漆 黒 の 天 使    


見えない存在 (2)

 パリ市内のマレ地区に、バルドー伯爵家は邸宅を構えていた。
 革命以前の貴族達はこぞって郊外に居城を持っていたが、国政の場が再びパリに移ってからは、革命を生き延びたわずかな貴族達も、装飾華美な城を捨て、パリへと移り住んだ。
 未だ郊外に居城を持つ貴族は、よほどの富豪か、または偏屈とされていた。
 半分に欠けた月が真上に昇る深夜、バルドー邸に一人の訪問者があった。
 ガウンを羽織って玄関に出た執事は、メイド頭を通じて邸の女主人に来客を告げた。
 「まぁ、アンリ。どうしたのこんな時間に」
 応接間に通されていた珍客を、とりあえずの身繕いをしたディアンヌが熱いお茶を手に迎えた。
 「すまないね。陛下のお召しでパレ・ロワイヤルに伺候したのだが、待たせていた従者が馬車ごと消えてしまってね、ちょっとした騒ぎになりこんなに遅くなってしまった」
 「それは大変だったわね。それで、従者は見つかったの?」
 お茶を勧めながらディアンヌは案じて言う。
 「ああ。セーヌに浮かんでいたよ。馬車は消えたままだ」
 「なんてこと」
 「驚かせてすまない。最近はパリも物騒のようで、貴族を狙った追いはぎや物取りも多いらしい」
 深夜の突然の来訪者の口から、恐ろしい事件の顛末を聞かされ、ディアンヌの顔色が幾分青ざめる。
 「今度からは無理に帰らず、ルーブル宮にでも泊まることにしよう。ところで、伯爵はご在宅かな?」
 「いいえ、出掛けてますわ」
 いつも明るい彼女の沈んだ声の原因は、聞いたばかりの殺人事件のせいばかりでもなさそうだった。以前から薄々察していたとおり、ディアンヌは不幸な結婚生活を送っているらしい。
 「それは残念だ。実は、屋敷に帰るにも、こんな時間では馬車も拾えないので、馬を借りに寄ったのだが」
 「馬だなんてアンリ、馬車を出しますわ」
 「いや。伯爵家の使用人に迷惑をかけるわけにはいかない。これでも乗馬は得意だから、久しぶりに屋敷まで遠乗りもいいだろう」
 心配顔のディアンヌに、アンリは笑って見せた。
 「パリへは、よくお越しになるの?」
 「陛下のお召しがあれば」
 「私がどんなにお招きしてもちっとも尋ねて下さらないのに、陛下のお召しにはすぐに応じられるのね」
 「おかしなことを言うね。陛下の命には誰も逆らえはしない。それに、君はバルドー公爵の奥方だよ。いくら従兄といえども軽々しく出入りはできない」
 いつもは陽気なディアンヌが今夜は少しばかり機嫌が悪い。うまくいっていない夫婦の邸に頻繁に独身男が尋ねるのは得策ではない。やはり、今夜はルーブルに泊まるべきだったかと後悔し始めたアンリに、ディアンヌが拗ねたように追い打ちをかける。
 「マレーネ様とのご結婚も、ご陛下の命令でしたの?」
 「どうしたんだねディアンヌ。今夜は少しおかしいよ。エリックにも訊かれたが、今頃になってどうしてみんなマレーネのことを持ち出すのだろうね。彼女は事故でもう亡くなっているんだよ」
 たしなめるように言われ、ディアンヌは我に返った。同時に、不幸な事故が思い出される。
 行動的なマレーネは屋敷にじっとしているのを好まず、外出がちな女性だった。温厚なアンリも、彼女の好きなようにさせ、時には同伴してパリ社交界にも比較的頻繁に顔を出していた。
 二人の唯一の共通した趣味である乗馬をする姿もよく目撃された。まるで正反対の性格の夫婦だったが、不思議と円満だった。
 悲劇は、アンリが領地のある南仏に出掛けた際に起こった。
 屋敷に残っていたマレーネは、いつものように森に遠乗りに出掛け、深い霧に見舞われた。方向感覚を失い、彷徨い続けるうちに、オオカミの群れに襲われた。
 翌日、捜索に出た使用人のひとりが、食いちぎられた馬の死体と、判別のつかない女性の死体を発見した。
 アンリが発って、二日後の惨事だった。
 しかも、パリからの伝達がうまく届かず、領地にいたアンリの元に悲報が伝わったのは、悲劇から数えて七日目の朝だった。
 昼夜馬を走らせ、パリに舞い戻ったアンリは、既に葬られたマレーネの墓に崩れ落ちた。
 知らせを聞いた国王自らが駆けつけるまで、ロシュフォール公爵は墓の前に座り続けていた。
 誰もがアンリに同情し、愛されながらも若くして逝った公爵夫人の死を悼んだ。
 それから公爵は屋敷に閉じこもることが多くなり、長い喪に入った。
 そのことを思い出すたびに、ディアンヌは幸せな結婚生活を送ったマレーネに、意味もなく嫉妬てしまう。やさしいアンリを、独り占めにした女性。国王の従妹で、美しかったけれど奔放なひと。
 すでにこの世にいない女性を、いつまでも意識している私は、きっと醜いだろう。決して超えられないという苦しみから、救い出してくれる人が現れるのだろうか。
 やさしい従兄は、意地悪なことを言っても、笑っていさめて許してくれるけれど、淋しい心を満たしてはくれない。
 馬上の人となり、屋敷に向かって闇を駆けるアンリを窓越しに見送りながら、たった独りで、誰かの後ろ姿を見送るだけしか、自分には許されていないのだろうかと思うと、ディアンヌの大きな瞳から涙が溢れ落ちた。



