上芭露郷土史 郷土のあゆみ
  第11章 戦 時

昭和の小漁師
湧別町史
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戦 時  戦時のことについては「郷土のあゆみ」に一。兵後の義務から、十。湧別町遺族会まで、かなり詳しく記載されており、今回の記念誌が追録という事になっており、重複を避けながら記述してゆく事とする。

topへ 一、戦争はなぜ起きたか  上芭露は今、100年を迎えようとしている。 その100年は本当に輝かしい歴史ばかりであったろうか。 この長い道程の中に、必ず不幸な戦争の事が話題になる。 それではなぜ戦争は起きたのだろう。
 日本は明治維新によって、三百年の徳川幕府の時代から初めて世界の門戸が開かれた。 この時日本は世界の中でいかに小さな国で、産業も文化も軍事的にも後進国であるかと思い知らされた。
 世界の主要国はその頃、アジアの各地を植民地化し中国にも多くの利権を持っていた。 日本は富国強兵を国是として、幸いにも自国統一を欠いていた清国に勝ち、革命の不安をかかえていた露国にも勝利し韓国を併合して大陸へ進出の足掛かりをつかんだ。
 その後、民生の安定と国民の福祉よりも軍備の増強と大陸へその矛先を向けて行った。 国内では五・一五事件、二・二六事件によって郡部は一部の国粋主義者と結んで、国の将来を憂うる政治家を暗殺するに至った。
 軍人の中にも戦争に反対する人がいないわけではなかったが、大勢は満州事変、上海事変、日支事変へとなだれ込んで行った。
 何も知らない国民は他国の領土に兵を進める事が結果として侵略行為になるという認識を持たず、大東亜共栄圏だとか聖戦の美名に踊らされて実に十五年もの戦争に突入して行く事になってしまった。
 一言で言えば一部の急進的な軍部が天皇を旗印にかかげ、右翼の扇動によって政治家を押しのけ戦争に入って行った。 政治家もまたこの流れを押し止める、大政治家はこの時代に出現しなかったのも一つの原因と言えよう。


二、戦争は何を上芭露にもたらしたか  上芭露が開けて二十五年たった昭和7年、満州事変が起きた。 農家はこれからしっかりと安定した基盤を作らなければならない時期だった。
 昭和8年国際連盟から脱退する頃になると社会は不安な空気が漂う様になり、日華事変が拡大すると「赤紙」と称して、召集令状が容赦なく舞い込んで来た。 上芭露からも多くの青壮年が出征して行った。
 農家は一番大切な労働力を先ず失う事になった。 今思えば狂信的とさえ思われる厳しい軍国教育が行われ、農産物は作付統制と厳しい供出制度が施行される様になった。 勿論統制農産物は米・麦を中心とした食料で薄荷中心の農業は大転換をしなければならなかった。
 薄荷中心に拓け、北見の薄荷、芭露の薄荷ともて囃された時代はこの頃から下り坂に向かうことになった。
 物資は生活物資も生産資材も極端に不足する様になり、厖大な戦費を賄う為に、貯蓄月間が設定され、国債は半ば強制的に買わされる様になっていた。
 やがて部落の人達の恐れていた事が遂に起こった。 戦死の公報が入ったのだ、昭和16年、満州事変から数えて約9年間一人の死者も出していなかったのに、田中久之さん、阿部源次郎さん2人の村葬が上芭露小学校で行われた。 筆者は65年もたった現在もその時の状景がうっすらと瞼の奥に浮かんでくる。 人々は戦争とは人が死ぬ、あらためて現実の事としてその恐ろしさを知った。 然しそれは全く序の口の出来事であった。
 昭和16年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃し米英両国と戦争状態に入り同日天皇の詔書が布告され日本は無謀な戦争に突入して行った。
 戦争の詳しい経過はここでふれない事にするが上芭露から出征した兵士のうちあの死の島と言われたガダルカナル等で2名、南洋方面のいずれも玉砕の島「ジャワ」「トラック」「硫黄島」の各島にて4名、最後の国土決戦の島であった沖縄で2名、その他を合わせると実に37名にもなる。
 今になると資料はないが、恐らくこの数字は他のどの地域に比べても、飛び抜けて多い数であったろう。 従って戦時中の戦死した家族、機雷で罹災すた家族の苦難は言語に絶するものがあった。 結果は悲惨なものであった。
 昭和20年8月15日、昭和天皇の放送があって戦争は終結の方向に向かい9月2日アメリカの「戦艦ミズリー号」上に於いて日本の全権が降伏文書に署名して日本の敗戦は確定した。
 一時虚脱状態になった人々もその日の生活に追われていったが戦争が上芭露の人々に与えたものはあまりにも大きかった。 あの人が生きていれば、この人が元気だったら、数多くの悲劇は部落の歴史を変える程大きなものだった。
 戦中、戦後を通じてお互いにはげまし合いで助け合って、生き抜いてきた部落の気風が自然のうちに何事にも協力して事に当る習慣ゲートボール醸成され、今日他のどの自治会に遅れを取らない活動が出来る様になっているのも、禍を転じて福にしようとの考えが無意識のうちに出来上がって行ったのかも知れない。
 ともかく戦争によって農地は疲弊し農家が生産力を回復するのに数年を要した事も付記しておかなければならない。

三、戦死者と遺族の追想
階   級  陸軍伍長
氏   名  
上田 正範
生年月日  大正12年3月1日生
死没年月日 昭和20年4月10日
死没場所  沖縄本島西原
軍 歴
昭和19年2月10日
同日
3月3日
8月8日
10月1日
現役兵として第28聯隊歩兵砲中隊に入営
陸軍2等兵を命ず
歩兵第89聯隊に転属を命ず
沖縄那覇港上陸
陸軍1等兵を命ず
昭和20年2月10日
4月10日
同日
陸軍上等兵を命ず
陸軍兵長を命ず
任陸軍伍長 戦死
現在遺族氏名 上田 政代
[兄の帰還を待った母]
                       (弟) 上田 定幸
 私の兄は昭和20年4月20日沖縄本島西原で戦死された。
 昭和53年2月遺骨収拾隊に参加しました。 収拾隊の中に生還者も参加され、その方のお話では、西原は6月下旬に激戦となり、4月に戦死した事は斥候の任務に当り戦死されたとのお話しでした。 お国のためとは言え大変な苦労であったろうと思います。 戦死の通知を受けた当時現在93歳になる母が穴のあいた硬貨を糸でつり兄の写真の上で回ると生きていると何年もの間帰って来ると待って居りました。 子を思う親心今になって見ると良くわかります。 お国のために戦死された兄の事平和を願って子供、孫に伝えて行きたいと思います。


