愛の故郷 第4章 社会文化

昭和の小漁師top
湧別百年史
川西百年史top

交通文化  生活文化  科学文化   


 第4章 社会文化
    第1節  交通文化
一、「原始の道」  明治の入植から、大正の初期頃までの間、川西には、 2−3の踏み分
け道があった。 「踏み分け道」 とは、 先住民であるアイヌが狩猟を主
とした生活であったため、 獲物を求めて、 生活圏内を移動していた。
山の凹地や川辺に粗末な仮住まいを設けて狩猟基地として、生活の場とし
ていた。その往復通路を、 のちの和人が「踏み分け道」 と語り伝えたも
のであろう。
 入植当時から、 明治24年の「湧別原野区割測量」 の結果、各線・各号
線にそれぞれ、 道路予定地はあったが、森林・ 川・ 沼・湿地帯・等があ
りそれぞれ、 道路予定地はあったが、 森林・ 川・ 沼・ 湿地帯・等があ
り、入植者は比較的乾燥して通り易い所を通っていた。
 勿論関係者、入植者も少ないことから道路の開削は容易でなく、農作物の
輸送も極めて少量であったから、 この踏み分け道が利用されることが多
かったという。
 その後、明治31年に、下湧別(四号線)と紋別間の開削がなされて、道路
の形とはなったが、信部内の大谷地と、川西西四線から西三線間の湿地
帯は容易に固まらず、両側の木を倒し込み、並べてようやく、人が通れる状
態で荷物や馬は、現在の小玉昭二宅の横を斜めに畠を横断し四線交差点
から、三線三号に出る。 現在の菅井政寿宅の横に出て国道に達していた。
 それでは現在に至るまでの交通関係の発展の過程をみると。

 明治31  紋別〜湧別間 国道開削
 明治32  湧別橋 木橋が竣工した。
 明治32  橋梁開通により 官営渡船業務を廃止。
 その後、明治末期から、大正末期までは、村道は年々延長されて行っ
た。 しかし、 路面や路型が出来ているだけで、泥道で一度長雨が降ると
泥んこ道になり、人馬の交通さえ難航する状態であった。
 したがって、部の住民、総出役、奉仕で、 冬は馬橇で川砂利を敷き、
夏は路面の穴埋め等と、奉仕活動が続けられていた。
 又冷害対策、砂利敷工事等も、繰り返し行われ、必死になって路面改
良に対しては惜しみなき努力を永年続けた結果、なんとか馬車の交通し
得る道路に仕上がって来たのである。

 又この頃、入植者の増加と共に、新道の新設、延長工事等も増えはじ
めた。 そのため部の住民の出役奉仕による路線が多かった。
その後、戦後の入植者及び畑作経営から、酪農に移行したので、端末利
用地の開拓により、各号線及び農道も次第に整備され、昔の泥んこ道も、
姿を消してしまった。
 永年使用して来た、馬車も保導車にそしてトラックに移行し馬は、トラ
クターにと変わり、道路が整備されたことにより、住民の利便は、はかり
知れないものがある。 その後の交通事情の過程は次のとおり。
 昭和26 紋別−湧別−中湧別に北紋バス運行
 昭和32 湧別大橋 竣工(永久橋)
 昭和38 238号線(国道)3・5線にバス停 出来る。
       その後 4・7線にバス停増設される。
 昭和39 紋別〜北見間北見バス・北紋バス相互乗入れ。
 昭和43 国道238号線 沼の上−錦町間 舗装完成。
 昭和47 川西四線道路〜国道から2号間 簡易舗装される。
 昭和48 小学校統合−スクールバス川西・信部内間運行。
 昭和51 湧別大橋に歩道橋増設。
 平成元 名寄線廃線に戸もなって 旭駅廃止された。
 平成元 バス待合所新設(3・4・5・8の各交差点)
 平成2  1号橋 完成

二、道路愛護共励会  道路も今迄の様な住宅地中心の改良だけに止めることは出来なかった
各路線とも、地域の端々まで、 トラック車輌の交通・交差の弁を容易に
しなければ、 営農に直接差支えるからである。
 従って路面固め、 幅員拡張の改良を施し、 今後大型車が、 各線
何れの農地にも入れる様、急速の措置がとられた。
 戦後町の要請により、川西道路愛護組合を結成、各路線毎に班長を置き
、路線の保護管理又は新道開削に奉仕し昭和33年頃・3線道路と昭和43
年には5線2号1号間が 「網走支庁管内道路愛護共励会」 に入賞した。
 昭和46年・町の共励会に1号道路4線5線間新設工事が入賞、各々賞状
賞金を受賞している。
 尚戦後昭和24年、町は砂利専用トラックを1台導入、 更に30年2台と町道
改良に機動力を酷使して大いに力を入れる。 機動力導入により、今迄の
ように、直接砂利敷きに出役する必要もなく能率化されたが現在に至って
は、 殆どが道路も舗装化されている。

三、大谷地酪農農道の
完成まで
 大谷地は昔から人馬も通ることに難渋する、所であった。
当時紋別−湧別間は、 シブノツナイ湖の渡船を利用したという。
 年次は不明だが、友澤市男の祖父が若い頃、期間は短いが、
信部内の渡船で渡し守りをしていたという。 冬期間は厚い氷がはる
ため、通行できたが、夏場は海岸線を歩き、渡船を利用したという。
 明治31年に国道開削により、 国費で盛土をし、 現在の238号線が
立派に出来たのであるが、現在の姿になるまでには、湖口の改良から、
幾年の紆余曲折があったのである。
昭和22年、大谷地一帯を開拓地として政府は、 新規入植者と既存農家
に農地拡大を含めて払い下を行った。
湿地帯であり、野草の茂る泥炭地であり、 その地域内に南北に流れる、
信東川があり、 国道238号線のすぐ南に信東川の支流が合流して
いる。

あまり落差がなく蛇行してシブノツナイ湖に流れており、春秋には湖口が
ふさがり、野草地に冠水して、利用価値が少なかった。
 昭和36年から、蛇行する信東川の改良改修工事が計画されたが、3
年間の実施計画が遅れて、 昭和40年に改良工事が監視を見た。
 この改良によって、 水位が下がり(一部を除く) これと同時に、草地改
良が個々に実施され野草地から牧草地に変わった。
 そこで収穫された牧草の搬出に困り、信部内と川西の境に道路を建設し
て関係者 (土地保有者) の話合いを重ねて、 昭和43年に、 24名を以
て建設期成会を発会し町を通して国に酪農道として建設を要望申請したの
である。 3年後の昭和46年、 から着工の運びとなり、その後町及び国の
指導で工事の距離が延長され、関係者も多くなった。
名稱国営酪農道整備工事として路線基点は、3号から信部内と、川西の境
界線の国道を横断して、 5号線まで行き、 5号を川西四線にのぼり、 四
線を国道238号線に通ずる線である。
 全線延長、 3.960米 施行方法は2期工事とし、 1期工事は3号より5
号を通り、 (橋梁2ヶ所) 6線まで昭和50年完成、 2期工事はその後とな
り、1期関係者・川西20名・信部内9名。 2期工事は川西10名で用地の保
管については、号線につき、現在道路に盛土され拡巾された。
 個人の土地については、話し合いで町が買上げ、 境界については、関係
者は当初無償で用地を提供する事であったが、 工事の関係で一歩の土地
川西側を通ることになったので、 町に申請をして、 10アール当り、1万
円で買い上げられた。
 役員の働きと、 関係者の努力が実を結び馬も入れぬ大谷地の湿地帯が
見違えるよな、 緑に変わり、 澄み切った青空の下でトラクターの作業が

