愛のふる郷  第3編   川西の文学 

昭和の小漁師
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  第1章 開拓の記録  養子縁組  戦時下の我が青春の日記  豆本武勇伝  ふるさとを謳う  趣味の版画  漫画の紹介  


第1章 開拓の記録  
小川清一郎 手記
 はしがき
 本文に入る前に     編集子

 小川清一郎さんの「開拓の記録」を読むと、小川一家のみの記録ではなく、川西開拓の最初の入植者ではないにしても、皆それぞれに同じ経過を経て困難な開拓に当たり、懐かしい故郷に思いを馳せながら、その余りの厳しさに血と汗と涙の中での苦闘の姿がこの手記の中には事細かに記述されていて、人の心を打つのである。
 したがって、誌史の編集上、ありきたりの文にまとめるよりも、この記録を出来るだけ原文のまま紹介する事が、何よりも当時を物語るにふさわしいと考えたので、取り上げる事とした。
 北海道の開拓には多くの内地人が温暖な故郷を離れ、先祖の歴史の地をあとに渡道しなければ、狭い国土では生きてゆけない時代背景があった事も見逃せない事実だ。
 人は皆、まず食べ物を確保しなければ生きてゆけないのであるが、その人達が明治になって、武家制度の廃止やら廃藩置県と一処に大改革の嵐の中で、農家の2.3男対策上も狭い耕作地の中で細々と暮らしていた様子などが、手にとるように紹介され、読者を納得させるものがある。
 それよりも、広漠たる北海道の大地に雄飛して5年間、開拓の鍬をふるえば、5町歩(約5ヘクタール)という大面積が自分の土地になる。 全く夢のような話しだが、それが現実になった時の感激、寒さや苦労はもとより、一大決心して来たものの、そこには予想もしない障害が待ち受けていたに違いない。
 それらの様子やら、開拓が進むにつれて毎年迎える正月の姿が、去年よりも今年は向上する喜び、楽しみ、また開拓地が広がって農耕地が増えるにしたがって、更に一段の工場を求めて努力した姿が浮き彫りにされている。

 やがて5年後、辛苦の開墾が漸く道庁の指示通り検定を終わって、自分の名義に登記された時の喜びが手に取るようにわかる。
 更に当時としては、大規模な営農を行うには、人力のみではなく馬力を使うことが北海道農法だと着目し、高価な馬を取得することに努力して小馬を飼ったその喜びもよく分かる。
 これから使い馴らして、古農まで大きく羽ばたこうという域に達するまでの数年間の記録が、開拓小屋の暗いカンテラの火影のもとで、よくぞ詳細にわたって記録されたことに、敬意を表すると供に文学的にも大変意義深い記録としてお勧めしたいと思う。

 
  第1節 遠い蝦夷地への思い
     
一、 日清戦争奇跡の勝利

 明治27・8年の日清戦争は、何と言ってもこの頃の日本にとっては大きな国難というべきであった。
 何しろ、敵とする清国は人口において4億万人、陸軍の兵力は10万といわれ、また海軍においても一等戦艦の「定遠」 「鎮遠」は3千余トンという大鑑であるのに、日本は国民4千万人、陸軍の兵力は1万3千人、軍艦がその頃ようやく鋼鉄船ができたといっても、僅かに千2百トンの小艦であった。 殊に「赤城」 等はトン数において600トンという、おはなしにもならない貧弱なものであった。
 そのような状態で戦ったのだから、世界の関心がこの東洋に注目したのは当然のことであった。 見方によっては、日本の行動が 「何だ気でも狂ったのか」 と批判されたのも無理からぬことであった。
 それが一朝戦ってみると連戦連勝、遂に大国清国を降伏させたのである。 そして朝鮮の独立、台湾並びに遼東半島等占領地の割譲と権益を認めさせ、賠償金2億2千万テールを払わせて、一躍世界に「日本」あることを知らしめたのだが、さて、国内では戦勝気分がいやが上にも沸き上がって、国民の気持ちもやや有頂天になっていた。
 何しろ、国の通貨が1億2千万円しかないところに2億テール、日本貨幣にして2億4千万円の大金が流入したのである。 したがって物価は上がるし、世間がざわめいたのも当然のことであった。


二、北海道移住の動機

 ところで、この頃の農民がつくる米も値段が上がるに伴って、肥料代も上がるし、何だかんだと人が騒いで派手になる。 何も知らぬ子供や若者達は凱旋祝いの花火大会や祝賀会の騒ぎ等を見て踊り廻るのだが、一家の主人にはなかなか楽でないことがあったのである。
 というのは、米作りの1反歩(10アール)の収穫が2石(約300キログラム)から2石・3斗(約330キログラム)程度であり、尾張の国地方(愛知県)では平均して年貢米(地主から耕作する土地を借りる場合、借り賃代わりに納める現物の米のこと)が1反当たり1石(150キログラム)、肥料代が米に換算して6・7斗(90キログラム〜100キログラム)かかる。 年貢米の1石は1割込みになるから1石1斗(165キログラム)、肥料代と年貢米で1石8斗(270キログラム)かかるから、1反歩のお米をつくっても豊作の年で4・5斗(約70キログラム)のお米が手取りになる位で、裏作物によって収穫される麦類・豆類によって、一年の生活をようやく支えなければならず、主人たる者の苦しみも並大抵のものではなかったのである。


三、移住の時代背景
 尾張の国(愛知県)東春日井郡村中村(現在の東春日井村)の百姓、小川清三郎の一家は妻・ひさとの間に男3人、女2人の子持ち。 家族7人で耕地は田7反歩、畑1反8畝、併せて8反8畝歩だが、そのうち自分の所有地は田1反歩と畑6畝の併せて2反歩で、他の6反8畝は小作地であった。
 これでこの頃の農民の立場からいうと、最下級ともいえない。 組の寄附金等についても土地持ちがものを言って、小川家でも下級ではすまない。 何につけても、2反歩の所有地がものを言うのである。 ここの5軒組ではこれだけの土地を持っている者がいないので、何事においても代表にさせられるのである。
 毎年、田植えや蒔き付けには相当な期待をかけるのだが、秋になって収穫して見ては、なかなか思うように行かないのだ。 相当に考えなければ、年末が迫るとじっとしてはpれず、年によっては持地の一部を担保にして、村で黄金を持っている金貸しから15円か20円位の金を借りてやりくりせねば、年の瀬が越せない事も近年でてきていたのである。
 何しろ働き手といっても、夫婦だけで5人の子供のうち姉と長男の私(清一郎)は小学校へ通っている位だから手助けにはならない。 こんな事だから2人が働いても働いても年々喰い込むことが多く、一年の決算で余剰金が出ることなど恐らくなかったのである。 ややむすると一度借りた借金のため、担保の土地を手放さなければならない。 こんなことを繰り返しているうちに、戦争が済んで一年半ばかり過ぎた。


四、松浦清五郎の凱旋祝い

 明治29年の秋になって、隣村に松浦清五郎という若者がいた。 私(清一郎)の従兄弟にあたるが、日清戦争に現役で出征し、終戦と同時に凱旋(戦争で勝って帰還すること) 除隊をしていたが、このたび従軍兵士の論功行賞が決まって勲章や御下賜金(天皇陛下からいただいたお金のこと)をいただき、その祝いをするからと父清三郎が招かれたのである。
 清三郎も祝儀を持って祝いの席に列した。
 「今日は勲章のお祝いでおめでとうございます。 遠慮無くよばれて来たがな」と挨拶すると、松浦の兄が来て、「これはこれはようおいでやした」。何しろ弟が命がけで戦争に出て無事凱旋して喜んでおりましたところ、このたび天皇陛下から勲章やお金をいただいたので、一口祝い酒を呑んでもらおうかと思って・・・」 と挨拶をする。 弟の清五郎も出て挨拶を交わす。 燐家の人や親類の人等で気のおけない12・3人のお客様が揃って、そこで床の間に飾ってある勲章の披露をするのであった。
 勲章は勲八等瑞宝章で、お金は35円である。
 いよいよ酒宴が始まって、最初の中は戦争の話しに花が咲き、皆が酔い心地になって、ひとまず宴会の席は閉じられた。
 あとはその頃の農家お決まりの農家の生活の苦しい話しが始まった。 清五郎が「私も今度はどうしても嬶をもらって分家をして、百姓せねばならぬが、分家して百姓したからといって、元より自分の土地はなし、兄貴の小作地を分けて貰っても3反や4反の小作では食ってゆける見込みはない。 それに兄貴から小作地を分けて取れば兄貴も困ると思う。 いっそのこと明年は北海道の屯田兵が募られるそうだから兵隊ついでに志願して北海道へ行こうかと思う・・」
 居合わす者が口を揃えるようにして 「屯田兵に行くとどの様な待遇になるのかね」。 清五郎は 「まず屯田兵は家族5人まで3年間、扶持米がもらえる。 それに菜料と戸主に給料がもらえる。 また土地が5町歩と家屋や農具・家具と生活できるよう一切の道具がもらえる。 そこで戸主は兵隊の勤めに出て、家族は土地の開墾をするのだ」 と説明する。
 一同は 「清五郎さんはいいなぁ。兵隊で体は丈夫だし、北海道で熊が出てもチャンチャン(清国の兵隊)を撃った手で撃てば何でもない」 と言いながら嘆息する。 「わしが屯田兵に行ったら、向こうの事をよく調べて知らせるから、皆も移住して来なさいや」 と清五郎が言うと 「そして貰えれば有り難い」 と皆が言う。
 また一同が 「こんなに米を作りながら米もろくに食えず、麦飯ばかり食って働いて、地主にお米をとられながらヘイコラ、ヘイコラしているのはバカバカしくて仕様がないがな。 清五郎の母・リキがそこへ出てきて、 「清五郎に嫁を貰っても屯田兵に行くには家族が足らぬので私もついて行くがな」 と言う。 一同が 「婆さんもよい元気だなぁ」 という。 この時はこんな話しで、夕方になって皆がそれぞれ家路についた。


五、松浦の渡道

 父・清三郎はその後、松浦の屯田兵願の手続きをする事や、また志願が採用になっていよいよ出発する事になるまでに約8ヶ月間は、幾度も幾度も行ったりして北海道の話しを聞いていろいろ研究していた。 そうしてこの時分、既に父の心の中では北海道雄飛の決心が出来ていたのである。 
 次の年(明治30年6月)、松浦清五郎は屯田兵として前年の暮れに迎えた妻と、妻の弟を養子にし、母と4人の家族で北見国湧別屯田兵として渡道することになった。
 清五郎を送り出して名古屋で別れる時に、父清三郎は「どうしても度々手紙をおくれ。 私も清一郎が一年一年と大きくなって北海道へ行って山を開くことも手伝いようになるから、来年か明後年はきっと行くからたのむ」 と、くれぐれも頼んで別れたのであった。
 屯田兵の北見入りは、まず九州方面から四国・中国と順々に乗せた武州丸という船が、尾張地方の募集員(屯田兵員)を知多の武豊港で乗船させ、また順に関東地方の募集兵員を次々乗船させ、総勢200戸の人員を明治30年、屯田兵として湧別に上陸させ、4中隊と5中隊を各々1区・2区・3区と駐屯させたが、その年の6月で駐屯後の第一信が出され、愛知の清三郎のところへは7月中旬に着いた。
  拝  啓
  私等は道中無事で、6月18日に湧別へ上陸致し候。 家はちゃんと建っ
 ており、きちんと宅地割がしてあって、6戸毎に家と風呂場があり、風呂
 組と称し交替で風呂を沸かしては入浴することに有之候。 木が沢山有之、
 囲炉裏にも大きな木を焚き居り候。
  宅地は6反づつ、これより段々割って与えられるとの事に候。 何れくわ
 しい事は追々とお知らせ申候。 取不敢御一報申上げ候。   草々
  明治31年7月3日
    北海道紋別郡湧別村
             5中隊  3区  松浦 清五郎
 小川清三郎様

 小川の家では、この手紙を見て北海道から手紙が届いたと、まるで外国からでも来たように珍しがったものだ。
 あの人も、この人も北海道へ行きたい希望はあっても、いざどうするかということになると、なかなか決心がつかぬもの。 ましてや北海道と言えば蝦夷が島という観念が頭から洗いきれていないこの頃のことである。


六、当時の本土の教育

 その上、ちょっと難しい手紙を書いたり読んだり出来る人は、地域では幾人もいない。 小学校が4ヶ年、学科も至って簡単で、読本が1ヶ年に上・下2冊、習字手本もその通り。 算数は珠算によって加減乗除を教えられた。 算用数字といって横書数字を教えられると共に、先生の考えによって極やさしく、これも加減乗除を教えられる。 村中村の小学校へ明治29年から愛知県立師範学校第1回卒業生の服部先生が赴任されて校長になり、新しく体操を教えられるので、学校に近いところで働いている農夫は、体操が始まると近寄って来て、珍しげに見ているという有様である。
 この時代の農家の親父連中にはちょっと難しい手紙を書いたり読んだりは出来ない筈だ。