階   級  陸軍軍曹
氏   名  
加茂 敏寛
生年月日  大正10年11月30日生
死没年月日 昭和20年9月11日
死没場所  中華民国第157兵站病院
軍 歴
昭和17年1月10日
8月1日
9月20日
昭和18年6月1日
12月1日
陸軍2等兵を命ず
陸軍1等兵を命ず
戦車第1師団防空隊付を命ず
陸軍上等兵を命ず
陸軍兵長を命ず
昭和19年7月1日
昭和20年9月11日
同日
任陸軍伍長
任陸軍軍曹
戦病死
現在遺族氏名 加茂 よしい
[戦後50年を振り返って思う事]
                     (妹) 東森 みつ子
 昭和16年12月8日
 大東亜戦争勃発。 今振り返ってみても、心の凍るような一瞬でした。 兄かも敏寛は、明けて17年現役兵として、東京北多摩郡という連隊に入隊致しました。
 益々戦火の烈しくなる最中にセンチへ向かって召されて行く兄を上芭露の神社で、お見送り下さった皆様と日の丸の小旗をふって「勝って来るぞと勇ましく・・・」と歌って見送ったあの日が、50余年の歳月が過ぎた現在も瞼の裏に焼き付いております。 あの時「叶わず生きて帰って来て」と心の中で幾度も幾度も叫び叫び続けておりました。 戦争は日を追う毎に激しくなり、誰彼の区別なく、健康であれば成人男子は皆戦地へ戦地へと召し出されて、残された者は老人と女子供、将に1億1心火の玉となって戦った戦争だった。
 昭和20年8月15日、終戦ああ戦争が終わった安堵感で胸が一杯になり涙しました。 兄の復員を信じて、今日か明日かと待ちわびてのある日、突然の戦死のお知らせ、悪夢のようなあの日を忘れる事は出来ません。
 現在兄の遺影に在りし日を偲んで懐かしく語りかけているのみです。



階    級  陸軍伍長
氏    名  中谷 博伊
生年月日   大正10年5月15日生
死没年月日  昭和20年6月22日
死没場所   沖縄本島安里
軍 歴
昭和17年1月10日
同日
4月2日
9月1日
現役兵として山砲第7連隊に入営
陸軍2等兵を命ず
野砲兵第42連隊中隊に転属を命ず
陸軍1等兵を命ず
昭和19年8月5日
8月20日
昭和20年6月22日
同日
同日
沖縄那覇港上陸
陸軍上等兵を命ず
陸軍兵長を命ず
任陸軍伍長
戦死
現在遺族氏名  中谷  正
[戦後50年語り継ぐ]
               (弟)中谷  正
 博伊は中谷家の長男として生まれ弟妹の面倒を見ながら、父親とともに家族そろって農業を営んでいました。 お汁粉、ヨーカンなど甘いものが好物でした。
 当時22歳の出征で、楽しいはずの青春時代に、国家の命令により戦場に赴かなければならない気持ちは、とても計り知れないものがあったと思います。 この悲惨な戦争が兄を含め多くの人々の命を奪ったことは永遠に忘れられない事件です。 二度とこの様な戦争が起きることの無いよう願ってやみません。



階    級  陸軍兵長
氏    名  横山 一郎
生年月日   大正12年3月18日生
死没年月日  昭和20年5月20日
死没場所   沖縄本島新垣
軍 歴
昭和19年2月10日
同日
3月4日
10月1日
幻影喜平として山砲第7聯隊に入営
陸軍2等兵を命ず
野砲兵第42聯隊第1大隊本部に転属を命ず
陸軍1等兵を命ず
昭和19年8月5日
昭和20年2月10日
5月20日
同日
沖縄那覇港上陸
陸軍上等兵を命ず
陸軍兵長を命ず
戦死
現在遺族氏名  横山  浩
[最愛の弟に寄せる追憶のメッセージ]
                 (姉) 天羽 静代
 一ちゃんは元気に成長して学校の成績も優秀で級長副級長として励み成績が下がりますと家に帰って悔しがり、とても勝気な弟で高等科卒業して、北見の現在の中央薬局に努めまして正月休みや紋別・湧別方面に出張に来ましたときなど家に寄りますと近所の方々が横山産の息子さんは立派になったと褒められ父母も私達も弟が大人に成長して行く姿を見て、とても楽しみにしておりました。
 昭和18年に徴兵検査で甲種合格になり旭川に入隊、数日で満州牡丹江に連れて行かれ数ヶ月後南方の方に行きますとの便りの後は、だんだん戦火の悪化を身に感じ、弟たちの身を案じておりました。
 まさかこの様な激戦の真唯中の弟たちがと思いも致さなかっただけに残念でなりません。 大勢の若者が国の為に散り弟たちの事を想うと可哀想で悲しみに追憶に更っており、心から一ちゃんのご冥福を祈っております。
                             合掌。



階    級  陸軍1等兵
氏    名  阿部 源次郎
生年月日   大正9年7月15日
死没年月日  昭和16年6月22日
死没場所   旭川市陸軍病院(戦病死)
軍 歴
所  属  歩兵第27聯隊留守隊
現在遺族氏名  阿部 雅夫
[阿部源次郎出征時の言葉]
                阿部 雅夫
 長期に至る支那事変の戦火が拡大する中の入隊、中国大陸へ渡り昼夜の別なき過酷な軍務の強行に、疲労が重なり病におかされ旭川陸軍病院迄帰って来ましたが、ついに我が家へ帰らぬ人となったのでございます。
 「一命を君国に捧げる覚悟です」との言葉をのこして出征していったのでございますが以来50年余りの過ぎた今日ですが、何とも無念の一言につきます。



階    級  陸軍兵長
氏    名  熊野 増雄
生年月日   大正8年6月2日生
死没年月日  昭和18年7月1日
死没場所   旭川陸軍病院
軍 歴
所  属  満州国独立守備隊
 昭和18年春入隊  2ヶ年勤務
 昭和18年広島陸軍病院から旭川陸軍病院へ移送
 昭和18年7月1日死没(25歳)
現在遺族氏名  熊野 三代治
[亡兄の思い出]
            (弟) 熊野 三代治
 兄が兵隊検査の年2月に父が亡くなり、兄は甲種合格で受かり、大変喜んで母に報告していたのが思い出されます。 昭和14年春入隊で家には母と幼い弟妹や老人を残して後髪を引かれる思いがしたと思います。
 出発の日は馬橇で遠軽の駅まで母や姉と見送りました。
 以来遠い満州から時々来る兄の便りを一喜一憂して読んでいた思い出があります。 又は母我が家も子供や老人と大勢の家族で食べる物も大変な時代でしたが、兄の戦地での苦労を思い、当時の上芭露の店にはなかった「きびだんご」や色々な物を紋別迄行って求め、慰問袋に入れて満州へ送ったりしました。 あの頃は戦地も本土も大変な時代だったと思いますが、その時代を過ごしたので今日の平和があると思います。
 以来幾星霜私も上芭露を離れて40年になり、阿寒の遺族会に入会して毎年慰霊祭をして戴いておりますが、元気なうちに今一度上芭露の忠魂塔にお参りしたいと思っております。



階    級  陸軍兵長
氏    名  佐々木 哲平
生年月日   大正7年9月11日生
死没年月日  昭和16年9月11日
死没場所   河南省温県趙堡(戦死)
軍 歴
 所  属 歩兵第221聯隊
現在遺族氏名  佐々木 恒兵
[兄の思い出]
           佐々木 恒兵
 私と兄哲平とは年齢の差が8歳ほどあって、兄が出征した時私は12歳でしたし、兄弟が多くこれと言った思い出はありません。
 ただ私が小学校4年生くらいの時、正月の「小使い」に兄が父から貰った5円で遠軽に買い初めに行き、自分の物を買わず私には「スキーセット」を買ってくれた事(私だけ兄は特に可愛がっていたようです)が強烈な思い出になっています。
 このスキーで夕方暗くなる迄滑ったものでした。
 兄は昭和16年9月11日、日支事変に従軍していて「河南省」で戦死しましたが、その公報が入った時母はどんなに悲しかったのでしょうか。 「世の中にユウレイと云う物があるなら幽霊になってでも良いから出て来ておくれと暗い戸外に立ち尽くしていた事が忘れられません。



