漆 黒 の 天 使
すみれ色の瞳の天使 (3)
やわらかな午後の日差しを存分にうけた明るいサロンに、ピアノの音色がベートーベンの月光となり、ひと気のない室内を包んだ。
細くしなやかな指を自在に操り、ピアノの奏者は譜面もなしに弾き続ける。
優雅な響きのなか、かすかに混じった靴音に合わせたように、ピアノの音がピタリと止んだ。
「どうしたね、続け給え。君のピアノを聴くのは久しぶりだ」
靴音の主、アンリが言った。
「うるさいかなと思って」
そう言いながらエリックは鍵盤から白い指を離した。
「最近は滅多に弾かないね。私は音楽を聴くのが趣味なのだから、遠慮はいらない。このサロンにある楽器なら、好きなものを使うといい」
「ありがとうございます。で、ご用のむきは何です?それを言うために、わざわざここへ来たわけではないでしょう」
「相変わらず察しがいいな。じつは、ディアンヌが来ているんだ。離れの客間にも君のピアノが届いてね、彼女がどうしても君に会いたいというのだが」
「ああ・・」
と言ったきり、エリックは押し黙った。
仮面舞踏会で強引にアンリに紹介されてしまった、彼の親戚にあたる貴婦人を思い出した。美しく明るい女性だったという記憶はあるものの、どんな顔だったかすら覚えていない。
エリックは相手の顔をほとんど見ないので、覚えていないことのほうが多い。自分が相手を見るということは、同じように相手から見られることを彼は知っている。無意識にそれを避けるための癖がついていた。
「どうするね」
「申し訳ありませんが、適当な口実をつくって丁重にお断りをして下さい」
答えを促すアンリに、エリックは無造作にそう言い放つ。
「本当に人嫌いなんだな、君は」
「人嫌いというわけではありませんが、面倒には思います。あれこれ訊かれるし。好奇な目で見られることには慣れていても、疲れますから」
「ディアンヌは、ほかのご婦人方とは違うんだがね。だがまぁ、そういうんなら仕方がない。適当に断ろう」
「すみません」
退出しようとサロンの扉に手をかけたアンリは、不意に開かれた扉の前で躊躇した。
「遅いから待ちきれなくて来てしまったわ、アンリ。すみれ色の瞳のお友達はいらして?」
息を弾ませてディアンヌが微笑んだ。ほのかに広がる香水が、がらんとしたサロンに女性の訪れを告げる。
「おてんばなところは直っていないね。まさか、よその屋敷でも同じことをしていないだろうね?」
呆れたようにアンリが軽くたしなめる。
「まぁ、日の光の中にいると、天使のようだわ。こんにちは、すみれ色の天使さん。私を覚えていて?」
アンリの脇をすり抜けて、ディアンヌはエリックの前に躍り出た。親しげに向けられた瞳は、まるで恋を知った少女のようにきらきら輝いている。
屈託のない眼差しを受け、エリックは無意識に視線をそらし「はい。バルドー夫人、ごきげんよう」とだけ短く答えた。
「無口なのね。アンリに無理をいって、あなたのピアノを聴かせて戴けるようお願いしようと思ったのだけど、迷惑だった?」
困惑しているエリックに、目の前の美しい婦人は容赦なく言葉の雨を浴びせ続ける。その光景を気の毒に思ったのか、アンリが割ってはいる。
「そうやって詰め寄るとまるで脅迫しているようだよ、ディアンヌ。彼は少々内気なんだ、あまり人前に出ることがなかったそうなんでね。特に君のような、若くて美しいご婦人とはろくに話もしたことがない。純情な青年をこれ以上困らせないでくれ」
「そうなの。内気な天使なのね。でも、お話をしたことがなくても、これからいろんな話をして慣れるといいわ。私が実験台になってはだめ?」
「ほうら、それが脅迫なんだ。ご覧、困り切っているじゃないか」
アンリは笑いながらディアンヌをけん制し、エリックの肩を抱いた。
「彼は左目を事故で失ったんだ。それで仮面をつけている。人目を気にしても仕方のない年頃だし、そのあたりは君も察してほしいね」
「アンリ。私はそんなことを気にしたり、興味を持ったりする女ではないわ」
ディアンヌはむきになって反論した。
「よく判ってるとも。でも、君が気にしなくても彼が気にしている。少なくとも、突然やって来たら驚くのは当然だ」
