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Peaceful Days -9

Peaceful Days -9

 前日起きたテレビ局の騒ぎは、小園たちが教頭に呼ばれ、注意を受けた程度で終った。主役になるはずだった京が無関係な事は明らかで、しかも早々に現場から居なくなった事から、大きな問題にはならなかった為だ。
 ただ、次の日登校してきた、京の憔悴した様子に周囲は驚いた。元々京には、なんとなく近寄り難い雰囲気があるので、更に堅固になった人を寄せ付けないオーラを突き崩すような者はあまり居ない。遠巻きに見守るのが精々だ。
 それ以外は特に問題もなく、それぞれが普通に授業をこなし、時間が過ぎてゆく。見た目には、普段と何ら変わらない一日だった。
 だが、こんな時に限って、英語の佐々木が初めて京を指名した。これはどうみても、前日の騒ぎを快く思っていない証拠で、悪意と故意の入り混じったものとしか思えない。
 何故なら、京を名指ししたあと与えられた課題は、授業開始恒例のリーディングではなく、教科書や授業にも関係のない、会話文の作成だったからだ。
「Stand up! Mr. TSUKINO. Are you ready?」
 突然の展開に京は戸惑った。
 佐々木の質問に英語で答える事は、恐らく問題なく可能でだろうが、それ以前に、この教師が一体何をしたいのか解らない。
「Cannot you do?」
 ニヤリと笑う、痩せて筋張った顔。
「Answer!」
「... I want to ask it oppositely. What on earth do you want to do?」
 教室内が静まり返る。それは決して佐々木の甲高く得意気な声に対しての反応ではなかった。
「You only have to ask it in English. I also answer in English. O.K.?」
 クラス中が驚いた顔をしていたが、大半の生徒は京が何を言ったか聞き取れなかっただろう。何より、あの京が反論したという事と、日本語よりもすんなりと出てきた、流暢な英語に驚いている様子だ。
 同じく反論されると思っていなかった佐々木が絶句する姿を、勝也だけがそれとわからぬ表情で、面白そうに眺めていた。
 京の英語は、決して変ななまりもスラングも無く、いかにも真っ当な発音だった。
 当然それが気に入らなかった佐々木は、顔を真っ赤にして身体を震わせる。それは表情の変わらない京と、非常に対照的だった。
 恐らく佐々木は気がついた筈だ。この形で京をやりこめる事など出来ないということに。
「ほ、ほっ……本日の授業はこれで終ります!」
 いきなり上ずり声で叫ぶと、苛立った様子で消えていった。
 やはり何がしたかったのか、京には解らないままだ。時計を見ると、まだ授業終了まで三十分以上もある。面子を潰されたつもりなのだろうが、誰が見ても自業自得で大人気ないにも程がある。
 クラス中がそれを唖然と見送り、しばらく無言になったが、その後当然のように自習になった時間を喜び、こっそりガッツポーズ付きの歓声をあげた。
「大丈夫か?」
 勝也に声をかけられ、京はぎこちなく頷く。自分の質問がこの事態を招いた事に、戸惑っていたせいだ。
「まぁ、当然の質問っていうか、反論だからな。京は悪く無いよ」
 そんな事は無いだろうと、京は困ったように首を振った。佐々木の顔を潰したのは事実なのだから。
「気にするな。お前がネチネチと佐々木にいびられていたの、結構皆知っている事だから。大方京が黙って答えないことでも期待してたんだろ」
 大体二十年以上も前に、数週間”留学”した話を、毎回授業のたびに自慢されてもね……と、勝也が肩を竦める。
 佐々木の話も、場合によっては多少参考になるかもしれないが、あまりにも古い話で、現状に合わない事は京も感じていた。それよりも、留学ともは思えない内容のものを偉そうに話される事も、同じ話を繰り返されるのも飽きたのだと、勝也は言いたいのだろう。
「ホントそうだよ……」
 京の隣の席のクラスメイトがしみじみと呟き、同じような事を、周りの何人もが同意している。