行われていることは、 実に喜ばしい事と同時に土地改良に対し、 一層の
認識を深めた。

四、橋梁の移り変わり  ○ 湧別大橋の架橋
 湧別川に架かる大橋は、川西の開拓当初にはまだなかった。 渡船があ
って旅人の往来にこたえていた。 当初はシブノツナイ川にも 渡船があ
り、渡守がいたが、 現在と異って、 ここでも、 川巾が平常50メートル
増水のときは100メートル、 もあったという。       したがって湧別
川は、その敷地からの延長から見ても問題にならぬ、 大きさで、平常
200メートル、 降雨 ・ 融雪期などは 500メートルに川巾が広がった。
明治31年の国道開削に合わせて架橋が進められたようで、道路開削の年
架橋が完成した。 木橋でその後、 幾多の洪水に数度流失したが、 明
治 ・大正・ 昭和にかけて、毎年のように橋の補修・架替工事が行われて
いたと言う。 湧別川治水が概ね完了したのが、 昭和14年であり、 築堤
が完了した段階で、 戦争たけなわの昭和17年に耐久度の高い湧別橋架
橋が着工を見たのである。
 ところが、 橋脚2期の基礎工事が、進行中、 太平洋戦争、 の戦雲暗く
、逆に中止のやむなきに至ったのである。 
 以降 「湧別大橋架橋完成の昭和32年まで、 旧木橋を利用し、 これも
流失を見てから、 仮橋架橋・ 破損修理のくり返しであった。

 戦後、 急速に増大した、 自動車の交通量から、 耐久性が危ぶまれ、
関係当局及関係住民から根強い陳情が続けられた結果、昭和28年9月
着工の運びとなり、 3年の歳月を要して待望の 「湧別大橋」 が完成した。
延長 383.9メートル、 幅員6メートル、 国費 1億9.200万円で近
代的橋梁技術を駆使し幾十年に及ぶ木橋の悩みも全く解消され、
安心してわたれる喜びは、 川西の住民だけではなく、 国道238号線を利
用する者全員の喜びであった。
 尚、この大橋の渡り始めは西1線在住の国枝善吾・与之助・武三郎の3世
代夫婦の特別参加があったことを付記しておく。

 ○1号線の架橋
 旧1号橋の架橋の年次は明らかでないが、湧別河口近くにあるこの橋は
両岸の農耕地の所有者が、 農地耕作上必要欠くべからざる橋梁であった
これも湧別大橋より河巾が広いため、 厖大な費用を以って架橋する困難
さを指摘され、 土地耕作者は 1号から 4号大橋を迂回しての遠距離耕作
の不便さをかこっていた。 国としても1号・ 4号、 更に7号と、 架橋に
よる経済効果などを考え、 新橋架換えは、 昭和30年代からの町の、
懸案事項として常に要望を続けてきた。 この1号橋が昭和58年度、
網走開発建設部が発注、 西村組外企業体で着工を見た。 そして平成2年
11月8日 立派に完成を見たのである。
総工費12億7.000万円・ 国の補助事業として建設されたもので、
関係住民は勿論、 紋別−湧別市街を経由する産業道路としても重要な橋
となった。 延長429.2メートル、 幅員7.5メートルと 橋巾も広く安心
して通行ができる。
渡橋式には、 羽田宏町長はじめ、 議長・ 開発局等関係者のテープカット
に続いて、 渡り初めが行われ、 町内東の3世代同居の 酪農を営む岩佐
惣吾・ 宗一・ 浩之の3世代夫婦を先頭に生まれかわった橋の第1歩を
印たのである。

五、歩道及び
歩道橋の完成
 昭和45年頃から町は国道238号線、 川西四線から錦町迄の間を
歩道整備と歩道橋の申請を開発建設部に行っていた。
この道路は、統合によって増えた通学生に対して、一方急激に増加した
自動車の交通量は非常に交通安全上の重大問題であるとして、強く要望
して来たのであった。
 実態をよく理解されて、 昭和50年5月から着工 11月末日歩道と歩道
橋が完成を見たのである。
 特に湧別大橋については長さ383メートルもあり、巾が僅か6メートル
と狭く、大型トラックとの交差時には、 歩行者は欄干に、 へばりついて
危険を避けている状態であり、 今までも多くの事故があったが、 運転手
も歩行者も緊張して渡ったものであるが、 これで安心して渡る事ができる
ようになったことは何としても喜ばしい事であった。
特に夜間10基の街燈が、 すばらしく、 昼間のように明るく、 又遠くか
らの眺望も、 美しい風景を見せている。

六、「道路情報板」  川西の玄関はなんと言っても 「湧別大橋」 である。 この長大橋を渡って
先づ目に入るのが大きな道路情報板である。
 交通安全のため特に冬期間の路面の状況や、 注意事項を、 電光表示す
る。 大型の道路情報板が国道238号線の、 川西3線交差点寄りに設置
された。
 この大きな情報板は昭和62年に網走開発建設部の設置になるもので、北
海道の様に広い道・ 特にドライバーには喜ばれている。
 特に夜間における、 電光板の大アーチは、 ドライバーの気持ちがなごむ
ような気がするのである。

七、湧別川築堤
樋門操作委託人
 春の融雪や豪雨と、 更にオホーツク海の満潮時に重なると、 湧別川の下
流1号橋付近から下の増水が著だしく、センサイ川に逆流するのを防止するため、 
開発局が樋門を設置した小屋に発動機を置き、 増水時に樋門2ヶ所の操作を
委託されている。内容は次のとおりである。
流入川口 樋門名 築堤名 操作委託人 完成年度 委託年度
古 川
 (センサイ川)
川西樋門 湧別左岸 中原英二(正)
黒田辰夫(副)
昭和49 昭和49
古 川 5号樋門 湧別右岸 井上  広 昭和13 昭和13
摘  要 網走開発建設部 網走西部河川事業所から樋門を委託され
る。完成から現在まで委託を受けている。

八、「名寄線の敷設」  開拓の先人たちにとって、早くわが村に鉄道がほしいという思いは、共
通したねがいであった。 北見管内への鉄道は、 明治45年に池田−北見
−網走へと開通したのが最初であった。 その後、 北見から留辺蘂を通っ
て遠軽−更に湧別に至る湧別線が延長されたが、 鉄道誘致についても、
駅の誘致についてもすさまじい、 住民の対立があり、 生ぐさい、話しが残
っているのである。 その対立点をあげれば、
     1,網走から常呂・佐呂間を通って湧別に至る案と。(後年の湧網
       線)北見遠軽−湧別に至る案、が地域住民の争奪で政治家を
       動かして誘致にしのぎを削った記録がある。

     2,一方、湧別側としても、四号線駅が当初の鉄道側の案であった
       が当時湧別市街と四号線市街何れも、力が均等していて決着を
       つけるのに困難となった。 解決に苦慮した、鉄道側はそれでは
       湧別に駅をつくりましょう。 但し紋別への分岐のためには、中
       湧別 (上湧別村) に駅をつくりましょう。 ということになり
       四号線が駅なら分岐は可能だったが、 湧別側の固執によって、
       とんびに油揚げをさらわれた形に終わったのである。
名寄線が廃止になった今、 こうした話しは昔話に過ぎないが、こうしたい
きさつから、 遂に川西地区内に鉄道は通らずに終わったのである。
 湧別に鉄道が開通したのは、 大正5年11月であり、 湧別では亜麻工場
の誘致も重なって盛大な祝典が催されたのである。
 名寄線は湧別線に引き続いて建設が促進されたもので、 大正6年から
工事が着工名寄側からと双方から進められて大正10年、 中湧別−−
名寄間が全通したのである。

 湧別線(北見−湧別間) の工事の難航に 「常紋トンネル」 があり後年
「タコ部屋秘史」 で悲惨な労働の実態が公にされ、 批判さ
れている処だが、中湧別を出て川西に程近い名寄線の湧別川にかかる、
鉄橋築設工事においても 「タコ部屋」 の労働者達が、 鉄橋の基礎コンク
リート工事の折、 人柱としてビーヤ1基につき数体入れられたという言
い伝えが当時から語られているのである。
 こうして先人の血の出るような願いと努力によって誘致された鉄道で
はあるが、 その後のモータリゼーションの発達は、 鉄道の運営を不可能
な姿に追いやった。 我が国の交通網に確固たる地位を占めるに至っ
た故国鉄も時代の移り変りに適応できず、 旧態依然たる経営の中に、民営
化に転換されたのを機に地域の交通を支えた公共性よりも、 赤字を減ら
す、 収益性に重点を置く結果、 赤字線の経営廃止が先ず指摘され、
全国の赤字線の廃止が進められ、その中でも最も大きい北海道の各線は
幹線を除いて廃線に至ったのである。
 北見管内では、 湧網線、 相生線、 池北線(民営で継続)、 渚滑線、
名寄線・ 興浜南線など大半の路線が、 50年 前後の思い出深い歴史
を閉じたのである。