 縦に広がる大きな窓から僅かに入る半月の明かりを頼りに、エリックは目をこらして部屋を見回していた。
 ずいぶんと夜目に慣れ、いろんな物が見えてくる。大きな机には、処理半ばの書類やら手紙が散らばっている。横には封印するための鑞が置かれていた。
 丹念に壁を調べても、絵画の類は飾っていない。装飾品らしいものといえば、暖炉の上の時計くらいのものだった。
 「やはり絵は外したんだな」
 と思い、部屋を出ようと暖炉を横切ると、薪が積まれている陰に小さな扉のような継ぎ目が確認できた。
 位置と場所を記憶しながら薪を移動すると、やはり隠し扉があった。隠し扉といっても、人が出入りするものではなく、金庫のような役目を持つ物入れである。
 今ではもう使用していないらしく、鍵はかけられていなかった。開けると、古い書物や箱が入っている。どうやらアンリが当主となる前からの遺品らしかった。
 その奥に、なにやら立てかけられている板に目を留め、それを引き抜いてみる。
 布に巻かれたそれは絵画のようだった。
 「これか?」
 手早く布を外し、月光が差し込むところまで持っていき、改めて視線を向けてみた。
 男女の肖像画だった。
 男性のほうは紛れもなくアンリであり、横で微笑んでいるのがマレーネ・ド・ロシュフォール公爵夫人そのひとに違いない。
 金色のドレスは、肖像画であっても豪華さを正確に伝え色褪せない。
 優雅に微笑みをたたえる彼女は、王族の血を持つ誇り高い貴族だったのだろう。指には見事な細工をほどこした、大きなサファイアの指輪をはめている。アンリが贈ったものだろうか、それとも持参品なのか。
 肖像画に見入っていたエリックは、傾きかけた月の光で、夜が更けているのを知った。
 とりあえず、公爵夫人の姿を見ることが出来たのだから、元に戻して退散しようと隠し扉に向かう際に、誤って絵画を落とした。
 慌てて拾い上げ、枠から外れた絵を戻し、壊れていないか確認していると、一枚の紙が枠から滑り落ちた。
 手紙の一部のようで、なにやら文字が書き詰めているが、月明かりでは判読不能だった。エリックは紙を懐にしまい、肖像画だけを隠し扉に収めた。


 私室に戻り、懐に忍ばせた手紙を取り出し、燭台の灯に照らした。
 小さく織り込まれたと判るシワが、この手紙は隠されていたことを物語っていた。
 エリックは書かれている文字に目を落とした。

 『親愛なるマレーネ
  貴女と逢わない日は、私にとって
  耐え難い苦悩であり悲しみだ
  願わくば、全ての垣根を取り払い
  貴女と共に過ごせる日が
  遠からぬうちに訪れることを
  切に思う
  最愛の君へ
              H』

 明らかに恋文だった。
 Hという差出人は、おそらくアンリだろう。婚約時代に送ったものかもしれない。家同士で決めた婚約なのに、全ての垣根を取り除くとは、ずいぶん大袈裟だとエリックは思う。
 それほど情熱的に愛していたのかもしれない。可哀想に、これではディアンヌは絶望的なくらい大失恋だ。
 この手紙は、美しい夫婦愛の形見だろうから、折をみて元に戻しておかなければ。
 そう思い、手紙を机の引き出しの奥にしまいこんだ。
 密偵の真似事ですっかり冴えてしまった彼は、そのまま眠る気になれずに、窓からバルコニーに出た。夜風が心地よい晩だった。
 情熱的な恋文を送るほどの想いを、自分は誰かに抱くことがあるのだろうか。たとえ誰かを愛しても、愛される確率は限りなく無いに等しい。それでも、愛し続けることができるのだろうか。

 

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