和3年、緑蔭中ノ沢の開拓で苦労を重ねた。 昭和14年 戦時中に夫龍之助死去。 昭和18年南洋諸島のパラオに移住、 終戦に より昭和22年に引揚、 川西西8線に入植、 昭和23年長男正平34才の若 さで、 5人の子供を残して死去、 更に長男の嫁カツエも昭和41年51才で この世を去った。 こうした波瀾万丈の人生を戦争を中心に御苦労されたわけだが、 息子夫 妻を亡くしたヨシエさんの心境は筆舌に尽くし難いものがある。 孫5人と共に農業を営んで来たが、昭和45年庄一・ 妻早知子共に、川西 四線で商店を営むことになる苦労の多い人に似ず男勝りの性格と庄一・ 早 知子の明るい家庭で孫相手に楽しい毎日を送り晩年は幸福だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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第3節 児童福祉 | topへ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、 川西ひまわり子ども会 | 川西ひまわり子ども会は、 昭和40年高久喜三郎が、 農作業に追 われる毎日であるが、 親と子が月1回くらいは一緒に楽しむ日を設けよ うと考え、 提唱指導に当たったのが始まりである。 最初は自分達の農事組合員だけの子ども達、 当時12名の子ども 達を川西の一隅に初めて 「ひまわり」 子ども会が誕生した。 子ども達の自主運営の下に、 会則を決め、 会旗も制定意欲的に子 ども会活動に入った。 以来町内子ども会の中でも優秀な業績を上げて来たが、 昭和44 年にその輪を、 川西全地に広げると共に部落としても、 発展向上を 願って総会で川西子ども会 「育成会」 を結成し全戸が加入育成会員 となった。 又、 会則を制定し併せて役員を選出した。 小学校PTA支部長、 副支部長、 中学校PTA支部長、 副支部長、 社会教育委員、 青少年補導委員、教員、体育部長、 婦人部々長、副 支部長、 婦人部学級長、 区長の12名構成である。 構成の下に、 育成援助計画、 育成助成金等の予算を計上し育成 活動に入った。 又、 町連合組織にも加盟、全町的立場の育成計画も樹立して実施さ れた。 小学校1年生から、中学3年生までの、全児童を会員としたなか で、 各号線ごとに班を組織し、 豊村修先生の指導の下に、毎年度計画 を立て、 行事運営を進め、 川西全体の子ども会に前進した。 |
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二、 川西子ども会育成会会則 | 一、本会は川西子ども会育成会と称す。 二、本会は川西子ども会の発展向上と、 青少年の軒是肉声に寄与するこ とを目的とする。 三、本会は川西地区に住む者をもって構成する。 四、本会の理事は部落総会にて選出し、 会長1名、 副会長1名 会計兼初期1名は理事の中から互選する。 但し理事は、 小学校PTA支部長 副支部長 中学校PTA支部長 副支部長 社会教育委員 青少年補導委員 婦人部々長 婦人部副部長 婦人部学級長 体育部長 教員 区長の12名を当る。 五、理事のにんきは年とする。 六、会長は本会を代表し会務を総括する。 副会長は会長を補し会長事故ある時は其の職務を代行する。 理事は会の運営に当る。 七、総会は部落総会を兼ねて行う。 理事会は会長が必要に応じて開催する。 会議の議事は出席者の過半数をもって決する。 八、本会の必要経費は会費、 寄附金、 助成金其の他の収入を持って行う。 九、本会の会計年度は、 3月1日より翌年2月末日までとする。 十、この会則は、 社会教育委員44年3月1日から施行する。 |
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三、 川西子ども会決算報告書 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
四、 子ども会活動 | 事業の主なものは、 正月やクリスマス、 節句等には盛大な、 たのし み会の開催や、勉強会、水泳大会、子ども会連合会の各種スポーツ競技 大会への参加、カルタ大会には2チーム編成で、 豊村先生、 中尾庄一体 育部の指導で、 優秀な成績を挙げた。 ソフトボール町内大会には、 優勝・ 準優勝と会員こそ少人数であるが、 川西伝統のスポーツマン精神を発揮し何時も好成績を上げているので、 部落民より大変喜ばれている。 毎年3月には中学3年生を招待して記念品を送りお別れ会を催す。 奉 仕活動としては、 各線ごとのバス停留所の清掃を行っている。 又春先には、 上級生と下級生が力を合せて、 リヤカーを引いて空ビン 集めなど、 校外に於ける子ども達同志が、 お互いに結び合って、 より良 い川西の子どもになるべく校外活動を行っている。 冬のスポーツとしては、 スキー、 雪上での 「みかん」 ひろい、 其の他 いろいろと楽しい行事を行っている。 又、旧川西小学校グランドに、 父兄達が出て、 スケートリンクを造成 し、長い冬期間の体力造りに元気良く楽しんでいる。 川西小学校が湧別小学校に統合する迄は、 部落民や子ども達も一応不 安もあったが、 予想に反し、 かえって地域の親子関係の結びつきは高ま り、 子ども会の活動も盛んになった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100年語り草 (その一九)・・・保安 洪水の恐怖 (故 湊 つね 談) 父が入植した所は川西2線の5号線でした。 融雪水や夏・ 秋には大雨 や台風がくると必ず洪水がおしよせるので、 子供心に大水の恐ろしさが 身にしみています。 子供の頃から何回も水に流されました。 昔の湧別川は川の中心がなくその時の状態によって自由自在に蛇行し て幾本の川に分かれて荒れ狂いました。 大雨が降ると父は何時もきかせ てくれたのは、 明治31年の大洪水の事で、 着手小屋と共に流され父は 屋根につかまって流れて行ったが、 途中で太いクルミの木があり、それに 飛び移り水の引くのを待って、 ようやく助かったという。 洪水のときは大 抵秋に多かったが、 折角刈り取りをすませて、 畠に積んだ麦穂の「にお」 が流されるので家族皆で杭を打って、縄でしばったが強い濁流には勝てず、 見ている前で次々と「にお」が流されて行った。 こんな繰り返しに1日も早い 堤防の完成を願っていたが、昭和14年に川西の両岸に堤防が完成したと きは、 最高の喜びでした。 これで安心して枕を高くして眠ることができると 思うと嬉しかった。 私だけでなく、 川西の皆さんも同様だったと思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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五、 カルタ大会 | 湧別町地域子ども会育成協議会主催カルタ大会、 後援湧別町教育委員 会、 社会福祉協議会、 カルタ協議会等が町内地域子ども会の健全な育成 とカルタを通じて、 子ども会員相互の親睦と交流を図り、 昭和44年か ら町中央公民館で毎年行われている。 昭和51年から川西ひまわり子ども会も此の大会に参加している。 チームの編成は、 部落別で単位子ども会員で、 小学生低学年、 小学生高 学年、 中学生の各部とし、 熱戦が展開される。 昭和54年の大会には、 参加して早くも4年目にして、 熱戦の末、 中 学生が見事優勝。 小学生も4位に入る健闘であった。 中学生の部(優勝) 黒田かすみ 中学2年 黒田こずえ 中学1年 井上奈保子 中学3年 清原 満 中学2年 藤崎 栄二 中学2年 毎年わずかの差で、 涙をのむ場面が多く残念であったが子ども達は、 意 外と明るく、 来年こそはと、 希望を明年にかけて元気一杯であった。 練習については、 最初は小学生の低学年から、 中学、 高校、青年、壮 年に若妻会と白髪の爺ちゃん迄、 和気あいあいの練習であった。 此の様な光景は、 あまり他の町村では見られない。 これが本当の家族 的な光景であろう。 54年の大会参加チームは、 小学生18チーム、 中学生12チームで あった。 参加して4年目にして栄冠を勝ち得た事は、 子ども達の友愛と 友情が良いチームワークで優勝に結びついたものと思う。 又、 此の陰には部落全体の指導と協力、 特に子供会育成会長、 黒田 勝雄、 体育部長、 中尾庄一両氏の努力に対し敬意を表したい。 平成5年小学生低学年 (優勝) 野津 哲弥 2年生 菅井 涼平 2年生 佐藤 加奈 3年生 伊藤 修二 3年生 平成5年小学生高学年 (準優勝) 掛橋 誠一 5年生 佐藤 引一 5年生 伊藤 将宗 5年生 野津 章 (育成会長) 育成協力者 羽田 剛 佐藤 義信 伊藤 斉 高久 輝義 水谷 智 |
