Peaceful Days -13
軽いノックのあと返事を待たずに保健室の扉をあけると、暇そうにしていた校医が驚いたような顔をして、慌てて手を泳がせた。右手の爪楊枝に刺さったタコヤキは、誰かの差し入れだろうか。残念ながら、口に入れる前に皿へと戻される事になったようだ。
「どうしたんだい?」
ペットボトルのお茶で口直ししながらの質問だ。
「ちょっと……、月乃君が転んだみたいで」
勝也が嘘にならない、当たり障りの無い説明をしてくれる。
「あらら、そりゃ大変だ」
そこに腰掛けて、と言うように丸椅子が指差される。勝也に背中を押されるまま、京は腰を下ろした。
「すりむいた? どこか痛いところはないかなー?」
カチャカチャと何かを用意しながら、質問される。なんとなく小学の低学年や幼稚園のような、幼い子供に対する言葉のように感じるのは、気のせいだろうか。
恥ずかしくなり俯くと、掌の皮が少し剥けているのが見えた。
「多分、手と膝をすりむいたのと、ちょっと唇が切れちゃったみたいです」
「え……?」
代わりに答えてくれた勝也の声に、そうなのか……と首をかしげてしまう。すると、気付いていないのか? と少し驚いた顔をされた。
「どれどれ、……うわホントだ」
京の顔を正面からまじまじと見た校医が驚いている。
「なんてことだ。そこらの女の子よりも数倍可愛い顔が……」
なんか変な事言われているな、と思いながらも黙っていると、消毒薬の沁み込んだ脱脂綿を口角にポンポンと押し当てられた。
「沁みるよなぁ、結構痛いかもしれないけど、しばらく我慢な」
「……いえ、特に痛くは……」
そう返事をすると、校医は不思議そうな顔をした。
「痛くないこた無いだろう。冷やしておかないと腫れちゃうよ? ……というか、何だこれ、テープの跡じゃないのか?」
さっと触れるように京の頬を撫でて確認すると、汚れているらしい場所を、手際よくアルコールで拭いてくれる。
「なーんか、変なことに巻き込まれたか?」
心配気な声が問いかける。京が黙っていると、勝也が代わりに答えてくれた。
「僕達もなんだかよく解らなくて。でも、…………丁度佐々木先生が間に入ってくださったので、詳しくご存知かと」
「佐々木先生って、あの英語の?」
「はい」
校医は、短く考える様子を見せたが、「ふーん、そうか……解った」とだけ言い、そのまま傷口の治療を続けてくれた。
これ以上多くを聞かないのは、立場上のものだろうか。
自分でも解っていない事態を、深く追求されずに済んで、京は内心胸をなでおろした。
京の怪我は、転んで出来た擦り傷と、唇が少し切れた程度で済んだ。ぶつけた肩は黙っていたので看てもらっていない。特に何事もなく動かせているので、半分忘れていたのが正しいのだが。
治療を終え、勝也と二人、ようやく音楽準備室に辿り着いて、ほっと一息つく。
「大丈夫か?」
覗きこまれるように見つめられ、コクンと一つ頷いた。
「気分は?」
「平気」
ミネラルウォーターを手渡されながら、本当か? と目で強く問われる。
もう一度頷きながら、京は自らの意志で微笑を作った。そこで一つの事に気付く。
少し前の自分ならば、こんな事態に巻き込まれたら、しばらく立ち上がれないほどのダメージを受け、意志を伝えるための笑みなど作れずていたはずだと。
そう、これはきっと……。
「勝也のお陰だ」
支えてくれる友人に出会え、周りに怯える事はないのだと教えられ、京も少しは成長出来たということなのかもしれない。
「ありがと……」
勝也がどう受け止めたかは解らないが、男らしい顔に優しい表情を浮かべ、いつものように京の頭をぽんぽんと撫でてくれる。
「京、本当に無理はするなよ。……今から送っていくから、帰りの用意を」
「ううん」
本当に大丈夫だと、京は首をふった。
「でも」
「だって、今日が本番だし」
そうだけど、と勝也が心配そうな顔をして、切れた唇を指差す。
「目立つ?」
隠すように、保険医から貰った冷却材を口元に当てる。
