上芭露郷土史 | 郷土のあゆみ | 第8章 サークル活動 |
第9章 宗 教 | ||
第10章 郵 便 局 |
第8章 サークル活動 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
topへ | 一、公民館活動委員会 | 上芭露が他の自治会には見られない特色ある社会活動は公民館活動委員会の設立と共にその後の委員会の働きに依るところが多い。 公民館活動委員会は平成4年の1月24日準備委員会を開き、今後の公民館を如何に利用して行くか、又小学校がなくなっても地域のサークル活動等をどの様にして発展させて行く事が出来るかを真剣に討議し、2月2日には公民館活動委員会(仮称)を造りその会の規約、運営方法の原案が協議された。 平成4年4月5日、自治会の総会に於いて委員会設立の原案が提案され、総会の決定によって上芭露公民館活動委員会は正式に発会する事になった。 この委員会活動の基本になる資金は、町の社会活動モデル地域の20万円と郵便局の簡易保険の掛け金を共同納入する事によって得られるお金(割引額と言っている)から成り立っており、此の方法は平成3年の9月からすでに一部行われていた事を付記しておく。 尚此の簡易保険の掛け金を団体で納入する方法は平成3年当時の郵便局長として上芭露に勤務されていた湯浅健治氏によって進められたものである。 湯浅局長は小学校閉校式の一大事業の事務局長として極めて困難な事務処理を適切に処理され差し障りなく閉校式を終える事ができた。 保険の事とあわせて今でも自治会員の感謝の思い出として残っている。 ○歴代会長 福原 保 平成4〜8年 中西喜久雄 平成8年〜14年 中川 藤男 平成14〜15年 安彦 英則 平成15〜16年 井上 剛 平成16〜現在 |
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二、上芭露歌謡同好会 | 上芭露歌謡同好会は、昭和56年4月に発足を見たと言われている。 当時カラオケブームもあってこうした同好会が各地に出来ていた。 こうした時代の背景もあって歌の好きな人達が寄り集まって歌の練習が行われている。 ・現在も毎月第1・第3土曜日例会の実施 ・自治会のお盆行事・祭典の演芸会への参加協力 ・年1回7月にチャリティビアパーティーの開催 ・町の文化祭に於ける芸能発表会・演芸の夕べ ・町内7団体のカラオケ発表会 ・他町村カラオケサークルとの交流 以下に掲げる活動を幅広く活動しており其の実績が認められ平成17年11月18日湧別町文化協会より功労賞の表彰を受けた。 |
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三、湧翔ダンスサークル | 上芭露にも依然営林署に勤めている方達が中心になり、ダンスの集いがありましたが、所員の転勤により衰退し、上芭露歌謡同好会と昭和58年に合併する。 平成3年地域文化の中心をなしていた。 小学校が閉校になり、平成4年上芭露3地区公民館が新築、公民館活動委員会が設立され、それぞれの愛好者により、いくつかのサークルが出来る中、社交ダンスも平成4年4月黒田実氏、長谷川英子さんが中心となり、18名の愛好者を以て湧翔ダンスサークルを結成。 毎月第2・第4土曜日を練習日とし、研鑽と親睦を深めている。 自治会行事に中心的存在で参加協力して行事を盛り上げ、他の地域との交流、ダンスパーティーの開催、町の文化祭にも参加、幅広くかつ地道に活動を続け現在に至っている。 |
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四、ダンス研究会 | 上芭露に平成4年に設立した。 ダンス研究会があるが長谷川英子さんが中心となり、技術の向上を目指す方々に地域を越えて博く呼びかけ、平成6年4月、15名の愛好者を以て結成。 毎月水曜日上芭露地区公民館で講師を招いて練習に励んでいる。 |
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五、上芭露家園同好会 | ◎ 組 織 上芭露家園同好会は、昭和50年湧別町家園同好会の発足と同時に湧別町家園同好会の支部団体として結成され、現在は湧別町家園同好会支部と上芭露家園同好会としての併行した活動を行っております。 湧別町家園同好会は、湧別町文化協会に加盟していて、文化活動に雑だ稲活躍と貢献をしてまいりました。 平成5〜6年には会員80名の大世帯となり、湧別町文化協会では一番会員の多い団体となりました。 活動目的は 「本会は造園・盆栽並びに環境づくりの研究と会員の親睦を図ることを目的とする」 と、目標を定めて研鑽してまいりました。 その後、会員の高齢化と転出者も増加したため現在は芭露地区が3支部で25名、計呂地地区が2支部で9名、東地区が1支部で4名、上芭露地区は7名で、湧別町家園同好会は平成16年12月21日現在、7支部46名の会員数であります。 役員構成は、会長1名、副会長3名(芭露・計呂地・上芭露各1名)支部長7名と事務局長1名であります。 現在の会長は、上芭露支部の上田定幸氏が平成9年より選出されて活躍されております。 ◎活動状況 上芭露地区公民館は平成11年11月に完成いたしました。 公民館建設要望の際に、羽田町長との約束があり、公民館完成後は自治会で有効に活用して、公民館の存在価値を存分に高めること、これを実現するため、自治会で博く慎重に協議の結果、平成4年より公民館活動委員会の発足となり、活動委員会の組織内に7サークルを母体に活発に活動展開することになりました。 