階    級  陸軍上等兵
氏    名  田中 久之
生年月日   大正7年12月15日生
死没年月日  昭和16年7月26日
死没場所   旭川陸軍病院(戦死)
軍 歴
 所  属  不明
現在遺族氏名 田中智恵子




階    級  陸軍上等兵
氏    名  高嶋 正一
生年月日   大正8年2月1日生
死没年月日  昭和17年10月28日
死没場所   ガダルカナル島 タサクファロング(戦病死)
軍 歴
 所  属 歩兵第27聯隊
現在遺族氏名 高嶋 ゆきえ
[兄貴の想い出]
            (弟)高嶋 三郎
 両親共に死亡、私が代わりに兄貴の想い出を書いています。 私は戦死者のすぐの弟です。 兄は昭和14年徴兵にて甲種合格となり旭川7師団の輜重兵7聯隊に入隊しました。 その時はこの部落から3人一緒に出発したのでした。 それぞれ兵科は違いましたが、その内兄一人だけが戦死しているのです。 入隊は旭川で一期間教育を受けてから東京の輜重兵学校に行き又学校で一期間教育を受け再度旭川の輜重隊に戻りました。 私は16年徴兵検査で甲種合格となり17年1月10日東京に入隊の為1月6日出発、途中旭川にて兄貴と逢うために寄ったのですが、16年の12月8日大東亜戦争の宣戦布告すぐ後でしたので、旭川では兄貴との面会もきびしく許しが出なくて、私も10日入隊の訳を話しすると、ゆるしが出て逢うことが出来ました。 その時も兄が外出を貰ってゆっくり話しをする様頼んで見ましたが、何せ宣戦布告のすぐあとのことで外出許可も貰えずに只面会をし少し話ししただけで分かれてしまいました。 それが兄との最後でした。 兄は17年5月中旬南方行き要員として一木支隊の編成部隊に編成されたのです。 一木支隊と言うのは旭川歩兵第28聯隊と通信隊、衛生隊、連射砲隊、工兵隊、輜重兵隊、それに聯隊砲隊の編成部隊でした。 戦後私は、「ガダルカナル島作戦一木支隊全滅」との戦記の本が出版の事を何かで見て、何かくわしい事がわかると思い早速取り寄せてみました。 兄貴等の戦死した場所、どの様な戦いだったのかがわかりました。 戦死者、また戦病死者の名前も名簿に書かれていました。



階    級  陸軍准尉
氏    名  福永  勤
生年月日   大正6年9月3日生
死没年月日  昭和17年10月23日
死没場所   ガダルカナル島マタンガウ河口左岸(戦死)
軍 歴
 所  属 独立連射砲第2聯隊
現在遺族氏名  福永 信孝



階    級  陸軍中尉
氏    名  真鍋  彰
生年月日   大正6年11月30日生
死没年月日  昭和16年12月17日
死没場所   宇都宮陸軍病院新川臨時分院 (戦病死)
軍 歴
 所  属  不 明
現在遺族氏名 真鍋 武人
[真鍋彰戦没者記録]
               (弟)真鍋 武人
 兄彰は、父真鍋利市・母志奈の長男として香川県にて大正6年1月30日出生。 3歳の時父母と共に渡道湧別町。
 上芭露に移住農業を営む。 成長と共に、上芭露尋常高等小学校を卒業するも、向学心に燃す。 東京都麻布獣医畜産大学。 卒業と同時に飯豊健吾先生のもとに弟子入りして、飯豊健吾先生のところから近衛騎兵隊に入隊す。 昭和14年1月16日幹部候補生甲種合格獣医部に所属し、見習士官となり任官良く5年4月1日鹿児島県似島検疫所勤務中健康を害し。 宇都宮陸軍病院新川臨時分院にて入営。 療養の甲斐もなく昭和16年12月17日死亡せり。 誠に残念なり。 兄は生来温厚な真面目な兄で可愛がられた事を記憶しています。
 戦後50年記憶をたどって見ました。 エピソードにがいとうする事も思い出そうとする事も思い出せない事をお詫び申し上げます。



階    級  海軍整備兵長
氏    名  福地  清
生年月日   大正7年9月23日生
死没年月日  昭和20年3月17日
死没場所   硫黄島
軍 歴
昭和18年12月15日
同日
12月27日
昭和19年4月1日
充員召集に依り横須賀第1海兵団入団
海軍2等整備兵を命ず
河和海軍航空隊付を命ず
海軍1等整備兵を命ず
4月3日
6月29日
7月10日
11月1日
昭和20年3月17日
同日
第301海軍航空隊付を命ず
館山発(昭瑞丸便乗)
南方諸島海軍航空隊付を命ず
海軍上等整備兵を命ず
海軍整備兵長を命ず
戦死
現在遺族氏名  福地  弘水
[50年前の清さんを]
                (義姉)福地 弘水
 日米開戦後、暗雲低迷する昭和17年5月26日、最愛の弟(当時18歳)を青年団の見学に出したポント浜で機雷で亡くし、その傷も癒す間もない翌18年12月15日召集を受け、横須賀第1海兵団に入団し、神奈川県で補充教育、海軍独特の精神棒入棒で鍛えられすばらしい勇士に成長され、19年に入り太平洋戦争の戦局熾烈を極める頃、硫黄島方面航空作戦に従事し、同島防衛陸二戦闘で20年3月17日壮絶な玉砕を遂げられました。
 永久の平和を願い、亡き主人共々冥福を祈っております。



階    級  海軍上等整備兵
氏    名  小林 農夫也
生年月日   大正7年5月11日生
死没年月日  昭和19年10月4日
死没場所   ジャバ方面
軍 歴
昭和18年8月1日
同日
8月12日
11月16日
充員召集により横須賀海軍第1海兵団入団
海軍2等整備兵を命ず
第1航空基地隊付を命ず
海軍1等整備兵を命ず
昭和19年1月4日
4月1日
10月1日
10月4日
同日
南西方面艦隊司令部付を命ず
第103航空基地隊付を命ず
東印海軍航空隊付を命ず
海軍上等整備兵を命ず
戦死
現在遺族氏名  小林 三夫
      
             (妹)佐々木 二葉
 召集されてから強い訓練を強いられてジャワにでも行くのか、輸送船でやられたそうです。 兄は泳ぐのが達者でしたので、泳いでいる所を低空して撃たれたそうです。 その船の生き残りは何人も居なかったそうです。 泳げず、何かにつかまっていた人が生き残ったようです。
 終戦後、昆布森という所から、生き残りの戦友がお手紙で知らせて下さいましたので、私がすぐ手紙で一度来てお話しを聞かせてほしいと頼みましたが、それっきり何の返事も有りませんでした。
 出征してたった1年4ヶ月で戦死した兄はさぞ残念でいると思います。 私は兄が写してくれた写真は一生の宝物で大切にしております。 兄の優しい心が忘れられず、私は一生想い出を胸に毎朝お参りして居ります。