九、「旭駅の設置」  昭和15年頃から、軍需物資輸送優先や、 鉄道職員の大量動員等で、
列車運行は大いに削減され、不急不用の旅行は自粛させられた。 乗車
券の発売車も各駅で制限されるようになった。
又駅員も男子職員の不足を補って、 女子が車掌としての勤務も見られる
ようになった。 こうした中で、 終戦を迎え、 内外から復員車も増加、 特
に旭には多くの人が入植して食糧増産に励んだ。
そこで川西と旭の有志が鉄道側に要望し交渉した結果、 旭に乗降場の設
置が許可された。 早速両区で建設委員会が結成された。 川西からは、
小川清一郎・ 伊藤代助・ 山下音市・ 宮本正則外で、旭からは遠藤観吉・
中田 某・ 佐藤 某外、 数名であった。
 乗降場の建設については資材一切を国鉄が持ち、 建物は宮本正則が建て
る。 道路の補修及砂利敷等は、 関係住民の出役で整備された。
従来何事も湧別駅を利用して来た、川西住民は距離も近く、 鉄道を利用
して、 他に地方に出る為には、 大変便利になり、 利用者も多かった。
 昭和31年9月旭駅に昇格、 と同時に中湧別駅から切符売りに職員が
通勤しその後吉村実が国鉄から委託され販売していた。
 こうして両地域の住民に利便を与えてくれた国鉄名寄線も、 自動車産業
の発達と、 道路の整備等で、 急激に自家用車がふえ、 さらに過疎化
が追い討ちをかけた。 これに対して国鉄でも無人駅で人件費の削減に
努めたものの、 幾多の合理化も解決とはならず、 時代の波に流されて、
平成元年ん5月、 68年続いた名寄線も廃止の止むなきに至った。

十、思い出の湧別駅  大正5年11月、 湧別線鉄道開通する。 待望の開通式とって、祝賀
行事は盛り沢山で、熱狂的な村民の歓喜の渦の中に、列車が汽笛を鳴ら
して湧別駅に向かって入って来ると、 小学生や 若い人達は日の丸の旗を
ふって迎えたという。
又現錦町から、 湧別市街までに大きなアーチが、 8,9個も建てられ、
「祝開通」 の大文字を花で飾った。 湧別料理店組合では、 「出船」 「入
舟」 の大きな舟をつくり、 囲りにはきれいどころ、 が仮装をし三味線を
ひいて、 街をねり歩いたという。 夜は提灯行列を行うなど、 町をあげて
の喜びが想像される。
 川西と湧別駅との思い出も多い。 戦時中は川西から69名に及ぶ多数
の出征兵が、 この駅前に立ち、 村長や有志の激励を受け 万歳の声に送
られて、プラットホームを離れた。 又武運つたなく無言の凱旋の悲しい
 帰還もこの駅で迎えた。 敗戦を迎え内外各地から、 故里に帰りつい
た、 多くの、 帰還兵・ 引揚者を迎えたのもこの駅であった。 又営農資材
・ 肥料の受け取り、 農作物の出荷、特にビートの出荷時に、汽車が入ると、
馬が恐れて、 暴れるので、 緊張したものであった。
 この思い出の駅も、 名寄線 ・湧網線の全面廃止に伴って、 その歴史を
閉じたのである。


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     100年語り草
            (その一二)・・・・文化
     伊達の殿様から賜った打ち掛け
                     (羽田家家宝)
 武家の婦人の礼服として、普通は帯をしめた上から、 この礼服をかける。
すその長い衣服で、復古調の今では稀に結婚式にも着られる。 時代が
何時頃のものか分からないのは残念だが、羽田家の先祖は伊達藩に仕え
ていたが、 乳母(実母に代わって殿様の子に乳を与える女性) としてお仕
えした先祖の女性が城を下りる時に殿様から賜ったものらしい。 との羽田
婦人の説明である。
 金糸のししゅうの立派な衣服は全く珍しいもので、 おそらくいただいた夫
人の夫は伊達藩の要職にあった武士と思われる。


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一一、昔の運搬具 ○冬の薪運搬
 開拓当初は、大木を切り倒して、 山のように積み上げた丸太に火をつ
けて燃し、 開墾したと言うが、 資源は何時迄も無限にある訳ではない。
吹雪には、家の中迄雪が入り風の時は 「ランプ」 の日がゆらぐ程の風が
入る。 此の寒さをしのぐためには火を焚くほかになかった。
 終戦後は近くの山には、 薪が不足し始め、遠く東の沢を始め、中ノ沢そ
して、 西の沢に向かって朝早くから家を出て行く様になり、 「バチバチ」
 馬橇の上で、 ガンガンに火を焚き、 暖をとりながら薪運びを行った。
また馬にも、馬服とゆうものを着せて、 寒さをしのぎ、 夜は夜星を仰ぐこ
ともあり、 時には吹雪になったら山奥の道は非常に狭く、 白一色に塗り
つぶされ、 人の目では道路の中心がわからず、 馬の 「カン」 に頼った。
 オホーツク海から吹き来る寒風は格別な寒さである。 人馬共に寒さとた
たかいながら、 一年中焚く薪を、 一冬かかって切りそして運搬したのであ
る。
 昭和35年頃迄、この様な事を繰り返すのが恒例とされていた。 
しかし乍ら、40年代に入り、 いよいよ近くに薪が無くなった事と、 物資が
豊富に出廻り始め、 衣食住も良くなり、 特に道路の状態が変わって来た
のである。
 ホクレン、 トラックによる牛乳運搬、 各路線の除雪、 国道の舗装にと
もない、 開発局による国道の除雪、 冬期間でも路上に雪がなく、 馬橇の
通行は不可能になった。
 此の様な現状から、 昭和40年前後から石炭に移行し始め、其の後は、
住宅ブームにより、 石油ストーブが急激に出廻り始め、 現在は薪、 石炭
ストーブは珍しくなり、 ほとんどが石油ストーブを使用している。


○馬  橇
 川西での馬橇の初まりは明らかでない。 明治32年の高毛定次郎
が札幌から買入使用とある (遠軽町史) 其の後馬の増加と造林業が盛ん
になり馬橇の需要が増え、 明治36、 7年頃、 5号線(現錦町) に馬橇
製造業者が出来て各農家に普及された。
 需要の増大に伴い、 四号線(現錦町) にて窪内源吉が、 馬車と共に
馬橇から 「ヨツ」 「バチバチ」 と用途によって型も変わり、 農家に限らず
、冬期間の物資の運搬や住民の交通機関として、 多く使用された。
 又馬橇に箱を取り付けて箱馬橇と呼んだ。 冬期間は買物や、 遠くに出
かける時は、 箱馬橇を利用し、 特に病人や怪我人等には、 箱の中に夜
具を敷き、 湯たんぽやコタツを入れて暖をとった。 又結婚式の新郎、 新
婦やお客さんや荷物を運んだものである。
 「ヨツ」 は橇の幅が少し広く、 重心が低い事から運搬専用と言っても
よい。 「バチバチ」 は、昭和7, 8年頃から使われ、 親橇と子橇があり
別々に離れるので長材運搬には誠に便利な運搬具であった。
 当時橇を引く馬には、 鈴や風鈴をつけて馬が走ると美しい鈴の音が出
て雪国の一つの風物詩として、 なつかしい思い出だが、 世の中の進歩に
よって古き物が消えていくのも、 発展の過程としては、 やむおえないも
のであろう。


