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Peaceful Days -8

Peaceful Days -8

 単純な熱気はそれなりに耐えられるのだが、日本特有のねっとりと絡みつく濃密な湿度は、京の体調をどうしても崩しがちにしていた。夏風邪の微熱からくる嫌な悪寒は、空気中の湿気と混ざり合い、不快感を増している。
 これでも、今年はマシなほうだと聞いて、溜め息が漏れた。
「お前、もう帰れるか?」
 帰り支度をしていた所に、勝也から声がかかった。
「うん。……勝也は?」
「今日は何にも無い。一緒帰ろう」
 頷こうとしたその時だった。
「月乃、月乃、月乃〜〜〜〜!」
 突然名前を呼ばれ、咄嗟に声のしたほうへ視線が動かした。小園だった。
「……なに?」
「なに? じゃねーよ! すぐ来いよ!」
「すげーよ! すぐ来て!!」
 小園の仲間数人に取り囲まれ、抵抗空しくグイグイと腕を引っ張られ、京はもつれるように脚を進めた。
「ほら!」
 強引に連れてこられたエントランスの外。ビっと指をさされた先に見えたのは、学校の校門で、その向こうには数人の大人たちが立っている。そのうちの一人はテレビカメラを抱えていた。
「……なに……?」
 何かが神経を逆なでし、京の背筋にゾワリと悪寒が走った。
「G.G.だよ! 取材が来たんだよ!」
「……え?」
「月乃がミサキちゃんに似てるって、絶対自信あったから、俺たちテレビ局に写真送ってみたんだ」
「そしたらさ!」
「来ちゃったんだよ!! すっげーーー!」
「……写真って?」
 訳が解らないと京が首をかしげた瞬間、ヤバイという空気が立ち込める。小園達が送ったのは、所謂「隠し撮り」といわれる写真だったのだ。
「ま、深いこと考えるな」
「いこいこ! あっち、待ってるよ!」
「テレビ映れるんだぜ!」
「……っ、……行かない」
 逃げようとすると、何言ってんだよと小園達が京の腕を捕まえる。
「やめろよ。京は嫌がっているだろう?」
 勝也の低い声が頭の上から聞こえ、縋るように京は見上げた。
 やんわりと、しかし有無を言わさない力で、京を捕らえていた腕を放してくれる。
「なんだよ三池!」
 不満そうな小園の声が響く。
「あらあらーーー」
 突然割り込んできた女性の声に、京はビクリと身体を竦ませた。
 どうやら近くまで来て、なかなか自分のところへやってこない小園達に、痺れを切らした局の一団がやってきたらしい。
「こんにちはー。ガールズ・ガーデンの弥栄でーす」
「おおお! テレビで見てる人と一緒だーーー!」
 感無量という感じで小園が叫ぶ。下校時間という事もあって、校門の前には既に、ちょっとした人だかりが出来ていた。それがまるでバリケードのようになり、簡単に逃げられないような圧迫感が出来上がっている。
 弥栄という女性が、なれた調子で周囲に簡単な自己紹介をした後、かなり強引にインタビューのシナリオの説明をはじめた。
 短時間で簡潔に失敗なく終らせたい知恵なのだろうが、これではまるっきり、やっつけ仕事のヤラセである。
 しかし、なんの疑問を覚えず、一番近い所で聞いている小園達は、既に有名人の下僕状態で、なんでもしますと目をきらめかせている状態だ。
 意図せず出来てしまった、野次馬というバリケードに退路を絶たれてしまった京は、唯一の味方だと信じられる、勝也の後ろで身を硬くしている事しか出来ない。
「君が紹介者の小園君ねー。こんにちはーー」
 営業用なのか、媚を売るような独特の声。個性と言ってしまえばそれまでだが、京には耳障りでしかない。
「早速ミサキちゃんソックリの彼を紹介してくれないかな〜〜? 今回は男の子っていうからちょっとビックリなのよね。変な子だったらヤーヨ〜〜〜」
「そんな事ありませんよっ。おい月乃! 月乃っ!!」
 来い来いと呼ばれて、京はイヤだと首を振った。
 左手が無意識に自分のシャツを強く握る。
 背中を滑り落ちたものは、冷たい汗だった。
「京?」  硬く表情を強張らせたまま、青ざめてゆく京の顔色に驚いた勝也は、小園を遮るようにしてくれたが、多勢に無勢に変わりはない。
「……」
 震えて聞き取れない程の小さな声。華奢な左手が、何かから腹部を守るようにシャツに皺を寄せる。
「うわ! ほんと似てるわ。キテキテ。カメラさん来て!」
 覗きこまれるようにされて、京は怯えたように一歩引いた。同時に背中に大量の人の気配を間近に感じ、グラリと眩暈に襲われる。咄嗟に勝也が庇ってくれたが、全身を覆う悪寒は酷くなるばかりだった。
