上芭露郷土史 | 郷土のあゆみ | 第5章 社 会 |
第6章 社会福祉 | ||
第7章 社会保安 |
庶民の生活 | 上芭露に人々が入植して百年、極めて困難な開墾の時代、少しは安定したと思う間もなく国家の命運を賭して戦争に入って行った過酷な時代、そして敗戦、ここで我々は自由と平和をやっと手に入れた。 戦後の思想の上からも物質的にも大混乱の時代をくぐり抜け、トラクターが縦横に沃野を走り、近代化された酪農経営と畑作農業は明日の此の地方の生活基盤を約束してくれるものと思われていた。 今又我々の郷土は過疎化と少子化という先の見えない時代に入った。 此の頃ではこの変転してきた時代を人々がどの様に生活してきたのか、住居・食料・乗物等いろいろな分野に分けてふり返ってみよう。 |
|
top | 一、住居の変化 | 土地がきまって入植すると家を準備しなければならなかった。 此の小屋は「着手小屋」と呼ばれていた様だ。 少し小高い所、そして水の利用できる小川のふちに、そのあたりの木を切り倒して丸太のまま組み合わせて作ったらしい。 その上にそのあたりの草や笹を刈り集めて屋根や壁を作るという簡単なもので、釘もなく縄でしばったのが多かった。 畑も少し開いてどうにか食糧の自まかないの見通しがついた頃になると着手小屋から少し広い家を建てる様になった。 オンコの木が、腐りにくいのをどうして知っていたのかわからないが、柱はオンコの木で掘っ建て、上材は松の木が利用された。 壁は下地を細い木を利用して作りすぐ近くの上に草の乾いたのを細かく切ったのを入れて壁土をこねて、親戚の人や隣近所の人達が集まってきて壁をぬって、家が完成した。 みんな何回もそうした事に「手間がえ」でやっていたので大工さんや左官さんを頼まなくても上手に出来たというから驚きである。 又長柾を使った家も造られた長柾は「トド松」か「エゾ松」の木の中から割れるものを選んで「三尺」の長さ幅「五寸」位の柾を割って、これを屋根や壁に利用した。 柱や梁や桁は「刃広」と呼ばれた大きな「マサカリ」で上手に利用する太さにけずって用いられた。 板はタテ引きの巨大なノコで引いて作られた。 その頃「木挽さん」と呼ばれる職業の人がいたと言われている。 後に屋根は「草ぶき」から柾ぶきになり上芭露には家や薄荷小屋等に利用があって市街に「柾屋」を職業とする家が戦後迄あった。 こうした粗末な家も大正の中頃から昭和の初め頃にかけて薄荷の耕作で利益を得た人達ができて、立派な家が建てられる様になった。 どの家も内地府県の家の間取りをまねたものが多く防寒の上からは問題が多かったが、戦前此の芭露の沢の家は他の土地に比べても立派な家が多くトタン葺きの家迄戦前であったのは其の証左である。 中には薄荷御殿と言われる家が今に残るのも如何に一時期薄荷の好景気にわいた時があったかがしのばれる。 昭和40年代の後半から50年代に入り、市街地の住民は大変立派になり防寒の面からも採光の上からも近代的な家が建てられる様になった。 上芭露に於いても、家を建て替える人が多くなり、建築技術の進歩、建築資材の改良も進んで、寒冷地向きの衛生的な家が建ち、文化的な生活を送れる様な住宅になっている。 |
二、衣服の移り変わり | 入植する時に一通りの衣服は持ってきたと思われるが、男の人は作業ズボンにシャツ・半纏、女の人はモンペ姿、夏は軽装で良かったが冬の作業衣は大変だった。 厚いネルのシャツ・モモ引き・綿の入った半纏、下は厚い乗馬ズボン、足は赤い毛布を巻き付けて「ツマゴ」(ワラで作った手製の靴)をはいていた。 女の人は、冬から春先まで衣服の段取りに追われ、夏冬を通して破れたボロ継ぎで針を持たない日はなかったと言われている。 今の様に既製品はないので全部自分で手を加え、長く着た着物は、ほどいて洗い張りし縫い直して何度も着用されていた。 浴衣から丹前迄、裏も表も張り直して、キレイにして古い物が再生されていた。 少将の破れは衣を当てて継ぎ当てられ、どうしても着れなくなった物は、いたみの少ない部分で腕抜きや脚絆、赤ちゃんのオシメなどに作り替えられていた。 兄弟姉妹の多い家は、下の子は「お下がり」を着せられたし、ともかく布地は大切に扱われ、女の人はそれぞれ工夫を凝らして少しでも無駄にするような事はなかった。 足にはくのは地下足袋であったが「高丈」とも呼ばれていた。 破れたらつくろって履いていたし、地下足袋が出回る前は自家製の靴も使用されてたし、子供達は「下駄」や「ぞうり」をはいていた。 帽子は働く時男の人は、夏は「手拭い」で鉢巻きやほっかむり、暑い時は麦ワラやカンナガラの帽子をかぶり、冬はスキー帽と呼ばれていたものや、目だけ出して頭からすっぽりかぶる「タコ帽」姿もあった。 恩あの人は「カブリ」と言った、白い布を三角に折ってかぶっていた。 外出の時の「角巻」姿も戦前迄あったが今は見られない。 学校に通える子供達も大正年間は和服姿であった。 昭和の初めになって男の子が洋服を半数位着る様になり、全員が洋服になったのは10年以降である。 戦時中は 戦時中衣料品は極度に不足し、衣服も切符制度が取られる様になり、点数によって買物をする様になった。 衣服や布の大きさによって点数がいるので、大きな物などお金があっても買う事が出来ず大変不自由な生活であった。 従って作業服も破れると布を当てて修繕し、子供達もつぎの当った服を恥ずかしいと思わなくなった。 ゴム靴も配給でめったに当らないから修繕してはいた。 市街にゴム靴の修理屋さん迄出来た。 戦時中の服装は男は国民服に戦闘帽、足にゲートル、女の人はモンペをはいて白のカッポウ着姿に統一されていた。 こんな事が戦後21年頃迄続いていた。 此の為どこの家でも緬羊を何頭も飼って、年に一度春先に毛を刈り、この毛を糸につむいで手袋や靴下、セーター等も手で編んで着用していた。 その中に編む機械も売られる様になって、冬の間女の人達の仕事になっていた。 又羊毛を農協に出すと「北紡」という会社が旭川にあって交換に立派な緬羊の生地が買える様になって、不自由なさい勝つから解放される事が出来た。 其の後昭和30年代に入ると技術革新は「ナイロン」製品を生み、戦後女の人と靴下は強くなった等と言われる様に、丈夫で長持ちし軽くて美しい衣料が出回る様になり、更に近年は易い衣服が海外から大量に輸入される様になり、どんな衣服でも、既製品で間に合う様になって戦時中不自由な思いをしたのが夢の様である。 |
