愛の故郷 第1編 川西百年の歩み

昭和の小漁師
湧別町百年史top

 川西の自然 川西の生物 先  史 川西開拓の曙 


 北海道が開拓の黎明を迎えるまでは、国家的な大きな変革の明治維新があった。政府が蝦夷地の開拓に着目し更に
北見に開拓の手が伸びたのはそれから15年から20年もあとのことである。
 それでも北海道の開拓が企画されて明治年には開拓使を置いた。そして「諸藩士族及び庶民に至るまで志願をすれば
相応の地割をして渡し開拓させる」という、太政官布告がなされたのである。
 その頃北見国では、場所開設(漁場のこと)以外は原始そのままで、獲物を追ってアイヌの仮小屋が湧別河畔に点在
していたに過ぎなかった。したがって「ゆうべつ村」の内陸地方も、開拓に着手するまでには至らなかった。そのこと
について背景を「北海道史」で次のように事情があったことを語っている。
 明治維新の改革によって国の政治・経済・社会が、一大改革がもたらされ、その結果、次の問題点が浮彫にされたの
である。
  一、各種失業者の増加
  二、農業の資本主義化(二、三男対策)
  三、農村の生活の各部面における小農の激増(小作)
  四、武士階級の特権制脱による経済の基礎確保
  五、武士の商法の没落の救済
  六、反政府的政治運動の危険解放
これらの事項を解決するためには何といっても北海道開拓に目を向けさせる必要があった、とされている。
 明治15年春、網走郡役所に勤務していた半沢真吉が、職を辞して農業を目的として湧別川流域に入地し、アイヌを
使役して開墾し、大麻、大麦などを栽培して好成績をあげたとされており、湧別の「開基」となっているものの半沢は一
夏の耕作でこの年の10月には紋別郡戸長に就任のため湧別を去ったが、戸長在任中も紋別郡の中で農事に着目す
るのは「湧別村を除いては見当たらない」と大いに推奨しているのである。
 その後半沢のあとに、17年長沢久助、徳広正輝、また和田麟吉らがそれぞれ「湧別川沿岸の適地で農耕を営んだ
という記録がある。
 明治19年12月末の紋別郡の戸口も次の通りであることが、町史に見られるように、誠に少ないものだった。
  紋別郡  戸数 116戸(うち 和人 25戸)
   〃    人口 399人(うち 和人 68人)
という状況で一部農業を営む者を除いては藤野喜兵衛の独占漁場で働くアイヌと一部和人であったようだ。
 湧別原野が殖民地に選定されたのは明治22年であり、指定報文は、下湧別・上湧別と二分されている。
 これによって、川西・四号線、その他屯田地・学田等の区分が策定され、測量が明治24年に行われた。その区割
測設は北海道の実情に合わせたもので、基線を設けて平行して300間毎に基盤の目のように、基号線を設けた。
即ち900間四方の大区別をつくり、それを9等分して方300間の中区別とし、さらにそれを6等分して小区別(間口
100間×奥行150間)をつくり、この小区別5町歩を1戸分と定めたのである。
 区画測設された湧別原野は「北海道土地払下げ規則」により、明治25年に貸下出願の募集を開始した。
 団体入植の前に入植した者としては、明治25年細田三作が、明治26年竹内文吉等の記録があるが、北海道土
地払下規則による入植は明治27年、高知県より泰泉寺広馬、河井豊吉が川西に入植、翌28年に高知団体(西澤
収柵ら13戸)と愛媛県より(本宮徳太郎、金牧七右エ門)が川西に、渡辺精司外45戸、横沢金治郎外20戸が四号
線付近に来住とあり、四号線川西方面への入地が湧別では先行したことが窺われ、次いで屯田兵入村で急激に、
戸数人口が膨張したことがわかるのである。
 即ち北見地方では湧別原野が最も農業適地と見られ「湧別」の中では湧別川流域の両岸である川西四号線が最
も有力な開拓地と目されていたのである。
 こうして北海道に新天地を求めて、しかも川西を永劫の地と定めて、先祖伝来の土地に別れを告げて、鬱蒼たる密
林にいどみ開拓の鍬を下した先人に深い敬意を表する次第である。
 斯くして百年の風雪を、幾多の困難と戦いながら、良く地域の向上のために一致した「川西人気質」という進取と
隣人愛の伝統を育み、文化を創造し、困難な時代によく町内に率先して指導的人材を輩出し、この百年を立派に迎
えることになるのである。
 百年の歴史を遺す意義もここにある。


