志撫子郷土史
風雪の歩み
志撫子部落開基70周年
志撫子小学校開校60周年

(〜昭和48年現在)

昭和の小漁師top ! 計呂地郷土史!

志撫子小学校沿革史


1,仮校舎時代  明治33年畑田春松氏の定住からはじまり、同44年の団体、引き続き本州各県より続々と個人来住者があって急激に戸数が増加した。学齢児童数も増加する中で、部落有志が学校の設置に立ち上がったのである。
 当時の管理者三浦折郎氏と再三にわたる協議を重ね、、一時、芭露原野番外地尾張蔵之助氏所有の建物18坪を借受仮校舎として、芭露尋常小学校所属志撫子特別教授場として大正3年10月1日開校するに至った。当時の学齢児童数は28名(男子17名、女子11名)で準訓導岡田良平氏が教育として同月2日より授業を開始する。(当時の芭露尋常小学校校長は桑原清太郎氏である。)
 学校はできたものの通学の難儀は予想以上のものであったらしい。ちなみに学校沿革史によると、「移住の目的は遠き北海の不毛の地を開拓し、新天地を建設すべき雄図を抱き来住せしめしものの3屏立せる山嶽をめぐらし千古斧鉞の森林に一度身を寄せ不慣れな伐木に開墾に専心した。当時、移住者の苦辛の心境に立入らば、如何に物さびしかりを想像するに忍びないものがある。かかる折に山道をたどり、川を越え、伐倒したる木を超え、丸太橋を渡り通学した児童の苦喪をも察し得られるであろう。・・・省略・・・」と記されている。

2,新校舎完成移転の時代  部落の開発は年を追って発達、児童数も増加の一途をたどり、ここに学校新築移転の声が強まった。部落諸氏と管理者との協議が再びなされ、校舎新築のための経費を部落で負担することで、芭露原野南8線公共用地(現位置)に新築され、大正5年4月25日旧校舎より移転し開校式を挙行するに至る。校舎面積は16坪、尚児童数は44名である。
・・・学校沿革史・・・
「学校移転理由」
(1) 当特別教授場は、志撫子部落全体の学齢児童を通学せしむるものにして、旧来の地点にては東北に扁して児童通学不能の者あり。
(2) 旧来の校舎は仮校舎にして、学校及び教室は学校たるの要素を具備しおらざること。
(3) 仮校舎は公用のものにあらずして、私人の借家たる事。

3,尋常小学校昇格の時代  以来、年々来住者があり、児童数も増加し校舎の狭隘に悩まされるようになって、増築の義が起こり、大正9年村費をもって教室16坪、玄関4坪の増築工事がなされた。たまたま大正9年4月1日より計呂地尋常小学校の所属となっていたが、増築と同時に2学級に編成され、ここに昇格認可を得て特別教育による尋常小学校となり、志撫子尋常小学校と改称し、桑原宗英訓導が任命されたのである。時に大正9年8月1日のことである。尚、当時の児童数は90名である。

4,第2次移転増築の時代  ◎ かくて年々戸数増加し、大正13年頃より児童数も100名を超すようになり、教室及び屋外運動場(グランド)の狭小さが再び問題になってきたのである。昭和2年4月30日、校長の移動があり蝦名孫次郎校長が着任するの及び校舎の移転増築は、本校児童教育上最大の急務だとして関係方面に働きかけ、同年5月の臨時村議会に提案、増築費は村費、移転費は部落負担となって決定、実施を見るに至った。
    (9月着工、10月竣工)

