愛のふる郷   第2編  過去・現在・未来

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 先輩が語る昔話  川西への回想  未来への夢  


第1章 先輩が語る昔話  川西知己の開基百年の記念に川西の史誌が発刊されることにな
り座談会が計画され、平成3年12月に行った。
    出 席 者 
小川清巳(74)、藤崎豊次(83)、岳上 フミ子(78)、黒田花江(75)
伊藤千代子(70)、小川藤子(73)、鈴木あきえ(71)、釜神サタ(75)
黒田さかゑ(76)、小玉 リノ(72)、吉本ユキ子(72)
佐々木キクヨ(86)、江沢英子(67)、湊  初枝(69)、山崎春江(68)
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司   会  中尾庄一
編集委員  高桑  武・宮本尚明
記   録  友澤勇司
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司 会 今日お集まりの方は、二代目になるわけですが、入植当時の様子を聞いている方もおられると思うので、まず入植当時のお話しを、お聞きしたいと思います。
     明治27年頃から現在まで、川西に住んでおられる方は、本宮さん、小谷さん、江沢さん等で小川さんは31年頃の入植ときいています。 
     現在、あと古い方は岳植さん、友澤さんと、6戸位しかおられないと思います。
     今日出席されている方で、一番先輩の藤崎さんは何年頃川西にこられたのですか。

藤 崎 私は2歳の時に川西に来ました。
司 会 藤崎さんは2歳で川西に来られたということは、川西に81年住んでおられるのですね。
小 川 私が話しを聞いて覚えている一番古い話というのは、私の所が入植する前に岳植さんが入植をしていて、岳上フミさんのお姑さん
    が嫁に来るのに、黒田、誠吾さんの所が沼地で、嫁さんが来るのに困るというころで、沼地にあった木を切ってよけて、嫁さんを迎えたという話しを、親父がしておたのをよく聞きました。
司 会 当時の川西は、原始林に包まれていたのですか。
小 川 昭和3,4年頃には、現在、菅井さんの住んでいるあたりにヤチダモの1メートル30センチ位いの枝のない木があった。、清原
    さんの無効にも藪があって、そこにも大木が2本残っていて、冬になると、オジロワシがよく止まっていた。
     木の始末にも困った。 冬は当然薪として使っていたが、炭を焼いても湧別の街で1俵2銭5厘か、3銭で売ってお金にしたが、あとは火を
    付けて燃やしたという話しを聞いている。
藤 崎 山下良雄さんの所にも、大きなナラの木が5,6本あった。
小 川 話しに聞くと、古川を境にして、ヤチダモとナラの木に分かれていた様で、3号線の中間あたりには桂の大木があった。
岳 上 私も記憶にある。
小 川 その桂の大木の切り株を土俵にして、子供の頃その上で相撲をとって遊んだ。 その位大きな木があった。
司 会 入植当時は、どの様な家に住んでいたのですか。
小 川 私の家は掘建て小屋で、壁は土壁で、入口はムシロを下げ、床は大水に備えて高くしてあった。 水害になると、小玉さんや小笠
   原さんが、原田や私の家に避難して来て、何日か一緒に暮らした事があった。

司 会 夏はともかく、冬はかなり厳しい生活だったと思うが。
小 川 冬は間仕切りにも、ムシロを使っていた。
岳 上 そうそう、親父が16歳で川西に来てすぐ、湧別の浜に行くとかついだら、尾を引きずる様なオヒョウを、16銭で買って、3区の松浦さんに世話になっていたので持って行くと、松浦の親父さん
    に安いからといって買ってきて、ただお金を無くすだけだといって、しこたまおこられた話しをしていた。
高 桑 そのオヒョウはずいぶん思い出が深いんだね、清一郎さんは歌に作って残っているから。
小 川 松浦さんに、無駄なお金を使ったということでずいぶんおこられたということで、かなり、きいたのでないかい。
司 会 当時は冷蔵庫のように、貯蔵する物も無いわけだから、その様な大きな魚は、いくら安くても無駄な買い物だったわけですね。
小 川 炭1俵焼いて、湧別まで担いで行って売っても、3銭位にしか売れない時代だから、無駄な買い物だったわけですね。
小川藤 当時土地は買うのではなく、開墾すると、もらえると聞いたが。
小 川 そうではなく、川西の区割りをした時に、早くから入植した人はその権利を買っていた様で、途中から付興義務とかいう、義務
    制が出来て、自分が払い下げをうけた土地を、何年かのうちに、何割か開墾しなければ、払い下げないということになり、持ち
    きれない人はいくらでも売って、内地に帰ろうかと思った人もいた様で、私の所は1戸分、5町が入植、当時5円で買ったが、全然開墾はされなかった。

伊 藤 うちのお爺さんは、12歳の時に川西に来たと聞いている。 当時大人が2、3人で抱えなければ、とどかない様なナラの木ばかりだったと言っていた。
岳 上 原田の爺ちゃんの弟が、今の上湧別にあった北湧校に通うのに、ワラジを履いて、丸太を倒した上を歩いて通った。
伊 藤 うちのお爺さんも北湧校に通ったと聞いている。
司 会 その当時、湧別には学校が無かったのですか。
小 川 高等小学校と言ったと思うが、湧別は6年生まで、湧別に高等科ができるまでは6年生以上は高等科は北湧校に通った。
司 会 上湧別の北湧校まで歩いて通うと、行って帰ってくるだけで日が暮れてしまいますね。
岳 上 弁当は、ダンゴを一週間分作って、それを持って通ったようだ。
小 川 当時はまだ麦があまり作れなくて、イナキビが主食の様で、イナキビのおにぎりを持って行ったことも聞いている。
岳 上 学校に行ける人は、ほんのわずかであった。


司 会 明治27年には14戸が入植したと聞いています。 そのご明治33年頃には63戸、すごいいきおいで戸数が増えているが、川西の土地が良かったから入植者も多かったのですか。 
    又当時はどの様な作物を作っていたのですか。
小 川 そうだろうね。 湧別川の流域と藤崎さんの方の古川の淵が良かったのだろうね。
岳 上 作物は、ソバとかイナキビが主で、自分達が食べるだけの物を作るのがやっとで、食べる為に開墾をし、お金は炭を焼いて得ていた。
司 会 当時の主食は何ですか。
藤 崎 子供の頃はイナキビを食べていたが、ヒエはあまり食べなかった。
小川藤 イナキビは粘りがあるが、ヒエは粘りがない。
司 会 ヒエは今、雑草で生えているヒエと同じですか。
一 同 そうだよ。 (爆笑) (食用に改良したもの)
司 会 当時は馬もうないので、どの様にして開墾したのですか。 それなりの道具があったのですか。
小 川 あちこち木の株だらけの畑で、その間を耕して作物を作った。
   株は腐るまで待ち、今の様に何反歩という、まとまった畑はなかった。
黒田花 肥料なんかいらなかった。 種子さえあれば作物が獲れた。
小川藤 藤崎さん芋は食べましたか。
藤 崎 芋もよく食べたよ。
小 川 とにかく私の家の廻りは、今は平らな土地だと思っているけれども、当時は、黒田誠吾さんの所から、私の所にかけては半分が沼地だった。

 木 私の家の井戸の一丈位下には、ヨシがあってこの辺は沼だった。
伊 藤 私の家の廻りは砂と砂利が多いので、昔、古川があばれて、砂た石を持ってきたのだろうね。
小 川 下の方に行くと、粘土と泥炭になる。
司 会 当時の生活の様子はどうだったのだろうか。
小 川 よそ行きに着ていく着物は一枚位持っていたのかもしれないが、ふだん着なんかは無かった。 小学校に行く様になって服を買ってもらっ
   ても、膝が破れれば、つぎをあて、継ぎはぎだらけの服を着て、なるべくお金をかけない様にしていた。
岳 上 かけるお金が無かったよ。
伊 藤 50年前でもそうだったよ。 学校に行くのに継いだ上、継いだ上に継いで、洗うのが大変だった。
小 川 服は今より、当時の方が破れたと思うよ。 今はトラクターに乗ったりしているけれども、当時は自分の身体で働かなければならなかったから、よけいに破れた。
    小学校の2年生までは、学校の式のある時は着物にハカマをはいて行ったが、3年生になってやっと学生服を買ってもらった。
    あの頃は良かったぞ。 いたずらをして、女の子の尻をまくったものだった。 男も女もその頃は、パンツなんかはいていなかったから。
司 会 よく虫に食われなかったものだね。
伊 藤 そうでもないよ。 お爺さんに聞いた話では、女の子が野良で昼寝をしていて、大事な所にヘビが入りこんで、取れなくて死んだ
   という話しを聞いたことがある。 だから女の子は野良で寝るなと言われた。
吉 本 そういう話しは私も聞いたことがあるよ。

司 会 記録を見ると、ずいぶん水害が多かったようですが、皆さんは水害の思い出などはありますか。
岳 上 大水が出て、畑に積んだ麦のニオが流されて、どこかわからなくなったことがある。
小 川 私が学校を卒業してからだが、昔、新宅さんが住んでいたあたりは村有地、と言って村の土地だった。
    そこの土地を借りて、エン麦や小麦を作ったが、雨が降るとかならず水が出るので、ニオが流されない様に、柳の木杭いを作って流されない様にした。
    又小玉さんの家はよく水がついて、水が引いたあと、鶏小屋の金網にマスがかかっていたこともあった。
岳 上 水害になると、私の家(原田)の物置などに皆が避難してきて、子供の頃は楽しかったよ。

司 会 雪が降ってからの仕事の様子を聞かせて下さい。
小 川 明治の頃、冬の間に来年、開墾する土地の木を切り倒したと聞いている。
藤 崎 16,7歳の頃から、冬は馬を持って出稼ぎに行った。 当時の出面賃は、6円位だった。 近い所では沼の上、あとは上興部や下川までも行った。
小 川 6円稼ぐには、馬が強くて、腕が良くなければ稼げなかった。
岳 上 原田の店には、出稼ぎの人達が紋別通いといって、紋別から湧別まで、丸太等の運搬をしていて、原田の店の前に、馬を繋いで、
   ウドンを食べていた。 その頃は、いくらうどんを茹でても売れた。
    原田の店では、大正10年頃には、沼の上にも支店を出して、呉服から石油、日用雑貨と色々な品物を扱っていたが、戦時中に売る物が無くなり閉店した。

