愛の故郷 第1章 行  政
          第3章  産 業

昭和の小漁師
湧別町百年史top  

川西自治会と行政との係わり 川西の産業 畑作物 酪  農 畜  産 土地改良事業  農業団体の変遷 その他の産業     

第1節 川西機構のうつり変わり
   一 町行政のはしり  「ゆうべつ村」の創設に伴って「行政機構」も整備され、時代の推移
に伴って行政の進展を見たが、川西行政の推移は、村行政の縮図といっ
てよいもので、町村行政を円滑に又住みよい地域づくりのために、一体
になって進んで来たのが実体である。
 国の行政に道が連動し更に町村が連動し、部に連動してこそ、行政が
スムーズに運び、国の政治が万全である処なのだが、「ゆうべつ」の場
合を見ると、明治の頃あまり円滑にゆかない要素があったと見てよい。
 それは、明治30,31年に入地した屯田兵400戸の開拓と一般入植
者の開拓に待遇上の大きな差異があり、又行政上に於いても「ゆうべつ」
役場の管下にありながら、予算そのものが一方は国から入る膨大なのに
引かえて、その行政面から、一般入植者は疎外されて別格としての屯田
予算は、「ゆうべつ」村に包含されながら、村予算よりはるかに多かった。
 支出の面でも収入の面でも大差があり、特にそれが町民個々の負担の
上での差が大きかったのである。
 行政費として最小限の村長以下の主要吏員の経費は地方費で負担され
たし、教育費の中、先生の給与は地方費で負担したものの学校建築、学
校教材、営繕、その他関連の役場の建物、営繕、補充不足吏員等にかか
る人件費等は一切、村費であった。
 その村費の3割が地方費の補助で約7割は、税金や受給者負担であり、
寄附金であり夫役であった。土木費(道路や橋にお金がかかった)、衛
生費(伝染病もあった)、現在で言えば大半国で負担してくれるもの
でも、当時未開発の住民の負担が重くのしかかっていたのである。 金の
ない家庭も夫役として労働で納めるというやり方である。
 屯田との力の差が間もなく、分村という形であらわれることになるのだ
が、川西、四号線など最も開拓の早い地域がしかも農家に税の負担がか
かったことなど、次に述べて見たい。

二 川西行政
のはじまり
 「ゆうべつ」村で最も早く開拓を見た川西は、湧別・四号線とともに、
村の行政にけん引的存在であった。
 明治42年「ゆうべつ」村は人口1万42人と、1万の大台にのり、
明治43年「上湧別村」を分割して「下湧別村」となった。
 明治41年役場庁舎の移転問題から端を発して分村問題に発展したの
であるが、二級町村制を施いた(明治39年)湧別村の議員の状態は定
数12名の中で上湧別(主として屯田区域)が7〜8名、湧別方面4〜
5名で、村議会の力関係に於いても分村は当然の成り行きであった。
 したがって核施設、又行政に於ても優位にあった上湧別に対し、財政
的にも一歩も二歩も遅れていた。下湧別側としては、村費の増徴による
行政執行の形が強く打出され、まだ芭露方面は開拓の途次にあり漁師に
も力はなかった。大半は四号線〜川西の農家と湧別、四号線の商店に多
くの負担を求めることになった。
 当時の記録を例に見れば、明治39年に1万1,500円の村費を徴収
するのに、戸数割7,800円、反別3,200円という内容であり、
その他夫役とか、地元負担などを見ると個々の農家は行政の重圧にも長
い苦しみの時代があったのである。
 明治39年二級町村に指定され、佐藤信吉が村長に任命された頃か
ら、村会議員の選挙、役場機構の改革、そして末端行政の部落でも部制
が採用されたのである。
 明治41年、全村23部制となり川西は3部と4部になった。初代3
部の部長に長谷川金次郎が就任し、その辞令が別掲のとおりである。
 明治40年6月「ゆうべつ戸長役場」設定の道庁告示がなされた。戸
数の増加に伴い「行政事務」が必然的にふえて来たのであった。戸長に
は、紋別戸長役場に勤めていた小池忠吉が発令されたが、28・5坪(約
85平方b)の庁舎で役場事務は開始されたのである。
 当時の役場の所轄区域についても不明瞭な点が多く、境界については
百年を経た現在尚、未確定の所が残っているといわれる。
 それはさておいて、急速な発展を見せた「ゆうべつ」村は、当時とし
ては、北見管内で最も人口増加率が高い、注目された土地であった。
三 部の機構変革  徴の二級町村制(明治39年)から、昭和15年の一級町村制になる
まで17人の村長が就退任している。明治43年の兼重浦太郎から昭和
15年、一級町村になるまでの森垣幸一までであるが、当時は村長の次
に収入役があり、時に村長の職務代行をしていたのであるが、川西から
2人の収入役が就任している。明治44年〜45年までの西沢収柵と大
正10年〜昭和8年まで就任していた、小玉久助であった。又二級町村
の定数12名の村会議員の選挙が分村前に行われているが、
 第1回 明39 野津幾太郎、西沢収柵、堀川泰宗
 第2回 明41 野津幾太郎、西沢収柵 以上が川西から当選してい
る。
 地域の機構としての変革は明治43年上湧別村の分村で大きく縮小さ
れたので前掲の23部を区割りを改編して村内を12部に分割した。
 大正2年に東芭露、西芭露、志撫子の分割があり15部となった。
 更に大正9年に湧別市街付近の地域性にそった改正が行われ12部に
昭和3年トエトコ、緑蔭を分割して14部に、更に昭和6年に福島団体
区が分区され15区となって、戦後までつづいた。
 その間昭和2年に、町村制の改正に基づいて「部」制が「区」制に改
正、代表者も部長から区長と改まった。
 川西では 
   明治41年  に3部・4部・5部
 大正 2年 に3部・4部・5部
 大正 9年  3部
 昭和 3年  4部 (川西区と字名を冠する呼称となる)

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     100年語り草
                 (その六)・・・行政
    川西から町長が議長が

 100年を省みて川西から町長が誕生したのも初めてだ。自治区から
首長をだすことは困難だし尚更川西のような小さな区からは滅多に出
ない。ただ開拓の歴史が古く立派な・進歩的な・積極性のある・意欲的
な人を盛り立てようという土地柄だけに実現したとも云える。
 現在の羽田町長は農業出身者として農協理事から専務、組合長と
農民の絶対的信用を得て昭和56年前清水町長急逝により、後継者と
して推され、以後、選挙に再選、無投票で3選と町民の絶大な支援を
背景に堅実な町づくりをつづけている。
 更に同じ頃に町議会議長に就任した伊藤誠司さんがある。
昭和30年以来町議当選9期と地元住民の絶対的支持のもとに議員
当選を重ね、町長の羽田さんとタイアップして議長に就任したことは
川西の誇りだが63年急病により70才で急逝されたことは惜しまれ
る。

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四 開拓の進展と
大正時代
 未開の地に入植した人々も次第に地域行政の整備と共に安定して来
たが、その間に大きな大水害に見舞われたのが明治31年で、代々の被
害を蒙ったようで川西原野では平均1メートルの冠水があったと伝えら
れている。この年に湧別・紋別間の国道が開削され、翌年に湧別橋(木
橋)が完成され交通機関の整備も次第によくなった。
 8線に堀川泰宗という人が湧別駅逓の付属牧場を開設し、昭和4年の
存続期間終了まで続いて廃止になった。明治33年には野津牧場が開設
されている。
 川西の中心は古くから四線で、川西小学校特別教授所が開設され、明
治45年には、宮田商店前に郵便箱が取りつけられている。
 大正2年〜4年に水害の記録があり、麦のニオが全部流され、南瓜が
流され、上湧別の方から収穫前のリンゴが落ちて多量に流れて来たとい
う。
 大正4年に出口助次郎が土地を寄附して、湧別神社から分祀して四線
に川西神社を建立、祭日を馬頭さんに併せ毎年7月17日に行って来た。
 大正5年にオホーツク海岸に高波があり、野津牧場まで波が押し寄せて
漁場の人も舟で遭難し、溺れて全員死亡したという話しがのこっている。
 二級町村制になって後の川西選出の村会議員は別項の方々で、部の代
表としても村政のためにも大いに活躍した。住民は明るい見通しの下に
意欲的に仕事に取り組み、地域の共同体としての性格をより強固なもの
としていったのである。

五 昭和初期から
終戦まで
 農業主体の川西は行政・財政の上でも、農業とか作付品目などに大き
く左右された。地域柄気象条件によりこの地帯は開拓以来、冷害、凶作
に幾度も打ちのめされた。明治後期から大正初期にかけては、湧別薄荷
の最盛期で、薄荷景気で村財政も大きくうるおった時もあったが、その
後薄荷も低迷し、水田耕作が行われることになった。昭和の初期には3
年毎の冷害凶作に、農民のふところは疲弊のどん底に落ち込んだ。この
頃、地道に川西の土地に雑穀を作付していた川西では、この冷害にも何
とか耐え得る力を持っていたのであった。
 こうして昭和初期の経済恐慌は全国的に及び、農家の負債整理に行政
あげての努力が払われたのである。したがって戦争に突入した昭和12
年は戦費の増額にもかかわらず、一部教育費などは国庫負担の増額に
よって、村費の軽減減少が見られるのである。
 それと川西として幸いしたことは、永年洪水に悩まされた湧別川の築
堤工事が、昭和10年から本格的に開始されこれが戦時中、中断される
ことなく遂に完成を見たことは、川西住民にとって何よりもかえ難い喜
びで、以後枕を高くして眠ることができたことも、特記事項の一つと言
えよう。
 さて、青年訓練所の設置や、敬神崇祖の精神昂揚、天皇崇拝の風潮な
ど国民の意識を高め、軍国主義に導びく方向での国家主義と軍国主義が
行きつく処、軍部の大陸侵攻政策が遂に火をふくことになり、以来不幸
な10年近くの暗い年月を迎えることになるのであるが、昭和12年7
月支那事変が勃発し、次第に戦時色を強め、16年太平洋戦争が始まっ
て、戦時体制一色になった。挙国一致の体制強化の為、昭和14年大政
翼賛会が産まれ、末端町村にも町村長を長とする、翼賛会支部が結成さ
れた。 政党、労働組合等は解散を命ぜられ、非合法化され、町村議会も
翼賛議会となり、昭和15年の村会議員選挙は翼賛会の推薦で会員が
当選している。 川西からは友澤喜作が当選し戦時特例により、昭和21
年まで就任していた。
 川西に於いても昭和15年8月「部落町内会整備要領」が出され、 徹
底した上意下達と、戦時行政浸透のため、部落会、 町内会の中に麟保
制度が設置され地域共同の任務を遂行すると共に、道徳的錬成を図るこ
とを目的に麟保班通称「隣り組」といわれ、 貯蓄増強・物資配給・防空
訓練・各種作付け割当・出荷割当・出征兵士家族の援農作業等、末端町長
の心労は大変なものであった。
 戦争による民生のゆがみも大きく、 農業も戦争遂行のための食糧増産
のかけ声と共に大きく変わって行った。
 昭和20年には、 本土決戦が叫ばれ、 米軍の本土上陸に備え、 在郷軍
人、 翼賛壮年団、 青年学校、 婦人会等を統合して「下湧別国民義勇隊」
が結成され、 川西にもこうした動きはあったが、 8月に至り広島、 長崎
に原爆が投下され、 太平洋戦争は終結したのである。
 長い戦争に勝つためとはいいながら、国民はどんな統制の生活をさせ
られたのか次に列記してみよう。

@  農業統制
 ア、作付統制
    麦・えん麦・大豆・馬鈴薯・亜麻・玉蜀黍・ビート
    等は強制的に作付された。
 イ、生産統制
    前記の作物の作付割当された。
 ウ、供出割当
    生産物は国に供出する事に強制された。
A  漁業統制
    漁民は漁業資材まですべて統制された。
B  木材統制
    木材の生産・配給・価格等すべて統制された。
C  物価統制  標準価格が設定されすべての生活物資が統制された。
D  配給統制  国民生活の殆んど総てのものが配給となった。
六 戦後行政  長い戦争による混乱の時代も、 終戦によって終りを告げたが、 川西は
海外からの引揚者・戦地からの復員者。内地からの疎開者等もあって、
その受入れに混乱が続き、 更に就職難もあって厳しい状況におかれてい
た。勝利を信じ、苦難に堪えてきた国民の衝撃は大きく、 民主主義の時
代に入ったとはいいながら、 行政的にも占領統制下に置かれ、 新しい社
会の進展にとまどう事が多かった。
 衣料品は極端に不足し綿羊を飼って毛糸をつむぎ、 手網の衣服で寒
さを凌いだ。
 昭和21年「公職追放令」が公布された。 戦時中の村長、 体制翼賛会
支部長・在郷軍人分会長・翼賛壮年団長らが対象になったが、 川西には
該当者はなかった。 追放になった人は昭和22年5月から4年間公職に
つくことはできなかった。
 終戦後の悪性インフレは止まる処を知らず、 物価はウナギ上に上っ
た。 そこで政府は、 昭和21年7月、 「金融緊急措置法」を公布して、
預貯金を封鎖し、 一人当り生活費を500円に制限され、 紙幣に証紙を
貼って使用させ、 更に旧紙幣を無効とし、 新円の発行が行われた。 こう
したことは、 戦争に負けたとはいえ、 住民を仰天させるものであった。
 昭和21年戦後の農村にとって最も大きな変化は、 「農地改革」が行
われ、 小作人が地主になった改革も占領政策の一つとして主要な事件で
あった。
 昭和20年3月には、 「都市疎開者の就農に関する緊急措置要綱」が
発表され、 戦時中の疎開が目的であったが、 8月15日終戦となり、 様
相が変わった。 その理由は次のようなものであった。
 1,戦争による国土が荒廃となった。
    戦時下の無謀な増産によって、 地力が減退し、 労力不足によっ
   て土地が荒れ果てた。 又生産資材が欠乏したこと。
 2,天災による大凶作
    昭和20年は大凶作で、 全道的に必要量7.000万石に対
   して、 半分にも満たなかった。
 3,戦争で国土が縮減した人口問題
    敗戦によって樺太・ 千島・ 台湾・ 朝鮮からの引揚者と国土が5
   5%にへってしまった。
 緊急疎開の必要はなくなったものの、 以上の理由から戦後開拓は全国
的な必要性から、 前項の問題解決のため特に北海道を対象として計画・
実行された。 川西にも8戸の開拓者が入植した。
 新憲法と地方自治、昭和22年5月には日本国憲法が発布されて、「旧
大日本帝国憲法」は消滅した。 新しい憲法は、 主権在民・ 戦争放棄・ 人
権尊重・ 自由平等等謳った民主主義の福祉国家を目ざしたものであっ
た。 この憲法によって早々にとり入れられたのが次の事項である。
 1,地方議会の議員の選挙   (議決機関・ 立法機関)
 2,地方団体首長の公選     (住民の投票による選出)
 3,地方団体の行政権・ 立法権の確立(相互の任務の明確化)
 4,住民投票制度   (婦人参政権の実施)
 これにより「住民による、 住民のための、 住民の政治」に衣がえをし
た。
七 離農のはじまりと
過疎化現象
 昭和30年代、 農業にトラクターが導入されるようになり、 それまで
の馬による農耕は次第に影をひそめ、 機械化へと移行していった。
 昭和36年「農業基本法」ができ、 規模拡大を目ざす農家と、 農業を
やめて都会に出る農家ができ、 農業の大きな曲り角といわれる時代に
入った。
 戦時の 「生めよ殖やせよ」の国策は戦後 「家族計画」 「産児制限」へ
と進み、 国でも町でも推奨した結果。 人口の自然動態は次のようにな
った。
 △1戸当りの人口は   (湧別町の統計)
   昭和25年    (6・1人)    昭和30年    (5・6人)
   昭和35年    (5・0人)    昭和40年    (4・4人)
   昭和45年    (3・8人)    昭和50年    (3・5人)
   昭和55年    (3・3人)
 △湧別町年次、 人口動態の推移
区分  年次  昭30  昭35  昭40  昭45
出  生 304 147 115 108
死  亡 85 86 60 41
自然増 219 61 55 67
 △湧別町人口の推移
   区分
年次
戸   数 人   口
 戸 数  前年比較  人 口  前年比較
昭35
昭40
昭45
昭50
昭55
2.425
2.214
1.958
1.865
1.879
     -
(-)211
(-)256
(-) 93
(-) 14
12.193
9.720
7.627
6.693
6.193