階    級  海軍水兵長
氏    名  福原 昭二
生年月日   昭和2年4月15日生
死没年月日  昭和20年2月18日
死没場所   トラック島
軍 歴
昭和17年9月1日
同日
10月31日
同日

11月1日
横須賀市第2海兵団入団
海軍4等水兵を命ず
海軍3等水兵を命ず
海軍通信学校に入校
 (第64期普通電信技術練習生暗号)を命ず
職階改正により海軍2等水兵となる
昭和18年3月1日
同日
11月1日
昭和19年3月14日
5月1日
7月10日
昭和20年2月18日
同日
卒業
第204海軍航空隊付を命ず
海軍上等水兵を命ず
臨時第253階軍航空隊付を命ず
海軍水兵隊を命ず
東カロリン海軍航空隊付を命ず
任海軍2等兵曹
戦病死
現在遺族氏名  福原  保
[思いだすままに]
              福原  保
 皆様暫御無沙汰致しました。
 北海道の一隅にも暖かな春が訪れた事でしょう。 今年も食糧増産に一生懸命な事を遠き南方の地よりお察し致します。 私も相変わらず元気一杯勤務致しております故御安心ください。 兄さんの傷の方は良くなりましたか。 良く気をつけて無理をなさらないで下さい。
 愈々決戦の年です。 私も銃後の皆様の心を心として一層頑張ります。
では皆様体に十分注意してお働き下さい。
    福原憲吉様              昭二より
 この便りは、本人から来た最後のはがきである。 昭和19年の春の手紙で、短い文章であるが、いろいろ隠された意味を読み取ることが出来る。 南の島とあるだけでどこの島か、軍の機密で検閲があるため書けなかったのであろう。 兄の傷とは昭和17年5月の機雷爆発によるもので、当人はこの年の秋弱冠16歳で志願によって海軍に入隊したものである。 毎日毎日米軍の空襲に明け暮れている中で、家族への思いやりが偲ばれる。 「愈々決戦の年」敗戦が本人にとって目に見えて来た頃で生きて帰れない覚悟を決め、それとなく家族へ伝えたかったのか。 同じ部隊にいて無事復員してきた戦友からの話で、南方とは、ソロモン群島でラバウル、トラック島を転々としており戦死したのは昭和20年2月18日、場所はトラック諸島の春島基地であった。



階    級  海軍工員
氏    名  横山  公
生年月日   大正14年10月15日生
死没年月日  昭和18年11月12日
死没場所   南洋群島方面
軍 歴
昭和17年7月31日
昭和18年11月12日
横須賀海軍工事廠造機部普通工員に採用
戦死
現在遺族氏名  横山  浩
[最愛の弟に追憶の言辞]
                   天羽 静代
 公ちゃんは高等科を卒業して、旭川の荒川商会に勤めましたが戦争が烈しくなり徴用が発令されて、横須賀の軍事施設に行く事になりました。 一年勤めた頃に帰って来まして又南方のトラック島に任命が下り、行く途中鮫に襲われた時晒しを海に投げて身を守る為に持って行くとの事で、10月15日に出発したと記憶しており、その当時乗物は輔動車で近所の方々も見送りに来て下さって、公ちゃんが挨拶して輔動車に乗る時、手を付いた所にランプのホヤの破片があり、手を切り血を流して・・・近所の方が出発の時に怪我をしてと、母も不吉な予感に、でも公ちゃんを励まして、公ちゃんも淋しげで可哀想でした。 その1ヶ月足らずに亡くなる運命であったことはあまりに悲しい出来事でしょう。 あの様な戦争は二度と繰り返さないようにお願い致します。 悲しみで弟を想うと涙涙。
 若い身で南洋群島に散った公ちゃんのご冥福を祈ります。


四、機雷事件  機雷の爆発による遭難事件については、町史にも又各地区の郷土史等にも必ず詳しく記載されている。 上芭露の「郷土のあゆみ」にも当時その時の状況について述べられている。 従ってここでは、その時上芭露青年学校の生徒で爆発によって大怪我をしたが幸いにも一命を取り止め、現在明治お元気でおられる、福原保さん、三浦寿章さん、及び爆発後30分以内に爆発現場に入った猪股敏さんの話しを紹介しよう。

イ、福原さん・三浦さんの話
 二人は青年学校の生徒で、当日は朝早く、長沢指導員の号令で鉄砲をかつぎ、背嚢を背負い足にはゲートルを巻いて完全武装で出発した。 (三浦産の父親の謙次郎さんはさんは支那事変に出征して戦場の体験がありそんな危険な物見に行くなと注意していた)
 約43名の生徒は25kmを行軍して午前11時過ぎに現場に到着した。 海岸に叉銃して背嚢をおろし機雷を見物に行った。 丁度、警防団の人達が引っ張っていた。 ビール樽を横にした様な鉄のかたまりが不気味にころがされていた。 海岸にもう一ヶあるので長沢指導員が海の方向に移動するよう命令した直後だった。 機雷は爆発した。 約30米位の所にいた二人は大きな爆発音を聞いていない。 猛烈な爆風が砂埃塵を巻き上げてあたりは暗くなり砂浜に二人共叩き付けられた。 砂けむりが少し静まってあたりを見ると、手のない人、足をやられた人、折重なる様に大勢の人が倒れている。 大変な事になった。
 福原さんは俺もどこかやられたと思って足を見たらゲートルの間から血が吹き出している。 手でさわろうとしたら右手が動かない、遠くにいた人が走って来て、服や着物をひきさいてしばってくれた。 海岸で寝せられていたら舟で小学校迄運んでくれた。 病院に2ヶ月位いて傷は治ったが今でも右腕は上へ挙げる事が出来ない。
 三浦産は砂浜に吹き飛ばされ一時気を失ったのだろう。 気付いた時、尻に焼火箸を当てられた様な痛みを感じた。 何が起きたのか解らないで、立ち上がろうとしたら胸のあたりがぬるぬるする。 首のあたりから血が吹き出している。 やられたと思って腰の手拭いで押さえてみたが止まらない。 そのうち誰かが来て息が苦しい位しっかりと何重にもしばってくれた。 少しは歩けたからハマナスの木の下に入って横になった。 近くで苦しむ声、うめき声がする。 走り回る被トン足音がまるで別の世界の出来事の様に聞こえていた。
 俺はここで死ぬんだと思った。 だんだん遠のいて行く意識の中で、ここにも一人いるぞ誰か発見してくれた。 その時はもう夕日が西の空に傾いていた。 発見されなかったらあそこが俺の死に場所になったかも知れない。 遠軽の村上病院に入院してどうにか命は助かったが、1年位は出血多量で貧血になり頭がふらふらして仕事は出来なかったが、それでも命拾いしたんだから俺達は幸運だったなと二人は交互にあの悲惨な状況を語ってくれた。