「そうね。アンリの言うとおりね。ごめんなさい。こんな真似はこれっきりにするわ。次はちゃんと案内されて来るから、そうしたらお話して戴けるかしら、内気な天使さん」
意外なほどあっさりと、振りかざした反論の旗を降ろし、彼女は素直に引き下がった。
「はい。今日は突然だったので驚いてしまい、無様なところをお見せしてすみません。バルドー夫人」
すみれ色の瞳で、ちらりと一瞬だけ視線を向け、消え入るような声でエリックは無礼を詫びる言葉を送り、再び視線をそらした。
その様子には、突然の訪問へ込められた困惑と迷惑な反応を、相手に感じさせる十分すぎるほどの効果を持っていた。
「ありがとう。またね、天使さん」
あまりにもつれないエリックの反応に、明るく屈託のないディアンヌも、さすがに気落ちした面持ちのまま、アンリに付き添われサロンを後にした。
意気消沈したディアンヌと対照的に、アンリは満足気な笑みを、口元に浮かべていた。
「天使さん」
ディアンヌが自分に対してつけた形容詞を、心の中で復唱する。
天使だなんて、今の自分には一番似つかわしくない存在なのに。彼女は、仮面の下のこの顔を見ても、やはり天使と呼ぶのだろうか。
仮面の下の悪魔のような顔、人を殺めた過去を持つ、罪人の顔。天使なんかに、なれるわけない。
それを知られたときの眼が怖いから、誰とも近づけないのだ。蝶よ花よと言い寄ってきても、本当の姿を見た途端、誰もが別人に豹変する。
彼は思う。そもそも、本当の姿というものは、一体どんな姿なのだろう。この体ごと、髪の毛一本まで、紛れもなく本当の自分のはずなのに。
「・・・来る?・・・・」
「なんだね?何か言ったか?」
アンリは手を止め、訊き返した。
その夜、久しぶりにアンリが訪問していた。
「バルドー夫人は、また来ます?」
「さぁ、保証は出来ないが、たぶん来るだろうね。彼女は諦めない性格だから」
それだけ言うと、止めた手を更に進めた。
「どこか、遠くへ行きたい」
誰に言うでもない口調で、エリックは呟いた。「海の見えるところ」
「そのうちに連れていこう」
ポーカーフェイスを崩さない天使の吐息が乱れてくるのを聞きながら、アンリは低い声でそう言った。
それから、週に一度のペースを崩さず、バルドー夫人は屋敷を訪れた。表向きの名目は、親戚のアンリへの訪問だったが、彼女の真の目的は、人見知りの激しい天使を気に入ってしまったためのようだった。
幾度めかになると、エリックも彼女の存在に慣れ、露骨に嫌がる態度は治まったが、それでも親しいという関係とはほど遠かった。
屋敷のサロンで、エリックの奏でる調べを聴きながら、アンリとその従妹は語らいながら午後のお茶を楽しみ、陽が落ちる頃に迎えの馬車が来て、彼女はパリの自宅に帰る。
単調な時間が、エリックの日課に加わる。
「私は、アンリからダンスを教わったのよ。あなたはパリ社交界でも有名なダンスの名手だったもの。ご婦人方の羨望の的だったのよ、私」
ある日の午後、ディアンヌは意外な話題を提供した。こういう類の話は、エリックには知りようがない。二人だけの昔話は、エリックにとってはアンリの過去を垣間見る、興味深い時間になっていた。
「君はとても上達が早かったよ。血筋かもしれないが」
「最近はたまに舞踏会で見かけても、踊っているところを見たことがないわ。もう踊らないの?」
「昔ほど若くはないのでね。舞踏会でも踊っているより、もっぱら商談や政治の話で終わっているよ」
と、アンリは苦笑した。
「ここで踊ったら?メヌエットならバイオリンで弾けるし」
今まで壁の花として聞き役に徹していたエリックが突然言いだし、二人を驚かせた。
「まぁ、本当?」
最初に反応したのはディアンヌだった。嬉しそうに目を輝かせて、少女のように喜んでみせた。
「そんな顔をされては断れないね。では、お姫様、久しぶりに一曲踊りましょうか」
アンリは立ち上がると、優雅な仕草で手をさしのべた。その手をそっと取るディアンヌ。二人の様子を見ていると、まるで絵のように美しい。
エリックはサロンに置かれた楽器の中からバイオリンをとり、美しい旋律を響かせた。
磨き抜かれた床を二羽の白鳥がすべるように、二人は踊る。背をぴんと伸ばしたアンリの颯爽とした姿は、バイオリンを弾きながらでも見てとれる。
ディアンヌがダンスの名手といったのは、あながちお世辞ではないようだった。