(-)2.472
(-)2.093
(-)  934
(-)  500
 この統計に見る現象は、 国の経済成長政策による産業構造のひず
みが表面化して、農山漁村の第1次産業が低位におかれる状況において、
農業基本法を以って建て直しを図っても、 とてもこの流れに逆行するこ
とが困難で、 若年労働力を中心とした、 人口の都市流出によって離農に
よる転出が続出する結果となった。
 その後町においてもあらゆる制度を利用して、 過疎化防止に努力した
ものの如何ともなし難いものがあった。 高度成長の国の方針から当然の
成り行きであった。
 昭和29年 「酪農振興法」 が公布され、 町の農業に酪農が選択され
「耕土集約酪農地域」 指定が実施し、 町の貸付牛制度などにより酪農の
意欲が高まり飼養戸数も2・2倍に増え、 頭数も5倍にのびた。
 町としては、 工業開発・ 林業構造改善・ 農業構造改善・ 沿岸漁業構造
改善・ 山村振興改善、あらゆる制度を生かして補助事業を進めたものの、
過疎化の歯止めにはならなかった。 只戸数は減っても各種事業に使う構
造が改善されて、 町の農業所得は勿論、 個人の農業所得は減少していな
いことが実績としてあらわれている。
 大谷地に酪農道が出来、 平地林の改称に向けての開墾が進み、 又離農
に伴って分散している各個人の所有農地を農業委員会が中心になり、川
西の80%が参加して集団化事業を行い、 多い農家では7〜8ヶ所に分
散していた農地を、 本地を中心に3〜4ヶ所に集約ができ農作業上、 大
型農機具が効率よく利用でき、 一段と規模拡大に役立ったのであった。
離農の傾向は進む一方で、 酪農の拡大と離農とが相俟って、 農家戸数は
更に減少するだろう。 戦後入植の開拓農家が半減し、 最早や戦後50年、
農家は機械化され、 文化は農村のすみずみまで行き渡った。 が一方、
学童の減少で永年地域の文化活動の中心であった小学校も昭和48年に
廃校となり、 現在酪農家36戸、 非農家7戸 (高齢者) があるのみであ
る。

第2節  川西自治会と町とのかかわり                     topにもどる
一自治組織及び
行政機関への
役員就任状況
◎ 昭和22年4月に行われた村会議員選挙に定員26名、 川西から
  山下音市が当選した。(以来の議員当選者は別表の通り)
◎ 又戦後の改革としては、従前の区長制度を戦時中、町内会・部落会と
  改称して戦争遂行に協力して来たというので占領政策によって解散を
  通達され消滅したが、 町では新たに駐在員 (役場の職員とみなして区
  に駐在させる意味) と称して配置する形をとり、 適任者を選んで任命
  した。
   非常勤だが事務手当てを支給した。戦後の混乱が沈静化するにつれて、
  職務内容も区長時代に復元したので、 昭和33年区設置条例の実施に
  よって消滅した。 川西における歴代部長・ 区長・ 部落会長・ 駐在員・
  区長・ 自治会長は別表の通りである。
◎ 昭和26年3月 「農業委員会法」 が公布されて、 これまであった委
  員会を廃して、 農業施策を総合的に掌握する組織の必要性から新たに
  発足を見た。 公選委員と選任委員から成り任期は3年である。
   第1期から以降の委員は第3章掲示のとおり。
◎ 教育委員会、 教育行政の民生化と自主性を高めるために教育委員会
  法に基づいて 「昭和23年」 に公布された。 当初公選で昭和27年10
  月の選挙で友澤喜作が当選し昭和31年の任命制に移行するまで就任
  した。 31年教育委員会が任命制になってから川西から羽田宏が昭和3
  9年8月〜昭和42年3月、 就任している。
◎ 固定資産評価審査委員会委員
   昭和25年、 地方税法によって 「固定資産税が創設され、 法により
  評価機関が設置された。 その委員として、 3名の委員が選任されて
  いるが、 川西から選任されたのでのは次のとおり。
   友 澤 喜 作  昭和25年9月〜昭和26年7月
   原 田 繁 雄  昭和51年5月〜昭和57年

二 数多い川西
出身の人材
 開拓以来、 湧別村の中でも最も入植・ 開拓の早い先進地として、 川西
は村内の注目をあびているが、 入植者の中には、仲々の人材もいたよう
だし、 又学校の校長、 先生にも親身になっての授業は勿論であるが、 青
年になり (今では成人) まで、 文武両道で鍛えられた。 これによって有
意な青年が輩出されていたこともあり、 村長任命制の時代にも村長の次
席とも言うべき収入役に、 別表のように西沢収柵あり大正年代に小玉九
助ありで、 豊富な人材があったし、 伴なって村の行政上の重要ポストを歴
任した方も多いのである。
 終戦ー新憲法の下に公布された地方自治法になって、 慨述のような首
長公選と議会制度の変革の中で、 永年農協組合長として又議会議員、 農
業委員として行政及び産業畑で活躍の著しかった羽田宏に、 昭和58年
時の町長、 清水清一の急逝の後釜の選出にあたり、 白羽の矢が立ち同年
2月町長に就任した。 平成5年第3期中で町政の活発化に献身中だが、
今般川西開基百年記念に当たっての、 湧別の首長がわが川西からの出身者
であろることに誇りを持ってよいだろう。

三 開村(町)以来の町
(村)及び川西地区
に於ける受賞者
◎ 開村開町記念式典
◎ 町表彰条例による表彰
◎ 青少年文化賞
◎ 川西地区の記念式典表彰
(ア) 「開村40周年記念式典」 (昭和12年11月3日)
   村の発展を祝福し、 開村の昔を偲び、 先人の功労を讃える記念式典
  は昭和12年明治節の日に行われた。 この式典は、 10年毎に行うこ
  ととされ、 功労者に対し表彰と記念品が贈られたが、 第1回の被表彰
  者は川西では次のとおり。
  △自治功労者  野津幾太郎・西沢 収柵
  △教育功労者  島村戒太郎
(イ) 「開村50周年記念式典」 (昭和22年9月1日)
   終戦後の混乱と空虚からややおさまりかけた時で、 新生日本と下湧
  別村の前途を祈って行われた。 川西の被表彰者は次のとおり。
  △自治功労者  小川清一郎・友澤 喜作
  △産業功労者  野津不二三
  △教育功労者  岳上 徳市
(ウ) 開町60周年 (昭和32年)
             産業功労  小川清一郎・友澤 喜作
             教育功労  小松 孝寿
             節   婦  増田はるえ
(エ) 「町表彰条例による被表彰者」
    昭和39年、 「湧別町表彰条例」 が制定されて毎年11月3日の文化
   の日に表彰することになった。 以降において表彰を受けた人々をあげ
   て見よう。(川西地区のみ)
   △ 昭和39年  自 治 功 労
社会厚生功労
統計事務功労
消 防 功 労
 本間資義
 友澤 喜作
 野津 一夫・清原松太郎
 岳上 博司・本間 資義
△ 昭和41年 消 防 功 労  岳上 博司・本間 勝義
△ 昭和42年 自 治 功 労  伊藤 誠司
   (開基70年と同時) 
           篤  行  者  中尾 庄一
△ 昭和44年 産 業 功 労  羽田  宏
△ 昭和44年 自 治 功 労  黒田 勝雄
△ 昭和47年 自 治 功 労  清原松太郎・岩佐 常雄
 小谷喜一郎
△ 昭和48年 教 育 功 労  高久喜三郎
△ 昭和50年 自 治 功 労  小川 清巳・本間 義路
△ 昭和51年 自 治 功 労  羽田  宏
△ 昭和52年 自 治 功 労
消 防 功 労
 釜神 悦夫
 小川 征一・本間 義麿 
△ 昭和56年 自 治 功 労
社 会 功 労
 黒田 辰夫
 友澤 市男
(カ) 「開基100年の盛典 被表彰者」
     昭和57年9月12日
            自 治 功 労  伊藤 誠司・本間 資義
            産 業 功 労  羽田  宏
            優良母子家庭  友澤 春子・小谷 トク
                       吉本ユキ子
            永住開拓功労  井上よし江・釜神裕次郎
                       釜神マツ江・菅井 兵太
                       本間 資義・湊  つね
                       宮本 正則・山下たつよ
(キ) 「開基110年の盛典 被表彰者」
     平成4年11月3日
            永住開拓功労  岳上フミ子・小川 清巳
                       釜神 サダ・黒田 花江
                       藤崎 豊次・堀部 春美
                       黒田さかえ・高久マツノ
                       本間ハナエ・本間 ハナ
(ク) 「川西地区開基以後の記念行事に於ける被表彰者」
   ▽川西開校50周年記念(昭和34年)
    ○教育功労者  伊藤 代助  伊東 栄三  黒田真次郎
               本宮徳太郎  小池 武男  小谷 幸栄
               友澤 喜作  山下 音市  本間 資義
               宮本 正則
(ケ)▽ 川西開基90周年記念 (昭和60年)
    ○開拓功労者
      橋本 長吉  本間ハナエ  藤崎 小春
      湊  つ ね  大水 ク メ   高久マツノ
      井上ヨシエ  宮本 正則  岳上フミ子
      鈴木 玉子  本間 ハナ
      菅井 兵太  黒田さかえ  清原オキワ
      小谷トクエ  堀部 春美  近藤 トク
      本間 資義  藤崎 豊次

  
四 川西戸数人口
の推移
 年度   戸数  人 口
  男     女    合計 
明51
明40
昭 6
昭10
昭27
昭34
昭44
昭54
昭63
平 4
51
64
68
75
95
93
71
59
55
57






182
137
117
122






187
131
127
133


401
532
649
619
369
268
244
255

五 叙勲を受けた人々 本 間 資 義(昭和61年11月)
  ○勲五等 瑞宝章
    (略歴の概要)
    議会議員・農協監事・農業委員
    森組理事・老人クラブ会長等自治行政
    地域振興に大きく貢献された。
伊 藤 誠 司(昭和63年3月)
  ○勲五等 双光旭日章
    (略歴の概要)
    永年に亘り、議会議員・議長
    司法保護司・農協理事・森組理事
    監査委員等を勤め自治行政地域の振興に貢献された。
六 川西出身歴代
議員一覧
※村(町)議員の移り変わり
   明治39年〜明治43年   湧別村村会議員
   明治43年〜昭和21年   下湧別村村会議員
   昭和22年〜          下湧別村議会議員
   昭和28年〜          湧別町議会議

氏  名 期別 当選回数 氏  名 期別 当選回数
 堀 川 泰 宗 
  明治39年から
  明治41年まで 
 第1期  1期 2年  西 澤 収 柵 
  明治39年から
  大正2年まで
第1・2
 4期
3期6年
 野 津 幾 太 郎
  明治41年から
  大正14年まで
第1・2・3
4・5・7・
10期
7期14年   小 谷 幸 十 郎
  明治43年から
  明治44年まで
第3期 1期 2年
 本 宮 徳 太 郎
    大正3年から
  大正6年まで
第5・6期 2期 4年  出 口 助 次 郎
    大正5年から
  大正6年まで
第6期 1期 2年
 小 川 清 十 郎
  大正9年から
  昭和2年まで
第8・9
11期
3期 8年  伊 藤 代 助
  昭和3年から
  昭和11年まで
第12・
13・
14期
3期12年
 友 澤 喜 作
  昭和15年から
  昭和21年まで
第15期 1期 7年  本 間 資 義
  昭和22年から
  昭和49年まで
第16・17
18・19
・22期
5期20年
 山 下 音 市
  昭和22年から
  昭和25年まで
第16期 1期 4年  伊 藤 誠 司
  昭和30年から
  昭和63年まで
第18〜
26期
9期33年
 野 津 不 二 三
  昭和38年から
  昭和41年まで
第20期 1期 4年  羽 田  宏
  昭和42年から
  昭和45年まで
第21期 1期 4年
 野 津 一 夫
  昭和50年から
  昭和58年まで
第23・
24期
2期 8年  原 田 繁 雄
  昭和58年から
  現在まで
第25〜
27期
3期10年

七 川西歴代区
代表者
(注)湧別町区行政の変遷
   一、部   長 (大正11年まで)
   二、区   長 (昭和2年〜昭和18年まで)
   三、部落会長 (昭和18年〜昭和23年まで)
   四、駐 在 員  (昭和24年〜昭和32年まで)
   五、区   長 (昭和33年〜昭和48年まで)
   六、自治会長 (昭和49年〜現在)

年次 氏名 名称 年次 氏名 名称 年次 氏名 名称
明39 小谷幸十郎 第3部長 明40 本宮徳太郎 第3部長 明41 福本 村義 第3部長
明42 出口助次郎 第3部長 明43 松井 幾馬 第3部長 明44 滝本助次郎 第3部長
明45
大7
長谷川金次郎 第3部長 大2 真鍋清次郎 第3部長 大3 田川 寅治 第3部長
大4
〜5
岩佐 良馬 第3部長 大6 本間 儀七 第3部長 大8
〜9
佐藤仲太郎 第3部長
大10
〜11
小松北次郎 第3部長 大12
〜13
伊藤 代助 第3部長 大14
〜15
滝本 勝次 第3部長
昭2
〜3
佐藤繁次郎 川西区長 昭4
〜5
羽田 文内 川西区長 昭6
〜7
黒田 捨吉 川西区長
昭8 原田 浅市 区長 昭9 友澤 喜作 区長 昭10 岩佐 幸吉 区長
昭11 宮本 正則 区長 昭12 小川 浅十 区長 昭13 本間 資義 区長
昭14 藤本 正之 区長 昭15 山下 音市 部落会長 昭16 黒田仁三郎 部落会長
昭17 小谷 幸栄 区長 昭18 岳上 広治 部落会長 昭19 野津不二三 部落会長
昭20
〜21
釜神裕次郎 部落会長 昭22
〜23
黒田真次郎 部落会長 昭24
〜25
昭33
〜34
小川清一郎 駐在員
区長
昭26
〜27
吉田金之助 駐在員 昭28
〜29
掛橋 清美 駐在員 昭30
〜32
昭35
〜41
清原松太郎 駐在員
区長
昭42
〜48
岩佐 常雄 川西区長 昭48
〜平元
小川 清巳 自治会長 平元
〜現在
佐久間善男 自治会長

八 川西住民
年代別府県
出身別調べ
川西住民年代別・府県別入植者調べ             (友澤喜作 調)
   年代別
出身府県別
  明治40年以前入植者   明治40年から
 明治45年まで
 大正元年以降
高知懸人 岳上元治・岳上勝太郎・三宮助治
窪内長太郎・窪内安太郎・窪内源吉
窪内竹馬・宮本円治・西村松治
今井   ・川竹孫太郎・小松文太郎
岩佐良馬・森本喜三郎・池渕安吉
松村弥太郎・碁石福太郎・山西梅太郎
藤本清吉・藤本長弥・松本時松
宮田亀之助・宮田喜太郎・宮本 栄
尾崎新右ヱ門・尾崎竹四郎・滝本祐太朗
滝本房吉・滝本助次郎・滝本勝治
吉田三次郎・森田クメ・久川繁治
山崎久松・桟 久吾・和田市太郎
吉田金之助・片岡伊喜弥・松本喜助
浜田鹿太郎・山崎伊勢松・小谷幸十郎
仙頭連太郎・江澤良馬・川谷国太郎
 岳上勝太郎
 藤崎藤行・窪岡
 三上   ・谷岡虎郎
 山西伴治・高橋末蔵
 公文龍太郎・小松岩治
 横田末治・新尾
 小松精麿







