上芭露郷土史 郷土のあゆみ 第12章 思い出
第12章 思い出 | 郷土の先輩と語る思い出 平成17年12月7日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二、座談会 | 上芭露開基百年の記念誌に上芭露の思い出を載せる事になり80歳以上の方に集まっていただいて座談会が行われた。 ■ 出席者 黒田 実・黒田 フサ・眞鍋 武人・福原 保・長岡 義見・猪股 武男・野村フジ子・清野 宏 清野 ナツ・小林カネ子・鈴木ミツエ・高島 ゆきえ・遠藤 省徳・福原スゲノ ■ 司 会 三浦 幸恵 ■編集委員 長谷川 隆・渡辺智逗子 ■写 真 加茂 一郎 今日お集まりいただいたのは、百年記念誌を編集する為に上芭露自治会の中で80歳以上の方にお出戴きました。 お父さんやお母さんから聞いておられる開拓当時の話しや皆さんが少年や少女の頃の事や、戦前・戦時中の混乱した時代の事についてお伺い致しますので宜しくお願いします。
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二、追想感想文 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私の生涯を綴って見ます 清野 宏 父母は湧別から大正3年に芭露に入植したと聞いています。 現在地、今の清野岩雄氏の処です。 家は掘立小屋で家の回りはトドの割柾で囲った家で吹雪が入ったものです。 食べ物は炉に自在鍋がつるされていて、火力も強く暖かかった。 そんな私は、大正7年3月生の末っ子で可愛がられたものです。 小学校に着物を着て通学しました。 靴はベロが付いた短靴でした。 学校の登校・下校には、保安殿に礼をして通ったものです。 高等小学校を卒業すると、村立青年学校に入学させられ、徴兵検査は義務付けされていました。 私は甲種合格で、戦争に参加致しました。 戦争中の我が家は、長兄が徴用で木材運搬中の事故で昭和20年3月2日死亡でした。 残された未亡人と子供が5人と、我が父76歳の7人、農業の出来る状態でないので、親族会議で息子が20歳になるまで、終戦で帰っていた私に責任が回って来て、仕方なく承諾致しました。 私も結婚し9人の大家族となりましたので、農作業が終わると山の造材に働きに行き、春の種蒔まで働き家計費を稼ぎました。 その後、兄の娘を2人結婚させたり、下の男の子を大工にしたりで大変でした。 私にも男の子3人産れ、兄の子も一人前になって、40歳ちかくで独立しました。 私は勉強したかったので、子供達には希望通りに勉強させ、就職・結婚させ、それなりに幸せに暮らしている。 私もいつのまにか米寿になりまして、子供や親族の方達に祝ってもらい、頑張ったかいがありました。 日本の経済が良くなって、医学進歩によってか、「世界一の長寿国となり、小泉内閣になって行政改革が始まり市町村の合併、郵政3事業の民営化、老人の身には先のことはわからないが、願わくば楽しい平和な日本を期待したいし、二度と支那事変・大東亜戦争等あってはなりません。 時代が変われば人も変わると申しますが、我が故郷、上芭露の益々の発展を祈ってやまない。 我が家の歴史 黒田 正晃 黒田家は、明治37年に岐阜県川崎村より下湧別村川西3線に入植する。 私の父親三三は黒田捨市・さととの2男として生まれる。 昭和2年に東芭露の矢崎よしえと結婚して2男2女をもうける。 弟分家として、今の湧別橋の処に家を建てて生活を始めましたが、昔の湧別川は今のような堤防がなく雨が降るたびに畑に水がのり、農作物が皆流されて大変だったようでした。 水の乗らない処へと分家して6年間暮らしたが、昭和8年には上芭露の20号線の清野さんの奥に引越して来る。 兄姉は川西で生まれ、私と妹は上芭露で生まれる。 その頃は薄荷の景気がよく、まずまずの生活だったようです。 太平洋戦争に突入し、国民生活の総てが戦時体制になり昭和17年5月26日湧別ポント浜口浮遊機雷爆破の実施すると言う事で、私の兄幸一が、青年学校生徒として朝7時より歩いて見学に行った。 警察署長の指揮により砂陵の向こう側に移動させる作業中に大轟音と共に、機雷が爆発して見学していた兄にその破片が兄の腹を貫通して、即死状態だったそうです。 国民学校高等科を卒業したその年で、15才という短い人生でした。 戦争も終戦となり我が家も平和に暮らせるようになった時、昭和23年に父三三が、腹が痛く具合が悪くなり上湧別厚生病院に入院。 2週間の入院で病死する。 今の現代医学だったら死ななかったと思う。 私が中学生の14才の時でした。 学校も休み母親の農作業を手伝った貧困生活だった。 昭和28年に高橋森平さんの跡地、現在住んでいる処へ引越して来る。 その頃は、度重なる冷害に見舞われて生活が苦しく、夏は農業そして冬期間は各地の造材山の伐採や搬出等の出稼ぎをしたものです。 35年に東芭露の中原みはると結婚して、1男1女をもうける。 昭和40年頃より少しずつ機械が入り、家でも耕転機から始まりトラクターにかわり、馬の時代は畑が6・7町も有れば暮らせたが機械になり20町ほど作れるようになり、井上清治さんの土地を買い、まだ少なく東芭露の奥まで通い作をした。 農作物はビート、小麦、馬鈴薯などにスイトコーン、南瓜、アスパラなど缶詰と冷凍食品化が着実に台頭して農業も大きく変わり大変良い時代だった。 私も農業を辞めて7年になる。 農家の生活も都会と変わりなく豊になったが、若い人達は皆が町へ出て行き家の後継者も行った。 私達の農事組合の農家は15戸ほど有ったが今は2戸で、あとは老人家庭ばかりとなりました。 淋しいことです。 お互いに助け合って楽しく過ごしたいと思う。 開基百年、先人の御苦労と努力に感謝し今後の発展を心から祈念致します。 吾が少年時代の上芭露 黒田 実 吾が部落は開基百年を迎える意義深い年であります。 さてこの百年を省みて、部落の一番全盛時代は何時の時代だったろう。 大正末期、部落の農家は全部が薄荷栽培で農家経済は盛上がっていた。 薄荷とは世界の市場に君臨するほど高価な農産物であった。 北見薄荷は北見地方で至る所で耕作されていたが、特に芭露薄荷は他の追従を許さぬ夢稲農作物であった。 秋の刈取り作業が終わり薄荷製造が始まると薄荷買いの商人が昼夜を分たず農家巡りをして買いあさったものだった。 神戸商人、横浜商人が地元の小買商人を使って買いあさるので、この時期になると上芭露の料理屋や湧別市街の料理屋は大繁盛で活気を見せたと言われている。 ある年のこと「サミエール」事件と言う大きな事件が起きた。 「サミエール」とは本社がイギリスに在る会社名で、世界の薄荷の価格を左右する大メーカーで、この本社が薄荷価格を押さえようとして、大きな社会問題となった。 