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前日起きたテレビ局の騒ぎは、小園たちが教頭に呼ばれ、注意を受けた程度で終った。主役になるはずだった京が無関係な事は明らかで、しかも早々に現場から居なくなった事から、大きな問題にはならなかった為だ。 ![]() 最後の授業だった英語の時間を無事終え、自宅まで勝也に送ってもらった京は、そのまま寝間着に着替え、ベッドに横になった。多少の意地もあり、無理して登校してみたものの、流石に疲れは限界に達していた。 慌てた雪塚が薬などを用意してくれたが、今何か口にしたら全部戻してしまうような気がして、まだ手をつけていない。 「昨日の今日なんだから、無理しないで休めばよかったのに」 大きな手がぽんぽんと頭を撫でる。 京が小さくて、丁度良い位置に頭があるからだろうか、勝也は普段からこれをするのが好きなようだ。変わった趣味だと勝也を見つめると、お? という表情になり、彼は手を動かすのをやめた。 「あ、もしかして、コレ嫌か?」 珍しく恐る恐る確かめるように問われて、別に嫌じゃないと答えた。あまり他人に触れられるのは好きではないが、勝也なら平気だった。 「京の背が伸びたら、出来なくなるかなー」 許しを貰って安心したのか、再び頭を撫でながらも、惜しそうに呟く声が聞こえる。勝也のウェーブがかった茶色の髪とは違う、京の癖のない真っ直ぐな髪の感触が、どうもお気に入りのようだ。 「……Why?」 「お? してもいいの?」 肯定の意味で頷く。 「そうか」 素直に伝えると、そうかそうかと男らしい顔が嬉しそうに笑う。 この笑顔をずっと見ていたい。いつまで彼は自分と一緒に居てくれるだろうか。 京はそんな事を考えながら、無意識に、今まで誰にも言った事の無い言葉を口にしていた。 「growth …………」 途中、英語で話していた事に、今更気付いた京が、少し気まずそうにする。 「気にして無いよ。……なに?」 そっちのほうが楽なんだろう? と勝也は笑ってくれる。静かに先を促されて、京の心の奥が少し綻んだ。 「I might not grow up any longer.」 「なんで?」 「Did you see my …… scar?」 「……」 京は急に無言になった勝也をじっと見つめた。どうみても答えはYESだった。 何を言おうとしているのだろうか。京の頭の中で、止めろという声がする。 だが、決して投げやりではない、吐き出してしまいたいような感情が、京の中に生まれているのも確かだった。 一つ息を吐く。告白には、それなりの胆力が必要だった。 「Accident……」 少し肩を竦めた後、京はゆっくりと、確かめるように日本語で話しはじめた。 「…………事故……で。結構大変だった……みたい」 他人事のようなのは、その時のことを、あまり詳しく覚えてないからだと付け加える。 「……この傷が出来た時、他にも頭とか背中とか、色々……やったみたいで、前後の記憶が、かなりあやふや…なんだ」 勝也の瞳は真っ直ぐに京へと向けられている。 「医者には、将来的に何か…問題が残る、かも……しれないって言われている」 変わりなく髪に触れる手の、暖かい感触とリズムが、不安の吐露を優しく促してくれるようだった。 「俺、小さいだろ?」 ゆっくりと息を吐きながら、京は視界を遮るように、自分の手の甲を眉間に乗せた。 「事故から、まったく成長していないんだ。……もしかしたらドクターが言っていたのはこれかな……って、最近…思ってる……」 探すまでも無く、京よりも小さな生徒は学校に居ない。 薄い肉の小さな身体。あっけなく折れてしまいそうな細い骨。本当の歳に見られた事は、ここ数年一度も無い。これから何年、何十年も、こんな非力で病弱な子供の姿だったら。そう思うと絶望に近い不安に襲われる。自分だけの問題ではない。普通に成長できない、ひ弱な息子を持った家族が、将来どれだけの負担を強いられるか、想像するだけで申し訳なく、そして怖かった。 だからこそ、京は己の付加価値を求めて、早く大人として認められたかった。