 ◎ ついで昭和3年御大典事業として、御真影奉置所が建設された。このことについて学校沿革史は「千載一遇の御大典んの秋にあたり記念事業として部落一同の熱望と村理事者、村議会議員諸氏のご理解により御真影造営の儀は端なく決定され、事皇室にかかわるので村直営にて厳かなる地鎮祭を10月7日行わせられ事業に着手したのである。時恰中秋打続く快晴此の上もなく良順にして工事順調に進み竣工期日1日の相違なく完成を見たのである。
此の間工事監督者工事に従事せる職人人夫に至るまで一様にに真面目に孜々とし仕事に精励したことは今更ながら御盛徳の然らしむる所として深く感ずる次第である。かくて、11月5日堅牢無比、善美をつくせし奉置所は見事竣工したのである。最も意義深き拝殿落成式御真影奉迎順序、其の他の諸準は部落総会を以て決定されたのである。」とある。式典の外に旗行列、祝宴、余興もあり部落をあげての大行事であった。

 ◎ 児童数は益々増加し、昭和7年には140名を越し4月1日付で3学級編成の認可を得た。併し教室がなく、青年会館を教室として活用していたが、間もなく1教室増築され10月20日に落成、正常な形態にもどった。

 ◎ 昭和10年、校舎の破損腐朽の個所が多いことと、廊下のないため不便が多かったため、村議会に提案、校舎改築が決議され11月竣工を見る。

5,国民学校及び高等科
      併置の時代
 ◎ 大戦の兆、強まる昭和16年4月より志撫子国民学校と改称された。(新しい教育体制の確立化へと八紘一宇の肇国精神を内包する国民の基礎的錬成をなす国民学校令が公布された)ここから学校教育内容も戦時的色彩を帯びるに至り、同年12月8日、わが国は有史以来の大戦争に突入したのである。

 ◎ 昭和18年4月に高等科が設置された。従来、高等科進学児童は紙芭露国民学校の高等科に通学していたが、遠距離のため通学に不便が多く、昭和17年より高等科併置の運動を起こし、部落連合会長図子甚助氏先頭にたち、福原、桑田、多田、深沢、橋本の各氏これに協力し、部落の総意をまとめて、村長、ならびに網走支庁長に陳情の結果、ようやく実現を見るに至った。教室の設備がないため志撫子神社の傍にあった青年会館をもってきて教室に充当、授業を開始したのである。この頃、次第に戦局もたけなわとなり、銃後を守る人々の叫びも激しく、老いも若きも生産の増強に日夜挺身する。戦局の荷烈深刻化のため、授業は、殆ど全面的に停止せざるを得なかった。

 ◎ 昭和20年8月15日、ポツダム宣言の受託となって、戦争は悲惨な状態に於て終りを遂げた。敗戦によって連合軍の進駐、国内の混乱は教育に対しても大変動を与え、戦時教育体制は廃止された。かくて日本の教育は占領軍によって管理され、同年11月、軍国主義的教材、国家主義的教材の削除となり、児童はスミをむって、文意の通じなくなった教科書を使用するなど、混沌とした中で学習を続けなければならなかった。世相の混迷、国民生活の窮乏は極限に達した時代であったが、やがて教育の大刷新が行われ、教育基本法、及び学校教育法が公布され、新しい教育の体制を迎えるのである。

6,志撫子中学校昇格
   の時代(戦後)

 ◎ 終戦後,昭和22年5月1日より中学校を併置したが、当時は計呂地計呂地中学校の分校としてであった。同24年9月1日、志撫子中学校に昇格、独立したが教室が不足、25年2教室となる。

 ◎ 本校長年の宿題に屋内運動場の建設があった。当時国では僻地教育の振興のため僻地集会室建設に対する助成を行っていた。それを適用して、本校にも昭和26年に建設する運びとなった。60坪と国の基準で定められていたが狭小ということで村にその拡張を陳情、その結果、部落の負担を26万円とすることで80坪に決定、建設された。

7,中学校統合、小学校
  新校舎落成の時代
 ◎ 昭和35年頃より、農村の過疎が進みはじめ、児童数の減少傾向が見えた。その頃、町教委では、町内各中学校の統合を計画が具体化され、各部落に於いて懇談会、説明会が開催しはじめたのは昭和36年からである。部落の文化センターとしての学校、部落と学校のつながりは、非常に強いきずなで結ばれているだけに、中学校のみの統合とはいいながら、部落内に大きな波紋を投げかけることになった。37年度のは、部落と町教委との話し合いが数多く開催されている。賛否両論、きわめて厳しい状態であったが、38年1月になって10数ヶ条の条件を付して統合することに決定したのである。当時の条件は、およそ次のようなものであった。