この事件がなければ薄荷の全盛時代は20年以上も続いたであろう。 そのうち人造薄荷の出現、満州事変、日支事変等社会の大きな変貌に依り薄荷は衰退の一途を辿って行った。 さて薄荷景気に沸いていた頃の上芭露は、鉄治屋3軒、馬蹄鉄2軒、自転車屋2軒、お菓子屋2軒、桶屋2軒、ブリキ屋2軒、お寺様3軒、精米所2軒、宿屋・料理屋2軒、病院、警察署、剣道場と一般商店10戸以上も在って凄い盛況振りであった。 私の少年時代の学校の情況について、昭和初期に上芭露小学校に高等科制が制定されて芭露小学校、東芭露小学校、志撫子小学校より高等科を希望する者は上芭露高等科に入学、各校から成績優秀な者が入学して競い合うので教育効果は上がった事と思う。 各学校の運動会と言いますと、各部落の大行事でありました。 運動会の一番賑やかなプログラムは、他校リレーであった。 丁寧以東の7校で4人1チームで運動場を一周して勝敗が争われ、優勝チームには優勝旗が授与されまして、世界のオリンピックならではの芭露の沢オリンピックでした。 昔部落に青年団が創設されて居て剣道を習う会があった。 叉毎年12月14日赤穂浪士47士の仇討ちの夜 「肝試し」ドキョウダメシが真暗闇の中、お墓を一巡りするコースで行われた。 これが終わると 「お汁粉会」で御馳走になる。 その当時の青年団の名は東輝青年団といって、名実共に輝いたグループでした。 特にスポーツに優れていて町内外に名声を轟かせていたものであった。 部落全盛時代のお祭りの情況を想い出してみると、余興として神社境内で子供角力、大人角力には他町村から多くの力士が土俵を賑わしたものでした。 叉剣道も境内で盛大に行われた。 夜は境内に部隊を張り青年に依る芝居が盛大に行われた。 上芭露市街の情況は多方面から押し寄せて来た出店で一杯、市街を埋め尽くして東京の浅草と銀座通りを併せたような賑わい振りでした。 吾が幼少の頃は、どこの農家も馬を飼育し、農耕馬として家族同様に大事に飼育されていた。 「馬産王国」 として湧別と上芭露に農林省は種馬所を設営してくれた。 馬産の振興にともなって挽馬競走の日は各地区から参加して盛大に行われたものだった。 バロー川の 流れと共に 栄えゆけ 百寿の里に あらた祈らむ 時代の変事 中川 藤男 四号線年2才の時に親に連れられて上湧別屯田5中隊3区より、上芭露西ノ沢に入植管内でも香りの高い薄荷栽培と共に根を下ろして20有余年、私は子供で覚えて居りませんでしたが、薄荷製造場で20日間も哲也で絞り上げた油と、その苦労は口では云えない大変な努力と苦労の積み重ねがあったのではと想像しております。 昭和16年太平洋戦争が始まって以来、またたく間に食糧難の時代になり、自然的に自給自足に力が入る様になったのですが、苦労して収穫した農産物は上部から指令で強制的に殆どタダみたいに供出を強要され、何の見返りも無く農家の人は只黙々と努力して働くのみであったのです。 地域の若い健康な男性は殆ど国の為に召集令状赤紙一枚で軍隊に召集されて、残るは年寄りと女子供等で銃後の守りを引き受けざるを得なかった。 吾々小学生は義務教育とは云えども勉強どころではない。 兵隊に行って居る留守家族を回り薄荷等の除草援農に励んだのですが、やはり楽しみはオヤツの時間でたまたま手作りの饅頭が出ると手をたたいて喜んだまでは良かったが、食べて見ると中味は塩飴でがっかりしたことも思い出されます。 昭和19年高等科になったばかりの男子生徒が布団を背負って、叉大豆の炒ったのをオヤツにとキンチャクの袋に入れて持参し飯場付で東芭露の山奥へ松の枝葉取りに出掛けたのです。 外の生徒も来て居て賑やかだったが、飯場の食事は澱粉で作り上げた麺米と芋飯が殆どで、時々冷え燕麦飯もあって腹が減っている為おかわりして食べたことがなつかしく思い出されます。 いかに国の為とは云え欲事婦は地域の国防婦人会の方々が交替で世話をして頂いた。 これには60年経った今でも感謝しております。 しかしトド松の葉を薄荷製造と同様に蒸溜してその油を飛行機の燃料に使う目的があった様ですが、一滴もとることが出来ず計画も遂行することが出来なかったのです。 間もなく終戦になり、松油が各家庭に配給になり 「カンテラ」 に灯したが家中が油煙で真黒になり、この様な油では飛行機に使用したら間もなく墜落したのではと子供心にもそんなことを感じたものでした。 終戦後のどさくさに紛れて米の価格が60kg当り60円だったのが、一気に4倍近くに跳ね上がり不景気の風が吹きつける様になり、米の相場に沿って総ての物価が高騰して各家庭の生活にも大きく影響して家族が多いのに大変な時代になったのです。 その頃都会でも同様に食糧不足の為か京都方面から疎開して来る様になり、この地方にも20数戸が移住して来たのですが、地域としても何の受け皿もなく差し当たり地元種馬所馬小屋を改造して5戸で15人程が仮住まいする様にしたのですが、しかし食料など有る由もなかった。 そこで、地域の人が協力して各班毎に分担して食べ物を続けた記憶があります。 その内手分けして東芭露の松葉を取った跡地などの山奥に開拓者として入植をしたのですが、大都会から来ての開拓は並な苦労ではなかったのではと想像に尽きるものがあります。 今考え見ますとやはり大地に根を下ろすことが出来なかったのか、10年経20も経つ内一人減り二人減りして30年が経過しない内一人も残らず、現在では少しの畑もなく一面に威勢よく伸びる30年前後のカラマツの林丈が残っているのです。 やはりその頃から離農に或いは過疎化に拍車がかかっていたものと考えられます。 吾々農家も生活上色々工夫して米価格が年々上昇する一方での対策として自家用米を作り出したのです。 何年か経った頃には各家庭でも沢水を利用して作付する様になり、反当り5俵程獲れる様になり、3年に1度は凶作もあったが、米の心配は無くなった。 11月以降農閑期になると農家の殆どの男は冬山造材に出稼ぎが多くなり、年末31日の夜中に帰宅したこともある家では首を長くして金を待っていた様である。 馬で払に出掛ける。 真夜中であった。 叉、昭和39年に自分の不注意から失火し建替えて8年目の住宅と他4棟を全焼してこの時ばかりは目の前が真暗になったのですが、近所の方々より励ましと皆様方より多大な援助を頂いたことに心から感謝と敬意を表したいと存じます。 今後地域の発展を祈ります。 思い出すままに 上田 定幸 私の少年時代を思い出し現在に至るまで簡単に書いてみます。 私は昭和11年生まれです。 当時は、ハッカ栽培で景気の全盛期と聞いています。 私が物心つく様になってから穀物栽培にと変わりました。 戦時中は、麦、エンバクの供出があったと思います。 自分達の食糧は穀物の中に隠した様に思います。 