ロ、猪股敏さんの話
 私は芭露の高等科を卒業して電話の仕事をしていた。 その日は休みだったので父親について機雷の爆発を見に行った。 湧別の市街から少し東に行って尾関橋を渡ろうとした時「ドーン」と物凄い音がした。
 予定の時間より早いので不安に思いながら行くと途中で怪我をした人を馬に乗せ、両側から支える様にして来る人に一番先に出合った。
 その少し後から缶詰工場の人達が軽い怪我をした人と大勢来た。 父が今の馬の人のことを聞いたら警察署長さんだと言われた。
 現場について驚いてしまった。 手足のない人、折重なる様に死んでいる人、大きな穴があいて、苦しんでいる人がその周りにいっぱい私より先についた人が懸命に怪我人に有り合わせの布で手当をしていた。 私も少し手伝ったが女の方で腹をやられ腸が出てしまって苦しんでいる。 みんなで海水をくんで来て腸についた砂を落として腹に押し込んで布切れでしばってやっている。 まだ少女の私は足がガタガタふるえてしまった。
 あたりのハマナスの木には飛び散った衣類の切れ端や人の肉片でいっぱい。 地獄そのものだと思った。 知っている人は芭露の小倉さん・山川さん・伊藤さん・土田さんの叔父さんが死体となって並んでいた。
 帰ってから芭露の郵便局長さんの命令ですぐ電話の交換の仕事についたが、電話が鳴りっぱなし、2日昼夜連続に仕事についたのを今でもおぼえています。 本当に亡くなられた方はお気の毒だったと今でも思っています。

ハ、これは人災である
一、危険物を承知しながら移動を命令した遠軽警察署長の全責任であり、この命令を実行した警察官も今の時代なら当然業務上過失致死罪で告発されるべき重大な事柄である。
一、町史によると爆破実施の報道は、学校・隣組組織を通じてあまねく知らされ、臨時列車も運行されたとある。 戦時中は完全な上意下達の時代であり、村役場の関与なしに一般公開が行われたとは考えられない。 然し一般公開を積極的に主導したのは警察なのか役場であったのか記録は残されていない。

二、事後処理は適切に行われたか
 町史によると、犠牲者に対して「戦時災害救助法」が適用され遺族給与金、応急医療費、埋葬費が支給されたとあるが、それ等の金額はどの位であったか資料はない。 ただ、町史福祉編の中でこの事にふれ当時は見舞金程度で罹災補償は行われていなかったと明記されている処を見るとその金額は知れたものだったのだろう。
 昭和51年に「戦傷・戦没者遺族援護法の一部改正法」によって
 @特別支出金、弔慰金、遺族年金、特別弔慰金の該当者への交付。
 A後遺症のある主唱者に対する障害年金の交付。
 戦後30年もたってから先の措置がなされた。 然しそれは当時の警防団員のみが該当者とされ他の人はかえり見る事すらなかった。
 とくに青年学校生はその当時義務であり、学校と改称される前は青年訓練所と言われ、この卒業生は徴兵で兵役に服する場合期間の短縮まであって完全な軍隊の下部組織化されていた。 特に当日は完全武装の状態で機雷の見学といえ軍事教練を兼ね、指導員(軍事教官)の命令によって行動していた。 この青年学校の生徒を該当にしなかったのは行政の片手落ちと言わざるを得ない。


ホ、警察官の一階級特進
 湧別町遺族会が平成7年に発刊した「みたまを偲ぶ」によると、遠軽警察署、警部、水本繁雄に対し(水本繁雄は機雷の死亡者)道庁警察部では、君の生前の功績を讃え即日警部に昇進させて、その霊を慰めた。 享年44歳とある。 今では考えられない事である。
 恐らく死亡した警察官6名全員を道警は昇進させたのだろう。 戦時中の事であり情報は少なく 「お上」に物申す事など出来ない時代だった。 被害者は泣き寝入りする以外に仕方がなかったのであろう。
 今我々が開基百年を迎えて考えなければならない事は、戦後民主主義国家になったとは言え、国民は本当に平等に扱われていたのだろうか。
政治家や官僚は身内意識が強く失敗のつけは必ず国民に回すものだという事を考え、そうならない世の中をしっかりと造って行かなければならないと思う。
 
◎ 遭難者氏名
青年学校生徒 警防団員 警防団員
氏  名 年齢 氏  名 年齢 氏  名 年齢
石山 昌之 20 上伊沢 盛 52 井上喜代治 21
長谷川喜一 19 高須 郁男 44
佐々木五十司 18 櫻井  要 33
福地 栄吾 17 伊藤  宏 30 一  般
長谷川 彰 17 加藤 一恵 27 稲井政次郎 36
加藤 登也 17 小笠原栄五郎 25 小畠康太郎
高清水誠一 17 高清水己代治 44 渡辺 文雄
和泉  直 16 加藤 松蔵 25
黒田 幸一 16 横山 重善 22

五、機雷殉難の塔  海を渡って吹きつける秋風が頬に冷たい、冬には流氷が接岸するオホーツクの海岸、見渡す海は果てしなく広い。 波にうつる日の光がキラキラとまぶしい。 海岸に打ち寄せる波は激しく護岸にたたきつけている。
 右手には牛もいない牧場が淋しく広がっている。 この地に平成3年5月機雷殉難の塔が建立された。 100余名の鎮魂と永遠の平和を願っての塔である。 ここで50年前、悔やんでも悔やみきれない、大事故が起きた。
 これは日本の遭難史上に例のない特異な事件であろう。 今は訪れる人もなく人々の記憶は茫々たる彼方に去ろうとしている。 車では近づけないほど浸蝕されている海岸、幾度直しても叉破壊されるのは、なぜだろう。
 まさか空しく死んで行った魂の為ではないと思うが、あらためて我々は平和の尊さを思わなければならない。

六、上芭露から出征した人々(現在生存されている人のみ) 私の敗戦日
            黒田  実
 本日正午「重大放送」があるので隊員一人残らず広場に集合して聞くべしの伝達が隊内に流れた。 当時私は熊部隊に所属し道内警備の任務を受け、北見市に駐屯していた。 宿舎の広場に時間通り集結した。 「玉音放送」と題して天皇陛下ご自身のお声、最初は雑音が混ざり聞きにくかったが悲痛な声が続いて敗戦を宣告されたのだった。
 放送が終わって三々五々にたむろし下をうつむいて手を合わす者、拳を握りしめて喉を押さえる者、ギリギリ歯ぎしりかんで号泣する者、かって想像したこともない状況が展開した。
 さて今後どうなるであろう?とりとめない想像が脳裏をかすめる奴隷的扱いは免れないであろう。 この当時私は隊の兵器係の任務に就いていた。 中隊長が私を呼んで、黒田兵長お前は兵器係についてもらっているが駐留軍に兵器を渡すまで皆と一緒に帰れないと思ってくれ。 俺も一緒に残ると部下おもいの表現が大きな慰めであった。
 どんな事があろうと留守を守っている家族とは一夜だけで良い、逢いたい切ない思いが胸からはなれない。 でも 「玉音放送」から1月目で皆と一緒に召集解除となった。 「聖戦」 の二字で国民を騙し泥沼の侵略戦争もついに敗戦となった。 日本中が真暗みの断末魔に溺れているなかいよいよマッカーサー進駐だった。 何か起こるであろう想像もしたがいとも厳粛そのものだった。
 そして敗北者が選びだされる。 国民の多くは天応兵科は国民にお詫びの意味で自決されるであろうとの噂も流れた。 しかしアメリカは天皇陛下を戦犯から除外はした。 さすが世界のリーダー格、紳士的大きな包容力にただ敬意あるのみ。
 60年前の8月15日玉音を賜て暗黒をさ迷ったあの惨敗は二度とない世界の平和いつまでもと祈って止まない。