第1章 川西の開基
第1節 川西の自然
一、位置及び面積  湧別町川西は網走支庁管内の中央部、オホーツク海側に位置する湧別
町市街から約2q、湧別大橋を渡り、湧別川の西岸に位置する。平坦な
沃地帯が川西集落の区域に入る。
 東方に北見3大河川の一つである湧別川、北には日本3大漁場と云われ
るオホーツク海を控え、夏は広茫たる蒼海に幾多の漁船を見、冬は荒涼
たる怒濤と流氷に閉ざされる。
 西にはシュブツノッナイ湖、大谷地を経て、信部内に隣接し、南は六号線
を境として上湧別旭地区に接する。東西に約3キロメートル、、南北に約3
キロメートルの正方形で面積約9平方キロメートルの小地域である。
二、地勢・地質  集落の地勢を見ると、湧別川から、シュブノッナイ湖の間が我が郷土
川西である。区域内には、山や丘陵は更になく、ただ、西3線南部から
西4線、西5線、西6線、西7線間には海岸線に至るまで低くて2メート
ル、高くて5メートル程の段丘がある。
 1号線から海岸の間には町営牧野があり、又この牧野の中に、西6線
から、シュブノッナイ湖までに約30メートル巾の国有防風林がある。防
風林と海岸線の間に竪穴の跡がある。川西地区遺跡である。これらを除
いては、ほとんど平坦地である。ただその中に俗称古川という古い川
が三曲四折して、海岸近くに至って、湧別川、河口に口を開いている。
この高段と草原地を除いた低地が百年前の開拓地なのである。ほぼ四角
形をなす平坦な地勢を持つ集落であることを知ることができる。
 また、湧別川は過去大水の度に幾度か河道を変えたが、昭和の初期に、
治水工事の完成によって、ようやく現在の姿になったのである。
 平坦でやや四角形の地形が、我が川西の地形であるが、北海道農業試
験場北見支場の調査によると、湧別原野即ち湧別川流域の平野は第四紀
層に属し必ずしも土性は一様ではないが、植土、植質壌土、砂質土に大
別出来る。
 高地は埴土多く、河川流域に近づくに従って砂質土あり、ところによっ
ては砂礫土又は礫土のあるところもある。
 これによっても、我が川西の地質を推察することができる。ただし、
1号線から海岸線までの地質は上層に僅かに埴土があって、その下は深
く泥炭地層になっている。
 又僅かながら高段である。西部一帯は、埴土であるが、表土が浅く
ところによっては、強酸性土壌もある。これら以外の低段いったいの深い洪積
埴土及び砂質沖積土の地域は、地力が肥沃で、湧別町内畑地では一等
地である。
 土質と水の関係を見ると、砂質土或は礫土質のところでは清水を得やす
いが、泥炭地帯又はこれに近い沖積土地域は清水を得がたく、有色水が
多い。
 ここで川西に見られる地勢の一部について若干附記しよう。
 
湧別川 石北国境に源を発し白滝村で支湧別を合わせ、遠軽町に入って
漸く平野が開けて生田原川、社名渕川が合流し、上湧別町内で富美川、中
土場川を併せて湧別町に至り、川西地域の東端を過ぎてオホーツク海に
注ぐ。網走管内三大河川の一つでその流長は88キロメートル流域面積1.
610平方キロメートルに及び、流域が川西で湧別原野農業の発祥地である。
 センサイ川 上湧別町旭に源を発し、北流して川西を蛇行流下し、湧別川
河口近くで、湧別川にそそぐ川。
 