 片岡一夫













愛媛懸人 本宮徳太郎・伊東馬吉  伊藤代助・山下夏平
 宮宅憶太郎・宮宅惣太郎
 山下音市
 小池武男
徳島懸人 眞鍋清次郎・橋本惣兵衛・橋本近蔵
大竹武治・福本芳太郎・吉川仁三郎
篠森四郎・三木弥太郎・吉野吉三
 橋詰角蔵・松村岸太  井藤園吉・向井才次
熊本懸人 渡辺芳吉・増田滝治・渡辺芳平
渡辺芳太郎・渡辺三次郎
 渡辺末彦
岡山懸人 原田浅市・海伊鹿太郎・原田虎蔵
三重懸人  鈴木初太郎・佐藤繁三郎
 中尾正吉・高久喜太郎
愛知懸人 小川清三郎・浅井   ・栗木亀吉
前川兼吉
 水谷吉次郎  大柳新市
岐阜懸人 浅井代次郎・岡崎亀吉・長谷川清吉
高田兵作
 黒田眞次郎・黒田捨市
 横山久吉
 堀部秋雄の父
石川懸人 畑 カズ・小杉眞美・出口助次郎
本間儀一・久平虎蔵・吉野吉平
福井良平・笹原仁助
 山岸音吉・山岸仁太郎
新潟懸人 酒井才治  佐久間善男・大水民之助
福島懸人 前田奥太郎・関根直彦  鈴木平吉・菅野一二
 佐々木梅吉・渡辺儀助
 牧本   ・内越
山形懸人 田川房吉・小玉九助・小笠原福治郎
佐藤トキ・北川宇一・横山吉太郎
 釜神裕次郎・吉野芳太郎  露木芳江
宮城懸人 遠藤庄兵衛・遠藤庄吉・羽根坂仙ェ門  石川藤吉・羽田文七
 羽田文内・加藤長助
 牧本   ・内越
青森懸人 堀川泰宗
山口懸人 友沢乙吉
鳥取懸人  高田傅蔵
(注)友澤喜作個人の記録を表にしたもので正確を欠く面もありますが参考に登載した。
六 川西自治会の
役員
区        長  佐久間善男
副 区 長 兼 会 計  中尾 庄一
土  木  部 長  本間 勝義
衛  生  部 長  岳上 博司
体  育  部 長  友澤 勇次
子 供 会 育 成 会  小川 征一
会館運営委員長  高久喜三郎
監        事  黒田 勝男
監        事  釜神 悦夫

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   100年語り草
            (その七)・・・産業
   牧場のあゆみ
 牧場のはじまりは、 野津幾太郎氏の 「野津牧場」で従来の馬産地に
適した土地として先見性を以て土地利用を考えた。 この人は村会議員
に七度当選という村の行政にも多大の貢献をした人だ。 (1期2年の時
期もあった)
 なるほど海岸に近く西にシブノッナイ湖を控え平坦な原野だから牧場
に活用して北見馬産拡大を考えたようである。
 その後湧別馬の産地として重要視された。
又バローに内山牧場、 信部内の信太牧場・東に土井牧場、 川西に堀
川牧場が開かれ戦時中の馬産の中心だったが戦後畜産の衰退に伴っ
て個人牧場は次第に影をひそめ昭和40年頃から町営牧場に姿をかえ
ていった。 その中で野津牧場はいまだに昔の面影を残している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第3章 川西の産業                   topへ
まえがき 川西の産業
 川西の産業にふれる前に明治維新以来、 倒幕に続く武家制度の廃止、
廃藩置県など次々に新しい制度が生まれて、 せまい国土に、武士の生きる
道、 又二、 三男対策として、 当時生活の道として考えられたことは、 先
づ衣、 食、 住を満たすためにどのように生きるかということが、 重要な課
題であった。 当然目を向けられたのが、 蝦夷地といわれた 「北海道」 が
注目された。 しかし北海道は日本の北端、 気候的に雪の少ない内地で暮ら
し気温も零度以下など経験したことがない者にとっては、 いかにきびしい
土地であるか、 想像するだに不毛の地としての印象が強く移住など進ん
で希望する者はなかった。
 そこで政府のいろいろな植民地政策が明治のはじまりから着々と進む
のである。 国の政策の中で旧藩主による家族の集団移住、 屯田兵として
の移住、 利権者の募集移住、 一般移住も行われてそうした政策が効を奏
して北海道移住熱がいやが上にも盛り上がったのは明治初期のことで
ある。
 したがって北海道でも先づ道南の幾分気候の暖い地方に殺到した。
岩内、 伊達、 等 渡島半島、 登別周辺が先づ入植次いで札幌周辺等であ
ったが、 湧別入植の皆さんを調べて見ると既に明治20年頃には道内南
部の海岸地帯は、 もう概ね入植が済み残っている所は、 川の上流で山地
の地味も悪い所だけであったようで、 一時入植したがとても開拓の可能
性もなく、 改めて気候は寒くても地味の肥えた地を取得して来た人達が
四号線にも川西にも見られるのである。 そうした中でやはり一番先に注
目された、 北見でも河川の流域をねらった人が多い中で、 川西の先人達
が湧別川の流域である、 四号線、 川西が先づ、 湧別開拓の第一の着手地
だったのである。

 後年屯田が入った上湧別よりも川西が更に有利な地であったことは、
数十年を経た今日までの経過に於て農地としての優位性が物語っている
と見てよい。
 さて川西は前述のように地味のよさから、 樹木の繁茂も著しく開拓の
面でも先づ第一に樹木の処理からという点では大変苦労を重ねたよう
だ。が開拓を重ねる度に、作付面積も当然ふえ、時に冷害凶作に見舞わ
れても特に困らない収穫をあげることが出来たのである。
 したがって川西全域での産業は、 百年に至る迄その大半は農業で占
められており、 時代の移りかわりと同時に畜産業、 澱粉工場、 などが必
要に応じて付随して生まれて来た産業といえる。 後年酪農業が地域の安定
産業として取り入れられた。 故に商業もとりあえずの地域の生活用品の販
売品のみの商店であり、 農業だから、 主に農協購買を利用する向が多い
のも当然といえよう。
 よって「川西の産業」として一括の章を以って揚げ以下各筋に分けて
述べたい。

第1節 畑 作 物
 生きんがために重大な決意を以って北の大地に入植した。 川西の先人
達は、 先づ粗末な家というよりも雨雪をかろうじて凌ぐための、 住居を
つくり、 内地から持参した着物を唯一の便りに寒さをしのぐための衣類
履物にも大変な苦労が重なるのであるがこれらのことについても、 第三
編「川西の文学」の開拓の記録の中に余すことなく記録されているので
参照してほしい。
 ただ衣食住については、 先づ以って開墾した畑で作物をつくらな
ければならぬ。 ということで先づ多くの人は裸麦を作った、 これが主食
である。 米は北海道では耕作不能とされていたので、 入植者は裸麦が主
食ということは誰も疑わなかった。 それに主食を補充する作物として
稲黍、 トウキビ、 馬鈴薯、 南瓜、 ソバ等であろう。
 次いで換金作物として、 小麦、 菜種、等がつくられ、薄荷をつくる者
も稀にあったが、 湧別が薄荷の発祥地といながら、川西においては特
記すべき耕作はなかったようだ。 馬耕作として燕麦ががふえ、
後年、 戦時となって供出物として燕麦作付が奨励された。
その他菜豆(小豆、手亡、金時、ビルマ、)等が多少にかかわらず各農
家で作付けされ又大豆などは自家用、味噌醤油用、納豆、豆腐用に作付さ
れた。 ビートも川西の耕作は早く戦時中、 戦後現在に至るまで、 糖源と
しての需用から作付けされている。 亜麻は大正6年湧別に亜麻工場が操業
してから各農家が奨励作物として栽培し戦時中は軍用にも使われたが、
昭和40年工場が閉鎖されて需用が減じて作付もなくなった。
 アスパラは推奨作物として戦後工場の操業もあり現在なお作付が順調
である。
 その他スイトコーン等、 トウキビの改良した優良作物が次々と栽培さ
れるようになり、 疎菜類も従来の大根、 白菜、 キャベツ、 ネギの外、 セ
ロリ、 トマト、 玉ねぎ、 等が作付されるようになった。
 以上川西が主に栽培している、 畑作物について概要をのべて見たが、
時代の移り変わりがはげしく、 耕作方法も進歩し手間のかからない、機械
化と化学肥料、 などが活躍している中で、 特に最近問題となっているの
が野菜などに使用される、 農薬の残留毒素問題があり、 無農薬栽培が
珍重重要視される時代に入っている。
 以下各項に至って川西の農作物について述べて見よう。

一 裸   麦  入植当時から開拓者の主食として重要視され蒔付けされた。
北海道では当時米の作付はまだ、 定着していなかったので、 日本人の
常食としての米食は望めなかった。 これにかわるものとして広く、 食用
として常用されたもので、 大抵の農家は30アールから50アール作付
していたのである。
 この裸麦も戦時中から戦後の26年まで、 食料統制下で割当てられ供
出したものであった。 収量も10アール当り3俵から4俵(1俵60s)
位で販売作物としてのウェートは低かった。
その後、 酪農に移行するにしたがって、 作付もへり、 昭和45・6年頃、
から作付が見られなくなった。
 脱穀方法も戦後、 動力脱穀機によるようになったが、 それ以前は、 刈
りとって干しあげてから、 直径15センチメートルくらいの束にして、 一時
「ニオ」につんでおき、 乾燥した頃合いを見て「麦焼き」にかかる。
(「ニオ」とは束ねた麦を雨が入らないように、 又穂の部分が土に着か
ぬようにして丸く積んだもの) 麦の穂先の毛のところから火をつけて
だんだん燃えて来ると、 実のついた穂が、 ポトリ、 ポトリと落ちる。
これを俗に麦焼きといった。
この作業は夏の日中は暑いので殆ど、 夜又は早朝朝太陽の出ないうち
に行われた。 時期になるとあちこちで麦焼きの火が暗闇の中に浮き立っ
明るく、 当時の農村の風物詩とも言うべきものであった。 焼き落とした
穂は筵の上で、 唐竿で打って脱穀し、 それを臼で精白したのである。
 精白した麦は一回水炊してから本炊して食べたが、 昭和に入ってから
は精米所で精白し、 圧平麦にするようになって、 水炊はしなくてもよく
なった。

二 小   麦  これも裸麦とならんで入植当時から作付けされたが、 裸麦の煮て食用に
できるのに比して小麦は、 製粉して、 パン、 菓子、 或いは、 うどん等麺類
に加工する原料であった。 これは現在に於いても変わりはない。 が加工用
としての用途が広いので、 換金作物としての多くの農家で作付けされた。
製粉工場ができるまでは手廻しの石臼で粉にして、 自家でうどんをつくっ
て食べたのである。
 昭和10年代では干麺工場で、 小麦と干麺を交換するようになった。
当時は春蒔種が多く収量も10アール当り、 3,4俵位だった。 小麦も
戦中、 戦後は統制下におかれ、 割当供出をして来たが、 販売作物として
のウェートも差程高くなく、 酪農移行と共に作付が減って来て、 昭和
45,6年頃から一時姿を消してしまった。
 その後、 国の奨励作物となり、 価格も安定している等で、 昭和49年
湧別地区の麦耕作者5名で、 湧別麦生産組合を結成、 川西に乾燥施設も
つくり補助事業で大型コンバインも導入した。 其の後組合員も増え川西
では、 佐々木吉一、伊藤誠司・菅野秀雄、高桑武・小玉昭二・佐々木正
の6名で、 その面積37ヘクタールであった。 その後、 連作が好ましく
なく面積も減少して来ていたが、 昭和55年から始まった。 牛乳の生産
調整、 更に60年からの、 ビートの計画生産等で、 見直しをされ、 平成
2年湧別・芭露、 畜産の3農協で補助金も含め、 6億余の工事費で、
大型乾燥施設を芭露に建設した。 それに伴って湧別の麦作組合は解散し、
その広域組合に加入し、 既乾燥施設はその中に包含された。 この施策に
よって更に麦作面積も増えて来た。 収量も10アール当り8,9俵とい
う先行希望のもてる作物で、 平成3年11戸で、 24ヘクタールの
作付であったが6月2日の降雹に見舞われ、 14ヘクタールが廃耕の大
被害を受けた。
 平成4年度の作付面積は、 9戸で、 18・01ヘクタールだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     100年の語り草
               (その八)・・・・産業
   実 業 家
 100年の過程の中で実業家として最も活躍した人はといえば小池武
男さんをおいていないだろう。
 この人戦時に入る直前の昭和12年川西の湧別川沿岸に於いて澱粉工
場を創設以来戦争の波にのり湧別に製粉工場製飴工場・中湧別に清涼飲
料水遠軽に冷蔵業更に上湧別に農産物加工場・北見・苫小牧と積極的に
事業を拡大した。 設立した会社はそれぞれ子にゆづり独立の基礎をつく
ったことも周知の事実で困難な社会情勢の中で川巾の広い湧別川を横断
して電気を引くなどその先見性と大胆な実行力が成功に結びついた実業
家といえるだろう。
 晩年末子と共に苫小牧に安住の地を得て悠々余生を楽しんだ。
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三 燕   麦  川西入植後、 数年にして耕馬を導入した営農に改まって、 燕麦が農耕
馬の飼料として作付けされるようになった。 当時としては農耕の外に馬に
よる木材運搬にも大いに利用されていたことから、 販売作物としても
ウェートが高かった。 更に、 戦時中には、 軍馬用・ 種馬用として国家的
にも作付が奨励され、 供出の割当があった。
 又戦後の食糧不足の一時期、 脱皮して食用に供したこともある。
当時の麦類の刈取作業は、 すべて鎌一丁の重労働であった。 又燕麦の
脱穀方法も、 小麦同様、 シバキ台に、 たたきつけて脱粒していたが、 昭
和に入って足踏脱穀機が出廻って、 能率も上がるようになったがこれも又
重労働であった。
 昭和も30年頃から動力脱穀機に代わったが、 当初は機械も高価のた
め、 先に導入した人に頼んで脱穀していた。 収量も10アール当り、
7−8俵獲れた。(1俵 45kg) この燕麦の殻で俵を編んで穀物の入
れものにしたのである。
 昭和30年頃乳牛の濃厚飼料は大豆粕、 コプラミール等と、 粉砕した
燕麦と混合して、 給与していたが、 同、 35年頃から配合飼料に代わり
、 燕麦の作付面積は次第に減少した。
 昭和50年頃から耕作は見られなくなった。

四 馬鈴薯  入植当時から貴重な食料として作られていた。
昭和6年、 北川宇三郎が、 足踏式、 同8年、 羽田文内が、 発動機に
依る、 澱粉製造を始めたが、 何れも、 2,3年で中止する。
 昭和11年、 小池武男が、 翌12年、 伊藤代助が、 澱粉工場を、
操業するようになり、 作り易さもあって、 作付は、 どんどん伸びて、
販売作物の王座にのし上がる。
 戦中戦後は、 食料統制下に入っていたが、 昭和24年解除された。
当時「紅丸」という品種は、 革新的であった事を、 特筆して置く。
 当時の薯掘りは、 薯掘鍬による手堀りで、 遠く留萌の、 初山別の方
から、 「薯掘り子」と言って幾組の夫婦が、 出稼ぎに来て、 川西の空
家、 物置等を借りて、 仮住まいし、 朝早くから、 晩暗くなるまで、 薯
掘りに専念したものである。
 昭和22年頃から、 畜力に依る掘取機が、 導入されて、 「薯掘り子」
の姿も消えてしまう。
 当時の収量は、 10アール当り、40−50俵だった。
 酪農に移行するにつれて、 作付面積も減って、 昭和35年、 両澱粉
工場は閉鎖され、 同36年、 湧別に、 スノー食品工業が操業、 マッシュ
ポテト、 はるさめ、 澱粉の製造原料として、 集荷を始めるが、 川西の面
積は、 減少の一途をたどり、 同55年頃には、 自家用を除いて作付0と
なった。
 その後酪農経営の一つに取り入れられるようになって、 作付反数も
ふえて来た。
 収量は10アール当り(澱粉原料外の加工用栽培)約60俵である。
  作付面積
年次
 作付面積 
 (単位f)
昭和33   130  
47 11  
55 0  
平成 4 8.5

五 稲   黍
(いなきび)
 入植の初期から作付けされた。 餅米が手に入らない北海道ではそのだいがえ
として、 餅、 赤飯、 ボタ餅、 又稲黍ごはん、 南瓜粥にも、 餅米に代わって
使われたものである。
 収穫前にたわわに垂れた黄色い穂が雀等野鳥の餌として、 ねらわれ、
大切な実を落とされるので、 その防止に作付者も大いに苦労させられた。
 この稲黍も昭和40年頃から作付が見られなくなった。