司 会 川西では明治41年に、湧別小学校の分教所ということで、学校が出来たのですが、当時の学校の様子はどうだったのですか。
小 川 当時の校長先生は、島村先生だった。
司 会 学校ではどの様な遊びをしたのですか。
小川藤 女の子は、アヤコやヤリ遊びをした。
小 川 男子は夏、コマを作って、コマ遊び、6年生の頃は岳上先生に習ってデアボール(コマの一種)ケン玉、全部手作りだった。
岳 上 アヤコでよく遊んだが、今やっても全く出来なくなった。
小 川 鈴木繁之さんはコマ作りが上手で、ビートゴマといって、よく回るコマを作って学校に持って来た。
小 川 思い出に残っている一つに、岳上先生が、屋内運動場の大きなハチの巣を取っていてハチに刺されて、翌日学校に行くと、顔が大きくはれ上がっていたのを覚えている。
釜 神 私も、その事は記憶にある。
司 会 藤崎さんは若い頃、剣道の達人として、近郷にその名をとどろかせたという話がありますが、その頃の話を少し聞かせて下さい。
藤 崎 川西は昔から、剣道・相撲などが盛んであった。
    これも野津さんが先輩として居られて、三段の腕前で村内外で剣道を指導していた。 私は野津さんと家も近かったので、小学校の5年生の頃からはじめた。 15,6歳頃には腕も上達して遠軽・
   上湧別などにお祭りに試合に出て、いい成績を挙げるようになった。 昭和3年、特務兵として55日間入隊したが、剣道の話しが中隊長に知れてしまい、下士官の段持ちの人と対等に試合したた
   めに軍事教練などをしないで専ら、剣道をやって兵役を終った。
    兵役当時、玉木軍曹という二段の先輩に目をかけられ、除隊後、鴻之舞武徳殿落成の記念剣道大会に招かれ、十人抜きの優勝を飾ったことは忘れられない思い出です。 
    これも幼い頃から、野津先生の教えを受けたことがよかったと思っています。


司 会 皆さんの年代で、最も苦労された戦時中の話を聞かせて下さい。
   特に女性の方は、大黒柱のご主人がセンチに行かれてからは、大変な苦労をされたと思うのですが。
高 桑 川西からは、67名の方が戦争に行って、15名の方が、亡くなっています。
小 川 私は戦地に行く時、堀部さんに牛を売った。 兵役から帰って、本間さんから仔牛をもらって育てた。
吉 本 毎日、子供を育てるかたわら、竹やりの訓練をした。
   17年に嫁いで、18年に召集になったので、着る物と、履き物に苦労をした。 食べ物は自分の畑で獲れる物でまかなった。
山 崎 私も17年に結婚して、18年に夫が召集になったので、婆ちゃんと二人で苦労をした。
    松葉油を取るために、松葉取りに一回、一週間ずつ二回行った。
   又三線の暗渠掘りでは、同じ長さを割り当てられても、女の手ではなかなか掘れなくて、昼食を食べずに、泣き泣き掘った。
釜 神 旭の駅が出来る時に、停留所を作るのに何日も出役した。
    旭の人に、川西の人はずるいよな、女の人しか来ないと言われたけれども、出征して女しかいなかった。 又、排水掘りなどにも出た。

黒田さ 子供が百日咳で、湧別の戸田病院に入院をして、生きるか死ぬかという時に、湧別川の橋が洪水で流された。 
    その時、軍馬を出すことになって、川を渡る時に馬が流されて、軍馬を引き渡すのにやっと間に合ったことが印象にある。
小 玉 夫が南方に行って、マラリアに罹って帰ってきたので、時々マラリア熱の発作があって、自分で注射をしていたが、大変な苦労をしました。
吉 本 分家をしてから、一作も取らないで戦争に行った。
    履物が無かったので裸足で馬追をしたのと、大水さんの前の大排水を四人一組で掘ったのが大変だった。
    冬でも家の中に居ることはなかった。 そうでなければ、食べていくことが出来なかった。
江 沢 私は22年に結婚したが、山崎さんが言っていた様に、娘時代は松葉取りや、木工場の仕事に行った。 同じ苦労でも私は結婚していなかったので、皆さんとは、だいぶ違うと思います。
佐々木 私も、終戦後の22年に嫁いだので、あまりよくわからない。
伊 藤 私は17年の3月に嫁いだが、嫁に来る時、橋が無くて、氷の上を馬橇で来たので、おそろしい所に来てしまったと思った。
   3月に来て、1ヶ月で夫が召集になったので、西も東もわからず、どこに伊藤の畑があるのかもわからなかった。
    又次の年に、おかあさんが亡くなったので大変だった。
   芋切りをしていた時に、ポントは間の機雷が爆発して、居眠りをしていてびっくりした。 だから17年は思い出が多い年だった。
小川藤 皆の苦労話を聞いたら同じだが、一番いやだったのは、山に薪切りに行くのがいやで、いやでしようがなかった。
    あとは畑も少なかったので、あまりない。

岳 上 あまり苦労した覚えがない。 主人は3ヶ月防衛隊に行っただけだった。
    お婆さんが、継ぎ物など全部やってくれたので、裸でいた覚えもない。 ただ1つ、お婆さんが作ったホウキを売って、子供の服を買う為に、鉄橋を渡った時、おそろしかったのを覚えています。
黒田花 私は、とうさんが旭川に教育召集に少し行っただけだったので、皆さんとくらべると、苦労のうちには入らない苦労だったと思います。

司 会 この戦争では皆さん、口では言い表すkとの出来ない、苦しい、つらい思い出が沢山あったことと思います。
    戦後急速に、農業経営は進歩、発展をとげて、今日の川西農業が形を作られたわけですが、一番大変だった農作業についてうかがいたい。

吉 本 直播ビートの間引き作業が大変だった。
鈴木あ 私は、芋播き、自分の身体よりも大きな袋に、種芋を入れて播くのが大変だったし、ビートの間引きもいやな仕事だった。
釜 神 馬の芋掘り機会に追われての、芋拾いがいやだった。
小 玉 馬を使っての、畑耕しとうね切りが大変だった。
伊 藤 私は、嫁に来る前は、馬を使ったことが無かったので、うねを切ると、ブニャグニュになった。 それを見たお爺さんが真直ぐなうねより、曲がった方が作物がよけいに取れると言ってくれた。
   それが一番つらかった。
小川藤 私は、馬草刈りがいやだった。
岳 上 私もいやな事はあったよ。 燕麦の足踏み脱穀、あれが一番いやだったよ。 馬はあまり使わなかった。
黒田花 アキの芋出しや、ビート出しで、馬車に大きなフォークを使って、
   朝の暗い4時頃から積むのが大変だった。


司 会 皆さんの、長い人生のうちには、楽しかったことや、苦しみもあったと思うので、印象に残っている話を聞かせて下さい。
伊 藤 川西小学校が廃校になった昭和48年に、NHKが部落の大運動会を取材に来た時、火葬をして応援してたのしかったことは忘れないよ。 敷布に字を書いて、のぼりを作ったり、ユカタに編
   笠をかぶって応援をした菅井さんが、ハカマを穿いて応援団をやったよ。
釜 神 私の青年の頃には、安全なランプを灯して、演芸会の練習に水谷さんによく行ったよ。
司 会 個人の家に集まって練習したのですね。
小川藤 岳上さんのお姉さんは、清原松太郎さんの書き下ろしの脚本で魔女の主役をやったよ。
小 川 川西で一番最初にラジオを聞いたのは、私が小学校の4,5年生の時で、当時のラジオは手作りで、みんなが集まって聞いたが雑音が多くて、何を喋っているのかよく理解できなかった。
    川西で電気が一般の家庭に導入されたのは、戦後でその前に小池さんと、伊藤さんが澱粉工場の電力として、電気を引いていた。
宮 本 弁士がついた映画も、川西で上演したことがあるよ。
司 会 正月には百人一首を、あちらこちらの家に遠征をして遊んだと聞いているが。
宮 本 子供の頃、今日はカルタ取りの日だと言って、私の家に大勢集まって、百人一首をしていた記憶がある。
岳 上 原田の家には百人一首をする者がいなかったが、毎晩大勢集まって、にぎやかだった。
小 川 小玉さんに、草葺きの離れがあって、そこに毎晩の様に行った。

   当時のカルタ取りの親分は新宅さんや、中川武さん、水谷さんが中心になってやった。
高 桑 ランプのホヤに新聞を掛けたり、ランプの下に紙切れを下げて、ランプにぶつからない様にした。 又大勢集まる時には、ランプの蘂の大きなのを借りてきた。

司 会 皆さんの結婚式の様子などを教えて下さい。
藤 崎 うちの婆さんは、興部から馬橇に乗って来た。
司 会 爺ちゃんは、出稼ぎに行って見つけて来たんだね。
小 川 嫁さんの荷物運びには、ずいぶん沢山行ったよ。
   昭和10年頃の結納金は30円位だったと思う。
黒田花 私は払った方だが、百円だった。 それで下駄箱、タンス、鏡台など、全部買うことが出来た時代だよ。
江 沢 私は昭和23年に、1万円だったよ。
吉 本 私なんか、5円だった。
釜 神 私も同じだったけれども、5円で色々な品を買うことが出来たよ。
司 会 今とお金の価値が異なるので、高いとか、安いとかは仲々わからないですね。
黒田花 私なんか、3円8銭だったよ。
小 川 戦時中の嫁さんの支度は、国民服だった。
司 会 今の農家では、結納金は少なくても百万円ですね。

司 会 予定の時間がずいぶん過ぎてしまいましたが、皆さんの色々貴重な体験を聞かせていただき、ありがとうございます。
    最後に21世紀に向かう、川西自治会に臨むご意見がありましたらお話し願いたい。
小 川 先の事はわからないが、私達が生まれて60年、70年の歳月よりも、これからの60年、70年は、うつり変わりが少ないのではないか。機械化が進むにつれ、人間の価値観はだんだんなくな
   る様な気がするが、川西自治会が開基百年を機に、益々発展される様に望みます。

司 会 大変長い時間、御協力をいただきありがとうございました。

 
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第2章 川西への回想
湧別大橋を 通りぬけると 眼前が一度に開けて
一望千里 緑の沃野が拡がる