プロバンズの見せ物小屋にいたころ、楽器や歌と同じようにダンスも教え込まれたので、ワルツやメヌエットは踊れないまでも、それが上手いか下手かくらいは見分けることが出来た。
そういえば、彼はダンスは教えなかったな。 そんな疑問がふと湧いた。しかし、自分が舞踏会で踊る機会なんてあり得ない。ダンスを覚える必要などなかったことを思いだし、疑問はすぐに打ち消された。
「やはり、しばらく踊らないと疲れるな」
短いメヌエットが終わり、息を切らせながら二人はソファに戻った。
「ピアノだけじゃなく、バイオリンも弾くのね。あなたは音楽の天才だわ、エリック」
ディアンヌが労をねぎらうように、エリックにそう告げた。
どこから見ても、似合いの二人のようだった。アンリはどこかしら冷たい雰囲気があるが、傍らのディアンヌが春の日だまりのように明るく屈託がないので、感化されているのか、怜悧な印象が薄らいでいる。
アンリは夫人を亡くしているので独身だが、ディアンヌはバルドー夫人である。どちらも独身であったなら、たいそう似合いの夫婦になるだろうなと、エリックは眺めていた。
陽が傾きかけると、いつものように迎えの馬車で、彼女は帰っていった。
アンリと踊れたことがよほど嬉しかったのか、何度もエリックに礼を言っていた。
「彼女は、あなたに恋をしていたのかな」
玄関までディアンヌを送りに行き、戻ったアンリにそう尋ねた。
「ディアンヌがまだ少女の頃なら、そういう気持ちになったことがあるかもしれないが、大人になると、それは幻だと気づくものさ」
「バルドー伯爵は、ここに来ることを承知しているのでしょうか。いくら従妹といっても、あなたは男性だし、独身でしょう」
「このご時世になっても貴族の習慣なんて、そうは変わらないものだ。夫婦といえども家柄と財力で決められた結婚だからね。必ずしもお互いがお互いに興味があるわけじゃない」
「お気の毒に。あなたは、亡くなられた奥方を愛していたのですか?」
エリックの問いかけに、アンリは沈黙した。
「すみません。立ち入ったことを」
「いや。君が私のことを尋ねるのは初めてだから、少し驚いただけだ」
言葉を引っ込めたエリックを遮るように、アンリは答えた。
「妻とは家同士の決めた結婚だったが、私たちはうまくいっていたよ。子供に恵まれなかったことと、彼女が事故に遭ったことを除けばね」
淡々と語られるだけに、言葉の内容がより深く哀しさを増した。
「どちらにしろ、もう過去のことだ。いま、ここにいる君が私のことに興味を持ってくれたことを、ディアンヌに感謝しよう」
ずっと昔。ディアンヌは年の離れた美しい従兄に淡い恋心を抱いていたのだろう。しかし、彼女の初恋は従兄の結婚という結末で、叶わないものと終わった。
アンリはどうだったのだろう。愛らしい小さな貴婦人に、特別な想いはなかったのだろうか。
アンリはほとんど感情を表情に出すことがない。怒り狂う姿はもちろんのこと、笑い転げる姿も見たことがない。ベッドの中ですら、彼は決して乱れない。愛しているのか、ただの気まぐれなのか、それすらも判らない。
亡くなった妻という女性は、無表情を装った彼の真の姿を知っていたのだろうか。
アンリの妻だった女性。この屋敷の女主人、ロシュフォール公爵夫人。なぜか、一枚の肖像画すらない。
突然の事故であまりにも早く亡くなり、嘆き悲しむあまり屋敷の肖像画の全てを取り外したと、エリックに物理を教えた教師が言っていた。
屋敷には、かつて住んでいた女主人の痕跡はどこにもない。だから、気にしたこともなかった。もともと、存在していなかったような気にすらさせる。
けれど、今夜は少しばかり違った。
自分の口から話題を出してしまったためか、既に居ない女性のことが、いつまでもエリックの思考を占めた。
ここしばらく、ディアンヌが尋ねてきた日の夜は、必ずアンリが部屋の扉を叩く。
いつもはなんの考えもなく、無意識に彼を受け入れるだけだったが、今夜はいつもと勝手が違っていた。
意識を覆う二人の女性の存在。
それはまるで、二人の女性の視線を浴びながら抱かれているような、妙な気分だった。
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