「な?」
 勝也は微笑んでくれたが、どう答えてよいか解らず、京はぎこちなく視線を伏せた。


 最後の授業だった英語の時間を無事終え、自宅まで勝也に送ってもらった京は、そのまま寝間着に着替え、ベッドに横になった。多少の意地もあり、無理して登校してみたものの、流石に疲れは限界に達していた。
 慌てた雪塚が薬などを用意してくれたが、今何か口にしたら全部戻してしまうような気がして、まだ手をつけていない。
「昨日の今日なんだから、無理しないで休めばよかったのに」
 大きな手がぽんぽんと頭を撫でる。
 京が小さくて、丁度良い位置に頭があるからだろうか、勝也は普段からこれをするのが好きなようだ。変わった趣味だと勝也を見つめると、お? という表情になり、彼は手を動かすのをやめた。
「あ、もしかして、コレ嫌か?」
 珍しく恐る恐る確かめるように問われて、別に嫌じゃないと答えた。あまり他人に触れられるのは好きではないが、勝也なら平気だった。
「京の背が伸びたら、出来なくなるかなー」
 許しを貰って安心したのか、再び頭を撫でながらも、惜しそうに呟く声が聞こえる。勝也のウェーブがかった茶色の髪とは違う、京の癖のない真っ直ぐな髪の感触が、どうもお気に入りのようだ。
「……Why?」
「お? してもいいの?」
 肯定の意味で頷く。
「そうか」
 素直に伝えると、そうかそうかと男らしい顔が嬉しそうに笑う。
 この笑顔をずっと見ていたい。いつまで彼は自分と一緒に居てくれるだろうか。
 京はそんな事を考えながら、無意識に、今まで誰にも言った事の無い言葉を口にしていた。
「growth …………」
 途中、英語で話していた事に、今更気付いた京が、少し気まずそうにする。
「気にして無いよ。……なに?」
 そっちのほうが楽なんだろう? と勝也は笑ってくれる。静かに先を促されて、京の心の奥が少し綻んだ。
「I might not grow up any longer.」
「なんで?」
「Did you see my …… scar?」
「……」
 京は急に無言になった勝也をじっと見つめた。どうみても答えはYESだった。
 何を言おうとしているのだろうか。京の頭の中で、止めろという声がする。
 だが、決して投げやりではない、吐き出してしまいたいような感情が、京の中に生まれているのも確かだった。
 一つ息を吐く。告白には、それなりの胆力が必要だった。
「Accident……」
 少し肩を竦めた後、京はゆっくりと、確かめるように日本語で話しはじめた。
「…………事故……で。結構大変だった……みたい」
 他人事のようなのは、その時のことを、あまり詳しく覚えてないからだと付け加える。
「……この傷が出来た時、他にも頭とか背中とか、色々……やったみたいで、前後の記憶が、かなりあやふや…なんだ」
 勝也の瞳は真っ直ぐに京へと向けられている。
「医者には、将来的に何か…問題が残る、かも……しれないって言われている」
 変わりなく髪に触れる手の、暖かい感触とリズムが、不安の吐露を優しく促してくれるようだった。
「俺、小さいだろ?」
 ゆっくりと息を吐きながら、京は視界を遮るように、自分の手の甲を眉間に乗せた。
「事故から、まったく成長していないんだ。……もしかしたらドクターが言っていたのはこれかな……って、最近…思ってる……」
 探すまでも無く、京よりも小さな生徒は学校に居ない。
 薄い肉の小さな身体。あっけなく折れてしまいそうな細い骨。本当の歳に見られた事は、ここ数年一度も無い。これから何年、何十年も、こんな非力で病弱な子供の姿だったら。そう思うと絶望に近い不安に襲われる。自分だけの問題ではない。普通に成長できない、ひ弱な息子を持った家族が、将来どれだけの負担を強いられるか、想像するだけで申し訳なく、そして怖かった。
 だからこそ、京は己の付加価値を求めて、早く大人として認められたかった。スキップという制度を薦められるがまま利用したのは、年齢で求められている以上に、対外的評価を高めるのに非常にアピールしやすく、且つ有効に利用できるものだったからだ。