七、移住への心の準備

 明治25・6年から北海道の八雲に、元尾張の殿様徳川候が農場を開放して、愛知県下から移住民団体を募集されたことも、日清戦争が終わった頃大いに行われ、思い切ってこの農場に移住させ、1・2年過ぎた体験者を郷里(愛知県)に派遣して募集係として盛んに募集運動がされるところへ、更に屯田兵志願の話しが各所にある様になったので、3人寄れば北海道の話しで持ちきりである。 ちょっとその時分の話しを書いてみると、
 ・北海道はとても広いところだそうだ。
 ・屯田兵に志願をして検査が通れば、家族全部がお客様のようにして連れて行かれ、家や道具の一切が貰
  える。
 ・土地は5町歩。 良い木の生えたところを貰って開いて、伍長さんや軍曹さんになると下士官給与地として
  また土地が貰える。
 ・畑にすると肥料も何も入れないで、麦でも何でもとれるそうだ。
 ・また、移住民は名古屋から船賃が1人4円50銭の3割引、荷物は1人3個まで無料、北海道で汽車に乗る
  場合は無料。
 ・行ってみてから自分でよい土地を探して道庁へ願い出ると5町歩貸し下げになり、これを5ヶ年で開墾し、成
  功検査が通ると、道庁から開いた者に対しその土地が付与される。 直ちに登記をすると永久に時分の土
  地になる。
 ・分家をする者があれば、願い出ればまた貸し下げられる。
 全くありがたいことだ。 こんな狭苦しいところで、3反や5反の小作をして年貢米と肥料に米を取られてしまい、屑米をすすって、地主から常に頭を押えつけられているよりも、皆が北海道へ行って地主に鼻をあかしてやりたいなぁ」 等々、寄るとさわると北海道の話しばかり。


八、屑米の雑炊

 ここで、屑米の雑炊の話しをちょっと参考までに記しておこう。
 前に書いたように、1反歩の収穫が2石2斗(330キログラム)として、年貢が1石1斗(1割込み)の米作りがなかなか大変だ。 普通、収穫した米を二度も選別して屑米を取り去り、米粒の揃ったものばかりで1俵の俵が4斗5升(60キログラム)入りである。
 その俵を二重包装してきれいに毛ずりした縄で、たて十字の横5ヶ所くくり包装をするのだが、この毛ずり縄をなうことが大変で、今のように製縄機があるわけではないから、農家の子供が成人するにしたがって、この毛ずり縄がなえるようになれば一人前で、秋になって夜が長くなるにつれて、年貢米の支度のため新藁で俵編み・縄ないで、どこの家でも大多忙であった。
 こんな具合で、良いお米は年貢米と肥料代(肥料はその頃、科学肥料がないので北海道の魚粕)に出した。 残りは殆んど屑米7分、良いお米は3分で正月用とお客様用になる。 そのような意味から言っても、米づくりでありながら、麦飯と屑米との雑炊が常食であったことは、この頃の小作百姓の食生活の常識であった。 麦飯の麦は、裏作を作って収穫したもので、1反から2俵(120キログラム)から3俵(180キログラム)程度の収穫であった。
 こういう時代に北海道で開墾すれば、麦でも何でも肥料を使わずに獲れて、獲れたものは全部自分のものになるという話は、百姓の耳には特に羨ましく響いたに違いない。


九、再三の誘い

 この頃の役場員で、戸長をはじめ役場に勤めている人は、何れも地価600円以上の所有者、公民権のある人ばかりで、あまり北海道熱が高まるので県庁から達せられた 「北海道移住奨励書」 を役場で封じた位で、地主は盛んになる北海道移住熱をやや恐れていたことも事実であった。
 やがて清五郎からまた便りが来た。
 内容は明治31年中に宅地6反(60アール)のうち畑にするところは開墾して、野菜類等を蒔いてみたが、もはや時期が遅かったので充分獲れなかった事やら、給与地には直径4尺もあるヤチダモという木があること、また一里(4キロメートル)ほど離れてはいるが 「猿澗湖」という湖があり、その入江に行って蚊帳で作った網で魚がいくらでも獲れるというようなことも書いてある。
 手紙が来る毎に、北海道へ来るなら少し遠いけれども、北見へ来てくれれば充分お世話するし、殖民地(周辺未開地のこと)の方にまだまだ道庁からもらえる土地もあるし、よい土地が欲しければ、既に貸下げしている人の土地を譲り受ければ、安い金で譲り受けられるから、そのお世話もするから是非とも北見に来るようにということ。 また一年一年と土地を手に入れるに難しくなるから早い方がよいこと等の手紙が来る。
 隣村から一昨年、徳川農場へ移住した高橋という男が、明治31年の春早々から、こざっぱり(あかぬけした)した和服に革の肩掛けカバンをかけて、移住民勧誘員といった格好で親類の家に泊まっていて、村々を勧誘して歩いていたが、その頃の徳川農場の方針は、入場者には5町歩の新山(開墾していない未開の土地のこと)を割り当て、全部開墾すると2町5反を所有させ、2町5反は後5ヶ年間毎年反当2円の負担により5年後これを完了した者には、残りの2町5反の土地の所有権を付与する。 その代わりに、移住するについての一切の手続きを全部農場でせわするが、出来れば5戸以上の団体を希望するとの事である。
 清三郎一家は、北海道行きは決意したものの、北見へ行くか、徳川農場へ行くかと考え迷う日が毎日続いたのである。


一○、北見行きへの決定

 徳川農場の方は、船賃位あればあとは農場で貸してくれるし、また一切の世話をしてくれるのだが、北見の方へ行くとすれば、距離も遠いから船賃も多くかかるし、行ってから土地を手に入れるについても、ある程度の資本がいる。
 しかし小川の家はまだ整理をすれば、土地も1反以上は売れる。 何かかにか金に換えれば、300円位の金がまとまるので、家族6人が渡航費を使っても、まだ安い土地1戸分くらい譲り受けられぬことはない。 それに北見の松浦清五郎からは、何とかして北見に来るようにせよ、来れば充分お世話をすると言って来るので、色々と考えた結果、北見行きと決心したのであった。
 湧別屯田では、松浦らの30年の200戸と次年度31年の200戸、合計400戸を、4個中隊に200戸、5中隊に200戸の駐屯が整い、中央に本部を置き、戸主は毎日訓練に勤務し、家族は与えられた土地を開墾しつつあった。
 何れの兵の家も移住当時のこととて、内地で親類縁者と別れて来ているだけに、同じ県から来ている人同志が恋しがり、親類のような交際をする。 こんな関係から、従兄弟の小川が北海道行きを決意したとなると、清五郎としてはどうしても自分の近くに招き寄せたいのが人情として自然であろう。


  topへ  第2節 渡  道  一、渡道の準備

 いよいよ北見へ行くことに決心したことを松浦に通知をすると、何よりも一番喜んだのは叔母のリキであった。 あれやこれやと養子分となった嫁の弟に頼んで、来道することについての必要な道具やら注意事項を書かせては通信してよこすのである。 その頃、愛知県(尾張)と北見の間の手紙は早くても12・3日、ちょっと遅れると17・8日かかることも珍しくなかった。
 明治31年の夏になって、年末の整理を終わってから、いよいよ来年は北海道に行くと発表すると、僅かな土地を売れという者、家屋敷を売れという者、屋敷林の竹林を売れという者達がひっきりなしにつめかけて、返答に困る位だった。 その中にも小作権を売れという者がそちらこちらから詰めかけて、いかに耕作地が不足しているかということが露呈される。 それくらい耕地が不足であり、農家の生活が窮屈であるにかかわらず、この年に北海道に行くという者は150戸ばかりの村で小川1戸きりであった。
 明けて明治32年になり、月日の進むにつれて清三郎は移住についての役場や郡役場の手続きをして、割引証の交付等も受けた。


二、出  発

 小樽から北見沿岸航路の航海は、北海道庁命令で毎年4月1日から開始されるのである。 それ以前は流氷が停滞し、航行不能の場合が多かった。 4月半ばまでに荷物12個の荷造りをして、16日に名古屋の回漕点へ親戚の者が荷車に積んで3人がかりで曳き出してくれて発送した。
 次いで19日、祖先以来住み馴れた故郷をあとにして出発した。
 清三郎と長男の私は、草鞋を履いて徒歩で往き、母や子供等3人は人力車で名古屋に出た。 北海道に行っている清五郎の兄が名古屋で車の製造をしているので、その夜はそこでご厄介になった。
 幼い子ども等は、人力車に乗ることが嬉しくてただ嬉々としていたが、母のひさは、さすがに隣近所の人達と別れることの悲しさで涙にくれていた。
 19日の夜から20日まで一昼夜余りの間、名古屋市内の繁華街を見物して、21日午後1時、名古屋発で伊勢の四日市まで汽車で行き、その夜は 「帯屋」 という旅館に泊まった。 21日には、その日出帆する日本郵船会社・横浜行きの 「近江丸」 に乗船した。


三、航  海

 出帆は午後1時。 伊勢湾を出て遠州灘を通り、22日午前6時、横浜港に入港した。 この船中で、伊勢の白子から函館に出稼ぎするという、40歳位の元気な男と、今1人、19歳で中学を卒業して、これも函館の知己を訪ねて行くという。 津市の酒造業者の2男という青年とに知り合って、共に函館までの仲間ができた。
 横浜に入港してみると、直ちに乗り替える筈の船は1時間前に出帆したとのこと。 やむを得ず中4日間逗留せねばならぬので、上陸と共に蓮莢町の 「若屋」 に宿をとった。 横浜は何といっても日本一の開港場で、外国人の居留地及び港湾の整備その他の文化設備等を4日間でひと通り見ることができた。
 26日は小樽行きの 「山城丸」 に乗船した。 航海1日で陸前の萩の浜に寄港し、停泊4時間で出帆、函館に向かった。
 28日午後9時、 「山城丸」 は函館埠頭に停泊し、四日市以来親しみ合って航海を続けて来た2人の人は別れの挨拶をして、艀に迎えられて去って行った。 ここは北海道の関門で日本五開港場の一つである。 一定の荷揚げをしたりして停泊一夜、明けて29日朝まだ薄暗いうちに出帆した。
 いよいよこれから北海道の沿岸航海である。 今までは日本の南岸太平洋の航海であったが、これからは日本海の航海である。 春とはいえ日本海を北へ北へと向かって行くにしたがって、船中にありながら寒くなって来たので、手荷物の中から各自一枚ずつ取り出して重ね着をした。
 2千6百トンの 「山城丸」 も小樽港に近づく頃、次第に波が高くなり、船体の動揺も大きくなって来たので、一同は船室に寝たきりでうとうとしていること3・4時間。 人々が 「小樽へ来た、小樽へ来た」 騒がしいのでちょっと甲板に出てみると、港内を埠頭に向かって 徐行しつつあった。

 下船の準備も整い、艀にゆられて上陸すると、そこには役人らしい人がいて、 「移住民は居ないか」と呼びかけられるので 「私たち移住民です」 「ちょっとこちらへ」 と、言われるままに北海道庁出張所移住民取扱事務所に呼び込まれ、移住許可証やら割引証を見てから添書を書いてくれて 「越中屋」に泊まる様に指示された。
 北見行きの船は、5月6日に出帆する 「都丸」だから、それまで逗留せねばならぬ。 万が一宿等において困る事があったら当所に相談に来ること、また6人とも体に異常はないか、旅費はあるか等、大変親切な取り扱いを受けたので、旅に出て淋しい未開の地に行く身にとって、家族一同親にでも逢ったような気持ちであった。
 小樽は横浜ほど見る所がなく、殊に5日間の逗留は長く感じられた。
その頃、小樽から札幌を経て旭川に至る鉄道が開通したばかりで、汽車といっても内地の東海道線で見るような汽車ではなく、小樽市を通る線路も、内地の線路で見るような揃った小砂利ではなく、岩のかけらみたいなものが敷かれ、何となく未開地気分のする市街や鉄道を見る思いがした。 驚いたことは、湾内岸辺で曳き網をして非常に沢山のチカという魚が獲れていることを目のあたりに見て、やっぱり北海道の魚の豊富であることを思わせた。 チカという魚は、漁をする人に聞いてその名が分かった。 宿の膳にも移住民の割引宿泊にかかわらず毎食よい魚をつけてくれるのであった。
 5月6日は朝の食事も早々に済ませて、午前6時に乗船した。 「都丸」 は1千7百トンの船で、北海道庁の命令で北見沿岸を就航する船であった。 子供等もいよいよ出帆するとなると 「今度上陸するところは湧別の屯田の叔母さんのところだね」 と言って、大分船に飽きたらしい事を言う。 小樽の出帆は朝乗船したのに漸く午後になってしまった。
 その夜が暮れて、次の朝明るくなると、左前方の海上に白い雲をいただいた高山が見え、これが利尻島であり、利尻富士が美しく見えた。 間もなく稚内が近くなり、2時間の後には入港して荷役の後、直ちに出帆した。 今度はオホーツク海沿岸の航海で、枝幸・雄武・紋別・湧別の順で停まるのである。 各地とも、それぞれ停泊しては荷揚げをして出帆する。 この船中で、小樽で乗船した人々の中に湧別で上陸するという人が4人あり、また網走へ行くというアイヌ人もあった。


四、湧別上陸

 5月8日午後6時少し前に船は湧別沖に停まり、ボーボーと汽笛を鳴らして艀を呼ぶ。 そのうちに岸の方から2艘の艀が勢いよく漕ぎ出して30分位で艀は本船に横付けされ、荷物を積み、その荷物の上に清三郎達上陸する人を乗せて岸部に向かって漕ぎつけるのである。
 元来この湧別という所は、何等の港があるではなし、湧別川の川口を利用して艀を使って荷揚げをし人を上陸させるのだから、少し波の高いときには艀も出られないが、清三郎等の上陸日はいたって平穏で、何の恐れもなしに上陸することが出来たのだ。
 上陸はしたものの、清五郎らしい人もおらず、夕暮れも近づいて方角も分からぬところのことで、一緒に上陸した屯田本部に近い市街地の人で、生島という人に連れられてひとまず、「細田旅館」という駅逓旅館に泊まる事にした。 駅堤旅館というのは、その頃、北海道庁が補助金を与えて郵政業務と旅行者のために宿泊の便を図って経営にあたらせ、郵便物運送用の馬数頭と牧野も付与された官営の施設であった。
 宿に入って間もなく、軍服姿の清五郎が訪ねて来た。 この日、海岸から一里(4キロメートル)余りある清五郎の家では、清三郎の着く日が今日か明日かと思っていた矢先に、突然汽船の汽笛の音で 「それっ」 と支度をして急いで来たということであった。
 清五郎が本部の勤務から帰って一服したところで、隣近所の人々も、松浦さんの移住民の人が上陸するのだと、荷馬車の支度をしたりして、皆が揃って迎えに出たのだが、清三郎が宿に入るまでには間に合わなかったのだ。 小樽を出帆する時に電報は打ってあったのであるが、宿では夕飯の支度はしましたというので急いで夕飯を終り、15・6人の人々に迎えられて荷馬車に乗せられて、夜道を屯田兵5中隊3区の清五郎宅に向かった。

