漆 黒 の 天 使
疑惑 (1)
翌日になっても、アンリは戻らなかった。外泊するのは珍しくなかったが、それが続くと屋敷に妙な噂が囁かれた。
公爵が屋敷を長く空けると誰かが死ぬ、といった不吉な噂が、召使いたちを介して、まことしやかに領地を駆けめぐる。
噂の発端は、おそらく公爵夫人の不幸な事故死だろうとエリックは思う。
人は退屈になると、もてあまし気味の暇を、愉快に消化するために噂話に興じる。それは、非現実的であればあるほど面白いのだ。
恐ろしい姿をした青年を囲う公爵には、浮気や色事よりも、怪奇的な話のほうが似合っている。
公爵の留守中に、エリックのもとに訪問者が二人あった。
一人目はシャルルからの使いで、オペラ座の設計図を携えてきた若者。シャルルのもとで建築学を勉強している、ピエールという、まだ若い青年だった。
厚く束ねた設計図を、目を輝かせながら腕に抱いていた。
「私もいつか大きなコンテストに参加できるよう、勉強中です」と彼は言った。
自分はまだ出品すると決めたわけではないのだと、喉まで出た言葉をエリックは呑み込んだ。
確かに、自分の腕を試したいという気持ちは強くある。しかし、アンリの意志にあくまで従うという、最初の決意も変わらない。
公爵が自分に飽きるまで、籠の中の鳥でいることを、エリックはもう決めていた。
鳥籠が持ち主の手を離れ、壊れたとき、そのときは自分の力だけで生きていかなければならない。そのための努力を、今のうちからしなければならない。建築学もその一環として勉強した。歌も楽器も絵画も、公爵が送り届ける教師は全て受けて入れた。
二人目の訪問者はディアンヌだった。
いつものように午後になって、伯爵家の馬車で彼女はやってきた。
「アンリは留守なの?」
執事から公爵不在を告げられたディアンヌは、エリックと会いたい旨を執事に申し入れた。パリから公爵家までは相当の距離がある。このまま手ぶらで追い返すには忍びず、エリックは途中まで見ていたオペラ座の設計図をしまい、客間へ出向いた。
薄いブルーのドレスに、いつもは結い上げている髪を垂らし、細かな花飾りを挿したディアンヌは、春の妖精のようにたおやかだった。
「ようこそ、伯爵夫人。生憎、公爵が一週間ほど留守にしてまして、失礼をお詫びいたします」
エリックは立ったまま深くお辞儀をした。
「まぁ、一週間も?いいのよエリック。いつも勝手に押しかけて来る私がいけないんだから。それに、アンリが留守でも、あなたがいるから構わないわ」
彼女はにっこりと微笑んで椅子を勧める。
エリックは遠慮がちに対面の椅子に腰掛け、手持ちぶさたに視線を落とす。
「一週間前といえば、アンリが真夜中にパリの邸に来たのだけれど、あの夜はここには戻っていないの?」
思い出したようなディアンヌの口調に、エリックが顔を上げる。
「伯爵邸へ?公爵が?」
「ええ。陛下のご用があってパレ・ロワイヤルに伺候した帰り、馬車と従者が行方不明になったとかで、馬を借りにね」
「馬車と従者が?」
「ええ。彼を捜しているうちに夜中になってしまったと言っていたわ」
「それで、従者は見つかりましたか?」
「殺されてセーヌ川に捨てられていたということよ。アンリは馬で屋敷に戻ると言って出て行ったのよ。帰っていないの?」
「はい」
二人の間を重い沈黙が押し包んだ。
真夜中の殺人事件にアンリの失踪。悪いほうに考えるなというほうが無理な話だと、エリックは思う。なんとかディアンヌを安心させる言葉を言ってやりたいが、自分が安心していないのに、出来るはずもない。
それに、召使いたちの噂。
公爵が留守を続けると誰か死ぬ。
洒落にもならないが、半分は当たっている。従者が死んだのだ。死んだのが屋敷の者なら、ほどなく皆に知れるだろう。
「エリック、心配しないで」
声に顔を上げると、自分の前に跪いたディアンヌが心配そうに覗き込んでいた。
考え事に夢中になっていて、彼女が側に来たことすら気づかなかった。
驚いて見返すエリックの手を取り、ディアンヌは自分の頬に手をあてる。
「大丈夫よ、アンリは戻ってくるわ」
伯爵夫人、おやめ下さい。卑しい身分の自分にそんなことをしてはいけない。そう言いたくても言葉が出なかった。
温かい肌のぬくもりが、手を介して心に伝わってくる。公爵とは違う、慈愛とやさしさに溢れた温もりは、エリックにとって初めての感触だった。
「私、邸に戻ってアンリに馬を渡した使用人に心当たりを訊いてみるわね」
気丈にもそう言い残すと、伯爵夫人は馬車を急がせ、パリへの道を引き返した。