私の戦争体験
            清野  宏
 私は昭和14年徴兵検査を受け甲種合格でした。 7月の暑い日でした。 遠軽駅より乗車し、東京に兄が居ましたので1泊、広島に入営致しました。 その間母の死もあり大変でした。
 宇品港より貨物船に乗り、満州国の大連に到着。 新京の手前公主嶺と言う飛行場が有り通信兵として入隊一期の検閲が終わりハルピンを通り牡丹江から温春の通信部隊に入隊、本隊や飛行機と交信に必要なモールス信号でカチカチカチ。 イロハ四十八と秘密言葉は数字で一から十まで数字のモールスにプラスしたりマイナスして、暗号書作製送信機で送る勉強し、本隊の牡丹江飛行場勤務致しました。
 昭和17年に関東軍が沖縄に行く事を聞きました。 飛行隊は独立部隊でしたから沖縄かと思い覚悟しましたが、加藤中隊長が良い人で 「清野上等兵は北海道出身だから、どうせ死ぬなら故郷が良いだろう」と言って、藤井曹長以下12名朝鮮を通り下関より帯広到着で新しい部隊が編成され 「清野は樺太、大谷飛行場に転属「という事になりました。
 教官達と敷香の手前の内路と言うところが無線の中継所で、下士官になりました。 ロシアが参戦したら下士官は監視所長となり高い山の上に監視所を造り私は、北緯50度国境半田の分隊長として24時間交代勤務、第2回は東海岸の海狗島の近くに散江という小さな港町が有り、土地の人の手伝いを受け監視所を建て敵の飛行機が来たら本隊に知らせるのが任務でした。 第3回目は東海岸の恵順取の監視所分隊長になり、20年になったら、B29の空襲が激しくなり、帯広本隊に4月帰還命令を受け帰って来た。 翌日は釧路分隊長として部下10名を連れ、電波探知機の部隊と協力して勤務に当った。
 7月14日・15日の2日間に艦載機グラマン60機・70機と数えきれない程飛来した機数でした。 小さなイカ釣船がうたれて行く可哀相でならなかっった。 油タンクに爆弾が落ちた時は、火の手が上空1000メートルも上がった気がした。 時限爆弾が夜中にも日中でも爆発するのが恐ろしかった。 本部命令で 「市の状況報告せよ」の命令で建物はデパートの鉄骨だけが残って居て焼け野原と化していた。 そこに大きな金庫が残っていた。 直撃を見た人の話では、10人程居たと思う。 工業学校の傾斜地に人体がバラバラになって、手首から足・頭、地面は血だらけで、涙も出なかった。 野犬が2・3匹、肉を食べて居たそうだ。 幣前橋に落ちた爆弾で水道管が折れ断水し、市民はどこに逃げたのか人の姿は見あたらなかった。
 私共には無線があり、ポツダム宣言を聞いていた。 それから1ヶ月後の8月15日の天皇陛下の放送を聞いた。 残念でした。
 部下には軍足に米を入れて持たせ、無事に故郷の家に到着するように釧路駅まで送った。 私は秘密書類の焼却を命ぜられ、無線機械は釧路放送局に引き取ってもらい、本部に帰った私は一時除隊をしているので、予備兵でしたので、軍曹のまま18日復員命令を受け故郷に出発しました。


私の戦争体験
            真鍋 武人
 私は昭和18年2月に徴兵検査を受け8月の18日に旭川の第7師団第27聯隊第3中隊に入隊しました。
 旭川にいたのは一週間ですぐ満州の関東軍の部隊に編入になり、朝鮮の国境近くにある延吉「イエンチー」に移動しました。
 旭川にいたのは一週間ですぐ満州の関東軍の部隊に編入になり、朝鮮の国境の近くにある延吉「イエンチー」で6ヶ月間の初年兵教育を受け、1期の検閲が終了すると桂木斯「チャムースー」に移動しました。
 軍隊は非常に厳しく古参の兵隊に我々新兵は随分しごかれましたが、私は衛生兵だったので割合に風当たりは少ない方だったのかも知れません。 然し、「チャムースー」はハルピンの北東で樺太と同じ位北になるので冬の寒さは厳しく寒さには自信がありましたが厳冬期の耐寒訓練は大変だった記憶が今でも残っています。
 満州でも勤務は1年半で昭和20年の2月に台湾の嘉義に部隊が移動になりました。 この頃はもう東支那海は敵の潜水艦に攻撃されるので中国の沿岸を南下し、台湾海峡を横切って嘉義「チャイー」に上陸ここで約6か月間衛生兵として勤務いたしました。
 この頃アメリカのP38戦闘機の空襲を数回受けて大変恐ろしい思い出があります。 この戦闘機は胴体が二つになっていて速度が速く低空で侵入してくるのであっという間に近づいてくるので一度は防空壕に逃げ込むのがやっとの時もありました。
 可哀相だったのは軍馬が機銃に撃たれて道端に虫の息で横たわっているのを見た時です。 ものも言わない馬が戦争に巻き込まれ死んで行かなければならない本当にやり切れない想いがいたしました。
 その後少し北方の新竹「シンチュー」に移り治安維持の為私は補助憲兵の任務に就きました。 台湾人は割合日本人には好感を持っていましたが、8月の終戦以後は一部にピストルで日本兵を威す者もありましたが、大きな混乱にもならずに昭和21年の2月懐かしい日本の土をふむ事が出来、上芭露に帰ってくる事が出来ました。

私の戦争体験
             長岡 義見
 私は昭和17年に徴兵検査を受け、18年の4月に千葉県の77聯隊に入隊しました。 その後東京の小石川にあった野戦高射砲部隊に配属になり6ヶ月の訓練終了と同時に「曉部隊」と呼ばれた陸軍と海軍の寄せ集めで編成された輸送船を護衛する部隊に入り瀬戸内海の江ノ島で訓練を受け実際の任務につく事になりました。
 昭和18年中は平穏な航海で幌筵島や南方の島々へ数回の兵員や物資、弾薬等を輸送する事が出来ましたが、昭和19年11月になりフィリピンの防衛を強化する為、当時満州にいた「小松原兵団」を輸送する事になりました。 この師団は、昭和14年5月満州とソ連の国境で起きた「ノモンハン事件」でソ連と蒙古軍の猛攻を受け、1万5千の兵員中約1万2千が死傷すると言う大敗をした部隊でしたがその後再編成され、揚陸強襲艦「摩耶山丸」に第23師団司令部及び野砲連隊の特兵約4千4百名と沢山の武器弾薬、食糧、物資等を積んで釜山港を出港しました。
 この頃になると、サイパン島、グアム、テニアン島もアメリカ軍に占領され、守備隊はいずこも玉砕するなど海上輸送も不安な状況になっていました。
 10隻の輸送船団が駆逐艦の護衛を受けて台湾海峡のあたりにさしかかった頃、先ず11月15日に1隻の船が電撃を浮けて沈没、近くに敵の潜水艦が居るので厳戒態勢で航海していましたが17日遂に私の乗っていた「摩耶山丸」に魚雷が命中、船体が傾くと同時に沈没しました。
 私は上甲板にいたので海に投げ出されましたが運良く10畳位の大きさの板に乗る事が出来20数名の仲間と12時間位海上にいましたが助けに来てくれた駆逐艦に助けてもらう事が出来ました。
 後でわかった事ですが、10隻の船団中フィリピン迄到着できたのはたったの3隻で「摩耶山丸」では3千数百名が船と運命を共にしたとの事です。 私はその後も輸送船「大雄丸」に乗って再び船を沈められましたがこの時も幸運にも助かる事が出来、主戦は鳥取県の境港で迎え命があって郷里に帰ってくる事が出来ました。
 戦争が如何に悲惨なものかを私は幾度となく経験し、いよいよ生か死かの極度状態になった時私は上等兵でしたが上官も階級も友人もなく強いものと運の良い者だけが生き残れるのだと痛感しました。 海上に投げ出された時少しでも怪我をしている者体力のない者は次々と波間に見えなくなり、少人数で浮遊物につかまっていた兵隊は手を上げて助けを求めても助けてもらえないで海上に置き去りにされてしまいました。
 駆逐艦も敵の潜水艦が恐ろしいからです。 今は平和な時代になりましたが人間の命を「虫ケラ」程にしか思わない戦争がなぜ起きるのでしょうか。 二度と私の様な経験や思いを若い人達にさせてはならないと思っています。