 旧暦5日の付が西の山際に傾いて、もやが樹林地帯の梢の上にボーッとかかって静寂さが身にしみる思いであった。
 ガタガタと荷馬車に揺られて湧別原野の山林は薄明かりの中に仄かに見える。 そこらにただ一行の者の話し合う声だけが聞こえるだけである。 1時間余りの夜道で、どこをどう廻って来たか、そんな事は一切分からないが、低い平屋が整頓よく点々とある所に出ると、ここが5中隊3区で70戸あるとの説明を聞く。
 その中2本の大きい丸太の門柱の間に入って行く。 ここだと言われて馬車から降りれば 「オ丶来たか」 と懐かしい叔母の声。 屋内に入ると囲炉裏があって、焚き火が音をたてて燃えている。 何が何やら奉公も分からぬ。 久し振りの挨拶もそこそこで、船旅の疲れもあって、その夜は無我夢中で眠りに就いた。
 次の朝は、うらうらと晴れわたった好天気。 外へ出て顔を洗って、初めて方位も分かる。
 朝のご飯を済ませて、戸主清五郎は本部の勤務に出てゆき、後は叔母その他の人々と3年ぶりの語り合い。 叔母は 「私等が来てから3年になる。 あの頃は内地からも、大分北海道へ来たいと言った人もあったが、本当に来た人はお前等ばかりだ。 内地も大分暮らしよくなったかね」 と尋ねる。 清三郎が 「別に暮らしよくなったわけではないが、なかなか北海道へ来るという者は無いものだ」。 こんな話しから何某のこと、何氏の話とそれからそれへと話が尽きない。
 屯田は各県からの集まりだから、人によっては言葉が分からないことがあり、言葉の解釈を誤っては笑って済まされない事件もあるなど、話しは一日中尽きない。
 次の日は清五郎が在宅して第二給与地へ行くというので、ついて行って見て素晴らしい原始林に圧倒される思いであった。 屯田兵の第二給与地といっても、原野が当った人もあり、樹林が当った人もありで、早く畑にするには原野がよいわけだが、清五郎に当てられたのはこの樹林である。
 5月の初旬でまだ葉を出していない広葉樹が林立して、木の下には「水芭蕉」とかいう草が四郎大きな花葉を出し、福寿草がいたるところに生えている。
 片隅の方で3反ばかり畑にして、木は5、6反位伐ってはあるが、他は全くの原始林である。 2日ばかり過ぎて、回漕店から荷捌きができたから取りに来いと通知が来たので、清五郎と一緒に荷馬車を仕立てて取りに行った。 その頃の湧別海岸は、町というも名ばかり。 戸数僅か30戸ばかりで、戸長役場があり、郵便局、回漕店、ただ一つの教室の小学校、巡査駐在所、お寺等が連なっていた。
 午後1時頃になって、釣り舟が帰って来たとのことで海岸に行ってみると、川崎舟に沖合5,6里(20〜25キロメートル)の所の流し糸にかかった魚だといって、オヒョウ・タラバ蟹・毛蟹・サメ等を揚げているにを見ることができた。 その中で一番大きいのが大鮃といって、鰈に似た大きいもの。 特に大きいのは幅2尺余り、長さ4尺位もある大物に全く驚かされた。

  第3節 厳しい北の大地  一、初めての畑耕し

 時は既に5月の中旬に入っている。
 清五郎の肝入りで、原野の方で畑を4反ばかり借りて置いてくれたので、とりあえず耕して蒔付けねばならない。
 清五郎を先頭に、養子(当時15歳)、清三郎と私(17歳)等、みな手鍬をかついで出てゆく。 片隅の方から一鍬一鍬と耕してゆく。 後から清五郎の妻が弁当を持って来て手伝いをする。 1日の労働によって1反5畝ほどが耕される。 こんなことで6,7日かかって裸麦や馬鈴薯を蒔付けた。
 この蒔付けしている時に、私が街道筋の家に水を御馳走になりに行くと、そこへ魚屋がお鮃を天秤をかついで来ており、内地の人は魚が珍しいから買ってくれと言う。 値段を聞くと約幅1尺5寸、長さ2尺5寸と思われるもので13銭だが11銭にまけるというので、その安さに驚いて買う気になり、11銭払ってつるして歩こうとすると、なかなか重くて下げられない。 そこで考えて、エラのところから口の中に縄を通して、ずるずると畑までようやく引きずって来た。 清五郎が 「いくらで買ったか」 と言うので 「11銭だ」 というと 「それは高い。 8銭位が正当だ。相場が分からぬので買いかぶった」 と聞かされてまた驚いた。
 この頃の湧別村は屯田兵の400戸に移住民が130戸ばかり。 漁場の人を合わせて5百5,60戸位である。 内地の一番古い人で徳弘正輝という人が、高知県から明治24年に内地人の数人しかいない頃、旭川方面から山道を分けて北見入りをする途中、飢餓のため行き倒れたところをアイヌの女性に助けられ、湧別まで来て古潭(今の中湧別)即ちアイヌ部落に住みつき、アイヌの娘を妻にして、共に生活していた。
 湧別開拓の先駆者であった。

 その後、屯田兵の入植に伴って、将来の発展を知り高知県を主として各府県の団体入植が急速に増えたのであった。 これは、主に屯田兵村より以北海岸に沿った地帯である。
 湧別原野が道庁の手で区画測量されたのが徳弘の入地当時で、屯田の用地、殖民地の区画割等が出来上がるにも、徳弘の居住地30町歩は、同氏のために割り残して与えられたと言われている。
 当所、私等が食糧として、春とか黍とか馬鈴薯の少量を買い入れるにも、その所有者を探し当てるのがなかなかの苦心であったが、こうした人達に当座の畑を貸し与え、種子を供給して多くの入植者の力となった徳弘正輝の協力を忘れてはならないだろう。
 その頃の食糧として、麦1俵1円5,60銭、稲黍1俵1円、馬鈴薯1俵30銭位であった。 どこの家でもまだ開墾地が少なく、自家用食糧も余分には収穫していなかった。
 同じ北海道でも渡島は徳川時代、松前は松前候の居城があり、蝦夷の殿様として北海道全道の殿様であった位だから開拓も早かったが、次いで石狩の平野は、現在では有数の米産地でありながらも、その開拓は明治35,6年頃からである。
 なんといっても北見は北蝦夷。 冬はオホーツク海の凍結する国、氷の山が押し寄せる国として根室よりも測量・区画割が遅かったのである。 北見では網走が最も早く、ここを起点として野付牛を通り湧別原野の野上を抜けて石北峠を越えて石狩の上川より旭川に至る国道の開削も、網走監獄の囚人を使って開通したのが明治24,5年との事である。


二、土地探し

 清五郎は、清三郎に協力し、とにかく早く開墾地を求める必要を強く主張する。 一度移住民が松浦方に北事が伝えられると、そこかしこから売地、即ち譲り地のある事を聞かせてくれる。 その中で、その頃から殖民地の川西という所、湧別川の西側に当たる、土地の地味肥沃と評判の地であるから、何とかして将来のため、この地域で求めることが最もよいと考えて専ら探し求めようとしたが、その殆どが貸下げ処分済の土地ばかりである。
 そのうち、高知県から北人が5,6戸分の貸下げを受けたものの、なかなか起業方法にしたがって開墾が容易でなく、1,2戸分を譲り渡してもよいとの事で、人を頼んで交渉してもらった結果、そのなかの1戸分を譲り受ける相談がまとまった。 この土地はまだ相当の樹林地。 ヤチダモの林。 土地は平坦であるが、いささか湿地である。
 この土地の方位からいうと、「東西150間(270メートル)、南北150間(270メートル)、面積1万5千坪(5ヘクタール)、明治31年の貸下許可地、開墾年限が5ヶ年。 初年度は着手小屋を作り6反歩の開墾をする。 2年度は1町2反歩、3年度は1町歩、4年度も1町歩、5年目は7反歩、残りの5反歩は薪炭林ということになり、満5ヶ年で開墾は終わるのである。
 しかし、前の地主が1人で3戸も5戸も欲張って貸下げを受けたので、人を頼んで開墾するといってもそんな人はおらず、自分の手で開くといったところで、それほど手が廻るということも出来ない事なのである。 ただ、こうやって権利を取っておいて、後から沢山移住者が来た時、譲り渡してお金にするという魂胆なのである。 しかし2年、3年と過ぎても、起業方法通りの開墾ができない時には返還を命ぜられるのである。 そればかりか、良木があって伐り取ってあるときは、その損害の賠償も合わせてさせられる。そういうことにでもなると、虻蜂とらずに終わるので、やたらにそんな山師もできないのである。
 そういうことで、やや困り気味であるところへ譲ってくれというので、一も二もなく話しはまとまり、そこで45円のお金を出して譲り受けの手続きを北海道庁へ出して、一ヶ月ばかり後に無償譲り渡しの件許可するとの指令を受けた。 但しこの許可証には条項を付して心得が付記してある。 即ち起業方法は、前貸下者の受けた条項をそのまま継承しなければならない事である。


三、茅屋に住いして

 幸いにして、6坪ばかりの着手小屋が土地の中に建てられてあったので、ひとまずその小屋に住まって、木を伐り、土地を墾すことがよいというので、松浦から手車で少しばかりの荷物を運んで、小屋の掃除をして一応住まうことにしたが、この小屋、掘っ立て小屋はもとよりであるが、屋根は笹葺きで、壁は七ツ葉といって真夏の頃、丈5尺位(約1メートル50センチ)に伸びて、その葉が七つに切れている草がある。 その草で囲ってあるが、前年の明治31年の大洪水で湧別川が氾濫して約3尺(1メートル位)の高さまで泥が付着して、一見人が住み得るような感じでもないが、それかといって他に住むべき家はなし、内地から来る時の荷物の包み、筵やゴザを敷いて、7月で樹木の水気が上がり切っているっから、ヤチダモの木の皮を4尺位(1メートル20センチ)を上部と下部をのこぎりで切り廻し、一ヶ所縦にまさかりでコツコツと傷をつける。 そこから順にはいで行くと皮が一枚とれる。 直径1尺の木で幅3尺のものがとれる。 直径2尺もある木から、幅6尺のものができるから、こういうものを取って数枚ずつ重ねては、1,2昼夜上から重い木をのせておいて、やや乾いてきて巻かなくなったものを草壁の内部に当てると、泥まみれの草壁よりもよほどさっぱりした。
 入口には筵を下げて寝ることにして、支度ができてから母や弟妹を連れて来てみると、弟妹はただ呆然と立ち、母は陰の方でしくしく泣いている。 芝居で見る乞食がいる小屋のようなのだから、無理もない。 古井戸の井戸ざらえもして水が汲めるようになり、とにかくこの小屋で一夜を明かし、次の日には内地から持って来た使い糸を一把ずつ手土産に持って、隣家4戸を挨拶して廻った。 隣家といっても近い家で150間(約270メートル)、遠い家は300間(約550メートル)もある。
 どの家に行っても、まだ土台付の家はないが、2年目、3年目の家は同じ小屋でも、ちょっと綺麗な感じがする。 というのは、屋根は1・2年の間に取入れした作物の茎類で葺き、壁は同じ草壁でも、原野から芦を刈ってきて皮をとり、これを少しずつ編みつけたりして何となくよい感じを与えるように造ってある。
 挨拶に廻ると皆それぞれに 「私等も来た年には、何も野菜一つなしに本当に困ったから、良いものはないがあるものはお互いに分け合って間に合わせるから」 と真に親切な言葉を受けて、人の心の温かさにホロリとさせられる。
 親切な人は時折、葱やら菜葉を持って来て下さる人もあり、来たついでにお互いに渡道した動機だとか、途中行き違いがあって思わぬ難儀をした事などを語り合うのであった。

四、開拓の第一歩

 ちょっと隣りに行こうとしても、大きな木が転がっているのをまたがって、両側から生え下った熊笹をふり分けながら、朝露の時は腰から下がびしょ濡れになる。 こんな道を隣の人がちょっと来てくれても殊のほか嬉しいものであった。
 いよいよこれからは北海道に来て真に新しい生活の第一歩を踏み出すのだ。 小屋の中にも山の木の手頃なのを持ってきて棚をつくり、囲炉裏の周りを少しでもきれいに整えてゆく。
 昔、日本の神々が国土の経営をなされた歴史を読んで、その風俗をうかがい知り、環境を創造するとき、山野の草木によって衣食住を満たされた殊安堵を思い浮かべては、この小屋住まいのなん等飾り気のない仙境生活の気持ちも察して、前途に何かと光明が待っているような希望が起こって来るのである。
 そうだ!必ず近い将来にはこの山の木もなくなり、広々とした農耕地として豊かな生産をあげることができるようになるのである。 臆れ気のする時には、こんな殊を想起して勇気を奮い起こすのであった。