上芭露家園同好会も1サークルとして認定いただき、年間3万円の活動助成金を交付されました。 平成4年4月より、湧別町家園同好会支部と上芭露家園同好会としての活動とを、並行して活発に実施することになりました。 湧別町家園同好会は平成6年まで、◎バスによる研修視察、◎湧別町総合文化祭での盆栽展示、◎芭露祭典時の盆栽展示、◎会員へのカレンダーの配布、が主な活動で支部においても積極的に参加してきました。 平成7年早春、湖陵中学校より強い要請があり学校前庭の庭木を何年も手入れ出来なく、PTAでも対応不可能なので是非剪定してほしいと依頼があり、役員会で慎重に協議の結果できる範囲で協力しようとの決定で、4月に18名の参加出役で剪定を実施いたしました。 その直後芭露小学校からも是非剪定をお願いしたいと、強い要請があり臨時役員会の結果実施しようとの決定で、10月に11名の参加で実施いたしました。 双方とも上芭露支部の参加者は8名で文字通り主力として活躍しました。 終了後、湖中、芭小、両校長先生と湧別町教育委員会教育長より心あたたまる、感謝の礼状が会員一人ひとりに送付されました。 翌平成8年には、教育委員会より湧別小学校の庭も是非お願いしたいと要請され6月に10名の参加で実施致しました。 湧別小学校については、10数年手入れされてなく、庭が森になっていました。 教育委員会で業者に見積もりを取り予算要求したのですが、2年間予算づけされませんでした。 業者の見積もりは96万円でしたが、予算確保も見込み無く業者に依頼も出来ず、家園同好会に頼むことになりました。 湧小の作業は、10名の参加者のうちチェンソー4台、トラック2台を使い薪に4トンダンプ3台、小枝が4トントラック5台の後片付けまで完了致しました。 作業は実に苦労しましたが、庭は見事に再生致しました。 その後家園同好会の総会で協議の結果、湧別中学校平成12年より、特老オホーツク園は平成13年から選定作業を実施することになりました。 会員の高齢化と現象で現在では多少重荷となってきたようです。 上芭露家園同好会は、生活に密着した活動の重視で、目的を 「この会は、庭木及び草花を愛し、いつくしむ心を育て、成育、剪定の技術を研鑽し、会員の友好、親睦をはかり地域への貢献と生涯学習活動に寄与することを目的とする」 と目標を定めて活動中であります。 平成17年度の活動は、新会員の入会もあり12名の会員となりました。 活動内容は、◎ガーデニング講習会、◎湧別町家園同好会研修視察参加、◎上芭露講演庭木剪定(神社庭木剪定と交互に実施)、◎同好会資金換ぱ(就労センターより選定作業依頼)、◎上芭露神社祭典の時、鉢花展示会、◎上芭露家園同好会研修会(17年は塩別温泉で実施)、以上が主な活動であります。 新規活動として湧別町で推進している 「花いっぱい運動」 に協賛すべく草花に注目しようと競技がまとまり、草花についての知識をより多く研修して、美しい花を咲かせて、内容の濃い展示会にむすびつけたいと考えております。 同好会の活動を、◎庭木の手入れと、◎草花の栽培、の2本の柱と致し、庭木・草花のどちらでも一つを好み趣味として楽しまれる方々を会員として、大歓迎してお迎え致しました。 どうか気軽に入会されて、一緒に研鑽して参りたいと考えております。 人間は緑の草木や草花に接すると心がなごみ気持ちがやすらぎます。 なぜでしょうか? 人間が人間となる数十万年前、まだ原人といわれた時代に、原人はほかの動物を攻撃することなく、ひたすら他の動物の迫害から逃れるため、あるときは木のうえで緑葉の中に身を潜め、またあるときは緑の茂みに体をかくして身の安全をはかって生き延びたといわれております。 そのため緑に接していると心がなごみ、安心感の気持ちが現在でも私達人間の脳の中に残っているためと言われている由縁でもあります。 今後ますます自然環境破壊がすすむと考えられる中、せめて私達の地域だけでも、私達の小さな力を結集して緑の草木や草花を植栽しながら、より豊かさと安心の実感できる環境づくりを模索してまいりたいと考えております。 平成17年度役員・会員及び有資格者
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六、上芭露ゲートボール同好会 | ゲートボールが上芭露でも老人会活動の一部として取り入れられたのは正確な記録はないが、昭和57,8年頃と思われる。 町内各地に同好会が発足したのに続いて上芭露でも教育委員会の佐藤武見氏の指導をうけて老人会の中にこの競技をやろうとする人達によって部会が結成され、初代の会長に「沢辺市太郎」氏が選任された。 昭和62年に現在のゲートボール場が町の援助によって造成され夏の間は週2回の練習や競技会が行われている。 冬は公民館の中で毛ボールを用いて毎週月・木曜日が練習日になっている。 ○現在のゲートボール同好会の状況 週2回月曜日・木曜日が練習日になっており、湧別の協会では月2回の会長杯大会があり年間を通算しての成績によって「チーム」の成績がきまるようになっている。 上芭露からは2チームが出ている。 又テイネ以東大会、農協の年金友の会、遠軽地区ゲートボール協会の大会、網走管内の大会等があり審判員の資格所持者には月1回研修会が湧別のスパークで行われている。 此の競技は5名1チームの団体競技で厳しいルールのもとに勝敗が争われるが、高齢者にも出来健康を維持する上からも大変に良い事から、町内でも多数の愛好者がいて各種の競技会が行われている。 又湧別の協会では冬期間初心者に対してルールと技術を数える為、冬期間毎週土曜日に 「初心者教室」 を行ってゲートボールの普及に努めており、はじめてゲートボールを習う人達に喜ばれている。 |
