第13章 記念事業

昭和の小漁師
湧別町史
上芭露郷土史

第13章記念事業   第14章此の家、此の人


 第13章    記念事業   記念事業
 上芭露が一つの区として独立してから各種の記念事業が行われている。
 昭和2年の創立20周年記念事業が行われているが資料がなく、その時の表彰者が判る程度である。 その後紀元2600年記念や、小学校の新築等の機会に行われた祝賀行事は除いて部落を挙げて盛大に記念行事が行われたのは昭和32年の開基開校祝賀行事であり、同じく昭和42年に60周年、昭和52年に70周年と行われた。
 80周年記念行事の予定もなかったわけではなかったがその時期は、小学校の問題が大きくなっていた為先送りとなり、平成3年に祝賀行事ではないが、上芭露小学校開校に伴う諸行事が盛大に行われたところである。
 以下、それ等の記念事業の内容についてふり返ってみよう。


                                              
   一、 開基開校20周年記念 表彰者 上伊沢 伝  三木 武吉  高橋時太郎
      江島 亀吉  小山 春吉  上田 金松
 
   二、 開基開校50周年記念  開基開校50周年記念事業は、昭和32年に行われたが、昭和30年頃になると戦後の混乱から少し落ち着きを取り戻し、部落の人達の気持ちの中にも多少のゆとりが出来る頃になっていた。
 この頃上芭露のリーダーであった小林定次郎・藤根正重・矢崎次郎の諸氏が役員会に図り開基50周年が実行に移されて行った。
 開基の式典は開校の昭和41年から数えて50年目になる昭和32年と定められ、色々な計画が立案された。
 こうした大きな事業は、部落にとって初の経験であったが、藤根正重氏は沢山の記録を持っておられたし、渡辺精三・小林薫氏等の立案と実務処理が円滑に行われ、又、今尾為吉・上田徳治郎・渡辺智秀氏の他、たくさんの元老の方々が過去の事についても記憶しておられたので、記念誌の編集も比較的容易に出来、昭和32年10月13日、昭和28年に新築完成していた小学校の体育館で記念式典が盛大に行われた。
 当時の記念協賛会役員名を見てもほとんどの方が鬼籍に入られ、往事をしのぶものは学校に寄贈されたグランドピアノと「郷土の歴史」と名付けられた小冊子があるくらいである。
 部落が開拓後最も多い戸数を記録し、あの不幸な戦争から抜け出し、自由と平和と民主主義が与えられ、人々にとっても最も希望に満ちあふれていた時代だったのかも知れない。
 開基50周年、60年、70年と10年毎に行われた。 協賛会役員、表彰者等を記して当時の思い出としたい。

 
    「郷土の歴史発刊に際して」           上芭露部落駐在員 和 泉 達 三
 全山紅葉して万殻は実りを収め愈平和文化の進展を誇らんとする秋、茲に上芭露開基開校50周年の式典を挙行されるに当たり先人の艱苦の中に今日の発展を見るに至った営みの数々を歴史付け、郷土史編纂の期を得ました事は誠に光栄であり且つ欣幸とする所でらります。
 顧みまするに当時未だ未開の湧別村より芭露を経て上芭露の独立は過去幾多の紆余曲折は勿論、更に耐え難きを耐え抜かれた苦闘の結果今日に至ったのであります。
 惟うに往事交通に道なく熊笹を倒して路とし住む家なく木の皮を剥いで屋根となし雨露を凌ぎ自然の猛威と闘いながら一斧一鍬の努力は深く無量の感に打たれるものがあります。 尚教育に有りては其の制度が布かれず唯同志の協力にて立木其の儘の掘立小屋を組み人を選んで読み書きを教える等、それや是やを回顧に乗せて過ぎにし50年の星霜は筆紙に尽くし難い量感となって迫る偉大なる業績に対しまして無限の敬意と感謝を捧げて止まないものであります。
 願わくばこの意義ある50年記念式典によって編纂される郷土史の趣旨によって晩去先人の神々しき苦闘を偲び産業の発展と生活の高揚を以て平和文化の研鑽を益々深められん事を希うものであります。
  「開基50周年記念「郷土の歴史」より抜粋」