シュブノッナイ湖 淡水湖で川西の西端に隣接している。湧別町と紋別市
にまたがる湖で湖面に両市町の境界をなしている。面積3平方`bで、砂州
によって北縁がオホーツク海と隔てられている。
 かっては春の増水期に周辺の農地に冠水して被害をもたらすため、毎年北
縁東方で砂切りを行って急場をしのいでいたが、秋にはオホーツク海の波浪
で閉鎖される悩みが続いた。
 昭和42年国営事業として「シュブノッナイ湖沼口処理工」が完成してから
災害はなくなった。
三 気象概況  近海の潮流はリマン海流と呼ばれる寒流で、サハリン(樺太)の東岸
を南下してオホーツク沿岸に寒冷地をもたらす。一方、対馬海流は暖流
で日本海を北上し宗谷海峡からオホーツク海に出て北見沿岸を洗う。
 我が川西は北が一面オホーツク海に面する「オホーツク海型気候」地
域で、西北及至北風或は東北風に襲われるときは俄然気温の降下を見
るのである。おおむね降水量と日照時間の低位、寡雪、流氷の接岸が特
色とされているが、永い歳月の間には多少の変動もあったようである。
特に、6,7月にかけてオホーツク海の高気圧の異常発達と停滞により、
北東の風に見舞われ、沿岸は海霧となり、冷涼な天候に閉ざされ、4月、
5月よりも寒いことがあって、盛夏を見ずに深刻な冷害凶作となる年も
ある。大正2年の大凶作並びに昭和30年〜32年の連続的凶作はこの
高気圧が発生し停滞して或はベーリング海峡からの寒流冷風に基因し
ているので何とも手のくだしようのないものである。
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 100年語り草
  (その一)・・・・開基
 御  前  水
 かって松前の殿様が、北の地を巡視されたときのことである。
 川西の古代遺跡をごらんになり、休息をされている中に渇きを覚えて
水を求めたがこの付近にはよい清水がなく随行者が困っていた。このと
き地元のアイヌが湧き水を汲んで献上した。これがもとで「松前候の御
前水」と呼ぶようになった。という語り伝えがコタン(今の中湧別)にいた
アイヌの長老のホステバから明治37年頃聞いたということが伝えられ
ており、筆者もその場所を見に行った。今の野津牧場の海岸に近い東
寄りの処に4〜5b程の崖があり、上には例の竪穴式住居跡があり、
下は湿地帯である。その付近を探して見たが見当たらなかった。
おそらく牧野工事のために見えなくなってしまったのはあるまいか。
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topへ 四 気   温  川西の気温は1月極寒、8月極暑と古くからいわれてきたが、その推
移を小川清一郎氏の調査(昭和27年〜30年平均)と網走気象台によ
る(昭和57年〜平成3年)観測記録から抜粋してみよう。

▲川西月別平均気温(28年〜30年平均)小川氏調
月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
気温 -6.7 -6.0 -2.8 3.8 8.8 9.7 13.8 15.9 12.6 5.4 -1.2 12.9

▲湧別月刊平均気温(昭和57年〜平成3年平均)網走気象台調べ
月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均
気温
-3.4 -6.5 -2.5 3.8 9.1 12.6 16.7 19.3 15.0 8.8 3.2 -3.6

五 降水量と日照時間  北海道は秋冬は大陸からの季節風が西海岸に雨雲をもたらし、春夏の
太平洋から来る風は太平洋岸に雨を降らせる。湧別地方の降水量は一般
的に少ないとされているが、年によってかなりのばらつきがみられる。

▲湧別地方の降水量と日照時間(33年平均)北見農試調査
月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
降水
量mm
46.8 32.7 61.8 48.3 59.9 66.1 88.1 94.7 106.0 69.4 57.3 51.9
日照
時間
120.3 130.1 191.5 193.2 186.3 194.3 184.0 213.1 179.6 170.8 130.3 120.3

▲降水量と日照時間(昭和57年〜平成3年平均)網走気象台調べ
月別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
降水
量mm
39.0 34.0 30.0 39.9 44.0 54.3 74.4 81.9 67.1 75.0 30.0 55.0
日照
時間
83.1 130.8 190.4 170.8 155.5 127.1 154.9 157.6 162.5 130.8 109.1 107.1

