漆 黒 の 天 使    


見えない存在 (1)

 アンリが宮殿に出掛けた。最近、頻繁に伺候しているが、公爵の称号を持つわけなので不思議なことではない。いわば、滅多に伺候しなかった今までが不思議なのだ。
 主人の留守中の時間を、エリックはもっぱら勉学に充てた。アンリがパリでも屈指の教授を捜して差し向けてくれていたので、教師には不自由しない。
 最初の頃は、仮面を付けた生徒の教鞭によそよそしかった彼らも、エリックの才能に触れてからは、教える者としての潜在意識が刺激されるのか、自ら進んで屋敷にやってくる。
 屋敷に来た十四歳の時分には物理を教えたが、長じてからは建築学を教えているシャルルが、公爵の留守中に呼ばれることが多かった。彼は公爵とは勉学仲間だったらしい。
 シャルルは子爵家に生まれたが、三男坊の気軽さもあり、家督は長兄が継ぎ、自分は好きな勉学で趣味のような暮らしをしている。

 「油圧で動く扉ねぇ」
 エリックの引いた図面を眺めながら、感心したふうにシャルルは呟いた。
 「ヴァフォール伯爵邸がモデルかい?」
 「やはり判りますか。あれの縮小版です」
 試しに描いてみた設計図の意図したものが教師に伝わった嬉しさも手伝い、エリックは声を弾ませて答える。
 「以前、本物を一度見たことがあるが、これはなかなかよく出来ているよ。たいしたものだよ、物理と建築学を融合させてみせるとはね。しかも、外観を見たわけじゃないのに、構造を理解している。もう君に教えることなんてなさそうだ」
 「とんでもない。先生には、まだまだ訊きたいことが山ほどあります。見捨てないで続けて下さい。お願いします」
 「冗談だよ。そんなに真剣な顔をしないでくれ。罪悪感にさいなまれそうだ」
 おおらかに笑いながら言った。
 明るい茶色でウェーブのかかった短髪は、彼の明るい性格を現すのにふさわしい。彼はアンリとは正反対の男だった。
 ただひとつ。共通点ががあり、アンリ同様、シャルルも最初からエリックを怖がったりしなかった。
 アンリの旧友ということもあり、シャルルはサロンや応接間より奥へも出入りしていたので、素顔のエリックに接する機会もあったが、驚くことも態度が変わることもなかった。
 事前にアンリから聞いていたのかもしれないが、それでも、エリックにとっては嬉しいことだった。
 「再来年、オペラ座の大規模な改修工事が始まるのは知ってる?」
 シャルルが突拍子もなく言う。
 「オペラ座?いいえ、行ったこともありませんし」
 「それに向けて、改修工事の設計を一般公募しようかという動きがあるんだ。本来は、もともとの設計者が描くんだけど、もう亡くなっているからね」
 「素晴らしい企画ですね。先生も参加されるんですか?」
 紫色の瞳を輝かせて青年は訊いた。
 「いや。残念ながら私は審査員のほうに任命させられそうなんだ。一般公募といっても、建築を学んだ資格証明があることが応募条件なんだが、しかるべき建築家の推薦でも同等資格になるんだよ」
 エリックには、シャルルが何を言っているのか意味を解せず、きょとんとして見返している。
 勉学を受けている時の彼は、気持ちを切り替えるためなのか、服装も華美にならぬよう気を配り、長い金髪をひとつに束ねているのだが、逆にそれが妙に愛らしく見える。
 「応募してみないか?と言っているんだよ、エリック」
 にっこりと微笑みながら、シャルルはそう言った。
 「僕が、ですか?」
 「ああ。前から考えてはいたんだが、この油圧扉の図面を見て確信したよ。私は審査員だから推薦できないが、友人の建築家にこれを見せたら快く推薦してくれるだろう。正式に応募を申し込めば、オペラ座の詳しい図面が送られる。それを参考に改修のための図面を描くんだ。オペラ座からのリスエストの全てをクリアした図面をね」
 「とても光栄なお話ですが、公爵の許可を戴かないと、僕ひとりで判断はできません」
 控えめに青年は言った。
 「アンリには私からも頼んでみるから、安心し給え。アンリだって、君に技術を学ばせるために教師を寄越しているわけだろう。それが芽を結び花開くんだ。彼だって喜ぶと思うよ」
 シャルルは、エリックの置かれた状況を正確に把握しているようだった。公爵が屋敷の奥深くに閉じこめている、囲われた珍しい鳥の存在理由を。
 「もし、君の応募が採用されることになったら、もちろん君はパリに移り、昼夜改修工事にかかりきりになるだろうから、アンリは淋しいだろうが」
 「いえ。万が一、応募することになっても、採用されるはずありませんよ。そんな心配は無用です」
 パリでも屈指の建築家たちが応募するのだ。素人でしかない自分が採用されるなど、奇跡が起きても無理だろう。
 それに、パリへ出向いて、大勢の人の中で陣頭指揮をとるなとどいうことも、今の自分には到底できることではない。
 世にも珍しい姿は、たちまち話題となり、パリを出発点としてフランスじゅうに広まるだろう。やがて南仏にも伝わり、座長を殺された一座の誰かが、気づくかもしれない。
 アンリのもとを離れることは、我が身を危険と隣り合わせにすることを意味している。
 「アンリも、奥方を亡くて、また君までも失うのは避けたいだろうが、なにも君は永遠にいなくなるわけじゃないのだから」
 「先生は、公爵夫人を知っているのですか?」
 深い意味もなしに口をついて出たであろうシャルルの言葉を、エリックは遮った。
 「え?ああ、そりゃ知っているよ。結婚式にも参列したし、結婚後も何度かここに来ている。私が結婚したときも二人でお祝いに来てくれたよ」
 「どんな方だったのですか?」
 「どうして?もう亡くなった女性だし、なにか問題があるのかい?」
 あまりにも必死な様子に、シャルルは少し警戒して尋ねた。
 「あ、いえ違うんです。仲の良い夫婦だったという話は公爵からも聞いてますが、肖像画が一枚もないし、ちょっと気になっていたので」
 うまく説明できず、自分でもよく判らないことを答えた。
 「公爵夫人はマレーネといって、実家はアンヴィエール公爵家だ。国王陛下の親戚でね、とても美しい女性だったよ。アンリとは、彼女が六歳の時に家同士で決められた婚約だったと聞いている。夫婦間のことは、本当のところは判らないけれど、端から見るぶんには仲の良い夫婦だったよ。アンリはマレーネをとても大切にしていたし」
 シャルルの言葉を、エリックは黙って聞いていた。国王の親戚ならば、誰だって大事にするに違いないだろう。そんな意地悪な想像は、もしかして嫉妬なんだろうか。
 「アンリは、君に対してもやさしいだろう?」
 俗な考えを見抜かれたようにシャルルから言われ、エリックは羞恥して目をそらした。
 「肖像画は昔からほとんどなかったよ。マレーネは行動派だったから、じっとモデルになっているのを好まなかったんだろう」
 そう説明しながらも、アンリの書斎に一枚だけ飾られていたのを見たことがある、とシャルルは告げた。

