志撫子郷土史
風雪の歩み
志撫子部落開基70周年
志撫子小学校開校60周年
(〜昭和48年現在)
1,仮校舎時代 | 明治33年畑田春松氏の定住からはじまり、同44年の団体、引き続き本州各県より続々と個人来住者があって急激に戸数が増加した。学齢児童数も増加する中で、部落有志が学校の設置に立ち上がったのである。 当時の管理者三浦折郎氏と再三にわたる協議を重ね、、一時、芭露原野番外地尾張蔵之助氏所有の建物18坪を借受仮校舎として、芭露尋常小学校所属志撫子特別教授場として大正3年10月1日開校するに至った。当時の学齢児童数は28名(男子17名、女子11名)で準訓導岡田良平氏が教育として同月2日より授業を開始する。(当時の芭露尋常小学校校長は桑原清太郎氏である。) 学校はできたものの通学の難儀は予想以上のものであったらしい。ちなみに学校沿革史によると、「移住の目的は遠き北海の不毛の地を開拓し、新天地を建設すべき雄図を抱き来住せしめしものの3屏立せる山嶽をめぐらし千古斧鉞の森林に一度身を寄せ不慣れな伐木に開墾に専心した。当時、移住者の苦辛の心境に立入らば、如何に物さびしかりを想像するに忍びないものがある。かかる折に山道をたどり、川を越え、伐倒したる木を超え、丸太橋を渡り通学した児童の苦喪をも察し得られるであろう。・・・省略・・・」と記されている。 |
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2,新校舎完成移転の時代 | 部落の開発は年を追って発達、児童数も増加の一途をたどり、ここに学校新築移転の声が強まった。部落諸氏と管理者との協議が再びなされ、校舎新築のための経費を部落で負担することで、芭露原野南8線公共用地(現位置)に新築され、大正5年4月25日旧校舎より移転し開校式を挙行するに至る。校舎面積は16坪、尚児童数は44名である。 ・・・学校沿革史・・・ 「学校移転理由」 (1) 当特別教授場は、志撫子部落全体の学齢児童を通学せしむるものにして、旧来の地点にては東北に扁して児童通学不能の者あり。 (2) 旧来の校舎は仮校舎にして、学校及び教室は学校たるの要素を具備しおらざること。 (3) 仮校舎は公用のものにあらずして、私人の借家たる事。 |
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3,尋常小学校昇格の時代 | 以来、年々来住者があり、児童数も増加し校舎の狭隘に悩まされるようになって、増築の義が起こり、大正9年村費をもって教室16坪、玄関4坪の増築工事がなされた。たまたま大正9年4月1日より計呂地尋常小学校の所属となっていたが、増築と同時に2学級に編成され、ここに昇格認可を得て特別教育による尋常小学校となり、志撫子尋常小学校と改称し、桑原宗英訓導が任命されたのである。時に大正9年8月1日のことである。尚、当時の児童数は90名である。 |
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4,第2次移転増築の時代 | ◎ かくて年々戸数増加し、大正13年頃より児童数も100名を超すようになり、教室及び屋外運動場(グランド)の狭小さが再び問題になってきたのである。昭和2年4月30日、校長の移動があり蝦名孫次郎校長が着任するの及び校舎の移転増築は、本校児童教育上最大の急務だとして関係方面に働きかけ、同年5月の臨時村議会に提案、増築費は村費、移転費は部落負担となって決定、実施を見るに至った。 (9月着工、10月竣工) ◎ ついで昭和3年御大典事業として、御真影奉置所が建設された。このことについて学校沿革史は「千載一遇の御大典んの秋にあたり記念事業として部落一同の熱望と村理事者、村議会議員諸氏のご理解により御真影造営の儀は端なく決定され、事皇室にかかわるので村直営にて厳かなる地鎮祭を10月7日行わせられ事業に着手したのである。時恰中秋打続く快晴此の上もなく良順にして工事順調に進み竣工期日1日の相違なく完成を見たのである。 此の間工事監督者工事に従事せる職人人夫に至るまで一様にに真面目に孜々とし仕事に精励したことは今更ながら御盛徳の然らしむる所として深く感ずる次第である。かくて、11月5日堅牢無比、善美をつくせし奉置所は見事竣工したのである。最も意義深き拝殿落成式御真影奉迎順序、其の他の諸準は部落総会を以て決定されたのである。」とある。式典の外に旗行列、祝宴、余興もあり部落をあげての大行事であった。 ◎ 児童数は益々増加し、昭和7年には140名を越し4月1日付で3学級編成の認可を得た。併し教室がなく、青年会館を教室として活用していたが、間もなく1教室増築され10月20日に落成、正常な形態にもどった。 ◎ 昭和10年、校舎の破損腐朽の個所が多いことと、廊下のないため不便が多かったため、村議会に提案、校舎改築が決議され11月竣工を見る。 |