○金輪馬車と保道車
 明治29年の春から屯田兵村建設工事の際、 湧別浜からの緒物資輸送
のため、 工事請負業者が使用していたと言う記録があり、 本町に姿を見
せたのは最初の馬車で有ったと言う (町史) 川西には何年頃入ったか
資料が無いので不明であるが、 町史によると大正2年に、 79台、3年に
95台と急増しているので川西でもこの頃使用していたと思われる。
 明治の末から大正、 昭和と使用してきた金輪馬車も時代とともに便利な
保導車に移行していった。
 湧別方面に於ける保導車のはじめは西村組が昭和3−7年湧別土功組合
の灌漑溝工事の資材運搬に使ったのが始めてといわれている。
 其の後、 3号線 (現錦町) 高木義宗が保導車製作を始め農家や運搬
業者に販売(年度不明)
 昭和24年頃中湧別に和田保導車製作所ができたが、 当時5, 6万円と
価格が高く、 農家全戸に入る迄は、 年数がかかった。
 40年頃から農村にも小型トラックが急に入り始めたので、 馬と共に金輪
馬車は勿論保導車で道路を通る姿は見られなくなった。
 終戦後、 本州では自動車産業が盛んになり、 この廃車のトラックの
「デフ」 古タイヤを利用したのが保導車であった。

一二、「自動車の氾濫」  戦争も終結し、 敗戦の浮目を見た、 日本は、 「アメリカ」 の軍政下に
置かれ苦難の復興に入った。 その間、 新憲法が公布され、 国家の行政も
軍国主義の今までとは打って変り、 平和と民主主義に変化したのである。
そうした新しい国づくりの最中に、朝鮮の南北戦争が起り、 その後背に
各米国・ 中国が後おしするなど、 日本の平和をよそ目にし烈な戦争が続
いた。 一方、 軍需産業で日本の景気はどんどん上昇した。 戦後7年に
して、 平和条約を締結し、 経済大国としての道を歩み始めたのである。
 そこで変化を伴ったのが日本農業の地位である。 農業立国が工業国に
脱皮する過程にあり、 農村から若者が都会に流出することになった。
 一方農業形態も変り経営が近代化して畜力農業が、 トラクターにかわり
それに伴った。 特大型機械の導入を見て、 営農が万事近代化、 省力化、
されたのであった。 昭和30年頃が一応の境界と見るべきで、 昭和4
0年代には、 既に過疎が進行していたのである。
 このことは、 「行政」 の人口動態を見ても明らかである。 大型機械の
導入は 「土木事業の伸展に寄与し、道路の整備が急速に進められた。
その結果、 マイカーの氾濫となり、 農家には作業機が入り車も自家用、
トラック等1戸に2台、 以上の保有を見ることになった。 国鉄の運営
に赤信号が出て遂に民営になり、 交通及運搬の大半を自動車が担うこと
になったのである。

一三、「交通事故への
反省」
 前項に述べた通り、 自動車の激増に比例して、 交通事故が激増した。
その数は全国の死亡者、 1万人を越え (事故後24時間以内) 傷者もそ
の何倍にも及ぶ、 実体化看過できない社会問題となっている。 北海道は
交通事故死の各都道府県で第1位という不名誉な実績になっており、
 これが防止のため、 自治体や警察当局が頭を痛めているのである。
事故防止のために住民運動を毎年展開しているものの、 減少を見ない
のは遺憾なことだ。 町に交通安全推進委員会があり、 その事業内容を
見ると大体次のようなことを行っている。
 1, 新入学 (園)児童を交通事故から守る運動、
   ○ポスター掲示・街頭放送・児童用の腕章配布、
 2, 春の交通安全総ぐるみ運動、
   ○子供と老人の交通事故防止、
   ○交通3悪絶滅・広報車による宣伝。
 3, 夏の安全運動の重点、
   ○ポスター掲示、安全のぼり掲示、
   ○広報紙・旗の配布。
 4, 秋の安全総ぐるみ運動。
   ○スクールゾーン旗・掲示。
   ○黄旗(遠軽警察署広報紙) 配布。
 5, 冬の交通安全運動は 毎月20日交通安全啓発
   ○交通安全青空教室 (保育所及び小中学校)
   ○スリップ事故防止・歩道除雪の徹底。
 湧別町の交通安全推進委員長には歴代の町長が就任し、 現在は、羽田
宏である。 又理事には各自治会長が就任するが川西は次のとおり。
  清原松太郎  (昭38−47)  岩佐 常雄  (昭48−51)
  小川 清巳   (昭52−63)  佐久間善男  (平元−現在)

一四、「湧別町交通
安全指導員」
 湧別町交通安全指導員制度は、 昭和44年7月に 「湧別町交通安全
指導員設置条例」 が制定され新しいスタートをした。
 川西では次の者が交通安全協会から推せんを受けて活躍している。
 友澤 市男  (退)  昭48−58
 中尾 庄一  (退)  昭59−63
 堀部 辰則  (退)  平元−現在
 活動の内容は、 交通安全推進委員会で企画した事業を、 実行するのが
交通安全指導員の任務で、 交通安全推進委員会と指導員とは、 客接な
連繋を以って、 道路交通の安全確保持と、 事故の来然防止のため努力する
特に春の新入学 (園) 児童を交通事故から守るべく、 朝の交通時には、
雨の日も風の日も毎日交替で横断歩道に立って正しい交通指導を現在も
続けている。
数多い公職を持ち、 多頭酪農経営者、 及び商業経営等多岐に亘る、 職の
中で、 奉仕されている姿は大変なことで、 心から官舎に堪えない。

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    100年語り草
            (その一三)・・・生活・精神文化
    開拓の守り神 楡の記念樹
 推定樹齢300年〜400年とも云われ、 幹の回りが5メートル77セ
ンチという大巨木が川西の中央にある。 今日ここに川西開拓100年を
迎えたが、 このニレの巨木は川西の開基の頃既に300年の木でこの原
野を見守っていたにちがいない。
 又その後100年間部落の皆さんと共に暑さ・ 寒さと闘いながら今日の
苦楽を共にしてきたのである。
 川西の発展を見守りながら生きて来たこの木を開拓記念樹として、家
族同様に愛育し、 永久に崇敬していきたいものだ。
  「喜びも  悲しみも  幾歳月)


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 第2節 生活文化     topへ
一、「住居の移り
変わり」
 開拓当初はどこでも同様、 入地すると先ず第一に開拓着手小屋を建
てねばならなかった。
 適当な股のある木を柱にして、 その股から股に桁を渡し、 梁を掛け屋
根を組立て、 草や笹を刈り集めて、 屋根は壁にすると言う簡単なもので
釘を使わず、 縄でしばったのが多かった。
 尚簡単なのは、 おがみ小屋で柱を使わず、 地上からの垂木を三角
形に組合わせて屋根としたものもあった。 文字通りの粗末な草ぶき小屋で
風や風雪の時は壁を通して来る風で、 たき火の煙が部屋一杯にたちこめ
カンテラやランプの灯が消えそうにゆらぎ、 布団の上に真白に雪が積っ
ていた事も時々あると言う様な住いだった。
 移住当時の住宅は、 みなこの様な着手小屋であったと古老より語りつ
がれている。
 其の後明治末期から大正初期にかけて、 土壁にして防寒住宅が見られ
大正5年中湧別原野に待望の鉄道が開通し、 文明開化の途が開かれた。
たまたま欧州大戦による好景気で、 農家も少し経済力がつき、 開拓移住
者の草小屋も、 土台つきの木造に建て替える人が多くなった。
 此の頃新築された、 農家住宅は、 ふすま (障子) をとりはずすと、
6畳8畳間が続いて大広間となり、冠婚、 葬祭に便利な様に設計されて
いたのが特徴であった。
 又屋根については、 大正5年中湧別の駅が新築され、 トタンぶきで珍
らしかったと言う。
 巾3尺 (約1.14cm) 長さ (約2.28cm) のトタン1枚60銭と
ある。 当時の1日の労務賃金相場約80銭と高く、一般に普及するには程
遠くほとんどが柾ぶきであった。
 川西では、 小玉久助宅が古くからトタンを張ってあったが年度は不明
で現在はない。 古くて現在残っているのは、 江澤隆吉宅1軒であるがこ
れも年度は不明であるが大正末期か昭和の初めと思われる。
 昭和4, 5年頃から文化屋根と呼ばれる建築様式が流行して来た。 大正
末期から、 昭和の初期にかけて、 農村経済恐慌の中で多くの農家が活路
を求めて、酪農家が増えて来た。
 したがって酪農家が畜舎に多く建てられた2階に乾草を蓄積するに便利な
ように中折式で屋上にも雪も積もらずに済む様に設計されている。
 川西にも現在多くの文化屋根の畜舎が、 サイロと並んで、 緑の大地の
中に美しく映えている。