|
三、食料はどう変わったか | 入植した人達にとって一番の問題は食糧だった。 春先に入ったとして次ぎに来る冬を越せる食糧を確保出来るか、出来ないかに開拓の成否がかかっていた。 笹藪を刈りはらって乾いたら火をつけ「ケヅリ播き」と言って耕さないでソバを播いた。 ソバは7月になって播いても取れたので立派な食べ物になった。 笹の少ないすぐ耕せそうな処には麦も播いた。 麦は裸麦で、開拓地では主食の座を占めていた。 裸麦は「ノゲ」が多いので麦焼と言って上手にノゲが焼ける様に火を付けて穂苗から落し、これを「唐竿」でたたいて実を取った。 其の他「南瓜」や「薯」「トウキビ」も作られたし「イナキビ」は餅にもする事が出来たので貴重な作物だった様だ。 こうして取入れした物も食用とする迄が大変で「ソバ」は「ひき臼」を手で回して粉にしなければならなかったし、裸麦は臼でついて皮を取らなければならなかった。 総ての人の手で行われた苦労は現在の人達には想像する事すら出来ない程大変な事であった。 明治33年川西に入植した、小川清一郎氏の記録を見ると開拓3年目で裸麦11俵、小麦3俵、馬鈴薯50俵余り、豆類が3俵、稲黍が11俵、唐黍も食べた残りが1俵あまりで、南瓜や甘藍も取れてやっと一家の食糧が間に合う様になったとある。 秋は唐黍を畑からもいで来て、囲炉裏の火で焼いて食べるのが主食だった様だし、馬鈴薯は「凍れ薯」にしたり、手製の薯摺機を造って澱粉を作ったりもした様だ。 「凍れ薯」は春3月の末か4月の初めに穴から掘出した薯を雪の上に敷いて置くと凍れて皮がむける様になる。 その薯を細い針金に通して、2,30ヶで一つの輪にし小川の流れ水につけて置くと「アク」が取れる。 此の薯を乾燥して臼でついて粉にすると、色は黒いが立派な「薯ダンゴ」が出来た。 生活の知恵であった。 其の時代、取れた米や麦を精白するのに動力はなくとも水車を利用すれば出来る事は知っていても、その設備をするのが大変なので、足で大きな杵を2人でつく「踏臼」を利用する農家もあって、取った麦や稲黍を苦労しながら精白していた。 稲黍は、米の出来ない頃麦御飯に少しずつ入れると御飯にネバリが出来ておいしくなったし、餅にすると少し黄色い色だが立派に餅米の代わりになって貴重な食糧の一つだった。 こうして開拓の頃から戦後になっても農家以外の人は別にして、此の地方の農家は総じて魚や肉以外は自給自足の生活であった。 水稲耕作の経過は「郷土のあゆみ」に詳しく記されているが、府県から来た人達にとって、此の北国でも米が取れる事は何よりの朗報だったと思われる。 水を利用出来ればどんな所にも水田が作られた。 然し上芭露では販売作物の中心は薄荷で自家消費米であった。 戦前は有機栽培が行われ、又冷害凶作も多く、安定した作物ではなかった。 戦後、苗の移植方式や品種の改良も進んで、大凶作の年以外は収穫を得る事が出来る様になった。。 戦後、電気が導入された事により上芭露市街にも精米所が出来て、精米・精麦・精粉が依頼出来る様になり永年苦労して来た労働から解放される様になった。 昭和40年代に入る食糧事情は大きく変わってきた。 先ず粉は自由に買える様になり、小麦を精粉して自家食糧とする事はなくなり、米は大量に出回る様になって、国も古米や古々米まで発生する様になり、昭和45年には食管法を改正して水田に転作奨励金を出して減反をうながす様になり、此の地帯の水田は全面的に姿を消していった。 こうして昭和60年代以降現在は食糧は自家野菜位で、米、粉をはじめ総て購入され消費されている。 かって自家食糧を確保する事が最も優先された。 開拓を思うと正に今昔の感にたえない。 |
|
四、燃料は | 寒い北国の事で燃料は1日も欠かせなかった。 暖を取るばかりでばく食事の仕度も総て「薪」が使われていた。 開拓所期はまだストーブもなく「炉」や「カマド」が使われ、どこの家でも煙で家の中は真っ黒になっていた。 幸い薪は土地の中にいくらでもあった。 然し良く乾燥させておかないと燃えないので、冬の間に2尺の長さに切り適当な大きさに割って家の近くに積んであった。 (2尺薪を高さ5尺、巾6尺で1敷と言った)心掛けの良い農家は薪を何十敷も積んであり、薪の多い農家ほど暮らしは豊かだと思われていた様だった。 薪を切るのは刃の長さが1尺8寸位の大きな鋸が使われ、手で引いて1本1本切り落として行った。 此の鋸を上手に目立て(鋸の刃をヤスリでとぐ事)出来れば薪切りの高率は上がった。 後市街地には鋸屋さんと言って鋸の販売と目立てを生業とする人もいた。 戦後になると動力も使われる様になるが、戦前は総て人力だったので、冬の暖房用は勿論のこと、春先には秋迄一年の薪を切っておかなければならず、子供達まで手伝わされたものであった。 開墾するには木は切っては集めて火を付けて焼いたが、太いところは薪にして積んでおくと1敷「30銭」位で売る事もあった様である。 大正の末頃になると自家所有地内の薪も少なくなって、国有林から払下げをする様になり、農家の人達は薄荷の製造用の薪材と共に毎年冬の間に切り出し、薪が作られていた。 薪はどこの家も「ストーブ」で、暖房と食事の支度が兼用で便利に使用されていた。 国有林から王子製紙の山林に払下げが変わったのが昭和37,38年、その頃は山からの切出しには手引きの鋸が利用されていた。 40年代に入って「チェンソー」が入って造林山や薪切りに使用される様になった。 チェンソーは手引き鋸より能率も上がるので非常に便利な道具だが、長期間使用すると「ハクロウ病」にかかる欠点があるので注意しなければならないと言われている。 山から切だした薪は家の近くでは戦後になると発動機を入れた農家も多く薪切り台の丸鋸で短く切って薪を作る様になった。 長年薪に依存して来た此の地方にも燃料の変化は起きて燈油で暖を取る家が多くなった。 石炭を使用した人も少しはあったが、家が新しくなると防寒住宅となり、少ない燈油で充分暖を取る事が出来るようになったのは革命的とさえ言えるだろう。 食事の支度にはプロパンガズが使用され一昔前迄冬中かかって一年分の薪を準備した事を思うと夢の様である。 |