 開基50周年記念表彰者
 一、開拓功労者
   上田  金松  上伊沢  伝  加藤 佐吉
   高橋 時太郎  加藤 新四郎
 二、表彰状受賞者
   島田 和三郎  三木  武吉  塩田 熊蔵
   小山  春吉  中谷 宇太郎  稲熊  篤
   井上  秀   渡辺  精一
 三、感謝状受賞者
   大口  丑定  村上  庄一  長利  清六
 開校50周年表彰者
   島田 和三郎  和田  民吉  村上  庄七
   高橋  利雄  佐々木 喜六  後藤 ヨシヲ

 10月12日祝賀会の当日、旗行列をする小中学生(約250名)。 場所は「伊藤商店」の前と思われる。 当時部落の戸数は180戸もあって行列は後につづく一般の人も含め寺の坂の向こう迄続いた。

 50周年記念協賛会役員
  会  長  和泉 達三
  副 会 長  小林定次郎  矢崎 次郎
  総務部長  藤根 正重
  庶務会計  渡辺 清三
  委  員  伊藤 丑松  金井  潔  葛西  譲  長谷川 隆
        伊藤清太郎  森田  実  加茂 武雄  日下 通平
        水野 一重  高橋 吾助  横山吉太郎  青山崎 重
        中川 源一  今尾 為吉  真鍋 武人  高島千代吉
        上田徳次郎  渡辺 智秀  小湊  薫  福原  保
        三浦謙次郎  黒田  実  井上  力  稲垣 寿雄
        小山 康雄  長沢 政市  横山 清一  井上 清治
                          (順不同)
 編纂委員会
  委員長   長谷川 隆
  委 員   藤根 正重  渡辺 清三  葛西  譲  小湊  薫
        佐々木早苗  渡辺 智秀  森田  実  小山 康雄
 上芭露の公民館に現在有るグランドピアノは、その頃古いオルガンしかなかった為、部落民全員の貴重な浄財を集めて学校に寄贈されたものであり、大変立派なものであり当時でも高価なものであった。

 
   三、 開基開校60周年記念  昭和42年に開基開校60周年記念式典が行われたのには、それなりの理由があった。 一つには50周年を行った時に10年毎に行おうという申し合わせがあった事、これは別に部落総会で決議される程の事ではなかったが、当時の有志の間でのお互いの了解事項の様であった。
 二つには50周年記念事業を行う時に表彰者の選考に難行して比較的少数の方に絞り込んだ為、次回に行おうとの話し合いがあった。 勿論地域の発展を祝いその将来に更に新しい夢を託そうとの考え方があったのは当然の事である。
 従って60年は主として祝賀会とそれに伴う、自治・産業・社会福祉・教育等に対する功労表彰が行われ、他の事業は行われなかった。
 記念誌の発刊もきわめて簡単な内容に止められた。
   郷土史発刊について              上芭露区長  藤根 正重
 全山紅葉に包まれ万殻豊穣の秋を迎え、茲に上芭露開基開校60周年記念式典を挙行するに当たり、先人開拓者の苦難を偲び本日に至る繁栄の郷土を築かれし先輩諸氏の労苦を謝すと共に、部落諸氏の絶大なる協力と記念誌委員のたゆまざる努力のもとに、郷土史編纂を集録を得まして其の発刊の辞を述べる機会を得ました事は私の最も光栄であり且つ欣快とする所であります。
 本史の発刊は先に50周年記念誌に集録された数々を、省略し乍らその後十ヶ年間の行事の業績を年表に致し、先輩諸氏の歩みを年度毎に現し其の労苦を称えて、後生に之を伝うべきものと信じ意義有るものと存じます。
 開拓当初の入植者の艱難辛苦を帷う時、開拓者魂の強固なる事を想像し郷土の土に先人の汗と涙がにじんでいる事を知り、今後此の郷土受け継ぐ吾等はそれぞれの生業に渾身の努力をかたむけ理想郷土の建設にまい進しなければなりません。
 開拓以来の数多くの諸先生を見るにつけ、又先輩の行積に眼を通す時、限りなき敬意と感謝を捧げるものであります。
 願わくは60周年の記念式典の郷土史発刊の意義は、先人の偉業を心に銘じ郷土の繁栄と興隆の為に和衷協力平和社会の建設に留意さるる事を希念しまして発刊の辞と致します。
         「開基開校60周年記念誌より抜粋」