 障害の可能性については、医者と家族以外知らない事だ。これこそ誰にも言うつもりは無かったのに、どうして勝也に話してしまっているのだろう。京は自分で自分の気持ちを把握できなくて、それだけに止める術もなかった。
「京」
 目の前の友人の怖いくらい真面目な顔に、京ははっと我に返った。
「ご、ごめん」
 咄嗟に身体を起こすと、情けなくも酷い眩暈に襲われた。何かに縋る前に、強い腕に支えられる。
「……ごめん」
 迷惑をかけてばかりの自分を恥じ、京はどうしようもなくなって俯いた。
「違う……ごめん。同情してくれとか、何かして欲しいとか、そういうんじゃないから。……本当にごめん……」
 それは本心だった。なんとなく、ただなんとなく流されるまま、言ってしまったのだ。精神的な負荷のために、弱気になっていたせいもあるだろう。だからといって、何を言っても許されるものではない。
 勝也の包容力に甘え、とんでもないことを告白してしまったと、重い後悔が今になって押し寄せてくる。
 どう詫びれば良いのか、咄嗟に出てこない。このまま呆れられ、勝也は京から離れていくかもしれない。そうなってしまったら、どうすればいいのだろう。
――寂しい。
 あの事故以来初めて、身の内に染み出るように現れた感情は、京の心に濡れたような感触を与えた。
 謝罪を込めて、勝也の顔をみつめる。
「ごめん。俺から始めた話なのに、こんなのずるいって解っているけど。今の……忘れ……」
「忘れない」
 遮るようにきっぱりと言い切られ、京は困惑した。
「京のことが解って嬉しいよ。だから忘れない」
「勝也」
「それにこれ、あんまり他の人に話したこと無いよな……?」
 京はブランケットをぎゅっと握り、一つ頷いた。
「……勝也が…初めて」
「うん、だったら尚更嬉しい。京に信頼してもらえたんだなーっていうか、一歩近づけたって感じ」
 今までと変わりのない、暖かな表情が微笑んでくれる。髪を撫でる手も、まったく変わらずに優しくて、京は初めて覚える感情に戸惑いながら、目の前の友人を見つめた。
「……でもさ」
 低く穏やかな声は続く。
「でも……?」
「まだ解らないだろう? ……俺は父親も兄貴たちも背が高くて、たぶん遺伝子でこんな背丈になってるんだろうけど、周りには二次成長期はまだまだこれからって奴は沢山いる。気休めを言うつもりは無いよ。でも京がこのままって事は、まだ確定じゃない。それに京は京だし」
 何があっても、自分は変わらないから大丈夫。そう勝也に力強く微笑まれる。
「京がこうやって話してくれなきゃ、知らない事は沢山あるよ。でも、一緒に居れば、少しずつ解ってくる事だってある」
「……解って?」
「そう」
 それは京が勝也の事を、言葉ではなく知ってゆく事と同じようなものだろうか。
 ハイスペックマシンを前にすると、普段からは想像も出来ないくらい、歳相応にはしゃぐ姿や、京の部屋が意外に気に入っていて、いつも入ってくるなりゴロゴロしてしまう事。雪塚が京の母親じゃないと解った時の、ちょっと恥ずかしそうなばつの悪い表情。時折現れては消える、寂しさや苦しさを隠し切れない横顔。誰も居ない場所を、見つめている、あの厳しく近寄り難い瞳。
 それらは全て、京が知る勝也という人物を構成する大切なディテールだ。
 茶色の瞳が京を見つめ、切れ長の瞼の奥で微笑む。
「コンピューターにやたら詳しいことも、海やあの空き地みたいな、静かな場所が好きなことも俺は知ってる。脂っこい食べ物と甘いもの、誰かと競ったり目立ったりするのが苦手で、でも責任感が強くて、具合が悪くても気付かれないように頑張っている。意外にすごーく頑固なことも、……雨の日が苦手な事も、ちゃんと俺は解っているよ」
 同じような事を考えていた勝也に驚いた。そして、頷いてくれる力強い瞳が、闇の中に蹲って動けずにいる京を、ちゃんと見ていてくれていたことに。
「勝也……」
 この感情の名は、なんと言っただろうか。
「あと……なにがあるかな。全部言うから待ってろよ」
 うーんと、と唸りながら、思い出そうとしている勝也が優しくて、そして可笑しい。
 解ったからもういいと、そう伝えようとすると、突然、真剣な目が京を捉えた。
「な…に……?」
「何故泣かない?」