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七、猟友会上芭露部会 | ◎組 織 猟友会上芭露部会は、日本猟友会、北海道猟友会遠軽支部の下部組織であります。 遠軽支部には、現在遠軽管内7ヶ町村10部会が所属しております。 湧別町は湧別部会・芭露部会・上芭露部会の3部会として加入しております。 平成17年4月1日現在、狩猟登録者数(銃所持者) 湧別部会19名、芭露部会5名、上芭露部会7名で遠軽支部全体で124名となっております。 ◎狩猟の意義 狩猟は基本的には鳥獣を捕獲する行為である。 しかし、その目的はさまざまである。 一例としては、ジビエ(野生鳥獣の肉)を楽しむこと、田畑を荒らす鳥獣を捕獲(有害駆除)すること、増え過ぎた鳥獣の数を間引くこと伝統的な捕獲技術や文化を継承すること、などが挙げられる。 これからの狩猟は、あらゆる種類の鳥獣が、豊かな自然環境の中で、適正な数を保って生息できるよう、適切な個体数を維持することに十分留意して行うことが求められている。 また、鳥獣を捕獲するばかりでなく、進んでその生息環境の保全や保護増殖を図ることも求められている。 ◎農・林業の被害 鳥獣による農林業への被害は、農林業関係者にとって大きな問題となっている。 鳥獣法の目的の一つには、有害鳥獣の捕獲を通して農林業の振興を図ることが明記されている。 近年は、ニホンジカ等の生息数の急増に伴い、狩猟によるその捕獲数も増加傾向にある。 しかし、それでも被害が増加している。 被害の激しい地域では、狩猟期間外に行われる有害鳥獣の捕獲や被害防止施設の整備などに多額の経費が必要となっているところも多く、農山村にとって深刻な問題となっている。 このようなことから、ニホンジカなど地域的に著しく増加し、農作物などに著しい被害を及ぼす特定の鳥獣に関して、都道府県が独自に 「特定鳥獣保護管理計画」 を定め、これに基づいて狩猟等により個体数を調整する方策がとれるようになっている。 狩猟は農林業被害の防止だけでなく、科学的、計画的な鳥獣保護管理にも大きく貢献するものであると考えられている。 ◎狩猟者の社会的責務 一、自然環境の保全に協力すること、特に地域の自然環境に精通し、環境のモニターとして地域社会に貢献すること。 二、常に狩猟に関する知識や技術の向上を図ること。 三、関係法令の規定に従い、狩猟に関するマナーを遵守すること。 四、捕獲した鳥獣の有効利用に努めること。 五、慈善環境の保全に関する各種調査に協力し、必要な情報や資料を提供すること。 六、鳥獣による各種被害の防止対策に対して、誠意をもって積極的に協力すること。 ◎上芭露部会の推移 上芭露部会は、上・西・東芭露が1部会となっています。 当初は5,6人の少人数でしたが、広大な自然林に恵まれていたため、鳥類・獣類ともに種類も多く、数も非常に多く恵まれていました。 ハンターも急に増加致し、昭和44年に最も多くなり、26名をかぞえる程になりました。 その後15年間は20名前後で推移して来ましたが、昭和60年より急に激減致しました。 大きな要因は、国有林・民有林共に昭和30年代から、広葉林を伐採してカラマツ・トドマツの植林を国のてあつい補助制度をうけて急加速したためです。 昭和50年代半ばには地域一帯から広葉樹林が消え去ってしまいました。 見渡す限り国有林・民有林とも針葉樹林が大半となってしまったため、野鳥・獣類の餌になるものがすっかり不足してしまったために、野鳥・獣類とも激減してしまいました。 そのため平成元年にはハンター11人に減少致しました。 また平成になって春熊も捕獲禁止となり、ほとんど捕獲できなくなりました。 6月になってから有害駆除で60日くらい許可がでても熊の捕獲は青葉が茂ってからでは、なかなか捕獲は不可能です。 平成5年頃よりニホンジカが、わずかずつ増加するようになり平成10年になると、急増してまいりました。 それども13年迄はニホンジカの捕獲は規制が厳しく増加が続きました。 平成14年には道内主要町村でライトセンサス(夜間に時間をきめて道内一斉に強力なライトを使って頭数をかぞえる)の結果、道内のニホンジカの生息数、推定15〜6万頭との結果がでました。 それで平成15年より3年間、1年に6万頭捕獲目標となり3年間で、ニホンジカの生息数、推定6〜7万頭にするとの計画でしたが、捕獲は目標達成したのですが、生息数は減少していません。 当部会でも有害駆除、狩猟あわせて年間30〜35頭捕獲しましたが地区内の数が減少したとは思われません。 また、熊についても少しずつですが、、増加の傾向と思われます。 平成17年春に東芭露で親子ずれ3頭を捕獲しました。 現在、当地域に生息する熊の足跡などから判断して、7頭〜10頭位生息していると予想されております。 年毎にハンターも高齢化してまいり、人数も減少して有害駆除もままならないのが現状であります。 若いハンターの誕生を心より期待する次第であります。 現在渡したち狩猟会、会員がもっている所領の知識や技術をなんとか伝えて行きたいと願う次第であります。 |