|
五、ランプから電灯へ | 芭露の沢が拓かれたのは明治末期で、焚き火の光りに頼る事もあったのかも知れないが、少量の石油は買えた様で、どこの家でも「ランプ」や「カンテラ」の生活であった。 「カンテラ」は風が吹き込むと室内でも消えそうになるし油煙も立つので実用は少なかった。 燈火は「ランプ」が主で少ない石油で(18立缶一つで一年はあった)電気のない頃重宝に使われた。 燈芯の巾によって3分芯、5分芯、8分芯とあったが心の中が広くなる程、石油の消費量が多くなるので、普段はどこの家でも3分芯のものが使用されていた。 5分芯委譲のランプはお正月や婚礼の時など特別な時にだけだった様である。 ランプはホヤがあってホヤは薄いガラスで出来ていて、毎日掃除しないとくもって明るくない。 そこでどうしても毎日磨く必要があった。 どこの家でもランプ磨きは手の小さい子供の仕事だった。 現在の電気の光りから見れば薄暗いランプの光の下で子供達は、本を読んだり、遊びも出来た。 主婦は大勢の子供達のつくろい物をし、朝早く仕事に出る為の支度やら、学校に行く子供達の弁当の用意と休む間もなく働いたものだった。 屋外での燈火にランプを改良した安全燈があった。 風が吹いても中の燃火迄ゆれないし少し位物に当たっても安全だったので屋外の作業には便利に利用されていた。 又提灯にローソクを入れて明を取る事も出来たが、毎日の生活の上で使用される事は少なく、神事や仏事に使われていた。 戦時中に石油は自由に買えなくなり少量の配給では間に合わず、どこの家庭でも困って「カーバイト」の火なども一時利用した事もあった。 戦争が終わって平和な時代になって、一番欲しかったのは電気だった。 「郷土のあゆみ」によると、昭和20年に電気期成会が設立され、会長に伊藤石松氏が選ばれたとある。 戦後急速に農村電化事業が起こったのは、電力会社が軍需産業に送っていた電力が必要なくなった為、其の需要を農村に求めた事もあったのだろう。 然し物資は極端に不足していた為、農村電化地区として認可を受けたとしても、先の立つ人の苦労は大変なものであった。 伊藤石松氏は生前回顧録の中で、俺は会長に選ばれたもののどこから手をつけて良いのか解らなかった。 芭露の人達の話を聞いて、役所や北電には「ビート飴」(砂糖の無い戦時中、戦後ビートから作った物)を持ったり、少しばかりの食糧を持ってお百度参りをしたり、やっと許可になる事になったが資材は電線から電柱、好次郎同社の協力、多額の受益負担を要求された。 仕方なく電線は汽車を乗り継いで東京迄探しにいった。 幸い焼け野原になった東京は取り外した電線があったので買って送ってもらう事にして来た。 返ったら電柱だ、どうすると言ったって何処にも売っているはずがない。 今度は営林署へ「ビート飴」だ。 営林署は自分達の担当区にも電気がつくので協力的だった。 すぐ搬出に便利な場所で調査をしてくれた。 材採や搬出は農家の人達の協力で見通しがついた。 一番困ったのは負担金をどう配分してもらうかだった。 役員会や総会にかけて1戸で何灯つけるかを基準にしてもらった。 その頃預金はあっても、預金封鎖があったりして現金を集めるのに大変だと思った。 勿論貸してくれる所なんか何処にもない。 俺は財産をつぶしてしまうかと心配したが、割合順調に金は集まった。 後で解った事だが農家の人達は「ビート飴」を造って「ヤミ」で売って金を作ったらしい。 こうした先頭に立った人達の並々ならぬ苦労があり、部落民も電柱の搬出、穴掘り、皮むき協力して、昭和22年お6月には上芭露で祝賀会が行われ、同年10月には、上・東・西・3部落の点灯祝賀会が盛大に行われた。 ちなみに受益者負担金は1戸平均1万円だった。 敗戦という暗い世相の中で皮肉にもいち早く電気がついた事は此の地方の部落民にとって最大の喜びであったろ。 あらためて物質的にも又多くのかけがえのない人々を犠牲にした戦争とは何であったのかを思わずにはいられない。 喜びにわいた電気も最初は裸電球であったがその中に白熱灯・蛍光灯・水銀灯と出回る様になり使用目的に合った利用がなされている。 電気がついた事によって農村の生活は一変したし、市街にも街灯、防犯等と町が設置して文明の光は部落のすみずみ迄及ぶ様になった。 |
|
八、道 路 | 庶民の生活の中で生活に大切なのは道路であった。 開拓の当初は、踏み分け道から刈り分け道であったと言われている。 笹を刈り、雑木や雑草を刈り払って、地域に併せて曲がりくねった道をつくり、小さな沢や川には丸太の橋を架けて渡ったのだろう。 これ等の道は奥地を目指して入植した人達が力を合わせて地域間をつなぎ合わせて行ったと思われる。 やがて馬が入ると土橇「ベタゾリ」を引く事によって道らしくなっていった。 北海道拓殖計画によって昭和37年には芭露原野道路開削とあり、更に43年には16〜23号迄道路開削とある。 従って此の頃になると一応道らしく形は出来たのだろう。 然し雨が降ると泥んこ状態になって、古老の話によると馬車のわだちがぬかって進めなくなった事も度々であったと言われている。 こうした事から農家の人達は班毎に秋・初雪の頃、川から馬橇で川から、「バラス」を運んで道を直していたものだった。 