 開基60周年記念表彰者
 一、自治及産業振興功労者
   矢崎 次郎 (故)小林定次郎   伊藤清太郎
   横山 清市    福永 栄助  (故)今尾 為吉
   渡辺 清三    和泉 達三   日下 通平
   伊藤 石松    青山 崎重   高島千代吉
   遠藤 孝省    加茂 武雄   後藤徳三郎
 (故)長谷川清治郎  井上 清治   金井  潔
 (故)小山  康雄         

 二、社会浄化及福祉功労者
   渡辺 智秀   三浦 単道   長谷川まつゑ

 三、教育功労者
   葛西  譲   松井  正   倉田 秀夫

 四、感謝状贈呈者
○学校に多額の金品寄贈者
 林 榮太郎   加藤 己強   金沢 金重郎

 60周年の意義
 昭和42年頃になるとその少し以前から離農が始まっており、立地条件の悪い土地の人、又は両親のいない分家等にその傾向が表れ、農家戸数は63戸になっていた。 この事は昭和29年の部落等級査定表の農家戸数約100戸からみると大きな減少であった。
 又市街地をふくめた総戸数も昭和29年頃の180戸から約130戸になっていた。
 小中学校の生地数も昭和35年、245名在籍していたものが昭和42年には130名で実に40数%も減少している。
 この事は日本の農業が「七ケタ農業選択的拡大」と1戸の経営規模の拡大が迫られており、一方都会では高度経済成長の波に乗って多数の労働者を必要としていた。
 この地方でもその頃から農家はより積極的に農業の機械化に取組みはじめ、農地の取得にも意欲的であった。 古い農村に別れをつげ「バラス道」のがたがた道を歩いていた農民は明日の生活に明るい夢を託していた。
 変転して行く農村を意識しながらも時代の変化に遅れまいとする、部落民の意欲は並々ならぬものがあった。
 こうした時に行われた60周年は丁度開拓後一世紀をへた現在から思えば古い時代から大きく変わった農村への分岐点になっていたのかも知れない。
  四、開基開校70周年記念 開基開校70周年は50年、60年と記念行事が行われていたから当然行うと言う考え方で準備が進められた。 
  五、上芭露小学校閉校   上芭露小学校が芭露小学校に統合した経過については、教育の項で学校教育の変遷を題して詳しく記載されている。 従って以下閉校式がどの様に行われ、それに関わる諸事業がどの様に立案され実施されたかについて述べる事とする。

 ◎ 閉校実行委員会発足の経緯
 オホーツクの流氷も凍りついたままで、その寒気が上芭露の山野に押し寄せて来る様な平成2年2月3日の午後、上芭露自治会臨時総会が母と子の家で開催されました。
 小さな山村で地域の臨時総会が持たれることは過去において余り例がなく、小学校の廃校が地域住民にいかに衝撃を与えたか三々五々集まってくる人達の顔にも暗い陰りがみえていました。
 湧別町では昭和46年に町教委が策定した湧別・芭露小学校2校体制の基本方針に沿って、統廃合が進められ平成2年3月に西芭露小学校閉校後、未統合なのは上芭露小ただ1校となるため遅かれ早かれ統合は時間の問題かなという漠然とした不安は地域住民にあった事は事実ですが、小学校の統合は地域ではタブーで「学校をなくすことは、地域の衰退につながる」と反対の声をあげ続けてきてだれも統合を口にすることはありませんでした。 小学校の統合問題が議題として取上られ地域に明らかにされたのはこの時が最初でした。
 総会の冒頭、越智PTA会長より発言があり、昭和初期300名を越す児童数があった小学校も、現在は13名に減少したこと、更に来年3月5名の卒業生が見込まれ、授業にも、運動会・学芸会等の情操教育にも教育効果の低下が予見されること、それにも増して校舎の老巧化で教育環境が劣悪の状況になっていること等の現況の説明がありました。 平成元年11月末PTAで協議した結果統合に意見がまとまったのです。 以後、幼児を持つ父母とも協議しましたがこれも統合を希望しました。 12月に入って町教委と協議し平成3年3月をもって統合に合意したとの経過報告がありました。
 討議に入って激論が交わされた「伝統のある上芭露小学校の歴史を閉じるのか」 「統合とは何事だ、過疎に拍車を掛けるのか」 「過疎地域の振興に小学校を新築させるべきだ」等々、論議を尽くしましたが、採取的に「子供たちの将来の幸福のためには施設の整った環境で、多くの仲間とともに学校生活を送らせるべき」と統合に合意するという結論にいたりました。 統合時期については地域住民の総意を募って総会で決定することとし散会しました。
 4月7日自治会総会で統合時期について討議されました「地域だけの問題ではない、開校以来の卒業生も数多い、後世に残る記念を残すためにには時期尚早だ」 「平成4年が開基85周年に当たる、記念行事を計画し統合を一年伸ばせ」 「閉校に伴って膨大な事務処理が必要となる、記念誌まで作るとなると来年閉校では間に合わない」等々の意見が出されました。
 結論として時期は「平成3年3月に決定する」。 閉校に伴う事業は「部落の歴史学校史を編集する」 「記念碑を建立する」 「PTA会誌やまびこを発行する」とし地域自治会員の総力を挙げてこれに取り組むと決議されました。
 役員構成については、これらの事業を短期間で遂行を図らなければならない必要があるため、地域の役員等指導的立場の人達を部門毎に選出し、責任分担を定め構成員を決め、総会即閉校実行委員会設立とし、発足と同時に活動できるよう決議された次第であります。
 ◎ 主なる行事
 一、閉校式、御別れ会
 二、閉校記念碑の建立
 三、記念誌の発行(部落史、小学校史併記)
 四、PTA誌(やまびこ)発行
 五、全卒業生に募金の要請