六 薄   荷
(はっか)
 湧別村は道内の薄荷発祥の地として紹介されているが、 その第1号は
明治28年、 四号線で植付栽培されている。 その後、 薄荷は山岳の開
拓地に休息に作付が広がり、 湧別川奥地の遠軽、社那渕、丸瀬布、白滝
又芭露、計呂地方面と北見薄荷の一大ブームを起こしたのが明治末期から
大正初期にかけてであった。 四号線に隣接しながら専ら雑穀生産として
の営農一筋に進み明治40年頃一部の耕作者があったが大正、5年頃で
姿を消した。 相場変動の激しい薄荷作付に見るべきものがないので
ある。 これは川西の人達の堅実性を物語っているといえよう。

七 蕎   麦
(そ ば)
 新地を耕したら「先づ蕎麦」というのが昔から実行されている。非常
に生育期間が短く、 7月頃までに耕した畑に、 蒔付をしても、 充分収
穫できることから、開拓者には作付し易い、品種として、大ていの農家
とは馴染みがあった。
 「そばねり」や手打ちそば」など、 御馳走として親しまれて来た。 が
この蕎麦も全道的にも作付が減って来て川西に於いては昭和30年頃から
見られなくなった。

八 菜   種
(なたね)
 入植後5、6年の農家が好んで耕作し、当時としては貴重な、販売作
物として珍重された。
 明治35年には湧別港から菜種3千俵が船積みされた記録があるが、
食糧作物を作付したあと、生活を少しでも向上させようとすれば、当然
金が必要で販売作物の菜種を作付をし、1俵4円で売って、農家のふと
ころを潤していたのである。
 この菜種も、大正に入って作付が減り、やがて思い出の作物となった。

九 豆   類  豆類には大・小豆あり、青豌豆又菜豆類がある。
 これらは自家用として又販売用として、各農家それぞれ、多かれ少な
かれ耕作して自家用生活向上の資として活用した。
 大豆は、味噌、醤油の原料、又必要な蛋白源としての納豆、豆腐の原
料として各農家が必ず作付けした。
 小豆は、餅やしるこ・饅頭の餡として農家重労働のエネルギー源とし
て欠かせないものであったが、冷害凶作に左右され易く冷害の年には収
穫皆無の年もあった。
 青豌豆も各農家で作付された豆類の一つだが8月頃収穫されることか
ら時期的に早い換金作物として好んで作られたと思われる。
 外の菜豆には、花豆、金時、ビルマ、手亡、等々好みに応じて作付さ
れたが現在は殆ど作付けされていない。

十 玉蜀黍
(トーキビ)
スイトコーン
 北海道の馬鈴薯と玉蜀黍は今でも代表する北海道のアジとして、有名で
ある。 開拓の農家は内地にない味として競って各戸が10アールくらいは作
付けした。 8月末から9月にかけての焼トーキビの味は、思い出深いもの
がある。 だが食べる時期としての約1週間で固くなるので早生、中生、晩
生と植えて1ヶ月程度もつことになり食用とした。
 昭和40年頃から、改良新品種「スイトコーン」が出廻り在来種の欠
点を補い美味を提供するに及んで、あけぼの食品などの加工場からの需
用もあり、販売用として一部の人が作付して来たが面積は僅かである。平
成4年度は3戸で2・5ヘクタール(販売用)で各戸では自家用程度作
付されている。

十一 南  瓜
(かぼちゃ)
 開拓当時から、食糧の一つとして作付けされて来た南瓜も北海道の特産
の一つで仲々人気がある。昭和の初期、秋風が吹き荒ぶ頃、学校の廊
下を素足で歩く子供を後から見て、足の裏の色で市街の子か、農家の子
か、はっきり見分けが出来たと、 古老が話していたが、 多食すると皮
膚の色が黄色くなるのである。分かっていても美味しい南瓜だ、食わねば
損々とばかり大人も子どももよく食べた。 更に昭和45年頃から 「エビ
ス」という種類の南瓜が出廻り、 従来の南瓜より小型だが、 味は美味し
くて、 その上蔓の先成りまで、おいしいのが特徴とあって、 この種類が
主に作られている。川西では昭和60年頃から販売用(加工用)原料と
して一部の人によって、 小面積作られて来て、 平成4年度は8戸で、
5・3ヘクタール作付された。

十二 亜   麻  明治39年頃から耕作されていたが大正6年、 湧別に亜麻工場が
できてから、 作付も伸びるようになった。 しかしこの作物一度
作付けしたら同じ土地に、 7,8年は作れないというもの、 したがって
1戸当りの作付面積はあまり多くはなかった。
 夏作で換金作物のうちでは一番早く、 お金が入るというところ
が一つの魅力でもあった。
 収穫時に雨にあてると、品質が落ちろとあって、 何時も大空とに
らめっこの作業であった。
 特に西の空に夕立雲が出て来た時など、 どこの家でも、 戦場その
ものの様相を呈したものだ。
 戦時中は軍需作物として、 作付割当がなされた。 又増産奨励として衣
料の還元配給もあった。
 しかし、 戦後の、 科学繊維の台頭で亜麻の需用は減少し昭和40年
隆盛を極めた、 湧別亜麻工場も閉鎖され、 以来亜麻の姿は完全に消え
去った。

十三 ビート  川西の年表(昭和47 年版)に依ると、 「大正9年、 母根栽培が始
まり、この母根栽培は最も、単位収入の高い作物として、母根成金も出
現する程に好収入となった。」と記されている。
 大正11年、 本格的製糖原料用ビート栽培が始り、 それ以来、 今日ま
で換金作物として、 続けて作付されて来た。
 当時は直播栽培で、重労働の間引作業も、短期間に済ませねばならず
又、 収穫は一株づつ 「カギ」 で引き抜き 「ナイフ」 で、 タッピン
グする其の掘取ったビートを、浅く掘った穴へ入れ、カラで覆い其の上
に土を掛けて仮貯蔵し、冬になって、馬橇で湧別の駅土場まで運んだ。
 このように、手間がかかると言う事で、1戸当りの作付面積は、あまり
多くはなかった。
 其の後仮貯蔵は、しなくてもよくなり、馬車で、降雪期までに、出荷は、
完了するようになる。
 昭和33年から、中間受入土場制となって、川西の四線、本間資義の
畑に、川西の全ビートを、集荷するようになり、出荷も大変楽になった。
 昭和40年頃から、ペーパーポットに依る育苗栽培が普及して、飛躍
的増収が、得られ、又栽培面でも、作り易くなって、面積も増えて来る。
 其の後酪農への切り替えに依って、作付面積は減少して来ていたが、
昭和55年から始まった。 牛乳の生産調整で、又面積は伸びて来る。
 昭和51年から、受入土場は、東一線三号の北糖土場に変わり、合理化
施設に依る受入となって、トラックのみの搬出となる。(川西の殆ん
どの農家で、小型トラックは導入されていた。)
 昭和59年からは、 砂糖の需用が減少して来たこと等で、計画生産と
なり、自由に作付が出来なくなる。
 昭和61年から、今までの重量取引から、糖分取引に変わる。 品種も
含糖分の多いものに変り、輪作形態の好ましくない畑などから、そう根
病、かっぱん病の被害も出るようになった。それらの畑のビートは、糖
分率も低く、それに今まで、乳牛の資料として貴重視されて来た。トッ
プ(茎葉)も、硝酸態窒素の関係で、飼料としての価値が下り、かって
のビートの魅力も、ここに至って低下して来た。それに牛乳の生産調整
も、其の域を脱出し、自由に搾れるようになって、ビート離れが、出て来
たり、又 経営者の老齢化に依る。 作付中止等で、作付したい人は、
自由にいくらでも作れるように、なっては来たものの、総体的には面積
は減少して来た。

   (ビ  ー  ト)
 年次毎、作付面積、10アール当り平均収量
  区分
年次
     (町)
面積ヘクタール
   (1反)kg
10アール当り
昭和33 64・0 2.895
46 48・4 3.986
50 39・2 4.849
55 51・5 5.800
60 66・9 6.119
平成 2 65・5 5.909
56・5 4.632
 ビート耕作も昭和60年頃からは、面積の多少に、かかわらず、一
貫した機械化作業となった。
 平成4年は雨量が多く、近年にない減収となった。
十四 アスパラ  川西の年表(昭和47年版)に依ると、 「昭和23年、宮本正則が、
遠く羊蹄山麓の喜茂別町の、先進地視察団に参加、川西にも適地がある
ことを認め、同志を募り栽培を始めた。
 しかし乍ら適地不足と、その採取期が牧草収穫期と重なるなどで、
面積はあまり伸びていないが、現在川西に於ける作物中、最も反当収入
の多い、将来も有望作物である。
 47年度約2ヘクタール」と記されている。
 其の後酪農の伸びと共に、作付面積は減少して来たが、昭和61年か
ら、農協が、経営移譲した老人の生き甲斐対策の一つとして、作付奨励
をはじめ作付も増えて来た。 (平成4年度作付面積、11戸で2・17ヘ
クタール)

第2節 酪  農                      topへ
 川西の開拓以来の農業を概観すれば一つの特徴にぶつかる。 それは、
湧別村で最も有意な作物としてもてはやされた薄荷が無視されている。
 次に後年、東殖民地、信部内等で計画された水耕耕作にも特別な関心を
しめしていない。即ち湧別村の当時の農民が注目した。 作種については、
それを無視して来たゆだ。
 一方酪農に着目したのも湧別村では最も早い時期で大正の初期に乳牛
飼育の記録を見る。 しかし当初は牛乳の処理に困るくらいの状態だった
様である。
 大正10年四号線に牛乳分離所が出来た。 大正14年甜菜耕作組合を
対象に、千葉県から優良乳牛を導入し、 それを貸付する制度ができて、
川西では、伊藤代助・増田滝次・黒田眞次郎・小谷幸栄が貸付を受けた
という記録がある。 川西酪農のはじめはこの辺にあるようで、以来昭和
10年頃四号線の集乳分離所が、 湧別産業組合の運営下に入り、その分
所として同11年川西に分離所が出来たが1年足らずで閉鎖し又四号線
に運ぶようになった。 
 昭和14年中湧別に酪連工場ができて、牛乳は中湧別まで馬車や馬橇
での共同出荷がはじまった。
 終戦後川西全域に酪農機運が高まり、青年層を中心に、酪農組合、酪
農青年研究会、乳牛経済検定等を組織し、漸次多頭飼育、経営拡大の方
向に進むようになった。
 昭和25年中湧別の酪連工場は雪印工場と変わり、 その補導事業は
(補導員は獣医師)地域酪農発展の為に多大の功績があったことを特筆
しておきたい。 以来酪農の経営形態も目ざましく進歩をたどり、 昭和4
3年頃には全戸にミルカーが導入されて、あの手しぼりの光景は見られ
なくなった。
 又49年、 バルククーラーが全戸に導入されて、 タンクローリー集荷
となり、 牛乳出荷が非常に楽になった。
 昭和55年から生乳の生産調整がはじまり、 各戸に年頭初から、
割当数量が示され、 その数量より多くても少なくても駄目でその調整に大
変苦慮した。
 中には割当オーバーして搾って捨てた人も出た。
 この生産調整も、2・3年がピークで其の後、 だんだんと緩和されて
平成に入ってからは自由に搾れるようになった。

 以上川西酪農のはじまりから経緯について述べて来たが、牛乳の自由
化によって乳価の低迷を見ている今日必ずしも楽観は許されない状態は
歪めない処である。 この状勢について、湧別農協の高橋課長の話をきい
て見よう。
 「これからの酪農については経営の安定のため、生産コストの低減と、
資本の蓄積が必要だと思う。時代の流れを見極めて、それに添った経営
感覚をもつことです。そして自らの経営の実態を把握し、基本技術の励
行が最も大事だと思います。
 それに条件が合った規模拡大等、手順を間違うことなく、攻めと守り
の表裏一体となって、経営改善、合理化の追求が一層求められる」
 さてそれでは、川西における酪農に付随する諸問題について述べて見
よう。

一、乳  牛  川西における、牛飼育の歴史を見ると、明治40年頃、小谷幸十郎に
依って2・3頭飼育され、大正初期宮田栄が十数頭飼育した記録がある
が共に肉牛であった。
 その後、真鍋清次郎、浅井代次郎も乳牛を飼ったが、搾った乳の処分
に困る位の時代であった。
 昭和10年頃の飼育者は、 伊藤代助・ 中川勇・ 本間資義・ 小川清巳・
鈴木平吉・ 小谷幸栄・ 増田滝次・ 小玉壮康等であったが続いて羽田文内・
堀部秋夫が本格的に飼育を始めるようになり、更に野津牧場も牛を導入
するようになった。
 昭和10年頃まで鈴木平吉が川西で種壮牛を飼育していて、川西の乳
牛は、その種壮牛で種付していたが、その五鈴木は東へ転出したため信
部内の加藤牧場へ引きつけて種付をしてもらうようになった。
 昭和26年頃から本格的な人工授精事業がはじまり、自宅にいながら種
付が出来るようになって大変楽になった。
 しかし当初は受胎が悪く種壮牛に未練をもつ時期もあったが、その後
受胎率も向上し、優秀な種壮牛を授精できるようになって乳牛改良も大き
く進歩を見た。 昭和30年雪印工場指導のもとに、川西酪農組合が乳質
改善共励会全道大会に参加し必死の努力の結果全道二位の栄冠を獲
得する。
 この牛から、農協のトラックに依る牛乳集荷が始まり、それぞれの私道
入口の集荷台まで運ぶ様になるが、冬期間は、国道まで馬橇で運んだ。
 昭和33年から、 年間通してトラックが入る様になって、馬搬に依る
牛乳出荷に、終止符が打たれた。
 昭和40年、湧別町優良種牝牛牛増殖事業協会が設立されて、優良種
牝牛の導入貸付が始り、(貸付種牝牛の、初の雌仔牛1頭返納する)
川西では、友澤市男、黒田清、堀部孝三、黒田誠吾、山下友幸、宮本尚
明、吉本正弘、加藤長作、山下良雄に依って9頭貸付を受けた。
 昭和43年から、湧別町ホルスタイン共進会が開催されるように
なって、川西の乳牛も上位入賞する牛が出て来た。

  昭和44年、小川清巳、黒田清
  昭和45年、山下良雄の乳牛が、網走管内の代表牛として、全道共進
会に出陣し好成績を収めた。
 昭和49年から町の、優良牝牛導入事業、(町と農協で、導入価格120
万円を限度とし、借入金利息を3ヶ年利子補給) で川西ではアメリカ産の
輸入牛が、友澤市男、中原英二、本間義信、黒田勝雄、羽田剛、吉本正
弘、黒田紀臣、菅井正三郎、佐久間善男、に依って9頭導入された。
 しかし一方乳質改善が一層重要になって、日々神経を使うようになる。
昭和50年に入って乳牛頭数は順調に伸び、又資質の面、(体格審査・
能力検定) に於いても好成績牛がでている。
 昭和50年に 本間義麿・平成元年に羽田剛の乳牛が網走管内の代表
牛として全道共進会に出陣しこれ又好成績を収めた。
 平成3年牛肉の自由化によって、肉牛の値下り、生まれ落ちの牡牛・
老廃牛、更に孕み牛まで安くなり酪農家の大きな打撃となった。


  年次別  農家戸数    乳牛頭数   乳価の推移
   年
区分
昭和
33年
昭和
38年
昭和
46年
昭和
50年
昭和
55年
昭和
60年
平成
 3年
農  家  数 81 72 55 52 51 48 45
酪 農 家 数 71 65 48 47 44 42 38
1戸当平均
耕作面積(ha)
10.6 13.0 13.9 15.4 18.1
経  産  牛 158 561 724 817 924 1,004
育  成  牛 110 387 563 716 930 955
乳 牛 合 計 268 500 948 1,280 1,533 1,854 1,954
酪農家1戸当
  平均頭数
3.8 7.7 19.8 27.4 34.8 44.1 51.4
1頭当平均
  重量(kg)
3,414 4,933 4,549 5,245 6,067 6,391
生乳1kg当り
 価   格
(奨励金53銭含む)
  20円80銭
(奨励金68銭含む)
  28円54銭
  44円48銭     80円29銭    88円87銭     90円07銭     76円75銭  