現在資料は残っていないが道路愛護組合が戦時中まであり、区長が組合長で戦時中まであり、区長が組合長で各班に役員がいて、こうした道路の管理が各部落の自主的な労力に依存されていた。 こうした事は国が戦備の増強に力を注ぐあまり、民生は二の次になっていた事を物語るものであろう。 戦後になって、町はトラックを購入し日割りを決めて道路に「バラス」を入れる様になったり、救農工事で道路の改修を行う様になり地域の人々は少しは楽になっていった。 昭和30年には芭露遠軽間が道々に昇格し、38年には舗装された。 平和な社会になったお蔭でこうした田舎の住民もはじめて文明の恩恵に浴する事が出来るようになった。 昭和47年には上芭露・東上芭露間が簡易舗装ではあったが舗装になり、55年には16号線・山手方面、61年には16号橋を越えた所迄舗装が完了した。 又17号線と西3線が道々と結ぶ線も舗装が整備され、上芭露はほぼ主要路線の舗装が他の自治会より早く出来上がった。 これは当時の区長をはじめ上芭露選出議会議員の努力によるものである。 イ、道々遠軽芭露線の再改良 昭和60年代に入って国は景気回復等の思惑等もあって積極的に公共土木事業に投資する様になった。 道々芭露遠軽線も昭和30年代に舗装されたもので、道幅も狭く現在の工法に比較すれば簡易舗装に近かったのだろう。 上芭露に関する部分は昭和62年頃から改良工事に入り平成3年に報国寺の前迄来た。 市街地区は路線の問題等もあって一時留保され、今尾栄氏の畑の所から西芭露に向かって改良舗装が進んでいった。 西芭露本沢と遠軽沢の合流点で一旦工事を打切り、平成12年に上芭露地区の工事に入り梅沢三郎氏の前から平成12,13の2ヶ年で福原保氏の前迄つながった。 残りの市街地区について、ごく一部の住民が土地家屋の補償問題であまりにも強気に出た。 然しもうそんな時代ではなかった。 網走土木現業所は補償に決着が出なければ次年度の予算はつけないという事になり、これでは大変な事になる事から地元議員が東西奔走して平成4年前線が完成した。 かってバラスの凸凹道に難渋した人々も、都会を上回るすばらしい道路を自家用車で疾走できる様になった。 しかしかって繁栄を極めた市街も、伊藤商店・小林商店が平成13年に店を閉じ住居不在の家屋が総て取り壊されて、郵便局があるだけの淋しいたたずまいになっている。 尚、参考までに此の道々上芭露の部分の事業費は総工事費約16億6.000万円である。 ロ、16号線町道 町道16号線は今回道営の中山間地域総合整備事業の中で平成12年から調査がはじまり、平成16年迄かかって総延長1.360米の工事が行われた。 此の道路は16号線部分は簡易舗装が出来ていたが、西1線の部分は未舗装であった。 今回の工事によって道路側溝をふくめて完全な工事が行われた。 ハ、中山間地域総合整備事業 総事業費2億8千万の工事で、16号から西1線を通り三浦の沢出口の道々迄約1.300米の工事が完成した。 これによって上芭露地区の道路関係は全部改良工事が終わって、通行に支障のある所はなくなった。 交通安全の上からも喜ばしい事である。 |
|
七、乗り物の発達 | 開拓当初は歩くより方法がなかったが、開墾に馬が使われる様になって一番先に出来た乗り物は馬車と馬橇だったと言われている。 湧別町史によると明治37年頃5号線に馬橇屋が出来、45年には四号線に開業して盛況であったとある事から馬の所有する農家はすぐ馬橇を購入したと思われる。 馬橇は冬の人の乗り物であったばかりでなく、荷物の運送にも使われ冬の木材の搬出にも使用された。 12尺の丸太を「チャン積み」と言って斜めに積んで、中湧別迄運んだというから驚いてしまう。 戦後トラクターが出る迄利用された。 馬車も中湧別に大正の初めにあったと言うから、夏にはどうしても必要な農具で人の乗り物より色々な物を運ぶ為、どこの農家にも1台は必ずあった。 鉄の金の輪で出来ていて、ゴトゴトとバラスの道では乗り心地の良い物ではなかった。 戦後になってゴム輪の保導車が出回る様になって馬車は次第に姿を消して行った。 冬の乗り物に戦前・戦後の一時期、遠軽〜上芭露間を定期客ソリが運行された事があった。 足の速い馬に馬橇を引かせて、4〜5人の客を遠軽迄、朝夕2回通っていた。 何年位続いたのか記録もないが、馬は御者に追われるので、汗びっしょりになって走る姿が見られた。 人の乗り物では自転車が先ず使われた。 町史によると、上芭露では横山武一氏が明治43年頃タイヤの中古自転車を買ったとあり、これが自転車の始まりのようである。 自転車はとても便利な乗り物で、一般の人達にも大正の中頃には普及したし、子供達の通学用にも使用されていたようである。 戦時中、ゴムが不足になってタイヤやチューブがなくなって、代用品の万年タイヤが使われたが、乗りにくくて駄目だった。 戦前や戦後迄自転車は高価なものであったが、今はとても安くなり、一般用やサイクリング用と種々あって使用目的に合わせて利用されている。 自動車の購入も横山武一氏が下湧別村では最初でベージと呼ぶ中古のトラックで商品の運搬や一般貨物の託送も行っていた。 乗合自動車(バス)は昭和4年に下湧別・上湧別を走ったが、凶作や不況で乗客も少なくて長続きせず、昭和5年に遠軽・上芭露・東芭露・武士を運行する「遠佐線乗合自動車」ができ、上・西・東芭露方面の足として喜ばれたが、昭和9年頃廃止になった。 戦前戦後のバスの経過は「郷土のあゆみ」に詳しく記されているので重複を避けるが、昭和40年代から自家用車が入る迄住民の足として、最も便利でなくてはならない乗物であった。 現在も、小中学校の生徒の通学にスクールバスが運行され、遠軽・上芭露間のバスも1日3往復しているが乗客は少なく町が補助して、公共性のあるバス事業を運行してもらっている現状である。 自転車の次ぎに入ってきたのがオートバイであった。 湧別方面に、昭和3,4年頃、戸田医院が往診用に備えたのが最初と言われており、芭露方面ではこれも年代は不詳だが横山武一氏であったと言われている。 