(一)統合は、学年中途で行うことを避け、若干の準備期間をおく。(49年4月を目途とする)
(二)通学列車を指定し、放課後列車時刻までの生徒管理は、責任をもって学校で行うこと。
(三)志撫子停留所を移転し、通学に便ならしめること。
(四)通学交通費の半額を町で助成すること。また、志撫子停留所までの交通機関として、自転車を無償貸与し、停留所には自転車置場を設置する。
(五)制服その他で統合により、特別に経済負担のかからぬよう、十分配慮すること。
(六)将来、上芭露方面の統合を考慮し巡回スクールバスの運行、及び上芭露方面への一般交通の便宜を図るため、志露峠経由の道路を改良、整備すること。
(七)近い将来、(3年以内)計呂地、上芭露方面の各中学校を統合すること。
(八)冬期間、通学に不便なため寄宿する必要が生じた場合、寄宿舎を設置し、舎監をおいて、管理すること。
(九)将来、他校が投稿の条件より有利な条件で統合された場合は、 その条件を当校にも適用すること。
(十)小学校の改築を優先的に行うこと(順不同)

 以上のような条件付きで昭和38年4月から各月統合、39年4月から実質統合されたのである。現在、スクールバスが配置され、朝7時半、夕方4時頃の2回、12名の中学生を統合校湖陵中学校(現芭露中学校)へ、送り迎えをしている。

◎ 中学校の統合時の条件であった小学校の全面改築工事は、昭和44年7月着工、11月6日に完成、落成祝賀会が盛大に開催された。屋内運動場を除く、普通教室3,職員室、音楽室、保健室、水のみ場、便所等、すべて新しくなり、近代的な校舎が誕生したのである。寒風吹きすこぶ往時のおもかげは、殆ど残っていない。
8,現在の学校






   最初にもどる
 ◎ 過疎が進み、児童数は昭和32年度の152名を最高に、以後減少の一途をたどり、38年度に100名を割るが依然、減少はとどまらず42年度、31名、学級数も3学級から2学級と減になり、教員数も3名となった。
 現在は、2学級、14名であり、最高だった32年度と比較するとその10分の1に満たない。
◎ 昭和47年度の部落総会に於いて、部落開基70周年、開校60周年記念式典、及び事業等が提案、其の開催が決定以後協賛会が設置された。48年度頭初より事業遂行に鋭意努力すると共に本校環境整備や、教育内容の充実に努め、8月15日を迎えるに至ったのである。