 心臓が一つ脈打ち、鈍く痛んだ。
「最初は我慢強いんだと思っていたんだけど、違うな?」
 どこまで、自分を見ているのだろうと、京は目の前の友人の顔をみつめた。
「言いたくない事なら答えなくて良いよ。無理に聞くつもりは無いから」
「……いや、そうじゃ……ない」
 上手く説明が出来なくて、視線を伏せた。
「泣け…ない……んだ」
 正確には、海の中でしか泣けない。しかも水の中での事だ。本当に泣いている事に当たるかすら定かではない。ただ、あの溢れるような感情に何か名前をつけるとしたら、泣いている行為という事になるだけだ。
「そうか」
 あまり上手く笑えないことも同じなのだと、もう勝也には解ったのだろう。
 京自身、情緒や感情が、ほとんど表に出ていない自覚はある。表情も乏しく、いつも同じような顔をしているだろう。
 小園達のように、何にでも興味を持ち、明るく過ごせたらどんなに良いだろうとは思う。けれど気が付けば、京はいつもポツンと一人で立っている。周囲にどんなに人が居ようとも。
 簡単に解りやすく言えば、積極性が無いのだ。常に受身でありながら、どこにも馴染まない。ただひっそりと息をひそめ、誰の迷惑にもならないようになりたいという願いがあるだけで、それ以上もそれ以下も無い。
 その方面で変わりたいと思う気持ちがあれば、変化もあるのだろうが、目立たず、息を殺すように生きる事だけを望む京には、現状さえも苦しい時がある。
 なにもかもが未熟なのだ。
 不意に伸びてきた手が、京の頬をムニと掴んだ。
「ぅ? ぁに……?」
 突然のことに驚く。
「うはー、やっぱすげーやわけー」 
 楽しそうに、京の両頬をうにうにと引っ張る勝也。
 何をするんだと、されるがままで情けなく眉を下げると、ごめんごめんと摩られた。
「まぁ、京を独占できる権利は、しばらく俺のもんだな。役得役得」
 精悍な顔がニヤリと笑う。
「なんだよそれ」
 突然の変化に、京も可笑しくて笑った。
「そういう顔してればいい」
 大きな手で、髪をくしゃくしゃと撫でられる。
 それが彼の優しさと解って、素直に嬉しいと思えた。
「なんか、……勝也には慰めてもらったり、助けてもらったりばかりだ」
 ありのままを見てくれ、弱っている時に欲しい言葉をくれる、かけがえの無い友人。出会えた事を大切にしたい。それは自分に縁の無いものだと思っていたから。
 得がたいものを得られる幸福に慣れていない京は、他人から無償で与えられる優しさにも不慣れで、僅かに疼くような不安が生まれる。
「なぁ、京? 俺だって、京にずいぶんと助けられてるんだよ」
 だからそんな顔をするなと、勝也が言う。
「……?」
 迷惑をかける事はあっても、役に立っているとはとても思えない京は、どこがだろうと首を傾げてしまう。
「京と一緒にいると、本当の自分でいられる」
 ふと過ぎる、あの寂しい影。
 一瞬で幻のように消えてしまうそれは、勝也の中に隠された心。
「……京の空気、好きだよ。すごく居心地がいい」
 本当にリラックスした笑顔を向けられる。
「そんな事言うの、……勝也くらいだ」
「いや、あの猫だって、きっとそう思ってるよ」
 あの猫とは、空き地のトラ猫のことだろうか。勝也は会った事が無いと思っていたのに、知っているとは流石だと、妙な所で感心してしまう。 「あのノラ猫、誰にも懐かないんで有名だったんだ。空き地はヤツの縄張りっていうかお気に入りの場所で、入ってくるやつはみんな、あのボス野良に痛い目に遭っている」
「え……?」
 信じられない。優しくじゃれるように甘えられた事はあっても、そんなに気性の激しい部分を見た事が無い。
「ホントホント。だからあの空き地、誰も行かないだろう?」
「あ……」
「京だけが特別」
 優しく微笑まれ、京の頭を大きく優しい手がぽんぽんと撫でる。
 ここに居ても良いのだと、教えてくれる暖かい手。
 複雑に入り混じる、慣れない感情に戸惑いながらも、何度も凍え縮こまってしまった京の心の奥にある何かが、またゆっくりと変化してゆくのを感じていた。

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