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Peaceful Days -4

Peaceful Days -4

 母の容態が落ち着いたのは、学校を早退した日から、三日後の事だった。
『お母さん、落ち着いたわ』
 早朝、付き添っていた姉から連絡をもらい、父親と一緒に病院へ駆けつけた。
 一時は予断を許さない状態が続き、常に家族の誰かが付く事になったが、それは誰もが望んだ事だ。今もまだ意識は戻らないが、呼吸や血圧などは正常に近づきつつあるという。
 涙声で嬉しそうに教えてくれる姉。父は「そうか」と一言だけ言ったが、その顔は心からの安堵を隠さなかった。
 母の顔色は、昨夜見た時よりも大分よく見える。本当に助かったんだ。そう思うと、急激に身体から力が抜けて、京は椅子に座り込んだ。
「先生も、とりあえずは大丈夫だろうって」
「うん……」
 よかった。本当によかった。
 京はゆっくりと目を閉じ、深い深い息を吐いた。


 久しぶりの教室は騒がしく、いい意味でも悪い意味でも変わり無く京を迎えてくれた。
 相変わらずミサキがどうこうと、一部のクラスメイト達が京を遠巻きに見ては、何か言っているが、時間を置いたせいか、思ったよりも気にならなくなっていた。京に少しだけ余裕が出来たからかもしれない。
 二日前、母親は無事に目を覚ました。順調に回復の兆しを見せていて、今では少しなら会話も出来るまでになっている。これでもう安心だ。そう思うと本当に嬉しかった。
 今朝、学校に来る前に寄ってきた病院でも、丁度母が目を覚ましていて、いつもより少しだけ多く話ができた。
 少しずつ少しずつ、良い事が戻ってきている気がして、心の中の暖かいものが膨らんでくる。
 丁度隣の席のクラスメイトが登校してきた。思い切って「おはよう」と、こちらから声をかけてみる。すると、少し驚いたような顔をしたが、笑っておはようと返してくれた。
 続けるように肩を叩かれ、おはようと聞こえた。誰かと思えば勝也だった。
 休んでいた間の事は特に聞かれず、ただ授業のノートはいつでも貸すよと言われ、優しく微笑まれる。素直にありがとうと言えた。
 こんな些細な事が嬉しい。京は心の中に生まれた、この嬉しい幸せを、そっと大事にしてゆこうと思い、ゆっくりとかみ締めるように深呼吸をした。
 一人になり、鞄の中のものを取り出していると、元気な声が近寄ってきた。
「つっきの〜! おっはよおおおお!」
 こちらも相変わらず元気な小園だ。こういうインパクトのあるキャラクターは、TPOを選ばないのだなと頭の隅で思う。
「おはよ」
「おはよーおはよー! なぁなぁ月乃、ずいぶん長く休んでたよな」
 興味津々という瞳が、京を覗き込んだ。
「……ぁ……、う…ん」
 悪気が無いとは解っているが、こういうのは少し……、いや、かなり苦手だ。
「風邪でも引いたのか? 違うよな。先生呼びにきてそのまんまだったし。なんだったんだ?」 
 そういわれても、説明はし難い。でも、母親の事くらいは言った方がいいだろうか。その場合、どこまで話せば良いだろう。内容的に同情されそうで気が引けてしまうし、それは決して望んでいない……。
「……なんで黙ってんの?」
「え……」
 心臓がドキリとした。言い当てられたからではない。小園の豹変した声音に、あからさまな棘があったからだ。
「なぁ、俺と話すのヤなの?」
「そ……んな事は……」
「じゃぁなんだよ」
 少し浮上していた気持ちが、一気にしぼんでゆく。
「……お……母さんが……」
「はぁ? お母さん!? お母さんがなんだってんだよ」
「いや、だから…………」
 小馬鹿にしたような視線が突き刺さった。
「ママーってか? ママが居ないと何も出来ないの? 月乃ってめっちゃ子供な」
 頭の中で理由を整理しようとして、ことごとく阻まれる。
「……ち…が……」
「月乃って秘密主義だよな。もしかしてかっこつけてんの?」
「え……?」
「だってそうだろ。今までだって俺が何か聞いても、ウンとかくらいしか返事しないし、自分から何か話すってこともねーじゃん」
 何も反論できない。その通りだ。
「何で休んでいたかくらい言ったっていいじゃん。そんなのも言えないくらい、俺らのこと信用してねぇの?」
「そんな」
 懸命に違うと首を振った。
「じゃぁどうして答えねぇんだよ。折角仲間に入れてやろうってのに、全然馴染もうともしねぇし、昼休みには一人でコソコソどっかいっちまうし。これはもう俺たちと一緒に居たくねぇってことだよなっ?!」
