愛の故郷  第5章  地域文化

昭和の小漁師
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   精神文化  冠婚葬祭  地域文化交流施設  地域文化行事  


 第1節 精神文化
一、川西神社  大正4年、 湧別神社から分霊、 大国主命・ 事代主命を分け、 奉載して
来て現在の馬頭観世音碑のある場所に神社を造営された。 当時の土地所
有者、 出口助次郎が神社敷地を寄付した (現本間勝義所有)。 神社の製
作は当時、 川西に居住していた大工、 石川藤次郎であった。
 祭日は馬頭祭に併せて、 毎年7月17日と決め、 娯楽の少ない当時で
あるから、 川西あげてのお祭りであった。
 行政上川西は二つに分かれ、 2部制になっていたので川西3線の、国道
より北方、 湧別川沿いの人達で別部落を作り馬頭観世音、 神社会館も建
てて、 毎年旧暦9月17日にお祭りをしていた。
 位置は川西3線と3号道路の十字路西北の角地にあった。 
昭和4年、 区の構成変更の後、 合議のうえ馬頭観世音も川西神社と合祀
した。
 その後、 川西神社については永年の風雨に耐えて来たが、 腐食がひど
いため安全面も考えて取り除き、 川西の運営合理化の上からも小部落的
な感覚を捨てて、 湧別神社に合祀廃止を総会で決定、 大正4年以来58
年の川西神社に終止符を打った。
 昭和47年7月17日、 最後の祭典を盛大に行い、 ご神体を本殿湧
別神社に返還した。

二、馬頭観世音祭  川西に馬頭観世音が祭られたのは、 明治36, 7年頃という。 当時の
記録がないため、 詳しいことは不明である。 場所は現在の中尾商店の東側
で、 大きな角柱の馬頭さんの木碑が建ててあった。 当時の馬は入植者に
とっては、 経済力では得難いもので、 飼育頭数も少なく、 特に農耕上欠
く事の出来ぬ最も大切な家畜であり、 財産でもあった。
 万が一事故または死亡する様な事があったら、 その家にとっては最悪
あり、 その年の営農を左右するほどの痛手であり、 その無事を願う心
が必然的に集団信仰となって、 馬頭観世音として祭る事になったと思わ
れる。
 毎年7月17日を祭日としてきた馬頭観世音祭には、 川西神社境内に
おいて子供及び大人相撲が盛大に行われ、 人々は楽しい1日を過ごした
ものである。
 昭和の初期頃までは大人の草相撲が盛んに行われ、 川西青年団では立
派な化粧まわしをつくり、 平幕から横綱までの役力士をつくり、 部落的
なものだけでなく、 村内はもちろん村外までも出かけたという。 当時、
佐呂間村では千両相撲というのがあった。 千両相撲とは力士がもらう景
品の額で大変な人気があったといわれている。 しかしながら金額について
はさだかでないが、 川西の青年達は何人かで組をつくって参加したという。
 また川西のお祭りには、 隣町村からアマ関取達が多数集まって盛大な
祭りであった。 これに加えて青壮年達は当時、 剣道も盛んに行っていた
ので、 剣道の試合も行い、 祭典を一層盛り上げた。
                         (水谷春次郎談)

三、乳牛感謝祭  昭和47年に、 58年間川西の最大の祭祀行事として来た川西神社の
御神体を湧別神社に返還したので、 馬頭観世音碑をお祭りしてきたわけ
だが、 時代の進展と共に次第に、 畜力から動力に移行していった。
 入植時代から続いてきた畑作経営から、 47年頃には酪農が主体と
なったため、 馬を飼育する人もないため、 乳牛祭にしようとの声も出た
が、 馬頭さんはなくしたくないという事で、 乳牛感謝祭にしようとの部
落の話し合いで、 7月17日に馬頭観世音と併せて、 僧侶を招いて馬頭
碑の前で乳牛感謝祭を行っている。
 お祭りの行事としては、 青年団主催のビアパーティを行い、 自治会
ではお参りが終わった後に、 老いも若きも、 若妻さんも入ってマラソン、
ソフトボール大会を東西に分かれて楽しい汗を流し、 親睦を深めている。
また体育部の方達の御苦労で昼食や懇親会等の準備もあり、 楽しい1日
である。