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八、上芭露パークゴルフサークル | 上芭露パークゴルフサークルは平成5年4月18日に結成総会を開いて初代の会長に長谷川隆氏を選出し会が発足した。 パークゴルフは個人プレーで、何時でも気軽に楽しめる事から一つのブームになっていて高齢者で明治運動不足の解消と健康維持の為にもなり、沢山の参加者が出来、プレーを行う様になった。 ○発足時の役員 会 長 長谷川 隆 副会長 長岡 義見 事務局 安彦 英則 会 計 渡辺智逗子 理 事 今尾 栄 安彦小三郎 中川 藤男 長谷川国夫 井上 剛 監 事 藤根 湧治 真鍋 武人 ○平成5年度の主な活動 5月25日 町主催パークゴルフ指導者講習会 14名参加 7月15日 パークゴルフ場使用開始 8月 5日 自治会内講習会 安彦・長岡指導9名参加 8月25日 オープン記念大会 羽田町長出席 8月以降 毎月15日 月例会の実施 11月14日 月例会 打上げ懇親会の実施 ○各年度を通じての活動内容 一、月例会は年度当初に月1回 二、個人賞男女別7回出場者を以て年間賞として順位を決定する 比率賞、年7回出場出来ない人を対象に成績の良い4回を合計し男女共通で決定 三、ハンディ毎回1位3点、2位2点、3位1点のハンディ加算する 四、町長杯、議長杯、自民党杯、福祉大会等各種の大会への参加 五、年金友の会、丁寧以東大会持ち回りで開催、会員の参加 ○パークゴルフ場の管理 パークゴルフ場の草刈りは3名1組の当番を設けて行っている。 平成16年以降は町の請負業者によって行われている。 平成15年小学校のグランドも町から芝の種子の供給を受け共同作業でゴルフ場を造成2コース、18ホールの立派なパークゴルフ場となった。 (尚、草刈り・肥料散布・干魃時の散水等事務局長の安彦氏の努力に依るところが多い。) |
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九、手芸サークル | ○発足のいきさつ かって、上芭露婦人会が主体となり、町の社会教育が主催する婦人学級が開かれていました。 その中で、手芸講座も時折り持たれていましたが、継続した学習がしたいと言う希望があり、サークルを作ることになりました。 広く地域の皆さんに呼びかけ同好の志が集まり、平成5年3月 「上芭露手芸サークル」 として正式に発足しました。 その後、上芭露地区公民館活動の部会に仲間入り、今日に至っております。 ○活動のすがた 農家の主婦が主体なので、冬期間を重点的に又、必要に応じ臨機応変に集まりを持ち、趣味をいかし身の廻りに眠っている品物を活かし、色々な作品づくりに精進しています。 「みんなが先生、みんなが生徒」 という感じて横並びの人の和を大切にしながら、研修の場と楽しい時間が持てる事に感謝しつつ、大きな喜びを味わっています。 ○現在までのあしあと @ 平成6年より、毎年秋祭りの祭典行事に参加して作品展を開催しています。 A 平成6年、芭露農協婦人部より依頼されて、作品展に協力出品しました。 B 平成9年、湧別町文化センターのギャラリーで初めてのパッチワーク展を行いました。 北海道新聞の記事にも掲載され、300名近い見学来場者がありました。 それ以来、2年に1度の割合で文化センターで作品展をしてきました。 平成17年で5回目を数えます。 C 平成10年、サークル発足5周年を記念して、フレンドシップキルトを作成、上芭露地区公民館に寄付しました。 (制作者16名) D 平成12年、上芭露郵便局で当時の局長平野勇氏の計らいで、お客様ルームにて作品展、3回に分けて飾っていただきました。 E 平成15年、東京のパッチワーク通信社が発行する「パッチワーク倶楽部」という手芸専門誌の取材を受け、全国に紹介された事は、何にも増して大きな喜びであり会員一同感激の極みでありました。 これを機に、日本キルターズ協会より亀田様(横浜)の訪問を受けたり、誌上で紹介された作品の作り方の問い合わせがあったりとパッチワークを通じた交流の輪がひらがりました。 F 平成15年、サークル10周年を記念して、足かけ3年前から計画、図案構成、配色、布あつめ、型とり、アップリケ、キルティングと記念作品の製作に集中しました。 鏡台かけ(舞妓さん)タペストリー(おばあちゃんの花畑)を完成させ公民館に寄付(制作者10名) このように会の足跡として残るものがあることは、大変嬉しいことで今後の活動の励みにもなり頑張りの源にもなっております。 |
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十、櫻の会 | ○婦人組織の経過 上芭露に於ける婦人組織の成立と経過については 「郷土のあゆみ」 の中で詳しく述べられている。 地域婦人会は日本が戦時体制に入る為に愛国婦人会、国防婦人会等が軍部、若しくは当時の行政指導の中で設立されたのが始まりであると思われる。 戦後その活動は敗戦の混乱によって休止状態になっていたが昭和27年に再び活動がはじまっている。 一方、農協婦人部は昭和30年に芭露農協管下でその組織が設立され上芭露は芭露農協婦人部上芭露支部として活動をしてきた。 こうした事は農家の婦人が二重加入のかたちを取る事になり、多数の人々がいた当初は良かったが離農や部落を去る人が多くなって昭和44年に農協婦人部に一本化され、上芭露支部は地域婦人会の仕事もあわせて行っていた。 一方過疎化の影響から農家戸数は減少の一途をたどり若い人達は多くの問題をかかえていた。 この為昭和40年に上芭露では 「若妻会」 が結成され独自の研修、親睦交流活動が行われる様になった。 