 又日支事変から大東亜戦争時代と統制経済が施かれ、物資が不足して
いたから住宅も古くなった状態が続いていたが、 終戦後は食糧難時代を
反映して、 農村経済が好転した事から地域内の住宅は、 御殿と呼ばれる
住宅が次々と建てられた。
 外観は勿論の事であるが、 特に寒冷地向きの暖房構造、 室内の化粧板
其の他の健在を使用して美術化されている。
 室内の暖房についても昭和35, 6年頃より、 薪ストーブから、 石炭そ
して、 石油ストーブ(タイマー付) と変わり、 地域の大半が石油に変る
35, 6年頃からの住宅ブームで、 ほとんどの住宅が新築された。
誰もが言う川西を湧別大橋から見渡すと、 赤や青のカラー色は、 鮮や
かな眺めである。
 又住宅、 畜産、 サイロ、 円形ハウス等、 一面に建ち並び、 牧歌的情
緒豊かな文化の郷、川西が展開しているので、 観光客が湧別大橋から、 ビ
デオやカメラのシャッターをきっている。 姿が見られる。

二、「レンガの物置」  昭和26年、 12万円をかけて、 羽田宏がレンガの物置を建てて人目
を引いた。 当時の農家は家族も多く、 一年中食べる主食から副食に至る
穀物をたくわえた。
 又家畜の飼料を主にエンバク、 トーキビ其の他沢山物置に保存をした
このためネズミの被害が非常にひどく、 これを打開すべく、 レンガの物
置を建て、ネズミの被害を防止したのだという。
 又半分を鶏舎に使用した。 都合の良い事にレンガは、 夏に涼しく、
冬には暖かで、 一般の鶏小舎では寒い日には卵が凍って割れたものだが
レンガの鶏舎は暖かで産卵率は良く鶏には天国であった様だ。

三、トタン屋根の畜舎  昭和35年頃までは、まだ屋根は柾ぶきであった。
 壁は、 ほとんど親寂や隣家の人をたのみ、 素人があら壁をぬったもの
であり、風雨の強い時は壁土が落され、 板を打ちつけて風雨をしのいで
いた。
 しかし冬期間に入ると、 土台のすきまや壁の落ちたところ等から吹雪に
なると、雪が吹き込み、 家畜の背中に雪がのって真白になった。
又バケツに水の入ったのを、 忘れて畜舎に置くと寒い夜では一晩で、 厚
い氷が張ってバケツがこわれる事もあった。
 昭和24年に建築費30万円で、 羽田宏が始めてブロックの立派な牛
舎を建築した。 当時レンガやブロックの牛舎はなく、 非常にめずらしく
遠くから視察見学に来る程であった。
 また反面家畜を飼育するのに、 こんな立派な牛舎は必要ないと笑った
人もあったとか・・・。
 しかし乍ら乳牛を飼い、 仔牛を飼育するには何と言っても、 牛舎を暖
かくし、 かつ労力を削減するため便利にする事が、 酪農家にとって、 非
常に大切な事であると、 当時羽田宏が力説されていた事が、 今でも印
象に残っている。
 生産をあげるための凍死は経営の安定上不可欠である。
数年後には川西にも、 他の地域にもレンガやブロックの畜舎が、 次々
と建てられ所得の向上に努力したのである。

四、「開拓時の燈火」  衣住民の入植当時の燈火は、 焚き火や、 コトボシであった。
コトボシは缶詰缶の様な器に、 石油を入れて布の切れのシンを真中に立
てて、 火をとぼした。 コトボシは風があると炎がゆらぎ、 消えそうにな
る。 又焚き火の煙で常に室内が煙って眼を患う人も多くいた。
 其の後経済の向上と、 明治38年の日露戦争が終った頃から、 ランプ
の使用が増えて来た。
 ランプは3分芯と5分芯、 8分芯とあり、 芯の幅の広い程明るいが、
それ丈石油を多く消費するので、 経済的に苦しい時代で有り3分芯を
使用していた。 又ランプには 「ホヤ」 と言ってガラスの覆いがあり、 2
、3日すると油煙で、 真黒になるこれを磨くのは、 手の小さい婦人や子
どもたちの仕事であった。
 ホヤはガラスのため、 母親に壊さぬ様にと言われて、 恐る恐る磨いた
ものである。
 又提灯も其の頃入って来たが、ローソクの節約から余り使用されず、 主
に屋外での作業や消防等の災害出勤のため用意されていた。
 其の後、 カーバイトのガス灯を使用した事もあるが、 高価のためと、
カーバイトをタンクに詰め替え中にガスが残っていて、 引火し火傷をする
人も出て大変危険なため一般には、 あまり普及はしなかった。 大正中頃
か安全燈が出た。 これはランプに近いものだが風が吹いても火が消えない
もので火事などにも安全というのでこの名がついたのであろう。 昔の提灯
にかわって夜間外出時にも使われていたが後年乾電池の電燈が出てから
は、あまり使われなくなった。

五、薪切り  ○コビキ鋸
 まだ、木工場もない、入植時代には此の鋸で、板を専門に挽いたもので
ある。

 ○バラメ鋸、窓鋸
 普通に使う鋸
  明治・大正・昭和の中頃迄の長い長い年月、 人力に依る鋸と斧の生活
が続いたが、 其の後動力に移り、 作業内容が変わり効率も上がった。
 其の反面危険性もあった。 しかし乍ら、 作業が高率のため、 隣組や共
同で機械を購入して、 手間替えで薪切りを行ったが、 時代の移り変わりと
共に、 木材の不足から、 石炭に又石油にと変わり現在は薪切り風景も珍
しくなった。
 先人達は、 入植以来、 昭和の中頃以後迄も、 鋸と斧で、 大木を切り、
 小さく割って、 軒下や小屋又は外に積んで、 乾燥させて長い冬の暖房
に備えたのである。
 昭和の中頃からチェンソウが川西にもボツボツ入ったが一般家庭では余り
使用しないが、営林署及び、 地方の造材山で働く人はほとんどチェンソウ
を使用した。
 山の薪切り造材山での手引き鋸は重労働で有り能率が悪いので、能率の
高い、 チェンソウを使用している。
 弱点として、 長期間使用するとハクロウ病にかかる人もいるので注意が
必要である。


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     100年語り草
             (その一四)・・・運動会
     新婚さんいらっしゃい
 川西自治会では昭和56年度から、 川西区内の後継者の新婚夫婦を毎
年運動会の開会式に自治会からの、 お祝いの品を、 会長が代表してお
渡しして、 新郎、 新婦を紹介激励する事になった。 農業後継者の花嫁
は少なく近年農村の重要な問題になっているが、 関係者の熱意が実を結
び毎年、 農村花嫁に恵まれて、 地域の人達からも心から歓迎祝福され
ている。
 厳しい気候に馴れない南方から見えられたお嫁さんに昔の苦労を味あわ
せないように、 区内の皆さんの心深まるはげましを願いたいもの。