五、涙の開墾

 そうだ!第一にはこの木を伐り、土地を開墾して、10年後には立派な畑にして、麦も黍も馬鈴薯もでき得るものは極力つくり上げてゆけば、穀類を山と積む様になるであろう。 まず千里の道も一歩から始まる。 一本の木を伐り、一鍬の土を耕すことによって、5町歩の山が末には畑になるのだ。 まず第一に木を伐らねばならぬ。 
 北海道では木を伐ることを予想して、鋸は刃渡り1尺2寸を最大として3丁ばかり、鉞も大小2丁ほどを持って来たのだ。 「これさえあれば」 と、その鋸、木を切りかける。 何でも鋸さえあれば木は切れる。 鉞さえあれば木は割れるものと簡単に思っていたのは、大きな誤りであった。
 内地用の鋸を持って木を切り始め、直径1尺5寸位のヤチダモの木を5寸ばかり切り込んだ。 ところが鋸はだんだん後へも先へも動かなくなってしまった。 こんなことでどうして、この鬱蒼たる立木を刈り去って下の土を畑にすることができるだろうか。 一通りや二通りの木ではない。 10本や50本伐ったところで伐ったように見えない気もする。
 考えて考えて考えた揚句、思いついたのは、部落の人で木伐りについては内地から経験のある人で鋸直しの名人がいると、隣の人から聞いた事を思い出して、とりあえずその人のところへ行って鋸を見てもらい、木伐りの話も聞いて来ようと父に相談すると、父も 「伐れないと言うて伐らないで置くわけにはいかない。 何がなんでも木は伐らねばならぬ。 是非行って見てもらうがよい」 と言う。
 その小父さんのところへ行って事情を話すと、早速相談に乗ってくれて、鋸を見て 「この鋸はよい鋸だ。 しかしこれは内地の細い木を伐る鋸だ。 北海道のような質の堅い、太い、殊に冬になると木の芯まで凍ってしまった木を切るには適当しない」 といろいろ説明してくれる。 「内地の鋸でも土佐鋸とか会津鋸とかいう鋸は分も厚いから、目をすり込むにはちょっと骨が折れるが、そのかわり出来た鋸は長持ちする。 堅い木でも鋸が負けない。」 素人が使っても使い易いことや狂いが出ないこと等を話してくれた。
 また鉞も直してくれた。 早速持ち帰って木を伐ってみると、やはり通りがよくて、スースーと通り、みるみるうちに一コロ切った。 ああ、何といっても道具の具合一つでどんな仕事もやり易いと、この時感じ入ったのである。
 父が思わず声を出して 「切れるかな」 と言うので、私も 「切れる、切れる!」 と思わず弾みがついた声を出した。
 いい道具を持って、人間心をこめて仕事にあたれば、どんな困難な仕事でも成し遂げられることが分ったが、しかしこの鋸の目の摺り方・揃え方はやはり、内地の純農夫が一朝一夕に覚えられることではない。 父は私に 「お前の若い腕で小父さんの教えを受けて、鋸の1丁や2丁は無駄にしても覚えなければ、この沢山の木を伐り開拓することはできないのだ」 と勧められ、共々親子が励まし合って努力することを決心する。 こうすることによって、それでも一本づつでも伐れば伐るだけ木は減ってゆく。 一鍬一鍬耕すだけ畑は増える。
 しかし、木を伐るには、右や左に3寸以上も曲がったり、小さい手鍬でパシャンパシャンと地歩鍬ずつ耕したところで、何反何歩ということを考えたとき、誠にその作業に貧弱さが思われて、淋しくてならない。 大きな木の株に腰かけながら、また鍬を杖にして立ってじっと林を見て、何となく胸にこみ上げて来るものがあるが、思い返して、これが北海道の原始林の開墾だととうことに気付くのである。
 私等の土地は、この辺でも一番木が太く、沢山生えている森林地帯だったのである。


六、林間生活

 毎日毎日、日中は晴れても朝夕には濃いガスで世の中がボカされて、何も見えぬ日が多い。 晴れたからとて、隣の家が見えるわけではなし、夕方暗くなると、林の中でホーホーと梟の鳴く声が樹林にこだまして筵戸を通して聞こえるのも淋しいものである。 子供達が隣に行ってみると言って出かけてみたが、笹を踏み分け、道にゴロゴロと沢山の倒れ木があり、もたもたしていると樹林の中で赤児の泣き声のような声で 「アゴウ」 「アゴウ」 と啼く声がする。 それを聞いて青くなって逃げ帰ってしまった。 あとで隣の人に聞くと、それは青鳩という鳩の声だと分かった。
 ある時のこと、父が屯田の松浦方に用事を足しに行ったあと、母が木の下へアカダモの葺を採りに行き、私と弟浅十が木の下で木を伐っていると、突然海の方から樹林の中で恐ろしい大きな声でウォーウォーと吼えるものがあり、母も私達も色を失って一目散で小屋の中に逃げ込んだ。 てっきり熊が来てこの林の中で吼えていると思って、一同ガタガタと震えていた。 夕方、父が帰って来てその話をすると、あれは吉野丸という、定期航路の汽船で、湧別へ来て艀を呼んだ汽笛の音だと分かって、安心した。
 そういえば、小樽滞在中にあんな異様な汽笛を聞いたような気もするが、この頃は樹林の中で朝夕何かと気憶れ気味で、神経が敏感になっているのである。 こんな様子で、変なことに驚いたり恐れたりすることが度々あったのである。
 全く樹林の中で木を伐っていても、また草深い中で開墾していても、そちこちに気を配り、ゆったりした気持ちではどうしても仕事ができない。 それかと言って、小屋から少し離れたところに古川のような水のある低地があって、何だか魚がいるようだと、弟の市十(10歳)と葦毛トンおしま(8歳)が細い木に糸をつけて、北海道では川でも魚が沢山釣れるという話で、持ってきた小さい針をつけて、その辺でミミズをみつけて垂らしてみると2,3寸位の見たことのない魚が釣れる。 こんな事をして遊ぶのも子供達の楽しみの一つであった。 この魚の名も人から聞くと”谷地ウグイ”といって、沼や古い川にいて、大変繁殖力のある魚だとの事を聞いた。
 この夏頃、オホーツク海で獲れる魚は鱒という魚で、一本が8銭〜10銭という安い値段であるが、渡道以来、何等の収入もないし、家財を売り払ってきあtので金はだんだん使って、今では残り少なくなり安い魚もなかなか買えないのである。


七、初の現金収入

 8月に入ると、どこの家でも麦刈りが始まって、隣の一番古い夫婦だけの家でも畑2町歩余りあり、作物の種類も多い。 麦刈りが始まる頃、小川では入地したばかりで麦刈りするところもない事が分かっているから、出面手伝いに来てくれと頼まれて、北海道の青刈りや麦焼き法を見習いかたがた4日ばかり働きに行って1日30銭で、1円20銭貰ったのが渡道以来最初の現金収入であった。
 木の伐り方、開墾の仕方等を経験ある人から聞いたり、教えられたりして、一歩一歩上手になり、一鍬一鍬畑も増えてゆくのである。


  
topへ  第4節 自然との戦い  一、湧別川の洪水

 その頃一番恐れられたのは、大きな雨が降ると湧別川が増水し氾濫して、何等堤防設備がないため、直ちに水節の川面はすぐ浸水するのであろ。 殊に昨年明治31年9月には、アイヌの話でも近年稀だというほど大きな洪水で、各移住民は入地早々の僅かな畑作物や、設備の良くない小屋の中の道具まで被害を受けて、皆こりごりしているから、雨が大降りだと油断ができぬからと注意してくれる。 ところどころに流木が引っかかって、その下が淵をつくり、曲がり曲がって海にそそぐ。 川筋があいていないから、ちょっとの雨でも氾濫する。 31年の大洪水には、屯田兵の家さえ数戸流失した位である。


二、淋しい雨の夜

 笹葺きの小屋の屋根は、少し雨が大きいと所々漏るので、夜中でも皆が起きて、カンテラ(最も原始的な当時の照明用具)の灯を点じて眠られぬ。 こんな目に逢うと、母は 「何ぼ暮らしが難しくなったとは言いながら、内地におれば家が雨漏りしたり、筵戸の中で暮らすということはない」 と子供達に繰り言をいう。 「北海道は良い所だといったのに、こんなにひどい目に逢うなら来なかった方がよかった」 と、雨漏りのする薄暗い 「カンテラ」 の灯影で目をこすりながら、コクリコクリとしている子供に愚痴を言って聞かせている。
 雨はしとしと降る。 何等そのあたりに物音も聞こえず、男といえども何とはなく気憶れがして、ごうごうと海鳴りの音を聞いておれば、今にも大きな浪が来るのではないかと、オホーツク海の荒れ狂う怒濤の音ばかりだが、この淋しさも自然に与えられたのではなく、自ら求めて得た事である。
 今にしてこの事を考え、思い出してみると、笹小屋の筵戸の中で真夜中に雨漏りを避けている時、あの華やかな秋祭りの花火の音や、美しい馬簾の事を思い出し、これからの大きな大木の伐採、鍬を揮て開墾して食糧やら経費をどうにか求め得て、家系の順調をみるのは4年先か、5年先か、希望をかけて渡道はしたが、内地にいる時に、木だからといって包丁で大根を切る様なものではなし、木を伐るにはまず鋸をつくる事からして、熟練せねばならないが、その熟練だけでも容易なることではない。
 父・清三郎も一家の中心となって、志を立てて家族を誘導して渡道して来てみれば、独りつくづく考えると全然淋しさがないでもない。 それだからといって、今来るところへ来て、笹葺きの筵戸の中に入ってしまったのだ。 自分から弱音をはくわけにはゆかぬ。
 父が一番力にするのは、なんといっても17歳の私(清一郎)である。

 私も父に協力して北海道の北の端まで来てみたものの、全く予想を裏切って、人間の最低生活に入ってしまった。 若いながらもあれこれと考えると、母や弟妹は可哀想だとも思わぬこともない。 しかしやっぱり、 来るところまで来てしまった。
 段々と顔を知り合って、あの人この人と各々移住当時の話を聞いてみると、大同小異、いろいろ多少の別があるが、どの人も皆、難儀をしているのだ。 そこで北海道へ来た者はみんな同じ事、ただこれからの努力によって良くなるものと、さほど良くならない者とに天が区別する。 自分等は、正に天の試練を受けているのである。 と、こんな事も考えられる。 心を持ち直しては、父と共に家族を励まして木を伐る、土を掘る。 譲り受けたときに、2反歩ばかりの開かれた畑があったが、これは既に人が借りて作付しており、入地以来伐って耕した畑は、9月までには3反ばかりであった。


三、5町歩の広さ

 真夏の頃、父と二人で自分の土地の中を一巡してみると、5町歩の広いこと、殆んどヤチダモの木が繁茂して、所々に桂の木の根元が四方に根を張って、直径7寸位のものが7本も8本も生い繁っているのもある。
 一方のちょっと高いところは笹の生えたところもあり、そこにはアカダモの木が生えている。 ヤチダモ林の下は一面に水がたまり、人に聞くと谷地蕗という草が生え、伸びて黄色い花を咲かせている。 親子でこんなに水が溜まったところが畑になるかしら、と心で思って、こんな時も気憶れするのである。
 この頃は、寝ても起きても、開墾のこと、木を伐ることの他は何も思っていない。 内地にいて農業をしているといっても、7反や8反の耕作で2反歩位のところに4戸も5戸も住んで、まだ竹林や桑畑まであるという誠に狭い所で暮らして来た。 頭や目で5町歩の開墾は、また密林の木を伐ることも問題が違うのである。 元よりこんなことも覚悟して来たつもりであるが、実際、現実に当ってみると、これはまた大変に想像以上で心配になるのであった。
 松浦の世話で蒔付けした裸麦の取入れをしたり、出面手伝いに行ったりして8月も過ぎた。
松浦の借りておいてくれた畑を、上陸して4日目に耕して蒔付けた麦が6俵ばかりと、馬鈴薯が20俵ばかり獲れて、どうにか食糧の準備ができて、人から懇請されて時々私は出面手伝いにも出て、時折り小遣い銭を受けては、鱒や鮭の一尾位は買い求め、母や弟妹を喜ばせることができた。 9月の末に隣の人が 「小川さん、南瓜がよくなりました。 今年はあなたも作っておられるから一つ持って来ました」 と、三つほど大きいのをくれた。 その南瓜の美味なこと、まるで栗を食うようだ。 明年こそは、どっさり南瓜を作ろうと、楽しみながらその事を予想する。 また、ある隣からは唐黍を貰って、弟(浅十)が背負って来たので、皆で分けて囲炉裏で焼いて食べた。 これまた何という美味なこと、これも同じく来年はと、大いに期待する。