 現在川西で活躍中の人も川西で育ち、都合で
他所に移られた人も一様になつかしく思い出さ
れるのは冒頭の言葉にある川西の風景だ。 それ
が四季によって趣が変る。 この地に生きた現に
活躍の方々の回想を聞こう。

  メルヘンの里・川西の面影 岩渕 一男

 川西を離れて20年もたった。昨日のことのようにも感じる。
赴任したのが、昭和42年。 転任したのが、昭和47年、5ヶ年間お世話になった。
 あの美しく高いトンネルのような欄干の湧別大橋を湧別の方から通り抜けると、眼前が一度に開けて一望千里の緑の沃野が広がる。
 点在する赤いサイロと洋風の感じの住宅、三々五々悠々閑々と草を食む牛の群れ。 それがコバルトのオホーツクの空と海におおわれ、おとぎの国を想わせるのが川西だ。
 川あり、湖、海、山も結構深く、秋には山ぶどう、こくわもなった。
西5線の大水さんの前を、山手の方へ5号あたりまで行くと、密林のような雑木林で小鳥の楽園だった。 ここを先途と喋り、その声を競っていた。 海岸の7線から湧別川口までの海浜は、野津牧場で、藪あり、原生花園であり、穴居跡が史蹟にもなっていた。 自然即教室が川西小学校だった。

 やや専門的になるが、各学校には各教科毎にカリキュラムを作製して、これによって学習し評価していく。 専任の星幸男校長が 「国語科の同時同題材の指導研究」 を行い、 「研究紀要」−研究発表誌−として発行する。 又国語科の自学自習の為の手引きを作る。 道徳教育のカリキュラムも、日常直接指導に役立つ素晴らしいものも引継いで下さった。
 私の代には、校舎の一部改修、校長住宅の新築、川西公民館の建設、細かいことではグランドの整備、花壇の造営等々、施設設備の方でも結構忙しかった。
 川西校の沿革ですが、明治41年12月14日に、湧別尋常小学校川西特別教授所として発足している。 明治44年7月7日、湧別尋常高等川西分教所に昇格し、島村戒三郎初代校長となる。
 大正5年11月4日 川西尋常小学校に昇格。
 昭和13年3月    島村戒三郎氏  退職。
 2代目の校長として伊藤鶴吉氏が着任。
 島村校長は、実に27年の長きに亘り、校長として僻地の児童教育に
 尽瘁する。
 昭和46年元旦に継ぎのような年賀状があった。
  謹賀新年
  あけましておめでとうございます。私は84歳の年を健康でむ
  かえました。御校には明治42年4月1日より明治44年3月3
  1日まで、2ヶ年間お世話になってきたものです。父兄の方に
  は大変お世話になりました。よろしく申しで下さい。
   年頭にあたり御健康をお祈りいたします。
    元旦
         苫小牧市   岡島梅之助

 岡島先生21,2歳頃の青春時代だった。
 湧別小学校との統合の話しは、私が赴任した当時からの懸案で、諸条件が整備されるまで持とうということで、転任してから統合された。
 学校は、新1年生を迎えての4月の新学期が、一番新鮮みが溢れ活気がみなぎる。 勉強も気合いがかかる。 唯、4月は各種関係団体の新年度の準備会議が多く、受持の児童に迷惑がかかる。 児童も知ってはいるが 「今日もお出かけ、自習の1日か」 と愚痴られる。
 この子たちの言うことはほんとうだ。 教育は、離れては成り立たない、と今でも思っている。
 記念誌に寄稿の栄誉を与えられ、心から感謝します。

  瞼に浮かぶ思い出の数々  大柳 勇一

 川西の開基百年を迎えるにあたり、川西の皆々様方に、心から深くお慶び申し上げます。 思えば昭和45年3月末、あの生まれ育った、住み馴れた忘れる事の出来ない古里川西、何十年も私達家族共々、皆々様方の暖かい情愛に包まれて、多大なるお世話になり、幸せに過ごさせて戴きました事、22年過ぎ去りし現在も、只の1日も忘れる事なく限りなく感謝の念で一杯で御座います。川西を去った跡も、郷里の思いは深く心に刻まれて居ります。
 子供の頃、春に猫柳が芽をふく頃になると、堅雪の上で木の枝を折って、刀を作り 「さむらいゴッコ」 をやりながら森に、山に、川に、或る時は朝日の出る前に、流氷の去ったオホーツクに、毛ガニを拾いに行き、空腹で長距離を歩いたので、疲れてやっとの思いで我が家にとどり着いた事。 又、尋常小学校2,3年生頃であったでしょうか。 島村戒三郎校長先生、岳上徳一先生がおられた頃です。 春から夏にかけて、天気の良い日、よく海へ散歩に連れて行ってくれました。 あの楽しさは、一生忘れる事が出来ません。 波打ちぎわで、砂を掘って穴をつくり、波にこわされてまたつくり、砂の上で相撲をとったり、波打ちぎわをはしゃぎ飛び回り、ズボン迄びっしょりぬらした。 其の時ふと、青々とした海の広さに、子供心に感動した一瞬、今も記憶に残る。 また、懐かしいな・・・川西校舎、グランドよ・・・毎年夏一番の運動会。 小学生を初め、青年、老人迄の連合運動会。 盛大であった、各線体腔リレー等張り切ったものだ。 色々な競技をして、お昼のお弁当を食べ、部落全員でにぎわった。 値日土の運動会が終わって、三々五々に帰宅する頃、当時を偲び30年余前の遠い郷里の空を瞳を閉じ思い起こす時、何か遠くから聞こえてくるではありませんか。 あれはたしか、仔牛や綿羊の鳴く声です。 のどっかなカッコウ鳥の声も聞こえますね。 それと、とてもとても雄大で、静かな平和を物語る農村川西の楽しい1日であった。 永遠に忘れることなく心のカメラに写し込まれて居ります。

 そろそろ夏も深まり、7月17日、川西神社のお祭りがやって来る。 其の頃は真夏の農繁期、1日の農作業を終え毎晩のように、演芸会の練習で、夜更かしの連続ではあったが、決して苦しいとは思わなかった。 想い出多い青年団生活、悩ましき楽しい青春を飾った一ページでもあった。 今、自分の頭をよぎる事は、戦後世の中の状勢と共に、農業の経営形態が、次第に変わりつつあった。 北方地帯の農業は、畑作から畜産へと、半畜、半農そして専業へと移行。 その頃、貸切バスで他町村への視察、農業関係の指導者達は、農協、役場、畜産専門技術員、諸先生方の講演、御指導の数々、当時は、乳業会社の獣医さん達迄もが親切に色々と御指導下されました。 私もおくれながらに、諸先生や部落の先輩の方々の暖かい御指導のお陰で、酪農に胸ふくらませること十数年。 その中で、酪農をテーマに夜の更けるのも忘れて友人達とのディスカッションの数々。 郷里の想い出は絵にも歌にも書き現すことの出来ないものが、深く深く脳裏に刻み込まれ、楽しかったあの頃、私にとっては第二の青春時代と言っても過言ではありません。 有難う御座いました。 川西を去った後も、私は昔から旅行が好きでしたので、夏から秋にかけて暇をみては家内と二人で数年に亘り、道内の沿岸地帯を初め、内陸から離島へと、全部見物して参りましたが、去ってみてしみじみ感じました事は、湧別町程よい所はそう数ありません。
 それは、第一に自然が素晴らしいのです。 あの青々とした、新鮮で而も男性的なオホーツク海、そして静かなる女性的サロマ湖、マス・サケの上がる堂々たる湧別川、氷を割って釣りを楽しむシブノツナイ湖、野に育つ山菜は、北海道一というより、日本一風味が強く味が良い。 オホーツクの海産物は、失と味の良い事抜群だ。 そのような豊かな自然環境に暮らす多くの人達は、都会にはない美しい心と、人情溢れる古里だ。 懐かしく懐かしく川西を思う。

  
  堅雪を渡っての毛蟹拾い  小川 馨子 (旧姓堀川)

 川西に11戸が集団入植して、今年で開基百年を迎える由、誠におめでとうございます。 一口で百年と言っても本当に永い年月ですね。 明治の入植、先輩の方々がかなりの苦労をなさった事と思います。
 私達の計り知れないものがあったと思います。 この素晴らしい記念事業に、記念誌を発行との事で少しでもお役に立てれば嬉しい事です。 私は学校卒業と同時に他処へ行ったのですが、子供の時の想い出等を書いて見ます。
 昭和5年4月に1年生に入学。 国道と言っても馬車が一台通れる位の、砂利道2キロの道を毎日通学、登校時は姉や妹達と一緒ですが帰りは一人。 道路の両側は大きな排水、そして熊笹が生い茂って、5線からは私(堀川牧場)の処迄は一軒も家がありません。 それに隣りの野津牧場は国道から今のお宅迄は落葉樹が生い繁って暗く恐ろしい感じでした。
 夏は道路に蛇が昼寝をしているか、渦巻きになって首を上げてあたりの様子を伺っているのです。 こわくて生きた心地もありませんでした。 でも楽しいこともありました。 五線の川で手拭いでドジョウをすくった事もありました。
 郵便配達さんが学校へ郵便物を持って来て、「今日はお宅一軒しか配達が無いの」 それで頼むねと言って飴をくれた事もありました。 それも楽しみでした。 5年生頃だったと思います。 新しい校舎が建ちました。 餅蒔きをすると言うので何時間も前から行って待っていた記憶もあります。 学校の近くで馬頭さん のお祭り、昼は剣道大会や相撲等、夜は演芸会があって賑やかでした。 帰り道端に蛍の光が綺麗でした。
 3月の中過ぎ頃、堅雪を渡って海岸に毛ガニを拾いにも行きました。
けれど朝寝坊をするとカニは海に入ってしまって小さなかにしか拾えないんです。 朝日が出ない内に行かなくては駄目なのです。
 堅雪の上を歩いて兎の輪をかけて兄達と兎の足跡をたどって、出そうな場所を探すのですが一度も捕まえたことはありませんでした。
 信部内側の大谷地は毎年春の雪解け頃、大水が出て橋が全然見えなくなり馬も通れなくなり大変でした。
 お正月は何処へ行く事もなく、箱馬橇にユタンポを入れ牧場の中を、鈴を付けた馬でチリンチリンと走らせるそれも楽しみの一つでした。 時折、湧別のお寺参りするのに川西を通りますが、懐かしく息子や孫達に昔話を聞かせています。
 今は昔の面影は全然無く、皆さんのご苦労が報われて肥沃な畑が広がり、草を食む牛の姿を見る時昔の荒地が現代にマッチした姿かと頭の下がる思いです。
 祖先の意志をついで益々の発展と、皆様の健康を記念致します。
    平成4年5月