・・・・おわりに・・・・
 大正3年、素朴な愛情に満ちた寺子屋式教育が始まって以来、営々、発展してここに60年、志撫子の開発の進展とともに、本校教育の歴史は刻々と形成されてきたのである。
 今、60年の踏みあとを一つ一つ回顧するにあたり、先人の高い理想と業績をしのび、また、その努力に感謝し、明日の本校創造と、社会文化発展のために、なお一層の意欲を燃やしていきたいものである。
学校沿革年譜
   年  度     概          要
大正 3・10・ 1 芭露尋常小学校所属志撫子特別教授場開校式挙行
10・ 2 准訓導岡田良平氏着任、授業開始
大正 4・ 3・24 第1回修業並卒業証書授与式挙行。
大正 5・ 4・25 南8線公共用地に学校々舎新築旧校舎より移転し、開校式を挙行
大正 6・ 4・12 作田医師来校、種痘及児童身体検査実施。
8・21 志撫子神社境内にて秋季運動会開催。
大正 9・ 4・ 1 計呂地尋常小学校所属志撫子特別教授場となる。
7・26 志撫子特別教授場増築落成。
8・ 1 志撫子尋常小学校に昇格。(2学級)
第1回学芸会開催。
10・   回覧雑誌「なでしこ」発刊。(月2回発行、作文能力養成)
10・ 9 志撫子尋常小学校校歌制定。
大正10・ 5・16 福原四男吉氏より農業実習地2畝歩の貸付を受け、5・6年男子により造田する。
6・20 井戸掘さく
大正11・ 7・16 児童32名を引率、中湧別駅構内にて皇太子殿下を奉迎。
10・30 教育勅語、戊申書拝載式挙行。
大正12・ 6・16 網走外3郡教育会の巡回文庫到着。
12・ 8 開校10周年記念式挙行。
大正13・ 3・23 第10回卒業証書授与式挙行。(前夜の雪にて交通杜絶状態を青年会員によって道開け、午後1時より式を行う)
・ 4・20 保護者会総会を開催。
6・10 第6回春季運動会を開催。
大正14・ 2・17 第2回勤倹週間実施記念として児童に貯蓄思想滋養の結果、貯金者数75名に達する。
大正15・ 9・17 村内各小学校綜合競技会に選手23名桑原訓導引率、出場し得点に5等賞を得る。
昭和 2・10・ 7 校舎移転増築落成式挙行。
昭和 3・ 4・ 2 新入児道23名に対し、試問実施、成績良好。
昭和 4・ 6・ 8 小学校、男子青年団綜合運動会実施。(男子優勝旗、多田直光氏)
6・10 「教育ニ関スル御沙汰書」拝載式。
昭和 5・ 6・ 1 東の沢小学校運動会他校選手競技に出場、優勝旗を獲得。
10・30 「教育ニ関スル勅語」渙発40周年記念式挙行。
昭和 6・ 6・10 西芭露小学校運動会他校選手競技に出場優勝旗を獲得。
昭和 7・10・20 校舎増築落成式挙行。
昭和 8・10・ 1 創立20周年記念式挙行。
10・19 国費を以て、栄養補給の目的で全児童に給食を行う。(40日間)
11・ 3 区寄贈の校旗の寄贈式を行う。
昭和10・10・20 中湧別計呂地間鉄道開通、中湧別まで貴社にて旅行、見学をする。
11・ 9 校舎改築落成式挙行。
昭和11・ 2・ 1 流行性感冒獄羅病児童続出のため本日より臨休に入る。(6日間)
3・11 第1回スキー大会
昭和12・     
昭和13・     
昭和14・     
昭和15・     
昭和16・ 4・ 1 志撫子国民学校となる
昭和17・     
昭和18・ 4・ 1 高等科を併置する
昭和19・     
昭和20・     
昭和21・    
昭和22・ 4・   計呂地中学校志撫子分校、並びに志撫子小学校となる。
昭和23・    
昭和24・ 9・   志撫子中学校となる
昭和25・12・ 4 中学校教室落成式挙行
昭和26・12・21 屋内運動場新築落成式挙行
昭和27・ 7・12 村内教育研究会開催
 昭和28・ 4・ 1 こども銀行創立さる
昭和29・     
昭和30・ 9・30 全校児童間接撮影実施
11・25 児童玄関2坪増築工事、井戸小屋新築工事、危険校舎取払い、
金森金二郎氏寄贈の門柱完成
昭和31・ 1・ 6 レールバス試乗希望者を2分し一部は佐呂間まで、一部は中湧別まで往復する
3・21 校歌作曲完成
4・ 2 初入児童歓迎小学芸会開催
7・14 校内弁論大会
昭和32・ 2・19 冷害地に対するユニセフ寄贈粉乳による学校給食を本日より開始する
3・ 8 冷害地に対するクラッカー給食を本日より開始する
5・ 7 学校林から松苗植付を行う(1町8反3畝、5500本)
6・ 9 移動動物園参観(佐呂間町)
昭和33・ 9・22 5、6年生見学旅行実施、網走北見方面一周、バス利用
10・ 3 校内マラソン大会開催
10・22 校内珠算検定開催
12・14 町内各学校音楽の集い参加(湧小)
12・18 旧校舎修理工事検定。校舎南端の自転車置場工事着手
昭和34・ 5・ 6 学校林植林作業完了
12・22 全校知能検査実施
12・23 全校向性検査実施
12・25 本校児童作文を映画化した「かきむく浜」をNHK・TVにて全道放送される
12・30 同作品好評につき、本校児童出演し、NHKTVより全国放送をする。
   (この年度中、NHKこどもニュース放送校となり16回放送)
昭和35・ 8・24 流行性灰白髄炎多発生、全校閉鎖8日間、死亡2名、うち1名は小学校1年
                                 三浦昭典君
8・26 防疫本部を学校に置き、全戸消毒を実施
9・30
10・24
12・30
3地区野球大会において優勝する(中学校)
志撫子乗車場の生徒による清掃奉仕に対し、旭鉄道局長より表彰さる
NHK・TVに出演、学校生徒作品より脚色。この年度中、NHKこどもニュース放送校となり、18回放送
昭和36・ 4・11
7・16
11・ 4
11・14
11・30
こども郵便局、網走支庁長より優良局として表彰される
NHKへき地音楽の集いに参加出演
「白樺をひろう子」児童作文をNHK・TVにより全国向け放送する
同作品をHBC・TVにより全国向け放送する
音楽堂建設。藤田光則氏寄贈
昭和37・ 7・11
10・ 2
全国一斉学力検査を実施する(〜7・12)
部落開基60周年、学校50周年記念式典、祝賀会を挙行
NHKこども音楽会開催
昭和38・ 3・31
9・11
志撫子中学校、芭露中学校へ学校統合となる。(名目統合)
自衛隊による無医村診療のため全教室が診療室となる
昭和39・ 1・16
3・22
湖陵中学校開校式に全中学生55名出席
中学校閉校式
昭和40・ 4・28