二、飼料作物   牧草とデントコーン
 当初の乳牛飼料の牧草は、耕作しずらい畑、 (狭い三角畑、又は湿地
等)に作られて、主として刈り取って来て給与されていた。
 戦後の昭和22、3年頃から、本格的酪農経営が行われる様になって、
川西の一等地にも牧草が、作付けされる様になった。
 当時の古老に、 「勿体ない、この一等地に草を生やすなんて、」と言わ
れたのもこの頃だった。
 草種は、千本料では、 オーチャドグラス・ チモシー・ 豆科では、 赤ク
ローバ・白クローバ等で、 のちにラジノクローバ・ が輸入され再生力に
強く乳も出るとあって、珍重されたが、 又一方で、ガス (鼓腸症) で、
死亡する牛が、 あちこちで見られる様になった。
 其の後、オーチャドを主体とした混幡栽培で、 鼓腸症も少なくなる。
 当時は繁牧、 (乳牛の角に鎖を巻きつけ、片方の端に鉄杭をつけ、そ
の杭を移動して、 牛に草を食わす方法)であった。
 昭和26年頃から、電牧器が出廻り、 放牧が出来る様になって、 一層
多頭化の方向に進む様になる。
 其の後、 牧草の種類も、 千本科では、 メドフェクス・イタリアンライ
グラス・豆科でルーサン等が出廻り、 放牧用・乾草用・サイレージ用等
用途別の混幡栽培が行われている。
冬期間の貯蔵飼料には、 サイレージが欠かせないとあって、 昭和17
年、 小谷幸栄がコンクリートを型枠に流し込んで、 建設したサイロが
川西の第一号だった。 そして昭和22年、 羽田 宏が、 ブロックのサ
イロ、 と牛舎を建築した。 其の後、 25年頃から、 次々とサイロが建ち
並ぶ様になった。 (デントコーンは昭和15年頃から、作られて来た)
 当時の原料のデントコーンは、 ホワイト、 とエローの2種類だった
が、 早生のエローがサイレージ用として作られた。 しかし、 このエロー
でも、完全に実が入るのは、数年に一度で、それに背丈が高く、倒伏す
るので、 収穫には手間がかかった。
 サイロの切り込みとなると、隣近所、手間替えで、何台の馬車を用意し、
デントコーンを刈る人・ 6、7本づつ担いで、 歩み板を渡って馬車に積
み込む人・馬車を追ってカッターのそばへ運ぶ人・ カッターに食わす人、
サイロの中で踏みつける人等で、 総勢15、6人がかりの作業だった。
 昭和38年、 農協が、 コーンハーベスタを導入したが、エローデン
トコーンの為、倒伏が多く、 きれいな作業は出来なかった。
 昭和42,3年頃から、 牧草サイレージが、 奨励される様になり、 牧
草の場合は、デントコーンと異なって調整に技術を要する、 とあって当
時の青年層が、 先進地視察に駆け廻ったものだ。
 昭和47年、 農協が自走式ハーバスターを導入し、 牧草を予乾なしで
立っているものを、 そのまま刈り取って切り込む様になるが、 サイロ
に、 水抜き装置をしていれば、 心配ないとあって、 牧草サイレージも、

一部利用する様になった。
 昭和60年代に入り、ロールベーラが導入される様にな
って、天候状態に依り、乾燥不十分の牧草を、ロールして
ポリ袋に詰め、サイレージ兼乾草給与の形に飼養も始ま
って来た。
 平成に入って、トレンチサイロが(畑に堆積した原料を、
トラクターで踏みつける事によって、良質のサイレージが
出来る) あちこちで見られる様になった。
   根菜
 酪農の始め頃は、冬期間の乳牛の飼料には、根菜類が
、欠かせないとの指導のもとに、家畜ビート、 ルタバカ、
カブ等が、 作られていたが、 頭数増加に伴い、 ビート
バルブに代替えして、 その作付面積は、 だんだん減少
し、 今では、 2,3戸で、 小面積作付している程度とな
った。

三、川西牧野  明治33年、野津幾太郎が、現在地(4代 野津 章) に入植、 牧場
経営を始める。 農耕馬、 軍馬等の生産育成であった。
 のちになって、 川西の遊休馬(夏季のみ)を、 牧場(預かる様になって、
毎年、 春には部落民総出で、牧柵の整備に協力し、入牧後は、自主管理
の形であったが、 川西の馬産向上に、 大きな貢献を果たして来たので
ある。
 昭和20年の終戦後、 酪農経営が、 急速に進み、野津牧場も、馬から
牛に代わり、 自家牛のみの放牧となった。
 一方部落では乳牛の多頭化に伴い、 育成牛が増え、経営面積も狭少
なことから公共牧野の造成が緊急課題となって来た。
 昭和37年、 町議会は、 用地取得は町で、 運営は農協という事で、川
西東・芭露・計呂地に公共牧野の造成を始めた。
 湧別農協は、 地区の役員に依る委員会をつくり、 東では菅原理事、川
西では山下良雄が委員長となって造成に着手した。川西の計画区域には、
土地所有者も多く其の上町外の所有者も居て、 土地の取得に困難を来た
したが、 関係者の理解と、 役員の努力に依って、 予定の用地を取得す
る事が出来た。
 牧柵の造成には、 組合員の労力奉仕に依って、 大望の牧野が完成し
たのである。
 当初は一牧区で、 使用していた為に管理人も大変であったが、 其の後
年次計画で改良造成を行い、 現在では6牧区になっている。
 放牧当初は、 角の生えたままの牛であったが、 其の後、 危険防止の
為、 除角を徹底する事になり、 今では、 かっての牛の風格は見られなく
なった。
 又、 当初海岸線の風土病とも云われた、 ダニ熱病に羅患する牛が多
く、 犠牲牛も出た。 其の予防対策の一つとして 「ダニ」 駆除の薬剤
散布も行った。
 其の後、 関係機関の協力に依って、 ダニ熱病も激減し、給水施設、追
込施設等も完備し、 理想的な牧野となった。
 牧 野 総 面積  96・4ヘクタール
 草地改良面積  60・8ヘクタール
 年間放牧頭数  約300頭
     歴代管理人
  藤崎 豊次   昭和39−54年
  岩佐 貞義   昭和55−平成元年
  堀部 孝三   平成2−現在

四、肉   牛  飼育としては川西は乳牛よりも数年早く明治40年頃と大正初期に、導
入されているのが、 肉牛であり、 本州から和牛を導入したものと見ら
れるのであるが、その後酪農の興隆とともに牛乳の販売が企業的にも
進歩し農業と併せて行うことによる、土地の有効活用、 作物の有効作
付と共に機能的な営農効果をあげ得るところから肉牛としては一時途絶
えたのである。
 昭和45・6年頃から、 ホルスタインの雄仔牛が、 肉牛として飼育さ
れる様になって、 今まで、 種付料の値に売れればよし、 としていた雄
仔牛が、 一躍副収入のいい財源となって来た。
 しかし平成3年牛肉の自由化に伴って、 価格は下降し、 かってのうま
味も消え去ろうとして来た。
 川西では昭和48年から井上広しが肉牛飼育を始めた、 素牛飼育で、
(生後6ヶ月まで) 常時120頭位飼育していたが、 昭和62年、 老
齢のため中止した。 以後川西では飼育する人は居なくなっている。
牛乳、牛肉の自由化によって北海道の酪農の将来は誠に暗い現状にある
ものの、経営の合理化によって、和牛の優良肉等の需用も将来には共に
注目すべき兆しも見られ、 今後の推移が見守られている。

第4節 畜    産                  topへ
 開拓の当時から、馬が容易に手に入ることが出来たら、これほどの苦
労はなかったであろう。 あの堂々たる、 大木を片づけるにしても、 勿論
畑の耕作に於いても然りであったが、 入植者には馬を飼うだけの力はな
かった。
 それでも明治34 ・ 5年に馬を飼っている農家は6戸であった。 とい
う記録がある。
 この当時の馬は1頭30、 40円で、 プラオ・ハロー等の付属道具を
入れると、 5・60円、 一般農家の収入の1年分に相当する費用であっ
た。 したがってその頭数も容易に増えなかった。
 手に入れる方法としては、 生まれた子馬を安く分けてもらい2・3年
馴らして自家農耕に使うか、 又充分に働けない故障馬を安く買って、
子を生ませて飼育する等の方法で手に入れた人も多く次第に頭数が増え
て来ている。

一、「馬産地湧別」  開拓当初から、 耕転に輸送に、 馬匹の改良、増産は、不可欠な、重大
事であった。 殊に明治40年以降は耕地の増加に伴って、 馬の数が増加
し、大正時代に入って軍馬生産地に指定されてからは、 その奨励期に入
って益々関心を持たれたのである。
 明治36年、 湧別農会に対して、 ベル系種牡馬「初椿」号が貸与され、
川西の馬も大いに改良されたという記録がある。
 ところで明治35年頃、 川西では馬を飼育していた人は何戸位あった
ろうか調べて見るとあまりいないことが分かる。
  友澤 乙吉  宮本 円治  小谷幸十郎  江沢 良馬
  仙頭注連太郎  三宮 助次  窪内 作馬  等でなかなか頭数
はふえなかった。
 種牡馬では前記の 「初椿号」の外に、 それ以前にも、 和田勝太郎の
トロッター系により改良する人もあった。
 又、 更に、 道庁の種畜場から、 毎年出張するベル系 「春雨号」、 ト
ロッター系 「ポップ号」 もあった。 大正後期から昭和に入ってからは、
陸軍省十勝種馬牧場から米国産サラ系、 「ローズ号」、 仏国産ノルマン
系、 「ジャボ号」、 等逐次良種馬が派遣され、 湧別種馬所が設置され
て愈々改良が進んだ。
 川西からも、 軍馬が種馬が、 生産されたのである。
 放牧場として野津牧場の果たした役割は特筆されてよいと思う。
二、小家畜  牛、 馬以外で、 最も早くから飼育されたのは、 鶏であり開拓当初は、
その卵や肉が栄養源として重要視されたし、 その卵が、 夏季の収入源と
しての一助にどこの家でも飼われるようになった。
 一方綿羊は日支事変から太平洋戦争と戦いが長引くにつれて、 衣料
も不足し人絹服の配給に頼っては居られないと、 綿羊の飼育が盛んにな
り各家庭でも毛糸をつむいで、 衣料を補完した思い出がある。
 その他、 豚が自家用として、 1,2頭飼育していた程度で企業的に飼育
した例は見あたらない。

一、鶏
 大正13年、 小川清一郎が、 宮城県の養鶏講習会を受講して来て、人
工育雛を試み乍らし200羽飼育をはじめた。
 その後も引き続き昭和45,6年頃までは羽数の増減はあるものの、 飼
育し続けて来た。
 又、昭和7、 8年頃には羽田文内も多数飼育をしていた。
 昭和42年には、 大柳勇市が大規模鶏舎を建て、 多数羽飼育を試みた
が、 3、 4年で中止する。 自家用兼小遣い取りとして、20, 30羽位は
どこの家でも飼っていたが、 放し飼いが多く、 鶏舎で飼っている家でも
誠にお粗末なつくりであった。
 昭和47, 8年頃になって、 野生のキツネが増えはじめ、 川西の鶏も
このキツネのために、 全滅の被害を受けてしまった。 その後鶏の飼には
完全な鶏舎が必要とあって、殆どの家で、鶏の飼育はとり止めてしまった。

二、綿 羊
 昭和15年頃小川清一郎が、 2, 3頭導入して飼育を試みたのが、 川
西での綿羊飼育の始まりだった。
 昭和20年の終戦前後の極端な繊維不足を機に各戸が2、 3頭から多く
は10数頭飼育し、自家採毛・紡毛又は依託服地等、 衣料自給を目的に
一時期飼育熱も旺盛だった。
 その後、戦後復興に伴って、 繊維事情も好転し、 昭和41年頃からその
姿は見られなくなった。
 又綿羊の肉をジンギスカンとして、 好んで食されるようになったのは昭和
も30年代に入ってからである。

第4節 土地改良事業                topへ
 明渠排水は、 入植当時から必要に応じて掘られて来た。
 冷害凶作の年などは、 農家経済が、 大変なことから、 救農土木事業
(国費) で、 明渠排水、 又は道路側溝を兼ねた排水掘り等をして来たの
である。 これらは、 すべてスコップ一丁の手掘りであった。
 暗渠排水も、 何時頃から始まったのかは、明らかでないが、素焼土管が
出回る、 昭和17年頃までは、 柴暗渠と言って、 柴木を幾本も束にして
それを埋めていたのである。
 昭和18, 19年頃の戦時中は、 青年団の労力に依って暗渠排水が、
掘られていた。
 其の後、 昭和33年から3ヶ年、 補助率 45%、 50%の、 団体営
暗渠排水事業に依って、 多くの面積が施行された。
 この時に、 農協が暗渠溝掘機(トレンチャー) を導入し、 工事の請負
をしたのである。
 又、 昭和34年から3ヶ年、 補助率 45%−55% の 団体営砂客土
事業が行われた、 これは海岸から砂を馬橇で運ぶのである。
 10アール当り、 24立米、 馬橇台数で48台分の砂が投入された。
これらに依って、 粘土かかった畑等は、改良されたのである。 以上が開
拓から昭和30年代までの土地改良事業である。

 その他土地改良事業として取上げ実行して来たものを次から述べよう。

一、総合土地改良
事業
 川西には湧別川の支流として、 3線の上、 上湧別町5ノ3地区の方か
ら、 川西のほぼ真中を、曲がりくねって海岸に達し、それより湧別川の川
口に達するセンサイ川があった。
 湧別川の築堤が出来るまでは、雪解け、又は大雨で、本流の水量が増
す度に、センサイ川も氾濫し、農作物に被害をもたらして来たのである。
 昭和14年、湧別川の築堤が完成して、本流の水が流入する事も無く
なり大水の心配はなくなった。
 当時のセンサイ川の水は、 きれいな水で、 ヤチウグイ・ウグイ・フナ
・其の他小魚、 又はザリガニ・カラス貝等・沢山生息していた。
 それが、 昭和12年から、 34年までの21年間、 澱粉工場の廃液を
そのまま流し込んだ為、 この川の様相は一変してしまった。
 毎年、 向上の操業が始まると、悪臭ただよう、どぶ川となり、魚介類は
全滅の状態となったのである。
 このセンサイ川には、 明渠排水、暗渠排水が、数多く落とされていた。
水量が少なくなるにつれて、川の中にも草が繁茂し、又川底にヘドロが
溜ったりして、 水引きが悪くなって来た。 これを解決すべく町は、昭和
35年、 センサイ川の切り替え構想を打ち出して来た。
 5線の3号から、 5線道路の西側を海岸に達し、 それより海岸沿いに、
湧別川の川口まで大明渠を掘るものであった。
 地元の本間・伊藤・両町議をはじめ、 町長まで現地入りして、改革用
地の地権者と、 再々協議したが、 遂に実現する事は出来なかった。
 其の後も、 海の大時化の度に、 海水と砂が、 センサイ川に流入して、
川をだんだんと埋めて来た。
 昭和50年、 この年も雨が多く、 それに時化も多く、 センサイ川は、
砂で埋まったような個所が出来た。 9月24日、 関係者総出で、 スコッ
プに依る応急掘削を行ったが、到底尽力では、 ままならず、 部落をあげ
て、 町に対して善処方を請願した。
 11月24日、 町から現地視察に来た其の時 「応急処置はするが、
それだけでは駄目だ、 この際川西は、 センサイ川の切り替えを始め、明
渠排水、暗渠排水の整備・平地林の開発・道路の整備・営農用水の確保
等の総合的な、 基盤整備をしなければ駄目ですよ、それを進めてはどう
ですか」 と云われた。