  青春の絵巻物の中味を  小川 藤子
 戦前の思い出、それは73歳の私にとって大切な宝物のような、懐かしい思い出の数々であり、夢も、希望も、青春もおり込んだ、一つの絵巻物であるのだ。 今其の宝庫をちょっとだけ開いて見よう。
 物心ついた時すでに私の家は川西一軒だけの店だった。 店の前には丸太棒が幾本か立てて有り、夕方畑帰りの小父さんが馬車を丸太棒にくくりつけて、モッキリ一ッパイッと元気よく入って来る。 学校から帰ると店番をしていた私は、すぐ四斗だるの栓を抜いて酒を片口にコトコトと入れて一合コップを小父さんの前においてついでやる。 真中がふくれ上がったようにつぐと小父さんはうれしそうに、口を近づけてチュッと吸った。 私は段々酒をつぐのが上手になった。 漁場もあって若い人達が入れかわりに呑みに来た。 とっくみ合いのけんかも珍しくなった。 鼻血を出したり、こぶを作ったり、でもあまり怪我などしなかった。 其の度母はランプを持って安全な所へと移動して居た。
 当時川西では車はもちろん、自転車の有る家は珍しかった。 若い人達も、余り遠くへは遊びに行けなかった。 人のよい父母は何かある度、家中を解放して若い人達の集会所となって居た。 正月にはマントを着てえり巻きをした青年や、新しい雪げたでしばれた雪をふむ、キュッキュッと言う音をひびかせて角巻を着た娘さん達が大勢集まってカルタ大会が毎晩のように開かれた。
 うすぐらい台所では母が、大なべに甘酒を沸かしてごちそうしていた。
 どこの家でも子供が多かった。 小学校を出ても皆家を手伝っていた。
 運動会にもなると川西中総出で楽しんだ。 生徒も百人近くいた。 小さい子供達がゴム風船をふくらましてピーと鳴る笛、あれを聞くと心が浮き立った。
 お祭りも又楽しかった。 其の日の為にけいこを積み重ねた青年男女が歌に、おどりに演劇と盛りだくさんで、村人は夜の更けるのも忘れて笑い興じた。 幾日か過ぎても其の話題は皆をたのしませてくれた。
 お盆には盆おどり、老いも若きも一緒におどりを楽しんだ。 当時2年生位だった私は、友達とかくれんぼをするのが好きだった。 くらい物かげには三、三、五、五、色々のドラマがくり広げられた。 其の中をキャッキャッと通り過ぎるのが面白かった。
 雨降りにはどこの家でも御馳走した。 雨降りの午後、学校が終わると一目散に家へかけこんだ。 うどん、まんじゅう、小田巻、こうせん、これが最高のごちそうだった。 だが昔のたのしい事ばかりあったわけではない。
 何人か店へ集まった小父さん達は、打ち続く不況に暗い顔で、このままでは首つりしなけりゃならないと言っていたのも聞いた。
 テレビドラマのおしんも何人かいた。 小学校へも行けず、お金持ちの子守奉公をしていた。 女の人が馬を使うのも当たり前のことだった。 二頭引きで重いプラオを持つと安定感があって好いとさえ言っていた。
 農家がいやだとでも言おうものならすぐ、アイツは怠け者だとのレッテルを張られた。 だからこそ物の無い戦時中にも、工夫と努力で病気もせずに生きて来れたような気がする。
 ではここらで懐かしい思い出のとびらをしめよう。
 うつり行く新しい好き時代の若人達に心から拍手を送ろう。


 
  愛してやまない故郷   佐藤 玄徳

 突然の原稿依頼で、驚き、そして投稿できることを喜んでおります。
 川西を離れすでに30年余も過ぎ、川西の音信は、小学校時代の数人の同級生と交す年に一度の年賀状から、かすかに伺い知る情報のみです。
 私が川西にお世話になったのは、父が徴兵のため、中湧別から母の実家(本宮)のある二線の地で、終戦も間近い昭和19年と思います。 その後終戦を迎え農業を営み、川西を去るまでの16年間でした。
 原稿のテーマが 「川西の思い出」 ということですが、この紙面では、言い尽くすことは全く不可能な程、思い出がいっぱいあります。 しかし、限られた字数の中での投稿ですが、その一部を思い出として記すことにします。
 昭和23年川西小学校に入学しましたが、当時同級生は22名、全校生徒は100人位と思います。 学校は現在、廃校となっているとのことですが、教室は2教室で、1,2,6年生が1教室、3,4,5年生がもう1教室という編成でした。 したがって、1教室に兄弟姉妹が何組もいるということは全く珍しいことではありませんでした。 私などは、4人兄弟でしたので、必ず兄弟姉妹が教室の中で互に監視しており、授業の内容、教室内での出来事など、帰宅後母に告げるのです。 これには、私も6年間悩まされ続けました。
 自宅(二線)から学校(四線)の道のりは一キロ程度と思いますが、この間、三線に小川(実は暗渠排水)があり、そこには、ドジョウ、タニシ、ザリガニ、夜には蛍が飛びかっておりました。 春には、三線の友澤さん宅の反対の道路側に水バショウが咲き、馬頭神社の裏の窪みには、雪どけと同時にオタマジャクシがいた。 当時の様ウジ教育には申し分のない最適な環境があり、学校に着くまで一時間はかかったものです。
 夏には神社で 「馬頭さんのお祭り」 があり、露店が、相撲大会、夜には、学校で映画が上映され、終われば星空を仰ぎながら家路につく、楽しい一時の思い出は強烈でした。
 学校から、現国道に出た四つ角に、小さな(二坪ぐらい)「野田マーケット」があり、年老いた小太りのお婆さんが経営しておりました。 そこには、私達の目を引き付ける商品が山と積まれ誘惑を誘ったものです。 時には、その誘惑に負け、家からお金を持ち出し、ガム、キャラメルを買い、5円、10円でひけるクジがあり、そのことが学校に知れ、母に知れ、大変なお仕置きも今は懐かしい思い出です。
 春は畑おこし後に、あたり一面に立ち昇る蒸気、又夏は畑一面に敷きつめられた緑のジュウタン、秋はどこまでも届く人の声、どこからともなく聞こえてくる虫の音、冬は一面純白な雪。 私の心の中には、いつもこのような風景が思い出されます。
 人生の中で川西での16年は決して永い歳月ではないかもしれませんが、一番大切な 「心の創成期」 に、このような自然と人情豊かな川西で育ったことは、私にとって最も永く感じた幸福な時期でした。
 今、旭川市に在住しておりますが、旭川の人となって15年を過ぎたこの土地は、川西に比べようもない、味気のないものです。 現在の生活の状況が許せば、もう一度川西で住んでみたいと、望郷にかられる思いでいっぱいです。
 川西が開基百年を迎えられたことは、幾多の先人の方々、そして現在も立派にこの地を守り続けてこられた方々がおられたからと確信いたしております。
 どうぞ、永遠にこの地から川西の名を守りいただき、後世に引継いで下さい。 私達のように、事情があってこの地を後にした者にとっても、心の中で唯一の故郷として愛し続け、生涯忘れることはありません。
 末筆ながら、ここに投稿させていただけたこと、「生涯の幸栄と思っております。 益々、川西自治会の繁栄をお祈りいたします

 
  時は流れても変らぬ山川   関口  清

 思い出、去りゆく日々を思いおこして・・・ふるさと・・・古里・・・故郷。
何とも言えない響きである。 味がある・・・風がある・・・香りがある。
 昭和21年、満州で母と姉とに死別し、父兄姉たち一家5人で引きあげ、下湧別に住みついたが、昭和24年、私が小学校2年生の時に、今度は川西7線に引越した。 そこは荒れ地で人間が住むよりも、むしろ獣が住む方が良いような土地だった。 父は、一鍬、一鍬に将来の希望を託し開墾をした。 そんな父の姿を見、私は開拓の辛さや厳しさを痛感していた。 幸い兄姉の愛情に育まれ、強くたくましく生きる、ということを体験していった。 そんな生活の中で苦しい思い出も、楽しい思い出も、たくさん心に残っている。
 当時の日本は、戦後の混乱期から躍動の日本へと一歩一歩進んでいたが、まだまだ急速に進行するインフレのなか、国民は耐乏生活を強いられていた。 そんな折り、わずか11歳で荒廃した街角に明るい灯をともした天才少女、美空ひばりのデビューであった。
 一方、川西での私は、明るく元気な少年であったと思う。
 村をあげての運動会。 子供も大人も青年団もいっしょになり、時を忘れる程の興奮の渦。 この時ばかりは農作業を休み、家族皆が楽しむ1日であった。 私は子供の頃、体は小さかったが走るのは早かった。 校内紅白リレーや学校対抗リレー、各線大綱リレーには、いつも選手として選ばれ思いっきり走った。 他校リレーはスタートだった。 自分の手から第2走者の中尾幸子さんに渡り、水谷恵美子さん、浅井博之君とリレーされ、2位だった。 各線対抗でもスタートだった。 次から次へとバトンが渡りアンカーの斉藤さんの手にリレーされる光景が今も鮮明に思い出される。 7線はいつも優勝した。 子供ながらも選手として活躍出来たことが、大の自慢であった。 運動会でもらうノートや鉛筆などの学用品は、とても大切でありがたい品であった。
 学芸会も大きな思い出の一つである。 劇で動物の役を演じたことや、「虫の声」 を独唱したことが、今となっては心地良い緊張感と共に思い出される。