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 100年語り草
  (その二)・・・自然
  異常寒波の襲来
 昭和52年の寒波は、本道では勿論、全国的にもはじめての年だった。
 原因は北極圏辺りや、シベリア北部、アラスカなどの上層気圧配置が
異常で持続型になっていると気象庁が報じた。この寒波は川西100年
の中でも最も異常といえるもので新聞では次のような報道があった。
@ 幌加内の母子里では氷点下40.8度、北見では−30.5度とい
   う低温
A 湧別農協の調査では2月1日から2週間連続−20度以下又51年
   12月30日から52年2月19日まで31日間氷点下の日がれんぞくした。
B オホーツク海流氷が早く来て道東の昆布が根こそぎ持っていかれた。
C 釧路湿原でタンチョウ鶴のねぐらである阿寒川やその他の湿原地帯
   が凍結して白鳥が多く凍死した。
D 凍結中の配管を解かすためのバーナーを使用しての火災が札幌で頻
   繁に発生。
E 白鳥を守るためのブルドーザーが出動して川面の氷を割って保護に当
   たった。
F 苫小牧では車を盗んだ中学生等が山中を逃げ廻り全員凍死。
G 川西でも牛舎内の配管が凍りウォータカップの氷が使用できず
   融氷作業に大わらわ。
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六 霜と雪  初霜と晩霜及び初雪と融雪の早い遅いは、農作業と収穫に大きなか
かわりがあるので、農家では大いに警戒するが、降霜も降雪も年によっ
て同じ町内にありながら奥地(山峡部)と海岸沿いでは差がみられる。
平均的傾向として、遠軽営林署湧別種苗事業所と網走気象台の観測記録
から月日を抜粋した。
▲年次別霜と雪の調査票
 区分
年次
 初霜   晩霜  初雪  根雪  融雪  終雪 
昭和30   10.10 6.4   10.30  12.27  4.2   5.14 
 〃 35  9.29 6.12  13.28  11.25  4.5  4.23 
 〃 40  10.2 5.30  11.10  12.29  4.28  5.2 
 〃 45  10.4 5.19  11.27  12.2   4.17  4.20 
 〃 50  9.29 5.24  10.30  12.16  4.22  5.20 
 〃 55  11.2 5.6  12.0  12.3  3.31  5.6  
平成 3  10.17 5.23    12.12    4.8 

七 風向きと濃霧  湧別川下流々域の低地川西の低段は大水の度に上流から水によって運
ばれた土砂の堆積によって形成された土地であって、開拓初期において
は大水の被害をやはり度々受けたと「川西六十年のあゆみ」に次の様に
記してある。
 当時は全くの原始河川であって川は幾曲りし其の曲がったとこには流木
等によってせきとめられて洪水を起こしやすい状態にあった。明治31
年9月の大水害は湧別開村当時として被害の大きなものであった。当時
開拓者は設備不完全な開墾小屋に居住していた有様とて、川西原野平均
1bの大洪水には如何程の苦難を味わったか想像もできない。
 その後の大きなものとしては明治44年、大正10年の大水がある。
その他として平成3年6月2日午後4時より30分間に大粒の雹が降っ
て体育館の窓ガラスが数枚割れた。当日は自治会の大運動会の終了直後
であり住民は大変驚いたものである。
九 流    氷  地球上流氷の最南端がオホーツク海の流氷と思われる。百年前入植し
た人達が初めての越冬した年にこの流氷を見てどれ程驚いたことだろう。
秋から冬にかけて打ち上げる波濤のきびしさも、川西の入植者にはきび
しい波音として日毎夜毎に気になる音が、厳寒に至るとさしもの波音も流
氷の来襲にその音が絶えてしまうのである。
 川西の人々はこの流氷が来ることによって、厳しい寒さの襲来を知り、
流氷が去ることによって、春を身を以って感じたのであった。
 この頃は流氷が観光化され本州から珍しい現象を見学に毎年この地オ
ホーツク沿岸を訪れる人も多くなっている。