 趣 意 書
 上芭露小学校は、明治41年1月22日上芭露の民家を借り受けて「バロー簡易教育所」を設立、開校を見たのが始まりで、現在地に移るまで校舎校庭は三度変わっております。 爾来、春風秋雨幾多の変遷を経て、本年創立以来83年を経過するに至りました。
 長い伝統と歴史の中に育まれて本校を巣立った卒業生は1,800余名を数え、夫々の職域を通してご活躍されておられることは、誠に同慶に堪えない次第であります。
 昭和46年湧別町は「学校統合計画案」を地域に提示しました。
町は湧別小学校、芭露小学校の2校体制にするというものであります。 以来、信部内、川西、東湧、登栄床、東芭露、志撫子、計呂地と統合し、本年3月、西芭露小学校も統合しました。 最後に上芭露小学校だけが残ることとなりました。
 創立以来、学校と地域は一体となり精神的、文化的つながりが深く、統合に対する強い反対もありましたが、しかし、社会経済の変化で、地域は過疎化現象を余儀なくされ、児童数は逓減し、現在在校生は13名を数えるのみとなりました。 また、校舎も老巧化し環境が劣悪の状況となっているため、施設設備の整った教育環境のもとで子弟教育を図ろうという父兄の意見が大勢を占めるに至りました。
 平成2年4月、上芭露自治会総会において、地域住民の総意で、統合する事に決議しました。 ここに至って教育の機会均等を図る湧別町の方針に沿い、芭露小学校に平成3年3月31日を以て統合することになりました。
 閉校に当たり、その歩み、歴史を後世に残そうと協議し、ここに閉校実行委員会を発足させ、閉校式典と併せ、閉校に伴う事業を別紙の通り実施することになりました。 つきましては、本閉校実行委員会の趣意をご理解くださいまして、特段のご協力を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。
     平成2年8月20日
 上芭露小学校閉校実行委員長
         (上芭露自治会長) 福原  保
       副委員長
         (上芭露小学校長) 村松  直
         (上芭露PTA会長)越智  信
         (上芭露同窓会会長)黒田  実
         (上芭露老人会会長)上田  健次
         (湧別町教育委員) 安彦  英則
       記念誌編集委員長
         (湧別町議会議員) 長谷川 隆
       記念碑建立委員長
         (湧別町消防副団長)井上  剛
       総務委員長
         (湧別町議会議員) 上田  定幸
       事務局長
         (上芭露郵便局長) 湯浅 健治
               他 実行委員一同