 村の祭り、青年団主催の演芸会も楽しみの一つであった。 姉が友人と2人でドレスを着て踊っていた姿が目に浮かぶ。 まあ大正、相撲大会では”3人抜き”をして筆入れをもらった時は、思わぬほうびに、小躍りして家へもどったものである。
 母親が居なかったので、運動会や学芸会には兄嫁が仕事を休んで必ず見に来てくれた。 よく出来たりすると、とても喜んで褒めてくれた。 うれしかった。 兄嫁には今でも感謝している。
 楽しい思い出と共に”よそもの”として扱われた頃の辛い思いも忘れられない。 大農家の力関係が子供心にもわかっていた。 いじめられた事も多くある。 教室の中で、大ゲンカになり、机のふたを投げられたこともあった。 クラスのガキ大将(誰とは言えないが)とのケンかも今考えると、正義感や、じっとしていられない性格がこの頃できあがりつつあったのかも知れない。
 もう一つの辛い思い出は、生活物資が少なかったことである。 ランプでの生活は不自由だらけであった。 勉強は飯台の上で、兄姉に教えてもらったが勉強道具も充分には揃っていなかった。 家の手伝いも色々分担させられたが、小学校3年生の私が最もやりたくない仕事は、夕御飯作りだった。 特に冬は、学校から家まで雪のために道路も見えなくなり、ひたすら雪をこいで、家に帰っても家の中は暗くて寒く涙がこぼれたものである。 両親が揃っていて、母親が家で待っている課程がとても羨ましかった。 厳しい自然と広大な土地から学んだ不屈の精神は、まぎれもなく今の私の源である。
 僅か4年間の川西での生活であったが、私にはかけがえのない故郷である。 槌のにおいや、人々の暖かいぬくもり
   ふるさと、なんてすばらしい処だろう。

  ふるさと−
   うさぎ追いしかの山  こぶな釣りしかの川
   夢は今もめぐりて  忘れがたき  ふるさと
 湧別橋は今も変わらず交通の要として立派な姿で歴史を刻んでいる。
 ふるさとの山、川、風、温もりの土、みんなありがとうございます。
  平成4年5月

 
開基百年記念に同級生よ思い出の輪をつくろう  滝本 源造

 川西開基百年を迎えるにあたり、心からお祝い申し上げます。 一口に百年と申しますが、明治、大正、昭和、平成に亘り、今日の輝かしい川西を築かれた先人の偉業と、更には、現在の発展に尽くされた、郷土の皆様方に、心から敬意を表します。 小生も郷土を離れて早くも、42年を過ぎようとして居ります。 現在は、地域の人々に支えられ、理容業として生活して居りますが、比較的、郷里に近い処に居る事もあって、川西街道を度々車で走る事がありますが、小生の実家は今は無く、(兄、広見は、昭和45年に離農)、赤く錆びたトタン屋根の牛舎と、トド松が数本、高々と聳えている。 そんな姿でも良い、つい、車のスピードを落として横目で見てしまう。 幾つになっても故郷を忘れられないのは私だけでしょうか。・・・今は、牛舎を佐藤春之さんに使用して頂いて居るそうですが、松の木は小生が兄達と一緒に、小さな苗木を植えたのが、今では大木となり、あの松が郷土の長い年月を物語って居るかに思います。 又川西小学校の姿も、忘れられない一つです。 あの校舎で、今は亡き、すばらしい教育者であった伊藤鶴吉校長に、厳しく松葉杖でお目玉を食ったこと、又、青年団時代、ろくに吹けないハーモニカを持って、演芸会の舞台に立たせて貰ったこと、40数年過ぎた今でも、小生の脳裏で走馬燈のように駆け巡って居ります。 川西で産声をあげて、17年間の短い青少年時代であったが、私としては、充実した日々でした。 小学校時代は、大東亜戦争に始まり、大東亜戦争に終わりましたが、私にとっては決して豊かな時ではなかったはずです。 しかし、あまりみじめな気持ちになったことはないように思います。 ここ近年、妙に郷里の人々が思い出されてならず、学生時代の仲間を集めたくなって、昭和63年に川西小学校卒業生の小生の級と、1級先輩と、1級後輩の3級を集め、温根湯温泉で旧交を温めました。 (16名参加)。 中には半数以上の方が、40数年振りの再会であった。 その時の同志の感激ぶりは、5年を過ぎた今でも忘れることは出来ません。 今年は(弊政年)、再会の約束の年です。 一同は再会を楽しみに待ちわびて居ることでしょう。 現在、紋別にも多くの川西出身者が居られます。 掛橋幸博さん、中渚滑の加藤時義さん、旧姓小玉たま子さん、水谷富美子さん、藤本ヤスさん等、大勢の方が居られますので、川西開基百年を機会に、紋別に川西会を作りたい、そんな思いを持って居ります。 今日の川西あkらは、湧別町長、農協組合長、湧別町を代表するすばらしい人材を産み出しておられます。 小生と致しましても、川西の地で生まれ育ったことを誇りに思っております。 これからの川西が益々、輝く郷土でありますことと、百年記念事業が盛大に行われます事を、心からご祈念申し上げ、思い出の一端と致します。
    平成5年3月

わが青春の思い出  友澤 市男

 此の度、川西開基百周年を迎え記念誌を発刊するに当り、青年時代の寄稿依頼が有り、記憶をたどりながら書いて見ようと思う。
 私が高等小学校を卒業したのは昭和15年で、当時は支那事変が長期化して、血気盛りの若い人々は戦地に召集され、老人と婦女子が銃後を守り、今の様な機械は無く、馬と人力だけで、春の蒔付けから雪の降る迄、お盆休みも出来ない仕事に追われる多忙さで、食事も 「麦飯」に「タクアン」「味噌汁」と言う貧しさであった。 戦争の長期化で次第に戦時体制が強化され、青年学校も義務化されて毎週半日、軍事教練を受けなければならなかった。 昭和16年12月8日、大東亜戦争が始まり更に男は次々と召集で戦地に赴き、銃後は私共青年と老人女性となり、すべての物資が不足し、食糧始め資材等すべてが統制品となり、自由に買う事が出来なく「ほしがりません勝つまでは」の合言葉で、戦勝を信じて頑張りました。 破竹の勢いであった戦争も、「アッツ島」「キスカ島」の玉砕から次第に戦況が悪化して、本土決戦が言われる様になり「徴兵制度」も改正され繰り上げ徴兵となり、昭和20年3月、釧路熊部隊に入隊し、一期の検閲が3ヶ月で終わり、その後本土決戦にそなえての陣地耕築中、7月15日釧路大空襲に逢い、sんそうの悲惨さを身を以って体験する。 夢にも思わなかった敗戦をむかえて9月20日復員したが、男は米穀に連行されるとか色々な流言があり、混迷の状態でしたが、次第に米国の占領政策や「進駐軍」の状況から落ち着きが出て来て、不安が徐々にうすらぎ、秋の収穫作業も雪の降る迄に終わらす事が出来、安心して働く希望と活気がもどってきた。
 銃後の守りと食糧生産の主導的な役割になって来た青年団も、敗戦のショックから解散の状態でしたが、同志の皆さんから青年団を結成しようとの気運が高まり、昭和21年1月20日、男子42名、女子32名、合計74名で盛大な結団式を開催、再発足をしました。 活動資金は団員の出役で「亜麻運搬」「馬草刈」「暗渠排水掘」等を請負、自ら資金造りをし、当時は文化娯楽施設も無い時代で、児童青年の運動会とお祭りは部落をあげて子供から老人迄の楽しい行事で、特に青年の演芸は大変喜ばれ最高の娯楽であったが、毎夜の練習は大変だった。 和と団結の上で青年活動の大きな成果が有ったし懐かしい思い出である。
 これ迄は集会や青年の会合はすべて学校を使って居り、好適な施設で色々と制約があり、自由に集まり話合える青年会館を自分達の手で建てようと気運が盛り上がり、21年11月、総会に会館建築の主旨を説明し温かいご理解を得て、昭和23年建築目標に不足金4万円(労賃100円頃)を団員の出役で造成決定、冬期間寒気厳しい中「暗渠排水掘」を初め「湧別橋工事」等一致団結資金造りをすると共に、当時まだ物資の戦時統制が続いて居り、自由にものを買う事が出来ず、特に釘やガラス、入手には大変苦労した。
 まあt青年会館としては建築許可が取れず、役場の指導協力によりようやく許可を取る事が出来た事が思い出されます。
 23年4月25日、団員全員で待望の上棟を終らし、その後壁付や外下見板、腰板はり等自分達の手で仕上げて、ようやく完成する事が出来9月17日、盛大に落成式を行い、「川西青年会館」として発足したのです。 以来研修、講習会を始め青年活動は申す迄もなく部落、婦人の会合等、20数年役割を果たして来たのです。(建坪27坪、総工事費8万6千円、部落寄附4万円)以上、
 拙文ですが、私に与えられた責を終わらせて頂きます。
 未開の地に開拓の鍬が入れられ、自然の厳しさの中で血と汗と涙で築かれた100年の歴史をふり返るとき、先人の不屈の闘志に敬意と感謝を捧げると共に、益々の発展をお祈り申し上げます。