第2節 川西の生物
topへ △ 獣 類  
 開拓初期には羆が出没して住民達を驚かせた事が頻繁にあった。人の
被害は少ないが、放牧中の馬の被害が2件発生している。エゾ鹿の出没
も見られた他、狸、狐など多く見られたが小さいものでは、兎、いたち、
各種のねずみ等が見られた海洋動物としてはアザラシが流氷にのって
入陸した。

△ 鳥 類  
 開拓当時は野鳥たちの絶好の棲息地であった。したがって、海鳥や候
鳥もいた多彩である。雀、カラス等は季節に関係なくいたが、春のカッコ
ウ、ウグイス、セキレイ、カケス、タカやトビの姿は今でもよく見る。エゾラ
イ鳥なども来る。
 候鳥としては、ヌクドリ、アオジ、ホージロ、セキレイ、モズ、ヒヨドリ、キビ
タキ、ツバメ、カッコウ、ハヤブサ、マガモ他各種、アオバト、カモメなどが
見られる。

△ 魚介類  
 湧別川、シブノッナイ湖に隣接しているので河川の魚が多い。
ヤマベ、ウグイ、ヤチウグイ、アカハラ、アメマス、サクラマス、ドジョウ、カ
ジカ、ヤツメ、コイ、ボラ、ザリガニ、カラス貝、サケ、マス、フナ等がいたが
、河川の汚染に伴って一部の魚貝は姿を消した。

△ 爬虫類  
 毒蛇の代表、マムシはあまり見られなくなり、アオダイショウ、カラスヘビ
、シマヘビ、カナヘビ、トカゲ等も減少しているが絶えていない。

△ 昆虫類  
 開拓以来昭和初期に及ぶ50年間は多くの昆虫が見られたが、終戦後
農薬の使用が著しく多くの昆虫が住めなくなって姿を消したものも多い
のである。バッタ類、トンボ類、セミの類、チョウの類、ホタルの類、ハチの
類、その他クワガタ等があるが近年その数が激減し、蛍などは見られな
くなった。

  一 植  物  △ 海岸植物 
 ハマハコベ、ハマベンケイ、ハマボウウ、ハマニンニク、シロヨモギ、コウ
ボウスゲ等が見られる。

△ 草原植物
 エソノコリンゴ、ハマナス、エゾカワラナデシコ、エゾオ、ヤマハコベ、
ダイコンソウ、エゾイチゴ、センダイハギ、ハマクウワウ、エゾリンドウ、
エゾヨモギ、オバコ、ヤナギタンポポ、ススキ、エゾスカシユリ、スズラン
、ヒオウギアヤメ、ハナショウブ。

△ 樹   木
 カシワナラの広葉樹も認められるが、ヤチハンの木、ドロノ木、アカダ
モ、ヤチダモ、イタヤ、桂、樺、柳等針葉樹が多く針葉樹はない。

△ 草   木
 シダ、ゼンマイ、リンドウ、ヒルガオ、オミナエシ、エゾヨモギ、ヒエ、ク
ロユリ、イヌタゲ、ツリガネニンジン、クマイザサ、スゲ、エゾトリカブト、
ナンテンハギ、ゲンノショウコ、スミレ、ヤマハッカ、フキ、エンレイソウ、
イラクサ、ザゼンソウ、こごみ、トクサ、ガマ、ミズバショウ、ミツバ、アザ
ミ、セリ、スギナ、エゾタンポポ、ヨメナ、イタドリ、オオバコ、エゾワサビ、
ヤグルマソウ、クズ、のぎく、クローバー、アイヌネギ、ノゲシ、カマド
ガエシ、ヤマシャクヤク、ヤマゴボウ、アカザ、ツユクサ、セイヨウタンポ
ポ、イヌビエ、スカンポ、ヤマユリ、チモシー。