四、小屋建て

 9月になると暑さはめっきり去って、1日1日と涼しさが加わって来る。 屯田の松浦も、また隣の心ある人々も「小川さんもあの小屋では冬、雪中になると困るから何かと新しく小屋を建てなさい」 と勧めてくれる。 
 色々話を聞くと、雪が3尺も4尺も降り、オホーツク海に氷の山が流れて来る頃は気温も下がり、石油さえ凍る位だから、小屋もよほど暖かくしておかないといけないとの事、色々と人々の話を聞くと恐ろしいような気もする。
 そこで10月には、ともあれ現在の小屋に続けて、10坪ばかり造り足すことにした。 林の中から適当な木を伐り出して新しい小屋を建てて、屋根や囲いは近所の人の不用な稲黍カラをもらって造った。
 内地では、木を伐ることは一生に何度という位しかない様な百姓生活をして来たので、自分の手で家とか小屋とかを建てることについては、さっぱり自信がない。 どこかに建てかけの小屋があると、わざわざ見に行って来て、これを参考にするのである。 その頃の小屋の柱は、適当な枝が同じところから二又に2本でているものを伐って来て、その又の上に桁木をのせて垂木を打ってある。 こんな事も覚えて、どうにか建てる気になった。
 ところが、水平を見ることが分からないで、土地を出来るだけ平らにして、それを基準にして土地に穴を掘って柱を立てることにした。 屋根を葺くには、隣で聞いて、部落でちょっと屋根葺きの出来る人を頼んできて、指導されながら葺くことができた。
 壁の内部は隣に習って、5,6間離れたところから10月の末の枯芦を刈ってきて、林の中で夏に乾かして取っておいた管草で細い縄をつくって、これで細かく葺簾を編んで当てたので、泥だらけの草壁にヤチダモの木の皮をあてたものよりは、遙かに立派な部屋ができた。 床には白樺の6分板を、戸には5分板を木挽する人から買って来て造って当てた。 さすがに母も幼い弟妹も嬉しがったことは言うまでもない。
 越冬するについての準備としては、松浦や隣の経験のある人から教えられて、足らぬながらもどうにか一応の準備をした。 そこで今年の冬中には、夏になって開墾するだけの面積の伐木、即ち木の始末をせねばならぬ。
 それにはどうしても薪に切る事が一番と思って、良いところを薪に伐り、切り難いところは10尺または8尺位に切って、雪の中で山と積んで焼く事にした。 11月の末から12月に入る頃にかけて、木伐りばかり、それぞれに伐った木を、山と積んで焼くことの壮観さは全くみものである。 まず一焼きに何十石という木を焼くので、5日も1週間も燃え続くのである。 真暗い夜、周りや空までがバーッと明るい。


五、渡道第一回目の正月(明治33年)

 今年のお正月は北海道で初めてのお正月、お神酒を四合瓶に一本と酒を一尾、餅は内地から持って来ていた餅米を五升、ささやかなお正月であるが、渡道第一年のお正月である。
 父は年末といっても何の用事もない。年貢米の心配も、肥料代の勘定もない。 無論店屋への支払等はある筈がない。 米はあっても、まだ餅搗き臼も出来ていなかったので、隣で餅搗きが終ってから借りて来て使ったので、それだけが忙しかった。
 父は気楽な正月というが、頑是ない子供達が馴れない雪の中で、遊びに行くところもなし、思えば全く可哀想である。 内地なれば一家の主人がどんなに難しいことがあっても、子供等は木綿ながらも晴着の一枚位は必ず新調して、新しい下駄位は買って、羽根つきだの凧だのと多数集まって嬉々として遊ぶのに、ただ兄弟同志、囲炉裏に暖まって内地から来る時に途中で買った古本をとり出してよんで日を幕すのだ。
 こんなところを見ると、大人も自分の立場は忘れて、可哀想でならない。 物質的には恵まれていないが、一家を成す主人公こそ、年末も正月も何の変わりがない。 ただ無為に過ごしているので、平凡すぎるといえばいえる。 正月でも早々に木でも伐りに出かけなければ、退屈で困るのであった。


六、迎春の心境

 神様は 「ああ、可哀想な子供よ、淋しい子供よ、汝等成長の曉には蝦夷の地も木は伐られ、土は耕され、道路は整い、五穀が豊穣し、文化の光りも張って農民楽土に生き得る時が来であろう」 と天上から見そなわして下さるであろうが、現実におけるその当時はただ淋しく、また不安がちであった。 そこで人間は、将来を知ることのできない、また見抜くことのできない現在に生き、現在に悲しみ、現在に嬉しがるだけである。
 後になってみて、斯くあるとせば、彼のこともなし、あのことも成せしものと思い返して及ばざるは人生の常道であるまいか。 只々その時、その折りの環境に追いつめられて走り動くのである。 要はただ懸命に働き、懸命に努めて天授を待つ以外はないのである。 将来を幸いたらんと欲するものは、常に困難と闘い抜かねばならぬ。


七、冬の支度

 正月の2日からは、空俵を買って来て、それを解いてその藁で雪沓やら藁脚絆を編んで、これを履いて雪の中での木の伐り倒しやら、薪を、切ったり、木を焼いたりするのが冬の仕事である。
 直径2尺もある木だと、高さは梢まで15尺(約4,5メートル)ぐるりを廻ってみて、枝の多いような方の下の方に鋸で5〜6寸位上から鉞で切り込んで、切り目が接近するにしたがってメキメキとなり、一方の切り目と切っている切目が接近してしまうと、メリメリ、ドン!と倒れる。 雪煙が上がる。 片側に鋸を持って立っていて、思わず喚声をあげる。 他方から見ていても、誠に勇ましいものである。
 こんな風に一本一本と順に伐り倒して、小伐りにしては樹林の征服をして行く。
 日の進むにつれて、薪の積む量が増える。 また雪を積んで燃やす。 燃やすところは雪の中に大きな穴が空いていて、その中で木がゴンゴンと唸って燃える。 この有様は全く壮観そのものであった。
 後の世の人がこんなものを見る事は絶対にできないし、想像もできず、信じられもしないことである。
 この頃では、小川親子も少しは鋸の手入れも少しは覚えて来て、多少は木を伐るにも面白味がでてきた。
 1月、2月、3月末までに伐って積んだ薪は70敷(1敷は長さ2尺の割木を横に積んで高さ5尺、長さ6尺である)それでもこの薪を買う家で一冬分たっぷり焚くと20敷はいるのである。 この薪代金は、小川家の家の経済力から言って実に貴重なお金であった。


八、冬の湧別

 暮れの12月から明けて5月に入るまで約半年、遠くへは交通が壮絶する。 よくよくのことがあれば馬に橇を曳かせて走らせてゆくのだが、仮に湧別から旭川に出るとすれば、家を出てから順調に行って4日はかかる。 それで雪中で一番恐れられるのは、吹雪にでも逢うとどんな事になるか分からない。 無理な旅行をして、吹雪のため行方不明になったとか凍死したとかいう話は、この頃よくあることだった。
 1月の中頃に北風が吹いて、氷の山が海の彼方から流れて来て、陸にピッタリ着いたその寒さは慣れない体に耐えきれない。 次の朝は零下2,30度である。 同じ部落でも長話をしているうちに吹雪になって3日も4日も帰宅できない事はざらにあった。
 その頃はスキーというものはなかったので、木を楕円形に曲げた「カンジキ」 というものを藁沓の下に付けて、雪面をパサリパサリと歩いて少しの用を足したが、これも雪や風が止んだ後のことである。


九、初めての雪解け

 3月の中頃になると、暖かい日には4尺(約1メートル)も積んだ雪が太陽の光線を受けて融け始める。 この時分の雪は、降っても内地で見るような、牡丹雪の降ることもある。 積んだ雪は、次第次第に雪がしまって、平均2尺位(6,70センチメートル)で、朝の間はどんなところでも自由に歩けるようになって来る。 北海道の堅雪というのはこれだなと分かる。 細い川があっても、低い所でも、どこもここも雪が平均になっているので、全く歩くに自由である。
 林の中にイタヤの木がある。 此木は楓科に属するとのこと、木質が堅く葉は糸葉のようである。 此木が厳寒の中では凍っていて、この頃になって解けて水分になるから、気の周りをやや斜めにくるりと切り廻し、外面よりも内面の方を深く切って、最低部にブリキの切れを打ち込んで上部に釘を一本打ち、この釘に四合瓶の首に紐を付けて吊して置いて、朝早く行ってみると瓶にいっぱい水がたまっている。
 その水にちょっと火を入れて呑むと、甘いこと甘いこと。 沢山とって煮詰めると上等の砂糖になる。 子供達は堅雪の上を走り回って水を取り、甘味をつくって楽しむのであった。 こういうことは、自然の恵の山林の中の独特の恩恵ともいうべきか、こうしたところに自然の楽しみを見出すのである。
 堅雪を利用して、木で造った橇を使って、散在している薪を集めたりするのだが、よく滑るし、ぬからず軽いので重宝なものだった。

 やがて4月になり、西南の風が1日吹いたと思うと、張り詰めたオホーツク海の氷が一遍に岸を離れて見えなくなったかと思うと、断然暖かさが変わって、昨年12月以来、外出するとしてもかぶり物や手袋を離せなかったが、かぶりものもいらず、手袋をはめなくても何ともないようになってしまう。
 こうなると、人々の心も何となく浮き立って来る。 人から人へ伝わって、今日はお鮃を釣る舟が湧別からも出たそうだ、汽船の来るのもすぐだぞ!!と言って喜び合う。 4月の3日頃になって、湧別沖へ汽船が来て、ボーッと汽笛の音を聞かされると 「そーら」 と言って村民一同が踊り上がらんばかりに喜ぶ。


  第5節 進む開墾  一、開墾第2年

 野の雪も次第に消えて、福寿草の花が咲き、フキノトウが川辺の辺りに黄色い花を付けている。 人の心も一変して、そちこちの畑で鍬を揮って畑耕しが始まる。 晴れた静かな日には、木のない原野の空高く、雲雀がさえずる。
 北蝦夷にも春が来たのである。 4月の初旬から5月にかけて、静かで暖かい日の朝日が、うらうらと昇る頃には、海岸の砂浜一帯に毛蟹が海から這い上がるので、竿の先に針金を曲げて熊手のようなものを造り、それで我先にと掻き上げる。 こんなことで得た毛蟹も北海道ならではの独特な味なのだ。
 5月は穀物・馬鈴薯の蒔付時で、土の地にも残散木を焚く煙が上がり、人の声もたまには聞こえて、世間が明るく希望に満ちてくる。 人間は一度極端な淋しい目に遭うと、その次には些細な喜びも大きな喜びとなって心を満たしてくれるものだ。
 雪ごもりの冬が済んで、春が来て土の香りにふれることは、開拓途上にある人々にはこの上ない喜びを与えてくれるのである。 小川一家も昨年、泥まみれの古い小屋に一時的とはいえ住まいして、しとしと雨の夜に雨漏りの為に寝ておれず、カンテラの薄暗い灯影の下で寂しさをかこって夜を明かしたことも、これは最低の淋しい生活であったといえるようだ。
 僅か一年足らずのうちに、経験したこともない恐怖や極寒に、身も心も凍るような寒さ等を経て、一度暖かい春を迎えて見れば、そこに萌してくるのは喜びであろう。 また同じ部落の人々は皆この寒さに耐え、粗食に甘んじて木を伐り、土を耕すことについては、何人も5分平等の生活をしたといえよう。 この頃の生活は一年中に、お米のご飯を食べられる事は恐らく何度もない。 石油一升位の燈火で一年を暮らした人もざらにある。 この時分、貧富の距たりがあまりない。
 ただ2年は2年、3年は3年と早く来た人は、畑がそれだけ相当に多いだけである。 これがためか、内地人と違って非常に親しみやすく人なつっこいのである。 昨年はなんといっても中途半端で、今年こそは渡道第二年である。 人が返してくれた2反歩の畑と、昨年の努力によって出来た5反ばかりの畑に麦類を蒔き、馬鈴薯を植え、また豆類でも早蒔きせねばならぬものを蒔付けして、稲黍等は出来るだけ新墾をして蒔くべく計画を立てた。
 5月の8日は湧別の地に初めて上陸した記念日である。 父はお神酒を買って神棚に供え、晩飯のときには種残りの馬鈴薯を摺りおろして、水分を搾って澱粉をつくってその中に入れた汁粉を作って家内一同舌鼓を打った。
 食べながら、開墾した畑が沢山できれば、小豆も作って獲り、馬鈴薯で澱粉を作って、澱粉とその小豆の汁粉が出来るようになれば一層美味しい汁粉が食べられる様になる事や、小麦が獲れたらうどんも食べられるようになる事を語合って慰め合った。
 5月中に裸麦3反・小麦1反・馬鈴薯1反・唐黍5畝・南瓜や野菜で5畝・合計8反歩の蒔付けをして、稲黍は何反でもこれから新墾し得るだけ蒔付けすることにした。


二、開墾検査

 5月の末に、道庁から 「本年は各開墾地の起業方法により、現地の踏査をする。 日割りは追って踏査官から通知する」 という通知が来た。 これは、年度の関係で開墾者の約3分の1位に当たる人のところへ来た。 通知を受けた人々は、起業方法に適した畑が出来ているとか、いないとか、いろいろな噂が耳に入る。
 小川の土地は、前貸し下げの起業方法そのままで譲り受けていたので、年次別の計画からいうと、大変な畑になったところが不足である。 それで踏査官が来て、どんな事を申されるか、規定を履行しないものは原則として返還命令にあうことになっている事から考えて、ここに一つの不安が生まれた。
 こうなると、折角ここまでにしてようやく家族の心も幾分落ちつき、今年こそはと秋の稔りを楽しみにしつつ木焼きや開墾に励んでいるのに、もし万が一難しいことができたらどうするかと、踏査官の検査の日の来るのを待って、寝ても起きても悩みの種となった。
 隣の人が 「小川さんどうします?」 と心配顔をして言われるのが、規定から言うと 「大分畑が不足ですから」 と言われると尚更気になる。 これから先、唯一の頼みとする土地のことだ。 それかといって考えてみると、昨年の1町2反歩と着手の年の5反歩の合計で1町7反歩なければならないのだ。 それで隣の人は 「事情を書いた嘆願書でも出したらいいのではないか」 と注意をしてくれる。
 あれこれと考えれば考えるほど心配でならぬので、部落の中に高知県から来ている西沢さんという人が、郷里でも役場員を長く勤めた事があって、色々と法規等を研究した人だと聞いて、私は思い切って聞きに行った。
 この方はよく人の世話をしたりして、部落の顧問格の人である。 色々と話を聞いて考えた揚げ句、「まず私の考えではそんなに心配することはないと思う。山師的に貸下げを受けて開墾しているのでもないし、あなたは一年遅れているが、一生懸命に開墾しておられる人だから、踏査官が来てもそこのところは考えてくれると思うから、あまり心配せぬように」 と事を分けての説明を聞いて、その事を父にも話をして、幾分でも落着いて開墾しながら検査の日を待っていた。