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5,国民学校及び高等科 併置の時代 |
◎ 大戦の兆、強まる昭和16年4月より志撫子国民学校と改称された。(新しい教育体制の確立化へと八紘一宇の肇国精神を内包する国民の基礎的錬成をなす国民学校令が公布された)ここから学校教育内容も戦時的色彩を帯びるに至り、同年12月8日、わが国は有史以来の大戦争に突入したのである。 ◎ 昭和18年4月に高等科が設置された。従来、高等科進学児童は紙芭露国民学校の高等科に通学していたが、遠距離のため通学に不便が多く、昭和17年より高等科併置の運動を起こし、部落連合会長図子甚助氏先頭にたち、福原、桑田、多田、深沢、橋本の各氏これに協力し、部落の総意をまとめて、村長、ならびに網走支庁長に陳情の結果、ようやく実現を見るに至った。教室の設備がないため志撫子神社の傍にあった青年会館をもってきて教室に充当、授業を開始したのである。この頃、次第に戦局もたけなわとなり、銃後を守る人々の叫びも激しく、老いも若きも生産の増強に日夜挺身する。戦局の荷烈深刻化のため、授業は、殆ど全面的に停止せざるを得なかった。 ◎ 昭和20年8月15日、ポツダム宣言の受託となって、戦争は悲惨な状態に於て終りを遂げた。敗戦によって連合軍の進駐、国内の混乱は教育に対しても大変動を与え、戦時教育体制は廃止された。かくて日本の教育は占領軍によって管理され、同年11月、軍国主義的教材、国家主義的教材の削除となり、児童はスミをむって、文意の通じなくなった教科書を使用するなど、混沌とした中で学習を続けなければならなかった。世相の混迷、国民生活の窮乏は極限に達した時代であったが、やがて教育の大刷新が行われ、教育基本法、及び学校教育法が公布され、新しい教育の体制を迎えるのである。 |
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6,志撫子中学校昇格 の時代(戦後) |
◎ 終戦後,昭和22年5月1日より中学校を併置したが、当時は計呂地計呂地中学校の分校としてであった。同24年9月1日、志撫子中学校に昇格、独立したが教室が不足、25年2教室となる。 ◎ 本校長年の宿題に屋内運動場の建設があった。当時国では僻地教育の振興のため僻地集会室建設に対する助成を行っていた。それを適用して、本校にも昭和26年に建設する運びとなった。60坪と国の基準で定められていたが狭小ということで村にその拡張を陳情、その結果、部落の負担を26万円とすることで80坪に決定、建設された。 |
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7,中学校統合、小学校 新校舎落成の時代 |
◎ 昭和35年頃より、農村の過疎が進みはじめ、児童数の減少傾向が見えた。その頃、町教委では、町内各中学校の統合を計画が具体化され、各部落に於いて懇談会、説明会が開催しはじめたのは昭和36年からである。部落の文化センターとしての学校、部落と学校のつながりは、非常に強いきずなで結ばれているだけに、中学校のみの統合とはいいながら、部落内に大きな波紋を投げかけることになった。37年度のは、部落と町教委との話し合いが数多く開催されている。賛否両論、きわめて厳しい状態であったが、38年1月になって10数ヶ条の条件を付して統合することに決定したのである。当時の条件は、およそ次のようなものであった。 (一)統合は、学年中途で行うことを避け、若干の準備期間をおく。(49年4月を目途とする) (二)通学列車を指定し、放課後列車時刻までの生徒管理は、責任をもって学校で行うこと。 (三)志撫子停留所を移転し、通学に便ならしめること。 (四)通学交通費の半額を町で助成すること。また、志撫子停留所までの交通機関として、自転車を無償貸与し、停留所には自転車置場を設置する。 (五)制服その他で統合により、特別に経済負担のかからぬよう、十分配慮すること。 (六)将来、上芭露方面の統合を考慮し巡回スクールバスの運行、及び上芭露方面への一般交通の便宜を図るため、志露峠経由の道路を改良、整備すること。 (七)近い将来、(3年以内)計呂地、上芭露方面の各中学校を統合すること。 (八)冬期間、通学に不便なため寄宿する必要が生じた場合、寄宿舎を設置し、舎監をおいて、管理すること。 (九)将来、他校が投稿の条件より有利な条件で統合された場合は、 その条件を当校にも適用すること。 (十)小学校の改築を優先的に行うこと(順不同) 以上のような条件付きで昭和38年4月から各月統合、39年4月から実質統合されたのである。現在、スクールバスが配置され、朝7時半、夕方4時頃の2回、12名の中学生を統合校湖陵中学校(現芭露中学校)へ、送り迎えをしている。 ◎ 中学校の統合時の条件であった小学校の全面改築工事は、昭和44年7月着工、11月6日に完成、落成祝賀会が盛大に開催された。屋内運動場を除く、普通教室3,職員室、音楽室、保健室、水のみ場、便所等、すべて新しくなり、近代的な校舎が誕生したのである。寒風吹きすこぶ往時のおもかげは、殆ど残っていない。 |
