東洋医学の歴史

 紀元前2383―同1123年(太古時代)

中国の伝説によれば、伏義、神農、黄帝の三王が中国を統一して帝位につき、医薬を定めたといわれる。

 太こう伏義

支那民族開祖といわれる伏義は、初めて支那易学の基礎を開いたと伝えられる。

(註)易とは、宇宙万物の消長変化の大法を説いたものである。その中には、漢方医学の基礎ともいえる陰陽ならびに五行説が説かれている。

 炎帝神農

神農は百草をなめて、薬を定め漢方薬のもとをひらいたといわれる。

 黄帝軒えん

黄帝は伏義から500年後に、支那を統一して初めて支那帝王の位についた。黄帝は臣下の医師とともに医術の全般について論じ、「黄帝内経素問霊枢」18巻を作り、鍼灸治療をはじめ多くの治療法を定めたといわれる。

 紀元前206―後265(両漢時代)

両漢時代に文字を漢文漢字といい、医学を漢方というようになった。漢方医学は、この時代に入って統一され理論化され、初めて完全な医書としての形態を備えることができた。

(註)中国医学は漢時代に集大成されたので、日本では、“漢方”と呼ばれている。

日本の漢方

 奈良朝以前時代(紀元前97―後708年)

日本においても先史時代には、素朴な経験的医術や呪術的医術が行なわれていたが、現在伝わっていない。允恭天皇(19代)の3年に新羅王の調貢大使が来朝して“日本天皇の疾を治して効があった。”といわれている。これがわが国における漢方医学の起源と思われる。

 江戸時代

杉山和一が管鍼法を創案し、全国に鍼治講習所を設けて盲人に鍼の治療法を教えた。

 明治時代

明治維新後、西洋医学が全盛期に入り漢方医学は衰退し、わずかに盲人の業として、のこっていたが、明治の末から復興の機運に向かっていった。

(註)このころから日本では、漢方医学を東洋医学と呼ぶようになってきた。

 現在の漢方医学 

漢方医学は今現在、認められてきてはいるが現代医学の中に入れられず、医師の同意がないと鍼灸は保険が適用しない状態です。鍼灸師の数も年々増えてきて研究も活発になり、今後大きな発展が期待されている。