四、開拓記念樹  川西には開拓以前からの記念樹が、 大事に育てられている。 このこと
は、 地域住民の古きものを崇敬する観念に基くもので、 一つの精神文化
の現われと言えよう。
 記念木として昭和49年に、 「湧別町教育委員会」 が由緒ある樹木・
老木・ 巨木・ 〃北限地の樹木などの中から広く住民に親しまれて来たも
のを選定して、 町の名木・ 記念木として永く後世に保存することが趣旨
で、 昭和47年、 記念木選定委員会が設置された。 委員として森林組合
関係者、 学識経験者、 その他の関係者が数名委嘱され、現地を調査し審
議の結果、 川西からは旧神社跡に残されている 「ニレ」 の木 (俗にアカ
ダモ) が記念木の指定を受けた。

 第2節 冠婚葬祭       topへ
一、婚   礼  人生の節目は何と言っても、 結婚であろう。 人がこの世に生を受けて
育成され、 それぞれの生活環境によって、 必要な教育を受け20歳にし
て成人となれば、 既に人も一人前、 自由権を持って精神的に独立すれば、
従って結婚の大儀を行って、 いよいよ社会的に活躍する時代に移る、 こ
れが大きな節目であろう。
 入植者の増加に伴い、 結婚者も見られるようになった。 (大正年代)。
古老談によると、 当時の結婚はなず、 親の意志によってほとんど決まり、
本人同士の話し合いも交際期間もなく、 もちろん見合いも簡単に行い、
後は両家の親同士が話を進め、 親の考えに従って新郎・ 新婦は結婚した
のである。 従って恋愛結婚は珍しかったという。
 また結婚式を挙げて披露宴となるが、 本州各地より移住された方のた
め、 習慣の違いは甚だしく不同雑然たるものであったが、 年を重ねるに
従って社会生活が統一されて来たとの事である。
 婚礼の礼服は新郎は羽織・ 袴、 新婦は留袖を着用した。 披露宴は招待
制で、 農村地帯ではほとんど自宅で行った。 また祝杯と共に祝いの歌が始
まり、 その後は素人の芸や歌が盛んになって、延々早朝までも続く事も
あった。 隣接の人が大勢見物に集まる風習があり、 子供達にはお菓子をふ
るまった。
 また若い衆の樽入れ等も一時は盛んに行われた。 樽入れは主に若い者
が僅少の祝儀をつつんで、 樽と億緒にお祝いの席に出すと、 当家の主人が
受け取って、 酒、 魚等を添えてお返しをする。 若い者達は外で祝いの酒を
呑んで大騒ぎをするという風習があったが、 何時の頃からかなくなった。
 昭和10年頃から結婚式もやや華美に流れようとする傾向を改めよう
とする企てがあったが、 昭和16年、 大東亜戦争に突入し、 結婚式の服装
も統一され、 新郎は国民服に新婦は着物にモンペ姿へと変わった。 また祝宴
も、 酒は割当配給制度となり、 敗戦濃厚となった19年頃には花嫁衣装
等は特に厳しく制約された。
 戦後5, 6年後頃には、 再び華やかになってきた。 新郎はモーニング、
新婦は留袖の復活に始まり、 花嫁のお色直しが驚くほど華美になり、 娘
一人嫁に出すのに嫁入り支度で親は頭がいたい。
 その後生活改善が叫ばれ、 祝賀会は発起人の呼びかけにより、 両家は
宴会の総てを発起人に一任し、 会費制で行い会場も公共施設を使用して
行われる様になった。
 最初はいろいろと問題もあったが、 少しずつ改善されて現在はすっ
かり会費制も定着し、 個人の家で招待制で行う家は見られなくなった。
昭和32年に川西新生活運動実践要項規約をつくって実行に努力してい
る。