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8,現在の学校 最初にもどる |
◎ 過疎が進み、児童数は昭和32年度の152名を最高に、以後減少の一途をたどり、38年度に100名を割るが依然、減少はとどまらず42年度、31名、学級数も3学級から2学級と減になり、教員数も3名となった。 現在は、2学級、14名であり、最高だった32年度と比較するとその10分の1に満たない。 ◎ 昭和47年度の部落総会に於いて、部落開基70周年、開校60周年記念式典、及び事業等が提案、其の開催が決定以後協賛会が設置された。48年度頭初より事業遂行に鋭意努力すると共に本校環境整備や、教育内容の充実に努め、8月15日を迎えるに至ったのである。 ・・・・おわりに・・・・ 大正3年、素朴な愛情に満ちた寺子屋式教育が始まって以来、営々、発展してここに60年、志撫子の開発の進展とともに、本校教育の歴史は刻々と形成されてきたのである。 今、60年の踏みあとを一つ一つ回顧するにあたり、先人の高い理想と業績をしのび、また、その努力に感謝し、明日の本校創造と、社会文化発展のために、なお一層の意欲を燃やしていきたいものである。 |
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学校沿革年譜 |
歴代校長一覧 (小学校)
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児童数の変遷(小学校) 最初にもどる |
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児童数の変遷(中学校) |
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環 境 | 本校は湧別町志撫子、サロマ湖畔より焼く2キロメートル沢に入った所に立地している。学校は山に囲まれ、附近には数戸の農家が点在している。部落戸数は、およそ50戸で、沢の中は農業、浜は漁業といった産業で構成されており、うち11戸から14名の児童が通学している。 児童の約半数は自転車通学(夏冬を通じて)で、遠い者で約4キロメートルを毎日通学している。他の児童は、芭露の統合中学校のスクールバスで通学している。このため、冬の道路もほとんど確保されている。 現校舎は、昭和44年10月に改築されたもので、普通教室、音楽教室、理科室、図書室などを備えており、各教室は少人数学級用として設計されている。教材、教具なども、人数のわりには多いといえよう。また校地内には、花壇、築山、池、遊動具がある。 |
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志撫子小学校校歌 | ○ 校歌制定の期日 昭和31年3月21日 ○ 校歌制定の由来 大正9年10月9日、かって当校の生徒であり当校の旧職員である大塚盈氏より「心をこめて我が巣立ちせし其校に贈る」と添書して、歌詞の寄贈に興り其の後久しく作曲の機会を得ないでいたが、昭和30年の秋、隣接計呂地小中学校に於て、新規購入のピアノの披露演奏会があり、此の為に来られた酒井武雄氏が同校校長大畠繁利氏の同窓同期生の関係にあるを好機として大畠繁利氏の斡旋を願い酒井武雄市の快諾を得て作曲完成を見るに至った。而して昭和31年3月21日の卒業証書授与式より是を使用することになった。 (一) 柴におう あかつきの 雲を湖水の 上に見て 展くは心 この誠 幸あり志撫子 わが母校 いざいざ友よ 勉めなむ (二) 光に燃ゆる さみどりの 畠の広さを 庭に見て 伸ばすは望 この誇り 幸あり志撫子 わが母校 いざいざ友よ 勉めなむ (三) 深雪に映ゆる 常磐木の 山を学びの 窓に見て 磨くは智徳 この身体 幸あり志撫子 わが母校 いざいざ友よ 勉めなむ |
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学校教育目標 | (一心三力目標) 一、明るく心の豊かな子ども ・・・・・明るい子ども・・・・・ 二、健康で体力のある子ども ・・・・・強いからだの子ども・・・・・・ 三、探求心に燃え学力のある子ども ・・・・・よく考える子ども・・・・・ 四、勤労と責任を重んじ実践力のある子ども ・・・・・進んで働く子ども・・・・・ |
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