平成3年以降小学校が芭露に統合し、農協婦人部の会員も次第に高齢化し現役を退く者が続出する様になって主体は若妻会の方に移行していった。 平成14年に湧別農協と芭露農協が合併し、現在は会名も農協婦人部から湧別農協女性部と改称して、活動もフレンズサークル(若妻)、生活部、技術経済部の3部制によって活発に活動が行われている。 上芭露は離農による農地の拡大で婦人の農作業は大幅に増え、会員の減少もあって平成11年4月に婦人部を脱退し、若妻会も平成14年には町全体の組織から脱退して、親婦人部を一本化して名称を「さくらの会」として独自の道を歩むようになった。 自治会の総ての活動や公民館活動に積極的に協力している。 現在の会員は13名で農業に従事している者は7名で構成され、集まりを持つ事で親睦を深め楽しみの一つとしているようである。 思えば昭和15年頃から現在迄約65年間、婦人組織の果たした功績は計り知れないものがあった。 戦時中はいわゆる男性に変わってしっかりとこの地域を守り戦後の混乱も夫と力を合わせて乗り越え、増加して行く離農者、部落を去って行く市街の人達を横目で見ながら動じる事なく立派に子供を教育し、協同の旗印のもとにその力を結集して活動して来た実績は高く評価されなければならない。 今、過疎化と高齢化社会の真っ只中に上芭露はいる 「さくらの会」の活動が大きく期待されているところである。 ○農協婦人部歴代支部長 平成 3年 井上 靖子 平成 4年 吉田 夏代 平成 5年 福原ひろ子 平成 6年 越智 光子 平成 7年 上田 正子 平成 8年 上田 正子 平成 9年 青山 淳子 平成10年 上田 正子 ○櫻の会歴代会長 平成11年 三浦 幸恵 平成12年 青山 淳子 平成13年 吉田 夏代 平成14年 福原 公子 平成15年 上田 美代 平成16年 三浦 幸恵 平成17年 井上 英子 ○若妻会支部長 平成 3年 上田 美代 平成 4年 三浦 幸恵 平成 5年 上田 美代 平成 6年 井上 英子 平成 7年 安彦 好子 平成 8年 安彦 好子 平成 9年 遠藤 栄子 平成10年 井上 英子 平成11年 安彦 好子 平成12年 遠藤 栄子 平成13年 井上 英子 平成14年 本部脱退 |
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十一、青年・婦人団体活動の盛衰 | 何時の時代でも青年の思想、活動がその時代を左右すると言われている。 上芭露が百年を迎えるに当たって此の変転極まりない時の動きに青年達はどう対応して来たのか振り返ってみよう。
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敗戦後の青年団 | 戦後上芭露の青年団は早くも昭和21年には新しく結成された。 軍隊から帰還した人達又、都会から帰って来た人と色々ではあったが、敗戦によって与えられた自由は青年達の心に一種の解放感を与えたのも事実であった。 もともと日本は大正デモクラシーと言われる位、大正年間の中頃は民主主義の芽生えはあったはずであるし、敗戦によってのみ自由と民主主義が与えられたと思うのは、歴史の実態を知らない者の考え方であろう。 ともかくいち早く男女合同の青年団活動は復活し、自由と平和思想の勉学部落の総ての部門に対してあらゆる協力がなされる様になっていた。 特に町に於いても、社会教育の重要性を認識し、昭和21年に早くも社会教育委員制度を制定し、公民館設置とその運営について呼びかけているのはアメリカの占領政策にも原因はあったのであろうが、民主主義の方向を目ざして、あらゆる努力が払われたのも事実であったと思われる。 本町に於いても昭和27年、下湧別村公民館(現在児童館)が建設され、選任の公民館長が赴任され、他の町村に先駆けて充実した社会教育活動が展開される様になっていた。 湧別町青年団体協議会、通称「湧青協」の活動は一つ一つ紹介はしないが戦後の社会教育の母体となっており、本町文化の進展の上からも大きな活力となって来ていた。 昭和50年代以降過疎化の傾向によって青年の数は減少の一途をたどり、従って現在は其の組織としての姿を止めていないのは残念の極みである。 ◎農協青年部の創設 農協青年部が誕生したのは昭和26年であった。 戦後農家は戦時中の統制経済から解放されたが、自由経済のもとに於ける、弱小な資本の農家が生きて行く為には大きな不安があった。 戦前薄荷の取引が商業資本によって自由にあやつられた事は記憶に新しかった。 青年達は農協に力を結集する事を考え其の動きは全国的な活動となり協同組合主義を標榜する青年団体が誕生したのは当然の成行きであったろう。 ○農協青年部綱領 一、われ等は、農業協同組合の本心と実際を究明し農協運動の先駆者となる 一、われらは政治的自覚をたかめ、農民生活の安定を目指す、民主的農業政策の確立につとめる 一、われ等は、青年の情熱と協同の力をもって、農業の近代化を促進し、理想農村を建設する ○農協青年部5原則 一、農協運動を推進する組織である 二、農村青年の組織である 三、自主的な組織である 四、同志的組織である 五、政治的に中立の組織である 戦後思想の上からも大混乱の時代にあっても農村青年は一途に理想郷の姿を求め、力を結集して多くの活動に携わって来た。 初代部長、長谷川隆氏より数えて約50年間も其の歩みは続き歴代の部長は20数名を数える事が出来る。 ともかく各世代を通じて農村に多くの足跡を残し、農業の近代化と協同化に大きな力となった事は事実であろう。 近年農業につく青年の数は極端に減少し、地域青年団も農協青年部も其の活動の場を持てなくなっている。 誠に残念な事である。 |