二、川西新生活運動
実践要項規約
   (昭和32年)
一、社会生活における簡素化、結婚について
 イ 式服は新調しない事をたてまえとする。
 ロ 調度品は実用を主とし、客間等へ陳列しない。
 ハ 結納は最小限度にとどめる。
 ニ 披露宴は引物を全廃、口取りは最小限にとどめ酒は一人当たり二合とし、
    宴会は二時間とする。
 ホ 祝儀は3百円以内とし祝儀袋は町制定類似市販のものとする。
 ヘ 先方の客に対し特に引物等を出す事をしない。
 ト 衣装替えは度々しない。
二、葬儀について
 イ 香典は2百円以内とする。
 ロ 花輪はなるべく遠慮する。
 ハ 法要はすべて引物・ 口取りを全廃する。
三、その他
 イ 祝儀・ 見舞い等は2百円以内とし、 お返しは全廃する。
 ロ 節句祝いの鯉のぼり、 ひな人形及び提灯等は全廃する。
 ハ 年末年始の贈答は廃止する。
四、部落の団体生活の自粛
 イ 牛馬の諸検診における係役員の接待は茶菓にとどめ昼食は必要の時
    にパン程度、 家畜の予防注射程度の出張には接待しない。
 ロ 祭典における直会は祭典係4名とする。
 ハ 諸会合においては、 会合の人員の如何にかかわらず定刻に開会し遅
    刻した者は決定した事項に対し異議修正の申し出はしない。
五、個人生活の自粛
 イ 衣料の新調はなるべく見合わせ、 華美にならぬよう仕事着本位の衣
    生活をすることに努める。

 ロ 米本位の食生活から粉食等に切り替えよう。
三、野辺の送り  人生最後を飾る儀式として悲しみの中にも厳粛に行われる事は今も昔
も変わりはないが、 昔は電話がないため、 一旦不幸が出来たら2人1組
となって、 親族や生前の知人に電報を打ったり、 役場の手続き、 棺桶、
 造花その他一切手作りであり、 その上、 土葬の場合は穴掘り、 火葬の時
は薪運びと仕事が多く、 特に棺桶作りや穴掘りの人達は寒い時期や雨天
の場合は苦労が多かった。 葬儀当日は野辺の送りといって、 遺族、 親族、
手伝いの人々が位牌、 霊花等を所持し葬列の大小こそあれ行列をつ
くって会葬者に見送られ墓地に向かった。
 柩は身近な者や組内の者が自宅から墓地まで交代でかつだものだが、 
次第に馬車や馬橇に移行していき、 時代も移り変わって昭和39年には
重油バーナー式の焼却炉ができ、 54年に近代的灯油バーナー式無臭
方式が工費4.800万円をもって完成した。
 また、 昔は一般葬儀は自宅で行っていたが、 48年以降は旧川西小
学校 (川西分館) で行う様になった。
 最近は民間の葬儀社が開業され、 祭壇や霊柩車が一般に利用される様
になった。

四、川西新生活運動
実践要項規約
  (平成4年見直し)
一、婚  礼
  結婚式、 式は厳粛を旨とし、式服等の新調はなるべく避け、「お色直
  し」 は虚栄にならないこと。
  祝賀会
  会費は3.800円以内とし両家の負担はさせない。 引き物は一切
  廃止すること。 参加者の範囲は媒酌人・ 両親・親戚・近所・友人の
  うちごく親しい人に限定し、 300名以内 (発起人も含む) とする。
  時間は2時間以内とする。
二、葬  儀
  香典は故人や遺家族との付き合いの程度によりその金額は虚栄にな
  らないこと。 香典返しは廃止する。
 通  夜
  参列者に対する茶、 菓子の接待は廃止すること。
 忌中引
  忌中引は簡素に、 親戚・ 身近な知巳のみとし、 香料及び引き物は
  廃止すること。
 祭  壇
  町指定の祭壇を利用すること。(上25万円、 中20万円、 下15万
  円)
 花輪・生花
  花輪・生花は自粛すること。
三、一般・ 社交
  出産祝金額は虚栄にならないこと。 お返しは廃止、 名前は 「はがき」
  をもって披露すること。

 病気見舞い
  金額は虚栄にならないこと。 全快祝いは 「はがき」 をもって返礼する
  こと。
 入学・ 進学・ 就職祝
  金額は虚栄にならないこと。 お返しは廃止し 「はがき」 をもって返
  礼すること。
 餞  別
  修学・ 研修・ 参拝旅行等の餞別は廃止すること。
 時間の励行
  定時開会・ 閉会を励行すること。
 成人式
  成人式の服装は虚栄にならないこと。
 その他
  新改築・ 新造祝いの披露は自粛し、 返礼は廃止すること。
四、その他
  ゴミ・ゼロ運動を推進しましょう。
  空缶の投げ捨てはやめましょう。
  自分で出したゴミは持ち帰るようにしましょう。
  毎月1日は清掃の日です。