「……ちょっとな」
「ふーん……」
顔に傷でも残れば、こんな子供みたいな身体でも、少しは「可愛い」とか「女の子みたいだ」とか言われないで済むだろうか。ついそんな事を考えてしまう。
「変なこと考えるなよ?」
すかさず勝也に言われて、京はふいと横をむいた。
「あ、そうだ……リハ……」
不意に、すっかり忘れてしまっていた本来の目的を思い出し、うろたえる。すると、仕方ないよと勝也は肩を竦めた。
「一緒に謝ろ」
「う……ん……」
妙な事に関わらせてしまったと、申し訳なくなり俯くと、大きな手が京の髪をサラサラと撫でる。
「あのなー、無理な時は無理なの。本当の不可抗力って、誰も責められない事を言うんだよ? だから心配しなくていい。それに……」
勝也が続きを言いかけたとき、準備室のドアが開いた。リハーサルを終えたバンドのメンバーが戻ってきたのだ。
「お、二人ともどうしたの」
「サボったなー? 一年のくせにーナマイキだぁよ」
「ボーカルもキーボードも無い状態でのリハなんて締まり無いったら」
「こりゃジュース一杯じゃすまないな」
ごめんなさい、と京が立ち上がろうとした時だった。
「……って、あれ?」
「うわ、どうしたのその顔!」
がばっと三年の一人が京の顔を間近に引き寄せた。
「ぐわーーー、痛そう」
「誰だ! 俺らの大事な月乃くんにこんな事したやつは!」
「え…と……」
良く解らない言葉の連発に戸惑ったが、なんだか心配してくれているのは伝わってくる。
「先輩先輩落ち着いて」
勝也が宥めに入るが、リハを終えて丁度テンションが上がっている所に、プラスして驚いてしまった上級生たちを、一言で抑えるのは難しいようだ。
「勝也、お前ついていなかったのかよ」
フルタイム付き添う事が難しいとは解っているはずなのだが、つい、と言ったように口調に非難が混ざる。
「まって!」
慌てて違うと叫んだ。すると一斉に全員の視線が京に集まり、その勢いに押されたように軽くよろけてしまう。すかさず伸ばされた勝也の腕に助けられて、少し恥ずかしかった。
「いや、えと……よく解らない……けど」
ぽつぽつと、言葉少なに自分の身の上に起きた不可解な出来事を説明する。話が終る頃には、困ったような顔がそれぞれを見返していた。
「ということは……」
「結果的に、勝也に……、助けてもらったってことか」
「で、……この程度で済んだと」
ふぅ、と溜め息が一つ二つと上がる。
「……大丈夫なの? それ」
心配そうに二年の先輩が、顔にある傷を確かめるように聞いてくる。
はい。と誤解のないように頷いた。
「……それより、あの、リハーサル出れなくて……すみませんでした」
「いや、”それより”ってことはないよ。怪我しちゃったんだし。無事……ってことはないけど、大した事にならなくて本当によかった」
「うん、そっちのほうが大事。リハは気にしなくていいよ」
次々に貰う優しい言葉。『大丈夫だっただろう?』と勝也に視線を貰い、その通りだったと安堵する。
「あの……。……ありがとうございます」
京は迷惑をかけたお詫びをこめて、一つ頭を下げた。
「大丈夫そうだな」
「うん。……折角練習したんだし」
本番に成果が出せなければ意味はない、と京は前を見る。
「そうだな」
「うん」
観客席は満員だ。最初から立ち見のみ。既に前のバンドのノリをそのままに、会場は大いに盛り上がっている。
「いこか」
「よし」
「うぃー!」
ポン、ポン……と次々に京の頭を優しい手が撫でてゆく。
何がそんなに嬉しいのか、上級生たちがステージに上がる前から盛り上がっている。
「俺たちも行こう」
勝也に背中を押され、エスコートされるままキーボードの位置についた。
センターに立った勝也が逆光に浮かび上がり、耳が壊れそうなほどの歓声の中、ドラムのカウントが届く。
一気に盛り上がる会場を一手に引き込み、勝也はこれほどはないというタイミングでファーストインパクトを響かせた。
BACK | NEXT
|