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六、衣生活
(作業服装)
 開拓時代の人達の衣生活を思う時、 先ず最初に頭に浮かぶのは、 冬
の作業服装である。 シャツ、 モモ引き絹入袢天、 そしてモンペか、乗馬
ズボン、赤毛布を足に巻いて、 ツマゴ(ワラ製の手編み靴) 又はモメン布
を厚めに重ねて、 型に切り縫合わせてつくりこれを靴がわりにはいていた
事、
 帽子は今のスキー帽に似た、 目だけを出して頭からすっぽりかぶる目
出し帽子又タコ帽とも言っていた。 ネルの首巻き、 上衣は外とう (オー
バーに似たもの) 女の人の外出は皆角巻姿であった。
 又子供達の通学姿も、 髪は丸坊主、 服装もシャツに、 モノ引き、 着
物に足袋をはき、 たこ帽¥か、 ネルの首巻、 はくものは下駄で、 雪の
深い時は、 自家製のボッコ靴。 カバンは風呂敷に教科書を包んで、 肩に
斜めに背負い、 藁かトーキビの皮で作った草履を下げての通学姿。
 ゴム靴は、 大正の中頃と思われる頃、 やっと一般に出廻り始めたと思う
(地域によって差あり)
 次に終戦前後の衣料品の不足にはなやまされた。 農家は主食こそ、
まあまあの状態であったが、 統制経済下の衣料の切符制度だけは、 どう
にもならず、 都会の人は、 タケノコ生活で、 衣料を脱いで食物に替え、
農民は厳しい統制の網の目をもぐって、 麦やイモ其の他の食料品の自家用
迄節約して、 衣料に替えて、 着ると言う相互交換生活。 それでも足らず
ゴム靴から始まり、 服、 手袋いっさいの衣料品は補修に補修を重ねて、
着たりはいたりであった。 戦争中の服装は国民服に戦闘帽、 巻ゲートル
、 女はモンペ姿と言う具合い想えば終戦後の経済成長期に入った後は、 
交通機関や情報文化の発達は、 東京の流行がただちに東北を飛び越えて
、 ここ奥深いオホーツクの果て、 湧別の川西にも流行し、 お寒い感じの
ミニスカートやパンタロンが、 ゆうゆうと舗道を歩く服装時代は都市と田舎の
区別をなくしている現代である。

七、食   物  入植当時の人達は、 先ず食料の自給自足をするため、 麦類・ アワ・ ヒ
エ・ トーキビ・ ソバ・ 南瓜・ 馬鈴薯等を作付けして主食とした。
米などは貴重品で、 ぜいたく食として年に何回かで、 お祭りや祝い事、
又は病人食程度であり、 麦類も近くに精米所がなかったので、 手臼で
ついたりダイガラと言う足踏みの木臼でつき、 麦などは、 丸麦のまま前夜
より、うるかして炊いたものである。
 餅や赤飯も稲キビを代用とし、 お正月でも米の餅は1、 2臼位いしか
つかなかった。 時代が進むにつれて、 白米も麦飯の中に少しずつ混ぜだ
したが、 終戦前後迄の主食はやはり麦であった。
 馬鈴薯もゆでたり、 摺り卸して団子汁にしたりして食べ、 南瓜等もゆで
て時には主食にもした。 魚類は、 川も近く海も近く割合入手し易かった。
 其の後各地で精米所が出来、 平麦、 小麦粉、 ソバ等加工が出来る様に
なり、 ウドン・ ソーメン等の製品加工業も出来食生活にも他種類となって、
食卓を楽しませてくれる様になった。 そうしているうちに終戦前後の
極端な食糧難時代町の人達は大きなリュックサックを背負って、 買い出し
をし澱粉粕を食し、 よもぎの葉まで採取して命をつないだと言う。
 そうして厳重なる統制経済の取り締まりの中で、 国民は飢餓一歩手前迄
追いつめられた様な状態であったが、 食料品を作っていた、 農民の有難さ
は何とか不自由をしながらも生活してゆく事は出来た。
 「おふくろの味」 きな粉製造で有る子供達を寝かせてからうすぐらいランプ
の下で、 昼間の疲れも忘れて一生懸命、 重いひき臼 (上下石) を廻して
、大豆をつぶし、 キナ粉をつくり、 食卓を楽しませてくれた。 (おふくろの
味) 想い出は多い。
 こうした食糧難時代を過ぎ、 日本はめざましい復興期に入り、 他の物
資と共に、食糧も豊富に出廻り始め、 インスタント食品、 肉類、 菓子、
飲物、 果物等店頭にあふれる様に出廻り始め、 これに伴い川西区民の食
生活も向上した。 特に農業経営形態が酪農に移り始め、 麦・ 小麦を始め
いなきび・ トーキビ・ エンバク・ 豆類等の生産性の低い自給食品は作付
しなくなり、 牧草地と化した。
 主食は白米を購入、 牛乳はお手のもの、 野菜はビニールハウス施設の
利用に依り、 今まで露地では余り収量の上らなかった、 トマト、 キュウリ
ナス、 メロン等豊富に自給出来るようになった。 又各戸に電気冷蔵庫から
炊飯器具の他電気製品一さい備え付け、 食生活は急に向上して来た。
 昭和50年頃から飽食の時代と言われている。

八、農作業の数々 ○ 縄ない
 農家と縄とは、 切っても切れない必需品であった。
日清・ 日露・ 満州事変・ 大東亜戦争、 と引き続き農業協同組合戦争体制
の中で、 終戦を含めて、 政府は食糧増産に力を入れた。

 したがって、 米・ 麦類・ 豆類・ エンバク・ 其の他の穀物の作付が多く、
このため秋になると、 麦類の刈り上げ後、 ニオの蓋、 押え、 豆類のハザ
づくり又、 雪がこい等、 非常に縄の使用量は大変多かったため、 稲藁や
スゲ草等で、 手ないで縄をない使用したものである。
 スゲ草は、 川西3線4〜5線の下の古川附近で、 刈り取り馬車で運んで
日照乾燥させ、 冬期間又は夜業及び雨降り等に使用時に備えて、 各家庭
では一年間使用する分準備をしたものである。
 其の後一部の人は縄ない機械を買入使用、 これにより労力を削減した。
 昭和40年頃より、 畑作より酪農に移り変わって来て、 使用しても買入して
使用している現在である。

○ 俵編み
 俵のつくり始めは、 何時頃から始めたかは、 不明だが、 昭和35年頃迄は
使用していた。 春も3月中頃になると、 農家では俵編みの作業が始まる。
 ほとんどが、 老人と婦人の仕事で、 どこの家でも50枚ないし100枚位は
編んだ。
 俵はエンバク殻でつくった袋の様なもので、 此の中に麦類を始め、 其の他
の穀物をいれた。 特にエンバクを多くいれた。 エンバクは軍用エン麦と言って
、軍馬の飼料として大漁に買上げた。 陸軍では国内、 又大陸で沢山使用し
ていた。
 価格も一般より高いため、 農家も競って買上げを希望したが割り当制度で
あった。
 俵編みの作業場は、 物置の片隅や馬小屋等で行った。
 昭和35年頃から、 高度経済成長政策のもとで、 急に物資が豊富になり
手間のかかる俵から叺に変わり、 其の後農家の経営が畑作から酪農に移り
変わって来たため、 現在は俵は全然使用しなくなり、 昭和40年頃から、肥料
も叺からナイロン及びビニール製の袋に移行してしまった。

 第3節 科学文化    topへ
一、電気の始まり  湧別での発電事業は、 大正7年に操業を開始とある。
四号線 (錦町) ・山田増太郎が資本金5万円で、 「湧別電気株式会社」
を創立し、 湧別市街、 四号線に点燈したのが、 本町の始まりであった。
 当時10馬力の火力発電気で、 薪を燃料とする幼稚な動力機であり、
発電力も十分でなく、 機械の故障も多く、 そのつど停電という不安定な
供給であり、 石油ランプより僅かに明るい程度であった。
 其の後時代の脚光を浴びた発電事業は、 水力発電に発展した。
大正12年瀬戸瀬に近代的水力発電所を建設し、 翌年操業を開始した。
湧別電気株式会社は廃止して、 水力発電会社に併合した。
 ところで、 文化の所産としての電気も、 営利事業である電気会社の方
針から、 戸数の多い市街地に力が置かれ、 散在する農村漁村との間に明
暗を分けた。
 昭和の初期頃から普及した、 ラジオも、 農、 漁家庭には及ぶべくもな
く、 市街地とは一層の生活格差を広げた。
 昭和12年8月小池武男澱粉工場 (現宮本宅) が澱粉製造の動力用に
電力の導入を計画し、 湧別川を越して初めて電気を導入操業する。
続いて14年伊藤代助澱粉工場が導入、 この2工場を幹線として、 附近
に引き易い所から、 年々区域内に広がっていったが、 日華事変から太平
洋戦争の中にあって、 電力は生産動力の重要性から、 昭和13年から国
家管理になり18年には電力消費量が配分された。
     軍事産業に   70%  特別配電
     平和産業に   30%  規   制
 一般家庭への送電は、 著しく削減され、 ほの暗い電灯であったため、
ローソク送電と言われていた。
 この時代は川西はまだ一部の人が電気を導入していたが、 多くの人は
ランプの生活であった。 これも戦争のため、 軍事優先の時代で物資の
統制と、戸数の少ない農村地帯の配電は遅れていた。
 こうした中でも住民の電気に対する、 根強い欲望はあったが、 次第に
戦局は拡大し、 すべてが軍事優先となっては、 配電の資材もなく電灯問
題は、 戦後を迎えたのである。