 以上のことがらは、 町民多数の意志によって定められたものです。 「く
らし」をより豊にするため 「無理・ 無駄」 を追放し、 住みよい町づ
くりをすすめましょう。  
               湧別町新生活運動推進協議会
               社会福祉法人湧別町社会福祉協議会
               湧別町環境衛生連合会
五、川西住民運動
実践団体表彰を受ける
 川西地区は戸数が当時、 56戸の農村地帯で住民の親睦を深めるた
めに数々の運動を進めて来た。
 新生活運動では、 独自に新生活運動推進委員会をつくって、 返礼の廃
止、 結婚式の簡素化などを実行し、 毎年全員が参加して運動会が行わ
れ、 その席上で新婚さん夫婦の紹介をしている。
 また、 子供の全道・ 全国表彰を受けた事、 これも全員が育成会員で
ある協力の現れであり、 その他会合の時間の励行は特に徹底して実行
されてきた。
 川西新生活運動実践要項を守り進めている。 昭和57年に、 日頃の
住民運動が評価され、 川西地区が網走支庁長から表彰状を受けた。
            川西新生活運動推進委員会役員
            川西自治会役員及び自治会班長
            農協婦人部川西支部役員
            川西青年団役員

 第3節 文化交流施設      topへ
一、施設のはじめ  「生活文化」 「人間文化」 進展の中で大事なことは、 寄り処となる建
物が必要になる。 入植の数年は開拓に打ち込んで、 皆の集まりによって文
化の向上など話し合う余裕もなかったろうが。
 川西では、 色々な分野の人達が早くから人間的な目覚めが早かったよ
うだ。 最も早かったのが青年会で、 その活動はこの年史の各署に語られ
ているが、 建物で苦労した姿がうかがえるのである。
 川西小学校校長が発令されたが住宅がなかったので、 湧別から暫らく
通勤した。 これを見て役場に交渉して古い家を買ってもらい、 移築の一
切は当時の青年達が行ったという話しが残っているが、 これとても青年の
集いを青年個人の家でやるほどの家もなかったろうし、 校長の家を建て
ることによって、 校長に身近なところに来てもらい、 学校の施設を借り
て青年に対する指導も戴けるという計算に基づくものであったろう。 以来
すべての会合、 団体の運営の話し合い、 趣味の集い、 「剣道」に至るまで、
開拓の学校はいずれの地域でも、 「文化の殿堂」 であった。 これは学校と
いう 「器」 があり、 「先生」 という指導者づきであることから、 当然の成
り行きであった。
 明治以来、 この姿で区の諸行事は、 児童の教室に支障のない夜か日曜
日に学校で行うことで、 開拓以来約50年続いた。 そして終戦を迎え、
世は民主主義の時代に入った。
 青年団・ 婦人会・ 老人クラブ・ 子供会・ 各サークルが誕生す
る中で、 活動する上で施設の要望は久しく続いたのである。 町では各区
から要望の強い中でそうした施設の整備に苦慮しつつ対応して来たが、
 学校が廃止になり旧校舎を取り壊して、 ようやく平成元年 「文化の殿堂」
が建てられた (後述する)。
二、青年会館新築  会館新築申請内容を参考までに書きおく (原文のまま 昭和21年)
現下農村におけるワラ工品・ 縄・ ムシロ・ 俵等の不足は、 必然供出にも
支障をきたし、 且つ農民は非常なる苦労をする。 之を打開すべく我等、 青
年は共同作業により之を生産して供出に儘力せんとす。
 然して此の目的達成は農閑期を利用するため必要であり、 冬期間之を行
う事になり寒中戸外作業は不可能にして且つ又これに代る使用家屋もなく、
共同作業所を建てんとする次第に付き事情御賢察の上御許可相成り度く御
願い申しあげます。