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六、 全道・全国表彰受ける | 昭和52年 全道表彰を受けた子ども会 湧別町川西ひまわり子ども会 江別市緑町中央子ども会 余市町大川第五子ども会 札幌市月寒東中央子ども会 余市町入舟第二子ども会 札幌市曙わかば中央子ども会 52年の全道表彰には黒田勝雄会長、 中尾庄一部長が子ども会会長藤 崎竜二、 副会長水谷毅を連れて出札表彰を受ける。 53年全国表彰には道の職員が引率、 会長清原満、 副会長佐藤浩2名 が東京にて表彰を受けたのである。 最近は青少年の非行が悪質になっているのが現状である。 それで青少 年の健全育成のために、 団体活動の推進が効果的であるから、 特に婦人 部、 若妻会、 農協青年等の若い方が少年の健全育成に関心を示し、 子ど も達とのふれ合いを多く持っている事は大変望ましい事である。 新聞テレビに報道される非行少年の記事の覆い中で、 川西で発生をみ ない事は非常に喜ばしい事である。 子ども会では遊びを中心とした、 活動及行事を通して、 皆んで協力 し合って活動しているのが特長である。 勿論子どもの自主性と育成会員 全員の協力とが、 うまくかみ合っている。 社会勉強の一つとして、 平成元年に名寄線廃止の声をきき、 いち早く 子ども会全員と育成会員が名寄市迄往復鈍行列車に乗り楽しい一生の 思い出に残る旅をしている。 又、 網走の水族館や網走刑務所、 その他いろいろと見学をさせ、 巾の 広い知識を身に付けさせ、 発表力や指導力を自然の内に身につけさせて いる。 |
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七、 ちびっ子少年少女縄跳びチャンピオン大会 | 縄跳大会は昭和54年度から湧別町教育委員会が主催で毎年湧別総合 体育館及び芭露家畜センターで行われ、 湧別町体育指導員会が行事に 当たっている。 参加の対象は、 児童生徒、 子ども会会員、 保育所園児、 スポーツ少 年団等である。 川西の子ども達も最近参加する様になり、功績席を上げ ている種目は、個人とびでとんだ時間の長い順位、団体とびは12人1組で 12人がとんだ回数、川西の参加者達は全員個人とびを行っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100年語り草 (その二○)・・・保安 高波の悲劇 藤崎 豊治談 大正5年11月26日、夜半から31日にかけて、猛吹雪となり、 オホーツク海岸一帯を襲った。 高波が、海岸近くの漁場の漁家や物置等 を襲い、大損害を与えた。 漁船も砂山に打ち上げられ、住民は猛吹雪の ため非難することもできず、 不安と恐怖におののき乍ら、数日を過ごし た。 前浜では死亡者もなく幸であったが、シブノツナイ湖口近くに居住し ていた。 漁民一家7名は、高波にのまれたり、避難中寒さで全員死亡と いう。 いたわしい事件があった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
第1節 青年の集い | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、青年活動のはじまり | 昔は青年を、 若衆といわれていた。 青年という名前は明治10年代の事といわれているが、村内において、 青年会がはじまったのは、明治32年である。 秋9月、泉霊祭 (いまの秋分の日) に四号線で横沢金治郎の青年塾に 刺激された川西の一部の青年が、これに参加していた。 その後明治35年には、横山玉四郎、宮本光馬、出口助次郎、小川清一 郎、西澤健一等10余名が集って、川西青年会が生まれたのである。 (この状況については第3編、川西の文学の中の小川清一郎の手記に くわしく紹介されている) ので省略する。 明治40年頃の下湧別村の行政は部制をもって区別され、川西も3, 部に分かれていた。 これは大正9年までで、神社、馬頭さんなどの祭祀に おいても狭い部落内で別々でも共用にしても気まずいことから合併を見 たのであるが参考までに合併前の状況は次のとおりであった。
西部地域受持 伊藤代助 宮本正則 橋本勝次 東部地域受持 小松孝寿 橋本助次郎 中部地域受持 友澤喜作 小川市十 「川西処女会 誕生」 大正10年 芭露処女会創立 同11年西芭露に静修処女会創立 大正13年 川西処女会創立 同13年信部内処女会創立 昭和元年 上芭露処女会創立 の記録があり、いづれも学校長が会長となり、校下女子青年の修養団体 として発足した。 大正13年3月に、 道庁告示で 「処女会補助規定」が交付され、 各校下でも次々と結成され、15年には村内に12団体、400名の会 員数となり、下湧別連合処女会 (会長は村長) の結成を見て、 村費から 補助金が交付された。 川西処女会は大正13年4月に結成、記録によると、会則もできてお り役員名簿も残されている。 処女会会則 (原文のまま)
会 長 島村戒三郎(学校長) 副会長 野津 睦 恵(一般) 幹 事 和田 ミツ 小玉ラク 佐藤キヨエ 本宮勝江 金文ヨシ
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二、戦争と青年 | 「青年産業総動員活動状況」 (昭和13年) 一、川西青年団の概況 現在団員 29名 (出征中の者 7名含む) 団 長 小谷 幸一郎 経 費 経常予算、 年額 壱百弐拾円 経費の大部分は団員の共同労働による収益 貯 蓄 基本金 7拾9円 (13年11月現在) 団員貯金四百参円弐拾七銭 特 長 創立以来、武道(剣道)錬磨に精励し其の成績優良 なり 二、総動員活動事項名 イ、心身の修養錬磨 ロ、農業に関する、ざだんかい、講話会開催 二、武道練習 三、軍用軍需品(軍需作物の耕作を含む)の供出 イ、軍用えんばくの耕作及び亜麻耕作 ロ、クロバー種子採取と兎の飼養及び野兎狩り 四、管内青年産業総動員1反歩耕作 五、應召軍人家庭に対する勤労奉仕 六、應召軍人慰問 七、自給肥料の増産と貯蓄奨励 以上の緒項は満州事変当時より、村役場、村農会 (現農協)等に於 いて特に其の重要性をさけばれつつ有るに鑑み、当局の指導を受け且つ 励行し来るも支那事変が起り帝国は、未曾有の時局に突入する団員は 一致団結して本事業を遂行すべく努力すると有る。 (川西青年団公文書綴より) 川西青年会の歴史の古い事は最初に紹介したが大正時代の日誌を 見ると数多い事業の実績があり、 此らが認められ表彰を受けているの で一部紹介しておこう。 ◎ 感 状 (原文どうり) 下湧別村 川西青年団 皇太子殿下御降誕生記念事業トシテ全道男子青年団自力更生総動員 ヲ行ヒタルニ地方適功ノ事業ニ奮励シ其ノ成績見ルベキモノアリ依ッ テ茲ニ感状ヲ呈ス 昭和十年二月十一日 北海道自治協会総裁 正四位勲二等 佐上 信一 ◎ 感 状 川西青年団一同 昭和六年乃至九年事変ニ関シ 其ノ ヲ寄附ス仂テ 褒章条例依リ之ヲ、 表彰セラル。 昭和十二年五月十九日 賞勲局総裁三位勲一等 下条 康麿 證 北海道紋別郡下湧別村川西青年団 右ノ者 時局ニ雰シ、 団員克ク、力ヲ戮セ 適功ナル産業総動員ヲ 実施シ、其ノ成績見ルベキモノアリ、仂テ茲ニ 奨励金ヲ交付ス 爾令一層励協力 所期ノ目的ヲ達成セラレルコトヲ望ム 昭和十四年三月三十一日 大日本聯合青年団理事長 栗原美能留 「川西青年団及び団員産業総動員運動十周年記念に表彰を受ける」 貯蓄動員優良団表彰