私の戦争体験
             長谷川  隆
 私は昭和19年の9月に海軍を志願して当時瀬戸内海の江田島にあった海軍兵学校に入った。 学校と言っても軍隊だから噂には聞いていたが厳しい訓練が始まり、分隊の上級生には徹底的にしごかれた。 最初の1ヶ月は特に大変で、少しの事でも怒鳴られ殴られる毎日であった。
 冬は内地でも寒くて手が凍傷になって、つらい思いをした。 12月の乗艦実習で呉に行った時に戦艦「大和」を見た。 6万トンの巨大な姿は当時世界最大、最強の戦艦で山の様に大きく心強く思ったものだった。
 3月になると下級生が入って来て文体も編成変えになり少しは落ち着いて勉強や訓練に入れると思っていたが、戦況の方はどんどん悪くなって東京や他の都市も空襲を受ける様になった。
 学校でも近くの山に防空壕掘りが訓練の間に交替で行われる様になり昼夜兼行の作業で全員が避難出来る横穴が完成していた。 6月の中頃作業中落盤で隣の分隊の生徒が死亡するという悲しい事故もあった。
 7月の始頃呉市の大空襲があって、アメリカの重爆撃機B29が数十機1万米の上空を白い航跡を後に残しながら進む姿は敵ながらすごく美しいものだと思った。 7月の中頃、艦載機の攻撃を受け一人の生徒が戦死した。 また江田島の湾内にその頃は燃料の重油がなくなって停泊していた。 巡洋艦「利根」 「大淀」が大破、沈没し多数の戦死が出た。
 利根は日本の最新鋭の巡洋艦で「ハワイ」「インド洋」「ミッドウェイ」等の海戦に出撃して生き残ってきた艦であったが動けないのでは艦載機の思うままの攻撃で、全艦火だるまとなっても応戦したが及ばなかった。
 我々は対岸からその光景を歯ぎしりしながら見つめる以外に方法はなかった。
 8月6日朝から暑い日差しが照りつけていた。 警戒警報は出ていたが私達は実習室の中にいた。 午前8時15分頃「ピカッ」と稲光の様な閃光が走った。 おや何だろうと思った直後「グアン」と物凄い大音響がして校舎は「グラグラ」と7ゆれた。 直ちに総員待避のラッパが鳴る。 防空壕に一目散に走る右手の方向広島あたりに巨大な火の柱が立つのが見えた。 これが人類の頭上に始めて落とされた原子爆弾であった事は後でわかった。 広島はこの時正にこの世の地獄となっていた。
 8月15日敗戦、私はその夜発病した。 高熱と胸の痛みは胸膜炎だった。 翌朝医務室に収容され 「こんな時病気になってお前は運の悪いやつだな」と言った軍医の言葉が今でも忘れられない。
 2日後私は炎天下をトラックに乗せられ、高熱にあえぎながらバラスの道を何時間もかけて広島県西条の国立療養所に移送される。

 長い療養所の廊下を台車に寝かされてゴトゴトと運ばれていった。 此処が私の人生の終焉の地になるのかなと思いながら病室について自分の病気の事も忘れる位驚いた。 隣の部屋もその向いの部屋も、広島の原爆の患者で一杯だった。 治療の方法もなく、毎日の様に死んでいった。 見舞いに来る人もない中で放射能にやられた人達が頭の毛から眉毛まで抜け落ちて本当に幽霊の様な姿になり女の人はスカーフを目深にかぶっていた。 どれだけの人が死んで行ったのか、知る由もなかったが、戦争のむごさ、恐ろしさは今でも忘れる事は出来ない。
 私は幸にも12月になって病状もかなり良くなったので医官の護送を戴いて北海道に買える事が出来た。 帰る途中の大都市は東京をはじめ殆どが一面の焼野原、港には沢山の船が船腹を見せて横たわっていた。
 戦争に負けるとは、こんな事か、まだ18才の青年だった私は言い知れない虚脱感に打ちひしがれていた。
 青森からの連絡船はなく貨物船に乗って函館に渡った。 途中止まり止まり3日もかかった汽車が芭露駅のホームに入った時私の戦争は終わっていた。


戦争体験と感想
            佐々木 喜六
昭和 5年 1月10日  帝国陸軍歩兵27連隊に入営
昭和 7年10月30日  同連隊を除隊
昭和12年 8月12日  日中戦争勃発となり北志那派遣、南京攻略に参戦、陸軍軍曹を拝命、
 3年間外地での戦争従事
昭和15年10月15日  旭川に凱旋し召集解除
昭和20年 4月     太平洋戦争の戦局悪化に伴い、釧路連隊に3度応召され、下士官教育に
 当たる。 アッツ島派兵として乗船寸前に、釧路・根室地方の沿岸警備を
 命じられ戦死を免れる。
昭和20年 8月     終戦により帰郷
軍功により勲7等を叙勲
 軍隊生活の思い出を2・3述べてみよう。

 追撃戦のことだが、中々の強行軍で大体近くて12km位で、その晩はそこの部落で宿泊するのが常であった。 私の足は癖が悪くて、すぐ豆が出来る。 豆をつぶしてヨードチンキを付けると、泣いてもたりない程の激痛である。 そうやって自分で治療しなければ野戦病院に入院です。 或る時は片足に4つ両足で8つのまめの治療を見ていた部下に「痛くないですか」と聞かれたが「痛くとも仕方がないだろう」と言ったら「ハイ」と言った。 身におぼえの方も、居ると思う。
 支那には良質の水の少ない所で、北支那は井戸水でさえも、強度の石灰水で、これを呑むと必ず下痢をするので沸かして呑めと言われていたが、行軍中にそんな暇がなく、この下痢が漢口攻略の中頃まで続いて困ったが、警備について少し暇が出来たので、一週間お粥を食べて漸く治り、元気になる事が出来た。 そんな事だから水筒には、如何程喉が渇いても末期の水といって最後の一口分だけは残しておけと注意される。 今眼を落とす時でも戦友の水を貰って目を落とす事は軍人として恥であるから、絶対に忘れるなと喧しく命令されている。
 人間の一生とは長いようで短い、人によっては長く感じる人、短く感じる人、いろいろだが、一度男と生まれたからには生涯に一度は命をかけた行動の出来る事は男子の本懐ではないだろうか。 私は幸運にも戦地へ引っ張り出されて毎日を死に物狂いで生きて来た。 生涯何回も経験の出来る事ではない経験をして来た。 敵地の中に4年弱戦争をしている中に一度だけ分隊の兵に対して「今晩は俺も死ぬ覚悟を決めたから、お前達も一緒に死んでくれるか」と覚悟の程を打ち明けた事があったのも懐かしい思い出である。
 昭和20年8月15日、天皇ご自身が終戦の詔勅の電波にのせて、健軍以来80年の歴史を誇る帝国陸海軍は無条件で寂しくその幕を閉じた。