オー路倍は戦後もお医者さんや獣医さん、自転車屋さんとか特別の人の乗物であったが、昭和27,28年頃原動機付き自転車から、50ccのバイクが登場する様になって、どこの家でもバイクのない家はない位普及した。 此の頃から道路は主要な道路は舗装になり、オートバイも大型化し、50ccから120、250の自動二輪と若者の間に乗られる様になった。 馬車や馬橇からはじまった交通手段が戦後昭和30年代頃から始まった自動車に移行したのは貨物を輸送するトラックが多かったが、高度経済成長をひた走る中で、遂にマイカーの時代が訪れた。 それは我が国の国産自動車技術の躍進があり、防疫の拡大によって、ガソリンが安価に入手出来るようになった事、生活水準の向上によって消費者の経済力が向上した事、更に消費流通の広域化やレジャー・観光に利用出来るし、何よりも思った時に直に戸口から目的地に極めて短時間のうちに移動出来る事は、上芭露の様に不便な土地に生活する人々にとってこれ程便利な乗物はないと言える。 百年前開拓の時代にも、戦争の時代にも夢想だに出来なかった事が今現実に我々の回りにあり、家によっては2台、3台と自家用車を持ち免許証の数だけの台数があるのが実態である。 車社会の中で、我々は交通安全にも気をつけなければならないし、経済的にも自らの置かれている立場を考えて生活して行かなければならないのではないか。 |
|
八、ラジオ | ラジオについては「郷土のあゆみ」では触れていないので少し詳しく述べてみよう。 大正の中頃東京放送局が愛宕山に完成、本放送を開始した。 受診出来る範囲は東京の周辺に限られていた。 大阪・名古屋にも放送局が出来たが同様であった。 大正15年から3局が合併して日本放送協会が発足、東京に本部が置かれた。 これがNHKのはじまりであった。 当時のラジオは新聞や雑誌よりもニュースは早く、各種の実況放送や娯楽番組の放送は大きな魅力があった。 昭和3年には札幌放送局が「JOIK」で開局し道民の関心も一気に高まった。 町史によると昭和3年11月3日の御大典記念の当日上芭露の聖明寺に於いて、四号線の遠藤某氏所有のラジオを借用して一般に無料公開しあっとあり、これが上芭露のラジオの聞き始めであろう。 渡辺智秀氏の文化に対する先見性がしのばれる。 其の後日支事変から太平洋戦争と連日の日本軍の勝利を、大本営発表として報道し、大人も子供も此のニュースに耳を傾け、戦意の高揚に新聞以上に其の効果を発揮したものである。 特に昭和20年8月15日の敗戦を告げる天皇の放送は、雑音で聞き取れない地方が多かったが国民の受けた深刻な思い出として今に残っている。 一方、戦前・戦後を通じて朝のラジオ体操は社会にすがすがしい気風を盛り立てた、事はラジオの成果の一つであったろう。 戦後ラジオはかなり普及していたが、昭和24年頃芭露農協ではラジオの共同聴取のため、有線放送施設を完成し農協に本機を置いて時間を決めて農協から組合員に連絡が出来「スピーカー」からニュース等も聞く事が出来重宝に利用されていた。 しかし後年、ラジオ・テレビの普及や地域集団電話が架設されるにおよんで施設の老巧化もあって其の使命を終え廃止の運命を辿った。 |
|
九、電 話 | 電信の取り扱いについては町史によると昭和10年8月地域住民の熱意と協力で電信電話線が延長され上芭露郵便局が電信業務開始されたとあり、一般加入の電話は昭和23年3月に上芭露市街在住者13戸に設置されたのがはじまりであった。 昭和29年に東芭露、33年には西芭露と農村委託公衆電話が延長され、昭和46年には農集電話が103戸の農家に設置されて殆ど全戸の家庭に電話が普及される様になった。 我々が近年文化的な生活が行える様になった一つに電話の普及なしには考えられない。 それ迄は近くは歩くか、自転車で行くか、遠くは手紙か電報によるしか方法がなかった。 電話は即時に近くは勿論どんな遠方でも当方の意志を相手に伝える事が出来、長い間不便な生活に耐えてきた農村にも文明の光が差し込んできたと言えよう。 又近年は携帯電話が発明され、固定された従来の電話とは違い何処からでも例えば電波さえ届く場所であれば畑の中から農作業中でも、山林の仕事中でも、工事現場から会社に電話するなど「ケイタイ」は正に通信手段に革命的な進歩をもたらしている。 |
|
十、テレビ | テレビの出現は、庶民の生活を一変させた。 昭和36年に網走の天都山にNHKの放送局が出来、最初は白黒テレビだったが上芭露で次第にテレビを入れる家庭が多くなって来た。 然し網走からの電波は途中に高い山がある為安定せず、テレビの映像も悪い為、昭和50年王子山林の頂上にUHF芭露中継所が設置されている。 又市街地区は特に映像が悪い為、昭和46年共同受信設備を設置しテレビ組合を結成して受信している。 その後テレビはカラーの時代になり、昭和43年のメキシコオリンピックの頃から地球の裏側の出来事が実況放送をして、各家庭に届くようになって、テレビは正に情報化時代の先端を切って進んでおり、国民は大相撲・NHKのど自慢や紅白歌合戦等を楽しむ事が出来、其のニュースは娯楽番組と合わせて欠く事が出来ないものになっている。 又民間放送も多数あるが、衛星放送を除けば上芭露では電波の関係でSTVとHBCしか映らないのが現状である。 尚市街のテレビ組合は、街灯組合と合併してテレビ街灯組合となった。 |
|
十一、家庭用水 | 飲料水の水を得る為には、開拓当初は川水を利用していた。 幸い芭露の沢は小さな沢があって、家も水の便利な処を選んで建てられた。 支ぁ川西史冬になると大変で、どこの家でも井戸が掘られ、多少の水の質の問題はあっても戦争中迄はツルベ井戸が主流であった。 戦後になって電気がついた事により此の井戸から電気ポンプによって台所や風呂場に給水する様になり、長年ツルベ井戸からバケツで水を台所や風呂場へ運ぶ重労働から主婦は解放される事になった。 市街地区は水が昔から悪く良質の水が出る所はほとんど無かった。 昭和32年に水道組合を結成して寿の家の南西方向約150m位の所から取水し簡易水道として永年運営されてきた。 然し水質は悪くなり、組合員の減少から問題が多発していた。 平成2年にテレビ組合、街灯組合、水道組合が合併して3事業組合として発足する事になった。 |