 ◎ 遂に閉校に至る
 上芭露小学校が明治41年開校されてから84年、遂にその長い伝統と地域と共に一体となって歩んできた輝かしい歴史はその幕が降ろされた。
 今その最後を見届けた者としてその感慨は言葉で表現することを知らない。 思えば開拓以来教育に対する思いと学校に対する人々の協力は、他の地域に比べて抜きんでて高いものがあった。 その事は明治41年、開校に当たって校舎の出来る迄、上伊沢博氏の自宅が使用された事でも明らかであろう。 16号の高台に校舎があった時は敷地は狭く平坦でなかった。
 グランドは百米の直線コースが取れず、冬には部落の人達が馬橇で土を運ぶ事が幾度もあったし、下の現在地に校舎が建設される時はブロック積みに部落民全員が共同作業に出役して完成させたものだった。
 冬はスケートリンクの造成に、夏はプールの管理に、その時々のPTAの人達は総力を挙げて協力していた。
 今閉校するに当たって振り返れば正に走馬燈の如き感がする。
 閉校式は盛大に行われた。 町長をはじめ、議会、町内の有志、教育関係の代表が参列しこの学舎を巣立って行った数百名の卒業生が御別れ会に列席した。 最後の校歌を13名の生徒に合わせて参列者全員が歌った。
 歌い終える事がこの学校の最後である事は解っていた。 全員の人々の頬をあつい涙がつたっていた。
 吾等が学校の先輩の一人である作家の金子きみさんは、その便りの中で私の唯一の母校である上芭露小学校は昔日の記憶の通り今も存在するものと思っていた。 その学校は閉校になるとは、地域の人達はその事をどんな思いで受け止め、どう対処して来たのだろうと。
 時代の変遷は正に情け容赦なくこの地帯をも呑み込んで行った。 大自然の川の流れの様に再び帰る事のない事態は人々の心になつかしい思い出を残すのみとなった。


 第十四章 此の家 此の人  黒 田 家
  出 身 県  岐阜県本巣郡舟木村
  初入植地  下湧別村川西
  上芭露入植 大正初期
   初代 弥 平
   二代  実
   三代 槇 悟

 安 彦 家
  出 身 県 山形県北村山郡東根市長瀞
  初入植地  下湧別村上芭露
  上芭露入植 明治39年5月
   初代 権 昨
   二代 昨 助
   三代 英 則

 上 田 家
  出 身 県 熊本県飽説郡
  初入植地  上湧別町5の3(屯田兵として入植)
  上芭露入植 明治45年
   初代 金 松
   二代 徳次郎
   三代 定 幸
   四代 範 幸
 
 井 上 家
  出 身 県 山形県長瀞
   初入植地  下湧別村志撫子
   上芭露入植 明治37年4月
    初代 石 蔵
    二代 清次郎
    三代  力
    四代  剛
    五代  豊

 三 浦 家
   出 身 県 愛知県岡崎市
   初入植地  上芭露
   上芭露入植 対象14年11月
    初代 単 道
    二代 修 真
    
 渡 邉 家
  出 身 県 新潟県北浦郡聖篭町
   初入植地  天塩郡遠別町
   上芭露入植 大正5年5月
    初代 智 現
    二代 智 秀
    三代 精 護

 菊 地 家
   出 身 県 山形県東根
   初入植地  幌加内
   上芭露入植 平成11年3月
    初代 将 一
    二代 守 典
    三代 得 典

 中 西 家
   出 身 県 奈良県
   初入植地  常呂郡中佐呂間村
   上芭露入植 昭和35年4月
    初代 金三郎
    二代 喜久之助
    三代 喜久雄

 笹 田 家
  出 身 県 不明
  初入植地  遠軽町
  上芭露入植 昭和46年9月
   初代 征利
   
 金 子 家
  出 身 県 秋田県
  初入植地  佐呂間町字若里
  上芭露入植 平成8年11月
   初代 周 治
   二代 周 一
   三代 至 弘
 
 二 ッ 森 家
  出 身 県 青森県
  初入植地  函館
  上芭露入植 明治45年
   初代 要 助
   二代  要
   
 高 橋 家
 出 身 県 岩手県
  初入植地  下湧別村字東芭露
  上芭露入植 昭和40年
   初代 巳之松
   二代 光 夫
   
 渡 邉 家
 出 身 県 山形県
  初入植地  下湧別村上芭露12号線
  上芭露入植 明治43年
   初代 栄 吉
   二代 永 治 
   三代 律 子