網走支庁 藤井 根四郎 文書教育普及優良団表彰 団員数 現在普及部数 普及百分率 今後の普及目標部数 川西青年団 30 25 83・33 30 川西女子青年団 35 23 60・57 35 計 65 48 70・77 65 昭和17年8月 網走支庁 藤井 根四郎 「模範青年団員表彰 (昭和17年) 」 羽田 宏 川西青年団 青年学校研究科在学中 幼少ニシテ母ヲ失ヒ、 高卒后ハ一家ノ中心トナリ、老父ヲ助ケテ 家業ニ奮励傍ヲ青年学校ニ通学青年団幹部トステ熱誠活躍ス。 菅野 リエ 数年前父ヲ失ヒ、母ト共ニ一家ノ中心トナリ、多クノ弟妹ヲ見テ 家業ニ奮励、 特ニ青年団幹部トシテ、貢献活躍ス。 右二名の者が、網走支庁長 藤井 根四郎より表彰受ける。 宮本尚明 「青年勤労総動員研究発表大会に出場」 ◎昭和18年2月 青第631号内政部長通牒に基き、全道研究発表大 会開催に当り、第1次選抜に入賞した宮本尚明は、 下湧別村村長、森垣 幸一、推銭により、同年網走国民学校に於く研究発表している。 研究及び発表事項に付いて、簡単に説明しておく。 一、自己の研究発表要項60部を印刷携行し当日受付に提出する。 二、服装は団服着用、左胸に村名、氏名を着ける。 三、携帯品として「米」3合(必ず持参のこと) 毛布丹前寝巻、防寒用 衣類、団員手帳「青年」 (本) 筆記具 洗面具等 ◎「昭和17年度に於て最も努力した事業」 (活動)。概要及び左記 事項の状況 一、青年畑耕作 二、軍用兎飼育 三、堆肥の増産 四、草木灰集め 五、貯蓄増強(現在貯金及国債消化の総額及1人当り金額) 「川西男女青年団産業総動員共励会実施成績」 (昭和15年) 政府は日華事変、 ノモンハン事件と戦地拡大と共に青年団に対する要 望が強く打ち出された。 要望内容は、格段員の努力と研究力に依り其の 成績向上を期しつつあるも時局下男女青年は国民精神総動員運動の中核 たるべきを以って、其の本領を発揮されたいとの命である。 産業総動員 男女成績 団長 小玉 壮康
「川西女子産業総動員共励会成績」
貯金は別途収入により実施せり 戦争は日増に拡大し日本は有史以来未曾有の時難に直面銃後の産業経 済の強化に熱情に燃ゆる青年の一大使命なる事を痛感させ、男女青年に 一反歩耕作を行い、圃場審査迄を行い審査には団員を立会したのである。 ◎ 川西青年団の活動状況 昭和17年頃の川西の戸数は、67戸であった。 団員は入営、応召中の者をのぞいて32名で、年令該当者は全員入団し ていた。此の頃の団の組織は団長、副団長の下に幹事が6名置かれて、 事業部は、次の6部に分かれ、幹事がそれぞれ部長になってその計画、 遂行、処理に当っていた。 一、産業部を主として青年勤労総動員運動の計画、実行に当り、研究 発表等に関する事項を行っていた。 二、貯蓄部は産業部と提携して、貯蓄の奨励国債の消化等に努める。 三、銃後奉公会は部落会と連絡して、労力奉仕、労力援助、前線慰問 慰問袋、慰問状発送等を行う。 四、厚生部は武道奨励及び体力向上に関する事項を取り扱う。 五、教養部は団員の教養に関する事、常会の開催、青年学校への出席 督励等に関する事などを取り扱う。 六、会計部は団の経費の収支をつかさどる。 昭和17年度予算は大要次の通り 収入 400円 全額団員の共同勤労収益金である。 支出 400円
此の運動は1反歩耕作で全部馬鈴薯を耕作する。これは川西部落の主 要作物が、馬鈴薯であるからであった。総面積が3町1反歩耕作す。 反当平均40俵、1,240俵 貯蓄1.500円位 前年度実績 主業動員による 貯蓄 1.050円87銭 副業動員による 貯蓄 258円30銭 其の他による 貯蓄 447円15銭 計 1.756円32銭 自給肥料 政府の食糧増産指導に対し、肥料不足を補うため、堆肥の 増産に力を入れ、路辺の雑草を刈り取り、1人1万貫積み込を目標に 団員総力を挙げて、実行した。 軍用兎 昭和16年298頭供出(軍隊に)本年は野犬の被害を受け 激減す、現在123頭、明年は頑張って増頭する覚悟である。兎は 手間のかかる割合に収入のない動物であるが時局柄(軍隊に納入)奉 仕活動で力を入れていた。 川西青年団は、別に他の青年団と比較して、目新しい事はないが、然 し、この平凡な歩みの中に、次の4つの誇るべき事がある。 ○ 団員の結束の固いこと。 ○ 団員の親しみの深いこと。 ○ 団の事業に理屈抜きで、皆んなで実行すること。 ○ 武道熱の盛んなこと。 以上の4点は、川西青年団の最も誇るべき、ところであった。 特に、口先ばかりで実行の伴わない者は、どんなに頭が良くても、尊敬 しないことにしている。 武道は別に練習の日を、きめていないが、雨天の日頭、学校に集って 練習をしている。これは川西伝統に連なっている様に思う。 以上4つの美点は、今後共、団員の結束によって、益々助長して行きた いと思うとの事が、昭和18年当時の、川西青年団関係文書に書き残され ている。 尚川西青年団々旗は何時出来たか不明であるが此の団旗を中心に団 員一同協力した事が、理解されるのである。 |
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三、戦後の青年団 | 青年団は自己修練の場と共に、社会奉仕団体としての、自負と責任を 使命として又誇りをしていた。あらゆる部落の仕事を引き受けて奉仕する 事を当然として活動して来たのが実情である。 川西の人達も何か行事のある毎に青年団を、たのみとしていた。 活動資金は自らの基金造成事業を行い調達し、修養面でも夜学、一夜 講習会、剣道、スポーツ等も団旗を押し立てて出場、堂々優秀な成績を 保持続けていた。戦後の青年活動には、多少の目的変化も見られるが、 此れは青年ばかりでなく、一般民衆団体にも見られる当然の時代の進歩 であり前進である。 古い川西の青年史には、今日まで数多くの特筆すべき事が山積みして いるが特に昭和38年演劇の部で、みごと北海道を代表して東京にて全国 大会に出場優秀な成績を納めた事などは戦後の川西青年団活動として、 特筆すべき事の一つであろう。 ◎ 昭和38年全国大会出場者名 中尾庄一 小川征一 黒田紀臣 近藤恒義 岳上昌子 野津季子 スタッフ 堀部辰則 小谷喜一郎 吉本正弘 宮本正明 本間義麿 堀部孝子 水谷勝子 釜神昌子 ◎ 湧青協文化祭及意見発表入賞者 友澤 勇司 網青協冬季大会に於いて 優秀賞受ける 昭和46年 管内勤労青年のつどい意見発表 本間ひとみ 全道大会に於いて 準優勝受ける 昭和60年 青年の主張全道大会 青年団体協議会主催湧青協文化祭が昭和49年中央公民館に於いて開催 され、各団体から、意見発表演劇など各種目に、日頃からの青年団活動 の成果を発表し、川西青年団はすべて上位入賞する。 意見発表 一位 我が青年感 友澤 勇司 演劇の部 三位 川西青年団 コーラスの部 二位 〃 歌謡曲の部 三位 〃 総 合 二位 毎年伝統を守り上位入賞を続けている。 ◎ 川西青年団発表会 川西青年団結成以来初めて、昭和61,62年と2ヶ年間、休団した。 原因については過疎と後継者不足である。 しかしながら、再び青年達は、昭和63年4月に発会式が行われ地 域の関係者の祝福と激励を受け、川西青年団が結成された。 会長に岳上 薫 会員も11名に増え、町湧青協にも加入して友情を 深め、明るい地域を目ざして活動を始める。 しかし我が国の農業は、いわば戦後農政の一大転換期ともゆうべき 事態を迎えている。 