 書斎といわれた部屋は、アンリの寝室のふたつ隣にある部屋だった。屋敷に連れて来られた時に、一度だけ入ったことがあるものの、当時は気持ちに余裕がないから、全くといっていいほど記憶がない。
 それ以降は、アンリが私的に使っている区域に出向くことがないので、何も判らない。
 明確な理由はなかったが、その区域に足を踏み入れることがためらわれた。
 自分に与えられた部屋で、生活のほとんどの用が足りたし、あとは楽器を奏でるためにサロンに行くくらいだった。
 用があるときはアンリが出向いて来るため、エリックは自分でも思ってもいないほど、屋敷について何も知らないことに気づいた。

 その日は、アンリは帰ってこないようだった。三年もいると、屋敷の空気で、主人が帰宅するかそうでないかが判る。
 夕食が済むと、屋敷の使用人は、家のある者は帰り、泊まり込みの者は自室のある区域に戻りそこから動かない。
 広い屋敷は、三つの区域に分かれており、サロンや居間、大広間、食堂といった開放された区域を境に、右側が公爵家の人間が使う区域になり、左側が客間が連なる区域となっている。使用人たちは食堂から伸びた回廊の先に居住区域を持っていた。
 ある一定の時間が過ぎると、舞踏会などの特別な催しがない限り、食堂から先にくることはなかった。
 そのため、真夜中に遠乗りに出ても、公爵が忍んできても、誰とも出会うことがない。
 使用人たちの間では、暗がりを歩くエリックと会うことが最高の恐怖とされているらしく、間違ってもそういった冒険を試みる勇敢な人間はいないようだった。
 
 月の明かりだけが僅かに入る長い廊下を、足音を消してエリックは進んだ。
 すっかり寝静まった屋敷は、昼間の華やかさとはうってかわり、広すぎて不気味さを増しているようだ。
 こんなところで仮面をつけた自分と遭えば、悲鳴を上げて逃げていくのも想像に難くない。迷惑な話ではあるが、こういう時には有り難かった。
 自分は何をしたいのだろう。
 アンリの過去を知って、どうするつもりなのだろう。ましてやマレーネは亡くなって、もういない。公爵は夫人の話は一切しないし、寂しさを紛らわせるために代用として扱われているわけでもない。
 それなのに、自分は何を知りたいのだ?
 ましてや、行く先に、何かあるというわけでもないのに。公爵が在室しているときに、堂々と尋ねていけばよいことなのに、夜の闇に紛れて、何を調べに行こうというのか。
 重厚に作られた扉の前に、エリックはいた。鍵のかかった取っ手を引いてみる。
 懐から取り出した細い数本の鉄製針で、器用に鍵穴を回していく。
 ほどなくしてカチッという音かした。
 音を立てずに少しだけ開けた扉の向こうの闇の中に、細い体を滑り込ませた。

 

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