 戦災復興院建設院北海道建築出張所長・ 総理庁技官等に申請許
可を取る。 当時の物資不足が想像できる。
 伝統ある川西青年団は、 先輩の残した団員の固い結束と親しみ深
く、 皆で実行する。
 平凡ではあるが、実行は難しい、 これを理屈抜きで実行してきた
青年の活動は沢山あったが、 活動資金は全部自分達で働いて、
 資金調達をしていた。

三、青年会館建てる  昭和23年、 川西青年団は団独自で会館を建築した。
 
建築前までの青年団の集まりは部落と同様、 川西小学校を利用したが、
自分達の会館を建てたいという青年達の念願を果たした。
 終戦後の極端な資材不足を克服、 苦労した資金・ 資材を調達し、 労働
も奉仕し農作業のすきを見て、 自らノミを取り、 材を切り壁を塗り、 建
坪30坪程度の会館を川西の校庭に建て、 各種会合等に利用した。
 この会館建設に見る様に、 川西青年団は自己修練の場と共に社会奉仕
団体としての自覚と責任とを使命とし、誇りとしていたのである。 あら
ゆる区の仕事を引き受けて、 奉仕する事を当然として活動した。 例えば
運動会、 お祭りの準備・ 後片付け・ 災害出動その他、 区の人達も何か行
事のあるたびに青年を頼みとした。 しかもその活動資金は自らの基金造
成事業を行い調達していた。 この青年会館の建築に当たり、 友澤市男団
長を中心に協力された団員の皆さんに心から敬意を表したい。
 尚会館新築に当たり、 川西有志から多少の援助のあった事を書き置
く。

     青年会館建築の思い出       友澤市男 (談)
 
昭和20年の終戦の虚脱状態から青年の組織もなくなって、 若者の寄り
処が無く、 何とかしなければという気運が高まり、 昭和21年春、 町内
に先がけて川西青年団が結成されたが、 当時青年や区の会合は学校を使用
していたが、 学校管理防火面から自由に使う事が出来ず、 何とか気がね
なく雨の日や冬期間自由に使える会館がほしい願望が高まり、 22年秋、
団の事業として青年会館の建築を決議、 川西の総会に趣旨説明をして同意
を得る。
 先ず資金造成に冬期間働く事にし、 当時湧別橋が流失して架け替え工事
がなされていたので働かせてもらう。 工事現場の親方の好意で、 土台用の
角材数十本を寄附して頂いた。 当時は厳しい建築の規制があり、 青年会館
としては許可にならず、 町の指導をいただき許可を取るのに大変であった。
 また戦後でガラス・ 釘等物資の不足で、 正規のルートでは手に入れる事
ができず大変であったが、 23年春、 現在のグランドの街角、 当時ゴミ捨
場を整地して、 5月初めに建前をして壁付や外下見板張り等団員の出役で、
同年9月末に完成する事が出来た。
 自分達の城が出来た事を一同で喜んだ事を想うと懐しい。 43年に新し
い川西の会館が出来るまで、 青年団・ 婦人部等の文化活動や産業の研修の
場として果たして来た役割は大いなるものがあったと思う。


 青年会館の建築に当たり、 十数枚の申請書が出されている事に非常
に驚いたが、当時の物価の値上がりにも驚く。 書類を見ると、 ある土木
有限会社との契約で23年4月に見積契約約3.575円90銭也が、 同年
7月21日の請求書には、 5.572円40銭也となっている。
 戦後の物価の急上昇には本当に驚くほどである。

四、待望の公民館
(川西分館)落成
 昭和48年に廃校となった旧川西小学校校舎を利用していたが、 建築
後50年以上という木造校舎のため老巧化がひどく (多少改造す)、 か
ねてから町に新築の要望の声を寄せていた。
 幸いにして平成元年予算がつき、 新分館が建設された。 分館は木造平
屋で建築面積は386平方メートル、 備品を含めて約6.500万円、
内部は164平方メートルの会議室2室、 調理室、 実習室他2つの研修
室等、 ゆったりとしたスペースである。
 暖房も完備され、 使い心地は数段アップされた。 なお落成式は平成元
年2月16日、 老も若きも部落全員出席、 盛大に祝う。
 自治会長佐久間善男の挨拶、 町長・羽田宏、 議長荒井和夫のお祝の言
葉を戴く。 また自治会長から10年9ヶ月の長きに亘り部落の中心と
なって努力された前川西自治会長、 小川清巳に感謝状と記念品が贈られ、
万場の拍手を受ける。