市場開放を求める外圧のみならず、担い手の高齢化や、若い後継者難、農 山漁村の過疎化と云う中で、川西では立派な後継者が育ち、日頃生産に努力 している事は、本当に心強い事であるが21世紀に向かって、将来性豊かな、 足腰の強い農業を確立して、活力のある川西を築いて頂けるものと思っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100年語り草 (その二二)・・・・衛生 かわいいトイレ 国道238号線沿い、川西四線中尾商店横の赤い三角屋根で薄緑色の かわいいトイレができて、通行者に大変喜ばれています。 大きさは幅3・15メートル、縦2・3メートル、高さ6メートルの箱型で小さ いながらもデザインがよい建築したのは中尾庄一さん。中尾さんは川西 四線で食料品店を営んでおり、タバコ、ジュースその他雑貨又自動販売 機も置いている。 そのためトイレを借りる人も多く、時には家のまわりで無断で用を足す 人もあるためトイレ建設となったもの建設費150万円。 町内で私設公衆 トイレは初めてで地域のイメージアップにもつながりそうだ。 (平成元年建設) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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四、農協青年部 | ◎ 農協青年部5原則 終戦後の農村は、戦争中の食糧難で、一時的には好景気であったが、 次第に農家経済は苦しい時代に追い込まれて来た。 ここで立ち上がったのが、農業協同組合青年部であった。日を追って 全道各町村に結成され始め、湧別でも昭和25年に結成された。 又農協青年部5原則を柱に結集したのである。 一、農協青年部運動を推進する組織である。 二、農村青年の組織である。 三、自主的な組織である。 四、同志的組織である。 五、政治的に中立の組織である。 初代農協青年部長 山下 忠幸・川西 昭和25年 ◎ 組織の充実 青年部は20才から30才までの者であったが、昭和29年に組織の 充実を強化するため、 「壮年層を含む」 と規約を改正して、従来の青年 部を解散して、農協の健全な運営に協力すると同時に部員の教養を高め ることが目的である。 昭和29年9月 「湧別農業協同組合壮青部」 として再発足した。 川西から、30年に友澤市男、39年には石川藤四郎が部長を努める。 41年に羽田宏農協組合長は、青壮年部役員及び各地区の農業青年 代表を集め、改めて組織の性格や役割を説き、農協青年部の再編を促し た。 其の後準備委員会を設置、懇談会を開き、上記の通り規約を改正し、 年齢を35歳まで、同年4月 「湧別農業協同組合青年部」 と改め部員、 39名で再編成する。 再編成時の役員及び部員(昭和41年)
近藤 恒義 本間 義麿 黒田 紀臣 吉本 正弘 本宮 正明 堀部 辰則 山下 哲夫 掛橋 憲一 佐藤 繁春 駒形 光 藤本 敏明 鈴木 明充 小谷喜一郎 中尾 庄一 青年部名称の移り変わり 昭和25年 農業協同組合青年部 29年 湧別農業協同組合青壮年部 41年 湧別農業協同組合青年部 現在に至る ◎ 農協ヘルパー制度 川西では、農休日を決めて実施した事があったが、持続しなかった。 其の後一部の者から、ヘルパー制度を取り入れてはとの話しも出たがこれ も実施出来なかったが此の制度は根強く残った。昭和53年農協の総会 に於て 「ヘルパー制度について検討しよう」と提案された事に基づき 役員会で検討委員会の設置と委員の構成を決定する。 委員次の如し。
イ、酪農ヘルパーの必要性。 ロ、他農協で実施されているヘルパー制度の実態と問題点。 ハ、実施する上での問題点と実施方法。 等を中心に検討実態調査として、紋別、佐呂間、渚滑農協書類調査、 遠軽農協では現地調査、ヘルパーの人と懇談し具体的な意見を聞く。 必要性については、湧別農協内で、家族労働2名以下の農家が約80 戸あることを考え、冠婚葬祭・病気・傷害などの際、必要がでてくるで あろうとの考えで、検討した結果次の実施要領案にもとずき実施する ことに結論を出した。 昭和54年に農協理事会で、本格的に検討した結果実施に踏みきった。 治パーは青年部から推せん、次の5名が決まった。
○ 利用対象者と利用日数 イ、冠婚葬祭等により搾乳労働の出来ない場合。 ロ、疾病、傷害等の一時的事故により搾乳労働の出来ない場合。 ハ、 飼養管理技術等の研修取得のため搾乳できない場合。 二、利用日数は1ヶ月4日以内が原則特別の場合は組合長が認めて 延長される。 ○ 委託を受ける労働の範囲 イ、全頭の搾乳、全頭の餌づけ(育成牛、哺育牛含む) 及び牛舎内 の簡単な清掃。 ロ、牛乳の管理 ハ、搾乳器具類の洗浄殺菌、但し放牧は行わない。 ○ 利用申込と利用者の準備 イ、畜舎内に黒板を1枚以上設置。 ロ、牛体のそばの柱又は横木に牛体番号を記入して置く。 ハ、濃厚飼料の給与量を牛体番号順に記載して置く。 ニ、哺乳量は黒板に記載して置く。 ホ、搾乳の際乳房を清拭する布バケツ等は畜舎内の目立つ場所に 置く。 ヘ、搾乳器具及び洗剤等は、所定の場所に確実に保管して置く。 ト、全く留守になる場合大事な物品については厳重に保管して置く。 ○ 事故免責 イ、組合は受託中並びに引き渡後の苦情及び事故発生等については、 責任は負わない。 ロ、利用者は搾乳者が変るためによる乳量の減を了承すること。 ○ 事務局 営農課畜産係に申込む 6 酪農ヘルパー利用料
だが、問題点が無い訳ではなく、改善する事項もある。 特に他産業の週休2日制の実施に伴い、酪農家も大きく躍進すべ く現在検討中である。 尚54年から、川西からは、次の者が選ばれた。 佐藤 義信・山下 音人・藤崎 一彦・友澤 直樹・ 水谷 智 ・岳上 薫 ・黒田 将樹 これらの者が平成3年まで活躍した。 ◎ ヘルパー利用組合発足 平成2年度に、酪農、畜産製作価格要請時に、酪農家にも休日がとれ る制度が確立要請され、国・道・連合会・農協による、14億円の基金 設立をし、その運用益を財源に、ヘルパー組織に助成をする制度ができ た。 湧別としても、他産業は労働時間の短縮傾向に有り、更に農業後継者 難の問題等、社会的潮流の見直しの必要から、酪農家が自ら計画的な休 日を導入し近代的な酪農経営にふさわしい、生活環境改善を図るため、 町内3農協の組合員が一体化となり、「湧別町酪農ヘルパー利用組合」 を平成4年4月1日から発足した。 この利用組合に加入組合員は、湧別農協、47名(内川西15名) 芭露農協、62名・畜産農協、11名の120名となり、専任ヘル パー(農協職員出向)2名とする。 又補助ヘルパー(酪農後継者)15名体制で行う。 専任ヘルパーは定休日型、補助ヘルパーは緊急避難型利用とした利用 形態をとる。 ヘルパーの業務は圃場での作業を除く、乳牛飼養管理作業としている。 これで酪農家も休日、日数は少ないが、農家にも休日が取れるという 事は一般社会からの農村の見方又農家自体の生活が大きく変わっていくも のと期待されている。 昭和54年に湧別農協だけの、ヘルパー制度で青年部を軸として、 行って来たが、今回は専任者を置き全町的に其の輪を広げただけに期待 も大きいものが有る。 尚川西の伊藤 康弘が専任ヘルパーとして湧別農協に籍を置く。 「農協青年部のまとめ」 事業の内容、生産、教育、研修の分野に分けて、それぞれの経営改善、 技術の習得を目標に活動を進めている。 生産活動、共励会の実施。 支部を基礎として、坪刈りによる収量調査、粗飼料の分析、土壌分 析を行い、個人の生産向上のために、ジャッチング・乳量・ビート 生産に分けて共励会を行い表彰する。 研修・教育活動 ソフトボール大会を行い部員の交流を深めたり懇談会、講習会を行 ない技術の向上をはかる。また道内の優秀な農家、試験場などを視 察すると共に、道外、海外と広い視野での活動を続けている。 ◎ 海外視察研修 |