食べ物も粗末で学校で食べる弁当は麦ご飯、秋になると湯でトウキビ、学校の登下校は春から秋にかけ何時も、塩を持っていました。 道端に生えているスカンコ、ブドウのツル皮をむいて塩をつけてかじったものです。 秋にはグスベリ、スモモ、梨は最高のおやつでした。 学校ぁ上芭露等帰宅すると秋には、昼に炊いたカボチャの美味しいこと、今もその味を忘れる事が出来ず、よく食べます。 特にカボチャ団子は大好きです。 秋には庭に、大きなムロがあり10俵の馬鈴薯を入れその上に、冬中食べる野菜を入れる。 兄(正範)昭和19年2月現役兵として第28聯隊歩兵中隊に入営、同年8月沖縄那覇上陸、昭和20年1月に便りあり、 「戦闘の準備で忙しい毎日元気でおります。御安心下さい家族の皆さんもお体を大切にお過ごし下さい」 との便りを最後に、同年4月10日西原にて戦死の報を受ける。 当時名誉の戦死等と云われていたが、家族にとっては悲嘆にくれる日々、戦争の悲惨さ、しみじみと感じたところです。 以来3人家族でしたが、ムロに入れた10俵の芋多少は近所にあげたにしても春までに、塩煮、団子、芋餅等で食べあげます。 砂糖は無くビートを煮詰めた飴でした。 小麦粉にビート飴を入れ蒸かした。 パンは最高でした。 当時暖かいのはストーブの周りだけ家族での団欒の場所、寝ている布団の襟が凍る始末、雪をこいでの登校、私は学校まで4キロ位でしたが遠い人は10キロもあったでしょう。 着るものも粗末でしたが、手袋も服も靴下まで母親が、古い毛糸で手編みした物、しもやけがかゆい、御馳走といえば盆と、祭り正月だけ、どこも似た様な暮らしでした。 手作りした食べ物は、近所にあげたりもらったり、物の無い時代でしたが家庭も、近所付き合いも温もりのある生活でした。 そんな中で忍耐や、強い体力、工夫するチエが培われたのでしょう。 叉学校買えると農作業の手伝い、農作業が終わり秋深くなると、当時の芭露川が曲がりくねった川で、春の雪解け水で畑が流されない様杭を打って、マナ木を縛って流したり、三角木を組んで土俵を乗せ、それで結構防ぐことが出来ました。 叉吹雪の後道路の除雪の共同作業もスコップで行った事もあり、当時は今とは稚貝戸数も多かったので出来たのでしょう。 今の若い方に話しても、信じられない事でしょう。 機械力も無く、国の予算も軍事の方に回り地方に対する予算も無かったと思います。 自分達で出来る物は自分達で行う時代でした。 食料、物資難の時代を過ごした。 私には今の生活が有難く、勿体なく感じるこの頃です。 昭和20年迄は、戦争の時代で後の40年は経済成長期と云われています。 戦後日本の復興は、百年かかると諸外国では見ていたそうですが、しかし僅か40年で経済大国になりました。 復興には国民の弛みない努力と諸外国からの支援の結果でしょう。 贅沢な生活が何時しか、依存心の強い権利を強く主張する様になり、人間としてこれだけはしてはいけないという、歯止めが切り崩されていく、悲しい社会になりました。 日本人としての魂が失われたのではないでしょうか。 高度経済成長の煽りに乗り、気が付いた時国も大きな赤字国となり、今大きな転機を迎えて居ります。 私達は今一度過去を振り返り、意識を改革するためにも、財政難の時期も大切なのかもしれません。 開基百年に当たり、先人の開拓当時想像のつかない大変な御苦労を思う時、感謝すると同時に先人が、培ってきた電灯を継承しなければと思います。 輝く大地 三浦 孝司 商店街が30店舗以上も有った事を聞いて、少し驚いた。 その中には昔でもめずらしい映画館があり、こけら落としには、有名人まで来たというではないか。 昔は、薄荷で栄えたと話しに聞いていたが、今の子供達に話しても信じてもらえないかもしれない。 どうして、この地も過疎化になってしまったのだろうか? 確かに自分の幼少の頃には、お祭りにはたくさんの露店がびっしりとならんで、少ない小遣いで何を買おうかと迷った物である。 それも年が過ぎるにつけ、今では店は1軒も出ていない。 サビれていくのも早い事である。 人間がだんだんと他の町へ出て行ってしまうからであろうか。 こんないい所はないはずなのに。 現に、この地では両親と同居しているし、家業を守って継いでいる人達もたくさん居るのに、さみしいかぎりである。 今回開基百年というけれども、住民は60戸余りしか居ない。 自分はこの地で骨を埋めるつもりでいるが、その頃にはこの地にはどれだけの人間がいて、どのように変わっているのだろうか? 高速道路や飛行場が出来るとは考えられないが、雑草がぼうぼうとおいしげった畑を見るのも忍びない。 この地が、いつまでも緑の豊かな、人の心の豊かな、そして子供達が故郷は良いと思えるような地域であってほしいと、望んでいるのは自分一人ではないと思う。 私の思うこと 長谷川 英子 上芭露自治会が開基百年を明年迎えます。 この事に対し心からお祝いを申し上げます。 叉開拓に御苦労された先人の皆様方に対し心から感謝を申し上げたいと思います。 私がこの地に参りまして半世紀以上、今年で58年になります。 この長い間、自治会や隣近所の皆さんにお世話になりながら過ごさせて戴きました。 私が嫁いでくる時は大きなトラックの荷台にお客さんも荷物も全部乗せて生家を出発し、遠軽峠迄まいりますと、12月ですのですべって登れず、仕方なく中湧別を遠回りして、やっと暗くなってから家につく事が出来ました。 今の様に交通規則の厳しい時代では考えられない事ですが、50年の前はこの様な事が出来たのですね。 嫁いで一番先の仕事は、薪割りや薪積みから始まりました。 終戦後、昭和20年代・30年代は衣服もとぼしく、冬は羊の毛を毛糸にして子供達のセーターや手袋、靴下を依る一生懸命編んだものでした。 食事も粗末なものばかりでしたが、28年に水田を作る様になって凶作の年もありましたが、米には不自由しなくなりました。 農作業は手仕事が多く子育てと農作業で、私にとっては大変な時期もありました。 私はそれでも恵まれていた方だと今考えると思います。 私は畑仕事も十分に出来ないのですが、あたたかい家族が見守ってくれました。 昭和30年後半からの農協婦人部の活動に参加させて戴き、湧別芭露農協の皆さん、叉北見管内の方々とも顔見知りにまりました。 昭和62年には、 「ヨーロッパ研修旅行にも参加させて戴き、海外の農業視察も自分の目で研修する事が出来ました。 一緒に同行した方達とは、今でも年に一度の会合を持っており、一生忘れる事の出来ない思い出となって残って居ります。 平成に入り姑が歩行困難になり、ベットの生活になりましたので、婦人部の方はしりぞいて、その姑の介護になりました。 その姑を15年余り介護して、百才目で見る事が出来たのは私にとって幸せだったと思います。 ここで姑の人生を振り返って見る事にします。 