5・10
NHK北見放送局より「サロマ湖の春」というテーマでラジオ放送のためインタビューに
来校
学校給食開始
昭和41・ 5・ 5
7・24
子供の日に、お母さんと児童とレクリエーションを行う
全校児童水泳訓練(〜25,サロマ湖にて)
昭和42・ 2・14
7・ 5
元本校教諭岡部邦彦氏の母堂よりひな人形1式寄贈される
バスにて全校児童網走市内の見学旅行実施(卒業生の好意)
昭和43・ 8・ 2 湧別町スクールバスにて紋別市へ見学旅行(全校児童)
昭和44・ 9・30
11・ 2
11・ 6
12・ 5
12・18
町内少年少女陸上記録会出場、(湧別にて)
掲場柱をたてる
校舎落成式挙行
防火用水そうに貯水
児童の理髪奉仕のため、遠軽町森谷ヒサエ史来校(本校卒業生)
昭和45・ 6・ 2
6・19
6・26
7・21
10・ 6
王子造林ブルドーザーで校舎裏地の整地奉仕をされる
校舎裏花壇、花苗植栽
合同修学旅行6年生7名旭川へ出発(〜27)
北見市東陵中学校特殊学級、本日より宿泊学習(〜23)
町連P研修会、本校会場として開催
昭和46・11・ 1 大雨のため(洪水)臨時休業となる。
被害なし
昭和47・     
昭和48・ 2・10 芭露地区スケート大会、児童参加
上位入賞をする

歴代校長一覧 (小学校)