 千 坂 家
  出 身 県 宮城県
  初入植地  上湧別5の1
  上芭露入植 昭和22年
   初代 利 造
   二代 房 雄
   
 三 浦 家
  出 身 県 栃木県
  初入植地  向遠軽町向遠軽
  上芭露入植 昭和10年3月
   初代 和三次
   二代 謙治郎
   三代 正 巳

 真 鍋 家
  出 身 県 香川県
  初入植地  下湧別村字上芭露
  上芭露入植 大正8年4月
   初代 長 松
   二代 利 一
   三代 武 人
   四代  仁

 江 島 家
  出 身 県 岐阜県
  初入植地  上芭露12号線
  上芭露入植 大正5年
   初代 鶴 吉
   二代 国次郎
   三代 ハルエ
 
 青 山 家
 出 身 県 愛知県
  初入植地  下湧別村
  上芭露入植 明治43年
   初代 鶴 吉
   二代 崎 重
   三代 茂 富
   四代 信 孝

 梅 澤 家
 出 身 県 岩手県厚岸町床丹
  初入植地  十勝郡浦幌町
  上芭露入植 昭和24年4月
   初代 善次郎
   二代 三 郎
   
 森 田 家
 出 身 県 広島県
  初入植地  岩内郡発足村
  上芭露入植 明治45年
   初代 林右ェ門
   二代 庄 八
   三代 為 市
   四代  実
   五代 泰 市

 猪 股 家
  出 身 県 宮城県
  初入植地  湧別町上芭露
  上芭露入植 大正初期
   初代 長 七
   二代 芳 記
   三代 武 男

 長 岡 家
  出 身 県 山形県南村山郡防原
  初入植地  下湧別村西芭露
  上芭露入植 大正元年
   初代 友 蔵
   二代  勝
   
 長 岡 家
  出 身 県 山形県南村山郡防原
  初入植地  下湧別村西芭露6線
  上芭露入植 大正元年
   初代 友 蔵
   二代 義 見
   
 酒 井 家
  出 身 県 山形県
  初入植地  上川郡鷹栖町
  上芭露入植 平成13年6月
   初代 順 作
   二代 重 良
   三代 聖 二
 
 鈴 木 家
 出 身 県 岐阜県
  初入植地  上芭露
  上芭露入植 大正7年
   初代 市 松
   二代 武 雄
   
 野 村 家
 出 身 県 岐阜県
  初入植地  上芭露1091番地
  上芭露入植 明治43年
   初代 菊太郎
   二代 正 人
   
 岩 崎 家
 出 身 県 大阪市
  初入植地  湧別町上芭露
  上芭露入植 平成2年6月
   初代  忠
   
 小 林 家
  出 身 県 山形県
  初入植地  芭露
  上芭露入植 昭和21年4月
   初代 定 吉
   二代 勝 見
   
 福 原 家
  出 身 県 新潟県
  初入植地  西芭露
  上芭露入植 大正7年10月
   初代 敏 雄
   二代 敏 春
   
 吉 田 家
  出 身 県 山形県
  初入植地  上芭露
  上芭露入植 明治31年
   初代 新三郎
   二代 信 次
   三代 舜 司

 遠 藤 家
  出 身 県 福島県
  初入植地  下湧別村上芭露
  上芭露入植 明治43年
   初代 辰三郎
   二代 孝 吉
   三代 廣 吉
 
 野 原 家
 出 身 県 福井県
  初入植地  湧別町上芭露
  上芭露入植 昭和6年頃
   初代 義 雄
   二代 茂利雄
   
 三 浦 家
 出 身 県 栃木県
  初入植地  遠軽町向遠軽
  上芭露入植 昭和10年3月
   初代 和三次
   二代 謙治郎
   三代 寿 章
   四代 孝 司

 高 嶋 家
 出 身 県 山形県
  初入植地  芭露
  上芭露入植 大正2年
   初代 千代吉
   二代 三 郎
   
 福 原 家
  出 身 県 新潟県
  初入植地  下湧別村芭露
  上芭露入植 大正11年
   初代 逸 平
   二代 憲 吉
   三代  保
   四代 秀 行(故))

