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Peaceful Days -6

Peaceful Days -6

 夏休み直前。抜けるように青い空と、真っ白な分厚い雲。
 水しぶきと歓声が上がった。キラキラと水面が光を弾き、プールの中ではしゃぐクラスメイトたちの声と混ざり合う。
――折角のプールなのに……。
 京は肩を落とした。
 海とは違うが、水の中は好きだった。けれど先日の入院騒ぎが元で、京は安静を言い渡され、体育全般の授業を止められてしまったのだ。勿論プールも例外ではない。
 見学でプールサイドに来ているが、水に近づく事も出来ず、ガッカリと肩を落とす。
――まだ一回も入ってない。
 裸足のつま先に触れた水たまり。暇つぶしにそこを小さくパシャパシャと叩いていると、プールの飛沫が飛んできた。
 顔をあげると、その先では小園達がこちらを指差し、何か話している所だった。まだ飽きもせず、京をどこかの女の子に似ているなどと話しているのだろうか。  迷惑だからやめてくれと、小園たちに伝えたのは、もう大分前になる。すると今度は聞こえるか聞こえないかギリギリの所で、遠巻きにして何かを言われるようになってしまった。
 面と向かって言ってもらえれば、その度に直接嫌だと伝える事も出来るが、聞こえないものを、勝手な判断で問い詰める訳にも行かない。自意識過剰といわれるのがオチだ。
『なんか、もう……めんどくさ……』
 こうやって目の前のニンジンよろしく、プールお預け状態でここに座って居るくらいなら、あの空き地に行きたい。きっとあのトラ猫が居るはずだ。でもそれは流石に無理だろう。ならば早退して病院へ行こうか。この暑さのせいで、容態が落ち着かず、病状が一進一退を繰り返している母の所へ、出来るだけ顔を出したい。誰かに知られれば、また子供っぽいと言われそうだが、やはり傍に居たいという気持ちは強いのだ。それに時間があれば、あの時隣のベッドに居た少年の所へ、お礼がてら顔を出してもいいかもしれない。京は持て余す時間を使い、つらつらと取りとめの無い事を考え続けた。
「…………」
 抱えた脚に額をつけ、いつのまにか溜め息を吐いていた。
「月乃、具合悪いか?」
 体育教諭が心配そうな顔をして、こちらを見ていた。
「あ、……いえ、大丈夫……です」
「そうか? でもあんまり顔色良くないぞ。……あと十分くらいで終らせるから、先に着替えて教室戻っていなさい」
「…………はい…」
 確かに混みあう更衣室で、水に濡れたクラスメイトたちの邪魔になりながら着替えるよりはいいだろう。教師の言葉に従い、京は先にプールから離れ、プールの脇、木陰にある小さな専用の更衣室へと向かった。
 誰も来ないうち、さっさと着替えてしまおう。そう思い、Tシャツに手をかけたときだった。ふと後ろに人の気配を感じた。
「……?」
 振り向くと、入り口のところに知らない生徒、多分上級生らしい三人が立っていた。
「お、月乃チャンだ」