「このミサキちゃんは内気ちゃんですねー。かんわいい〜〜〜。ホントに男の子ぉ〜? って疑っちゃいそうでぇーす」
 カメラのレンズが強引に目の前に来て、京は咄嗟に顔を逸らした。
 あの時と同じだ。
 事故のことを無理矢理聞き出そうとする、嬉々とした表情。作り物めいたわざとらしい同情顔。どうにかして京を泣かせようとする、作為的な問いかけ。逃げ場の無いベッドの上で、容赦なく切られるシャッターの音。
 レポーターの声が、真っ黒な大きなレンズが、押さえつけた感情をかき乱し、消した記憶の中に存在する恐怖を揺り起こそうとする。
「あぁん、照れ屋サンね。ちゃんとこっちみてー」
 記念写真を撮る時のように、こちを見ろと、浮かれた調子でヒラヒラと手を振るスタッフたち。京のご機嫌でも取ろうとしているようだ。
 彼らはテレビに映る事が、万人が喜ぶ最上のステータスであると本気で思っているのだろう。テレビというメディアが、この世で最高だと信じている目立ちたがり屋の正義。社会への抑制力が強い人間が居ることなど、毛頭無いのだ。
「ハーイ質問いき……」
「撮影の許可は学校から取っていますか?」
 低い声が弥栄のインタビューを遮った。
 大きな手が不躾なマイクを引き降ろし、そのままカメラマンの肩を失礼にならない程度にそっと押して、京から離してくれる。
「校内は、部外者侵入禁止のはずです。許可証はありますか?」
 短時間でサクッと収録を終らせてしまえば、あとの事は知らない。そんなとんでもない方法で、何度もロケを強行していたのだろう。ディレクターらしい男が、なんとか調子よく誤魔化そうとニヤニヤと笑って、まぁまぁと手を動かした。
「すぐ終わるから。ね、ね。そんな硬い事言わないで」
「許可証は?」
「だ、だからね。ほら……君も、うわ、マジですんごい良い男だし、是非一緒に……」
「お断りします」
「な、何言ってんだよ三池!」
「折角のテレビなのに、京ももっと喜べよ、折角申し込んでやったのに」
「映るんだぞ? 人気コーナーなんだぞ? もしかしたら有名人に会えるかもしれないのに!」
「関係ない」
 バッサリと切り捨てる勝也。
「あなた方も、問題を起こしたいわけじゃありませんよね? むしろ面倒な事は避けたいはずだ」
 丹精な顔に目を細められ、弥栄が場違いな事も忘れて頬を染めた。今更この背の高い少年が、見蕩れるに充分な美形だと気が付いた顔だった。
「小園。京にこの話は?」
「えと、……それは」
「勝手にしたのか」
「だって」
「話にならない」
 ぞっとするような、冷たく切れるような空気がその場を圧した。
「勝也……」
 細い声が、それを遮る。
「ご…め……」
 真っ青な顔色の京がそれだけを言うと、空気に呑まれて呆然となった人だかりを割って、校舎へと消えていった。
 後を追いかけようとした勝也が、一瞬踏みとどまり振り返る。
 鋭い視線の先には、テレビ局の人間がいた。
「本当に必要ならば、正しい手順を踏んで、出直してきてはいかがでしょう。……『大人』なんですから、意味はお解りですよね?」
 驕った価値観を押し付けるな。そう冷たい目が告げていた。
 一方、一人校舎へ戻った京は、酷い頭痛と嘔吐感に苦しみながら、廊下を懸命に歩いていた。不幸中の幸いとでも言うべきか、この騒ぎで、人気が無い事がありがたい。
 この訳の解らない不安が落ち着くまで、どこかで一人になりたかった。
 貧血のせいで視界が暗くなる。誰かの叫び声が頭の中でガンガンと響いて止まらない。胃の中のものが逆流する感覚に、たまらず近くにあった流しに手を突いた。胃液が気管に入りむせ返る。霞む視界を凝らしながら、なんとか蛇口を捻ると、勢いよく水が流れ出し、周囲に冷たい空気を生み出した。
 僅かに生まれた清涼な気を肺に流し込み、なんとか身体を立て直そうと、京は懸命に己を叱咤する。
「京!」
 勝也の声がした。駆け寄ってくる足音が歪んで耳に響く。
「保健室いくぞ。まだ先生居るはずだ」
 そこじゃ嫌だ。そう思ったが、まるで力が入らず抵抗ができない。もどかしく逃げた手を掴まれ、崩れそうになる膝を助けるように、腰を引き寄せられた。
 暖かい体温が、触れた部分から伝わってくる。広い胸に守られるように包み込まれると、京はそのまま薬の匂いのする部屋へと連れて行かれた。 
 保健室のカギは開いていたが、誰も居なかった。薬棚には施錠してあるので、ここの主である養護教諭は、帰り支度の為に職員室へでも行っているのかもしれない。
「横になれ」
 ふらつく身体がふわりと床から浮いた。心許ない状態に、つい目の前の広い胸へ縋ってしまう。大丈夫と力強い腕に抱えられながら、ベッドに横になると、足元に下がった血液が急速に元の位置へと戻ろうと移動してゆくのが解った。