一人娘の長女は病気になって10年以上も寝たきりの状態になり、昔ですから家で介護していたとの事です。 叉20才の長男と18才の次男を嫌いでなくし 「あの時欲気が狂わなかったものだ。」 と私に姑が話してくれました。 本当に大変な人生だったと思います。 それに比べて私は二人の子供は人並みの生活を送っている様ですし、昨年初めて長男の娘に曾孫が誕生しました。 主人と二人で見に行ってきました。 今年は次女の方が曾孫を生んでくれます。 これからの楽しみは何人曾孫が出来るのか楽しみにしています。 今は主人と二人でゲートボールを楽しんでいます。 開基百年のおめでたい年にめぐり合う事が出来、二人とも健康で本当に幸せな事だと感謝しております。 私の生涯の一短を申し上げます 福原 保 私は大正11年4月生まれの84才です。 上芭露に生まれこの地で死んで行く一生涯の終わりが近づいて居ります。 昭和17年5月26日、湧別「ポント浜」に漂流した機雷の不時爆発にて、クラスメート・友人が多く亡くなりました。 私も負傷して入院しました。 その年が徴兵検査の年でしたので、兵役をのがれ大東亜戦争に行かなかったので、この年齢まで生きてこれたと思って居ります。 24才で父を亡くしまして、妻と結婚して1男3女の父親でした。 父の後を継いで畑作農業を営んで参りました。 私の営農中で一番苦労した時の事を少々申し上げて感想文とします。 昭和29年農耕馬を2頭にしまして、蒔付時の準備をして居りました。 ところが蒔付の真最中に子馬の出産後に腰が立たなくなりどうにもならなくなりました。 こんな事では農業は成り立たないと母と妻は大反対の中で決断して、米国製のトラクターを買いました。 ところが忘れもしない29年の9月20日に、大霜が来て全作物が全滅してしまいました。 大変な事でした。父の死後昭和20年より作柄が悪くて蒔付したのに収穫はなく、貯蓄がありませんので、お金の無い「みじめさ」をしみじみ身に実感しました。 この苦労があったので、お金の大切さが身に付きまして、私の生涯を通じて忘れる事の出来ない大切な苦労の経験であったと思って居ります。 24才で父を亡くし営農を続けて参りましたが、昭和51年に長男秀行に譲るまで31年間、家族の協力はもとより近隣の方々に特段御世話になりながら農作業を続けてきました。 平成7人に長男秀行の死去により、私の生涯が大きく変わりました。 人間生きて居る限りいつどんな事がおこるかわかりません。 逆境にあっても耐える体力、精神力しかありませんね。 開基百年を迎えるに当たり先人の御苦労と御努力に感謝し、今後上芭露の発展を心から御祈念を致しまして終わりとします。 上芭露に育まれて 酒井 聖二 当地にお世話になり早や4年有余。 この 「上芭露開基百年記念冊子」が発行される頃には、きっと6年の歳月が流れていることと思われます。 道北各地の郵便局を転任して歩き、平成13年6月、当地上芭露にご縁を戴きました。 赴任当初、早速当局の歴史をひもといてみました。 すると、郵便局の開設は、大正8年の局設置運動からなんと2年の歳月を要し、大正10年2月、多くの方々のご尽力により開局に漕ぎ着けたそうです。 以来地域の皆様に支えて戴き、90有余年が過ぎ去り、感謝の念に耐えないところです。 振り返ると、郵便局経営を通して 「地域」とは、叉 「人」とは、ということを改めて学ばさせて戴いております。 更には、地域の一員として日々の暮らしの中から当地に纏わる様々な方々から機会ある毎に種々教え戴き、心の温もりを肌で感じているところです。 当地が開基百年、因みに私は誕生50年。 人として開発途上の若輩者であり、人の親としてもまだまだ20有余。 ようやく 「人とは」ということを考え始めたばかりであり、叉 「我以外、皆、師」ということに遅まきながら少しずつ気付いてきました。 これも一重に皆様方のお導きのお蔭と感謝しております。 結びに、百年という祈念の節目を新たな契機として微力ながら私なりに取り組んで参りたいと思います。 叉、地域の心の絆がより一層堅く結ばれますよう、仕事と暮らしを通して、事業人として叉地域人として少しでも皆様方にご恩返しができれば、と考えております。 どうか今後におきましても改めまして宜しくお願い申し上げます。 星空に百年の思いを寄せて 三浦 昌子 上芭露が開基百年を迎えるという。 まさに一世紀である。 此の地域の住民として意義ある節目の年に出会えた事は、大変感慨深いものがありご同慶のおもいは一通りである。 私ぁ賀上芭露へ来たのは昭和35年、今から47年前のこと、その頃は道路の両側は家々が軒を並べており、お店も農協・生協・呉服屋・魚屋・雑貨屋・薬屋・豆腐屋と十指に余る数があった。 加えて旅館・床屋・馬具屋・蹄鉄屋・自転車屋・鍛冶屋等も揃っていて、獣医さん・産婆さん・保健婦さんも常駐し日常生活には何不自由ない土地であった。 鎮守の森には神社がありお寺も2宗派が並び、駐在所には親しみのあるお巡りさんも居て、鄙びた中にも纏まりがあり懐かしさの漂う山里の上芭露だったと思う。 教育熱心で定評のあった地域の人々は、今もそうであるがよくまとまり何事にも協力し合い、小・中学校を中心に保育所の運営もなされ、巷には子供達の喚声が溢れ元気に遊ぶ姿が見られたものである。 私が上芭露に住んで一番の思い出は、保育所で純真な子ども達と過ごせた十数年間である。 子ども達と共にいる事が本当に楽しかった。 私の上芭露生活の中で最も充実し輝いていた時ではなかったろうか。 神社裏の上芭露公園、護岸工事などされていなかった自然のままの川畔等、園外保育でよく散策した場所であり、日常保育のあれこれが、どれをとっても忘れられない事ばかりである。 それが47年暮らすうちにすっかり様変わりしてしまった。 少子高齢化と一口に言うが誠に見事なまでの変わりようである。 店は一軒も無くなってしまった。 学校もない保育所もない診療所も閉鎖された。 時の流れと言うしかないのだろうか。 わびしい限りである。 しんしんと更けゆく夜の境内、私は雪の中に佇んで空を眺めている。 物音一つしない静寂の中、満天の星が宝石をちりばめたように耀いている。 オリオン・カシオペア・北斗七星、冬の星座が美しい。 夜がないとまで言われる大都会では中々見られない澄んだ星空だ。 回りの樹々は雪に覆われて白一色。 参道入口の街灯の明かりがその回りをオレンジ色に染めて、幻想的な夜を演出している。 私は寒さも厭わず立ちつくしたまま、ふと先代住職がこの地に錫をとどめた理由がわかるような気がした。 ”おじいちゃんは凄い所を選んだものだ。 先見の明のある偉い人だったんだなぁ・・・” 開拓当時は笹薮の大変な場所であったと聞かされてきたが、それこそ彗眼に恐れ入るばかりである。 先代住職が手植えの松が参道脇に亭々とそびえている。 