アンリはダンスに優れているだけじゃなく、武術にも優れている。剣の手ほどきはアンリに受けた。強盗に襲われたくらいでは、アンリを殺せはしないだろう。
だかしかし、銃で襲われたら?どんなに剣の達人でも、離れた場所から放たれる銃には勝てない。
「何を熱心に考えているのかね?」
聞き覚えのある低い声に、エリックは咄嗟に振り返る。
「公爵!ご無事で。一体どこへ」
訊きたいことを全部言葉にする前に、アンリはエリックを抱きしめた。
「いつものように、”おかえりなさい”とは言ってくれないのかね?君に会いたくて飛んできたというのに」
抱きしめた耳元で囁く。
「おかえりなさい」
オウム返しのように求めに従い、エリックは本来の話題に戻そうとするが、公爵の腕の強さはそれを許さない。
「公爵?」
問いかけには答えず、アンリは軽々とエリックを抱き上げ、そのまま私室へ向かった。
彼の真意が判らなくとも、尋常ではないことは判断できる。このような振る舞いを、エリックが目にするのは初めてだった。
アンリに何が起こったのか。
彼が狂ったように自分を求めている間じゅう、エリックはずっとそう自問していた。
まだ日が落ちてもいない時間に、しかも公爵の寝室に自分を連れ込むなど、あり得ないことなのだ。
天蓋のないベッドには、暮れかかっているけれど、まだ明るさの残る日差しが降り注ぎ、エリックの肢体を包み込む。
アンリが出て行った部屋で、ぼんやりとした頭のまま、エリックは横たわっていた。
「何があったのか、訊いたほうがいいのだろうか。訊かないほうがいいのだろうか」
そのことを何度も考えていた。無論、答えなど見つかるはずがない。だがいつまでもこうしていては、執事やメイドが来てしまう。薄々は感づいているだろうが、この有様を見られると、お互いに面倒な状況になる。ひとまず起きあがって服を着ないことには。
一体どんなふうに脱がされたのか、扉からベッドまで衣裳が散乱している。
重い体を無理に起こし、ベッド脇の衝立にかけてあった公爵のガウンを肩にかけたところで、扉が開く音がした。
「公爵、こんな真似をしなくても僕はいつだって」
言いながら振り向いたエリックは、扉に立つ婦人の、恐怖に凍り付いた顔を見た。
「・・・!」
バルドー夫人と言ったつもりでも、言葉になって出なかった。
次にエリックが何かを言うより先に、ディアンヌが扉の向こうに走り去った。
仮面を、はずしたままだった。
公爵は、ベッドの中では衣服を脱がすことと同じレベルで仮面もはずす。散らばった衣裳と同じく部屋のどこかに落ちている仮面を、ガウンより先に捜して付けるべきだったのかもしれないが、公爵の寝室にディアンヌが入るとは考えも及ばない。
言葉も出ないくらい怯えた目。もう何度も見たのに、まだ慣れていない。
ここで何が行われていたのかは、相当勘が悪い者にでも判るだろう。明るい光が差し込んだアンリの寝室にいる、恐ろしい顔をした青年の姿は、綺麗な顔しか知らない彼女にとっては、言葉にならないほどの驚きだっただろう。
もう一度、扉が開いた。
中に入ってきた長身の黒髪に、エリックは挑戦的な目を向ける。
「どうして、バルドー夫人を通したのですか?」
「ああ、しょうがないお転婆さんだ。執事によると、なにやら喜び勇んで突然舞い戻って来たそうだ。私がここにいると聞くと、一目散に飛んで行ったらしい。困ったものだ」
「いいえ。ここへ入ったのは偶然なんかじゃありません。バルドー夫人は、客間とサロン以外に勝手に入ったりはしません」
「なぜ判るんだね?彼女は、小さな頃からこの屋敷を訪れているし、何度も泊まったことがあるんだよ」
「それは子供の頃の話でしょう。今の彼女は幼い少女ではありません」
「ほう、随分な自信だね。私が留守だった間に、私が知らないディアンヌの秘密でも語り合ったのかな?」
微動だにせず冷たく言い放つアンリの横を、エリックは無言ですり抜けようとし、腕を掴まれた。
「どこへ行くんだね?」
「部屋に戻ります」
「その格好のまま?」
「離して下さい」
引きずられるようにベッドの上に押し倒される。
「お願いです。やめて下さい」
体はかたくなに抵抗を続けながら、言葉は哀願する。
目を閉じても開いても、ディアンヌの恐怖に凍り付いた目が浮かんで消えない。
「こんな仕打ちをして、楽しいのですか?」
消え入りそうな問いかけだけが、永久に得られない答えを求めて、宙をさまよう。
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