△ 茸   類
 シイタケ、シメジ、ムラサキシメジ、ハラタケ、ナラタケ、モミタケ、ユキ
タケ、マイタケ、なめこ、アミタケ、ボリボリなどの食用きのこがある。

 
第3節  先   史                                  topに戻る
      先史と言えば何か専門的な川西の歴史の掘りかえしのように聞こえる
が、町史にのべてある程度でも仲々むずかしい。あの中にある川西の部
分をかいつまんで述べれば、2万年程に氷河期があって大陸と北海道
樺太などが陸つづきになったことがあり、1万年程前にその当時大陸の
動物が北海道に渡ったり、こちらから行ったり、人も同様な行き来があっ
たようで、北海道でも大陸のマンモス・トナカイ等の骨が発掘されて話
題を呼んでいるが、棲んでいた証拠となっている。
 その頃これらの動物を追って、狩猟を生活とする旧人が、北海道に渡っ
て来て生活していた形跡があり、白滝、置戸、遠軽などにその遺跡があ
り、旧石器時代の文化の跡が証明されている。
 この辺りの先住民の文化はそうした無土器文化からはじまって、縄文文
化を経て、続縄文文化、そして擦文文化と経過して、アイヌ文化へと推
移して来た。
 暴騰にのべたのが旧石器時代であり、次の新石器時代(縄文文化)は、
1千年から5千年遡った時代をいうが、川西には4千年程前の擦糸文土
器が一部発掘されているといわれる。
 川西で多く見られるのは、金、石併用時代の、続縄文・擦文といわれる
1千年以降の文化遺産が多く発見されており、引き続いて5百年以内の
金属器時代(アイヌ文化)といわれる遺物に見られるのである。

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  100年の語り草
             (その三)・・・・先史
  先住民族資料蒐集に尽力した小川市十さん

 川西開拓の小川清三郎さんの三男に小川市十さんがいる。
明治32年入植したころがまだ幼い時で、その後湧別小学校に入っ
て第1回の卒業生となった。
川西に先人の遺跡があったこともあり子どもの頃から、野山歩
きはもとより、遺跡に興味をもち、やじり蒐集がはじまった。川西
は古代から先人やアイヌの里でもあり先人たちは耕作こそして
いないが狩猟の據点としても、主要な土地だった。
 開拓中にヤジリがよく出たもんだ。その形もいろいろさまざまなの
で子どもながらに興味をもった。その中に土器なども発見し古代遺
跡あとなど時代によって異なる土器なども多く、発見した。
 その後遠軽地方の考古学を趣味とする仲間を得て各地を調査して
歩くのがなによりも楽しいことの一つだった。青年期湧別で商業をは
じめたが、彼が集めた多くの土器が町に寄附され、郷土館に保管され
ているが、考古学上貴重な文化財として珍重されている。

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  一 川西遺跡   川西にはこれら先住民族が生活の根拠としていた、大規模な竪穴住居
跡の群落があることで広く知られているのである。
 これは、川西西側シブノッナイ湖畔一帯に存在していて、大正年間か
ら多くの研究者によって学説的な改名に努力されているが、まだ明確な
改名につながっていない。網走郷土博物館長、米村喜男衛、同館員の米
村哲英と父子2代に亘っての遺跡調査も行われ、川西の竪穴群落数も6
65個の存在が確認された。これは擦文文化の遺跡としては道内でも著
名なものということが、昭和38年10月の調査(米村哲英)で確認さ
れた。尚、各調査、発掘によって多くの時代の土器、石器、金属器の出
土器が発掘保管され、研究資料として活用されているが、専門的なこと
は専門書にゆずる。

 
  二 先住民と川西   明治以降入植開拓農耕を行い定住した日本人の最初に目をつけたの
は、前述したように川西の地は北見地方でも最も早い時期であった。
 古代人も次の時代の先住のアイヌ民族に於いても、北海道のそれも
オホーツク沿岸、それも川西を中心とした地域を根城にして、竪穴住居
をかまえ、集落をつくり、狩猟民族の生活の中心としていたのではあるま
いか。
 いわゆる先住民族にとっても楽園なのではなかったか、と思いたい。町
史を見ても先住民族の遺跡のあるところは、海岸の段丘のある処、湖と
の段丘のある処、川との段丘のあるところ、が分布図に明確である。
川西、東、トエトコ、バロー、上湧別5の3等であり、
 一、水を得るに便利な土地そして洪水でも被害のない場所
 二、海、川に近く、原野にも近い土地(魚、塩のとれる処)
 三、山の幸、海の幸を得やすい所(魚、山菜、動物)
 四、熊、鹿等の大動物を獲るための奥地に入る舟の便のよい処(川口)
 五、極寒に堪える竪穴造りを考え、食料の貯蔵にも最適だった。
 以上のような利点から、そうした地に住居が設けられていたのである。
ただ川西遺跡に最も多い6百余の居住地は、それらの条件も勿論あった
のだろうが、これだけの大市街を形成できたのはなぜだろう。
 一時期に出来てこれが継続し、最も繁栄したときは、数十人の人達の
生活の中心地だったのだろうか。ここが先住民族の拠点だったのではな
かろうか。など大きななぞが残るのである。