五、グランド整備  川西分館前のグランド整備が、 平成4年5月に錦町中川組によって完
成された。 川西小学校廃校後もグランドの西側に古い職員住宅や子供達
の遊具があり、 これらをなんとか整理して環境の良い、 そして使いやす
いグランドにという話しが自治会総会での一致した意見であった。
 早速町政懇談会に要望したところ、 町は事業内容を調査し整備を行っ
たものである。
 内容は職員住宅撤去、 遊具の移設及びフェンス設置、 グランド整備等
である。 これら一連の事業費が107万円で、 このうち町補助金50万円
、自治会負担金57万円で立派に整備された。
 特に運動会や老人ゲートボール、 青年のソフトボール等、 多目的に
使用が楽に出来て住民に大変喜ばれている。
 この50万円の補助金は、 昭和63年度に 「湧別町振興奨励金制度」
で施設整備、 自主的な住民活動の促進と地域の振興活性化に必要な
事業で、 団体・ グループに対し補助する制度である。
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      100年語り草
              (その一六)・・・・児童福祉
      子供会全国表彰の快挙
 子供会の活動はめざましいものがあり、 結成僅か十数年にして全国表
彰を受けた。 この喜びは川西自治会全部の喜びでもあった。
 次代を担う青少年が、 清くたくましく成長することは川西全員の願いで
あった。
 高久喜三郎さんの提唱によって結成され、 そのの実績が注目されたの
であろう。 会員と協力員の熱意と努力が報いられた。
 今は亡き、 清原松太郎、 岩佐常雄両区長の温情と、 育成会会長
黒田勝雄体育部長中尾庄一を中心とした努力が実を結んだ。
     53年全国表彰には道職員が引率し、
 会長 清原 満・ 副会長 佐藤 浩
の2名が出席授賞した。

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 第4節 地域文化行事     topへ
一、地域の娯楽  川西には明治開拓以来、 施設としての娯楽機関はない。 殊に明治の末
頃までは、 新聞等も普及していなかったので、 昼間の疲れを癒す一杯の
焼酎や苦労話、 雨降りには碁・ 将棋でも打ったり、 近くの酒屋でコップ
酒という程度であったろう (古老談)。
 川西に新聞の入った年度の記録はないが、 明治43年、 四号線 (現錦
町) の戸沢直吉が、 北海タイムスと小樽新聞の取り次ぎを始めたが、
読者は34, 5名程度、 それも早くて発行後3、 4日後の配達であった
という。
 劇場は明治43年、 川西出身の山西三次が四号線にて 「湧別座」 と
称する芝居小屋を建てたが、 大正5年、 湧別駅開通と共に湧別駅前に
移転した。
 大正5, 6年頃、 年に1, 2回ヤマヤ孤児院という施設から運営基金造
成のため活動写真が巡回して来て、 川西校を会場にしていた。 昼間の
宣伝の町巡りには子供達に頼んで 「活動写真」 と大書きしたのぼりをかつ
がせ、 プカドンプカドンと楽隊を先頭に部落廻りをした。
 いよいよ夜、 待ち構えていた人達は続々入場。 光源に燃やすアセチレン
の臭いと、 手廻し映写機のガタガタという音の中で、 弁士の名調子と楽
隊の伴奏につられながら 「猿飛佐助」 や 「目玉のまっちゃん」 の無声映
画に喝采を送りながら見入っていた。 それから時々、 流しの浪曲師や人
形芝居等も学校や個人の家を借りて廻ってくる様になり、 また駅前の湧
別座まで暗い夜道を多くの人が活動写真や芝居等を見物に行く様になった。
 しかし何といっても年に1度のお祭りは、 やはり川西最大の楽しい年中
行事で、 青年による晩の余興も大正末期より盛んになり、 川西の伝統行
事となって続けられた。 
 また終戦前後、 青年団の余興を休んだ事もあったが、 そうした時はドサ
廻りの劇団を雇い入れた。 
 戦後、 婦人会の基金造りにたびたび映画界を催した。
 ラジオは、 湧別町史によると昭和3年11月、 四号線の遠藤という人
が70円で借りて来て法明寺で公開した、 とある。 川西で普及しだした
のは、 もちろん昭和12年頃からで、 電灯普及と共に活動写真が映画と
なり、 湧別にトーキーが来るようになったのは昭和10年頃という。