top | 一、保育所 | 上芭露保育所発足の経過については平成3年発行の「郷土のあゆみ」に詳しく述べられているが、戦時中又は戦後昭和30年当時発足した頃は、託児所としての機能と考え方で運営され、部落独自で施設の準備やら先生の手配をし、多数の子供達を預かってこられた婦人会や多くの御協力をいただいた部落の方々の努力には敬服の他はない。 昭和40年代に入り、漸く町が季節保育所として開設する様になり、運営も自治会にまかされる様になった。 然し施設は廃校の校舎を共同作業で解体建設するなど今にして思えば隔世の感がある。 昭和40年代の半ばになり、幼児教育の必要性が叫ばれる様になり、町に於いても幼保一貫教育を考慮した保育所の運営に取り組む様になった。 だが昭和30年代の後半から始まった離農の傾向は益々はげしくなり、市街地に於いても先々此の土地にいては経営に明るい見通しを持てなくなった商店の人達も部落を離れる様になった。 その頃から自家用車の時代に入り、若者は都会に職を求めて農村に帰ってこなくなり、少子化の影響もあって園児の数は急激に減少の方向をたどる事になった。 平成2年以降園児の推移は次の通りである。
平成3年に小学校が芭露に統合され過明治射場には新しい公民館が建設されたので使用されなくなった「母と子と老人の家」を保育所として使用させてもらう事になり、広々とした所でのびのびと保育が続けられていた。 平成7年に一時10名を越えることがあったが、平成9年には6名になり、平成10年には4名しか残らない見通しになった為、遂に時代の変化には勝てず、40数年にわたって続けられた保育所は閉所する事になり、平成9年12月25日関係者参加の中で閉所式が行われた。 時代の変化に中で致し方ない事とはいえ残念な事であった。 然し常に地域を挙げて協力してきた美風は高く評価されなければならないし、園児数が少なくなった為かえって個別の指導が出来、年に一度のお遊戯会等では、他の保育所で見られない程上手に踊りや歌の発表が出来ていた事を振り返ると、幼保一貫教育は立派に実績を上げていたと思う。 あらためて歴代の保母をはじめ関係者の御協力に深く感謝の言葉を申し上げたい。 歴代保母
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上芭露保育所卒園児名 |
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二、人権擁護委員 | 昭和24年に「人権擁護委員法」が公布され、法務大臣より移植された委員が、基本的人権を擁護し、人権思想の普及、啓蒙に当り、人権相談活動に当たっている。 人権擁護委員は次ぎの通り(平成3年以降 上芭露選出者) 長谷川 隆 昭和39年2月〜平成16年12月 41年間 菊地 得典 平成17年7月1日 現在 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三、保護司 | 昭和25年に「保護司法」が制定され、法務大臣の委嘱を受けた委員が各市町村に配置され、起訴猶予者、仮出所、刑務終了者、保護監察処分を受けた者等の社会復帰、更正指導を任務として活動している。 保護司は次の通り(平成3年以降) 長谷川 隆 昭和58年3月〜平成11年3月 16年間 菊地 得典 平成13年4月1日〜現在 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
四、社会教育委員 | 戦後昭和21年に日本の根幹となる責任ある真の自由人を完成する為には各市町村の組織を確立する事が必要であるとして、社会教育委員設置要綱が示され、昭和24年には学制改革と併行して社会教育の振興を目的とする「社会教育法」が制定されて其の方向が明らかになった。 本町においては昭和26年に「社会教育委員設置条例が施行され15名の委員が委嘱された。 職務は 一、社会教育に関する諸計画を立案すること。 一、会議を開き教育委員会の諮問に応じ、これに意見を述べること。 社会教育委員会発足以来平成3年迄、13名の委員が上芭露では委嘱を受け活動されて来たが、此の部分は省略する。「郷土のあゆみ」参照。 現在社会教育に於いて問題になっている事 @ 年齢的に層の上下に数の上からも差が多いこと。 A 地域的に生活条件に差があること。 B 経済的又職業の上からも参加する環境に差があること。 更に高齢化社会の現出に伴って青年の数は極端に少なく、社会教育の領域は限りなく広く、明るく豊かな町づくりに寄与する有為な人づくりの為の社会教育は大きな壁に直面しているのが現況である。 平成3年以降の社会教育委員 井上 剛 昭和58年〜平成14年 清野 宏 平成12年〜平成14年 菊地 得典 平成14年〜現在 上田 範幸 平成14年〜現在 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