三、検査日

 6月3日付で、網走支庁拓殖部から 「明治30年度開墾地実地踏査を来る6月6日午前中に現地に於いて行うから、同日午前8時、湧別村役場に出願し、踏査官と同行せられ度し」 との通知があった。
 当日、役場へ行ってみると、既に5,6人の人が出て来ている。 9時頃から順々に3口ばかりの踏査をして、私の土地について調査が始められたのは11時頃であった。
 踏査官は、年次よりも開墾面積の少ないことについて尋問して、生国よりの渡道の動機、譲り受けの機会等細密に調べた上、「規定よりも開墾面積が少ないのは遺憾だが、小川さんの現在における熱心な開墾の姿勢を見て同情するところがあり、一ヶ年の年限延長願いを私が預って行く事にする。」 と言い、用紙を出して各項へ記入し捺印をさせて、「これが道庁において受理されて許可になるかどうか分からぬが、許可になるとすると7月初旬に来るから」 と言い置いて次の踏査地に移る。 多少まだ不安はあったが、これで延長願いが許可になればと、ひとまず踏査は済んだのである。
 母は踏査官が去るのを待って 「検査は済んだかい?」 と尋ねる。 「西沢さんが言われたように、俺のところは山師的にこの土地を譲り受けた分けでない事は、踏差官もご承知のようで大変同情して下さったから、心配することはないよ」 と言って母を安心させた。 が、母は後につけ加えて 「せっかくお金を出して買った土地が無効になって道庁へ返さなければならぬ様なことになったらどうするかと心配でならなかった」 と言う。 浅十がそばにいて 「まぁ兄さんよかったね」 と言って、今年僅か13歳の弟が安心の言葉をいうのである。
 父はもとより子供に至るまで、家族全体が昨年から体験した困難、苦労が漸く一年を過ぎ、何とか食糧の収穫をしようと、秋の稔りを期待していた矢先だけに、小川家にとってはこの問題は相当重大問題であったのである。
 もちろん時分の土地とはいえ、道庁からの貸下げ地、その目的が畑である限り、万一入地している者の努力が足らず畑になる見込みのない時は、返還を命ぜられるからである。 規定に従って年次的に畑を墾して、5年後の成功附与検査が済んでこそ、本当の所有地にすることが出来るからである。


四、開拓者の料理  ・・・・三平汁など

 絶えることのない木焼きの開墾に努力する一方、娯楽としては何一つない。 内地にいる時のように村芝居もなし、また時々の物見参りをするところもない。
 私は時折弟を連れて川辺に魚釣りをする位であるが、この魚釣りは内地と違って、運良くゆけば1尺もある 「ウゴイ」 が釣れたりする。 良い道具を使えば鱒が釣れる。 鱒はそう容易に多くは釣れないが、ウグイは相当針にかかる。 このウグイの10匹も釣り、川辺の柳の下に繁茂している蕗を切って家に帰ると、母が喜んで、魚を混ぜた蕗の煮しめができる。  その頃の煮しめといっても、まだ手作りの味噌や醤油はできていないし、これを買い求めるには、それほどお金が廻らない。 大抵の家(この頃開墾に従事する人の家庭)は塩汁が多いのである。 塩汁なんて都会の人が信用できない話ではあるが、北海道の開拓時代、それも明治時代の開拓者にはこんなことは珍しくない。
 皆さんが同じ生活をしたのだから何等問題はない。 今だに北海道には三平汁という大きな皿があるが、この皿の名の起源について一言付け加えると、昔の漁場、無論交通の不便な北海道の漁場では味噌も醤油も欠乏していた。
 魚はあっても野菜の味をつけるのに困ったときに、一人の漁夫が思いついて、蕗やら馬鈴薯やらの汁の中に、塩蔵してあった魚を入れて大鍋で煮て、大きな皿に盛って皆に分けて食事をふるまった。 この汁が大当り、大変口当たりのよい汁で、皆喜んでこの汁を作った。 漁夫の名を 「三平」 といったところから 「三平汁」 の名が起こり、汁を盛った皿を 「三平皿」 といって今もなお世にその名を残している。
 これと同じで、塩蔵した鱒やウグイの塩汁を冬のうちに馬鈴薯や大根と混ぜて作った汁の熱いのを 「ホーホー」 と吹いて食事をすれば、零下何十度の寒気もどこへやら、囲炉裏の前で暖かいご飯に三平汁の熱いのを食べると、何人も額に汗することは決して嘘ではない。 本当に北海道以外の都会の人はもちろん、内地の人達の信用できない事である。
 こんな具合で、手取りの魚で山蕗や蕨の料理は大自然を切り開く開墾人には捨てがたい味と栄養を与えてくれるのである。
 鶏のヒナ1羽と雄3羽を買ってきて家族の中に加えられたのもこの頃である。


五、弟妹の入学

 明治30年に開通した湧別から紋別へ通ずる道の中、湧別川で渡し舟を利用していたのが、昨年の12月に箸ができて春以来上下橋畔の堰堤工事が行われつつある。 人手の足らぬ時には私も頼まれて、1日50銭で働いてくる。
 3男・市十と妹の「志ま」とが小学校に行くことになった。 2年生を終えて来たから市十は3年生だが、「志ま」は9歳で1年生である。 7月には初めて70銭の村税がかかってきた。 何と言っても開拓入植者にとって一番苦しみを与えるものは、現金が貴重でなかなか手に入らないことである。 3年も前から開墾している人が、鶏を飼って卵を売ろうとすると、10銭に16,7個もするのだから、10銭の金も誠に大切なのである。
 買う物は小樽から船積みで回漕する関係上、比較的高い。 ただ酒や醤油の空樽は返送ができないので、4斗樽1ヶ30銭、1斗樽7銭ではあるが、家具としてこんなものを買うにも、そのお金がなかなかである。 誰の家でも3年目、4年目になる人(注・川西最初の入植は明治27年なので古い人は5年目になる)は、ボツボツと1個1個家具を整える。 自家醸造で味噌や醤油を作っている。 今年は大豆を獲って来年は味噌・醤油も造らねばならぬと期待をかける。
 6月の初めから、極力開墾した畑に稲黍を7月までに蒔いたのが4反歩であった。 今年の夏は麦飯に多少の野菜、青物は蕗と蕨、またアカダモの木に出るダモ茸などの副食である。 「内地にいる時は、屑米でも、米も少しは食べられたがなぁ−−」と母はくどく事もあった。
考えれば考えるほど新しいものに挑戦して進歩を見るのが人生である。
現に麦飯ばかり食べていても、何かの面で一歩一歩と前進しつつある事は事実である。
 8月になってからは、この地方にも酷暑が来た。 木陰で涼もうとすれば蚊や虻が寄ってきて静かに休むこともできないが、小屋の中に入ると虫共は入って来ず、裸になって昼休みしてまた出て働く、林の中の背丈の伸びた草の中の仕事は、これまたなかなかの苦労である。


六、唐黍の味

 麦類の刈取り・脱穀等をする間に、8月になると子供等は「唐黍のツブが大分堅くなったから、ぢきに食べられるようになるだろう」 と喜ぶ。 8月末から9月に入る頃には、だんだんと唐黍の実入りもよく、味も出て来て、9月の半ば頃までには毎日ほとんど唐黍食である。 麦飯や馬鈴薯ばかり食べて来た口には、唐黍を生で焼いて食べるあじは殊更に別である。
 大人も子供も、この頃の食料はその大部分が唐黍食である事は、どこの家でも同じである。 5,6尺(2メートル位)伸びてカサカサと拡がった葉の中に、右と左にニューと穂をつき出して、先の毛が枯れて上から手で握ってみて、堅いのをギューと音をさせてもぎとり、皮をむいて囲炉裏の火の側にころりと横にして、キツネ色に焼けたのに薄い塩水をつけて食べる。 本当に唐黍の味は内地では到底味わえない。 天下一品の美味しさであった。
 暑さ寒さも彼岸までとか、9月中旬を過ぎるとガラッと涼しくなり、一日オホーツク海からの海風の吹き上げた日の次の朝は、降霜があったのではないかと懸念させられる位に冷える。
 下旬になって降霜もあり、山の木々のボツボツ紅葉を見せるようになって、海井の波音がやや高まって聞こえるようになると、漁場は鮭の漁期に入る。 その頃、農夫は豆ひき、稲黍刈り、馬鈴薯掘りの最盛期である。 7月の半ばまでに蒔いた稲黍が、早いのはよく稔り、遅いのは稔りも少なくして霜枯れした。
 10月の半ばには殆んど収穫を終わって、何かと再び冬の支度にかかってゆく。 山は一面に紅葉してきたかと思うと、一朝にして広葉樹は葉を落として、針葉樹が黒々と残り、全く景色は一変してしまう。


七、羆の横行

 10月中旬のことである。 部落の中央を流れる川辺の家で、夕方裏の川で何かバチャリバチャリと水音がするので出て見ると、大きな熊が2頭の子熊を連れて川を渡って来つつある。 驚いて家に走りこんでその話をすると、さっそく親父さんが洗面器をたたいて外に出ると、直ぐ前の林の際まで行った熊がこちらを見て立ち上がり耳をそばだてていたが、のそのそと振り返りながら行ってしまったと、驚いた話を皆に伝えるのであった。
 この熊は一ヶ月ばかりこの辺の山林の中に遊んで、好みの草の根や木の実を食べていたらしいが、その後、大通りを通る人が、子熊を連れた熊が道を横断して山岳地帯(緑蔭方向)の方へ向かって行った事を語っていた。 年々こんなことは珍しくなく、牧野では熊のために2頭も3頭も馬を喰われたことも毎年のことである。 余程悪質な熊か、突然出会ったりしない限り、人間を襲うようなことはしないと言われている。
 後日、弟と芭露に魚を買いに行った帰り道で、魚を一箱背負って家路を急いでいたら、少し低いところに下りると、そこに細い川が流れている。 その川を飛んで渡った。 ところが先になっていた弟が頓狂な声を出して 「兄さん!人が裸足で歩いている」 と言う。 よく見るとなるほど、大人の足で小川の水の中から上がって、雪の上にちゃんと少し雪に色が変わってついて見える。 2人が進む道を前の方に行っている跡だ。
 しかしよく見ると、指と思われる5本の先のところに、太い針で突いたような穴があるので、ハハァ・・・これは熊だな?と私は思った頃、弟の方も気がついたらしく、今まで重い重いと言っていた、背負った魚の重さもどこへやら、今度は何も言わず十町ばかりの道を一挙に駆け抜けて、人家のあるところまで来てから 「ああ恐ろしかった、人だと思ったら熊だった」 と、木の上に荷を下ろして一休みした。
 夕方家に帰って晩飯のときその話をしながら、北海道ではどこにでも熊がいる。 油断ができないと話し合ったのである。


八、二年目の収穫

 11月の初めになって、雪もチラホラ降るけれども、丁度内地の雪のように直に解けてしまう。
 一年の経過で、吹雪の時にはこんな所から雪が入るということも分かり、家の廻りや屋敷の片付けをして、幾分自信のある冬を待っているようである。 昨年と違って屋敷の周囲は倒れ木も片付けられ、やや広々とした環境を見ることができる。 この頃も、出来る限りは木焼きや開墾である。
 今年は裸麦が11俵、小麦が3俵、馬鈴薯が50俵余り。 豆類が3俵・稲黍が11俵ばかりで、唐黍も生で食べた残りが1俵あまり、南瓜や甘藍も取入れたので、これだけあれば食糧にして大分余りがあるから、安いながらも金に替えなければならない。
 殊に馬鈴薯の50俵は少し作り過ぎであった。 鶏の飼料にしたり、凍れいもにしたり、手製の薯摺機を造って澱粉を作ったりするのだ。
 今年は知らなかったが、造れば胡瓜や味瓜や西瓜も出来るという話も聞いて、そうであったかな?それは後の祭りだ。 明年度の計画の中に入れよう。 11月が暮れて12月になると日脚の短い事は格別で、降る雪はなかなか解けない。
たまたま暖かい日には日中少しは解けて、それが次の朝には凍って道はツルツルになる。 海は次第に荒れ狂って浪高く、今にも津波でも来るのではないかと思う位、夜となく昼となくゴウゴウ鳴り響く。 この高い波音を聞いても、今年は二年目、去年よりも心に落ち着きがある。


九、冬籠もりのチカ

 ある日のこと、弟と二人で隣の青年に誘われて、佐呂間湖畔の漁場にチカという小魚を買いに行くことになった。 この漁場はサロマ湖に注ぐ芭露川口である。 ここまで行くには里程にして約三里、樹林の中を踏み分け道が多い。 雪は平均5,6寸位(約20センチメートル)というところだ。 人の通るところは踏みつけられて比較的よい道である。
 私は13歳の弟と二人、藁沓をはいて石油の空箱を背負い、朝早くから隣の青年と三人で出かけ、9時頃漁場に着いた。 芭露川の川口が約5間位(9メートル位)全部凍結して、氷の上を人が自由に歩くことが可能であった。 その氷の上を網を入れる部分だけ割って、網を下ろしてある。 暖かい間は魚が広い湖水で遊んでいるが、寒くなると冬籠もりのために川に入るのを網で獲るのである。
 チカは1箱30銭、コマイなら1箱15銭という相場。 この漁場は隣の青年の親類なので2,3日手伝うために漁場に泊まることになり、私たち兄弟はチカ1箱を買って適当に分け、コマイをおまけにもらって背負って帰る。 途中、前に書いた通り熊野足跡にぶつかった話になるわけだが・・・省略する。