 今 尾 家
  出 身 県 岐阜県本巣郡
  初入植地  下湧別村川西
  上芭露入植 明治46年3月
   初代 為 吉
   二代  榮
   三代  隆

 森 谷 家
  出 身 県 山形県
  初入植地  遠軽町
  上芭露入植 昭和11年
   初代 岩次郎
   二代 忠 雄
   
 柴 田 家
  出 身 県 岩手県
  初入植地  上芭露西3線
  上芭露入植 昭和11年頃
   初代 文 造
   二代  猛
    
 上 田 家
 出 身 県 熊本県飽説郡供合村大字弓削
  初入植地  北兵村第2区
  上芭露入植 明治39年5月
   初代 金 松
   二代 健 次
   三代 一 義

 藤 根 家
 出 身 県 岐阜県美山村
  初入植地  雨竜郡幌加内町添牛内
  上芭露入植 大正5年10月
   初代 孫三郎
   二代 正 重
   三代 湧 治

 加 茂 家
 出 身 県 宮城県
  初入植地  芭露
  上芭露入植 大正10年
   初代 武 雄
   二代  武
   三代 一 郎

 三 木 家
  出 身 県 徳島県
  初入植地  下湧別村東1線
  上芭露入植 昭和2年1月
   初代 房 太
   二代 定 夫
   三代 繁太郎

 中 川 家
  出 身 県 三重県津市大里窪田町
  初入植地  上湧別町5の3(屯田兵として入隊)
  上芭露入植 昭和8年
   初代 孫四郎
   二代 源 一
   三代 藤 男

 東 海 林 家
  出 身 県 山形県北村山郡田麦野村
  初入植地  湧別村上芭露
  上芭露入植 明治39年
   初代 秀 蔵
   二代 秀 信
   三代 義 幸

 清 野 家
  出 身 県 福島県
  初入植地  上芭露
  上芭露入植 大正3年
   初代 兵五郎
   二代  宏
    
 黒 田 家
 出 身 県 岐阜県本巣町川崎町
  初入植地  下湧別村川西
  上芭露入植 昭和8年11月
   初代 捨 市
   二代 三 三
   三代 正 晃

 清 野 家
 出 身 県 福島県
  初入植地  下湧別村
  上芭露入植 大正3年
   初代 兵五郎
   二代 孝 吉
   三代 省 徳
   四代 義 美

 那 須 野 家
 出 身 県 香川県
  初入植地  湧別村東芭露
  上芭露入植 昭和21年
   初代 平 七
   二代 春 雄
   
 長 谷 川 家
  出 身 県 愛知県春日井郡
  初入植地  下湧別村川西
  上芭露入植 大正9年3月
   初代 金治郎
   二代 清治郎
   三代  隆