五、民生児童委員 | 戦後昭和23年「民生委員法」が公布され、同年児童福祉法の施行によって民生委員が児童委員も兼ねる事になった。 民生員は厚生大臣が委嘱する非常勤特別国家公務員職となっており社会奉仕の精神を以て保護指導のことに当り社会福祉の増進に努めるものとされている。 平成3年以降 現在の活動内容 一、調 査=民生委員は住民の生活状態を必要に応じ適切に把握しておくこと。 二、自立援助=援助を必要とする者が其の有する能力に応じた日常生活が出来るよう に生活に関する相談に応じ助言援助を行うこと。 三、情報提供=援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するため必要な情報 の提供その他の援助を行うこと。 四、福祉事業との連携=福祉サービスを有効適切に活用する、ホームヘルパー、在宅 サービス福祉施設、児童福祉施設などとの連携を計る。 児童委員は実情把握に畚路から務め、地域の児童や妊産婦あるいは母子家庭等の生活実態を把握し相談、支援、児童虐待の防止に努めている。 常に防犯パトロールを行い、子ども110番運動の一環として通学路周辺や危険箇所の見廻りを行っている。 白色のジャンバーに腕章をつけ車にステッカーをつけ地域住民の協力をいただいて防犯パトロールを行っており、子供の安全と地域の犯罪の防止につながっている。 各学校を訪問し密接な連携を取りながら、朝の挨拶、運動、声かけ運動を行う事によって子供達との信頼関係をつくり非行防止につとめています。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
六、上芭露老人会寿クラブ | 上芭露老人会寿クラブは、平成3年に発行された「郷土のあゆみ」によると昭和42年に26名の会員にて「聖明寺」に於いて発会式が行われたとある。 それから約40年、歴代の会長をはじめ役員、多くの会員の努力によって、社会福祉の向上と相互の親睦を計り生甲斐ある人生を求め明るい家庭生活の営みを心掛けるという目的は十分に達せられている。 ○ 歴代会長
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
七、上芭露子供会 | 発足の由来は同じ地域の子供達が家庭の枠や年齢を超えて連帯し、集団の中で社会性と人格を高めようと発足したのが昭和44年「地域子ども会」地域単位の奉仕活動や体育行事、金倫理委軌道史の体育行事やレクリレーション活動、さらには全町規模の体育行事やリーダー交流も行われている。 尚、上芭露子供会としての所期の活動は当時まだ上芭露小学校があったため小学校のPTAが中心となり活動していたが、昭和55年初代会長を井上剛氏とし子供の数30名程度で「新春カルタ大会」に出場したのをきっかけに活動の輪が広まりつつあった。 以後自治会から援助をうけ地域に根ざした活動を拠点に、空きビン回収や親子海遊びやレクリレーション、老人会との交流を行った。 現在、上芭露子供会の会員数は、小学生6名、中学生6名の計12名で成り立っているが、子供の減少に伴い西・東芭露を含めた3地区合同での活動となっている。 主な活動は、3地区合同の空きビン回収や親子レクリレーションでしたが、平成16年の秋の空きビン回収を最終に「人数の減少と町のリサイクル化」を理由に回収は中止された。 その他として、3地区合同の冬にボーリング大会や旭山動物園へ見学に行ったりして交流を深めている。 ○ 歴代の子供会の代表は次の通りである。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八、衛星と健康管理 | 上芭露に於いて病人が出たらどう対処したか、又健康管理がどの様に行われていたか「郷土のあゆみ」には詳しく記載されている。 開拓当初から病人の発生は当然あったろうし、激しい開墾の労働に、怪我はいつもつきものであったろう。 大正2年に春日医院が上芭露で開業されてから断続的ではあったが、病院は戦後昭和32年に老齢の為大阪に転出される迄、約45年間続いた。 然し、戦前は健康保険の制度を確立されておらず、住民はよほどの病気にならないと病院にかかる事は少なかった。 こんな小さな集落では、医者も生身の身体だし当然生活をするだけの所得がなければ生きて行けない。 稲熊医師が一時「タヌキ」を飼育されていたのも其の辺の事情を物語っている事であろう。 学校には学校医が委嘱されており、子供には1歳と9歳の時に種痘が行われていた。 これは法定伝染病の天然痘を予防するもので昭和49年迄続けられた。 又、結核は不治の病として恐れられていたが戦後昭和26年に「結核予防法」が施行されて、ツベルクリン反応検査、BCG接種等が行われる様になり、国民の栄養状態も良くなり、特効薬等も開発され殆ど発生しなくなった。 戦前、戦後の一時期は衛生に対する知識も関心も低く昭和21年、赤痢の発生があったし、ジフテリア、腸チフス等が発生することもあった。 上芭露にも戦後の赤痢の発生があった為、隔離病舎が病院の横に緊急建設され、伝染病の治療に活用されていた。 小林保健婦 昭和19年に上芭露にも保健婦が配置される様になり、特に小林アイ子保健婦は昭和38年から58年迄20年間此の地域住民の健康と保険、衛生の指導に熱心に活躍され、住民に感謝をされていた。 戦前、船中の農村は衛生に対する知識も低く、貧困の状態は多少の知識があったとしても、富山の薬程度ですませていたと思われる。 戦後の保健婦さんの活躍はこうした農村に明るい光を差し込むものであったろう。 岩代 学先生 上芭露の病院も稲熊先生が去られた後、開業医はいなくなったが芭露診療所の岩代学所長が週3回出張診療をして戴き、平成16年の3月迄、実に約45年の長きに及んで此の地域の医療に尽くされた、其の功績は偉大で先生の人柄は今も多くの人々に偲ばれている。 戦後多くの人達の努力によって衛生環境は大幅に改善され住民の所得向上によって早期に病院にかかる様になった。 更に町では町民の所得の向上と高齢化は多くの成人病を多発する事になって疾病の傾向も大きく様変わりする様になった。 これ等の対策として治療もさる事ながら予防にも重点を置き更に病気の早期発見・早期治療がおこなわれる様になって国民の平均寿命は大幅に伸び今や世界第一の長寿国と言われる様になっている。 上芭露の状況を見ると健康な方が多く90歳近くになっても元気な老後を送っている方々が多い。 反面若い人や子供の数は極端に少なくなり其の将来に不安をかかえているのも現実の姿である。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