 何も言い返せなかった。
 どうしてこうなってしまうのだろう。
 全てこの性格が災いしている。それだけは解った。
 けれど……。
「……ちがう、そんなんじゃない。……でも……ごめん」
 上手く説明できない自分が悪い。だから、謝ることしか出来ない。
「ぜっんぜんわかんね、お前の言ってること」
 履き捨てるような小園の声と、授業開始のベルが重なった。
「Hi everybody!」
 いつものお約束どおりのセリフと共に、佐々木がスタスタと教室へ入ってきた。
 教壇に立ったと同時に、ふと気が付いたように京の顔を見たが、そのまま逸らされる。そして何事も無かったように、これもいつも通りのリーディングが始まる。  今回も京は当てられなかった。
「僕はね、美しい英語が好きなの」
 佐々木が突然そんな事を言い始めた。
「美しい英語、綺麗な発音はイギリスだけのもの。クイーンズイングリッシュは基本中の基本。ただ”英語”が話せるというだけでは、何の意味も無いの。解る?」  教室の生徒たちは、何を言いたいのかいまいち掴めず、ただ「はぁ……」と間抜けな顔をしている。
「このクラスには一人だけだね。僕のお眼鏡に叶う英語を話すのは。三池君、キミだよ」
 両手をパチパチと叩く様に、自己陶酔的な盛り上がりを見せる佐々木に、勝也はほとんど表情を出さず、小さく頭を下げるという如才無い返事を返した。
「アメリカ英語なんてもっての他。あんな言葉は粗暴で聞き苦しくて気分が悪くなる。それなら、まったく英語を話せない君たちみたいなのを聞いているほうが、よっぽどマシ」
 ああそういうことですか。と京は今まで朗読を当てられなかった理由を知る。
 今頃何故とも思ったが、そんな事は京の知った事ではない。
 しかし、この佐々木という教師の発音は、そんなに綺麗か? とも思う。母の知り合いや友人にもイギリス人がいるが、当然の事ながら彼女の英語のほうが流暢で美しい。アメリカ人の中にも、スラングを使わず、綺麗な発音をする人も多い。どこかの映画のように、わざと乱れた言葉を使って楽しむなら別にしても、言葉のどちらが優れているかなど、今時話題に出すほうが不思議だった。
 クイーンズイングリッシュも悪くは無いが、アメリカ的に聞けば「〜しても宜しくて?」のように気取ったような使い方が多く、慣れないと京のような年頃には少し気恥ずかしい。それよりも何よりも、教科書に書かれている英語はアメリカ英語であり、舞台となっている場所もアメリカ。この場合、佐々木の主張には、あまり意味が無いように思えるのだが、どうなのだろうか。
 内心京が首をかしげていると、「そうそう」と、急に思い出したように、佐々木が手をぽんと叩く。
「先週やった3回分の小テスト。次の試験の結果に足してあげるから感謝すうるように」
 教室内に歓声があがった。
 佐々木のテストは性格を反映しているのか偏屈で難しい。
 前回行われたテストは、中学一年最初のものだったというのに、学年全体の英語平均は64点。満点は三池勝也だけ。京たちのクラスはまだ良いようだったが、他のクラスは散々だったと聞いている。
 京は8割の正解。20点分のマイナスは、言いがかりとしか思えないものだったが、そこで文句を言える性格ならば、小園たちとももっと上手くやれているだろう。
 そうか、と思う。最初から佐々木は何故か京を、特別な目、悪い意味での特別視をしていた。
――どうして?
「あまりいい気にならないように」
 突然近くで聞こえた声に、は? と顔を上げると、佐々木が周囲にも解るような、あからさまに冷たい視線を京に向けていた。
 なんだろう、と思い返してみても、身に覚えがあまりにも無さ過ぎて、何も言い返せない。どうしたものかと、成す術もなく、ぼーっと教師の顔を見つめていると、「先生」と静かな声がした。
「はい、三池君」
「小テスト、受けられなかった人はどうすれば?」
「君は受けているでしょ?」
「ええ、……でも教えてください」
「それは運が悪かったと思うしかないね。小テストは言ってみれば僕の特別サービス。良い点を取りたければ、授業をサボらずに、受けられなかった生徒は、それだけ勉強すれば良いことだよ」
 先週英語の授業を休んだ生徒は、おそらく京一人。
 暗にさらし者にされた悲しみよりも呆れ果てた京は、誰にも気づかれない溜め息を、小さく一つ吐いた。


 英語の授業の一件以来、唯一積極的だった小園が話しかけてこなくなり、なんとなく孤立したようになってしまった京は、再び自然と一人で居る事が多くなった。
 気を使ってくれる勝也とは、たまに話をするが、クラス委員の仕事のほかにも色々忙しくしているようで、あまり長い時間一緒に居る事は無くなった。
 ただ、今の自分には、母親という最大の心配があるので、寂しいとかそういう感情は沸いて来ない。元々そういった部分が薄いというのもあるのだが。
 勝也と少し距離を置くようになって、ひとつ気付いた事がある。
 時折思いつめているような、苦しそうな顔をするのだ。それはほんの一瞬の事で、初めて見たときには見間違いかと思った。だが、こうして少し離れてみると、間違いではなかった事に気が付く。
 クラスの誰よりも大人びて、安定しているように見える勝也。そんな彼にも、何か苦しい事があるのだろうか。
――当然、……あるよね。
 生きている人間だ。多かれ少なかれ何かを負って生きている。
 自分も、こんな無力な自分でさえも、どうにもならない問題を幾つも抱えているのだ。誰もが気楽な人生を送っているなど、間違っても思ってはいけない。
 ニャア……という鳴き声が、風に乗って消えてゆく。
 今日もあの空き地に猫と一緒にいた。
 この猫は何故か勝也が居る時には顔を見せない。というよりも、来ないと言ったほうが正しい。始めは偶然かと思ったが、どうやら違うようだ。
 猫の本能なのか、勝也が遠慮しているのか解らないが、今この猫が居ると言う事は、今日は勝也はここに来ないという事だ。
『また傷作って……』
 首に出来た新しい傷口に眉を顰めると、気にすんなと言う様に喉を鳴らす。
『お前は強いね……』
 言葉が解るかのように、猫は少し得意気に目を細めた。
『昨日母さんに、学校はどう? って聞かれちゃったよ』
 微かに笑いながら言うと、澄んだ金色の瞳がじっと京を見つめた。
 京は膝をかかえ、顔を埋める。
『どうしよう…かな………』
 自分の居場所が無い。出来る事も無い。
 自分はどこに行けばいいのだろうか。
 家族一緒に住めるのは嬉しい。それを心から望んできたし、日本に戻ってきた事に後悔はない。
 でも。
 還りたい。
 還りたい。
 心が渇望する場所へ。
 それがどこか解らなくても、求める場所があるのは確かだった。

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