「何か良い薬があればいいんだけど……。先生いないから呼んでくるよ。もう少し待ってろ」
 一人になる。そう思った瞬間、勝也の袖を掴んでいた。
「なんだ?」
「Stay …… with me……」
 自分で言って、京は驚く。誰かに甘えるような言葉を言ったのは、ものすごく久しぶりのような気がする。言ってしまってから気がつき、酷く動揺した。
「先生呼んでこなくて良いのか?」
 勝也の確認するような言葉を頭の中で反芻する。頭の隅で、大事にしたくないという思いも過ぎり、やはり同じ答えが出たので頷いた。
「I recover when a little lying.」
 ゆっくりと息を吸い込み、静かに吐いてゆく。何度か繰り返すと、だんだんと楽になってゆくのが解る。
 今までも、こうやって一人で苦痛をやり過ごしてきた。何度もあったことだ。どうすれば良いか解っているし、慣れている。
 だから。正直に言えば、本当は誰にも……、勝也にもこんな状態は見られたくなかった。ひっそりとあの空き地に逃げ込めればよかったのに。そうは思うが後の祭りだ。
 自分の弱さは、何も変わっていなかった現実。
「Sorry……」
 いたたまれなくなり目を閉じると、暖かい手が髪を撫でた。
「勝也……」
「ん?」
「Thanks」
「気にするな」
 冷えていた指先に、ほんのりと血が戻ってくる。
 優しい声と微笑みを見ていると、自分の中にある不明瞭な不安や寂しさが、暴かれてゆくようで少し怖い。自分は大丈夫なのだという思いが突き崩されそうだ。
「……Sorry……」
 ただ、謝る事しか出来なかった。


 浅い眠りの中で、同じような悪夢を繰り返し見続ける。
 それは、目の前の動かぬ友人の光を失った目であり、自分に向けられる罵声や、絶え間なく続く泣き声と悲鳴だった。
 恨めしげな瞳に見つめられながら、ただ耐える痛み。
 何故お前が生きているのかと、責められる。
 生き残ったのだから、死者の苦しみを忘れる事は許さない。そう嘲笑うように、何度も何度も悪夢は繰り返される。
 酷い痛みだった。他人のような右腕はあらぬ方を向いて、雨垂れが弾く地面の泥を被っている。完全に座席に潰された両脚が身動きを封じ、腹部には何かがとどめの様に突き刺さっているのが見えた。雨の中、視界が真っ赤に染まってゆく。
 動けない。動こうとしても動けない。
 朦朧としているのに、凍えるような寒さと、生暖かい血が流れる感触だけは感じていた。それが生きている証なら、なんと残酷なのだろう。  澱んだ孔のような目。
 自分を見下ろす黒い影は、耳元に恨みの言葉を重ねた。
――あぁ、まただ。
 成す術もなく、視界が塞がれる。
 息苦しいまま、次第に遠くなる意識。
『まだ生きているなんて……許さないわ』
 ヒュッと息が肺に入り込んだ。
 咄嗟に噎せ返り、咳を堪えるように、ベッドの中で身を屈める。
 喉と胸を探る様に押さえ、まだ身体に残るリアルな手の感触が、夢のものだと必死で確かめた。
「………………っ」
 まだ暗い室内。ここが病室ではなく、自分の部屋だと気付いたが、それでも落ち着かず、周囲を何度も見渡した。
 鼓膜を震わせる、強い心臓の音を宥める事だけに集中する。
 そうでもしなければ、恐怖の闇に捕らわれてしまうからだ。
 目を瞑ると、澱んだ黒い目が自分を見ている。
 知っている。幼馴染の母親だ。
 彼女は深夜、毎晩のように現れ、そして京の耳元に延々と呪いの言葉を浴びせ続けた。
 始めは薬による幻覚かと思っていた。だが、ある晩その母親は、京の顔の上に枕を押し付けた。
 呪いと恐怖が、現実と繋がった瞬間だった。
 言葉だけでは飽き足らなくなったのだろうか。それとも徐々に回復してゆく京を、本気で恨んだのかもしれない。
 身動きできない包帯だらけの身体が徐々に力を失い、ぐったりとした目の前の子供に満足したのか、それともようやく死んだと思ったのか。……それは本人しか解らない。
 次の日。見舞いと称して京の死を確かめにやってきた女は、手にかけた少年がまだ生きている事を知り、激昂狂乱した。
――な…んで……。
 何故この闇から、抜け出せないのだろう。
 唯一とも思える友人と出会い、変われると淡い期待を抱いた自分は、どこまで甘かったのだろうか。
 何も変わってない現実を突きつけられる。
 夜明けの遠い暗い部屋の中、京は震えながら膝をかかえた。

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