九、ボランティア団体 | ◎湧別町赤十字奉仕団あやめ会 あやめ会は昭和55年4月に発足している。 当時の記録によると 会長 深沢 恭子 会員 岩佐 幸江・久保スエ子・黒田厚子 長谷川英子・松田フジ子 の6名で出発し、老人ホームへ「おむつの寄贈」 「湧愛園」 「花の園」 紋別の安養園の慰問や、ボランティア研修会に参加して来た。 会員は次第に増え昭和62年には62名になっていた。 此の年、日赤奉仕団に加入巣湧別にオホーツク園が出来てからは、おむつたたみや花見、車椅子での運動会、盆踊り等、色々な行事に参加している。 平成13年度の資料によると町全体の会員数 57名 ○ 上芭露の会員 中川 礼子・清野 ナツ・長谷川栄子・長谷川英子 黒田みはる・上田シズエ・高島 雪江・上田 正子 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第7章 社会保安 | topへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、上芭露消防団 | 上芭露消防団の発足と沿革については「郷土のあゆみ」に詳しく述べられている。 発足以来地域防災の要として、春秋の防大査察、各戸の煙突、油タンク等の検査、歳末警戒、町内及び広域組合の連合演習等に参加し常に地域住民の生命と財産を衛為、多忙な家業のかたわら献身的に努力されている。 以下、平成3年以降の動きについて記載する。 ○平成3年以降の沿革
○歴代副団長(平成2年以降) 十二代 井上 剛 昭和61〜平成5年 十三代 長屋 正孝 平成5〜平成16年 十四代 長谷川国夫 平成16〜現在 ○歴代分団長(平成2年以降) 十三代 中川 藤男 昭和61〜平成3年 十四代 森田 泰市 平成3〜15年 十五代 上田 一義 平成15〜現在 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二、防犯協会上芭露分会 | ◎ 組 織 防犯協会上芭露分会は、遠軽地区防犯協会・湧別支部の下部団体です。 遠軽地区防犯協会は、遠軽地区7か町村・7支部の連合会であります。 遠軽地区防犯協会長は、遠軽町長が選任され、各町村長がそれぞれの町村の支部長をつとめております。 活動目的を 「本会は、犯罪のない明るい住みよい郷土の建設を理念として、防犯思想の普及徹底、防犯施設等の推進を図るとともに、その活動を通じて遠軽管内治安の確保に協力することを目的とする。」 と定めており、事務局を遠軽警察署内においております。 役員構成は、会長一名、副会長三名、監事二名と各町村より選出の理事、代議員となっており、湧別町から理事五名、代議員八名が選出され、管内合計、理事34名、代議員53名が、遠軽警察署と密接な連携のもと防犯活動を実施しております。 委譲は平成17年4月1日現在です。 湧別町支部の組織は、湧別分会、芭露分会、上芭露分会の3分会で構成されております。 町長が支部長をつとめ、副支部長4名、監事2名、理事は湧別分会17名、芭露分会6名、上芭露分会7名、委譲理事30名での役員構成となっております。 活動目的を 「本支部は、治安維持を責務とする警察機関に協力し一丸となって郷土の安定と福祉の増進を図り、犯罪のない明るい、住みよい、郷土建設を理想として、防犯思想の普及、防犯対策施設、犯罪検挙協力の高揚を期し、もって郷土の防犯自衛体制を確立すると共に町内各分会の円滑な発展を促進するを目的とする。」 と定めて、目的を達成するため、次の事業計画をもっている。 一、被害及び犯罪の防止 二、防犯思想の普及・高揚及びに宣伝 三、防犯施設及び器具の普及 四、青少年不良化防止対策 五、前科を有する者の保護指導 六、敬作機関への積極的協力 七、犯罪の予防検挙に協力する表彰 八、その他必要と認める事項 以上項目の事業計画のもと犯罪のない、安全と安心で・明るい町づくりをめざして活動中です。 ◎上芭露分会の活動状況 防犯協会上芭露分会は、湧別町支部の活動目的と8項目の事業計画を尊重し、毎年の重点運動要領に従うと同時に地域に合致した運動を心がけて活動しております。 平成17年の活動内容は次の通り
◎防犯協会上芭露分会歴代分会長
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三、交通安全協会 | 昭和38年2月湧別町交通安全推進委員会の発足と同時に遠軽地区交通安全協会、湧別、芭露、上芭露支部と、協会の下部組織として上芭露に支部が設けられ会員たる自動車運転免許証所持者の運転技術向上、交通法規の遵守、事故防止等、町推進委員会を通じ、警察、関係機関と連携をとり各種行事を開催し組織活動を行っている。 また、昭和44年7月湧別町交通安全指導員設置条例を制定し交通安全指導員25名の任命のうち3名が上芭露支部に配置され、安全運動期間、自治会行事等に街頭に立って交通指導、歩行者の安全確保につとめている。 尚近年において死亡事故、人身事故の多発により、上・西・東芭露の3地域の自治会長を先頭に自治会あげての交通事故防止運動を展開し、女性ドライバークラブの結成、老人クラブの交通教室等を行い安全運動に努力している。 平成12年5月に町内3支部を合併、新たに遠軽地区交通安全協会湧別支部となり、北海道交通事故死ワースト1返上をスローガンに春・夏・秋・冬の期別運動、全道統一行動日として年3回実施のセーフティコール、パトライト作戦、高齢者指導の日等の活動に取り組んでいる。 ○上芭露支部歴代支部長 長沢 改一 高橋 正三 黒田 実 井上 剛 ○遠軽地区交通安全協会湧別支部歴代副支部長 井上 剛 森田 泰市 ○歴代交通指導員 小林 秋夫 菅野 忍三 小坂 満 青木 清澄 小林 勝義 森田 泰市 三浦 孝司 井上 豊 |