私の戦争体験
          猪股 武男
 私は昭和20年5月10日、横須賀のすぐ近くにあった竹山海兵団に入団した。 兵隊検査を受けた時陸軍に行くのかと思っていたが海軍だったのは、小学校を卒業した後、一時東京の麹町にあった栗林商船にいた事があったからなのかも知れないと思った。
 入隊した時は機関科の92分隊、2等水兵だったが当時は船もなく他の兵隊と同じ訓練を受けていた。
 もうその頃はアメリカのB29の空襲が時々あった。 空襲になると「スピーカー」で全員第3配備につけと号令が下る。 我々初年兵は「タバコ」は配布されていなかったが教班長が「タバコ」をくれたのも今はなつかしい思い出だ。
 初年兵教育は厳しくて大変だった。 殴られたのは少ない方だったが、全体責任で「バッタ」で2・3度叩かれた事があったし、広い練兵場を一周かけ足をやらされるのはつらかった。 8月15日天皇陛下の放送があって戦争は負けて終わった。
 俺達はする事がなくなって一週間位したら部隊は解散になった。
 海軍の軍人になったが3ヶ月の軍隊生活は「アッ」と言う間に終わった。 帰りに東京の前に勤めていた栗林商船に立ち寄ったがその頃船はないし、会社も焼けて「バラック」の小さな事務所があるだけだった。 仕事もないので北海道に帰った。
 昭和23年になって家に居ても仕事もなかったので東京の川崎汽船の船員の募集に応募して川崎汽船に入社した。 最初の頃は普通の貨物の輸送航海だったが、昭和25年に朝鮮動乱が勃発し川崎汽船にもアメリカの船舶徴用があって私達の船もアメリカ軍の指揮下に入った。
 船名も番号で呼ばれて「スカジャンプナンバー」と言っていた。 兵員の輸送や武器、弾薬の輸送を行うのが任務だった。
 港に近づいた時遠方で大砲の爆発音が聞こえ、戦争が終わったのに船乗りになった為にもう一度戦争の体験をする事になった。
 ある時は敵の機雷原の中に入ってしまい、アメリカの軍艦の無線誘導でやっとのこと脱出する事が出来た。 危険な思いはしたが給与は普通の3倍で良かった。 然しやっぱり平和の方が良いと今では思っている。


私の戦争体験
            長岡  勝
 私は昭和20年樺太の本斗にいた。 そこで3月徴兵検査を受け、第1乙種合格だったが海軍に入隊の命令が来た。
 5月北海道を通って青森県の田名部海兵団に入団した。
 田名部は陸奥湾の大湊のすぐ近くにあった。。 美しい港町だったがここで3ヶ月の初年兵教育を受けた。 私は整備兵だったが、はじめは一般の水兵と同じ教育を受けた。 あまり殴られなかったがやはり初めのうちは厳しくて大変だった。
 大湊には空襲があって、船が沈められたり町も焼かれたが我々の兵舎は焼ける事はなかった。
 8月15日終戦になって訓練はなくなったが大湊の警備に当たっていた。 9月に入って部隊は解散する事になったが家が樺太だったので困ってしまった。
 同じ班の2等兵曹の方が旭川に帰るというので旭川に来た、国策パルプの社宅に暫く御世話になったが、何時迄もおられないので、木材から「タンニン」を取る会社に努める事にした。
 そのうちに樺太の海豹島から逃出して姉が留辺蘂に居る事が解って、北見に来た。 私は軍隊の生活よりも家族と会う迄の方が大変だった様な気がする。 本当に戦争によって私の故郷樺太はロシアの領土になるし、無駄な戦争をしてくれたと思っている。 何よりも平和な世の中が続いてくれる事を今は願っている。


七、戦争中の悲劇  昭和20年戦争は益々厳しく日本は敗戦の方向に進んでいた。 銃後に於いても国民に対する締付けはあらゆる分野に及び、今にして思えば過酷と思われる施策が当然の様に行われていた。
 別に掲げるものは昭和19年遠軽警察所長名で出された稼働命令書である。
 昭和20年2月1日、上芭露20号の清野功氏(当時42才)はこの命令書に従って馬を持って大沢木材部に出役していた。
 その日は吹雪模様で驛土場の桟橋の上でバチバチに積んで来た丸太を急いで降ろそうとしていた。 その作業中、丸太が思わぬ時にころがり、持っていた「ガンタ」の柄で腹部を強打してしまった。
 苦しがる功氏を仲間の人達が大至急馬橇に乗せて上湧別の久美愛病院(今の厚生病院で上湧別の役場の近くにあった)迄馬を走らせた。
 然し残念ながら大腸破裂と腹部出血の為2月3日息を引取った。
 清野さんは42才の厄年だった。 残された妻のマツさんはまだ39才、5人の幼い子供をかかえて苦しい時代本当に苦労の連続であった。
 こうした命令によって出役したにもかかわらず、国も警察も何の処置もせず全くの死に損になっている誠にいたましい限りと言わなければならない。


八、明治以降の軍隊と国民の関係  戦前から兵役は国民の義務とされ、納税、選挙と共に3大義務とされ男子は満20歳になると必ず徴兵検査を受けなければならなかった。
 そこで甲種、乙種、丙種と分類され、甲種に合格する事は最も名誉な事とされ青年達は体力の錬磨に励んだものだった。 合格すると普通は旭川の第7師団に入隊する。 そこで厳しい初年兵教育が行われる。 通常は現役3年間だったが、1年短縮され2年になる事もあった。
 昭和に入ると世界の情勢は大きく変わり、アジアに於いても満州事変から日支事変となって多くの兵隊が召集令状を受けて戦地に赴き戦闘に従う様になった。 前述した人達は現在生存されている方々でその地に死亡された方々や他町村に転出された方々も多数がおられる。
 記録がない為、それ等の記述にふれる事が出来ないのは誠に残念である。
 聞くところによるとノモンハンの激戦に参加された方、支那事変に参加された方、戦後何年もシベリアに抑留され大変な労働をされた方、叉、南方から帰還が遅れて3年もかかった方々、生きて帰還出来ても大変な苦労をし、留守の家を守っていた人達も言葉では言い表せない苦労の連続であったと思う。
 今、上芭露が百年を迎えるに当って我々は決してその事を忘れてはならないし後々迄戦争の悲劇を語り継いでゆかなければならないと思う。
 政治の世界は今大きく右寄りに向かっているのではないだろうか、今後の政治の動向をしっかりと見据えて二度とあの様な戦争をさせてはならないと思う。