あしたに夕べに眺めては百年にも勝る年月の重みを感じ、心が洗われる。 誠に風情があって叉とない良いところである。 「住めば都」静かな心で山寺を守り ”焚くほどは風がもてくる落葉かな” と良寛様の心境に少しでもあやかりたいと思うこの頃である。 私にとって上芭露で過ごした現在までの47年は、曹洞宗報国寺の寺族として暮らした47年でもある。 上芭露が開基百年を迎える今、お寺を守りながら住職と共に約半世紀を無事に過ごせたことは、この上ない喜びであり満ち足りた幸せと感謝の日々である。 おめでとう上芭露、百歳バンザイ・・とわれ幸あれ・・ ”ちち、ははの拓き給いしみ寺なり、守りて我も八十路に近し” 「嫁いで45年」 井上 きよ子 私の嫁いで来た頃は、忘れもしない残雪のまだ深い3月中旬の頃でした。 当時、新生活改善推進運動の話(農協青年部・婦人部)が出始めた本当の初歩の頃でした。 でも当家では、まだまだ昔の仕来りからぬけきれぬ様で前日夜から親戚が集まり、当日のために準備されたお酒がなくなり、早朝に買出しに出かけた話等を後日になって聞かされたものでした。 農作業はまだ馬を利用しており、テレビ・電話等も各家庭には有りませんでした。 でもその当時は、上芭露の人口も多く市外に出ると、家が密集しており商店が何軒か現在のように遠方に出かけなくても生活に困るような事はなかったように記憶しております。 でも時代の流れと共に我家にもテレビが入り、農作業の方も馬から耕耘機、そして小型ではあるがトラクターへと変わっていきました。 なかには早くからトラクターを導入して仕事をしていた家もあったのを記憶しております。 次男が誕生した年には我家にも自家用車が入り便利にはなりましたが、だんだん離農者が多くその分耕作面積が増え労力の手不足が多く、今はもう個人となられた方々や遠方へ出られた方々の手助けを受けた事を思い出しております。 その当時我家にも50代前半で義父が病床に扶し、義母の手をかりなければ生活出来ぬ事が何年か続きました。 歌の文句ではありませんが 「人生色々」と自分の人生に山坂があり、それをのりこえる事が出来れば最高、これは総ての人が望んでいる事ですが、たとえ病床にあっても命の続く限り義父にあたえられた生涯をおえられたのではないかと思っています。 母も大変な時期をのりこえ自由が出来た頃には病魔におそわれましたが、手術後の回復も順調で曾孫の子守ま出来、その分私も農作業に集中して出来ました。 その後の私にも色々と・・・3人の子供達も成長し社会に送り出し、やれやれと云うころで親より先に旅立ちをして行かなければならなくなった我が子にどう接してゆけばよいのか。 夢中であってほしいと願う3ヶ月でした。 出来る限りは、命のある限りそばにいてやろうと、雪の多かった旭川でみてやろうと決心しました。 これも家族の援助があったからだと考えております。 その間仕事を終えてから、1日おき2日おきに夜顔をみせてくれた主人の苦労に感謝し、毎日そばにいれる自分、少しでも明るい顔でと頑張り続けていた頃の事が今こうして筆を走らせていると走馬燈のように浮かんできます。 何時までもくよくよしてはいけない、自分にも何か集中できるものをと、それを自分のものにそれがパッチワークでした。 当時サークルの発足も決まっておりましたし、少しでも気安めになる事を願いながら、そんな折り一通の変わった封書が郵送されたのです。 それは「二十世紀の私から二十一世紀のあなたへ」と云う郵便が本人(亘)あてに届き、叉二度びっくり開封してみると「1985年5月24日金曜日午前9時20分数学の時間」きっとさぼったのでしょう。 内容は年令から始まり学校名、通学路、自分の使用しているバイクの事がことこまかく記されておりました。 そして部活のこと、自分は剣道部の部長として高体連に向けてのいきごみ、それが終ると就職試験のことなどとあり(高3から卒業16年後までの空間)この間旅立ちでした。 16年後は「もう33才になっているはず今は何をしているかわからないが、何処かで石油でも掘りあてて大金持ちになって、1958年車位のキャデラックの赤いフルオープンにでも、のれたらいいなぁと思っているのだけれども、こんな事は絶対にありえないと、最後の方に33才のはずだからどんな人が嫁さんになっているのかな?と結んでありました。 あの子にも大きな夢が、たとえかなうものではないが、大きな希望をもって天国へと早々に旅立って行った。 それもあの子の人生だったんだと今改めて考えている。 この手紙は「科学万博ポストカプセル2001」二十一世紀のあなたに届ける夢の郵便なのです。 自分の生命の長短など誰もわかるはずはなく、あの子の人生の一ページに残れた一通の手紙を私にプレゼントしてくれたのだろうと大切にしてあります。 あれから今年で13年、1月29日に命日を迎えます。 この機会に思い出を綴る事が出来たのも供養なのだろうと自分にいいきかせながら・・・ 最後になりましたが、福祉の仕事も来年の3月で任期になります。 充分な事も出来ませんでしたが、このページをお借りしてお礼申し上げます。 今後は若い世代の方々にバトンタッチをし、高齢化社会にm、うけて、この開基百年を軸として上芭露地区の発展に邁進されます事を切にお願い致しまして私の拙い文ですが45年間の思い出の一ページとさせていただきます。 平成18年1月末日 記 一枚のキルトにこめし 今日もまた 思いのままに針はうごきし 出 会 い 青山 淳子 上芭露上芭露に嫁いで早や30年近くになります。 沢山の人と接して来た中で、色々な事を教わり、支えて頂きました。 ある時、いるも笑顔で優しそうなおばさんに 「嫌な事なんてないのでは?」と聞いたら、辛く嫌な時は 「あの人よりは、私の方がまだいい方だわ」と思うそうです。 人をうらやましがってばかりいた私は反省しました。 また、ある人には人と接する時とか、介護が必要になった人には、あの時もっと優しくしてあげればよかったと、航海のない様に接してあげなさい、とも教わりました。 まだまだ沢山ありますが、感情的になりやすい私は、冷静になれる様、心掛けています。 そして、ある猛暑の日に、ビートの草取りをしていた時に冷たい飲み物をごちそうして頂いたり、エアコンのある車の中で涼をとらしてもらいました。 あの時は 「ホッ」と生き返った様にうれしかったです。 また、近所のおじさんが、お昼我家の畑を通り過ぎて行く時 「昼だよ〜」と声をかけてもらい手を振って合図し、平和だなぁ〜と思いました。 私が結婚する前、4年間上芭露に勤めさせて頂きました。 「上芭露はうるさい所だよ」と聞かされましたが、私にこの様に教えてくださり、温かさを感じる気持ちをくださったのは、上芭露の人達です。 ありがとうございます。 