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戦後の婦人団体 | 戦争に敗れて、夫や息子を遠い外地から迎えることの出来た農村婦人には、小作農から夢にまで見た自作農という大きなプレゼントが与えられ、新憲法のもとに、男女同権、さらに婦人参政権が初めて与えられてとまどうばかりであった。 地域婦人会は戦時の名残としてあったがその活動は低調であった。 ◎農協婦人部の誕生 昭和27,8年頃から農協婦人部設立の気運が盛り上がり、昭和30年芭露農協婦人部が結成され、所fだいぶちょうに中沢初子氏、上芭露支部長には長谷川まつえ氏が選任され、発足当初から250名の部員であった。 ○活動内容 一、零細貯金の協力 一、農村託児所の開設 一、婚礼衣装の備え付けと貸付 一、羊毛の集荷協力 一、美容室の開設経営 一、新生活運動の実施 一、家計簿の完全記帳 一、貯蓄共励会 一、Aコープ購入運動 一、研修視察 以上のように生活全般にわたって活動がなされ、上芭露からは長谷川英子氏、伊藤信子氏が部長になっており、長谷川英子氏は網走管内の農協婦人協議会の会長を努めている。 昭和56年に若妻会が婦人部の中に結成され、地域に於ける農協婦人部も部落婦人会と一体となって事業が行われる様になった。 時代のテンポは目まぐるしく変わり、農村婦人といえども社会の各分野に於いて活動し、生活文化の向上、子供達の教育、地域行事への参加又近年はボランティア活動等と此の百年の間に世の中は大きく変わってきた。 そして現在の婦人活動は上芭露では 「櫻の会」との名称によって残るのみとなっている。 百年の間に、かって想像すら出来ない程に変わった現在の姿、それは現代農村がかかえる最大の悩みであり、青年団体、婦人団体の盛衰はそのまま我が上芭露の歴史そのものであろう。 |
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十二、上芭露男性料理研究会 | ◎発足の経緯と目的 男性の料理教室については、平成15年、町の自治会長会議が開催された時に、東芭露自治会長の長尾正孝氏と私(安彦)が同席した際に、男性対象にした料理教室を実習したいですね、と話し合った事が実施への第一歩でありました。 当時、保健福祉課長の刈田智之氏、栄養士の鳴澤美千代氏、上芭露地区担当の保健師大西美樹氏の3氏にご相談、お願いの結果直ちによろしいですと快諾をいただきました。 上・西・東芭露の3特対象にして下さいとの事でしたので、早速西芭露の自治会長にお願いして呼びかけたのですが、参加はしていただけませんでした。 長屋正孝氏といろいろ相談の結果、サークル等の組織は結成しないで、2人が世話役となり、その都度呼びかけをして、料理教室を実施することと致しました。 料理教室実施にあたり上芭露地区は、回覧によって対象者への周知と参加の呼びかけを致しました。 第1回料理教室実施のときに参加者全員で相談の結果次のように決めていただきました。 料理教室の実施期間は、毎年11月〜3月までの冬期間として、4回〜5回をめどにして実施する。 その他協議事項のできた時は、料理教室実施のとき参加者全員で相談して決める。 となりました。 料理教室開催による目的は次の通りと致しました。 ☆なにげなく毎日食している食事を、実際に男性が作ることを体験して 毎日の料理作りの大変さを知り、女性に対し感謝の気持ちを養う。 ☆男性が料理講習を体験することにより、女性が家を留守にするとき、 安心感をもって外出することができる。 ☆料理研修をつうじて、食生活のバランスの大切さを知り、病気の予 防や静養に役立てる事を習得する。 ☆成人病についてひろく学び、病気の特性をよく理解し、健康で明るく 幸せな日常を目標に研鑽する。 ☆経費については、栄養士とその都度打合せをして、材料費そのた経 費は参加者の均等負担とする。 以上5項目を決定して、今後楽しい料理教室開催実現に努力する。 ◎活動内容と活動状況 保健師により、参加者全員の血圧測定を行います。 われわれ高齢者にとって健康管理が必要だと実感しました。 栄養士より料理の基本について講義をうけました。 ○料理をする事の楽しさ ○食生活の大切さを実感することを目標にする ○料理するとき用意するもの ○材料や調味料を正確に計算する 基本的な事を商才に説明を受けて始めます。 実習は出席者が2・3組にわかれて、それおzれ細かい説明を受けながら実施致します。 当初は要領も悪く随分時間もかかりましたが、会を重ねるうちに、上手に出来るようになり、試食会に舌打ちして楽しみます。 食後は保健師により、糖尿病はなぜ恐いのか指導を受ける。 又遠藤彩保健師により「ガンを予防する生活習慣、自分に合ったガン予防法」と言う、いろいろな御指導を受けております。 |
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第9章 宗 教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、上芭露神社 | 上芭露神社沿革大要