 
  三 湧別アイヌと川西   町史によれば、その位置はないが「ユウベツ」アイヌがオホーツク沿
岸の七ヶ所のアイヌ民族の中心で、北見方面に攻め入った十勝アイヌを
全滅させたという昔話も「ユウベツ」アイヌで仲々栄えたようだ。しか
し明治のはじめ、次第に衰徴し減少し、遂に姿を消したわけだが、川西
に私等の先輩が内地から移住した頃の話しでも、うっ蒼たる原野の処々に
「けもの」道があった、という記録があるが、先住民族のアイヌが通っ
た道、つくった道のあとを聞いたことがない。
 狩猟民族は、自然保護を守る意味から、その地の開発はせずに専ら自
然のまま利用し、動植物との共存を夢見た生活が最大のおきてであった
のではなかろうか。
 だから恐らく奥地に熊、鹿を獲りに行くにも丸太舟で川を遡り、道路
はつくらなかったのであろう。

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   100年語り草
             
 (その四)・・・・開拓
   
川西人気質
 
川西の開基を顧みるとき、この集落の成り立ちが必ずしも同じ県の出
身者でもないのである。はじめに一部土佐高知からの集団が入り、あと
は種々雑多である。この中で、その後の開拓の仲から教育・青年活動と
いう生活のための労働ばかりでなく、真実人間的な素養を重視した、住
民の向上の在り方が何よりも優先して川西の文化・風習が成り立って
来ている。
 したがってよいことはみんなでもり立ててゆく、建設的な意見は、皆で
ねり上げてこれを取り上げ実践する。その中には、特別ボス的な存在の
人がなかったことが川西気質として定着したと思われる。
 したがって青年団活動も昔から活発であったし、婦人・花嫁それぞれ
の分野で町内各区に先取りした活動の歴史の中に川西の風俗習慣が
培われてきているのが「川西かたぎ」とも云えよう。

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第4節 川西開拓の曙                                                           topに戻る
  一 川西の開基   土地払下規則の改正を転機として、未開地の開拓が本格化し、明治2
4年に西6線まで、殖民地区別がなされた川西は、いち早く農業適地と
して着目され、貸付告示(明30)に先だって明治27年から集団移民が
入地して開拓に着手した。
 その経過をまとめて見ると、明治27年入植者のリーダーであった泰
泉寺広馬、河井豊吉と、明治28年西沢収柵等17戸が川西開基の人
といえよう。
 明治40年の戸数割賦課名簿には、64名が記載されていて、開拓の
進展で明るい見直しを得た裏付が証明されている。
  明41  湧別小学校  特別教授場開設
  明43  馬頭観世音  建立
  大 4  川西神社    造営
 などに見られるように、地域の団結と安定が見られ、町内随一の沃土に
も恵まれて、健全な農村集落が形成された。


  二 戦後の開拓   戦後、川西、西6線以西の未墾地帯が開放されて、農家戸数が増加し、
町内一の農業生産地帯に発展した。
 なお、自治会の名「川西」は、湧別川の西の地域だから便宜的に、だ
れ云うとなくいい出した呼び名で、それが行政上にも定着したものであ
ろう。