 そして、 それから6日後の30日、 町、 農協の担当者を招き、 この間
題についての懇談会を開き、 内容説明を受けた。
 12月に入って、 年の瀬もせまった24日、 部落の臨時総会が開か
れいろいろ異論もあったが、 採取的に満場一致で、 総合的基盤整備を行
う事が決定された。
 一、センサイ川の改修。
 二、平地林の開発を含め草地造成及び改良、 それに伴う道路の整備。
 三、飲用水の確保。
以上の問題を強力に推進する為に、 直ちに「川西地区総合土地改良促進
期成会」 を結成し、 役員の選出も行われた。
 期成会は、 早速行動を開始して、三役、 及顧問が町に出向き、 町長に
対し、 内容等、 趣旨の説明を行い、 町長の同意を得た。
 其の後、 町側と今後の進め方について協議し、 当初一括しての道営に
依る、 畑地帯総合土地改良事業によって解決すべく考えていたが、 飲用
水については、 「1日も早く」 との要望に依って、 「道営営農用水
事業」 としての、 単発事業で進める事とした。
 センサイ川については、 規模が大きくて、 道営で、 なされるものではな
いとの事で、 「国営直轄明渠排水事業」 とした。
 土地改良については、「道営草地整備改良事業」 とし、 それぞれ、 異っ
た事業体に依って実施する事になった。

 排水路等の関係で、 国営明渠の暫定掘削等、 連携を保ち乍ら事業は進
められた。 これに依って、 114、3ヘクタールの、 平地に生えていた立
木は姿を消し、 きれいな草地となった。 そして、 明渠、 暗渠排水の整備
に依って、 今まで野地であった個所も、 立派な草地となったのである。
又、 道路も、 それぞれ整備された。
 昭和61年4月17日、 中湧別「江戸っ子」 に於いて、 盛大な竣工祝
賀会を行った。

二、国営直轄明渠
排水事業
 西3線排水路、 国道から北東へ、 旧湧別川までの、 2,500米と、
センサイ川の切り替え工事、 延長5,500米である。
 なんと言っても、 センサイ川の切替が、 最、 重要課題だった。
 開発の専門家の現地調査に依って、出来上がった、最適切り替え路線の
地権者の理解を得る事は至難事であって、 或る時は、 どうしても理解し
てもらへず、 止むなく、 計画変更した個所も出た。 しかし、 多くの関係
者は、 川西の将来の為にと、 協力を惜しまなかった。
 昭和55年から着手し、 9年の歳月を得て、 昭和63年、 待望の
大明渠は完成したのである。
 これに依って、 川西の水位は下り、 雪解けや、 大雨のあとも、 底地に
水がつく様な事は無くなった。

   総事業費   8億7,018万円

 この国営明渠完了に依って、 念願だった川西の基盤整備は、 全部完了
したのである。
 着工以来、 13年の歳月を要したが、 道路網は整備され、 見違える様
な川西になった。
 平成元年4月9日  中湧別 江戸っ子に於いて、
 川西土地改良工事落成、 水道組合10周年記念の祝賀会を盛大に行っ
たのである。
 其の後、 期成会は解散、 あとの明渠排水の維持管理については、 川西
自治会の土木部が継承し、 毎年11月、 明渠清掃を自治会員が総出で行
っている。

三、農地集団化
事業(交換分合)
 昭和46年、 町農業委員会は、 農地の交換分を、 川西地区で取上
げるよう、 10月14日を手始めに3回にわたって、 説明会を開き、 其の
必要性を強調して説得に乗り出して来た。 当時の川西は酪農の拡大
と、専業化の方向に進みつつある時でもあり、農地の飛び地は、利用効
率が悪い事等を、痛感していた時でもあった。
 47年2月23日、 この交換分合の件について部落総会が開かれた。
先祖伝来の愛着のある土地を手放す事は、 誰にしても、 それは大変な
事ではあるが、 農地の利用効率を高め、経営安定を図る為には、万難を
排して、 是非やるべきだ、との結論に達し、即座に計画委員会が結成さ
れた。
 国の補助の対象となる為には、 100ヘクタールの農地の移動が
必要であり、 計画委員会は、 早速行動を開始し、3月7日、先進地であ
る、佐呂間町より、 担当者を招き、 つぶさに其の進め方等について、指
導を受けた。
 川西全地の図面をにらめつつ、 開いた計画委員会の数は30回にも
及んだ。 其の外に分担して、各家庭を幾度ともなく訪問し、 1年かかっ
て、 やっとこの事業を成し遂げたのである。
  計 画 委 員
 委  員 長 山下 良雄
 副委員長 高久喜三郎
 委   員 羽田  宏  本間 資義  伊藤 誠司
        友澤 市男  釜神登志蔵  小川 清巳
        原田 繁雄  宮本 尚明  井上  広
        佐々木 正

第5節 農業団体の変遷              topへ
 開拓以来、 農牛団体の変遷は著しいものがあり。
一、同じ性格の団体が名称をかえて現在に至っているものあり。
二、農政上の必要から、 法律で団体をつくらせ一定の規正をするもの。
三、行政上の必要から、 つくった団体。
四、一つの目的を達成するために任意につくった団体。
五、行政上の必要から、 国の方針でつくらされた団体。
六、農業経営上の変化に伴って、 その必要性から生まれた任意団体。
七、農民の意志を代表する集まり。
 多くの団体を区分するとすれば以上のようになるだろう。 人間社会で
皆が力を合わせて生きてゆくためには、それぞれ目的に添った、集りを
もって、 有効に、 能率的に、 円満に、協力し合って、ゆくような、団体
が必要なのであり、 農業主体の川西でも、 独自の関係もあれば、村・
町を中心とした団体など、 多くの団体が存在し、又、現存しそれぞれの
目的達成に努力している。 以下各項に団体を紹介する。

一、湧別農業協同組合
組織の変遷
 ア  湧別村農会
 古人は農牛は物を言わぬ土を相手にする仕事だ、 と言っているが、原
始林に入地して、 木を伐り、土を耕し、 春種子を下し、 秋の実入を収納
する。 原始農業時代は数年であって、次第に地力が減退して、耕種改善
の必要が迫れば、 これの改善指導の機関が、必要になってくるのは当然
のことであった。 (川西60年の歩み、より)
 明治33年9月、 湧別村農会が創立され、 同年10月に、 網走外3郡
農会、 12月、北海道農会と、系統上部組織の結成をみ、脈略を持つこ
ととなった。
         事業内容は次の通りである。
 一、農事に関する各種指導、 試験講習及び調査
 二、肥料の共同購入及び、 農産物の販売斡旋
 三、病虫害駆除及び、 農具改良
 四、産業組合、 農事組合の設立勧誘及び、 指導
                  (町史より)
 イ  下湧別村農会
 明治43年4月、 上湧別の分村に伴い、 行政区域によって分割され
下湧別村農会の誕生となった。 初代会長は、 藤田松之助であった。
   川西出身の役員は次の通りである。
  副会長  野津幾太郎
  評議員  小谷幸十郎 池添 安吉 鈴木初次郎
  2代会長 小川清十郎


 ウ  産業組合
 第1次大戦後の大正9年頃からの反動不況で、 国全体の経済が混乱期
に入り、 販売する農産物は安く、 生活用品は2倍にも高騰し、 其の上、
大正15年の大凶作等で、 大農業恐慌時代がやって来た。
 昭和3年、 農民の窮状を救う唯一の方法は、 「産業組合設立にある」
との信念のもとに、 川西出身の、 村収入役だった小玉九助が、本務のか
たわら熱心に勧誘し、 自ら設立事務を担当して、 27,8名の同志で
湧別産業組合を設立したのである。 川西からの加入は昭和55年からであ
った。
 (1)川西出身の役員
   初代組合長  小川清十郎
   理     事  小玉 九助
      〃     野津不二三
      〃     伊藤 代助

 エ  下湧別村信用購買販売利用組合
 昭和10年2月、 産業組合の体質強化策として、 1村、1組合が、 行政
当局の指導によって、 湧別産業組合と、 東湧産業組合(芭露地区) が、
合併し、下湧別村信用購買販売利用組合が結成された。
  本部は芭露で、 上芭露、 湧別に支所が置かれた。
  初代組合長は、 大口 丑定で、 川西からの役員は次の通りである。
    理  事  小川清一郎  黒田真次郎
           友澤 喜作   宮本 正則
    監  事  伊藤 代助


 オ  下湧別村農業会
 昭和18年、 国は戦時下に於ける、 「政治経済体制の整備強化」の一
貫として、 「農業団体法」 を制定し、 農業会の設立が、 官庁指導のもと
で行われるゆになった。
 昭和19年、 下湧別村農会と、 下湧別村信用購買販売利用組合は、解
散命令を受けて、 解散し新に 「下湧別村農業会」 が設立された。
   初代会長  大口 丑定
   副会長    友澤 喜作
   理   事  野津不二三

 カ  湧別農業協同組合
 昭和20年の終戦後、 連合軍司令部は、 農民解放と、 民主的な農業協
同組合の設立を求めて来た。 それにもとづいて、 今までの官僚的色彩の
強かった農業会に代わって、 新しく農業協同組合法が制定された。 この農
業協同組合は、 15人以上集まれば、 農協の設立は可能とあって、 昭和
23年、 村内では、 計呂地 ・ 上芭露 ・ 芭露 ・ 湧別 (テイネイ以西) ・の

4組合が誕生した。 (其の後、 計呂地 ・ 上芭露は ・ 芭露農協と合併す
る)
 川西の7線に戦後の入植者は、高久喜太郎・近藤一雄・岩佐常雄・中
尾正平・吉田隆春・駒形一二、若狭勝矩・佐久間善男・露木芳江の9名
で、 全員、湧別農協に加入していて、 「開拓農協」の設立は考えていな
かったが、 行政指導に依って、 昭和23年12月、 テイネイ伊東で「湧
別村開拓農業協同組合」以西で、 「湧別開拓農業協同組合」の2組合が
設立された。
 湧別開拓農協の組合員は、湧別農協の組合員でもあり、開拓行政の、
受皿としての資金の取扱い、開拓建設の実施等についての事務処理は、
すべて湧別農協がやっていた。
 昭和31年、 当時の村上町長が、 開拓農協の、 「基盤強化」策として
町内2つある開拓農協の一本化を、 熱心に勧めた。
 昭和32年、湧別開拓農協は解散、湧別町開拓農業協同組合に合併し
事務所は、 湧別市街に置くこととなった。
 しかし川西の開拓者は、 全員湧別農協に居残り、開拓農協から離れて
しまった。
 恰度、 其の頃入植した、 掛橋雅幸・近藤伝は、 湧別町開拓農協に
籍を置く事とする。
 昭和48年、 開拓行政に終止符が打たれ、 湧別町開拓農業協同組
合は解散、川西の開拓農協の組合員だった2名は、 湧別農協に籍を
置くこととなった。
 「開拓農協は解散したが、 川西以外の一部の組合員は、 畜産農協と
名を変えて、 存続している)
 川西出身の湧別農協の役員は次の通りである。

 初代組合長   小川清一郎
 6代組合長   羽田  宏
 7代組合長   友澤 市男
 8代組合長   本間 義麿
 小川清一郎  組合長   昭和23-27年
 山下 音市  理 事     23.30-31・35-37年
 黒田甚三郎   理 事     24-25年
 野津不二三  監 事      24-25年
 近藤 一雄  理 事
 監 事
    26-27年
    30-31年
 掛橋 清美  理 事     26-29年
 伊藤 誠司  監 事
 理 事
    26-29年
    32-43年
 羽田  宏  理 事
専務理事
 組合長
    28-29年
    32-34年
    34-57年
 小玉 壮康  理 事     31-34年
 本間 資義  代表監事      32-46年
 小川 清巳  理 事     35-49年
 山下 良雄  理 事
 監 事
 代表監事
    38-46年
    47-49年
    50-58年
 友澤 市男  理 事
 専務理事
 組合長
    44-57年
    58年1月-3月
    58年3月-平成5年3月
 原田 繁雄  理 事     50-62年
 高久喜三郎  監 事
 理 事
    50-52年
    53-55年
 伊藤  務  監 事     59-平成元年
 本間 義麿  理 事
 組合長
    59-平成4年
 平成5年-現在
 羽田  剛  監 事     2-現在
 小川 征一  理 事     5-現在

二、農地委員会  戦後の昭和20年10月、 農民を封建的制度から解放して、 民主的再
建を期するため、 連合軍司令部は、 政府に対して農地改革を主とする
農業全般の改革を求めてきた。
 昭和21年11月 「農地調整法」 同年12月 「自作農創設特別措置
法」 の2法が施行され、 不在地主が持つ、 全耕作地と、 北海道では
在村地主が持つ、 4ヘクタールを越える小作地を、 国が強制買収して、
直接小作人に売り渡すもので、 この事業を国の委託を受けて実施する、
農地委員会がつくられた。
 農地委員会は、 公選で、 小作層・5名、 地主層・3名、自作層・2名、
の十名で構成されていた。(これに依って小作農家はすべて解消された)
 川西からは、 自作層委員として、 本間 資義が選任された。

三、農業委員会  昭和26年3月 「農業委員会法」が施行され、 農地改革の大任を果
たした農地委員会は、 発展的解消し、 農業委員会が発足する。
 農業委員会の執行業務は、
 (1) 農地の調整に関するもの
 (2) 自作農の創設維持に関するもの
 (3) 農地の利用 管理 斡旋 調停に関するもの
 (4) 農地の交換分合に関するもの
査問業務は
 (1) 食糧の生産計画に関するもの
 (2) 農業の総合計画に関するもの
 委員は、 公選委員と、選任委員、(議員 学識者 農業団体から町
長が、 議会の同意を得て任命) から成りにんきは年である。
 昭和26年7月20日 第1回選挙が行われた。

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   100年語り草
           (その一○)・・・生活文化
   
鮭の群来に驚く
 オホーツク沿岸にそれも湧別川河口を持つ湧別川面は秋になると、遡
上するサケで活気づくふるさとの川に帰る「サケ」そのものは大したこ
とはないにしても雌魚の筋子をはらんだ鮭も沢山遡上して孵化場で捕獲
され孵化した稚魚は翌年春に将来の帰還を期待されて放流されるのが例
だが、昭和50年は空前の鮭の群れが押し寄せた。 この年湧別孵化場で
捕獲された鮭は10万匹を突破した50年来最大の豊漁で、1日8,00
0匹というすごい日もあり作業員が悲鳴を上げたこの年の暮町民に各戸
2本無料でプレゼントして町民に喜ばれた一方、このような年は密猟者も
続出してある町の町会議員が現行犯でつかまるなど取り締まりの警察も
大わらわの毎日だった。
 湧別大橋から時節ともなれば水面から背を見せてひしめきあって遡上し
ている光景を見れば警察の監視も忘れて我もという気持ちになるのも人
情かも?
 こんな光景は北海道の風物詩として残ることでしょう。 平成4年も湧別
漁協で約27万匹の大漁を記録したが増殖事業の努力が毎年鮭の遡上
に報われるよう、願いたいものだ。
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四、農業共済組合の
  変遷
 昭和23年6月、 「農業者が、 不慮の災害によって生ずる損失を補て
んし、経営の安定と、 再生産を図る」 ことを目的とした、 「農業災害補
償法」 に基づき、 下湧別村農業共済組合が設立された。
 事務所は、 芭露農協内に置き、 初代組合長は、 大口丑定であった。
 共済の種類は次の二種類である。
(1) 農作物共済  水稲、 麦類耕作者の共済加入。
(2) 家畜  共済  牛馬飼育農家の任意加入。
○ 昭和25年、 家畜診療所を、芭露、上芭露、計呂地、湧別(錦)の4ヶ
所に置き、 家畜の診療に当る。
○ 昭和30年、 農協から委託を受けて人工授精事業を開始した。
○ 昭和31年、 事務所を芭露農協から出て、 芭露市街に移転独立す
る。
○ 昭和50年、 計呂地診療所閉鎖
○ 昭和56年、 芭露に、新診療所及び事務所が完成して、 診療所は
統合になり、 湧別家畜診療所は閉鎖された。
○ 平成2年、 国及び上部組織の強力な政策指導に依って、 遠軽地
区7ヶ町村の共済組合は、 広域合伴し、 「遠軽地区農業共済組合」 が
設立された。
 本部の事務所は、 芭露に新築し、 初代組合長は、 小野 豊がなった。