歴代   氏  名   本校就任年月日 本校退任年月日      備     考      







桑原清太郎






大正 3・10・01

9・ 4・01




大正 9・ 3・31

 〃  9・ 7・28




芭露尋常小学校長

計呂地尋常小学校長
 1
 2
 3
 4
 5
 6
 7
 8
 9
10
11
12
桑原 宗英
蝦名孫次郎
小島 一光
新沼 保治
桑原 宗英
今井 義雄
久能  栄
愛洲松次郎
吉長 周才
大関 真真
島田 恒正
目黒  博
大正 9・ 8・01
昭和 2・ 4・30
 〃 8・ 3・31
〃11・11・06
〃14・ 7・31
〃22・ 4・30
〃30・ 5・16
〃34・ 5・01
〃37・ 4・30
〃40・ 4・01
〃44・ 4・01
〃46・ 4・01
大正 9・ 8・01
昭和 2・ 4・30
〃 8・ 3・30
〃11・11・06
〃14・ 7・31
〃22・ 4・30
〃30・ 5・16
〃34・ 5・01
〃37・ 4・30
〃40・ 4・01
〃44・ 4・01
現在に至る
小学校昇格後
歴代校長一覧 (中学校)
歴代 氏  名 本校就任年月日 本校退任年月日 備   考
高井 三郎 計呂地中学校
志撫子分校時代
計呂地中学校長




高井 三郎
今井 義雄
久能  栄
愛洲松次郎
吉長 周才
昭和24・ 9・01
〃24・11・01
〃30・ 5・16
〃34・ 5・15
〃37・ 4・16
昭和24・10・31
〃30・ 5・16
〃34・ 5・01
〃37・ 4・16
中学校昇格後
歴代教員一覧(小学校)
種別   氏  名   本校就任年月日 本校退任年月日 年数(年・月)
准訓
准訓





准訓

准訓









准訓














 教









 岡田 良平
 小野 宗英
 追永 寅松
 大塚  盆
 稲葉 幾尾
 桑原 ヨネ
 蝦名はぎの
 秋山 信哉
 梶井 幸一
 定久 正子
 小島カネヨ
 太田  至
 新沼キヨノ
 嘉多山 篤
 久積 豊子
 種本 健吉
 梶井 シゲ
 堀川  武
 西村 一吉
 吉田 好夫
 佐藤  潔
 桑原 路子
 野村 光二
 堀川 安志
 桑原 路子
 井尻 義信
 阿部 七四
 阿部 三也
 藤原キヨノ
 今井 信一
 佐藤  潔
 若原  栄
 阿久津 赴
 佐藤 道恵
 伊藤  ィ先
 岳上 幸子
  原  修
 横沢田鶴子
 須藤 洲一
 槽谷 良子
 徳武 忠男
 笹原 藤彦
 富岡 静世
 太知 義盛
 加藤 一大
大正 3・10・13
〃 6・ 3・31
〃 8・ 5・08
〃 9・ 9・01
〃 9・11・26
〃11・ 6・06
昭和 2・ 6・01
〃 2・ 6・21
〃 4・ 4・15
〃 7・ 3・31
〃 8・ 6・14
〃10・ 4・20
〃12・ 4・23
〃13・ 4・10
〃14・ 4・30
〃14・10・31
〃15・ 5・31
〃16・ 2・01
〃17・ 3・31
〃18・ 3・31
〃19・ 2・24
〃19・  ・  
〃19・ 4・30
〃20・ 3・31
〃20・ 6・30
〃22・ 1・15
〃23・ 4・15
〃24・ 3・30
〃25・ 5・02
〃26・ 6・07
〃27・ 9・01
〃29・ 4・01
〃30・ 3・30
〃30・ 6・16
〃32・ 4・01
〃35・ 4・01
〃34・ 4・01
〃35・ 4・01
〃36・ 4・01
〃37・ 4・01
39・ 4・01
〃39・ 4・01
〃41・ 4・01
〃43・ 4・01
〃46・ 4・01
大正  6・ 3・30
〃 8・ 5・08
〃 9・ 5・08
〃11・ 4・26
〃10・12・26
〃 2・ 6・10
〃 8・ 5・12
〃 4・ 4・15
〃16・10・15
〃10・ 4・20
〃 2・ 2・30
〃13・ 4・ 5
〃14・ 8・31
〃14・ 4・30
〃14・10・20
〃15・ 5・27
〃16・  ・  
〃17・ 3・31
〃18・ 3・31
〃19・ 7・15
〃24・ 7・10
〃20・ 3・31
〃19・ 7・15
〃21・ 3・31
〃24・ 3・31
〃22・ 4・01
〃29・ 6・30
〃30・ 5・31
〃29・ 3・31
〃27・ 3・31
〃29・ 5・31
〃35・ 3・31
〃31・ 5・31
〃35・ 3・31
〃36・ 3・31
〃39・ 4・01