学校統合のころ  豊村  修

 昭和46年4月1日付けで私は川西小学校に赴任しました。 川西との最初の出逢いの好印象としての思い出は、静かで落ち着いた環境の酪農地帯で、平坦な草地が続き、視野に入る家々の牛舎にへばり着いて、ニョッキリと茸型のサイロがツンと建っていて、カラフルな牛舎のトタン屋根が、牧歌的な情緒を醸しだして、尚一層に私に憧憬心を唸らせました。 この年の春の遠足は五鹿山へ行きました。 サクラの花が丁度満開でした。 タンチョウから見下ろしも、山元から見上げても、花・花・花でピンク一色の桜花の中から只々児童の歓声が響いてくるだけで、姿は花に包まれて全くのお伽の国の様でした。
本当に感嘆の一語に尽きるだけでした。
 そして夏。 シブノツナイ湖の思い出は、湖の岸辺の砂地に両手を入れてさっと掬い上げ、指間から流れ落ちた土砂と湖水の後に残った物はと見極めれば、なんと両手一杯のシジミ貝でした。 たった一掬いでこんなに採れるなんて驚きでした。 つい「こんなに一杯採れるなんてすごいや、これは明朝に味噌汁ものだ」と声を出した途端に「これは意図的に放流した貝で、勝手に採っても持ち帰りも厳禁だよ。 あそこの看板にも書いてあるよ」と児童に諭されて赤面した一場面もありました。 湖とオホーツク海の周辺はじつに美しい。 規模は広くないが、正に川西原生花園だと私は独り決めしています。
 私が着任した時は、まだ、学校統合の話しは水面下でしたが、実際は可成り進んでいた様でした。 数回の話し合いは持たれましたが、父母や児童の不安を残したまま統合は決まりました。 昭和47年4月1日付けで名目統合・川西小は湧別小の分校になり、岩渕校長・今、先生は転出し新たに、鈴木哲也・山内秀治の両先生を迎えました。 在任の葛木登茂子先生と私も入って4人体制で、「川西の児童が統合になって、大勢に伍しても引けをとらない川西っ子に育てよう」 という意気込みで頑張りました。 児童達も頑張りました。 それを支える父母と地域の皆さんも御支援下さいました。 四季を通しての学校行事には、農事御多忙にかかわらず御参集を頂き御協力を賜りました。 本当に有り難かった。 お陰で最後の思い出も沢山残す事が出来ました。 今でも感謝しています。
 3学期に入り、俄然教師達に多忙が増してきました。「記念誌の編集・諸帳簿の整理・備品台帳の整理と照合・本校に移す物」等先生方には心身共に疲れる時期に大変な負担を掛けました。 又、PTA山下良雄会長も奔走して下されて、大変お世話下さいました。 さて、閉校の諸行事や仕事も終え、愈々本統合となり、4人の教師も心を一つにして本校勤務が決まりました。 このことは正直言って、川西の父母と児童にはわずかですが安堵感を持って頂けたのではと思っています。
 そして翌48年4月始め、スクールバスでの通学が始まりました。
 私は47年、名目統合と同時に要請で、市街地から川西に移り晴れて、川西の人になれました。 思い出として、「水道のモーターの故障続出」でした。 断水はある。 故障個所不明、ポンプ屋さんは夜や早朝は駄目だし、中尾さんを煩わしました。 スケートリンク造り・グランドの水溜まり排水作業・色々ありました。 有難う御座いました。 又、46年の着任時に、小谷さんの旧家屋に入ることが決まり、「今度は広い家に住めるぞ」 と家族一同楽しみにしていたのに、何故か取り止めになってしまった。 残念でした。 あれから20年以上を過ぎた今日、未だ健在の住宅を見る度、当時のことを思い出します。

 川西も百歳を迎えました。本当におめでとうございます。
 立派な先人の足跡を継いで、されに新しく子孫に誇れる足跡を築かれますことを祈念いたします。 川西万歳!!万歳!!

婦人活動のあゆみ  友澤 ノブ

 川西築開基100年を迎えたことに対し、心からお祝いを申し上げますと共に、先人のご苦労に対し、心から敬意を表します。
 私、昭和24年12月8日友澤に嫁いで来ました。 太平洋戦争後まだ落ち着かない時であった。 委嘱はすべてお金だけでは買う事ができず、統制され、切符制であった。 嫁ぐ私のために家族全員のキップを使い一枚の着物しかできず、後の着物は母のを染めたり、物々交換で手に入れた物であった。 物資を持たない日本は、外国からの輸入が止まると、あれほどあった物が一週間くらいで店頭から消え、市街は死の町となり、暗い気持ちになった。 思えば戦争中は活気があったが、戦争に終止符が打たれると、食を持たない都市の人は路頭に迷った。 ある人は水が雪がこれほどおいしいとは思わなかったと言う。 学校の校庭までが畑となり、イモ、カボチャが作られ、人間にとっていかに食が大切かを思い知らされた。 農家には食糧があるからと言って、ぜいたくをしていたわけではない。 安い価格で供出をし、生活の安定に力をそそいでいたのです。 農業はすべて馬力と手仕事であった。 隣近所はとても仲が良く、手間がえをし、又飴が降り出せば早く終わった家の者は手助けに行く、今も続いている、この事は農業が永年培った相互扶助のためであろう。
 時世も随分と落ち着き、外に目を向ける事が出来る様になり、昭和30年頃から婦人部活動が活発に動き出した。 地域婦人部では一夜講習や、講演がさかんに行われた。 又温泉旅行もぽつぽつ行ける様になりました。
 川西としては砂糖、石けん其の他雑貨等を訪問販売をし活動費とした。 一番大きな行事は青年部と共に、敬老会を行っていた。 当時は食器類又、鍋釜もそろっていないため皆で持ちよっての料理作りですので満足なおもてなしもできず、すまない事だと思いましたが、心待ちのお年寄りの明るく、たのしそうなお顔を見ますと、心がなごんだものです。
 昭和34年冬、雪の降る中を婦人部役員の肩が人で家へ来られた。
何のご用かと思いましたら、川西に若妻会を作りたいと言う事であった。 お嫁さんにも勉強をしてもらいたいからとの事であった。 考えて見ると、私も家と畑の往復の毎日だった。 現在の中尾さんの隣りに野田マーケットがありおばあさんが店番をしていた。 私が友澤へ来て10年もたっているのにおばあさんに顔を知られていなかったのには私はおどろいた。 癒えにばかりいては視野が狭くなると思い、役員の方のおさそいに応じた。 昭和35年に若妻会が結成され、いづみ会とした。 町の教育主事の由利先生に指導されて、青年会館で集会を持った。 先生は皆にマクラを持って来て、いい音楽を聞かせてゆっくり眠らせてやりたいと言った。 おそらく先生の話を聞きながら居眠りをしていたんだろうね。
 昭和36年には地域婦人部から農協婦人部に名称が変り、婦人の地位の向上と農家生活の安定の為に新たに発足を見た。
 結成当時は会議の進め方も総会の進行もおぼつかなく組合長や事務局をはらはらさせ大変お世話になった。
 現在では農協の内部組織として農協の運営に力をそそぎ、すばらしい成果を挙げている事に敬意を表します。
 若い頃は農業は辛いものと思っていましたが、土に生きるという事は、何とも言えない喜びと生き甲斐を感じている今日此の頃です。
 どうか川西がますます発展されますことを祈りつつペンを置きます。

指針となった青年部活動  中尾 庄一

 私は昭和22年戦後の開拓入植で、川西七線に来ました。 7歳の時両親・祖母・姉妹の7人家族でした。
 当時のことはあまりくわしくは記憶にありませんが、家は掘立小屋で草ぶきの屋根・牛馬が半分、住宅が半分位でした。
 昭和22年に妹が生まれ、間もなく父が33歳の若さで亡くなり、生活は一変して奈落の底へ転落してしまいました。
 母と祖母そして5人の子供、荒れ果てた原野の中でどの様な生活をしていたのか、私は小学校1年生でしたので記憶ははっきりしませんが、想像もできない苦労の連続だったと思います。 しかし一緒に入った開拓の方々、母の実家、川西地区の皆さんに励まされ、お力添えをいただき生きて来ることができました。 私が中学校に入るまでは福祉のお世話になっていた事も聞いています。 又はずかしい思いをした記憶もあります。 でも今は懐かしい想い出ですし、今までお世話になった皆さんに感謝の気持ちは一生忘れることはないでしょう。
 こんな生活ですから、中学校卒業後は、わが家ではたった一人の男でですので、当然のごとく家の手伝いでした。 そして先輩の皆さんに誘われて青年団に入団致しました。
 川西の青年団の歴史は古く、開拓の最中に青年団が誕生したそうです。 その活動は時代の移り変わりによって色々でしょうが、武道やら夜間教育やら積極的に活動を行って来た誇り有る伝統をもつ団でありました。
 私達の青年時代は戦後の混乱も大分落ち着き始めた昭和30年頃でした。 当時は団員40人位いたように思います。 馴れるまでは少し時間がかかりましたが、次第に面白さを覚え、会合に行くのが楽しみになりました。 例会や行事の打合せなど、又問題点など色々話し合いました。 又事業も、演芸会・盆踊り・交換会・歓送迎会・基本事業・機関誌の発行・湧青協行事への参加など盛りだくさんありました。
 その事業の中で、青年団に入って5年目の時に、湧青協の大会に出るために演劇をやることになり練習を重ね、出場することになった。
 会場は湧別中学校でしたが、当時は車もなく、リヤカーに舞台道具を積んで、仲間達で押したり引いたりして、運んでようやく演劇をやることができた。 そしてこの演劇が遠軽地区大会に出ることになり、更に網走管内大会(美幌)に出場しました。 その結果私達の演劇が全道大会に出ることになったのです。
 しかし私達の仲間も離農して、川西を去る人、仕事のために川西を離れた人、演劇ばかりやっていてよいのであろうか?仲間とどうしたらうまくゆくか悩みました。
 折角与えられたチャンスですし、幸い全道大会が遠軽で開催されたので、青年団の皆さんのご理解と御協力で出場できました。
 全道でも芸を競い遂に優勝を手にし、夢にも予想していなかったことで、町はじめ皆さんの心からの祝福をいただきました。 さていよいよ全国、となると先づ第一に資金の事が先に立ちました。
 この問題も当時の羽田農協組合長、清原区長、星校長が中心になって用意していただき、昭和38年、晴の全国大会に参加致しました。 常陸宮様を迎えての開会式、全国から5千人の若人が集まり、国立競技場で入場行進の感動は今でも忘れる事が出来ません。
 演劇は一ッ橋大学講堂で演じ素晴らしい体験をさせていただいたのです。
 私も幾多の苦難を辿りながら終戦後、川西という素晴らしい土地でお世話になり、成人しこの地の風俗、慣習にも融け込んで楽しい日々を送り得ますことを常に感謝申し上げております。 この川西の地に流れる湧別川の如く、何時までも清冽な人の和と、美しい自然を残したふるさとであってほしいと願うのみです。