  三 初期の入植   入植者の状況を「川西60年のあゆみ」(昭和34年発刊)の中から開
基当時の入植者から記してみよう。
明27年  泰泉寺広馬 河井豊吉(以上高知)
明28年 西沢収柵、小谷幸十郎、江沢良馬、窪内福馬、川谷国太
郎、仙頭注連太郎、小松文太郎、滝本房吉、丘上元治、
小松岩次、山西三治、宮田亀之助、高橋謙造(以上高知
県)
本宮徳太郎、金牧七右エ門(以上愛媛県)
明29年 吉川清市、吉川仁三郎、橋詰源六、田村熊三郎、福本林
蔵(以上徳島県)
森尾錫吉、窪内作馬、西村松次、三宮助次、松本松次、
小松松次、隅田均(以上高知県)
明30年 宮本円治、和田周吉、和田義壮(以上高知県)
出口助太郎(石川県) 友沢乙吉(山口県)
川田 (愛媛県) 藤井
明31年 戸梶松太郎、杉本甚七、今井且太郎、小田甚太郎、
橋本 (以上高知県)
大竹若太郎、橋本久吉(徳島県)
酒井友吉、碁石代次郎、板野
明32年 小川清三郎(愛媛県)
明33年 小笠原長次郎、佐藤仲太郎、田川寅吉、三木房吉、
藤本清吉、山西泰次(山形県)
以上の外に当時の貸付区別図を見ると、95区別のうち91戸分に貸
付者氏名が記載されていて、前述の54戸とひらきがあるが、出願者の
すべてが入地しなかったことを物語っている。
 また、高知県人の最も多いのは、湧別原野が開放になって、明治27
年に高知県人で四号線(現在錦町)に宮崎寛愛という人が団体長として
移住したことによるもので、川西以外に湧別市街にも高知県人が多いの
である。

  四 百年の経過   明治27年高知県人によって前人未踏の原始林地帯の川西に第一歩を
印し、開拓着手小屋を建て、それぞれに貸下地を選んだ区割地の大地に
鍬を打ち込んでから今年で年代も四回(明治、大正、昭和、平成)を経
て今年平成5年、百年を記念すべき年を迎えたのであるが、開拓当時か
ら定着するまでには、多くの人々が出入りし、その数幾百を数えた。熊
の咆哮におびえ、度々の洪水におののき、凶作に打ちのめされつつも、
勇猛心を奮って拓り開した土地幾百ヘクタール、今日これをふり返って、
誠に感無量のものがある。
 最初の入地は道庁から、未開地の貸下げを受けて示された起案方法に
より5ヶ年間に開墾を終わり、成功届けを出して、検査を受け、無償付与の
許可を得た人で、現在(平成5年)
3世で居住しているのは
 小谷幸十郎4代目  小谷喜一郎
 江澤 良 馬3代目  江澤 俊弘
 本宮徳太郎3代目 妻本宮美江子
 宮本 円 治3代目  宮本 尚明
 小川清三郎4代目  小川 征一
 野津幾太郎4代目  野津  章
 友澤 乙 吉3代目  友澤 市男
 藤本 清 吉3代目  藤本 敏明
 佐藤仲太郎3代目  佐藤 正夫
 以上9戸が入地以来の川西生え抜きの農家といえよう。
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   100年語り草
              (その五)・・・開基
  300年の系図
 昭和17年戦時中の機雷処理のため除去作業中・爆発大惨事を
引き起こし多くの死傷者をだした。川西警防団から参加した小谷
幸一さんが川西只一人殉職し遺族が悲運に泣いたが忘れ形見
喜一郎さんが現在の当主である。この小谷家の永い家系の末裔
だと分かる。祖父幸十郎さんが明治28年に最初の開拓者として
入地したが小谷家21代までまで遡れば安土桃山時代を先祖とし
秀吉の朝鮮征伐に長宗我部の重臣として参加以来土佐に定着
し、戦後の波瀾をのり越えて家老、家臣として仕えたたのち庄屋
として数代を経て明治時代に北海道に渡る。
 この系図が300年に余る系図として新天地北海道として、珍し
いものといえよう。
 現在の当主は「幸喜」と号し初代以来当主は名の上に「幸」の
字を冠することになっている。
 開拓の中にはこうした由緒ある先祖をいただく方も多かったと思
われますが、珍しいので紹介します。
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