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五、道民の船青春の航路 | 昭和50年友澤勇司23歳、清宮ハナ子20歳湧別町で2人はまちより推 せんされ、昭和50年9月から10月迄30日間にわたり洋上研修をし ながら日本と地理的歴史的にゆかりの深い、アジアの国々の風土と文化、 そして人々の生活を肌で感じ人間愛と国際理解を身につけて、現地住民 との交流を促進し、親善友好をより一層深めるために派遣された。 派遣される条件として先ず協調性に富み、団体生活に適応し、船上生 活及び此の研修に耐える体力を有し、地域の職場、団体等に於て現に活 動し、もしくは事後に活発な活動が期待出来る人が市町村から推せんさ れた。 趣旨としては、北海道に住む青年及び家族婦人等をアジア諸国に派遣 し洋上における、船内研修及び現地青年の交換視察研修を通じて相互学 習を深め連帯感と視野の拡大をはかる。 又国際親善に豊かな郷土社会の実現に寄与するものです。 尚視察団で 友澤勇司は研修者の代表役員として活躍した。 刺殺研修地は、上海・中 国・香港・バンコク・マニラ等であった。 昭和56年11月から22日間友澤直樹・水谷智・両人が友澤勇司と 同様の内容でまちより推せんされ道民の船で、中国・香港・フィリッピン・ 沖縄等を視察研修している。 尚以上の3人については、道内・道外・海外と巾広く、視察研修し、部 落内のけん引的活動を、続けているが、今後も大いに活躍期待されて いる。 |
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第2節 婦人の集い | topへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、婦人団体の移り変わり | 明治33年に北清事変の折、慰問使として現地に赴いた奥村五百子が 帰国後出征軍人及び傷病の慰問、遺家族援助も行う目的で、婦人団体の 創設を提唱し、同34年大日本愛国婦人会を結成した。 これが我が国婦人団体のはじめであった。明治39年には北海道支部 が設立された。大正8年下湧別村では会員数101名、大正15年には 140名に増加している。 川西で婦人会が結成されたのは昭和に入ってからという。古い記録は ないが、満州事変以後、銃後の守りを固めるための意識昂揚が大きな目 標で、大日本国防婦人会が昭和7年に結成され、川西ではまちの下部組織 の班ということで参加し、男性の銃後を守る後援会組織を 「婦人」も、 活動に参加するという、形で組織された模様である。 もともと愛国婦人会は上流社会の奉仕活動を主体としていたのに対し、 国防婦人会は村内の一般婦人を対象に生まれたもので、銃後の守りのため には、男子だけでは、不充分なので一部は助成にも受持ってもらおうと いうことに発している。戦時に入って非常にその重要性は増したものの 政治的に女性には参政権のない時代だったのである。戦争も進展して来 ると、愛国・国防・両組織の中に、活動上何かしっくり行かない面が表 面化したことから、双方統一して「大日本婦人会」が成立したが、これ は昭和17年のことであった。 いよいよ婦人の活動範囲は拡大され、戦争の激化と共に全戸加入が時局 に応える婦人の役割とされ、半ば強制力を伴うものであった。 主な役割をあげて見ると、出征軍人の歓迎・千人針の製作贈与・慰問 袋の作製と送付・遺家族・出征兵士の家族慰問であった。 又 「兵隊さんは命がけ、私達はタスキがけ」を標語として、必勝貯蓄の 増強と活動分野は広く出征軍人留守家族の労力援助は心温まるものがあ った。 戦時中の歴代会長 小川 みや 伊藤 照子 大柳 とせ 小玉 らく (順不同) |
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二、川西地域婦人部設立 | 昭和20年8月の終戦までは、それぞれの団体や組織がつくられて、 国に対して、婦人として最大の協力をして来たが、終戦と共に、全団体 及び組織は解散を命ぜられた。 其の後国民は敗戦の動揺と、今迄の緊張感がゆるみ、世の中は乱れ はじめた。 非行の道に走る青少年も次第に多くなった。ここで非行少年の誘発を 防ぐには、婦人部の活動が必要であった。 一方、終戦後は憲法改正・地方自治法の制定などで、婦人の参政権も 認められ、地位向上が図られ、婦人部も自主性を以て、活躍する場が与 えられる世の中に変わっていたことも見逃せない事実であった。 川西でも婦人の立場から、社会に貢献すべき分野も多かった。この様 な実情が、婦人の社会的進出を促す、行政指導が起こり、昭和27年川 西地域婦人会が設立された。 これは、社会教育主事等の指導のもとに、民主的な婦人会活動の動き が台頭し、更に村の婦人協議会との連合組織にも参加して活動すること になったが、36年農協婦人部設立により、2,3人を除き全員が農協 組織に参加したのである。 それまでに至る、歴代会長は次のとおりである。 山下 辰代 釜神まつよ 辰田さよ子 井上よしえ 大水 フメ 清原 きわ (順不同) |
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四、農協婦人部川西支部結成 | 昭和36年9月、農業協同組合をより処として、婦人の地位向上と、 生活の改善・合理化を図り、住みよく明るい、豊かな農村にする事を目 的として 「湧別農協婦人部」が発足した。 初代会長に 山 カヨが就任し第一歩を踏み出す。 昭和27年川西地域婦人会が設立されていたが、36年農協婦人部が 結成されたために、川西地域婦人会は、農協婦人部により、農協婦人部 川西支部として発足した。 初代支部長 辻 悦子が就任。 最初に支部内の会員を4地区に分けて、2ヶ年毎の当番制とし当番地 区から支部長役員を出す方式で決定する。 昭和45年度まで事業を行って来たが、46年からは、1当番地区を2ヶ 年役員も含むと変更した。 事業としては、農協事業への協力、料理や手芸の講習、家計簿の記帳 敬老会の主催や老人クラブへの援助・農村婦人の地位向上への研修会・ 村づくり・環境衛生の指導等を実施した。 |
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五、新婦人部の活動 | 以下、農協婦人部の活動を年表式にまとめて見よう。
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六、家計簿 | 昭和36年に、湧別農協婦人部が発足、此の目的は農協と連絡を保ち、 婦人の地位向上と生活の合理化をはかり、住みよく明るく豊かな、農村 にする事をめざす。 又この目的を達成するため、婦人部で先ず取り上げたのが家計簿の記 帳運動であった。 それは営農面では「営農計画書」を重視し、ある程度の計画を樹立し 又生活面でも計画をたて、実績によって、反省点も沢山出てくる訳で、 それを発見することにより、生活の合理化も出来ると云う考え方に立っ て始めたものである。 ◎ 家計簿記帳共励会優秀者名 昭和37年度は、団体賞のみです。 最優秀賞 西湧農事組合 優良賞 川西第2農事組合 個人年度別優秀者
ノブさんの家計簿が選ばれ、北見地区共励会で最優秀賞に選ばれた。 |