 長 谷 川 家
  出 身 県 愛知県春日井郡
  初入植地  下湧別村川西
  上芭露入植 大正9年3月
   初代 兼 松
   二代 国 夫
   
 宮 原 家
  出 身 県 石川県能登
  初入植地  
  上芭露入植 平成17年3月1日
   初代  保
   二代 利 幸
   三代 大 銘

 
  編集後記    百年記念誌の編集は、ほぼ終了し、後は祝賀会当日の写真を残すのみになった。 そこで編集の苦労話は後にして、我々はどんな時代を此の上芭露という小さな部落の中で生きてきたのか考えてみる事にした。
 明治41年が開基の年と定められているが、其の以前日本は明治27,8年の日清戦争、明治37,8年の日露戦争に勝利して、台湾及び樺太の北緯五十度以南の割譲を受け、更に満州の鉄道の利権を手中にすると、韓国にも強力な政治圧力をかけ日韓併合条約を結んで事実上韓国を日本の領土とした頃だった。
 国民の目は自然と北方に向く様になり「屯田兵」の入地と共に一般開拓者も此の芭露の沢に入植する様になった。
 薄荷栽培の適地として上芭露、西芭露、東芭露が十数年のうちに開墾され、上芭露市街地が著しい発展をしたのは文中にある通りである。
 大正時代は、「大正デモクラシー」という言葉もある様に国民にとっては比較的平穏な時が流れていたのではないだろうか。 然し、農村は貧困な状況にあったし、一方動労者もなお不利な労働条件のもとにあり、特に女子労働者は恵まれない労働ときわめて不利な報酬しか得られなかった。
 昭和に入ると治安維持法が制定され、五・一五事件、二・二六事件を経て日本は軍人の発言が強化され、政治家の力はこれに比べて弱体化していった。 昭和6年には満州事変を起こし、諸外国の批判をあび国際連盟から脱退するという暴挙に出てしまった。更に昭和12年7月には日支事変へと軍部は突入し、上芭露からも沢山の兵隊さんが出征して行った。 こうした社会の中で何も知らない私達は少年時代を薄荷の強い香を嗅ぎながら軍国少年として成長の道を歩んでいた。
 昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に入り緒戦の輝かしい戦果に国民は酔いしれているうちにどんどん負け戦になり、広島、長崎に原爆が投下され8月15日天皇はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。
 なぜそうなったのか色々な原因は言われているが、軍人幹部の思い上がりと横暴それを支える官僚、徹底した自由思想の弾圧と右翼の跳梁によって、何も知らない国民は侵略を正義の戦と教えられて戦争に走ってしまった。 敗戦によって350万人もの人々を失い、国土の半分をなくし、大都市の大半を焦土と化してしまった。 此の小さな部落でも37名もの戦争犠牲者が出てしまった。
 一部の先鋭化した軍人によって政治家は沈黙させられ、時代を的確に見通す大政治家は出現せず、軍部の言うがままにずるずると引きずられてしまった為であろう。 誠に不幸な事であった。
 戦後日本には自由主義が与えられた憲法をはじめ、あらゆる制度が民主主義の名の下に戦前とは百八十度変わっていった。
 農業でも農地解放によって、全農家が自作農となって小作は一人もいなくなった。 青年団体活動、農協青年部、婦人部活動が活発になったのも此の時代だった。
 昭和25年朝鮮戦争が起き、その特需によって日本は復興のきっかけをつかみ、昭和26年、サンフランシスコに於いて平和条約を結んで敗戦国の立場から、はじめて自由陣営の一員として国際社会に復帰する事が出来た。
 昭和30年代の半頃から機会の導入が始まり、それと相前後して離農する農家が出始めた。神武景気のだの岩戸景気だのと言われて日本は高度経済成長の道をひた走った。農村にも乗用車が入り道路は舗装道路ばかりになった。文化は進んだが、かって二百戸を数えた住民も今は五十戸を割ろうとしている。正に我々が生きてきた此の百年は千変万化の時代であったし、激動そのものの時代であった。
 さて百年記念誌の方に話を戻そう。 編集委員長に選任されたが、平成3年に発行された「郷土のあゆみ」の追録にせよとの前提条件がついて、その上で百年記念誌の体裁も整えなければならない。
 平成3年から数えると僅か十五年だ、その間の記事だけで百年記念誌を編集する事など不可能に近い、さあどうしたらいいか。
 考えてばかりいても仕方ないし早くから取りかからないと時間が迫ってから焦っても駄目だ。 編集委員会を開いて、それぞれ担当を決めていた。 幸い議長をやっていたので町内各地の記念誌を持っていたので、それを読みあさった。 どうにか構想を考えたが、まだ時間があると平成十六年の夏の間は開店休業になってしまった。
 先の方から逆に考えると平成十九年の四月頃に祝賀会が行われる。 そうすると少なくとも前年の十二月迄には案文を完成させなければならない。平成十七年の秋、各サークルに現行を出してもらう様依頼したがなかなか出てこない。そうこうしているうちに平成十八年になった。今年一年しかない。 冬期間にせめて大要は完成させようと頑張っているうちに三月中頃、病気になってしまった。 八十の老人には無理だったのだろう。兎も角出来た部分を全部印刷に廻して当分仕事から離れる事にした。編集されて来たものを校正し(校正は渡邉さんに担当して頂いた)。こうして年内には約三百四十頁の記念誌が完成する見通しがついた。
 然し、内容には不備な点が多く、また百年記念誌としては不足の点が多くご叱正を頂く点が多々あると思うが素人ばかりの編集委員会なのでお許しを頂きたい。
 世の中はまた戦前の様に少しキナ臭くなってきた。 我々は戦争の為に取り返しのつかない犠牲を払った過去を知っている。これからも決して平和な世の中を乱してはならないと思う。
 最後になったが、多忙な農作業のかたわら編集にご協力いただいた編集委員の方々に心からお礼を申し上げて結びとする。
    編集委員長 長谷川  隆


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