 設立以来、 川西から選出された役員は次の通りである。

 小川清一郎 副組合長 昭和23−26年
 本間 資義 理事     昭和26−37年
         監事     昭和44−46年
 野津不二三 監事     昭和26−31年
         副組合長  昭和38−43年
 伊藤 誠司 監事     昭和34−37年
 友澤 市男 理事     昭和43−45年
         副組合長  昭和45−46年
         組合長   昭和46−58年
 山下 良雄 理事     昭和58−61年
 高久喜三郎 理事     昭和61−平成2年
         副組合長  平成3−現在

五、湧別農民同盟  戦後の昭和23年、 下湧別村を一円とした、 自主的組織の 「下湧別村
農民同盟が結成された。 委員長は、 芭露の内山繁太郎だった。
 当時は、 所得税の大巾引上げを目途に、 税法改正が行われた時期でも
あり農民同盟は、 この税対策に真正面に立ち向かい、 農民の実態に則した
申告指導を行うと共に、税務署に強力な折衝を続けて来たのである。
 しかし、 昭和26年、 「下湧別村農民同盟」 は解散の運びとなり、
同年8月、 湧別農業協同組合区域内の全農民は結集し、新たに、「湧別農民
同盟」 を結成した。 初代委員長は、 福島の、 佐藤源治だった。
 其の後、 農民の社会的地位向上のため 「農畜産物の価格の維持向上」
 「農畜産物の自由化反対」 「農業所得税の適正課税」 等の諸対策を行っ
て現在に至っている。
 現在までの地区選出の役員は次の通りである。
 友澤 喜作  委員長  昭和27年
 本間 資義  書記長  昭和26−27年
          委員長  昭和28−33年
                 昭和40−41年
 山下 良雄  委員長  昭和34−39年
                 昭和42−57年
 黒田 辰夫  書記長  昭和39年
 友澤 市男  書記長  昭和44年
 小川 征一  副委員長 平成元−2年
          書記長  平成3−4年

        
六、農事実行組合  川西の農事実行組合の設立について、 宮本正則の手記に
大正も何年頃であったか、 年度ははっきりしないが、 小川清一郎さん
が 「話しがあるから来てくれ」 と、 言われ行ってみると、 気の合った
者が、 7, 8名集まっていた。
 小川さんが言うには 「話しを聞いて来たが、 農事実行組合という、 小
組合を作り、 必要品等を卸で購入したり、 何事か組合内に起きた時に
は、 皆で助け合ったりして居るそうだ」
 これを聞いて、 成る程、 これは良い事だ、 自分達も作ろうではないか
と、 集まった者は皆大賛成で、 早速設立の運びとなった。
 近村では、 このような組合を聞いた事もなく、 湧別としても初めての
組合なので、 名称を 「下湧別村第1農事実行組合」と名付けて発足した。
 始めての事業として、 野菜種子を、 札幌の大和種苗から卸しで購入し
新聞紙で袋を作り、 各戸の必要量に応じて小分けした。
 これを見て、 俺も入れてくれ、 我も入れてくれと、 だんだん増えて、
とうとう川西全員になってしまった。
 電話があるわけでなし、 自転車さへも無く、 連絡するにも、 テクテク
と徒歩で、 これでは不便だから二つに分かれようと、 四線を境に、東を
「川西第1農事実行組合」、 西を 「川西第2農事実行組合」 に分かれた。
 其の後、湧別川の南側、武藤両、味噌醤油醸造店より醤油を一括卸し値
で購入し、 組合長宅へ置き組合員は必要に応じて、 組合長宅より持帰り
精算は年末に行って来た」 とあり、
 湧別町史によると、 昭和2年、 川西地区に 「下湧別村第1農事実行組
合」 の結成を見たとある。 又、 「網走3郡農会創立30年」 誌に依れば、
昭和3年、 堆肥共進会に、 「川西第1農事実行組合」 入賞と記されてい
る。 これらから、 昭和の初期には農事実行組合は、 大いに活動していた
ものと思われる。
 戦後の昭和23年、 「湧別農業協同組合」 創立と共に、 農事実行組合
は「農事組合」 と改めて、 川西に5つの農事組合が誕生した。
 再生した農事組合は、農協の下部組織として、 農協と組合員との間に
あって、各種連絡事項の通達、販売品の出荷、購買品の取纏め、組合員
の意見の集約等、 農協運営上、 重要な役割を担っている。

 組合長は廻り番でつとめ、 農事組合独自の事業は、 次の様なものであ
る。
 (1) 仔牛の除角      (春秋2回 組合員の初生牛全頭行う)
 (2) 乳質改善の勉強会 (農協の営農指導職員を招いて)
 (3) 研修旅行       (主人、婦人の2班に分かれて)
 (4) 親睦向上の催し    (新年会、忘年会、花見、ボーリング大会)
       (川西第2農事組合引例)

七、酪農組合  昭和14年、 中湧別に、 「北海道製酪販売組合連合会、(酪連)」 の
乳業工場が、 創業を始め、 川西から、 馬車 (冬期は馬橇) に依る、
生乳の共同出荷が始まった。このグループが、酪農組合の始まりである。
 昭和20年の終戦後、 酪農が急速に進み、 川西も、四線を、界にして、
東を「川西第1酪農組合」 西を「川西第2酪農組合」 と、 2つの酪農組
合に分かれた。
 組合長は、 廻り番で、 主として乳業工場からの伝達事項の処理が、仕
事であった。
 昭和25年、 酪連工場は、 雪印乳業株式会社の工場と代り、酪農補
導に重きを置く様になって来た。 中湧別工場は、 補導員を、(補導員は、
獣医師) 常時 3。 4名置いて居たのである。
 雪印工場の補導事業を次に示すと、
 (1) 羅患牛の治療。
 (2) 乳牛の飼養管理の指導、 及び耕種会の斡旋。
 (3) 先進地視察個所の斡旋。
 (4) 酪農青年研究会の育成・指導。
 (5) 酪農用品をとりまとめて斡旋。
   これらは、 すべて酪農組合を通して行われていた。
 昭和28年、 遠軽森永工場は、 集乳量確保の為、 中湧別雪印工場管
下の区域内に入り、 個人毎に折衝し、 森永工場出荷を、 懇願して廻り始
めた。 森永工場の条件は、 次の3点であった。
 (1) 裏乳価の支拂
 (2) 乳牛導入資金の斡旋と、 利子補給
 (3) 庭先からの集乳
 これに負けずと、 雪印工場も、 酪農組合毎に懇談会を開いて、 生産者
優遇処置を発表して、 いわゆる 「集乳合戦」 が展開されたのである。
 当時、川西酪農組合は 「ばらばらにならず、 あくまで一本化の形で、
条件の良い方に出荷する。 」との申し合わせをしていたが、 数名の組合
員は、 森永工場へ出荷する様になった。
 昭和30年、 この集乳合戦は、 「生乳取引は経済連に委託する」 という

管内農協組合長会の決議に依って収拾された。
 この年、 川西酪農組合は、 雪印工場の指導のもとに、 乳質改善全道大
会に参加して、 全道2位を獲得したのである。
 昭和26年、 テイネイ以西の、 単位酪農組合は、 連合組合の 「湧別
酪農組合」 を結成した。 初代組合長は、 三沢信美だった。
 事務所を湧別農協内に置き、 年次毎に事業内容を充実し、 昭和36年
頃の事業内容は、 次の通りである。
 (1) 乳量増産競励会
      1年間の出荷乳量を、搾牛頭数ランク毎に分けて1頭当たりの
      産乳量の多い組合員を表彰する。
 (2) 2才牛の飼養管理競励会
      毎年3月全戸を廻って、2才牛の飼養管理状態を審査し、
      優秀な組合員を表彰する。
 (3) 各種講習会の開催
 (4) 先進地の視察旅行
      貸切りバスを連ねて、 年、 1回先進地視察を行う。
 (5) 地域毎に、 酪農懇談会を行う。
 尚、 上部組織の北海道酪農協会に連り、 強力な乳価値上交渉を、 毎年
行って来た。
 川西の酪農組合は、 独自の事業は持たず、 すべてこの湧別酪農組合の
事業に、 参画して来たのである。
 昭和38年3月、 川西の乳牛も、 500頭に達し、 盛大に 「乳牛飼育
500頭達成記念祝賀会」 を開催した。
 昭和46年、湧別農協内の畜産委員会に事業を継承して、発展的解散をした
のである。
 それにもとづいて、 32年の永い歴史を持つ、 川西酪農組合も、 解散し、

農事組合を通じて、 農協の生産指導のもとで、 現在に至っている。
  川西出身の酪農組合の3役は次の通りである。
  友澤 喜作  初代会計  昭和26−30年
  小川 清巳  3代組合長 昭和36−46年
  宮本 尚明  3代会計   昭和36−46年

   
八、乳牛経済検定
組合と乳牛検定組合
 昭和20年の終戦後酪農の進展に伴い、 農業改良普及所の指導のも
とに、 各地に乳牛経済検定組合が組織されるようになった。
 昭和30年、 川西に於いても、 小川清巳・伊藤誠司・友澤 勝・滝本
広見・宮本尚明・石川藤四郎・大柳勇市の7名に依って 「川西乳牛経済
検定組合」 が設立された。 初代組合長は、小川清巳がなり、農業改良普
及員、雪印工場の獣医師、農協職員らの指導のもとに、 夏は2ヶ月に1
回、 冬は毎月励会を開き、 初めのうちは牛に喰わした飼料が無駄なく、
高率的乳を搾る為に徹底して飼料計算の勉強を重ねた。
 32年、 黒田誠吾、丘上博司が加入、 33年、 黒田勝雄、 34年、
友澤市男、 35年、 原田繁雄、 菅野季雄が加入する。
 又、 35年には、 釜神悦夫・ 黒田紀臣・ 鈴木信義・ 菅井正三郎・
小谷喜一郎・本間勝義・清原邦男の7名によって 「縁友乳牛経済検定組
合」 が設立され、 釜神悦夫が初代組合長となる。
 当初は、 1月に前の年の 1年間の、 1頭1頭の給与飼料と乳量を計算
して、 普及所の方へ提出し、 指導を受けた。
 又、 時を同じくして、 雪印工場は補導事業の一つとして、 酪農青年研
究会の設立を強力に勧めて来た。 川西ではこの乳検組合が、 そのまま
そっくり 「酪農青年研究会」 となり、 上部組織と連繋ををもつ事になった。
 35, 6年頃になって、 普及所は、 牧草サイレージの普及に積極的に
乗り出して来て、 「良質な牧草サイレージを造るには、 デントコーン
と異なって、 調整に技術を要する」 とあって細部にわたって指導がなされ
た。
 川西乳検組合は、 この牧草サイレージにチャレンジしようと、 先進地
興部の、 精密添加サイレージ、 十勝清水の重曹添加サイレージを、 視察
研修して、 39年、 離農者のサイロを借り受け、 組合員総出で、 カッ
ター、 発動機を持ち寄り、 重曹添加サイレージの調整を行い、給与試験
をも行ったのである。
 飼養頭数の増加にともない、 乳牛個体の経済検定から、 牛群検定と移
行して来た。 各種講習会の受講、 先進地視察等を積極的に行い、 飼料栽
培・ 飼養管理・ 乳牛の改良・ 乳質改善・ 等々、 合理的な経営をめざ
して、 組合員一つになって努力を重ねて来た。
 又、自らの経営の実績発表も活発に行われ、 昭和43年、 日本酪農
青年研究連盟全国大会に於いて、 友澤市男が、 優秀賞、 2年後の46
年、 原田繁雄が、 優良賞をを獲得した。
 その後も、各自が、 それぞれ目標を定め、 研鑽を深めて来たのである。
 昭和50年代に入ると、 酪農経営の規模拡大と近代化は一層進み、

この環境変化に対応すべく、 農協青年部、 酪農同志会、 酪農振興会等の
活動が活発化するにともない、乳検組合の活動が停滞する様になり、 昭和
55年1月30日数々の実績を残した、 川西乳牛経済検定組合は解散した。
又、 縁友乳牛経済検定組合も、 時を同じくして自然解散となる。
 これとは別に、 乳牛の高等登録の検定事業を、 北海道ホルスタイン農業
協同組合 (略してホル協)が行っていた。
 昭和31年から、 宮本尚明、 伊藤誠司が、 1, 2頭づつ受験して来た。 
体格審査にびは湧別の駅前まで引付け、 能力検定は、 札幌の
ホル協から検定員が不定期に来て、 農家に泊まり込み、 24時間搾乳に立
ち合い、 携帯用脂肪検定器で、 脂肪検定をして行くものであった。
 昭和37年頃から、 湧別農協が、 ホル協の委託を受けてこの検定事業
(A検定という) を始めた。 多く脳死が能力検定を受けるようになり、
体格審査は、 初めのうちは、 各地区毎の集合審査であったが、 其の後、
個々の農家の庭先審査となり大変楽になった。 これによって、 高等登録
牛が続出したのである。
 昭和50年代に入り、 乳牛の検定事業は、 個体の能力検定と、 さらに
牛群検定、 合わせて経済検定も行う。 道の 「乳用牛資質向上対策事業」
(新乳検) が開始され、 湧別町に於いても、 昭和55年12月 「湧別町

乳牛検定組合」 が設立された。 (この時期ホル協のA検定は廃止と
なる。)
 新乳検事業は56年2月1日より、 83戸の組合員によって開始さ
れ発足当初は、この事業の重要性を認識して、加入希望者も多く、初年
度は、 道の予算の関係から抽選により83戸が決定された。
 川西地区では18戸が加入、 その翌年12戸が決定された。
 この新乳検事業は、酪農家の経営改善に大きく貢献して来た。
データを基に、 低能力牛の淘汰や濃厚飼料・ 粗飼料の給与改善によ
る乳量のアップ・ 脂肪率・ 無脂固形分等の向上・ 又、 乳飼比に於
いても、 年々向上がみられ、 この事業が高く評価されている。
 川西では現在34戸の酪農家のうち28戸が加入している。
 現在の組合長は上芭露の 黒田 実
  川西地区理事   佐久間 政寿
  川西地区
    検定指導員   菅井正三郎
      〃       佐久間善男