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七、いずみの会の発足 | この集いは、当時川西地域婦人会の役員をされていた、清原キワが、 若い嫁さん達に対しての理解と暖かい思いやりで、昭和35年川西地域 婦人会の協力推進の下に、35歳迄の若妻達のグループによって結成さ れた団体である。 若い婦人の立場から、現時代の婦人活動を考え、社会的に又農村婦人 としての生き方を勉強して行く事等を目的としている。 川西の若妻会は、町内で2番目の誕生であるが、昭和36年川西地域 婦人会が、湧別農協婦人部川西支部に変わり、若妻会は昭和48年に農 協婦人部に所属した。 したがって湧別農協婦人部川西支部を親とする「若妻グループ」で、 婦人会と協力して事業を進めている。 尚会名は「いずみ会」設立総会の時に全会員から募集、初代会長の友 澤ノブの提案により「いずみ会」と決められた。 ◎ いずみ会の活動について 当時の農村の婦人は忙しかった。子どもを育て一家の食事の事から家 の中の掃除、選択、農作業と、実労働時間は主人よりはるかに多い。 したがって子ども達の学校への顔を出す事が少ない、婦人達のなやみの 多い中で、1年目は自分達が行っている事を中心にいろいろと話し合った 結果1つの議題を決めると云う様なむずかしい事でなく、主婦達の願い である、家庭を明るくしたいと云う事を皆んなで、真剣に考え、話合いを 行った。 ◎ カロリー計算を勉強 どこの婦人会でもそうで有るが、川西のいずみ会もやはり、最初は料 理の講習会から始まり、主として牛乳を使った酪農食を造る事に専念し たが、最初は各人が勝手にドンブリ勘定であった。 料理の味見をしている内にカロリー計算に目をつけて、湧別高校の先 生に正確なカロリー計算をしてもらったところ、自分達で考えていた数 字とはかなりの差がある事を知った。 それからは、熱心にメモを取り正しい、カロリー計算をする様にな った。 ◎ 機関誌いずみを発刊 昭和37年には川西小学校で勉強会を開いた。講師に川西小学校の校 長、社会教育主事で、料理からお花、子どもの教育、小家畜の飼い方等 を習う。 普段は忙しくてペンを持つ暇がなく、お互いに思っている事を話し合 って来たが、一歩進んで自分達の記録を残してはどうかと考えた。 会員が原稿を持ち寄り、ガリ版刷りのものであったが若妻会員の熱意 の結果で、立派な内容の「いずみ」第1号が発行された。 其の後も続けて北光された中で、昭和37年農業北海道十月号、北海 道新聞社が毎月発行「いずみ」が写真3枚入りで、大きく掲載されたの である。 主な内容について少々ふれて置く。 一、生活記録の発行。 二、恵まれた酪農地帯。 三、楽しい農休日 四、明日の希望 五、川西地域婦人会員の思いやり。 六、カロリーを計算する若妻達。 七、姑様の誇り 八、生活の記録を残そう。 会誌「いずみ」によって、自分達の生活を1つの文章にまとめ 3号、4号と持続発表された事は、当時として(昭和37年)まだま だ保守的な農村地帯にあっては、非常に雄貴と決断を要した事と思う。 農業北海道に掲載された後に、各町村の婦人部、若妻会より、内容及 び活動をお知らせ下さいとの取り合わせが驚く程届いた。 会長の菅野キヨさんは返信に、うれしい悲鳴であった。会長始め、い ずみ会の皆さんの協力と努力がこの様な立派な結果を産んだものと思う。 又社協主事の由利先生、川西の星校長先生の指導には頭が下ったと当 時の会員は皆口を揃えて敬服している。 ◎ いずみ会の味 昭和50年前後のいずみ会は、働く農村の健康を守るため、家庭の 円満は先ず健康からの、スローガンを掲げ、物価高と闘い乍ら、集 めるたびに家庭の経済を話し合い、自家生産される農家の副産物 を如何に00%に使用出来るかを、お互いに検討した。 自給自活の精神に燃えて、婦人部と同様、湧別町の畠山マサ子先 生に講習をお願いしてひざを交えての栄養料理に取り組み、立派な成 果を上げ、家族からも大変喜ばれ若い婦人の教養を高めた。 「おふくろの味」と云う言葉が有るが、農村の若き婦人の味を家庭内 の夕食のかおりをただよわせている。 又暖かい南の太陽の光の入る川西公民館に、若妻が集り、子供の事 から家庭の事と、色々と絶団を楽しみ乍ら、小椋敏子さんが高校時代に 習った手芸や、本を購入研究されていずみ会の方々に教え、会員の方か ら大変喜ばれた。 (昭和52,3年頃) ◎ いずみ会生活工夫展 生活工夫展の主催は管内農協婦人部で、管内全地域の農協婦人部が参 加して行われている。名前の通り生活工夫展とは廃物利用とはいかない 迄も古い物をもう一度見直し日常生活に利用しようと云うものです。 又食べ物に始まり、交通安全マスコット、部屋の飾り物等、巾広く工 夫され出品されている。いずみ会では皆んなで考え、協同作品として出 展している。今迄の代表責任者と作品名は次のようなものがある。
いずみ会の会長は順番制で、全員が持ち回りで努める事にしている。 ◎ 頑張るいずみ会 川西地域も本格的な機械化時代に入っている中で、若い婦人の方は乗用車 は勿論であるが、大型トラクターに乗って農作業は、本当に力強く感じさせら れると同時に、自分達の経営について、一生懸命勉強をされている。 他の町村の酪農家の刺殺、研修旅行や社会見学等、巾の広い活動を続けて 、それぞれの成果を上げている。 昭和52年から会員全員が日頃思っている事を素直に1冊のノートに書き続け 、心のつながりを持ち続けて励まし合い乍ら頑張っている。 此の友情は若妻にとって、何よりの財産であろう。 素晴らしいことであると共に継続を望む。 |
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第3節 趣味同好会 | topへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、林業グループ | 川西も開拓以前は巨木の森林が空を、おおい野生動物の住家で あったろう。しかし乍ら開拓入植以来、平坦肥沃な濃厚適地であるた め、開墾は急速に進んでいった。 明治末期より大正初期にかけては、早くも7線以西の、野津、和田両 牧場地帯及び国道から南の6線寄りのシブノツナイ境の大谷地の粘土地 帯を除いては、ところどころに僅かな家敷内の大木が孤立して1,2本 そびえていた。 こうした川西地域内の林野の中に終戦となるや、残された7線以北及び 国道南の6線以西の牧場を初め、通称堀川、黒田牧場と云った地帯も農 耕地又は採草地及び遊牧地となって、現在川西行政地区内には、森林と しれ名付けられる免責は僅かで、個人所有地が少しだけあるだけである。 其の他部落民の山林所有者の大部分は隣接で、緑蔭を始め、東ノ沢・ 中ノ沢・西ノ沢と他地域での所有者が多い。こうした状況から、川西の 人々も自家用燃料も、昭和初期頃より他の地域に求めたのである。 終戦後は、急激に木材が高くなり、又住宅事情も変って、石炭から石 油に移行した中で、古くから木材王国をもって木材の供給の役割を果た して来た北見地方の山林資源も戦後の需要増大で多くの山がはげやまに なった。 昭和47年に川西林業グループを結成し、山造りの第一歩をふみだし た。林業グループは任意の集まりで、自主的に森林愛護育成に努める事 であった。グループの者は僅か乍ら皆私有林を持ち、将来の展望に立ち 造林及び天然林をいかに推進させるか森林資源の育成が最大の課題で このためグループでは、遠軽営林署、湧別森林組合等より指導者を招き 緑の週間に始まり、保育強調月間、野ねずみ駆除強調月間、更に間伐強 調月間、又コンパス測量の基本技術等、其の他一連の指導を受けた。 ◎ 管内林業グループ発表大会 網走支庁主催林業技術交換研修事業発表会が、昭和52年1月留辺蘂 にて管内林業グループの発表会が行われた。 川西林業グループを代表して、中尾庄一が発表した。又伊藤務が遠軽 地域の総合意見発表を留辺蘂で行った。 管内大会で中尾庄一の発表の内容を簡単に記載して置こう。 私達のグループの地域は、本町の西部に位置し、ほとんどの会員が酪 農で1戸当たりの農地の保育面積は、平均で13.3ha、乳牛飼育平均2 8頭山林保有面積ha余り、地域は湧別原野の一等地、従来は純畑地 昭和25年頃より、ぽつぽつ乳牛を導入酪農に変わって来た。 平坦地のため、一部を除いては経営林は近くになく5.6k離れた地 域に点在しており、朝に夕に山の移り変わりを見る事は出来ない条件下に 有り私達同志が集って山林の経営に付いて語り合って、林業グループの 発足を見た訳である。 昭和47年秋からは、将来に向けて林業に関する事に付いて、集会を 続け語り合った。 丁度結成当時47年頃は、日本経済の浮揚の時で、昭和元禄とも言わ れ、消費は美徳として消費し、宅地及び森林の大手の買い占め、マイ ホーム建設の最盛期に入り、庭園樹・花壇・街路樹等、環境緑化木等 なんでも売れるとも事で森林組合から指導を受けて、グループの一事業 として、山採り街路樹の養成を始めた訳である。 