   第6節 大自然の愛に包まれて 一、第二回目の正月

 お米こそ食べられないが、澱粉も出来て美味しいお汁粉も食べられる。 うどんもできる。 お米以外で出来る食料なら大抵のものは自給自足し得る要になった。
 再びお正月が来て、お米こそ多くはないが、稲黍餅はいくらでもある。 ただ足らぬのは砂糖である。 餡をつくる豆は沢山あり、二回目のお正月は、二回らしく豊富な食料があって楽しかった。
 二回目の雪の中の生活も、山の木を扱う操作や要領にも、鋸や鉞の使い方にも、自分ながら進歩のほどが感ぜられる。
 次第に知人が多くなって、北蝦夷(東北海道)独特の生活に甘んじて北海道常識が高まって来る。
 堅雪までに今年は薪が50敷であるが、桂の木を隣の人の樵鋸を借りて来て、家の庭で手挽きで板も少しできた。 この木挽きもまた鋸のつくり方が大変難しいのだが、幸いにして部落で経験のある人の指導を受けることができた。
 内地では絶対にやった事のない仕事を、あれもこれもと一つずつ覚えてすることの楽しさと、その仕事のでき上がった時の嬉しさは、また格別のものである。


二、三年目の耕作

 今年の春もいよいよ来た!!畑の増えるにしたがって何か販売作物を作らねばならぬので、その頃の評判に上がった秋蒔菜種を作ることも考えた。 それは麦類のような作物を春蒔いて、8月収穫して後作に菜種を蒔くのである。
 今年の蒔付けには、裸麦・小麦で6反歩〜7反歩を蒔付けする計画にした。
 例によって堅雪が終り、雪解けが済んで土の香が高まって来ると、男も女も一斉に手鍬をとって畑に出る。
 父母と私と弟の4人が畑に出られるようになった。 1日の作業の結果は毎日を平均して1反5,6畝というところ。 幾日も続けるので疲れもでる。 たまには晩酌の一杯も欲しいこともある。 この頃の酒は地酒で1升が70銭、焼酎瓶の辛口は1本が26銭位だ。 1ヶ月に1,2回の1口の晩酌は、何とも例えようのない位、心身を癒すのである。
 5月の末には郭公も啼き出した。 近頃、部落で2戸ばかり馬を持つようになった。 馬を持った家では、プラウも小形ではあるが、1日に2反位の耕転をする。 ハローを使えば整地も早く、土のこなれもよくて作物の出来栄えもよい。
 そればかりでなく、除草もし易いのであるが、第一馬は3〜40円、プラウが8円、ハローが4円、合わせて4,50円というお金は夢のような金額である。 そのうちに菜種を作ってお金がとれたら馬を買うことも期待して働くこととする。 いよいよ三年目の蒔付けは、二年目より7反も多く、種を下し、萌芽も順調で、今年の夏は7月半ばから高温であるから、麦の出穂・成熟も早く、8月に入って直ちに脱穀・調整等で毎日毎日汗は滝のように流れる。 麦は刈り取って干し上げ、直径5寸位の束にして夕方から夜にかけて、涼しい時間を利用して穂先の毛のところから火をつけて、順々に中途まで燃えて来ると、ボトボトと実の部分が落ちる。 地上が地均して固めてあるから、落ちた穂を風に吹かせて灰を飛ばし、次の日に唐竿で両方から元気良く調子に合わせて打って脱穀するのである。 これ北海道の原始的な裸麦の脱穀方法であった。


三、盲腸炎・・・奇跡の回復

 8月、麦の脱穀を終り一仕事済ませて、私は1日湧別の町に出て、役場へ税金を納めたりして帰宅、有色を済ませて床につく頃から、突然腹痛を起こした。 苦悶が甚だしいので、家中が寝ていられず、夜の明けるのを待って父は湧別に行って薬を買って来て服用させてくれたが、なかなか効果がない。 そこで高知県から来ていて四号線で村医者をしていた高橋医師を頼んで診てもらう。 医師は丁寧に診察して下さった結果、暑い時働いた疲れで神経痛と思うから、この薬を呑んで一眠りしたら下腹の痛みも治るからと言って一服の頓服をくれた。 勿論下痢もしていない。
 医者の指示通り薬をのんでも中々眠られず、痛みも去らないので、また次の朝高橋さんの来診を受けた。 今日は医師も二回目の診察なので念入りに診た結果 「これは大変だ!!盲腸炎だ。 早く手術をせねばならんのだが屯田本部の医務室にも手術の設備はないし」 と困った表情だ。 札幌の病院に行くといっても1ヶ月3回の汽船の航海しか交通機関はない。 小樽まで早くて2日、今日直ちに船に乗っても3,4日かかる。 絶対安静と早期治療を要する病人をそのような事もでき得ないので、極力氷嚢で冷すより外ない。
 「私のところへ来て氷嚢を持って来て、一生懸命に冷しなさい」 と指図を受けてその通りにすること一昼夜で、少しずつ痛みも治まって次第次第に回復する。 一ヶ月の跡には元の体に回復したのである。
 交通が不便な開拓地で病気になり、治療によっては直る病気も治し得ず、あたら命を捨てねばならぬ事がままあるので、私の盲腸炎は家中の大きな心配であったにかかわらず、天の助けか奇跡的に手術を回避して回復することができたことは、小川家にとってこの上ない幸運というべきであった。


四、三度目の収穫

 9月の中旬には、麦の後作に4反歩の菜種を蒔付けた。 今年の収穫物としては裸麦15俵、小麦6俵、稲黍18俵、豆類3俵、馬鈴薯30俵、唐黍5俵、その他南瓜とか野菜物は食べて尚余りある位であった。
 三度目の山野の紅葉を見る頃には、小川の土地も筋蒔の菜種畑が一ヶ所のよいところに青々と生え揃って、大きな木の株に上ってみると木株こそ沢山あるが、3年間の努力の結果の畑がよく見える。
 昨年の11月から始められた道費の排水工事は、小川の土地とその東の土地との間を通り、上は500間(900余メートル)、南から北にかけては海岸に近い沼に落水すべく、1千600間(約3千メートル)の工事は本年3月に竣工して、小川の畑のように山林で水野溜まっていた土地も大変に乾燥する。 この幹線排水に土地の中に2本の小排水を掘ったので、ちょっと低いところまでも乾いて、何でも作付できるようになった。
 今秋は、比較的熊の話も少なく、すこぶる平穏に過ぎつつある。 隣の小父さんが 「今年はよい年柄だったけなぁ−」 と言うので、私は 「本当に有り難い年で、もう怖ろしい熊野話もなく暮れるようですなぁ」 「小川さん、わしはさ、稲黍で濁り酒を造ったら大変よく出来たので一本持って来たはで、呑んで見てくらっしゃい」 と言って四合入り瓶を一本くれたが、その時、濁り酒の造り方の教えを受けて、時々造ることができた。
 北海道は明治33年まで酒も無税であったから、濁り酒を作っても何の心配もなかった。
 開拓が進むにつれて、33年には酒税法も適用になり、同年には徴兵令も適用されることになったのである。


五、農業の収支計算

 第三年目の年末が来た。 私は今年の収入をつかんだ段階で父と話合って、本年の現金収支計算をやってみた。
その結果は次の通り。
収入の部 支出の部
収入項目 収入金額 支出項目 支出金額

薪代金
雑穀代
労役代
鶏卵代






収入合計
(円) (銭)
16 00
14 50
 8 30
   40






39 20

税  金
米  代
酒  代
修理代
魚  代
衣料代
医薬代
砂糖代
石油代
交際費
支出合計
(円) (銭)
 21 10
 11 40
  4 20
  1 80
    90
  1 80
  7 50
  5 20
  3 00
    80
 38 70
 以上のような収支で、現金収支は至って少額であるが黒字となった。 食糧を作りそれを糧としたので、少しばかりの米を買う位で済んでいる。 少しばかりといっても、2俵と3升ばかりの米である。 雑穀(裸麦・小麦・稲黍・馬鈴薯・唐黍等)を主食として生活するわけだから、年末になっても内地にいた時のような、やりくりの心配はなくなった。

六、第三回目のお正月

 お正月だといっても稲黍の餅とうどんで、昨年の4羽購入の鶏から今年は23羽の雛が育って、そのうち雄が9羽、これがお正月の御馳走の鶏肉である。 醤油も大豆と小麦で4斗樽に一本仕込んだのだから、まず使うだけはある。 味噌もできている。 こんな風で4年目を迎えた春には、ようやく我が家も自給自足を達し得るようになった。
 衣食足りて秩序整う。 衣料は内地から持って来た手織品ではあるが、今までは間に合っている。 初めて東京の博文館から2,3冊の新刊雑誌をとって見ることもできるようになった。 こうなると青年にも希望が張り、生気が出てきて読書欲はいやが上にも燃えさかる。


七、川西青年会発足

 来年は私も徴兵検査の年なので、その事を考えて一層何かと自習欲が出る。 部落で青年会を組織したのもこの年(明治35年)である。 会員が16名、その中で内地で中学3年までいたという横山という人を会長に、ある人の空小屋を借りてそこで発会式をあげた。 発会式ではまず横山会長が就任の挨拶として、
「本日は私共が発起人となって青年会を組織し、発会式を挙げるに当って、諸君の御協力によって斯くも盛大に挙行することができました事を幸せとするところであります。
 尚、諸君の推挙によって私が会長の席を汚すことになりましたことについて、私がこの青年会の将来の希望や理想を申し上げたいのであります。 本日の発会式は、こんな空小屋を借りて行ったのでありますが、これはまだ開拓当時の我々であり、力有る会の初歩として、この草小屋での発会式を将来永く祈念として、本日より一歩一歩発展してゆく一つの種下しとなし、これから発芽して、いよいよ成長して立派な快感を建て得るよう努力したい。
 そのためにはお互いに一致協力して、べっbきょうして我々は社会に恥じない人とならねばならない。 よって社会のために尽くし得る人間になる事を特に諸君に希望として挨拶とする次第であります。」
  その他決議として、
 一、毎月、月刊雑誌を協同で取り回読すること。
 一、毎月、一回は必ず例会を開催すること。
 一、会員は一ヶ月10銭ずつの会費を納めること。
 それから、会計や幹事を推薦で決めた。 斯くして部落内の青年部が楽しみ、修養し得る機関も出来たのだった。 組織ができたり、適当な機関さえあればいくらでも勉強する余裕はある。 しかし、何といっても難しいのは資金であるが、これも徐々に向上させることは間違いない。


八、湧別原野測量区画

 開墾地からの生産さえ増せば部落や村の施設も向上し、後には立派な農村が出来上がる。 要するに村民の努力、村理事者の善政による外はない。 今年の蒔付けも順調にできた。 この頃は弟妹共に成長し、3男・市十は小学校が終り、屯田本部のあるところの高等小学校(北湧別尋常高等小学校)に入学した。 川西から二里半の距離がある。 一年遅れで入学したので年こそ13歳であるが、毎日遠路を通学するのは、これまた大変なことである。
 開拓計画の初期から考えてもう6年を経た今日、屯田兵村は1日1日と開拓は進展し、農耕地が増加して殖民地(屯田兵村に対して一般入植の地をこう呼んだ)も入植者が300戸に近づき、合わせて600戸の農村と漁民の60余戸を加えて、湧別村はまさに大村たらんとしている。
 殖民地といっても、兵村以南には1戸の入植者もなかった(遠軽・生田原・丸瀬布・白滝等に単独入植がボツボツ見られていたが)。秋田県の信太寿之が明治33年、仙台市の東北学院の将来施設として兵村以南の地に、学田地と称する農場建設が計画されてから3年目になって、山形県・秋田県・新潟県等から入植者があり、明治35年には60戸以上の部落(遠軽のこと)を形成するようになった。