 活動大写真機 (手廻) を宮本光馬、 宮本正則外1名で明治40年頃、
東京から活動写真機 (180円) を買い入れ、 四号線と川西4線、 出口宅
(現本間勝義宅) にて大人20銭、 小人10銭の入場料で上映したがい
ずれも失敗、 大損をしたと笑っていた (宮本正則談)。 その映写機も昭
和55年頃までは自宅の2階に整理されていたが、 昭和57年湧別町開
基100年記念のため、 宮本尚明が町の郷土館に寄附した。

二、運動会と青年団  川西校の運動会も戦前まではお祭りの日に共催して一層の盛り上がり
を見せて来た。 その後、 お祭りと運動会を同日にすると、 お祭り客の接
待等のため忙しく (当時のお祭りには親戚・ 友人等を招待した)、 運動
会を見る事が出来ないという苦情も出ていたので、 その後お祭りと運動
階の日程を別日にする様になった。
 お祭りが近づくと、 青年達は夜の余興の練習に毎晩、 昼の農作業の疲
れに鞭打って学校に集まり、 時には夜明けまで練習する事もあった。
 お祭りの前後1週間くらいは、 演芸の練習と共にお祭りの設営、 前後
の後片付け、 運動会を共催していた時代は更に運動会会場の準備と、 家
の農作業も手がつかぬほどで、 青年の父母から苦情が出た。 こうした青
年達ばかりに負担をかける不合理もあって、 お祭りの支度は区民の出役
でする様になり、 演芸等も映画や地方廻りの劇団を雇った事もあった。
 しかし現在の様にテレビをはじめ近代的感覚の娯楽は身近に溢れるほど
の時代であっても、 昔から永く続いて来た川西の青年達によって自演され
るお祭りの夜の素朴な余興は、 プロの演芸等では果たし得ぬ親しみと、
伝統的な楽しさがあり、 区民の要望もあって、 昭和35年頃から再び青年
達によって再現されたが、 残念ながら過疎の影響により中断する。
 その後から現在に至るまでずっと川西自治会主催の運動会は体育部が
中心となり、 青年団・ 婦人部の協力により行われている。

三、第1回川西運動会  川西小学校が明治41年に特別教授所として開設されてから、 昭和4
7年まで64年の永い間、 色々な面で中心的な役割を果たしながら区の
行事も行われてきた。
 今までPTAが中心となり行ってきた運動会も、 廃校と同時に自然
消滅のかたちとなる。 このため農協青年部・ 婦人部・ 青年団が、 やはり
何とかしなければ寂しいとの意見が多く、 このままでは区民同志に疎外感
が生まれる。 との発言もあった。 また、 今までの運動会も父兄と子供と
一緒に行ってきた運動会であるが故に、 唯一の楽しみでもあった。
 この様なことから、 廃校時から第1回K大運動会を旧K小学校グランドで
盛大に行うことにした。 
 48年当時、 区の戸数も60戸余り、 赤ちゃんからお年寄り、 合わせて
350人程度で大半が酪農家であった。
 また予算の方も初めてとあって、 頑張って大型予算が総会で決定し、 
町長や教育委員会にもお願いをして、 トロフィーやお祝を受け、 川西の
有志からも沢山のお祝を頂き、 商品係の机の上に山と飾られた。
 運動会は東・ 西に分けて、 小学生、中学生、婦人部、若妻会、 さらに
老人クラブ、 幼児一般そして青年と年代別に出場者を分けて、 竹馬競走、
堆肥運び、 ほたて引、 ビール飲み競走、 トラック幅寄せ競技など体育係
が趣向をこらし、 団体・ 個人合わせて28種目のプログラムで、 会場は
底抜けに明るい競技を楽しんだ。
 終了後は、 グランドにゴザやむしろを敷き、 家族全員子供達も慰労会
に参加、 和気あいあい・・・。
 僅か60数戸の自治会だけの盛大な運動会は珍しく、 NHKや新聞社から
取材に訪れ、 全国的に老若男女一体の姿が放映されたが、 廃校の淋しさ
も、 あまりの賑やかさに吹飛んでしまったと言われる。
 その後、 恒例として現在に至っているが、 毎年継続の中で立派な優勝旗
の争奪戦が行われている。