二、戦後の電力  昭和20年8月15日終戦を迎えると、 軍事産業の停止に伴い、 電力
の使用制限が無くなり、 過剰電力の消費を一般に求めたが、 長い戦争で
あったため、 国内の物資不足は、 電力を引くにも電柱及電線、 其の他の
資材が受益者負担であるので、 その調達には一苦労であった。
 これらを打開すべく、 食糧を持参して、 遠く北見や旭川、 札幌と足を
伸ばし、 高い闇価格で資材を求めたものである。
 又工事の人夫の人達にも、 平身低頭辞を低くして、 1日も早く電灯文
化に浴しようと努力したものである。 初めて我が家に煌々と電気がつ
いた夜の感激は、 今迄長い年月ランプのほの暗い、 夜を過していた者に
とっては、 誘置の苦労も吹き飛んで、 今尚忘れ得ぬ感激の思い出とな
っている。
 ただ全域が、 共同又は組合等で、 一挙に導入したものではなく、 隣り
組等の任意の申し合せで、 可能な人から次第に電気に移行し、 現在の様
に全戸に電灯がつく迄は長い年月を要した。
 話しは最初にもどるが、 昭和12年に小池澱粉工場に電気を引いた時に
一番問題であった事は、 湧別川の横断工事であった。
 川巾が当時約300米と広く、 距離が長いため、 資材と、 工事費がか
さむ事であった。 小池の苦労は大変であったと思われるが大きな努力で
実現した。

三、街   燈  昭和21年に初めて川西に電気が入り川西全戸が明るい夜を過ごすまで
は、 長い歳月を要した。 昭和38年頃になると、 オートバイと自動車が
急増した。 これにともない交通事故が多くなり、 特に夜間の交差点は危
険を伴った。
 昭和45年に原田繁雄が防犯燈を兼ねて、 自宅横に街燈を取り付けた
のが始まりで、 其の後川西会館 (旧会館) にも取り付けられた。
 当時川西3線交差点付近での、 交通事故が非常に多く発生した。 この
ため、 交通安全協会から、 交通事故多発地帯と言う有難くない看板が建
てられた事もあった。
 昭和48年に3線交差点に街燈が取り付けられた。
 尚川西では国道沿いの交差点にも、 1日も早く設置されることを望んで
いたところ、 5, 6, 7線に設置された。 其の後6線2号、 3号、 8線の
3号、 3線の3号と設置される。
 各十字路に設置され、 地域の方々から大変喜ばれている。
尚電気料に付いては、 町より半額が助成されている。
 平成元年10月に3線交差点、 4線交差点、 北海道開発局が、 道路照
明燈を設置したため、 夜間走行するドライバーには有難い照明である。
ランプ出力400W、 定圧電力200Wである。
 尚3線の古い街燈は除去された。
四、通   信  先人の入地当初は 「はがき」 一枚出すのも、 湧別郵便取り扱所まで行
かねばならず、 ましてや通信上の不自由は押して知る事が出来る。
 明治34年、 四号線 (現錦町) 中川呉服店 (現農協店舗) に郵便函が
掛けられた。 当時陸上交通の要所として、 発展した四号線市街に、 明治
43年6月に、 無集配3等郵便局が設置された。
 小池正人が局長に任命され45年電信業務も取り扱われ業務の拡張を
見たが、 名寄線の開通により、 中湧別の発展は遂に四号線の郵便局を移
転させるに至った。
 これが今の中湧別郵便局である。 大正9年10月移転
川西の郵便筺の取付けられたのは、 明治45年に、 川西四線角地中尾商
店附近、 宮田商店に設置されたのが初めてで、 川西にて郵便の投函が可
能となり便利になった。
 又明治45年郵便筺設置以来、 店の経営者は変わっても、 ずっと郵便筺
は、 継続現在も、 中尾商店前に設置されている。
 更に、昭和33年に至り、 農村電話が設置され、 同時に電報の扱いも出
来る様になり、 通信の簡易化が実現した。

五、電話のはじまり  明治9年アメリカで発明された電話は、 日本で明治23年12月東京
横浜間の開通に始まり、 本道では日本海沿岸のにしん漁場で使用したの
が、 最も古いと伝えられているが、 使用場所、 年月日は明らかでない。
戦前戦中の電話の普及は市街地域に限られていた。
 しかしながら戦後の行政機構改革により、 電信電話業務が郵便業務か
ら分離された。 昭和24年電信電話公社 (電々公社) 発足となって、 電
話の需要が大いに開拓されることになり、 郵便局の電話交換業務が電々
公社の委託業務となった。
昭和23年湧別農協が有線放送共聴施設を誘置、 ラジオの共同聴取も兼
ねて、 組合員との連絡通達指導等に利用し組合員の便利を計って来た。
昭和33年農村公衆電話を誘置、 伊藤誠司宅に置いた。
これは、 へき地地域住民の利便と学校の連絡体制整備及び行政連絡を向
上するため電話架線の道が開かれた。
 其の後昭和38年遠軽電報電話局による地域団体加入電話が電々公社の
電話利用拡大方針により 「地域集団加入電話」 制度で実施された事から、
川西地区では酪農転換の進展にともない乳牛の管理の面で、 獣医師との
連絡が必要であり、 また酪農経営上農協等関係団体との連絡も多いため、
各戸に電話施設の要望が高まり、 清原松太郎区長が先進地を刺殺して「川
西地域団体加入組合」 を結成実現された。 此の電話の方針は交換所を地
区内に設けて、 経営管理業務を電話組合が担当した。
 又交換業務委嘱人に遠軽町より渡辺勝太郎夫妻を招き、 川西四線交差
点角地 (国道238号線) 黒田誠二より、 交換所敷地を譲受け、 渡辺宅に
交換所を置き業務を開始した。
 架設費は111万円でそのうち町より12万円の助成を受け、 其の後普通電
話と同じ性能を持ち、 交換所の不用なダイヤル式の地域集団自動電話が
出来たのを機に隣の信部内を協力して、 本電話の誘置対象地域川西66戸
、信部内42戸の、 加入を得た。

 7線の国道辺りに自動交換機を置き、 昭和46年2月迄今の地域団体電
話を解散、 本電話に移行した。 昭和33年の農村公衆電話の誘致、 自
動電話の架設等、 当時の区長(自治会長)清原松太郎の献身的な努力は
大変なもので、 住民皆感謝したのである。
 昭和46年2月25日開通祝賀会を湧別町公民館に於て、 108名の
加入者及び来賓を迎え、 盛大に挙行された。
 席上左記の功労者に感謝状が贈呈された。
   豊原 正一  湧別局長
   清原松太郎  川西区長
   白崎 政名  信部内区長
   渡辺勝太郎  旧電話交換手