の津牧場から、シラカバ・ナナカマド・サクラ・等47年48年と、 2ヶ年に約1.000本余りを移植し、我が子動揺に、下草刈り野ねず みのくすりまきを会員で実施し、100%に近い活着を見た。 1本が800円、高さ2米50cm以上で売れるので、80万円の収入 になると会員は将来の使い途まで相談をし、「とらぬ狸の皮算を夢みて」 楽しんだ。 昭和50年を過ぎると、まったく街路樹の需要もなく、時には1本 100円位なら買うとの話しで、ブームに乗った夢は破れた。 しかし乍ら、此の間グループは色々と良い経験を得ました。自然環境 とくらべて、成長の良否、採取の方法、下草刈りの効果等実際に体験し 金で買えないものを会得したのである。 又グループは毎年事業計画をたて、特に実技訓練を主体に測量(コンパ ス)除間伐等現地で行い、数多くの成果を挙げました。 冬期間は10時間位いの林業の技術と一般知識の講習を、遠軽の林業指 導所長、森林組合から来ていただいて講習を受けている。 特に井戸の中のカエルにならぬ様に毎年視察旅行を行い研修をし、最初 は地元森林組合の施設向上所有林の列状間伐展示林を視察、更に遠軽の 家庭学校林、丸瀬布の緑の工場、留辺蘂のカラマツ利用センター美唄光珠 内の林業試験場等を見学、林業に対する認識と意欲を一層深めた。 又湧駒別温泉で一泊し、早朝耐雪山の主峰、旭岳を全員で登り、1人 の落伍者もなく無事下山、緑の大自然のすばらしさを、あらためて認識 した次第である。 私達のグループは満5年の歳月を過ぎた。 今後の課題として、青年の山、実習林造成を森林組合と町に働きかけ て我々の手で山を造成するべく、現在検討中で有ります。以上の様な事 を発表され、多くの方から好感をもたれた。 昭和55・9 湧別森林組合倒産 林業グループも解散する 56・6 新森林君見合い創立総会にて発足する 63・6 川西より小谷喜一郎理事に就任する 川西の山林、林地、総面積 279町2反9畝 人工林 120町7反8畝 天然林 156町5反1畝 (50年役場調査) 昭和55年林業グループ解散後、木材の価格が下がり始めた。 大きな原因は外材の輸入であろう。このため全道、全国的に木材の不 況が続く中で、次第に山に対する関心がうすらぎ、現在では林業関係で 働く若者もいなく高齢者のみで有る。此のままの状態では山の造成は不 可能に近い、行政は見直しを図るべきであろう。 |
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二、協明会(昭和30年発会) | 昭和30年川西の中堅層である25〜50歳位迄の人達による任意 組織の団体である。 組織の目的は、経済、政治、社会特に農業問題、部落造り等の研究を 推進しようとの熱意で結成された。 其の実績も数多く、新生活運動推進・家族計画・農休日の設定・川西農 業の機械化と酪農の推進等であった。 又先進地の視察等も何回も行ったが、町内視察の意見も有り町内外の 畑作酪農其の他一般の内容に付いて、川西との比較検討をし、直接部落 民の福祉向上が結びついた、数多い実績を残して来たが。 其の後農協青年部と合併し、昭和40年解散する。 尚協明会の名前に付いては、川西3線2号に在住の新宅政一氏が命名 する。 |
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三、昭和会 | 昭和50年のこと。 昭和生れの方が数人集って、再三会合を開き現在産業の活動団体及び グループは、今迄も数多くあり活動して来たが、社会の活動団体がない ため、足腰の強い団体を結成すべく、努力した。 昭和生れの年代と云っても、上は48歳にもなり、ただ生産活動に意 欲燃やすだけでは、現在の激しい日本の社会情勢の中では到底、立遅 れていくのが現状である。 其の意味で、20歳以上の昭和生まれの年齢層を持って、昭和会を構成 して取り巻く地域社会のなやみや問題点などを話し合い、お互いの意志 の疎通を計り、各関係機関への意志の反映が出来る道を開くべく、川西 地区に住む、昭和生れの者の政治意識の高揚と、地域社会の建設及び郷 土発展に寄与すべく昭和会が発足された。 昭和50年の町議選に昭和会より野津一夫が推せん立候補初当選を上 位で飾った。 同年湧別農協理事選挙に原田繁雄が昭和会が推せん上位当選となり昭 和会結成と同時に、若いエネルギーが爆発的に活動を始めた。 其の後も前向きの姿勢で、すべての事に取り組み、立派に目的を達成 して来た。 昭和58年2月9日に残念な事に、野津一夫が死亡、52歳の若さで あった。町議2期を努め、これからの人であっただけに地域的にも町政 に於いても惜しまれる人材であった。 同年3月後任として昭和会から原田繁雄が立候補上位当選をしている 原田繁雄は当時農協理事であったが、昭和62年に農協理事を辞職し、 町議で活躍している。 産業建設常任委院長、議員町議会推せん農業委 員等其の他多くの公職を持ち巾広く活動している。 |
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四、川西釣り会 | シブノツナイ湖、オホーツク海、サロマ湖と治から明きまで気温も快適レ ジャーの好季節で、水温も魚族には適温となり、動きも活発・湖・沼外 海と銀鱗を追う釣りファンの姿も一段と盛んになってくる。 川西では釣り好きの人達によって、同好会をつくり、農作業の合い間 を見ては、オホーツク海や湖沼にて釣りを楽しんでいる。 昭和49年9月4日待望の釣り会を結成、役員等をきめる。 釣り会結成後には、外海まで足を延ばし、オホーツク海や遠くは根室 海峡の標津までもサケの一本釣りに出かけた人もあった。 又冬の氷下漁にはシブノツナイ湖・湧別浜・サロマ湖・バロー川等冬 の健康維持とレジャーをかねて多くのマニアが楽しんでいる。 ◎ オホーツクフィッシングIN湧別川大会 第5回オホーツクフィッシング大会が平成4年7月11日に行われた。 この地域の母なる川「湧別川」は、北大雪山系を水源とし、オホーツ ク海を結ぶ88kmにおよぶ中に白滝・生田原・遠軽・上湧別・湧別の 各町村があり、豊かな清流と大自然をいかした舞台の中で全道から 集まった太公望、と云っても初心者からベテランまで、また子供から年 配そして婦女子迄、誰にも親しまれるこの大会では、農業・林業・水産 業・商工業に従事する方々が業種を越えて交流を図り地域の活性化を 含め盛大に行いその異議は大きいものと思う。 近年急速な河川整備が各地で進み、河川から自然らしさが失われて きたと言われる中で湧別川は、今なおその醍醐味を満たしてくれる数少 ない河川である。 湧別川流域6ヶ町村が今後共連携を深め、永遠に美しい自然を満たし つつ、豊かな恵を残したいものである。 なおこの大会には川西からも多くの太公望が参加している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100年語り草 (その二三)・・・衛生 はねつるべ 昔の飲料水は川水・沢水・中にはたまり水・などを使ったが、寒い北 海道では凍って、冬は自然の水にたよることはできなかった。そこで住 居が定まったときに入居者は井戸を掘った。井戸は地下を掘り下げ水の 出るところまで、10メートルも20メートルも掘って土が崩れないよう に、木枠を入れてツルベで汲み上げたがこれも一仕事である。風呂の水 くみなど子供達では一時間余りかかった。そこで少しでも労力を楽にす るため、はねつるべが考えられたのである。井戸の木ワクは昭和になっ てからコンクリート管を何本かつぎ足して入れたので破損しなくなり長 くもつようになった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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五、猟友会 | 川西原野及び山の近い森の中には、昔からノウサギが多く生殖してい た。又湧別川、古川、シブノツナイ湖等には、群れをなして、木の葉の様 に波にゆれ遊ぶ水鳥の姿は、本当に優雅な生活で、天国其のものであ ったであろう。 