スキップという制度を薦められるがまま利用したのは、年齢で求められている以上に、対外的評価を高めるのに非常にアピールしやすく、且つ有効に利用できるものだったからだ。 障害の可能性については、医者と家族以外知らない事だ。これこそ誰にも言うつもりは無かったのに、どうして勝也に話してしまっているのだろう。京は自分で自分の気持ちを把握できなくて、それだけに止める術もなかった。 「京」 目の前の友人の怖いくらい真面目な顔に、京ははっと我に返った。 「ご、ごめん」 咄嗟に身体を起こすと、情けなくも酷い眩暈に襲われた。何かに縋る前に、強い腕に支えられる。 「……ごめん」 迷惑をかけてばかりの自分を恥じ、京はどうしようもなくなって俯いた。 「違う……ごめん。同情してくれとか、何かして欲しいとか、そういうんじゃないから。……本当にごめん……」 それは本心だった。なんとなく、ただなんとなく流されるまま、言ってしまったのだ。精神的な負荷のために、弱気になっていたせいもあるだろう。だからといって、何を言っても許されるものではない。 勝也の包容力に甘え、とんでもないことを告白してしまったと、重い後悔が今になって押し寄せてくる。 どう詫びれば良いのか、咄嗟に出てこない。このまま呆れられ、勝也は京から離れていくかもしれない。そうなってしまったら、どうすればいいのだろう。 ――寂しい。 あの事故以来初めて、身の内に染み出るように現れた感情は、京の心に濡れたような感触を与えた。 謝罪を込めて、勝也の顔をみつめる。 「ごめん。俺から始めた話なのに、こんなのずるいって解っているけど。今の……忘れ……」 「忘れない」 遮るようにきっぱりと言い切られ、京は困惑した。 「京のことが解って嬉しいよ。だから忘れない」 「勝也」 「それにこれ、あんまり他の人に話したこと無いよな……?」 京はブランケットをぎゅっと握り、一つ頷いた。 「……勝也が…初めて」 「うん、だったら尚更嬉しい。京に信頼してもらえたんだなーっていうか、一歩近づけたって感じ」 今までと変わりのない、暖かな表情が微笑んでくれる。髪を撫でる手も、まったく変わらずに優しくて、京は初めて覚える感情に戸惑いながら、目の前の友人を見つめた。 「……でもさ」 低く穏やかな声は続く。 「でも……?」 「まだ解らないだろう? ……俺は父親も兄貴たちも背が高くて、たぶん遺伝子でこんな背丈になってるんだろうけど、周りには二次成長期はまだまだこれからって奴は沢山いる。気休めを言うつもりは無いよ。でも京がこのままって事は、まだ確定じゃない。それに京は京だし」 何があっても、自分は変わらないから大丈夫。そう勝也に力強く微笑まれる。 「京がこうやって話してくれなきゃ、知らない事は沢山あるよ。でも、一緒に居れば、少しずつ解ってくる事だってある」 「……解って?」 「そう」 それは京が勝也の事を、言葉ではなく知ってゆく事と同じようなものだろうか。 ハイスペックマシンを前にすると、普段からは想像も出来ないくらい、歳相応にはしゃぐ姿や、京の部屋が意外に気に入っていて、いつも入ってくるなりゴロゴロしてしまう事。雪塚が京の母親じゃないと解った時の、ちょっと恥ずかしそうなばつの悪い表情。時折現れては消える、寂しさや苦しさを隠し切れない横顔。誰も居ない場所を、見つめている、あの厳しく近寄り難い瞳。 それらは全て、京が知る勝也という人物を構成する大切なディテールだ。 茶色の瞳が京を見つめ、切れ長の瞼の奥で微笑む。 「コンピューターにやたら詳しいことも、海やあの空き地みたいな、静かな場所が好きなことも俺は知ってる。脂っこい食べ物と甘いもの、誰かと競ったり目立ったりするのが苦手で、でも責任感が強くて、具合が悪くても気付かれないように頑張っている。意外にすごーく頑固なことも、……雨の日が苦手な事も、ちゃんと俺は解っているよ」 同じような事を考えていた勝也に驚いた。そして、頷いてくれる力強い瞳が、闇の中に蹲って動けずにいる京を、ちゃんと見ていてくれていたことに。 「勝也……」 この感情の名は、なんと言っただろうか。 「あと……なにがあるかな。全部言うから待ってろよ」 うーんと、と唸りながら、思い出そうとしている勝也が優しくて、そして可笑しい。 