母校での思い出深い教師生活  野津 寿雄

 私が母校・川西小学校に勤務したのは、昭和32年から40年までの8年間である。 故郷という事もあり、教育熱心な土地柄と併せて、とてもよくしていただいた。 20歳代後半のヤンチャな「でもしか先生」がよく育った(?)のも、川西小学校時代だと思い感謝している。
 その間、本当にいろいろなことがあった。 思い起こせば枚挙にいとまないが、思い出すままに列挙してみたい。
(1) 複式学級〜赴任の原因が第一次ベビーブームであるから、当然児童数も多く、旧教室を縮小した16坪の教室に背中合わせに(当時前後に黒板がついている)38名の児童を指導した事がある。 人数は多少変わっても、この形式(一方に課題を与えておいて、他方で直接指導する=教師は休まる間もないし、準備も大変であった)が続いたが、その後「同時同題材」などの指導法を採用したりもした。 もともと、優秀だったせいもあろうが、「教師が励めば児童も伸びる」という、極くあたり前のことが、初めてわかった。(今も座右の銘としている)
(2) 肉弾〜休み時間の遊びは、「肉弾」という陣取りが流行った。 短時間に勝負が付くこと、肉体をぶつけ合う(教育の神髄にもふれる)快感、時には本気で教師と子供がけんかをする、そんな一時期を経て「馬とび(馬のり)へと移行していった。 女子は、放課後ドッチボールに興じていて、ソフトボールばかりやっている男子は、とても太刀打ちできなかった。
(3) 運動会〜ライン引きの簡単な芝生のグランドでの運動会も、思い出の大きな部分を占める。 「分列行進」の振り付けに苦労したこと、それがうまくできた時の充実感は、今でも心を熱くするものであった。
 また高齢の「線対抗リレー(後に東西対抗になる)」は、まさに、圧巻であった。 ほとんど全戸から出場する選手への指示がとおらなかったり、選手の差し替えや確認に手間取ったり、ルール違反がどうのと勝敗にこだわってもめたり、ともかく大変な種目であった。 それだけに熱の入れ方も大変なもので・・・廃校になった現在まで、地区の運動会が隆盛なのも、恐らくこの辺が起源ではないかと思っている。
(4)スケートリンク〜いつの年か、大晦日に大雨が降り、凹んだグランドにたまった水が凍って、天然のスケートリンクができた。 その後雪が降らなかったため、スケートを持ってきて滑る子が出初め、その数を増していった。 次の年、自然は繰り返さず、せっかく買ったスケートは勿体ないという次第で、リンク造りが始まった。 何せ、全くの素人が雪を踏み固め、霧状に水をまいて凍らせて〜と取りかかってみたものの〜ストックの穴から水が漏れたり、水をまきすぎて氷がとけたりと、散々な目に合いながらも、一週間ほどで完成した。 その後、だんだんと作り方もうまくなり、転任してからも多きに役立ったものであった。
(5) うさぎ〜低学年を担当していたころ、うさぎを飼育した。 玄関脇や住宅の横に小屋を作って、何年か続けたように記憶する。 飼料では余り苦労はしなかった(夏は芝生の草、冬は乾草=何せ酪農地帯)が、糞尿の始末には手こずった。 コンクリートの下から誕生(?)した生命の強さに感心したり、一夜にして消えて(盗まれた)しまった悲憤憤慨など、教育の原点らしきものを数多く教えられたうさぎの飼育であった。
 そのほか、「いも拾い」 「父母同伴の修学旅行」 「スキー大会」 「町民運動会」 などなど、思い起こせばきりがない。 文才と紙面の不足を惜しみながら、開基百年記念誌に拙文を掲載できる喜びを与えて下さった方々に感謝しつつ・・・・

地域発展の願い  原田 繁雄

 私達の先人が築いた川西が輝かしい百年を迎えその足跡を記念誌にまとめ、限りない希望と発展を願う者として未来有る若い方に歴史を伝えてゆくことは誠に意義深いものであり、編集に当った委員の皆さんに心から感謝申し上げます。 私は川西に生まれ育って幸せな人生を過させて頂いております。 何事に於いても地域的なまとまりにより、皆さんで力を併せ、先進的な考えの下に川西を発展させたのは、先輩の叡知と地域の団結の偉大な力だと思います。
 昭和48年、農地の集団化事業を行い一戸当り7/8ヶ所に分散していた農地を交換分合により、皆さんの深い理解と協力により実現しましたが、これも歴史に残る大事業であります。 昭和49年、私が発起人として20歳以上の昭和生まれの年齢層により、地域社会の悩みや問題点を話し合い、お互い意志の疎通を図り各関係機関、意志反映の出来る道を開くために昭和会の発足を見ました。 昭和50年、昭和会から町議に野津一夫氏を推し、農協理事に私を、監事に高久喜三郎氏が立候補、当選させていただいた事が私の人生の大きな転機になったと思います。
 農協理事として最初に手がけたことは、平地林開発とヘルパー制度の実施を心に決めて、役員会や組合員に訴えて来ました。 昭和51年、全国農協大会で基本農政の確立と共に協同活動強化運動の推進が決議され、湧別農協でもこの線に添って運動を展開したが、私は営農分科会で平地林開発とヘルパー制度について提案しとり入れられ、昭和52年に農業委員会で特別委員会を設置し農協に働きかけ、川西地区だけが平地林開発を実施することになった。 ヘルパー制度は昭和54年に湧別農協でヘルパー制度実施に踏切り、現在では全町的な制度となって推進されるようになった。 継ぎに後継者、花嫁対策については、後継者の父兄が立ち上がり、花嫁(婿)対策協議会を設立したがそのいきさつは、はじめ農業委員会がこの対策の窓口として実施して来たが、厳しい社会情勢の中で対応がむずかしくなり、昭和30年以降、国の工業化政策によって大きく経済が成長した反面、農村人口は大都市へ流失し農家人口が急減し、酪農としてもこの波にのるための規模拡大を余儀なくされ、更に昭和48年頃から大型農業機械が導入され夫婦で充分営農が可能になったことから、次3男や娘は進学して都会に流れ、農家に嫁が来なくなるという現象が生じた。 私は安定した農業を確立するには、花嫁対策が基本であるという認識から各地域の発起人会議を開き、芭露農協と話し合って町に呼びかけ、町の配慮によって視察を行った。 結局は湧別町として全町的な盛り上がりの中で運動を展開すべく父兄の参集をいただいて、設立総会を開いて活発な活動を盛り上げた結果、後日3農協に 「結婚相談所」 が設立され全町的には 「湧別町産業後継者育成対策協議会」 が設立され、町長が会長となり、全町的な体制が確立されたのであります。
 幸いにしてご縁があり、京都の女性と湧別の酪農青年との交流を持つことになり町・農協が主体となって毎年交流会を京都で開催致し、現在までに20組が成婚された実績をふまえて更に努力して参りたい。 私たちは常に 「縁の下の力持ち」 という存在で後世のために一つでもよい事をするのが人生の生き甲斐であろうと思います。
 人生は先ず自分と家族を考え、次ぎに社会を考えるのが常ですが、家庭を投げ打って、社会に貢献するのが私の人生観であります。
 若い後継者にも恵まれ、昭和58年に川西地域に皆さんの厚い御支援をいただき、町議会議員に当選させていただいて3期目を迎えました。
 これからは先人の築いた開基百年の歴史に恥じない、湧別町と川西の限りない発展のために残された人生を燃焼し尽くすことが、私の念願とするところでもあります。

牧場人生 牛馬と共に  藤崎 豊治

 私は2歳の時、父に連れられ川西の地に入植を致しました。
 以来83年の長きにわたり、川西の皆様方と共に、暗くを分かち合って今日に至りました。
 数ある思い出の中でも、私は馬と牛が中心に有りました。 農閑期の冬場は、16歳頃から冬山造材の出稼ぎに、沼の上、遠くは、雄武、上興部、下川へと、2日がかりで馬と共に出かけました。
 当時、人馬一体で6円位の出面賃を得るためには、優秀な馬と、馬夫の腕が良くなければなりませんでした。 私は身体が大きな方ではかなったので、大きな丸太の積み降ろしは、大変な仕事でした。 又帰りにまとまったお金を持って帰る為には、人並み以上の苦労がありました。
 川西にも一緒に造材に往く人がおって、連れていったが、亡くなった本間義昭さんは、いつも黙々と稼いでいたことを思い出します。
 毎年、造材の仕事に行っているうちに、私に現場の責任を任される様になったが、百頭もの馬がそろった、大きな現場は厳しいものがあった。 責任を持たされて仕事をする様になったら、3月の仕事が切り上がるまで山を下りることはなかった。
 戦後、私の家の向かいに居た今井さんが、種馬の管理をしていたが、彼の後を私が種馬と牛馬商の鑑札も一緒に押しつけられ、本州から、馬の買い付けの連絡が来ると、私が案内をする事が多かった。
 川西では多い時には、70頭位の馬が飼われていて、農家には農耕用として1頭か2頭の馬がいた。
 湧別には六号線に、網走管内では唯一ヶ所、農林省の種馬所がり6,7頭の種馬がつながれていた。 又野津牧場は、馬の牧場として利用をしていたので、軍馬を生産していた頃から、湧別の馬の評価は高かった。
 トラクターが導入される様になった昭和40年代の後半には、川西から馬の姿が消え寂しくなった。
 その頃から急速に、牛の飼養頭数が増えて、牛の牧野放牧の気運が高まり、私に牧野の管理人の話が舞い込んできた。 私は子供の頃から馬が好きで、馬のことは理解出来たが、牛は私の家でも飼い始めた頃で、自信が無く、川西では戦前から牛を飼って経験の深い人達がいるので、彼らが管理をすべきだと何回も言ったが、たまたま牧場の枠作りをたのまれて枠場を作って帰った夜、私が寝てから、10人位の人達が酒に酔って私の家に来て、婆さんや息子に、管理人を引き受けてくれるように頼み、書類を置いて帰ってしまった。 翌朝、牛は馬より難しいので、断る話しを家族でしているところに、野津不二三や山下良雄さんが来て、今日から牛が牧場に入るので、見ているだけでいいから来てほしい、とたのまれ、とうとう川西牧野の管理人を引き受ける羽目になった。
 当時は牛と馬が一緒に入牧されていたし、牧場としての整備も充分でなかったので、「谷地まなこ」 に落ちると、長靴までうまってしまう所があちらこちらにあった。
 牛の病気で大変だったのは、ダニ熱で、有効な薬が出来るまでには、皆さんの大切な牛が、毎年ダニ熱の為に何頭も犠牲になり、心苦しい思いは今も忘れません。
 昭和55年に私の後を、岩佐貞義さんが、2代目の管理人として勤めていただく事になり、長かった牧野の管理生活を終わらせていただきました。