川西で始めて鉄砲が入ったのはさだかでないが、明治42年頃野津幾 太郎が一人所持していたと云う (清原松太郎談) 其の後、父親から野津不二三が引き継ぎ、昭和5年頃本間資義、同1 3年宮本正則と終戦迄(20年)川西には3丁の猟銃しかなかった。 猟友会の発足は、昭和も10年頃で、当時の猟友会は会則もなく、只 申し合せの集まりであった。 戦争中は、1年に1人が20枚のノウサギの皮を警察署へ強制納入が 義務づけられ、納入しなければ、次の年の鉄砲の鑑札が貰えなかった。 このノウサギの皮は兵隊の傍観衣服類に使用されたそうだ。 又、カモの毛も納入させられた。カモの毛は兵隊の負傷患者に使用す る布団(羽毛布団)に使用されたと云う。 昭和30年代に入っても、野津牧場・旭・信部内・バロー方面等・湧別 町一帯、どこにもノウサギが多く生殖していた。 ところが、35年頃から政府は植林事業に力を入れ始め、植林地に対 して補助金を出す様になった。湧別森林組合も、トド松、カラ松の苗造 りを始め、組合員に対して造林奨励と、積極的な造林指導を始めた。多 くの組合員は、将来の夢を見て、造林事業に励んだ。 この頃、カラ松の2年生から10年生位までの幼木を、ノウサギが、 皮を食べたり先の方からかみ切って、大きな被害をあたえていた。 此の様な事から森林組合は、猟友会に対して駆除を依頼し、駆除奨励 金をも出す様になった。 この頃から、ハンターも多くなり、計画的に、西は沼の上・西ノ沢・東ノ沢 ・東はバロー・志撫子・計呂地方面まで、造林地保護と、レクリエーション をかねて、ノウサギ撲滅運動を展開して関係者に大変喜ばれた。 昭和50年頃からキツネが増えて来て、ノウサギの姿は全く見られなくな った。 当時のキツネの皮は、1枚16.000円位したので、ハンターは目の色を 変えて、キツネを追い廻した。しかし毎年毎年湧別地区で5360頭のキツ ネを捕獲したが、一向に減らなかった。其のうちキツネの皮の相場は年 々下がり、u年には良い物で、1枚1.500円位となった。 昭和62年、東地区と芭露地区で捕獲したキツネからエキノコックス の原虫が検出され、湧別町もエキノコックスの汚染地区に指定された。 ハンターは、キツネの皮が安くなったのと、エキノコックスが気に なって、キツネに触れるのを好まず、次第に狩猟意欲を失って来た。 一方キツネはどんどん増えて来るし、思いあまった町は、猟友会に対 して、1頭5.000円の奨励金を出して駆除を依頼する。猟友会は、 其の後も、毎年町の要請に応じて検体キツネを提出して来たが、平成2 年1頭、3年に1頭、検体キツネの中からエキノコックス虫が検出され た。 湧別地区のキツネはすべて、エキノコックス虫を持っていると見るべ きであろう。幸いにも湧別町から一人の患者も出ていないことは何依りの ことである。 猟友会も町の要請に答えて、キツネをはじめシカ・カラス等の有害駆 除に積極的に協力している。 ◎ 有害駆除でシカを捕獲 昔はシカの姿を見るのは珍しかったが、近年は畑にも出て来る様にな って、人々の目を、たのしませてくれる反面、有害駆除の対象にもなり 複雑な気持ちがする。 ◎ カモ類捕獲 10月1日 解禁日 近年ハンターの規則が非常にきびしく規定されている。湧別部会及び 川西班の人達は、細心の注意と、マナーの良さで事故及び違反者の無い 事は何より喜ばしい事である。 |
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六、川西旅行会 | 川西地域内には農協婦人部・農協青年部・若妻会・青年団・農事組合 其の他農業関係の団体・老人会・子ども会等、多くの団体が有り、地域 の人達は、その何れかの団体に関わっている。 各自1年間に2回以上研修会見学会慰労会の名目で、日帰り又は一宿 以上の旅行を楽しんでいる。戦前戦中の農民の旅行は、役職者其の他、 特定の人を除いては、中々観光や慰安的な旅行などに行く時間も経済的 な余裕が少なく、なかば宿命的な観念さえ抱いていた。 戦後の他産業やサラリーマン階層の人達の高度成長に伴う、経済観念 の変化に刺激された農村も人間性回復に目覚め、脱エコノミストアニマ ルをかかげてレジャーを生活の中に大いに取り入れる様になった。 此れが一つには農村の後継者難又は過疎化を食い止めるいくらかの手 段となり得たと思う。トラックと共に乗用車は日常生活の足代りと共に、 夫婦家族揃ってのドライブも楽しむ様になり、女性ドライバーも増え家 族皆んなが交替でレジャーを楽しむ事が出来る。思えば戦前アメリカ、 デンマークではトラックや自家用車を2台も3台も所有していると云う うわさを、日本の我々農民は対岸の花、あちらの世界の事と聞き流して いたが思えば文化の進歩に今更感無量で有る。 昭和43年頃川西でも旅行会を造って、楽しもうではないかと、岩佐 常雄・高久喜三郎・原田繁雄・本間勝義の各氏等が発起人となって、話 を進めた結果、44年9月に発足を見た。 名前も川西旅行同志会とし、立派な会則も出来ている。 旅行費として、毎年月額を決めて積立をし、年に1回旅行を楽しんで いる。平成4年は月額3.000円を積んで、其のうち1ヶ月分は運 営費に廻し、残りは旅行費用に積立をしている。 結成以来20有余年も継続している申合せの、団体が此の様に長く続 く事は、これ本来の川西の姿であろう。 人柄が良く、すべてに対し理解を持ち、又利害関係がないため、心の 底から楽しく遊べるのである。これこそ人間本来の遊びの姿であろう。 今後も楽しい、旅行同志会であってほしいものである。 |
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七、笑和会 | 昭和62年12月に、小グループとして結成された。 昭和35・6年頃から、日本の高度経済成長は急激に進んだ。特に若 者が都会に職を求めて、生まれ育った故郷を後にした。 したがって、後継者のいない家庭がぽつぽつ出始め、夫婦2人で農作 業を行っている家も出てきた。 働き続けてきた農村婦人も、一息つく場があっても良いのではないか と、グループを作ったのが「笑和会」である。 毎月一度、農作業にも差し支えの無い雨降り又は雨後に集まって、農 作業の事・野菜造り・種子の選定・食生活・漬物作り等・話し合いの中 で楽しみ乍ら家庭生活の向上に励んでいる。 又毎月2.000円の積立をし、北見市の菊祭り、層雲峡の氷瀑祭り、 北陸三大祭りにも足をのばし話題を広めている。 冬期間には婦人特有の手芸に和紙によるスカフ止め、ブローチ作り、 チラシ紙による小物入れ等を造って楽しんでいる。 又ボランティア活動として学校で必要な雑巾を、町内小中学校に送っ ている。 この笑和会は、かたぐるしい集まりでなく、又あらたまった役員構成で なく、お世話方が2名ずつ、順番制で廻っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100年語り草 (その二四)・・・衛生 飲み水の苦労談 高桑 武 湧別川のほとりの川西だから、地下水は豊富だろう。誰しもそう思っ て入植したにちがいない。ところが豈はからんや、私も川西に来て水に 本当に苦労した。小川さんの話は別に記述のとおりだが、大金をかけて も解決できなかった話しは身につまされる思いがする。 戦後川西にお世話になったが昭和27年から10年間は排水の流れ水を 呑んで生活した流水では厳寒には苦労した。春先は馬糞が春風に飛ばさ れて誠にきたない。その後北川ポンプ店を頼んで70メートルも鉄管を 打ち込んだがよい水にあたらず断念した。その後向かいの友澤さんの湧き 水をいただいて100メートル余をポリ管で引水し暫く利用させていた だいたが湧別川の水位が下がり使用不能になった。 毎日利用するものだけに苦労の連続であった。このような家が川西に は多かったのである。昭和55年待望の営農用水の完成で永年の水の苦 労が解消された。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |