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Peaceful Days -5

Peaceful Days -5

 夏の季節になっても、小園の態度は相変わらずで、佐々木の陰湿な差別も続いていた。京にしか解らない程度の軽い厭味程度のものだったが、この分では今学期の英語の成績は最悪だろう。
 何が原因だろうと時々考えてみるが、どうしても思いつかない。ただ京は自分が感情面で欠落している事を自覚しているので、どこかで佐々木の不興を買ったのだろうという事は想像できた。
――何したんだろう……俺。
 正直、少し疲れていた。
「京、ちょっといいか?」
 勝也だった。
「……うん」
 なんだろう? と首を傾げる。付いて来いといわれ、向かった先はいつもの空き地。
「お前、大丈夫か?」
 ぐいと手首を掴まれ、しばらく沈黙した後、何故か溜め息を吐かれた。
「なに……?」
「痩せすぎ」
 食事をしていないんじゃないか? と問い詰められ、思わず目を逸らしてしまった。
『こっち向け』
「あ、ずるい。あんまり英語ばっかり使うなって言ったの勝也なのに」
 最近二人きりで話す時、楽な英語ばかりを使ってしまい、それはあまり良くないと叱られたのはついこの間のことだ。
『ふざけるな。ちゃんと聞けよ』
 真剣な視線を前に、誤魔化すのは難しそうだった。
『大丈夫だよ……』
『どこがだよ。今にも倒れそうなくせして』
『そんな事無いよ』
『なあ、力になるって、俺言ったよな? 相談してくれなきゃ出来る事だって限られてくるんだぞ?』
『…………』
 困っていないと言ったら嘘になる。でも……。
『深く考えるな。困っていたら困っているって言えばいい。助けて欲しけりゃそう言えよ』
『……でもこれは……助けてもらうようなことじゃ……』
 母親の事については機会があれば話せるかもしれないが、勝也に何かしてもらえるものではない。佐々木にしても、とばっちりを勝也に向けさせるわけにはいかないし、小園の事だって一方的なものだろうから、ほとぼりが冷めるのを待つか、自分でなんとかするしかないのだ。
 ふぅと声がして、掴まれていた力が緩んだ。
『俺のこと、便利に使えばいいんだよ』
『……?』
『小園たちの事とか、佐々木の事とか』
 全てお見通しという事か。ならば、きっと勝也の事だから、京の知らないところで、既に色々立ち回ってくれているのかもしれない。
『うん、ありがとう……』
 こんな自分を気にかけてくれて、申し訳ないくらいだ。
『でも、……もう少し待って』
 ハンサムな顔が困ったやつだと言っている。
「勝也に、一番最初に相談するから」
「必ずだぞ、抱え込むなよ。約束だからな?」
「うん……」
 大きな手が、安心させるよう、京の頭をぽんぽんと撫でた。