四、大運動会に
90周年記念式を行う
 昭和60年6月2日、 開拓90周年を迎えた川西は、 旧川西小学校グ
ランドを会場に、 記念の川西大運動会 (通算13回目) が開かれた。 開
会式では、 開拓功労者に表彰状と記念品が贈られた。
 川西地区の開拓は、 明治27年高知県出身者が入植したのが始まりで
あり、 畑作を中心とした純農村地帯として発展してきた。 昭和30年頃
には90戸を数えたが、 30年代後半からは徐々に酪農が主流となった。
60年頃には56戸、 240人が約1.900頭の乳牛を飼っていた。
 この日の運動会は、 小川清巳会長が大会長と90周年記念委員長を兼
ねて行った。 運動会も例年と趣向を変えて催されたもので、 住民約20
0人が参加した。
 開会式冒頭に祝いのくす玉が割られた後、 小川会長から 「開発に当たっ
た先人の並々ならぬ苦労を胸に刻み、 よりよい地域をつくるために頑張
りましょう」 と挨拶があった。
 続いて、 菅井兵太 (92歳) ら川西地域に35年以上住む75歳以上
のお年寄り19人が開拓功労者として表彰された。 尚、 永年に亘り私財
を投じて地域の歴史を写真にまとめ、 その現状を末永く語り伝える資料
を提供された、 高桑武に感謝状並びに記念品が贈られたのである。
 式典後は東西2チームに分かれ、 個人・ 団体の16種目のプログラム
に、 小学生から老人までが、 体育部の趣向をこらした競技にたっぷり汗
を流し、 楽しい1日を過ごした。

五、20回記念大運動会  平成4年度で、 川西大運動会も20回も数える。 自治会では、 20周
年大運動会を一層盛り上げるべく、 餅まきを行う。 グランド中央にトラッ
ク2台を置き、 危険を防止するため子供組と大人組と2ヶ所に分かれて
行う。 皆さん笑顔で、 楽しいひと時であった。
 引き続き公民館にて、 子供から老人にいたるまで、 全員参加の反省会
を行い、 これまた大変な賑わいの中で20周年の運動会の幕を閉じた。

六、町民駅伝大会  町民駅伝大会を通して、 相互に親睦を深め、 心身ともに健康で明るい
町づくりと、 体力づくりの推進を図ることを趣旨とし、 主催は湧別町教
育委員会、主管は湧別町陸上競技協会、後援は湧別町体育協会、湧別町
アマチュア無線クラブ等が協力している。 この町民駅伝大会は、 昭和5
7年に湧別町開基100年記念から毎年行われている。
 100年記念に行った駅伝には、 町内各自治会チーム及び一般と、 1
3チームの選手が健脚を競い、 全長23,4kmを6人編成で完走する。
川西自治会でも、 伝統のスポーツマン精神を持って参加、 堂々2位に入
る成績を納めた。
 また湧別女子若人チームが参加健闘し、 町民からあたたかい声援が送
られ、 助成の力強いところをアピールした。
 ○湧別町開基百年記念町民駅伝大会
   選手名  友澤厚夫、 高久輝喜、 水谷智、  野津 章
          清原正人、 中原修
   主 将   水谷智
   監 督   釜神悦夫
 ○第4回町民駅伝大会優勝
 各自治会からの代表選手の駅伝大会であるだけに、 町民からの応援も
一段と熱が入る。 第4回大会には、 圧倒的な速さをもって優勝の栄冠を
勝ちとる。 
   選手名  友澤厚夫、 吉本剛、  高久輝吉、 水谷智、  野津 章
          吉本輝彦
   主 将   野津 章
   監 督   友澤勇司
 第4回大会において吉本剛・ 輝彦兄弟は区間賞を獲得する。
 昭和57年から平成2年まで、 駅伝の練習その他に協力して頂いた方
の名前を記しておく。
 藤本敏春、小玉昭広、中尾一也、野田直人、山下亮一、黒田将樹
 釜神隆行、岳上直樹、岳上  薫、小川  太、佐藤  治 
 

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