 一人がそう言うと、他の二人が「一人だ」「ナイス」と笑った。
 三人が纏う空気が不穏で、咄嗟に逃げようとドアに向かったが、出入り口はひとつしかない。彼らの隙間をすり抜けることも出来ず、腕をとられてしまった。
「へぇ、こんな近くで見たの初めてだけど、やっぱかっわいいねぇ〜」
「ほそっ! 華奢!」
 じろじろと舐めるように見られ、今日は視線から避ける様に下を向いた。
三人の距離があまりにも近い。初対面の相手にこんなに密着されるのはまだ精神的に無理だった。
「月乃チャンがあんまり可愛いから、本当に男の子か確かめたくなっちゃってさ」
「そうそう。その証拠が無いか確かめに来たんだけど、プールは見学だったんだね。ザンネン」
「ねぇねぇ、ちょっと見せてよ」
 ぐいと手を引かれ、更衣室の奥へと連れ込まれた。負の波動のようなものを近くに感じ、ザワリと肌が粟立つ。抵抗するより先に乱暴に扱われ、京の動きは封じられてしまう。
「…………っ」
 貧血のような症状に襲われ、一気に気が遠くなってゆく。目の前が真っ暗になり、振り回されるまま膝を付くと、誰かの手がかかっていたTシャツは捲れ上がり、背中が丸見えになるのを感じた。
 ゾワ……と走る真夏に不釣合いな寒気。
「…ゃ…っ……!」
 ヒュウと口笛が鳴る。
「色、しっろ〜〜〜! 肌キレ〜〜〜!」 
「やっぱこれは全部拝ませてもらわないと」
 体格差は歴然としていて、力も違いすぎる。逃げ場を求めたが、あっけなく部屋の隅に追い詰められ、背の高い三人に見下ろされた。
 乱れたシャツの裾を戻すように強く握り、三人を拒むように身を硬くする。
「男の子だったら、ちょっとくらい見られたって平気でしょ?」
「もしかして本当に女の子だったりして」
 ギャハハと笑われ、もう止めてくれと首を振った。
「乳首ピンクかな?」
「勿論でしょう」
「…………やめ……」
 手首を取られ、仰向けに押さえつけられたままTシャツをたくし上げられるのと、トレーニングパンツのウエストに手がかかるのが一緒だった。
「NO!」
 悲鳴を上げた瞬間、三人の手が止まった。そして気まずいまでの沈黙が更衣室に立ち込める。力が緩んだ隙に京は辛うじて逃げ出したが、猛烈な吐き気に襲われその場に蹲った。
「ごめん、月乃チャン。ごめん」
 今までとはまったく違う動揺した様子で、どうしてよいのか解らないといった三人の声が聞こえてくる。
 何故謝るのか解らなかった。ただ、何もかももう嫌で嫌でたまらなく、全身が苦痛で締め付けられるようだった。
 その時、クラスメイトたちが戻ってくる賑やかな音が、ドアの向こうから響いてきた。
「京……?」
 驚いた声が駆け寄ってくる。
「大丈夫か?!」
 差し伸べられた手を一瞬凝視し、勝也だと解っても、縋ることなく怯えたように首を振った。
『も………やだ……』
 か細い声が小さな唇から漏れる。京は目の前の……勝也さえも避けるように自分を抱え、強く強く目を閉じた。
「うん……」
 そうだな……という静かな囁きが、耳元で聞こえた。