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二、真宗大谷派 聖明寺 | 一、住 職 聖明寺の沿革を辿れば、大正5年、現在地に開設された芭露説教所がその始まりである。 開教者は、新潟県常教寺昭和十進の渡辺智現である。 智現は、当時既に75歳の高齢であり、同年11月、孫の渡辺智秀が常教寺より志を立て上芭露に入地し後継在勤した。 その後、昭和21年3月、宗教法人法により寺号公称がなされ、聖明寺と号し、同年4月5日、開基住職に渡辺精護が就任した。 精護は智秀の長男であり、就任以来52年余に亘り聖明寺の維持と門徒教化に専心してきた。 高棟造りブロック構造本堂建立、納骨堂落成、御宮殿並内陣荘厳の完備など、現在の聖明寺の礎は開基住職によって築かれたものである。 昭和60年9月、開教70周年記念法要厳修。 平成7年4月、真宗本廟にて住職在任50周年記念表彰。 本山経常費50年連続完納(表彰は平成12年)。 開基住職渡辺精護は平成9年3月14日行年77歳にて念仏者の一道を歩み続けた生涯を終えた。 平成11年3月、継承者として幌加内町政和教会出身の菊地得典入寺、二世住職拝命、現在に至っている。 二、寺院施設 聖明寺は門信徒の努力により寺院施設の整備、充実を進めてきた。 平成15年3月、開基住職7回忌法要に当り、開基防守渡辺智逗子の寄進により、本堂内陣上壇柩漆塗り、金具取付、内陣壁紙金箔クロス張、襖紙張替工事施工、本堂屋根定紋(平成17年5月)、寺号額(平成18年5月)、と内陣荘厳並びに本堂景観の一層の充実を見た。 平成17年、小野 巌を委員長として、本堂、門徒会館、境内地等諸施設の回収事業に取組み、寺院施設として更なる充実が図られている。 |
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三、報国寺 | 平成3年3月発行の 「郷土のあゆみ」 の追録として、今回開基百年記念に因み編集される当寺についての生地は、多少重複するが、主な行事について後世のため記述したい。 大正14年11月、開創一世祖来単道大和尚(静岡県明応寺四世)当地に開教のため入地、以来本園で82年の星霜、初期の写真と現況をみる時、正に今昔の感、この地を境内地として剪定し、植樹し、整備に尽くされたその慧眼を憶う。 昭和53年1月13日、世寿83歳で還化される。 この地に錫を留めて以来54年、ひたすら寺の基礎作りと教化に尽力された生涯であった。 また、昭和50年8月に逝去された開創寺族イチも、住職を補佐し寺作りに共に汗を流した生涯であった。 昭和53年3月修真入寺、55年10月住職を拝命し、現在に至る。 ◎本堂新築・鐘楼堂・位牌堂移転改築工事 平成13年3月、彼岸会の時、壇信徒の皆様に本堂新築について、その構想の大略を説明し、建築実施の賛同を得て、役員会、建築委員会を経て一大事業に着手、趣意書を配り勧募活動に入りました。 4月に本堂用地となる裏山の伐採、整地作業にかかり、10月に位牌堂の移転改装、年内に本堂基礎工事を完了。 翌14年、雪どけを待って本堂工事にかかり9月に完工。 10月に旧本堂の解体工事、鐘楼堂の移転改装、周辺の地盤整備を行い、11月9日、釈尊成道会と併修して本堂落慶式を執行、当日は26ヶ寺の随喜を得、3百余名の参詣者の集まりの中、盛会裡に記念行事を終えることができました。 これひとえに、仏祖の御加護と開創単道泰和尚積年教化の結実であり、建築委員会役員各位、壇信徒皆様の御協力、御支援の賜物であります。 ○報国寺門標とあじさい 開創以来、寺の入口に太いオンコの門標が立っていましたが、年と共に腐れが広がり、新しく石の門標が建立されました。 昭和63年、福原キクエ様、裕二様の寄贈によるものです。 題字は、開創単道大和尚の字を拡大して彫ったものです。 また、参道に沿って 「あじさい」 が植えられています。 私が新潟佐渡に行った時、あるお寺の参道にみごとな 「あじさい」 が咲いておりました。 それを思い出して、母親が手入れしていた一株のあじさいを20数株に分け植えたのが平成4年、その株から挿し木して増やし、忠霊塔参道にも植え、冬には南京袋で囲い、今では80株にもなり、お盆には紫の花をつけ楽しませてくれています。 「紫陽花の寺」 にしたいと思っております。 |
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四、上芭露墓地のその後 | 上芭露墓地は 「郷土のあゆみ」 によると、北海道国有未開地処分法第4条による付与によって正式に部落の共同墓地となっていた。 上芭露406番地、面積10.599平方メートルの墓地は昭和13年から村営墓地として、それ以降村が管理していた。 昭和45年に敷地内に繁茂していた立木を伐採し整理された。 火葬場は昭和16年に設置され、50年迄利用されていたが廃止となり、それ以降湧別の火葬場を利用する様になり現在に至っている。 墓地道路については、北海道2年に改良工事が行われ、約1.690万円の総事業費で約半分(坂の部分)の舗装工事も行われた。 残余の舗装については平成8年に約390万円の予算によって現在の墓地道路が完成された。 敷地内の清掃については町営墓地であっても、自治会の共同作業により毎年8月に7日に全員の出役によって草刈りが行われていた。 然し、草の繁茂は年々大きくなり、身の丈を越す雑草に覆われる様になり、刈払機での作業も自治会会員の減少更に高齢化等もあって非常に危険が伴う作業になっていた。 そこで、自治会では町に危険物と雑草の除去を強く要請していた。 町では平成10年に、約126万の事業費で湧別小型が請負い一部必要な場所に砂利も入れて整地が完成し、今迄藪の中にあった墓地も見違えるようになった。 又この年休憩所も完成して、雨が降っても休む事が出来るようになった。 こうして一応きれいな墓地になったがこのまま以前の様に値日土の草刈りでは又もとの様な状態になる事が予想されるので墓は現存しているが上芭露から他に転出された方々からも協力して戴き年千円程度の墓地管理費をいただき、その資金を利用して大型トラクターで除草剤を散布し8月7日のお盆に遠方から墓参りに来られる方々からも大変喜ばれている。 こうして関係者の努力によって、現状は四方を山林に囲まれた静かなたたずまいの中に開拓以来の人々が安らかにおまつりされている。 尚、町外に転出された方々で墓地管理費に御協力いただいた型は別記の通りであり、心から感謝を申し上げます。 |