九、湧別麦生産組合  昭和20年の終戦後、 川西は酪農へと移行が進み、 開拓以来の食糧の
自給自足の鉄則がくずれて、 麦類の作付は、 昭和45, 6年頃には見ら
れなくなった、
 これには、 一つに安価に小麦が輸入される様になったからでもある。
 昭和47年、 異常気象に依って世界的に穀物の価格が暴騰し、 我が国
では改めて、 食糧自給度が問題視される様になった。
 48年、 国は麦生産振興策として、 補助金を交付して、 麦の生産奨励
に乗り出して来た。 これを期に、 伊藤誠司・佐々木吉一・東の北谷 実・
村川勝彦・ 松永 忠 の5名で、 約12ヘクタール・ 作付けし、 翌49年
農協指導のもとに5名に依る 「湧別麦生産組合」 を結成し、 補助を受け
て、 川西の佐々木吉一の土地に、乾燥施設を建て、 自走式大型コンバイ
ンをも1台導入した。 53年には組合員も14名となり、 面積も55ヘ
クタールを越えた為に、 ここで大規模畑麦作団地育成事業を取り入れて
菅野秀雄の土地に、 新たに乾燥施設を建て、 更にコンバインをも1台
導入した。 補助率は50%で、 総事業費は、 6.434万円であった。
 のちに2名の加入で組合員も16名となり、 作付面積も多い年には、
80ヘクタールを越えた年もあった。
 川西の組合員は左記の6名で、 約37ヘクタール作付けしていた。
 佐々木吉一 (初代組合長) 高桑  武(会計) 佐々木正
 伊藤誠司   (2代組合長) 菅野 秀雄   小玉 昭二
 平成2年、 湧別・ 芭露・ 畜産の3農協の、 麦作農家が一つになって、
「湧別町麦生産組合」 を結成、 芭露に大型乾燥施設を建設した。 これに
依って湧別地区にあった、 「湧別麦生産組合」 は解散して、 その広域組
合に加入し、 今までの乾燥施設、 2台のコンバインは其の中に包合され
た。
十、農業機械技術者
  協議会
 昭和20年の終戦後、 欧米諸国の情報が入るようになって、 「アメリ
カの農家は、 トラクターを何台も持ち、 其の上トラック、 乗用車をも持
ち、 農家の奥さんが、 街へ買物に行くのに乗用車で行って来る」 等と、
聞かされて、 当時の我々農家にとっては、 到底考えられないことだった。
 昭和30年代に入り、 酪農化が進むにつれて、 畜力から農業機械に
関心を持つようになって来た。
 当時、 湧別農協は、 組合員が個々にトラクターを持つ事は、 経営面積
の狭いこと等から、 「機械化貧乏を招く」 との懸念のもとに、 農協が農業
機械のすべてを導入し、 組合員の作業需要に応じて行く方針をかため
ていた。
 そして、次々と新しい機械を導入して、 組合員の需要に応えて来てい
たが、 昭和45年頃になると、 離農者の跡地引受等で、 経営規模は拡大
し、 又、 乳牛頭数の増加によって、 牧草面積も増大し、 農協に頼ってい
ては、 適期収穫・ 天候を見計らっての良質な乾牧草収穫は、 不可能と
あって、 個人のトラクター導入が始まった。
 農協が今まで、 阻止し続けて来た個人のトラクター導入も、 ここへ来
て止めようもなく、 次々と高価なトラクター、 作業機が導入される様に
なる。
 昭和46年11月、 農協の参事は、 整備工場長と、 協議し 「導入した
高価な機械の長持ちのもととなる、 適正なる保守管理、 更に使用技術の
指導を、 早急に行わなければ、 機械化貧乏に追い風となる、 これを農協
が行うよりも、 自主的機関設置に依る方が好ましい」 との結論に達し、
工場長が、 宮本尚明に発起人代表を依頼した。
 当時の組合員は、 農業機械に関しては、 全くの素人ばかりであって、
この種の機関設置には、 皆大賛成で、 昭和47年4月、 「湧別農業機械
技術者協議会」 が結成された。 川西支部も即座に結成される。
 協議会の時牛は次の通りであった。
 (1) 農業機械に関しての講習会の開催。
       トラクター・プラオ・モーア・ベーラ・ジャイロ等の取扱い。
 (2) 農業機械の保守管理の個別巡回指導。
       毎年、 12月各戸を廻り、保守管理の指導を行う。
 (3) 各メーカー毎に、 メーカー部を結成、 メーカーに依る指導徹底。
       毎年3月、4月頃、メーカー毎に、地域毎に、機械を集めて
       メーカー技術員に依る保守点検、並びに指導。
 (4) 農業機械技術競技大会の開催。
       年1回、各支部対抗の、トラクター運転技術・始業点検・作業
       機の装脱着・トレーラー・モーラの作業技術・等の協議内容で行

       なった。 そして優秀会員は、 網走管内大会に、湧別代表とし
       て出場して上位入賞もした。
 (5) トラクター運転免許取得促進。
       紋別自動車学校に団体入学し、トラクターを持ち込んで、軽費
       用で取得した。
       (講習会の講師、巡回指導はホクレン、普及所、農協機械担当
       職員に依頼した。)
 昭和59年、 農業機械に対する知識も向上したとの事で、 12年間勉強
し続けて来た農業機械技術者協議会も、 発展的解散をしたのである。
 川西出身役員は次の通りである。
  宮本 尚明  初代会長  昭和47−52年
  伊藤  務   2代会長   昭和53−56年

十一、トラクター
利用組合
 昭和32年、 伊藤誠司・小玉壮康・伊藤 務の3人共同で、 ドイツ
製ランツトラクター (24馬力)を導入した。 これが川西でのトラクタ
ー導入の第1号だった。 作業機はプラオ・デスクハロー・モーア・で
自家作業の外、 賃作業も行っていたが、 昭和35年売却してしまう。
 この頃、国の経済構造は、所得倍増計画にあって、第二次産業の発展
は目ざましく、 都市労働者として、 離農して農村を去って行く者が続出
した。
 離農跡地を引受け、経営規模の拡大が進むにつれて、農業機械に依る
省力化、近代化が求められる様になる。
 昭和42,3年頃までは、 農協のトラクター事業を全面的に利用して
来たが、 45年頃になって、 農協に頼っていては、適期収穫、天候を見
計らっての乾牧草収穫等、流失名粗飼料確保は、不可能とあって、個人
のトラクター、作業機の導入が急増して来た。
 こうした中で、農協は、農業機械の個人導入は、利用時間も少なく、経
済的負担が大きくなることを懸念して、第二次農業構造改善事業を活用
し、農業機械利用集団の組織化に取り組んだが、すでに個人のトラクタ
ー導入が進んだことと、共同利用の畝以上の問題もあり、川西地区では
組織化には消極的であった。
 農協の熱心な利用組合設立の働きかけによって、 昭和49年 「川西
中央機械利用組合」 が誕生した。
 組合員は、 原田繁雄が組合長となり、黒田誠吾・丘上博司・清原邦男
・小川征一・岩佐貞義・の6戸で、初年度、トラクター1台(54馬力)、作業
機は、2台で、共同利用が始まった。 その後、トラクター(49馬力) 1台
、作業機10台が補助事業により導入された。
 「利用組合の設立には不安があったが、当初は6との経営面積は、同じ
位であった。 現在は利用面積の違いから、 ハーバスター作業は廃止

をしたが、今ふり返ると、共同利用は、経営の一過程として大変良かった。
 共同利用を始めて、 18年を経過し、個々の経営の充実が計られた。
現在は利用組合の機械と個人有の機械と併用している」と、原田繁雄は
語っている。
 川西では他に利用組合の設立はなかったが、 機械投資による経済的負
担の軽減を計るために、 防除用スプレー、 マニアスプレッター・ バキュ
ムカー・ベーラ・等の作業機の共同利用が行われている。

第6節 その他の産業                topへ
 開拓以来、農業主体として培って来た川西としては、その時期によっ
て付随して生じた、その時々の産業があったことは事実だが、特記すべ
きものはあまりない。
 只開拓上欠くべからざる木材の処理については、大半焼き払ったとは
いえ、用材として立派なものがあり木工場に運ばれたものも多く、現に
出口助三郎等も木材を取扱っていたと言われる。又、明治時代信部内に
もマッチの軸木工場があり、四号線の現スノー工場付近にも木工場があ
ったので、一般材、マッチ材木材等の川西はそれぞれ生産地であったこ
とが窺われる。
 又馬鈴薯の生産も高かったことから、昭和の始めに澱粉工場が3,4
件、設立稼働しているし、終戦前後の小池澱粉工場等は生産量に於いて
も町内有数の工場であった。
 商店としては、住民が当然必要とする日用雑貨を購買するために、
昔から、 絶えず、 業として成り立っているのも、農協購買を主とする地
域の中、川西の人間味の溢れる風土といえるだろう。 その様な点から、
区分して以下のべて見よう。

一、「木材業」  開拓当時は全体が森林地帯だから、個人個人で木材を扱わぬ者は先づ
いなかったであろう。 しかし貸下げを受けた中には、 木材だけを、目あ
てにして伐り出したあと、 開墾もせずに 「開墾未済」 のまま、 逃げてし
まう、不届者も道内でも多く見受けられたという。
 川西の場合、 木材師と称するに足る人といえば出口助次郎位の者であ
る。 明治30年に入植したが、 明治26, 7年頃から、 湧別市街の発展
と、 29年には、 湧別屯田兵村建設工事は、 兵屋、 399戸分と、中隊
本部、倉庫、将校官舎等で使用する大量の木材は、 主に生田原方面から
搬出されたという。
 8,000石の針葉樹が生田原川を流送し、 不足分は、 上湧別兵村2
区の中土場川の沢から伐り出されたとあるが、その頃から木材業の中で
流送を営む者があり出口助次郎もその一人であった。出口はその後川西
に定着し川西開拓の功労者の一人とされている。
 湧別原野は土地肥沃のため、木材が良質なるが故に、これに着目して、
木材屋が急に増えたという。
 出口助次郎は川西四線角地で、農業を営み (現本間勝義宅) 川西在住
中は、村会議員、その他多くの公職につき、川西発展に実績を残した人だが
その後、中湧別駅前で旅館を営みながら、父助太郎と共に、木材を大きく取
り扱っていた。 父助太郎は元々木材の御用商人であったという。

 当時の木材の搬出は、道路は無く汽車も自動車もない。馬はいても、
大木を運搬する輸送具もなかったのである。
 このために湧別川の上流から、湧別港川口まで流送を行い、現在の
1号付近から、川口までは、木材の集結土場であったという。
 又日露戦争後は、軍事産業が盛んになり、鉄砲の材料(銃床材)
砲台軍艦等に使用する、特殊材が必要なため、官有地内でも、自由に伐
採ができる。特権を与えられていたという。
 又鉄道省に納める枕木や電柱材等も湧別浜から積出していた。年度不
明の大水害で上流の貯木場が一度に流され、各河川の橋を4橋もこわし
木材は全部オホーツク海に流失し積取り船は、カラで内地に廻航する
などで大損をしたことがあったと助次郎は語っていた。
 湧別川も昔は流送に利用し、現在の川水は、営農用水、上水道用水、
又は魚の養殖等広く使用され、いうまでもなく 「湧別川」 は「母なる川」
の恩恵を流域の住民にあたえている。

二、「商 業」  開拓以来川西において商店を開業している人は次の人々であった。
  商店名     年     次     場所         概           要     
○宮田商店    昭和45−
明治末
 西四線  「宮田商店前に「郵便箱取
付」の記録あり末期に店が
あったことは確実だ。
○滝本商店 大正初期−
不 詳
 西四線  滝本文治が雑貨店を営む。
閉店は明らかでない。
○原田商店 大正初期−
昭和15年
 西四線  原田キヌが、酒類、タバコ、
雑貨食料品を営んだ。
片方でコップ酒、うどん類を
出す食堂を営む。
丸太を運ぶ馬追い達で賑
わいを見せた。
又原田キヌは沼の上に
支店を出していた。
昭和に入ってからも営業を
続けていたが、大東亜戦争下
の昭和15年、物資統制下に
入って、品物の供給が出来な
くなり閉店。
○鈴木商店 昭和初期−
昭和5年頃
 西三線  鈴木平吉が雑貨店を営む。
(戦時下の昭和15年から、
終戦後の26年まで川西に
商店はない)
○野田マー 
ケット
昭和26年−
昭和32年
 西四線  野田亀喜代が、本間資義の
土地を借り受けて、食料品、
日用雑貨店を営み、昭和
32年、清原キワに引継いだ。
○辻 商店 昭和27年−
昭和35年
 西四線   野田マーケットの隣で、酒
類・タバコ・食料品・日用雑
貨・学用品を扱う等本格的
な商店を営んだが、昭和3
5年、浅井周策に引継いだ。
○鈴木
パチンコ
昭和28年−
昭和29年
 西四線  辻商店の隣に、地域住民の
娯楽として、パチンコ店を
開いた。
○清原マー
ケット
昭和32年−
昭和36年頃
 西四線 野田マーケットを引継ぎ
約4年営業した。
○浅井商店 昭和35年−
昭和45年
 西四線 浅井周策が辻商店を引継ぎ、
昭和45年中尾庄一に引継い
だ。
○渡辺商店 昭和38年−
昭和47年
 西四線 渡辺勝太郎が川西地域団体
加入電話組合の交換業務と
併せて、鮮魚雑貨を扱う商
店を営む。
○中尾商店 昭和45年−
現 在
 西四線 昭和45年中尾庄一が浅井商
店を引継ぎ現在川西地域唯
一の商店として地域住民や
近隣の人々の生活に大いに
寄与している。
○渡辺古物
商店
平成元年−
現 在
 西四線 渡辺勝太郎が 一時期、川
西を離れていたが、再度川
西に戻り、古物商を営んで
いる。
○あんるる 平成元年−
現 在
 西九線 佐藤成志が、シブノツナイ
湖のほとり、閉静な木立の
中に喫茶店を開店し、車社
会のオアシスとして、多く
の人々の憩いの場として利
用されている。
 この様に、その時の世相に合わせて、数々の商店が、 住民の生活にか
かわりを以て現在に至っている。
三、「工  業」  ア 澱粉工場
    工場名        年次           創業の概要      
○北川澱粉工場 昭和6年頃
(2年位)
 北川宇三郎が、足踏み式の工場
をはじめた。場所は現在の野津章
宅の下段、旧センサイ川のふち
である。  
○羽田澱粉工場 昭和8年頃
(3年位)
 羽田文内が、発動機による澱粉
工場を始めた。場所は現在の山下
哲夫宅の附近で3年程操業した。  
○小池澱粉工場 昭和11年−  
35年まで 
 小池武男が発動機による、澱粉
工場を始めた。翌12年、電気を
引いて動力源は電力に代わった。
昭和26年から農協の委託加工と
なる。
○伊藤澱粉工場 昭和13年−
23年まで
 伊藤代助が発動機による澱粉工
場を始めた。2年後の昭和14年、
電力にかえる場所は、現在の伊藤
千代子宅の西の明渠排水のふち
であった。
昭和23年、川西協同澱粉工場に
引き継ぐ事となる。
○川西協同
澱粉工場
昭和23年−
35年まで
 昭和23年、川西四線から下の
第2農事組合が主体となって、
「自分達の澱粉工場を持とう」と
いう声が強まり、再三協議を重
ね、伊藤澱粉工場との話合いもス
ムーズに進み、川西協同澱粉工場
が誕生した。
今までの伊藤澱粉工場をそのまま
引き継ぎ創業することとなる。
昭和26年頃から、農協が馬鈴薯
の一元集荷体制をとるようになり、
川西の馬鈴薯の、65%は協同澱粉工場で加工し、35%が
小池澱粉工場で加工していた。その後、酪農化が進むにつ
れて、馬鈴薯の作付面積も減少し、昭和35年両澱粉工場
は閉鎖した。
 昭和36年湧別に 「スノー食品工業株式会社」 が創業を始めるが川西
での作付面積は元首の一途をたどった。

 イ 精麦所・製粉所・納豆工場
 昭和22年伊藤代助が、自宅の西に精麦、製粉工場を建設し、操業を始
めた。 麦の精白・小麦の製粉・飼料用穀物の粉砕等を行っていたが、 
昭和23年に湧別農協が精米、製粉工場を建て本格的な操業をはじめたの
を機に閉鎖した。
 昭和25年伊藤代助が納豆工場を始めたが、良い製品が出来ず夏に閉鎖
した。
四、「砂採取所」  昭和32年頃から、企業組合山本ブロック製作所が、 川西四線の
海岸から砂の採取をはじめる。
 同製作所は、 昭和28年、 錦町で操業を開始し建築用ブロック・
サイロ用ブロック・コンクリート管等を製作していた。
 昭和37年から本格的にすな採取販売をはじめる。 昭和40年代か
ら50年前半にかけては、 道路工事用又は農地の客土用として採取
している。
 しかし現在 (平成4年) の用途としては、 一般建築用・ 生コン用
・コンクリート管用等である。
 山本ブロック製作所、 山本錦子は次のように語っている。
 
「昭和28年に湧別建築資材企業組合としてスタートし、35年に名称
を現在の、企業組合山本ブロック製作所と変更して以来40年に近い
年が過ぎ、両親をはじめ当時を知る多くの方がこの世を去りました。
 37年に川西四線地先海岸で、本格的に砂採取販売をはじめる以前
にコンクリートブロックの原料として、 3,4年砂を採っていた時期
があり、其の頃は手積みで大変だった上に、道が悪くぬかって国道に出
るまでに30分以上かかった。道路づくりには随分苦労をしたと父から
きいていました。40年代には、道路工事用・客土用の砂の運搬が忙しく
なり、沿線の皆さんには、ほこりや震動で大変ご迷惑をかけ、搬水車で
水をまいて仕事をつづけた事など、今の立派な道路を通り乍ら思い出さ
れます。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    100年語り草
            (その一一)・・・文化
    武者武具一式
             鳥取から来道の野津家に
 野津幾太郎さんが、明治32年鳥取県から渡道入地され現在に至っ
た方だが、野津さんには道の開拓者には珍しい・鎧・かぶとがあり恐ら
く幾太郎さんが入地の折持参したものであろう。
 先祖は士族とも云われており大小の刀剣もかってはあったときいて
いるが、敗戦で進駐軍の命により刀は許可なく持てないので処分したと
いうが、この鎧一式先祖の何処の武士が着用したものか不二三が東京
の専門家に鑑定を依頼していたが不二三さん他界のため不明である。

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