intermission

 何故、と考える。でも答えは出ない。
 強くなりたい。
 一人でも生きてゆけるように。
 誰の手も煩わせず、己の力でこの身を守れるように。
 それが今の自分にとって、どんなに途方も無く難しい事か。
 けれど、出来なければならない。
 だから、早く大人になりたい。
 なのに、どうしてこんなにも非力なのだろう。
 この願いは、こんなにも……。

 家族と一緒に暮らせれば、何かが変わると思った。
 欠けてしまった何かを取り戻し、
 穏やかに流れる時間を、感じられるかもしれない。
 そう心のどこかで期待していた。
 でも、結局何も変わってはいないのだ。
 子供のままの小さな身体も。
 欠落した記憶も。
 弱い弱い心も。

 何故、自分は……と考える。
 ……でも、やはり答えは出ない。

 いつになったら、誰の迷惑にもならず、生きてゆけるのだろうか。
 いつになったら、独りになれるのだろうか。
 いつになったら……。

 海。
 夜の海。
 

『もう、ずっと行ってない……』



「よー、今帰りか?」
 小園に声をかけられた勝也が振り向いた。
「これから月乃ん家に行くんだろ?」
「……あぁ」
「ふーん」
 面白くなさそうな小園が、視界の隅に映る。
 誰かの欠席中にたまったプリントを、自宅へ持って行くのはクラス委員の役目だ。とやかく言われる筋合いは無い。
 あの更衣室の件から数日。京はいまだに学校を休んでいた。このまま間近に迫った夏休みが来るまで、学校へは出てこないかもしれない。そう勝也は密かに予想している。そしてそれもまた仕方が無い事だろうと言う事も。
 騒ぎの原因である三年生たちは、京の身体にある、あまりに大きな傷に驚き、手が止まったという。酷い事をしたと、今は柄にもなく深く反省しているようだ。
 勝也としても、これ以上、余計な手は出しはして欲しくないので、脅しの意味を含めて、少し彼らの痛いところを突付いてやるのは忘れなかった。すると彼らの反省は本当のようで、意外にも”使えそう”な反応を見せてきた。
 三人は上級生たちの中でも、一部のオピニオンリーダー的存在に位置している。その影響力をこの際便利に利用させてもらう。京に対し、過剰な関心を見せる二年三年の対応は、とりあえず彼らに任せてみようと、適当に煽てて置く事にした。
 もし仮に上手く行かなかったとしても、他に打つ手は幾らでも考えられる。一番簡単な保険といった所だ。
 それにしても。と勝也は記憶を手繰り寄せる。
 彼らの慢心に満ちた手を止めさせた傷痕。京を連れて行った保健室で、勝也も偶然その傷を少しだけ見る事が出来た。
 小さな身体に無残に張り付いた、生々しい裂傷の痕。想像できる隠れた部分を含め、尋常ではない傷の大きさに、思わず息を飲んだ。
 それは、更衣室であれだけ大きく傾いだ精神を、僅かの間で見事に立て直して見せた京が抱える、不器用な内面を僅かに覗けた瞬間でもあった。
 そう遠くない過去、あんな傷を負うような目に遭った京が、のん気に明るくという訳には、なかなか行かないのだろう。それは勝也にも解るような気がした。
 どんな事があったかは知る由もないが、月乃京という同級生が、出来るだけ目立ちたくはないと希望していた事は、最初見た時からなんとなく感じていた。これは勝也の想像でしかないが、自分の意思とは無関係に注目を浴び続ける事は、京にとってさぞかし過ごし難く、辛かっただろう。
 多少強引だったとしても、もっと手を貸してやるべきだった。
 ふと、そんな事を考えている自分に、勝也は少し驚いた。何よりも、自分らしくないと言うべきか。
 京とは他のクラスメイトよりは親しく話をしているが、まだ全てを明かせるような特別親密な間柄ではない。
 だが、何故か気になる。放っておけない。そんな気分にさせる相手だった。
――なんとかしてやりたい。どう立ち回るのが、一番自然でベストだろうか……。
 結局いつの間にか、またその事に思考が傾いている。
「ちぇ、つまんねぇの……」
 小園の呟きに、勝也は軽い策謀のトリップから引き戻された。
「面白いこと無いかなぁ、なぁ三池?」
 思わず溜め息が漏れた。
「なぁ、小園。男子校で花が居なくて寂しいのは解るけど、京を女の子に見立てて騒ぐのは間違いだよ。あいつはそれを上手に受け入れられるタイプじゃないのは、もう解っただろう?」
 男相手に、アイドルの誰それに似ているなどと、不毛なネタで騒ぐのはやめてやれと、そう言う意味で言ってやる。
「……三池はズルイよ」
「は?」
「月乃の事、京とか呼んで、長く沢山話しが出来てズルイ!!」
 お前もそう呼びたきゃ呼べばいい。京だって、そんな事では嫌がらないだろう。会話だって、ミサキ云々や、訳の解らないテレビ以外の話なら、普通に返事をするはずだ。だが、そこまで親切に教えてやる義理も責任も、勝也にはなかった。
――馬鹿らしい。
 解っていた事だが、同級生がここまで幼いと思うと、苛立ちよりも脱力しそうになる。これでは京も苦労するはずだ。
「あいつは男だぞ?」
「そんなの解ってるよ」
 どうだか。と肩を竦めた。
「あ! そうだ!! なぁなぁ、月乃が前に一週間くらい休んだ時の理由知ってる?」
 突然思い出したように、嬉々とした風で小園が目を輝かせた。それがさぞ特別なもののように声を躍らせている。
「いや」
「ほんとに?」
「知らないよ」
「気にならない?」
「別に」
「えーなんだよー、三池なら知っていると思ったのになーー」
 起伏の激しいテンションからは、無責任な興味本位しか感じられない。何故そんな事を知りたいのか、そちらのほうが理解できなかった。
「なんかさ、カッコイイじゃん。授業の途中で先生呼びに来て、そのまま学校休んじゃうんだぜ? 漫画とかテレビみたいじゃん!」
「……はぁ」
 本気で頭痛がしてきた。佐々木といい小園といい、何でこう自分本位な奴が多いのだろう。
 相手にする時間がもったいないと、小煩い小園を無視して、勝也は教室を後にした。

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