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第10章 郵便局 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上芭露郵便局 | 上芭露郵便局についてはその開局時の状況、沿革等 「郷土のあゆみ」 の中で商才に記録されているので、ここではその状況について先ず要約して述べたいと思う。 大正8年駅逓、郵便局の設置運動を小山春吉氏らが起こして、翌9年5月には駅逓の認可と郵便仏取扱所の解説をみると史実にはあるが異例の生やされあり、更に上芭露の様に国道から大きく入った土地に駅逓が認可されたのは当時すでに薄荷生産と取引の中心が上芭露になっていた事を物語っている。 駅逓の認可と共に取扱人に加藤政千代氏が任命されたとある。 この加藤政千代氏は20号線を中心に入植した福島団体の団体長でその前身は不明であり、又取扱人に任命されながら翌大正10年に郵便局が開局されると渡辺精司氏が初代局長を拝命したのも、今となってはそのいきさつは解らない。 渡辺精司氏はいち早く薄荷を導入し、薄荷の開祖と言われた人で当地方の著名人であった為であろう。 とも角開局、後昭和2年には集配局に昇格し芭露上芭露間の逓送を渡辺栄吉氏が受け持つ事になった。 渡辺氏は息子さんの渡辺水治氏に引き継がれ逓送渡辺と呼ばれていた。 現在上芭露に在住している渡辺律子さんの父親である。 局長は渡辺氏の子から孫に移りその後は郵便局から任命された局長が現在で11代目になっている。 その間、昭和7年には局舎を新築し、昭和10年には電話が上芭露迄引かれた。 昭和26年に東芭露に簡易郵便局が設置され電話も29年には東芭露局架設され、昭和46年に農集電話が開始されたのを界に離農の傾向は益々多くなり郵便業務も次第に縮小の方向に向かい始めた。 昭和50年東芭露簡易郵便局は廃局になり、電話の自動化、貯金、保険のオンラインや、局舎を新築し、郵便貯金の自動支払機の設置と合理化と近代化に努力して来たが、上・東・西芭露の人口は減少の一途をたどり平成2年には電報配達請負業務が廃止となり、芭露郵便局に移される事になった。 以下平成3年以降の状況について記載する事とする。 〜上芭露郵便局の変遷、平成3年4月以降〜 ○平成3年7月 上芭露公民館活動簡易保険団体結成 郷土の中心核としての上芭露小学校が平成3年3月惜しまれながらも廃校。 しかしながら、郷土の教育、文化継承に於いては公民館活動の強化によりしっかりと受け継がれた。 この公民館活動強化の一助として、 「簡易保険団体」を結成。 活動資金づくりの一役を担い、その後の安定的な公民館活動に少なからず貢献できたと思われる。 ○平成5年10月 局種変更により集配局から無集配局に変更 地域の世帯現象に歯止めがかからず、奇しくも集配業務を芭露局へ移行。 これに伴い殆どの職員は近隣局へ異動。 職員1名、局長1名の2名で無集配郵便局として新たなスタートを切った。 ○平成12年2月 郵政総合情報通信システム(新情報系共用端末機)機器導入 国の情報化推進施策の一環として、郵政省も最新鋭の情報総合誌ステムを導入。 当局においても中央省庁と直結した端末機(いわゆる情報パソコン)が配備された。 ○平成13年1月 省庁再編により総務省郵政事業庁に組織改正 国家組織の大改正により、郵政省も再編となり、総務省所属の郵政事業庁として新たなスタートを切った。 ○平成14年11月 郵便貯金自動支払機、機種変更 平成2年11月に支払専用の自動支払機が導入されたが、サービスの拡大により、支払専用から預け入れ、残高照会、振込、保険貸付等が可能な自動支払機に変更となる。 ○平成15年4月 経営形態変更により日本郵政公社となる 従来より郵便局の経営形態が国会の芭露で種々検討されてきたが、 「日本郵政公社法」が施行され公社経営に移行となった。 ○平成17年9月 「郵政民営化法案」 閣議決定となる(平成19年10月民営化決定) 再び国会の芭露で経営形態が議論され、紆余曲折を経て、最終的に郡部にとっては計わずも、民営化が決定された。 ○上芭露郵便局 歴代郵便局長
○歴代職員 (1)内務職員
(2)外務職員
◎役場出張所業務の取扱 役場の出張所は、永年にわたって 「母と子の家」 「公民館」 に出張所員がいて、役場の事務を取り扱ってきたが、今回役場の行政改革の一端を受けて郵便局でその業務の一部を行うことになった。 協定書による事務の範囲 (次の件以外のものは芭露出張所又は本町で) (1) 戸籍謄本、戸籍抄本及び附票の交付、請求引渡にしに関する事務 (2) 納税証明書の交付、請求、引渡しに関する事務 (3) 住民票の写し及び住民票記載事項証明書の交付(同一世帯者のみ) (4) 印鑑証明書の交付、引渡しに関する事務 |