開基百年を迎えるに当たって 岩崎 紀子 7年前、私は上芭露の住民となりました。 第一印象は 「何と静かな所だろう!」でした。 ここだけ時がゆっくりと流れている様。 都会でしか暮らした事のなかった私にとって、それがとても新鮮で体も心も癒されていく心地がしたのを覚えています。 季節を感じ、日々異なる空気を楽しみながら 「何もない」という贅沢なここでの生活がとても好きになりました。 そんな静かな町が、一度行事を迎えると一気に活気づきます。 運動会、盆踊り、そして秋祭りの演芸会!!大勢の人々が集い、参加して、また上芭露以外の地域の人々も楽しみにしている程の行事は他には見られないものだと思います。 その団結老人クラブ湧別町9奥、そして私の様に外からやって来た人間も温かく迎えいれてくれる人情、すばらしい自然、これが上芭露の最大の魅力ではないかな、と思います。 この地が根をおろす地となり、子供達のふる里になる事に日々喜びを感じている私です。 上芭露に嫁いで来て半世紀 渡邉 智逗子 「縁あって上芭露のお寺に」と軽い気持ちで嫁いで来ました。 さあ大変、何も出来ない私が一家の中心だそうです。 あーどうしよう。 こんなはずではなかったのに、朝5時起床、薪ストーブでご飯たき、なかなかうまくいかずあせるばかり、なんとか朝食が終わり、掃除、選択、ホッとして時計を見ると11時近い、小姑さん曰く 「昼食なに食べるの」 あーまたか、なんとか 「そばとおしたし」ですませ 「夕食のご希望は」ち聞く私、出来ないものばかりの注文、誰もいなくなるのを見て、声を小さくして家に電話して、手順から教えてもらい、出来上がるまでに叉電話、どうにか夕食になるが味なんて、考えただけでも大変なもの、本当に申し訳ないことでした。 気候の異なった地方に育った私には、気候になれるのも大変でした。 朝の霧雨で長袖の服、昼は腕まくり、午後からは上に何かを羽織る、その年は半袖の物や薄物を着ないで過ごしたのを、おぼえています。 寒い夏でした。 3ヶ月たって、やっと周りがわかるとお隣さんが駐在所、反対側が鍛冶屋さん、実家と同業でおばあちゃんが祖母とよく似ていたので安心し、よく相談にのってもらったり、教えてもらいました。 総菜屋に行く途中、精米所・自転車屋さん・蹄鉄屋さん・柾屋さん・馬橇屋さん・呉服屋さん・小間物屋さん・魚屋さん・長沢よろず百貨店・旅館・生協さん・郵便局・農協さん、一番嬉しかったのは、消防番屋が夜は映画館になっていて、毎夜のように見に行ったこと、座席の真中に大きなストーブがあって、あったかかった。 バスも5往復通っていて、日常生活に困らない事を知り、安堵しました。 農家のみなさんもハッカから穀物類に叉酪農家にと転換期でした。 私もみなさんに助けて戴いて畑造りにも挑戦しました。 料理の腕も沢山の奥様仕込みで腕も上がり、みなさんに食事を出せる迄になりました。 次ぎに困ったのは、薪割りでした。 さぞ、ひどいものだったのでしょう。 道路を通っていた吾助さんが割ってくださったり、工藤さんが何日も来てくださって、ひと冬分を割って積み上げながら聞かせてくれる上芭露今昔物語、叉お寺の前を通る方達を教えてくれる、お寺や神社で頭を下げたり手を合わせる福永さんのおばあちゃん、自転車の後に孫を乗せて通る通称上田の徳さん、平井さんのおばあさん、安彦のおばあちゃん私の人生の色々な先生方は沢山の知恵や想い出をくださって逝かれました。 昭和40年以降は、道路は良くなるし、畑作も寒冷地作物になり、酪農家は大型経営になって安定。 あちらこちらで住宅の新築、魚関係の加工場が出来たり、各家庭にもテレビが入り、静香で環境の良い部落と思っていたのに、バスの回数は減り、部落の方達の転出がはじまる。 向かいの熊野さんで双子の坊やが生まれて、みなさんで喜んだのに翌年 「坊や達の為に」と阿寒町に転出、小柄でしたが働き者のおばさん、住職は母のように頼っておられました。 若奥様は内地からこられた方でしたので、お互いに慣れない生活習慣にとまどった事等を語り合い慰め合っていましたのに本当に淋しい別れでした。 部落は大変教育に熱心なところで後継者になる。 お子さん達に教育を受けさせるのでそのまま都会で就職、それが成功しておられ嬉しいことですが、年々老人家庭になるばかり、私とて亡き主人をおいて行くにしのびず、みなさんのお世話を戴きながらはや半世紀、有難いことです。 先輩の業績に感謝、百年の盛儀を後世に伝え限りなき郷土の発展を心から祈念致します。 開基百年を迎えるに当たって 遠藤 義美 私の先祖が当地上芭露に農業を営むべく入植してからも時を同じくして、約百年になるかと思っています。 私も遠藤家の後継者として農業に従事して早35年を迎える団塊の世代となっています。 この百年間の農業及び生活面での変遷を今更書く迄もなく皆さん感じている事であると思います。 これからの上芭露と言いますと、農業及び兼業で成り立って来たわけですけれども、農家戸数の減少と共に市街地区と言われた所も空洞化してしまいました。 当地上芭露も百年を迎えたと言うだけでこれから先何十年も続いていかなければならないと願っています。 私も地域の人たちのご理解と協力を頂き農業委員と言う職をさせて頂いています。 各戸の先人たちが、皆汗と涙で切り開いた地域をこれからの若い人達に守り続けて頂きたいと願っています。 戦後60年我が家の歩みに思う 三木 繁太郎 開基百年を迎えるに当たり、私の家の歩み、叉自分の思う事を振り返ってみたいと思います。 今振り返ると、私は中学3年を卒業して農業を継いで約50年になります。 色々な事が思い出されます。 小学校に入学する前だと思いますが、アメリカの飛行機か、日本の飛行機かはさだかではないけれど、家のそばで遊んでいると頭の上を2・3日おきに飛んでいました。 私の家にも小学校にも防空壕があり、親達に 「早く防空壕に逃げなさい」と教えられて逃げ込んだものです。 昔は畑起こしも砕くのも今日とは違い、馬を使っての仕事で畑を作るのにも大変苦労をした事を思い出します。 今はトラクター、ロータリーなんでも機械作業です。 冬になると北海道は大変寒いので暖房に使用する薪を近くの山から払い下げてもらい、鋸で切り倒し、その木を馬でバチと言う橇で家まで運び、鋸で切り、ストーブで焚いたのが今は、木を切るにも運ぶにも、チェンソー・車があって便利です。 地球温暖化のせいなのか今は当時ほどの寒さや、あの頃の大雪が無いように思いますが、ここ2・3年は雪が多いようです。 あの頃、馬で木を積みに行くのに今のように、良い手袋など無く、馬に鎖や梶棒を付けるのに素手ですると、クサリが手につき、皮がむけて血が出て、大変な思いをしたことがありました。 当時雪道を長靴や馬橇で歩くとギシギシ、ギュギュウと寒さを物語る様な音、懐かしく思い出されます。 