 道路は湧別・野上間即ち湧別原野の中央道路、これを基幹として東西各300間(540メートル) 各々西一線、東一線と順々に路線を設け、また湧別から浜道路を基線として一号線、二号線と順々に路線をとり、その間300間ずつ測量を行い、300間角の測量をなし、その中を更に6区画に分割して、1区画5町歩(約5ヘクタール)の土地を区画したのである。 
測量区画割の中央道路だから予定幅も広い。 名称もまた立派ではあるが、開削日の浅いこの道路も一度雨天のときには実に悪道である。 殊に最近は荷馬車の数が増加したことによって、土ばかりの道で道路といっても名ばかりで、通学するには草鞋ばきである。 いわんや11月頃になっては交通は殊更困難である。
 この頃は、草鞋を1日使って、次の日には旧品を一足持参して帰りにこれを使う。 即ち3日に2足位は使ったものだ。 父が毎日夜業に草鞋づくりであった。

topへ 第7節 馬耕営農に意欲 一、馬による営農への転換

 この頃から農家にはある程度の馬を飼養しており、蒔付けにはそちこちで馬による耕転が行われるようになった。 川西にも既に6戸の馬持ちが出来て畑耕しが行われるようになった。
 馬による畑耕しを見ると、人間が耕す場合の10倍もn仕事ができるのである。 青年の会にも 「生産を高めんとする者は、まず馬を求めよ」の叫びをあげる位になっていた。
 明治35年には、湧別原野で収穫された菜種約3千俵が湧別から船積みで小樽に送られた。 1俵4円で1万2千円のお金が村に転り込んだ。 私の家では7俵獲って販売した。 屯田兵でも、木のあまりない草原地で開墾のしやする人は既に1戸分(4町歩)を畑に仕上げており、馬を利用している人達は20俵も30俵物菜種を生産した人もあるが、こういう人達は、断然部落では頭角を現す有様で、村一般の人気作物は菜種無くして何かあらんの状態となった。
 今年は部落の馬持ちから、去年生まれた牝馬を21円で購入した。 糖分使いものにならないが、2年後まで仕込めば充分馬耕による営農が出来ると、来たいに胸がふくらむ思いである。
 この頃の物価は、麦1俵2円位、菜種1俵4円、唐黍1俵2円。 買物は衣料品で木綿縞・並物1反75銭、白米1俵5円50銭位というところで、21円の馬の価格がいかに大きな買い物かが分かる。 馬を養うには、夏中はその辺の野草を刈ってきて与え、冬は野草を刈取って乾し上げ貯蔵しておいて、畑の豆殻・稲黍殻等に混ぜて与え、耕転や運搬に使用するときには、大豆・麦等を煮て与えるのである。
 また春の蒔付けの折りに、この事を予想して、馬の最も喜ぶ燕麦も蒔いておいた。 この燕麦は1反歩から上作の時は8俵も獲れて、殻はこれを使って俵を編むのである。
 入地以来の俵の原料は低地に自然生えの菅草を使っていたが、燕麦の栽培により、殻を原料とする俵は最も上質のものが出来得るので、この頃から北海道の殻類の入れ物は燕麦俵になってしまった。


二、徴兵検査

 明治36年、今年あたりから私の土地も木が次第に減り、焼き捨てるようなものはなくなり、自家用の薪に利用する程度になってきた。 土地の木の株も1反歩に30以上あったが、3年を過ぎて、小さいのは大分とり除かれるようになった。
 今年は私の徴兵検査である。 検査日は5月10日、場所は紋別である。 裸麦や小麦等の蒔付けを終えて、検査当日は和服に股引、脚絆、草鞋という出で立ちで7里の山道を越して紋別に至り、2晩泊まって検査を済ませて来た。
 検査の結果は歩兵第二補充兵に編入されたが、翌年、日露戦争が起ころうとは嫁にも知らなかったのである。


三、感慨深い土地の附与許可成る

 明治36年にはいよいよ、小川の土地も最後の附与検査を受けて合格し、8月8日付で道庁から無償附与の件が許可されたので、直ちに紋別の登記所に行って所有権の登記を済ませた。
 思い起こせば、5年前に人から貸与地の権利を譲り受けて、日中といえども太陽も見えない樹林の中で、一面に水が溜り谷地蕗が繁茂し笹造りの泥まみれの小屋に住むことになり、雨の夜は雨漏りのためにカンテラの薄暗い灯影に大水を恐れながら、或いは涙ながらに夜を徹し、山鳩の鳴く音に、汽船の汽笛に驚かされ、粗食に甘んじながらも、木焼きや開墾なども馴れない鋸づくりや操作に苦しみ、あまりの苦しみに女は泣く事があり、男といえども途方に暮れつつ、遂に今日を見ることができた。
 内地に於いて予想し、夢見た理想が漸く5ヶ年の後に実現し、自分の土地が5町歩(5ヘクタール)出来たのである。
 これも直ちに内地に帰り得るものとせば、或いは帰ってしまったかも知れぬが、家財道具の一部の持ち得るもの以外は大部分を売却し金に換え、その他に使い果たし、今さら帰国することは不可能な環境にあって、石にかじりついても成し遂げねばならぬ破目に陥ってしまって、遂に辛棒し遂げさせられたのである。
 このようなことは時代環境によって成さんとしても、それはまた絶対に時代そのものの成せる業である。
 ああ!尊いかな、この辛苦。 この数年の生活は何の生活と名称を残すべきか!!。 しかし、まだまだ生活は原始的であって、加工せられるものは小麦の製粉位のものである。 この小麦の製粉も2里(8キロメートル)もあるとこおの水力製粉業者によらねばならぬ。
 昔は蝦夷が島として夢の地、想像の島が開拓されるには、幾万の人が我々と同等、或いはそれ以上の辛苦を舐めて新天地を見るに至ったことである。 また開拓に着手して病に倒れ、羆に身を引き裂かれた人の数も相当なものであったことも忘却できぬ事である。


四、馬の調教

 ともかく、わが家でも土地の所有権は出来たのだが、まだまだ馬も買ったばかりの2才である。 畑に使用するには3才から馴らして、本当に仕えるのは4才からだ。 それに馬を使うに相当する道具もいる。 畑耕しのプラウ、地均するハロー、馬の体につける道具、胴引き、背ぐら等がいる。 明年までに逐次揃えなければならぬ。 私と弟は毎日、仕事の合間に馬を引き出して、踊らせては喜んでいる。 そうなると家庭はいよいよ明るくなる。
 その頃、世間話では日本とロシアと戦争が始まるという話。 補充兵になっているものは皆戦争に行かねばならぬ。 どうしても戦争は避けられぬ。 こんな話がだんだんと高まってくる。 一家が渡道してから5回目のお正月が近づいて、見渡す限りの銀世界になった。 道路では馬が橇を曳いて走る。
 馬の胸に下げた鈴がリンリンと鳴って、軽い足どりで走る。 上手な人はその橇の前方にきっと立って馬を御し自由自在に操作するのである。 夏の馬車と異なって、橇の走り方は至って軽快なものである。 こんなところを見ると、私はどうにもたまらなくなり、弟と相談して父に乞うて麦や唐黍を売って5円50銭で馬橇を買って、馬の胴引綱は夜業に弟と協力して造り、なるべく金のかからぬような工夫をして、前馬主から 「2才から使い馴らすことが馬のためによい」 と言われた事を幸いに、2人がかりで橇を引かせて、まず広い畑をくるくる廻ってみる。 馬は初めて道具を付けられた事から、やや驚き気味に雪をけたてて走り廻り1時間位の後には、大分疲れ気味で、おとなしくコツコツと曳くようになった。
 こんなことを数回すると、馴性動物の馬は、薪用の丸太等も曳き寄せ得るようになってきた。 兄弟の得意や、もって余るものがある。


五、日露戦争と応召

 明治37年の正月が来て、青年の集会にも、また老人の世間話にも、被地路の風雲急なることがやかましく噂されるうちに1月は暮れて、2月に入って間もなく、10日には交通不便な湧別にも日露開戦が伝えられて、日本艦隊の敵艦撃沈、大勝の報が伝わって、村民の血を湧かす。 続いて予備兵としての召集を受ける者も、補充兵として教育召集になる者が次第に多くなってきた。
 私も第二補充兵として、このままでは済まないことが予想される。 4月になって第一、第二補充兵制度が廃止され、私も陸軍補充兵に編入され、遠地旅行等についての注意書の交付を受けた。
 しかし37年中は、そのまま農事に励むことができた。 馬も3才であるが、畑の中の木株の少ないところを選んで、隣家で空いている時にプラウを借りて来て耕転の練習をしたりして、労作の中の楽しみがあった。
 その年の秋になるにしたがって、体重も増して次第に頼もしい姿になる。 戦争の方は、日本軍の優勢裡に進んでいるようで、いやが上にも気勢が上がる。

 戦局はいよいよ激しさを加えて、屯田兵の人々もこの年、夏には次々と充員召集になったのである。 翌明治38年の正月を戦争の中に迎えて、召集される者も増えて、そちこちの戦で戦死者も出る。
 家の畑も今年の蒔付けは4町近くをせねばならぬ。 雪中の準備仕事を終えて4月になり、中旬にはいよいよ私に召集令状が来た。 入隊は5月8日である。 準備をして入隊すべく、紋別を経て名寄に出て名寄から汽車で旭川に行った。 この間2泊3日。 顔見知りの友達ばかり5人が、草履履きの和服姿で村民の見送りを受けて出発した。
 私が召集になったので、弟・浅十が18才で父と共に農事を破大正楽のである。 さて、入隊した私は、初めての軍隊教育、特に戦時におけるのは並大抵ではなかった。 90日間の教育機関を経て、一時帰郷の命ぜられて9月になり、戦いは休戦になり、充員召集の命を受けずに終わったのであった。


六、家屋の新築

 帰郷するや、弟と力を併せて、麦類の収穫後には菜種を蒔いたり、適当な畑には薄荷を植え込んだ。
 戦いは日本の大勝利に終わり、平和を迎える春が来た。 これで渡道以来6回目の正月を迎えた。 今年は幾分かの資金も出来たので、薄荷の収納小屋と共に仮立ての草壁住宅を、同じ草葺ではあるが土壁の土台付きの住宅を造るべく計画を立てて、雪中の仕事には用材切りと、これの集材である。 もはや自分の土地の木は伐り尽くしたので、20丁(約2キロメートル)ばかりある牧場から譲り受けて製材して、板類も厚木を集めて手挽きでつくった。
 大工の指導を受けて、雪が解けて蒔付にかかるまでに建前ができた。 大きな家ではないが、6帖3間、台所と庭(土間)という間取り。 来年のお正月には、この家に移り得るべく新しい期待が生まれる。 世の中は戦勝気分で、いやが上にも景気がよい。 凱旋した人々には金鵄勲章をいただく人や、それぞれの叙勲・恩賜金等があって、戦った人々は幾百円かの賜金を受けてなかなかの気勢である。
 10年前、小川一家が北海道移住の動機を起こさせたといってもよい日清戦争には叙勲者といえども賜金何十円の人が多かったことに比べると、隔世の感がある。 この頃から薄荷の景気、戦勝景気、これに加えて家畜では馬匹の改良で馬の性能・体格の発達と、みるみる進歩の様が著しく、殊に馬の装具等も一変して、戦勝帰還軍人の内区示威皮製の乗馬具を装し、肥馬にまたがって悠々と闊歩する様を見るようになったのである。
 以上、渡道に至る動機から現在(明治40年頃)までの約10年間の実態を 「開拓の記録」 とっして記録してきたが、10年経た今日、これで一区切りついたと言えるような気がする。 それは、
 一つ 5町歩の附与地を開拓して遂に小川名義の土地として取得できたこと。
 二つ これからの北海道農業に欠かせない馬耕営農の基礎が出来たこと。
 三つ 入地からの不便な家を土台付きの家に建てかえが完成したこと。
 以上の三点の実gんを見て、一区切りついたことを思うと、感慨一入のものがある。


七、湧別歴史の変遷

 小川が湧別の川西に移住以来7ヶ年の星霜を経て村の発展は著しく、昔の面影を止めず、人口も増加して1千数百戸を数えるに至った。
 日露戦争が世界の奇跡として大勝に終わり、平和を回復した。 湧別村の屯田兵も、満5ヶ年で屯田兵制も改まり、施設も撤去され、屯田兵制は一般行政に組み入れられた。 その目的であった北方の守りの中での北海道開拓の目的が達成されたということである。
 こうして凱旋した人も純農村の住民の中に一体となって村づくりに励むことになったのである。 日露戦争が終結してから、湧別村に移住して来る人が激増し、計呂地・丸瀬布・遠軽・生田原・白滝という奥地の開発がいよいよ進み、二級町村制が施され、初めて村会議員の選挙が行われ12名の議員が生まれた。
 越えて明治43年には、人口・戸数の増加は遂に2千戸を突破するに至り、内地人が移住以来16年、湧別村は分村することになった。 屯田兵村以南を 「上湧別村」、現村を「下湧別村」とした。 即ち上湧別村は純農村、下湧別村は漁村地帯を有する村となった。

八、時は流れて

 時は流れて、明治から大正を経て、昭和年代の初期から日本の軍国主義が続いて、軍部の台頭は遂に各種事件の勃発となり、隣国をはじめ昭和16年には世界を相手に戦争の中に突入した。 不幸な時代に入り、下湧別村の中での川西も銃後の食糧基地として、国の要請に応えざるを得なかった。 また応召される軍人家庭、不幸な家庭の柱の戦死等の長期にわたる戦いは、平和を欲する国民を不幸のどん底に追い込んだ。 その結果は昭和20年、広島・長崎への原爆投下があり、遂に降伏、永年続いた戦争に終止符を打った。
 未曾有の敗戦を経験した我が国は 「平和日本」 へ向かって再建に邁進することになった。 その後の湧別近辺の動きを見てみよう。
 元の湧別村は5ヶ村に分村され、鉄道は貫通し、中央道路は1日10往復のバスが通っている。 昭和30年現在、川西では道庁から附与された土地に住み通している家は僅かに数戸にすぎないが、現在80余戸、農耕地480町歩、牧野600町歩、新開拓地50町歩、農ぁ川西の住宅・畜舎の改良も進んで、赤いレンガのサイロや畜舎が酪農部落を象徴する風物詩となった。
 小学校の完備、青年会館も設備された。 また全戸が電化され、夜も明るい生活がある。 開墾当初の人から教えると、既に3代目になった。 月1回位は小学校で映画を見ることができる。 年1回の夏祭りの夜は、若い人達によって演芸会や音楽会も催されて、全くこの頃の人は恵まれた生活といえる。
 農作業にも、農業協同組合のトラクターによって、土壌の改良・深土耕など大農機具を使っての協同作業があり、個人作業も脱穀・調整と電動機・発動機によって能率化されている。
 農協からの有線ラジオを通じて、組合の連絡通信は行われる。 私はこの時期において、昔の開拓の辛苦を開顧して、先人の労苦を偲んでくれる人が幾人あるだろうか? 少なくとも忘れてほしくない思いが強い。 願わくば開拓の初心に帰って、川西の将来に光りをあててほしい。
             (おわり)


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