六、ラジオの誕生  東京放送局は愛宕山に完成、 本放送を開始した。 サービスエリアは、
放送局のある、 東京、 大阪、 名古屋とその周辺に限定されていたが、人
々のラジオに関する関心と期待は全国的に広がった。
 大正15年から3局が合併して社団法人日本放送協会が発足本部を東
京に置くと共に全国7ヶ所の支部を設けて、 全国どこでも放送が聴ける
よう検討も始まり其の後技術の向上と相まって国民の要望にこたえ急速
な進歩を見た。
 当時のラジオは新聞とちがって、 ニュースの速報性、 各種の実
況放送芸能の娯楽番組の放送等、 大きな魅力があった。
特に昭和6年の満州事変に始まり、12年の日支事変、 其の後の太平洋戦
争と進む中で、 国民は特にラジオに耳をかたむけた。
毎日毎日の大本営発表は、 大人も小人も戦果の報道に注目を寄せたもの
である又防空警報や国民歌謡ニュースの提供と士気の昂揚等、新聞以上
に貴重な存在であった。 特に昭和20年8月15日の終戦の玉音放送時
の国民の悲憤と落胆は大きく戦争とラジオのかかわりの深さを痛感した。

   「ラジオ体操」
 戦争と国民の体位向上は国民総ぐるみ運動であった。
小中学校生の夏休中は部落の中で3ヶ所位に分かれて毎朝雨天を除き朝食
前にラジオ体操を行っていた。 子ども達は小さなカードに上級生や先生
に印を押してもらい、 首や肩から下げて毎朝たのしくラジオ体操に通っ
たものである。

七、ラジオ共同聴取  昭和25年に湧別農協は、 ラジオの共同聴取のため、 有線放送施設を
完成、 農協に親機を置いて、 毎朝6時にNHKの放送開始と同時に37
0戸の組合員の茶の間に共同聴取施設 (通称スピーカー) を通じて、 農
協からのお知らせが放送された。
 農協の連絡事項は朝昼晩の3回の放送があった。 ラジオ共聴施設の設
置に対しては総会で賛否両論であったが、 電燈がついても全戸にラジオ
が入る迄には至っていなかったし、 信部内緑蔭や戦後開拓で入植した人
々にとっては電気のつく見込みがなかった当時である。
 このように、 村の行政事務や、 教育文化の向上と情報の伝達に共同聴
取の果たした役割は大きかった。 其の後ラジオの普及により共同聴取率
は次第に減少し、 組合員に対する連絡事項の放送が主となり、 昭和31
年には各区に、 親機を設置して、 農協放送の中継と地区内の連絡事項の
通報に利用された。
 昭和38年に川西地域に団体加入電話が設置され、 電話の急速な普及
によって廃止の運命をたどった。
 又共同聴取の運営は各地域から選出された委員を以て運営委員会をつ

くり、 各農事組合毎に保線管理人を決めて路線の保全管理にあたった。
 昭和26年8が圧農事組合長会議で選出された最初の共同聴取運営委員
は次の人々であった。
 中村梅次郎 (福島)   野口 広治 (東)   臼井 昭一 (四号線)
 白崎 政名  (信部内)  友澤 喜作 (川西)  伊藤  一  (湧別市街)
 堤 清次郎  (緑蔭)

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     100年語り草
            (その一五)・・・福祉
     水難の記録
 入植以来水が出る度に橋が落ちたり、 流失の心配から関心が高く、 住
民の苦労は筆舌に尽くし難いものがあったが、 事故の主なものを記録して
おこう。

 1,大正8年9月24日 水谷吉次郎の長男健一 (24才) は長雨の
   ため増水した。 湧別川河岸決壊防止のために附近の木を倒して
   その上に土俵をつむ作業のため出役奉仕中舟に横波を受けて転
   落、丸木舟と共に濁流にのまれ溺死した。

 2,昭和15年 菅野一二は、 早朝精米所 (現農協) へ行くため馬
   車で川の浅瀬を渡っていたが次第に深みに入り流され馬車と共に
   転覆溺死した。

 3,昭和15年7月 大水のため落ちた湧別橋の復旧工事に地域の出
   役として奉仕していた。 岩佐宗一が橋桁に挟まれて即死という悲
   しい事故があった。 この事故は川西での勤労奉仕中の出来事な
   ので部落葬をもってその霊を弔った。

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八、テレビの始め  テレビの出現は、 文化生活を一変した。 日本でテレビが放送されたの
が、 昭和25年にNHKの実験放送であった。
昭和28年にNHK東京放送局からであり、 昭和32年にNHK札幌放送局
がテレビ放送を開始した。
 昭和35年夏上湧別町中湧別市街の、 田中ラジオ店が、 サンヨウ電気
メーカーの技術員2名を伴い、 NHK札幌放送局より出る電波をさがし
五華山の裏側の高い所にアンテナを設置した。
 中湧別市街迄約2Kの距離に柱を建て、 線を引いて、 ようやく映像を
見る事に成功した。
 此の間の苦労は大変であったと店主の田中は、 次のような事を話し
てくれた。
 名目は、 「テレビ共同受信有線放送」 として、 一般に売り出した。 テ
レビはサンヨウで、 白黒、 価格は14インチで、 14〜15万位、 徴収
料は無料、 但し、 田中ラジオ店より買入者のみで他の店から買入された
者は、 加入料25,000円を支払った。
 36年に、 NHKの放送局が網走の天都山に開設されたので、 一般家
庭の屋根の上に、 アンテナを上げ、 加入料は無料となった。
総工事費は400万円以上を要し、 営業収入としては、 余りにも期間が

短く良くなかったとの事、 原因については、 事業費及び雑費の増等、
 39年STV、 40年HBC、 いずれも網走の天都山に中継所がつく
られた。
 湧別市街では、 モカ食堂に町内初めてテレビが入る。 店主の話では
商売上早く入れてお客さんに喜んでもらいたかったとの事であった。
 設置に当たっては、 隣組等多数の方々の応援を受けて、 高い主柱に、
+素子のアンテナを上げ、 当時の技術をふるに使用したが、 映像の方は
もう一歩であったと言うが、 初めて観る映像は珍しく、 毎日満員のお
客であったと言う。
 Kでは伊藤誠司が一番早く設置 (白黒) 住宅が道路に近いせいもあ
り、 大人も子どもも、 テレビ鑑賞で伊藤宅は賑わった。
 テレビの普及は高度経済成長期に入り予想以上に早かった。
 其の後カラー放送情報化時代が到来、 どこの家庭にもカラーテレビが
普及しだした。 特に普及を促進させたのが、 昭和39年の東京オリンピ
ックであった。 そして43年メキシコオリンピックで此の時は五輪史上
初の宇宙、 中継によるカラー放送とあって、 業者は競ってあおりたてた
 高いテレビを買い別にカラーテレビ徴収料を払って鑑賞したものであ
る。 其の後小型テレビから大型テレビと、 さまざまでデザインも芸術的
で美しく豪華な物が次々と出廻る時代になった。

九、衛星放送の
歩み
 昭和60年頃から衛星放送がはじまる。 NHKは全国の難視聴地域の
悩み解消のため、 放送衛星 「ゆり2号」 を種子島から打ち上げた。
 昭和53, 4, 8  郵政省 「ゆり」 打ち上げ
        7,20  「ゆり」 の実験放送開始
    59, 1,23  放送衛星 BS−2α打ち上げ
        5,12  BS−2αによる試験放送開始
    61, 2,21  BS−2β打ち上げ
       12,25  衛星2波による試験放送開始
    62, 7,24  衛星2波の24時間試験放送開始
 平成 元  1, 3  衛星2波による24時間試験放送開始
     3, 8,27  衛星 「ゆり3号」 打ち上げ
 衛星放送は、 放送衛星から、 日本全国の家庭に直接電波を届ける新し
いシステムである。
 衛星の優れた特性は、 テレビ放送の難視聴解消のみならず、 日増しに
高度化多様化する情報社会の中で、 地上放送では、 実現が難しい、ハ
イビジョン放送PCM音声放送データ放送などの新しい情報サービスも
可能にし、 此れ迄に無かった、 新しい電波メディアで有る。
 衛星放送の受信料は従来の施設では不可能で別に、 パラボラアンテナ
コンバーターチュナーの設置が必要で、 一般家庭全戸迄普及するのは少
し左記の様に思う。 川西では平成元年に菅野秀雄が受信している。

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