青少年頃の想い出  宮本 尚明

 私達の幼少の頃は(昭和4.5年頃)、国道を走る自動車は、まず見る事なく、時折りオートバイの走るのを見た位です。
 片岡さんの附近に遊びに行っていて、土煙を巻き上げて走って来るオートバイを見るとみんなで、「オートバイが来たぁ」 と叫んで、国道の方へ走ったものです。(当時の国道は舗装されていなかった)
 遊びの中にも、股の間に棒っこを入れて、ズウズウと引きずり乍ら、土煙を立てて走り 「オートバイだぁ」 と叫んだものです。
 小学校に入って(昭和7年)、一番の想い出は、遠足です。
 当時の島村先生は、遠足には必ず東の沢(今の東緑蔭)の三好神社へ連れて行って下さった。
 登山道は、人が歩く程の細道で、それが右に、左に曲がり乍らきつい勾配でしたが、私達は嬉しさで夢中になって先を競って登ったものです。 やっと頂上に達し、眼下には広大な平野、ずっと遠くにオホーツクの海が青く見える。 私達は一瞬感動のまなざしを見張ったものです。
 そして、うちの家はあの辺りだ、学校はあそこだ、と、それぞれ高い所、遠い所から見る我が郷が、一層なつかしく感じました。
 三好神社の社は、頂上に古めかしく鎮座していて、開拓の守り神の威厳をそなえていました。 私達はおもむろに参拝したものです。
 小学校2年生(昭和8年)の時、授業中に飛行機の爆音が聞こえて来ました。 窓ぎわの生徒が、「あっ飛行機だぁ」 と言って窓を開けて上を見ました。 すると全員が、「ウアッー」 と言って窓に走り寄り北星から何頭に飛んで行く、単発飛行機が見えなくなるまで見入ったものです。 

 これが私達が最初に見た飛行機だったのです。
 しかし、この時先生は「みんな面白半分で飛行機を見ているけど、乗っている人は命がけですよ」 の一言が、今だに忘れる事が出来ません。
 昭和15年、高等小学校を卒業して、農業に従事する様になり、義務制の青年学校にも籍を置くようになって、専ら軍事教練の指導を受けていました。
 翌年、太平洋戦争が始まり、先輩は次々と兵隊に行くし、私達の先の見通しといえば、「兵隊に行き、戦場で華々しく戦って死んで行くんだ」 としか考えられませんでした。
 どうせ戦争で死ぬのなら「好きな兵種で死んで行きたい」 との思いで、反対する両親を振り切って、海軍少年飛行兵を志願しました。
 一次試験、二次試験も無事合格し、待望の入隊通知が来ましたが、丁度その頃身体に変調をきたして、病院に入院中でどうする事も出来ず、意志の診断書を付けて断りました。
 其の後健康を取りもどし、昭和19年の徴兵検査で見事、甲種合格となり海軍に入隊することになりました。
 昭和20年の5月、いよいよ兵隊に行く時が来ました。
 歓呼の声に送られて、堤防の上まで来た時、「ああこれが川西の見納めか、生まれ育ったこの川西の地も、二度と見ることも、踏む事も出来ないんだ」 としげしげと見廻し、ジーンと胸に込み上げて来るものを堪えて、川西を後にしました。
 そして8月、終戦を迎え、栄養失調の身体を引きずり乍ら細々と復員して来ました。 思いもよらないことです。
 2.3ヶ月後やっと落ち着きを取りもどし、真剣にこれからの営農を考える様になりました。
 過ぎてみると、すべて「あっ」 と思う間の出来事の様な気がします。 この住み良い川西も開基100年を迎えました。 益々の発展を祈ります。

環境の一歩前進のために  山下 良雄

 私は微力でしたが、永年農協の役員、或いは地区の各種期成会会長等をやらせていただき、充分な事も出来ませんでしたが、川西の方々の御理解、御協力をいただいた事に心から感謝致しているところです。
 従って当時を偲び想い出の一端を申し述べたいと思います。
 小学校の統廃合 川西小学校は、PTA組織を昭和22年に発足して私は3代目の会長となりました。 過去には100名余りもあった児童数も時代の推移で部落の人口減少と共に児童数も激減して来ました。 川西小学校は小規模校ではありましたが、校下御父兄の御理解御協力はもとより地理的にも、経済的にも比較的恵まれた学校でした。
 然し子供達の教育の将来を考え、良い環境で勉強させる為には統合しかないとの事になったわけです。 川西を開拓した多くの先輩が苦労し守り育てて来た学校を、私の会長の時代に失うのかと思うと誠に偲びない思いをしたものです。 現在はスクールバスで通学し、整備された環境で楽しく勉強出来て幸せな事です。
 川西地区総合土地改良事業 総事業費24億8千万円を投じて、国営明渠排水事業、道営により草地改良、平地林を草地造成、道路改良整備、営農用水事業頭、多年懸案の大事業がなされました。
 私も会長として一番苦労したのは路線の決定、用地の買収確保です。
 国営明渠の路線にしても特に海岸線、或いは藤崎さんの住宅裏の土地分断等、大変でした。 又国道横断ですが、当初測量の時点で橋底が約70糎高いので、上流の水が停滞するから下げる計画でした。 然し工事の時点になって、湧別事業所の所長及び副長が交代し新しくなり、国道の橋底は現状のままで実施するとの通報を受けたのです。 私は早速事業所に出向き現状のままでは何等意味がない。 70糎下げよと激論し町長の立会もいただき、当初計画通りにした事も想い出に残ります。然し工事の過程ではいろいろな事がありましたが、大水が出ても引くのが早くなったのでよくなったと思います。
 道路の改良にしても、道路は良くしたいが、土地が減るのでは事業は出来ません。私が昭和28年、現在地に独立したころは、六線或いは二号線にしても雨が降ったら歩けない箇所が沢山有りました。 今回の事業により全面的な改良工事も終わり、幹線の大部分は舗装となり、全く見違えるような道路網となり本当に有難いことです。
 営農用水事業も完成し、水道利用組合が維持・管理・運営をして、永年水に苦労された地区も解消されました。 以前は風呂に入っても身体が見えなかった水が、今度は大事なところまで丸見えになるとの笑い話もあり嬉しい限りです。
 各種の事業で地区の環境整備も出来ました。 今後益々平和で豊かな川西でありますよう祈ってやみません。

  戦後の川西を回想して   吉田 澄子 (旧姓浅井)

 開基百年事業の一つである記念誌の発刊にあたり 「川西の思い出」 の原稿依頼を受けました。
 何分、当地を離れて35年にもなり、思い出も薄らいでいる始末ですが、当時を回想しながら思いつくままに書いてみようと思います。
 昭和20年の終戦で、軍人だった父と一家は、祖父母の住む川西に旭川から移住しました。 父は公職追放でここに住むより道がなかったのです。 父・浅井周策44歳、母・喜里40歳、幸子14歳、澄子13歳、美子10歳、博之3歳、園江1歳でした。
 祖父母の家は、大きな木造で電気もなく、都会から移り住んだ私たちにとっては驚くことばかりでした。 幼い子どもを抱えての生活は、大変苦労だったようです。 幸い、父の弟達や川西の人々の友情に助けられ、広大な畑に麦、小麦、エンバク、とうきび、馬鈴薯、豆類、ビートなどを人並みに作り、馬やにわとりなどの家畜も飼って、新たな井蛙川西津に活路を見出しました。 私たちも、夏休みなど汗を流して手伝ったものです。
 父は子どもの教育には熱心で姉と私は、北見の叔父の家に下宿し、女学校に通いました。 学校の休みに帰省するとき、中湧別の駅から徒歩で湧別川の鉄橋を渡って旭部落を通って帰りました。 その鉄橋を渡るのが大変恐かった事を今でもはっきり覚えています。 当時の馬車やそりも、今となってはとてもなつかしい思い出です。
 戦後の世の中の発展はめざましく、すべての面で少しずつ便利になってきました。 電気のなかった家も、父達の奔走でようやく、3年後くらいに電気が通るようになったのを覚えています。 そのうち、旭に乗降所ができ、その後川西にもバスが通るようになりました。

 6年間の学業を終えた私は、長く親元を離れていた事、又お世話になった土地故親の勧めもあり、川西の学校に教員として就職いたしました。 一足先に卒業していた姉も勤めており、下の妹や弟は、ここを卒業しました。
 私は、昭和26年から32年までの青春時代を教員として勤めたわけですが、当時の学校は、生徒数が百名程度の複式学級で2学年を1人で受け持っていました。 教材研究や練習問題、テストなど常に2学年分を用意しなければならず、今のように、ガリ版を切り謄写版を刷って授業に備えました。 授業の半分は自習になるので、子どもたちは不自由ながら自学自習の習慣ができたようです。 雄大な自然のなかで生活していた子供達は、素朴で素直でたくましく、大変意欲的でした。 まあt、運動会や学芸会は大きな行事で、娯楽の少なかった川西にとっても楽しみの一つでした。
 私は結婚して北見へ移り住みましたが、父母はその後農業をやめ、酒屋兼雑貨屋を始め、すぐ下の妹が店を手伝っていました。 この店は、父母が大阪に就職した弟のもとに行く、昭和45年まで続きました。
 私の娘は、川西が大好きで妹や弟についてよく遊びにいっていました。 旭の乗降所までの林の事、オホーツク海の海鳴りの事、何でもあったお店が楽しかった事、妹の運転する配達の来るぁ明治に乗るのが楽しかったことなど、幼い日の記憶を今でもとてもなつかしがっています。
 私の教え子達も、今はもう家庭を持ち、この親になり、社会の中核となって大いに活躍されている事でしょう。 なつかしく思います。
 両親は、すでに亡くなり、数年前母の一周忌の折、湧別にお墓参りにいきました。 また旅行の折にも川西を1.2度通りかかっております。 私たちがはじめに住んだ家はなくなり、学校も廃校になってしまいましたが、私の青春の一時期を過ごした川西をこの開基百年を機会にまたゆっくり訪れてみたいものだと思っております。

 
第3章 未来への夢  子供の夢
 何時の世代も子供は  大らかだ
 開拓の苦しみも  親といっしょなら辛くない
 北の大地は厳しいが  僕も私もますます元気
 未来の夢は果てしない  たのしい夢が一ぱいだ
 それでも川西のこの美しい  環境は忘れないでいてネ!!

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