50年間とは長い様でいて、早いもので、あれよあれよと言う間に過ぎてしまった様な気がする今日この頃です。 その間に、1男3女で4人の子供に恵まれ育て、私も64才何ヶ月です。 若い時は、体・体力には人一倍自信が有り、何にでも頑張って来ましたが、この年代になって初めて気付いた事です。 昔の人の言った格言で色々と反省しています。 腹八分目、急がば回れ、千里の道も一歩から、笑う門に福来る、心は頭より大切なもの頭ばかりで心のない人間になるな、など等好きな言葉が数えきれないほど有ります。 今この年になって思う事は、健康で有る事が大事な事だと思うようになりました。 子供達4人共に健康で過ごしているので大変喜んで居ります。 開基百年を迎えるに当り、一筆認めました。 本当に御目出度う御座居ます。 母校の先輩 小説「藪踏み鳴らし」で有名な金子きみ、大学を出たわけでもない彼女の強い個性的な文学「東京のロビンソン」で平林たい子賞を受賞し、その他数多くの小説を世に出した移植の小説家であり歌人でもある「金子きみ」その土くさい臭いと常に平和と自由を愛し、更に強固な反戦思想はどこで培われたものだろうか。 彼女は小学校六年生の時に上芭露んに来ている。 それから高等科を二ヶ年東芭露の開拓地から通い、昭和四年三月卒業生名簿の庄司きみが当人である。 彼女が自分でも言っている様に、上芭露尋常高等小学校が唯一の母校であり、多感な少女時代を開拓地で過ごし、そこで吸収したもの。 その後あの忌まわしい戦争によって最愛の肉親を失った事がその後の文学や歌に投影して行ったのではないだろうか。 上芭労が開基百年を迎え、編集される記念誌に金子きみ女史の感想文をと思ったが、ご子息から高齢の為無理との返答であった。 そこで小学校閉校の時寄せられた文と彼女の作品の中からいくつかを選んでその人柄を偲んでみたいと思う。 閉校に当たって思うこと 金 子 き み 山あいの平地を求めて一筋の川があり道がありました。 川と道を頼りに幾つかの芭露部落が開けました。 中ほどに文化圏として十七号線市街があり、要点のように点在したのが、私たちの上芭露尋常高等小学校である。 私が生徒だったのは昭和の初期、農業環境で言えば薄荷の最盛期でした。 市街地には鍛冶屋、蹄鉄屋をはじめ宿屋も飲食店も、なお言い過ぎれば、売春宿さえあって、農家の生活物資を扱う四十軒ほどが活気をみせていました。 郵便局を曲がって小さな坂を上ると、粘土質の高台で校庭です。 奉置所があり一方が校舎一方は笹藪でした。 全校生徒百人前後でしょうか。 複式授業で四学級、接近して桐谷校長先生の住宅でした。 (周知のことをわが記憶の確認のためにならべました。 おゆるし下さい。) 私は芭露の八号線生まれですが、実直な開拓者になれなかった父は、何やら手がけて失敗し、中湧別や旭川に出て、舞い戻ったとき私は六年生でした。 従って在校は三年間ですが、たった一つの母校上芭露小学校です。郷愁の核のように母校は脳裏に住みつづけて、空白の半世紀を超えて私を郷里に繋ぐのです。 過疎化はまれな故郷で承知していたのに学校の現実に思い及びませんでした。 廃校というお知らせは衝撃でした。 生徒がたった十三人とは・・・。 私はいっときぼう然としました。 凄まじい変動の時代にふり廻されながら、記憶の中の母校は旧態を保っているものと錯覚したのは無意識にも変容を拒んでいたことでしょうか。 汚れた着物の子供がいつもごちゃごちゃいます。 同級生では高木たけちゃんは、矢崎さんになってからも晩年まで親しくして頂きました。 大隅たつ子さんもです。 大きな体でおっかなかった千代乃さんは後年姉さんみたいだった。 教室で子守をしていたのは誰だったかしら。 こずえさん、いとえさん。 優等生の林勝弥さん、精米所のよねさん。 男前だった藤根さん。 殆どの方を克明に描ける執着はどこからきたものでしょう。 新設だった高等科の教室は一段と高く権威を覚えさせたものです。 進学率は男子で三分の一、女子は低く三木あさ子さんと今尾よし子さんと私だけでした。 この進学は今で言えば大学入試ほどのことでした。 一つ年上の兄直と同室になり、私は先生よりも兄の睨みをおそれました。 上級生にきくよさんという美人があり、担任の先生をはじめ、青年たちからくる恋文を私に見せて愛の心情を聞かせるのです。 色の黒いおてんばな私も急速にませていき宇野千代や吉屋信子をかくれて読みました。 きくよさんは巡査の父親の転任で遠くに行ってしまい肺病で亡くなったようです。 あさちゃんもよし子さんも肺で死にました。 気象の加減か、北見は特に肺病が多かったようです。 小さな下駄屋でしたが売れないので母は出面取りをしていた我が家も、東芭露に畑地を得て越しました。 通学路は一時間以上かかります。 しかし上芭露にしかない高等科を目ざして奥地や裏山の部落からも通い、二里、往復四里も少なくありません。 吹雪けば命がけ、よくも死なない頑丈な生徒達でした。 そんな健気な命も、戦争では否応なく死んだでしょう。 畑のほか役立たずの自覚で、私は詩歌や小説を書きちらし、いつの間にかもの書きを仕事とするようになりました。 主題は自然への傾斜回帰、そして反戦でした。 ほかのことはわからないからです。 乏しい能力では思いを充分表現しきれず、日暮れの道に来てしまいました。 芭露開拓を扱った「藪踏み鳴らし」という長編は伊藤整や佐多稲子の支持をうけたし、軍縮論文の「一粒の自負」も世の評価をもらいわずかに自足もするのですが、文学賞はほかのものに頂ました。 世の中こうしたもののようです。 私は薪を割ったり、デントコーンを曳きすったり、とにかく体を使わないことは働きでないような偏見に悩み、偏見を誇ることから脱けられず来た一生を振り返ります。 校庭の運動会のはしゃぎ、学芸会のときめき、青い目の人形を迎えた時も、日米の険悪になる空気をいなすため、などと知る由もなくみずみずしい感動を覚えたのでした。 東京にいて文明のもたらす技術やスピードや豪勢や華麗におどろき感嘆することは多いわけですが、人間の生存の必然の力が無視されているようで、私は心からの共感はおぼえません。 少女の時の世にも素朴な感動を培養し、培養して、ものを考える原動力にしてきました。 学校で大きなオルガンを購入することになり古いのを売ると言います。 私はじたばたするほど欲しいのでしたが、我が家の財布では叶わず上級生の水野しげのさんが買った筈です。 少女の日の憧れは強靱に生きていて、幻のオルガンを入手したのは戦後十年もたってです。 やはり小さな中古でした。 学校を卒業し農業の働き手になってからも裁縫の後藤よしお先生にまつわり、学校の縁はつづきたくさんの友達ができました。 先輩に佐々木ハルさん方、後輩に小野房子さん方が浮かびます。 私の中でしおれることのない地味な花々です。 日本は世界を敵にして薄荷の輸出先を失い、薄荷産業は崩れました。 その頃私は郷里を出たのです。 あの高台をおりて、市街と並んでからの母校の状況を殆ど知らないできてしまいました。 大きな歴史の転換をはさんだ五十年の経緯、生徒が十三人になるまでのはげしい世相のうつりにどう耐えて前進し、消える日を迎えたのでしょう。 心をこめて偲び、上芭露小学校を教養の土台として生きた一人として、つつしんで感謝の意を表します。 |