解ったからもういいと、そう伝えようとすると、突然、真剣な目が京を捉えた。 「な…に……?」 「何故泣かない?」 心臓が一つ脈打ち、鈍く痛んだ。 「最初は我慢強いんだと思っていたんだけど、違うな?」 どこまで、自分を見ているのだろうと、京は目の前の友人の顔をみつめた。 「言いたくない事なら答えなくて良いよ。無理に聞くつもりは無いから」 「……いや、そうじゃ……ない」 上手く説明が出来なくて、視線を伏せた。 「泣け…ない……んだ」 正確には、海の中でしか泣けない。しかも水の中での事だ。本当に泣いている事に当たるかすら定かではない。ただ、あの溢れるような感情に何か名前をつけるとしたら、泣いている行為という事になるだけだ。 「そうか」 あまり上手く笑えないことも同じなのだと、もう勝也には解ったのだろう。 京自身、情緒や感情が、ほとんど表に出ていない自覚はある。表情も乏しく、いつも同じような顔をしているだろう。 小園達のように、何にでも興味を持ち、明るく過ごせたらどんなに良いだろうとは思う。けれど気が付けば、京はいつもポツンと一人で立っている。周囲にどんなに人が居ようとも。 簡単に解りやすく言えば、積極性が無いのだ。常に受身でありながら、どこにも馴染まない。ただひっそりと息をひそめ、誰の迷惑にもならないようになりたいという願いがあるだけで、それ以上もそれ以下も無い。 その方面で変わりたいと思う気持ちがあれば、変化もあるのだろうが、目立たず、息を殺すように生きる事だけを望む京には、現状さえも苦しい時がある。 なにもかもが未熟なのだ。 不意に伸びてきた手が、京の頬をムニと掴んだ。 「ぅ? ぁに……?」 突然のことに驚く。 「うはー、やっぱすげーやわけー」 楽しそうに、京の両頬をうにうにと引っ張る勝也。 何をするんだと、されるがままで情けなく眉を下げると、ごめんごめんと摩られた。 「まぁ、京を独占できる権利は、しばらく俺のもんだな。役得役得」 精悍な顔がニヤリと笑う。 「なんだよそれ」 突然の変化に、京も可笑しくて笑った。 「そういう顔してればいい」 大きな手で、髪をくしゃくしゃと撫でられる。 それが彼の優しさと解って、素直に嬉しいと思えた。 「なんか、……勝也には慰めてもらったり、助けてもらったりばかりだ」 ありのままを見てくれ、弱っている時に欲しい言葉をくれる、かけがえの無い友人。出会えた事を大切にしたい。それは自分に縁の無いものだと思っていたから。 得がたいものを得られる幸福に慣れていない京は、他人から無償で与えられる優しさにも不慣れで、僅かに疼くような不安が生まれる。 「なぁ、京? 俺だって、京にずいぶんと助けられてるんだよ」 だからそんな顔をするなと、勝也が言う。 「……?」 迷惑をかける事はあっても、役に立っているとはとても思えない京は、どこがだろうと首を傾げてしまう。 「京と一緒にいると、本当の自分でいられる」 ふと過ぎる、あの寂しい影。 一瞬で幻のように消えてしまうそれは、勝也の中に隠された心。 「……京の空気、好きだよ。すごく居心地がいい」 本当にリラックスした笑顔を向けられる。 「そんな事言うの、……勝也くらいだ」 「いや、あの猫だって、きっとそう思ってるよ」 あの猫とは、空き地のトラ猫のことだろうか。勝也は会った事が無いと思っていたのに、知っているとは流石だと、妙な所で感心してしまう。 「あのノラ猫、誰にも懐かないんで有名だったんだ。空き地はヤツの縄張りっていうかお気に入りの場所で、入ってくるやつはみんな、あのボス野良に痛い目に遭っている」 「え……?」 信じられない。優しくじゃれるように甘えられた事はあっても、そんなに気性の激しい部分を見た事が無い。 「ホントホント。だからあの空き地、誰も行かないだろう?」 「あ……」 「京だけが特別」 優しく微笑まれ、京の頭を大きく優しい手がぽんぽんと撫でる。 ここに居ても良いのだと、教えてくれる暖かい手。 複雑に入り混じる、慣れない感情に戸惑いながらも、何度も凍え縮こまってしまった京の心の奥にある何かが、またゆっくりと変化してゆくのを感じていた。 |
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