〃37・ 3・31
〃41・ 3・31
〃41・ 3・31
〃46・ 4・01
〃42・ 4・01
〃44・ 4・01
2・05
2・01
0・11
1・07
1・01
5・00
5・11
1・09
12・06
3・00
3・05
3・00
2・04
1・00
0・06
0・06
・  
0・05
1・00
1・03
5・06
1・00
0・04
1・00
3・09
0・02
6・02
6・02
3・10
0・09
1・08
6・00
0・11
4・00
4・00

2・00
5・00
4・00
7・00
3・00
3・00
歴代教員一覧(中学校)
種別   氏  名   本校就任年月日 本校退任年月日 年数(年・月)













 土屋 久人
 佐藤  潔
 小田島 栄
 今井 テル
 吉塚 勇道
 岡部 邦彦
 佐藤  潔
 砂田 和雄
 佐藤 道恵
 村松 詮士
 藤原 晃哉
 五十嵐幸男
 石川喜代次
 井尻 義信
 天野 邦弘
 土屋 久人
 滝本 郡子
昭和24・ 6・14
〃24・ 7・10
〃25・ 5・31
〃24・11・01
〃29・ 4・16
〃29・ 4・16
〃29・ 5・16
〃30・ 4・01
〃30・ 7・01
〃31・ 7・01
〃32・ 4・01
〃34・ 4・01
〃       
〃22・ 4・01
〃38・ 4・01
〃38・ 4・01
〃38・ 4・01
昭和22・12・01
〃27・ 9・01
〃30・ 3・31
〃       
〃32・ 4・30
〃33・ 9・30
〃31・ 4・16
〃34・ 4・01
〃35・ 3・31
〃35・ 3・31
〃35・ 3・31
〃37・ 4・01
〃37・ 6・01
〃22・ 2・10
〃39・ 3・31
〃39・ 3・31
〃39・ 3・31
4・06
3・02
4・10

3・00
4・05
1・11
4・00
4・09
3・09
3・00
3・00
3・00
0・06

児童数の変遷(小学校)









  最初にもどる
 
 年 度    男     女     計        備   考    
大正 3
 〃  4
 〃  5
 〃  6
 〃  7
 〃  8
  〃  9
17
25
28
31
48
54
50
11
11
16
19
24
33
38
28
36
44
50
72
87
88
志撫子特別教授場時代
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
 (4月から7月まで)
 〃  9
 〃 10
 〃 11
 〃 12
 〃 13
 〃 14
 〃 15
昭和 2
 〃  3
 〃  4
 〃  5
 〃  6
 〃  7
 〃  8
 〃  9
 〃 10
 〃 11
 〃 12
 〃 13
 〃 14
 〃 15
51
44
43
41
50
51
53
65
65
57
63
68
71
74
78
86
73
84
79
74
69
39
43
43
47
50
54
57
57
57
53
61
66
71
77
70
82
77
84
78
76
67
90
87
86
88
100
105
110
122
122
110
124
134
142
151
148
168
150
168
157
150
134
 (8月から3月まで)
     ↓
 志撫子小学校昇格後
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
 〃16
 〃17
 〃18初
    高
 〃19初

〃20初

〃21初
64
74
60
21
62
25
69
17
80
17
69
67
57
15
51
16
57
13
59
12
133
141
117
36
113
41
126
30
139
29
志撫子国民学校時代

