漆 黒 の 天 使    


疑惑 (2)

 突然戻り、ディアンヌをエリックから永久に遠ざける真似をし、乱暴な爪痕を心に植え付けて、公爵は翌朝早くにまた屋敷を後にした。
 エリックがそれを知ったのは、昼過ぎに執事から伝え聞いたときだった。
 公爵が、自分の留守中、バルドー夫人と二人で会ったことに嫉妬してやったことなら、それでもいい。他に理由があるなら、それで納得ができた。
 しかし、公爵は昔も今も、何ひとつ説明もしないし、打ち明けることもしない。
 そのことを再びなぞるとき、やはり、自分は飽きられるまで飼われた籠の鳥なのだと思う。求めるときだけ、いればいい。欲しいときだけ抱かれればいい。


 日が落ち、辺りが漆黒に包まれる時間を待ち、エリックは久しぶりに遠乗りに出掛けた。
 月の明かりだけが存在を許された闇の世界。醜いものを覆い隠す夜が、幼い頃から好きだった。
 ロシュフォール公爵家の領地は広大だったので、領地内を回るだけでも遠乗りといえた。
 森の様子が更に深まる手前まで来ると、エリックは馬を止めた。ここから先は領地の外になるため、公爵と一緒のとき以外は進むことはなかった。
 遠くで何かの吠える声を聴いた。
 森の奥に、どうやら野犬でもいるらしい。ひょっとすると、オオカミがまだいるのかもしれない。
 屋敷の方角に馬の手綱を引いた先に、もう一頭の馬の影を捉えた。
 一瞬、アンリかと思ったが月明かりがそれを打ち消した。代わりに浮かんだのは、馬の傍らに立つ、ディアンヌだった。人の目をはばかるように、濃い紫色のフードを深く被っている。
 「バルドー夫人。どうしてここへ」
 「ごめんなさい。こんな時間にいきなり押しかけて来るなんて、淑女のすることではないわね。でも、屋敷を尋ねても、会って貰えないと思って、執事のロベールに無理矢理教えて貰ったの。ロベールは私が小さな頃から味方だったから」
 無理に明るく装う姿は、淋しそうな口調から痛いほど伝わる。
 エリックは馬から降りようとしたが、ディアンヌがそれを制した。
 「そのままで聞いて欲しいの。あの時の誤解をどうしても解きたくて、こんな真似までしてここへ来ました。お願い、私の話を聞いて頂戴」
 進むことも退くこともできず、エリックは言われるまま馬上の人でいるしかなかった。
 「アンリの部屋に入ったとき、あなたを見て逃げ出してしまったのは、あなたの顔のせいではないの」
 穏やかな口跡のなかに、芯の強さと決意を込めて、ディアンヌは続けた。
 「私が伯爵家に嫁いだのは十六歳になったばかりだったわ。実家の両親はお互いまるで他人のようで、貴族の結婚の象徴のようだった。でも、アンリは違っていて、マレーネとの結婚はとても幸せそうだったわ。私も、結婚したら夫と幸せな関係を築こうと決めていたわ。けれど、結婚してすぐにそれが無理だと判ったの」
 なぜ?と訊きたい気持ちを抑え、エリックは黙って告白を聞いた。
 「夫のバルドー伯爵には、もうずっと以前から恋人がいて、私の入り込む隙間も余地もなかった。それでも、なんとか振り向いて貰おうと、努力したけれど、それが不可能だと、ある日判った。夫の恋人は、イタリア人の男性だったんですもの」
 青白い月明かりだけが、うつむく彼女を照らし地上に影を作る。
 「君も、自分の好きな相手と恋愛すればいいと、夫は言ったわ。その相手との子供を、バルドー家の跡取りとして黙認するとも言ったわ。でも、夫がどんな人でも、そんなことなんて、できはしない」
 「けれど、好きな人はいたのでしょう」
 深い沈黙を破り、エリックが言った。
 「ええ。アンリを、ずっと好きだった。でも、私は伯爵家に嫁いだのよ。たとえマレーネが亡くなっていても、不貞は罪だわ」
 「僕と、公爵の関係は、気づいてました?」
 「私には何も見えなかった。昔から好きだったアンリへの憧れで盲目になっていたのかもしれないわ。いいえ、それよりも、アンリだけはという気持ちが、盲目にさせていたのかもしれない。あなたがいると、私は安心して公爵家を訪ねることが出来たの」
 「僕がいると、二人きりにはならない」
 「ええそうよ。ずるい女なのよ私は」
 恋する女は、たいてい同じようなものだと言っても、なぐさめにはならないだろう。エリックは黙って続きを聞くことを選んだ。
 「あの日、アンリの無事をロベールから聞いて、嬉しさのあまり部屋に飛んで行ったわ。そうしたら、ベッドにアンリのガウンを着たあなたがいたの。認めないわけにはいかなかったわ。私が好きになろうとした人からも、好きだった人からも、永遠に振り向いては貰えないのだと」
 「バルドー伯爵のことは知りませんが、公爵は、少なくとも奥方と仲良く暮らしていたと聞いてます。確かに僕は公爵の相手をしていますが、公爵は僕を恋愛の対象として見ているわけじゃありません」
 「ありがとう。やさしいのね、エリック。でもね、マレーネは陛下から押しつけられた花嫁だったのよ。人って、たいていの無理難題にでも立ち向かって生きられるように出来ているのね」
 そう言って哀しげに微笑んだ頬に、涙が伝う。
 「仮面をはずして下さる?あなたは醜くなんてないわ」
 少しだけ迷ったが、請われるとおりエリックは仮面をはずして素顔をディアンヌに向けた。
 彼女はゆっくりと歩み寄り、手を差しのばした。それに応えるように、エリックが馬上から半身をかがめる。
 淡い月がエリックの顔に、蒼い光を投げかける。その唇に、ディアンヌは自らの唇を重ねた。
 「あなたも好きだったの。本当よ。どんな顔をしても、ちっとも怖くなんてないわ」
 彼女の瞳から溢れた涙のしずくが、エリックの手の甲に落ちる。このまま抱きしめたい気持ちを理性で押し殺し、エリックは体を起こした。
 「もう、帰らなければ。ありがとう、私の天使さん」
 送ろうとの申し出を断り、バルドー夫人は馬に乗り、森の中に消えていった。
 生まれて初めて受けた口づけの感触と、手の甲に落ちた涙の味。
 誰にでも、その人なりの悲しみや悩みかあるのだと、世の理の無情を映すような月の幻影を、エリックは浴び続けた。