 学校の帰り道。どんよりとした重い雲が空を覆い、夏の温度は湿気を取り込み、更に不快さを増していた。
 体力が充分でない京は、体調があまりよくなく、少しでも早く家に着きたい気持ちで、近道でもある人気の無い小道に入った。
「月乃京」
 名前を呼ばれたので、知り合いかと何気なく立ち止まり振り向く。するとそこには、どこかの中学生らしい、見知らぬ少年が立ってた。
 誰だろうと考えていると、なんともいえない微妙な表情をされる。意味が解らず首を傾げた。
「ちょっと」
 顔を貸せとでも言うように、突然腕を強く引っ張られたが、咄嗟に抵抗した。それが気に入らなかったのか、少年は微妙だった表情を、イライラとしたものに変えてゆく。
「お前……月乃……京だろ?」
 当てられて頷くのは簡単だが、知らない人間に自分の身元を簡単に明かすほど、平和ぼけした場所に住んでいた訳ではない。警戒したまま、京はただ黙って目の前の少年を見つめた。
「聞いてんだよ!」
 声が怒鳴りに変わったが、腕を掴む手が震えているので、そう怖くは無い。
 この少年は一体何が目的なのだろうか。そちらのほうが気になる。
『写真で見て知ってるんだぞ』
 少年の口から出た英語に、京はここで初めて戸惑った。
『……その制服は僕が着るはずだったのに』
「え……?」
「僕のモノダッタノニ! どうみたって僕のほうが優秀ジャナイカ! 僕のほうが……、僕のほうが……っ」
 日本語と英語が入り混じった叫び。目の色が、顔の表情が普通と違う。狂気に歪んでいるように見えた。
 これと同じ”色”を、どこかで見た事がある……。
 途端、金属がキシむような音が頭の中に響き、ものすごい眩暈に襲われた。
 頭の中に響く誰かの声が、目の前の少年のものと重なる。
 グラグラと歪む視界を懸命に堪えながら、京は頭痛を引き起こす耳鳴りを浅く息を継いで堪え続けた。
「畜生……っ、こんな……ヤツに負けるなんて……」
 徐々に弱くなる少年の声と勢いとは裏腹に、頭が割れるような頭痛と耳鳴りは、どんどんと酷くなってゆく。
「畜生!」
 ドンと突き飛ばすのを最後に、その少年は京に背を向けた。
 その後京は、どこをどうやって家まで辿りついたのか、ほとんど記憶がない。ただ、自宅の門を見て安心した事だけは、なんとなく覚えている。どうやら、外に蹲っていた所を、買い物帰りの雪塚と姉に見つけられ、慌てて病院へと連れて行かれたようだ。
 意識は朦朧とし、余り多くのことを思い出せないまま夜を迎えた。医者から看れば原因は不明。精神的なもので、疲れが出たのだろうとしか判断できなかった筈だ。そして、京もそれを否定しなかった。
 とりあえず一晩入院して様子を見る事になったが、薬が一切効かず夜通し続く高熱に魘され続け、その夜見た夢は、京を恐怖へと突き落とした。
 暗闇の中に響く、絶え間ない悲鳴と泣き声。その後訪れた真の暗闇は、京の身体を闇に取り込もうと手を伸ばしてくる。再び現れた泣き声だったものはすすり泣く呪いの言葉に、悲鳴は背筋を凍らせる恨みへと変わってゆく。
「……!」
 傷が引き攣れるように痛み、金縛りのように強張る身体。起き上がれないまま嘔吐感に苛まれ、胃液が何度も上下する。誰かを呼ぼうとして、声が出ない事に慄いた。
 また言葉を失ってしまったのだろうか。そう思うと、妙に冴えた頭の一部が警鐘を鳴らし、全身に嫌な汗が浮いてくる。
 突然、強い雨が病室の窓を叩いた。
――ああ……!
 流れ出る血、冷えてゆく身体、止まらない震え、動かない腕と脚……。寒い。寒くて、……怖い。怖くて仕方が無い。
「大丈夫? 今、看護婦さん呼ぶから」
 異変に気付いた、隣のベッドの少年が、慌てたようにナースコールのコードを手に取った。京はそれを、ただ霞む目で見つめていた。

 次に京を目覚めさせたのは、明るい夏の日差しだった。
 昨夜の雨は朝を待たずに上がったようで、今は夏の木々を鮮やかに光らせる雫になっている。
――昼間見れば、こんなに綺麗なのに。
 風になびく光の反射を、ぼんやりと目で追っていると、少し離れた場所から「おはよう」と静かな声がした。ゆっくりと振り向くと、京よりは少し年上だろうか、穏やかな雰囲気の少年が心配そうにこちらを見ていて、目があうとフワリと微笑まれた。
「おは……よ……ご……ざ……ます」
 声が出た。酷く掠れてはいたが、普通に話せている。
 返事をして、それに気が付いた。
 よかった。
「……気分はどう?」
 そうだ、この少年が昨夜ナースコールをしてくれたのだった。
 気遣いの見える、選ばれた言葉少ない会話が優しい。
 薬物ですら、どうにもならない痛みを知っている者の声。
 自分の事よりも、京を心配してくれる、名も知らぬ彼の労わりに心が暖かくなる。
「うん、平気。……昨日は、ありがと……う」
 過去に怯え、弱く駄目な自分に、掛け値なしの優しさをくれる沢山の人達。
 昨日の少年のように、相手を傷つけるための暴言を撒き散らす者も居るが、こうやって、見ず知らずの相手でも心配してくれる人もいる。
 いつか自分もこんな風に、誰かが求めた時に、自然に必要な支えが出来るような人間なりたい。自分とその周りだけで目一杯な京が、今の時点で抱くには、大きすぎる目標ではあるが、与えられた優しさは忘れたくない。
 安堵するように微笑んでくれる少年へ、小さく頷きながら、京はゆっくりと深い息を吐いた。

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