 注=初=初等科
    高=高等科
〃22
〃23
〃24
〃25
〃26
〃27
〃28
〃29
〃30
〃31
〃32
〃33
〃34
〃35
〃36
〃37
〃38
〃39
〃40
〃41
〃42
〃43
〃44
〃45
〃46
〃47
〃48
〃49
〃50
〃51
〃52
〃53
〃54
67
70
69
76
74
67
77
80
82
83
79
79
77
70
68
63
51
37
32
27
18
18
14
11






10
12
58
59
70
72
73
70
72
68
61
65
74
72
60
57
55
47
34
25
19
20
13
10
13
12



10




125
129
139
148
147
137
149
148
143
148
153
151
137
127
123
110
85
62
51
47
31
28
27
23
16
14
14
12
13
15
18
18
15
 志撫子小学校時代

児童数の変遷(中学校)
 年 度    男     女     計   備     考
昭和22
〃23
〃24
〃24
〃26
〃27
〃28
〃29
〃30
〃31
〃32
〃33
〃34
〃35
〃36
〃37
16
23
35
34
37
38
37
38
32
42
36
31
31
36
40
22
25
32
33
25
27
36
36
41
36
35
28
37
36
34
38
48
67
67
62
65
73
74
73
78
71
59
68
72
74
68
 計呂地中学校
   志撫子分校時代
 (4月から8月)
 (9月から3月)
 志撫子中学校昇格後

 環  境  本校は湧別町志撫子、サロマ湖畔より焼く2キロメートル沢に入った所に立地している。学校は山に囲まれ、附近には数戸の農家が点在している。部落戸数は、およそ50戸で、沢の中は農業、浜は漁業といった産業で構成されており、うち11戸から14名の児童が通学している。
 児童の約半数は自転車通学(夏冬を通じて)で、遠い者で約4キロメートルを毎日通学している。他の児童は、芭露の統合中学校のスクールバスで通学している。このため、冬の道路もほとんど確保されている。
 現校舎は、昭和44年10月に改築されたもので、普通教室、音楽教室、理科室、図書室などを備えており、各教室は少人数学級用として設計されている。教材、教具なども、人数のわりには多いといえよう。また校地内には、花壇、築山、池、遊動具がある。

志撫子小学校校歌   ○ 校歌制定の期日  昭和31年3月21日
  ○ 校歌制定の由来
     大正9年10月9日、かって当校の生徒であり当校の旧職員である大塚盈氏より「心をこめて我が巣立ちせし其校に贈る」と添書して、歌詞の寄贈に興り其の後久しく作曲の機会を得ないでいたが、昭和30年の秋、隣接計呂地小中学校に於て、新規購入のピアノの披露演奏会があり、此の為に来られた酒井武雄氏が同校校長大畠繁利氏の同窓同期生の関係にあるを好機として大畠繁利氏の斡旋を願い酒井武雄市の快諾を得て作曲完成を見るに至った。而して昭和31年3月21日の卒業証書授与式より是を使用することになった。

 (一)  柴におう     あかつきの
      雲を湖水の   上に見て
      展くは心     この誠
      幸あり志撫子  わが母校
      いざいざ友よ  勉めなむ

 (二)  光に燃ゆる   さみどりの
      畠の広さを    庭に見て
      伸ばすは望   この誇り
      幸あり志撫子  わが母校
      いざいざ友よ  勉めなむ

 (三)  深雪に映ゆる  常磐木の
      山を学びの    窓に見て
      磨くは智徳    この身体
      幸あり志撫子  わが母校
      いざいざ友よ  勉めなむ

学校教育目標  (一心三力目標)
 一、明るく心の豊かな子ども
   ・・・・・明るい子ども・・・・・
 二、健康で体力のある子ども
   ・・・・・強いからだの子ども・・・・・・
 三、探求心に燃え学力のある子ども
   ・・・・・よく考える子ども・・・・・
 四、勤労と責任を重んじ実践力のある子ども
   ・・・・・進んで働く子ども・・・・・
最初に戻る