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歌集「草の分際」から (金子きみ歌集から) 店先にちんと座って鼻緒をすげていた母に街暮しは寂しそうだった 大雪山の見える軒先で縄跳びしながら店番をした わたし十一歳 運動会のきみの服縫うという 姉ちゃんの手紙に母涙流す 踏みしめる 土のたしかさ新しい地下足袋穿いた 春の満足 薄荷刈り 編んで吊して乾かして 搾油作業に徹夜でかかる 馬引いて早めに出よう 稼ぎ手の兄が黙れば家が寂しい 毎日毎日薄荷薄荷 うぬぼれ楽し きっとわたしもいい匂い 兄達が小学校を終え労働力になるとサロマ湖の奥に戻り再び荒地の開拓生活に入り薄荷を作った。 伐採、熊笹征伐の大鎌、昭和六年山の小学校を出た私も薄荷畑の拡張に加わる。 薄荷草の匂いが毎日付き合う自分もこのにおいを発散していそうでいい気分になる。 秋の初めに刈って編んで吹き抜け小屋に下げて干す。 薄荷の搾油には谷水を引くので製造小屋は山すそに有る。 そこで幾日も徹夜の作業が続く、製品の八割は輸出品だったが知る由も無かった。 言い値で渡すのは不服だったが生活の安定は保てた。 山間の凸凹地歓迎出来る作物は限られていた。 凶作続きで農村は疲弊しプロレタリア文学が風靡し満州事変が起きる。 十五年戦争の初期に当たる。 凶作の畑見限り 兄は今日も救済事業の護岸工事に 下の兄が ブラジル移住を志す 独立独歩と言うのが眩しい 乳缶ごと自転車で転ぶ 夜明の道の茜雲 思いきり泣く 東京に出ておいで何とかなるからと 姉の誘いにさ迷いつづく サロマ湖のむこうはオホーツク海ただただ広くて私の居場所は無かった 捨てるのか捨てられたのか 旅立つ私にさざ波立てていたサロマ湖 郷里に後髪を惹かれるようにして東京に出て行った彼女も、あらゆる苦労に耐えながら歌人として、小説家としての地歩を固めていった。 それは時代の激変の中を自由にそして能力の限を盡して羽ばたいて行った、一人の少女の人生でもあった。 「一粒の自負」の中から」 ○一九八二年に行われた「軍縮への提言」の数多くの応募論文の中で「第一位」に選ばれたもの 岩山の様な倣岸さで、じりじりと攻略してくる軍備拡張に、小さなデモを企て、勇気をもって参画し、ビラを配るとき、街の無表情を、あるいは好奇の目を、私などは過剰に意識して、徒労感に苛まれることがあります。 自己満足だと自嘲の湧くこともあります。 「私たちバカなことをしているみたいだけど、日本の女がみんな私たちの仲間だったら、戦争だけは起こさないわね。 そのほか何がどうなるかわからないけれど」「そうよ、好きなおんなが片っぱしから反対したら、ダンナの軍備増強はしょぼくれる」「おんななしでは男って弱いものね」どっと笑い声がある。 その逆説、どこかホントのにおいがします。「なにがどうなったって戦争ほど大きな壊し屋はないんだから」自己満足がようやく外へ出口を見つけます。 どうせ人間は、戦争を作り出すかもしれない、とかりに諦めてみた上で、私は拙い仮説を立てます。 戦争のなかった三十六年間を見るのです。 軍拡反対、戦争反対の実践運動があったからこそ、戦争が三十年、五十年と抑制されるのではないか。 戦争とは権力と権益を求める、国家エゴが惹き起こすもので、つまりは欲望の所産であるようです。 正義や理想の戦争というものはあり得ません。 私は太陽と土と木と水だけがたっぷあり、そのほかのものは何もなかった、北海道の開拓地で生まれました。 青春の日山の畑で労苦を共にした兄がいましたが、妻と五人の子供を残して、沖縄で戦死しています。 骨の硬い体と、自然が大方の生きる原動力でした。 物資や教育や文化、いわば文明を、ときにはうとましく思う偏見を今もぬぐえず悩みます。 人類は生きのびることが上手で、地球をわがものにしてきましたが、戦争の中でも核戦争の可能性を手に入れたことは傲慢な人間に仕掛けられた落とし穴かも知れません。 宇宙の摂理でいるか滅びるにしても、人間に裏切られて焼かれたり射られたりして果てるよりも、穏やかな自然淘汰を選びたいものとほとんど永遠の課題に目を上げて私は願うのです。 人類の生きつぐ道は猛威をふりかざす強大な力よりも、弱小をいたわり合って結集した、やさしい力にこそ展けると信じます。 軍縮への提言という、尊大な題に取り組むには、不用意と認識不足を思い知らされますが軍縮へのやみがたい念願はあります。 そこへ辿りつきたい女たちの周辺をおきかせして軍縮活動への声援にしたいと思います。(軍縮への提言のほんの一部分) 上芭露が百年を迎えるに当たって特に思う事は、この小さな地域で三十七名もの戦争犠牲者を出した事であり、その事は現在迄大きく影響を及ぼしている事に思を至さなければならない。 今、日本の政治は大きく右にカーブを切りはじめたのではないだろうか。 ひたすら、ささやかな平和を求めて生活をしている我々にとって。 昨今の情勢は戦前の様想を思わせるものがある。 ここに金子きみ女史の一文を入れたのも、女史の常に平和願う姿勢に共鳴した私共の表れである。 |
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俳 句 (上芭露吟社) 上芭露に於ける句会の活動は「郷土のあゆみ」に詳述されている。 当時の記録はないが、藤根さん、金沢さん、渡辺精三さん、今尾さんの句がでてきた。 昭和三十年頃まで続いて盛会であった様である。 ここにその一部を記載して思い出としたい。 藤 根 巽 香(正重) 庭樹囲ふ想いは友の安否など 温泉の疎林白樺冬ざるる 英雄をたとう吟声更く寒夜 北方領土未だし春の雪けわし 搾乳缶ほり上ぐ孫や彼岸晴 金 沢 公 籟(金重郎) 蕗の苔朽葉もたげて山のくぼ 耕疲れ晝餉の草に足投げて 清掃なれる若葉すがしおん社 汗ばみしまゝ野天風呂炊いて居る 冬雲に夕きつゝきのかすれ啼き 渡 辺 裕 雪(精三) テレビ切れば都は去りて雪の音 嘘つけぬ己に疲れ冬銀河 春愁や洩らして気付く一人子言 吾が妻も一夜づつ老ゆ朴落葉 妻たりし夫たり得しや年終る 今 尾 栄 樹(栄) 谷川の音澄んでくる花辛夷 拓きゆく熊笹山の遠因子 新墾の鍬々重し山蕨 山わたる風も案山子も暮るゝなり 蝶二三もつれちとぶ秋深うして |