 忘れ得ぬ場面となった遠乗りから戻り、知らないうちに眠ってしまったのか、気が付くとそのままの格好で寝ていた。
 やけに体中が痛かった。それでも意を決して起きあがると、机の引き出しからオペラ座の設計図を取り出した。
 開けた引き出しをしばらく見つめていて、第三者の手で詮索されていることに気づいた。とりたてて見られて困るようなものは入れていないが、気になるものが一つだけあった。それが見あたらないのだ。
 誰か掃除にでも入り、開けたのだろうか?だが、私室の掃除は壁や窓といった大がかりなもの以外は自分でやっていたから、メイドが入ることはほとんど無い。というより、彼女たちが怖がって入らないのだ。
 とはいえ、何かあって掃除することになったのかもしれない。
 エリックは執事の姿を捜した。
 部屋の外に出ると、屋敷全体がいつもと違い、騒がしい雰囲気に包まれていた。
 殺されたという従者のことが知れ渡ったのだろうか。
 そんなことを考え、執事をやっとのことで捉まえることができた。
 「エリック様!」
 「おはようございます。聞きたいことがあって・・・」
 エリックが言い終わらないうちに、執事が慌てた口調で逆に尋ねた。
 「ディアンヌ様に、何か変わった様子はありませんでしたか?」
 「いえ、何も」
 昨夜のことが浮かんだが、もちろん口に出す気はなかった。代わりに、「バルドー夫人が、どうかしたのですか?」と訊いた。
 「亡くなられたのです。昨夜遅くに」
 「・・・!どうして・・・?」
 「どうやら馬でここに向かわれたようで、森を抜けたところの崖から転落され・・」
 そう言ったっきり言葉にならず、ロバートは肩を落として泣き崩れた。幼い頃からの彼女を知る執事には、計り知れない悲しみがあるだろう。
 最近しか知らない自分ですら、何が起きたか理解出来ないほど放心している。
 やはり、断られても送り届けるべきだったのだ。いくら慣れている道とはいえ、月明かりしかない夜なのだ。しかも、遠くで野犬が吠える声がしたではないか。
 ありとあらゆる仮定を浮かべ、エリックは自分を責め続けた。
 「公爵は・・・公爵へは連絡は?」
 「昨夜はルーブル宮におられたので、パリのバルドー家から連絡が入ったそうです。おそらく、バルドー家におられるはずです」
 飛んでいって駆けつけたいが、それが出来る身分ではなことは、十分承知していた。伯爵家の奥方の葬儀に、貴族でもなく、ましてや仮面をつけた男の参列など問題外だし、仮に許されても恰好の噂の種でしかない。
 ディアンヌに対する悪しき噂は、死んでも避けなければならない。彼女は、生涯満たされない夫に対し、死ぬまで貞操を守った貞淑な妻だったのだ。

 葬儀の日の夕刻、エリックは一人で出掛けた。ディアンヌが転落したという場所で、一人だけで葬儀をするために。
 春の日だまりのようだった彼女のために、淡いブルーの花束を手に細い道に馬を進めた。
 執事と馬舎頭から聞いた崖は、パリとは反対方向にあった。
 おかしいな。道に迷うとしても、あの晩は月が出ていたはずだ。いくら動転していたといっても、間違うような道ではない。
 野犬か何かに追われて、咄嗟に方向を変えたのかとも考えたが、あれからしばらく森にいたエリックは何も聞いていない。
 遠くで鳴いた声さえもが聞こえたのだ。こんな近くで野犬が吠えたら、間違いなく聞こえたはずだ。
 となると、その他の理由があって、わざわざ反対方向の道に入ったとしか考えられないのだ。しかも、執事はパリから向かう途中とも言っていた。彼女が転落したのは屋敷へ向かう途中ではなく、パリへ戻る途中だったのだ。その事実が入れ違ってしまったのは、ディアンヌの名誉のためかもしれない。
 深い崖に花束を投げ込みながら、永遠に逢えないひとに別れを告げた。
 
 
 
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