第9編 通信と報道
第2章 新聞と放送
(1)新聞事情 | |||||||||||||
開拓期から戦前の購読 | 明治四三年に四号線の戸沢直吉が、「北海タイムス」と「小樽新聞」を主に、東京の新聞の売捌権も得て、本町方面の新聞販売の取扱いをはじめた。新聞社から郵送されてくる新聞を、遠方には郵送し、いまの中湧別市街周辺までは配達していたというが、購読者が手にするのは早くて発刊後三〜四日を要し、吹雪など天候のひどいときは一週間もー〇日もかかり、購読者は一日千秋の思いで持ちこがれたという。購読者層も役場、学 校、商店などが主で、農家では山重須計、国枝善吾、上野徳三郎らごく少数に限られ、配送部数は全部で三四、五部に過ぎなかったというが、これが当時としては最新で最大のニュース源であったわけである。 その後、開拓の進展とともに新聞購読が普及したことは容易に推測できるが、確たる資料は見当らない。ただ社会背景からいえることは、第一次世界大戦の影響による農産物相場の好況で、農家に新聞購読が波及したであろうということである。加えて大正五年には湧別線鉄道が全通しだから、札幌〜池田〜野付牛〜湧別と経由する新聞輸送で人手がスピードアップされ、新聞か重宝されたことは想像に難くないところである。なおまた農家の購読は冬期間に集中し、通年購読者が少なかったと伝えられている点にも、農家が収穫物の販売に際して新闇相場欄に気を配っていたことをうかがわせるものがある。 戦前にもっとも普及した新聞は、道庁公示を登載し政治や社会記事も豊富であった「北海タイムス」と、経済記事に特色があって相場情報が豊富であった「小樽新聞」の二紙で、「北海タイムス」は官公庁や学校に、「小樽新聞」は商工業者や農家に多く読まれた。 |
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戦時中の報道管制 | 時代の進展とともに地方新聞の創刊も相次ぎ、昭和一〇年ころには、道内発行紙も十数紙をかぞえ、本町方面にも「北見新聞」 「網走新報」 「北東民報」 (現在の「遠軽新聞」の前身)「湧別新聞社」(中湧別)などが散見されるようになった。 しかし、日華事変〜太平洋戦争という事態は、極端な報道管制がしかれ、記事は軍部や治安当局の厳しい検閲を要することとなり、言論と報道の自由が奪われるにいたった。さらに国家総動員法に基づく新聞事業令が発せられて、一道府県一紙主義が強制された結果、昭和一七年一一月一日に自決的に廃休刊した以外の道内紙を統合して「北海道新聞」の発刊となったが、戦局の悪化とともに新聞用紙が欠乏(江別の王子製紙では木製軍用機生産に転換などがあった)して、二頁建の日刊に追いやられ、同一九年には夕刊が廃止されるにいたった。国民は敗色の真相も知らされぬままに、敗戦という終戦を迎えたのである。 |
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戦後の発行復調 | 終戦とともにGHQ(連合軍総司令部)が新聞解放指令を発し、言論と報道の自由が復活するにおよんで、永く重苦しかった抑圧から解放され、新聞用紙や印刷機材の苦しい中にも、新しい新聞社が創刊を行い (集中排除法による北海道新聞からの分離も含めて)、現在の「北海タイムス」の前身である「新北海」をはじめとし、「北見新聞」や「網走新聞」も復刊し、やがて「遠軽新聞」も復刊をみた。昭和二四年一〇月当時の町内の主要新聞購読数を次真にみよう。 戦後の新聞事情の特色としては、復刊、新刊のほかに、小・中学生向けの新聞、スポーツ新聞(芸能記事を併載)の台頭があげられる。特にスポーツ新聞(「スポーツニッポン」 「日刊スポーツ」など)は、プロ野球を頂点とするスポーツの復活の波に乗って購読されるようになった。もう一つの特色は、昭和三0年代後半から中央三紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)〕が本道に積極的に進出したことで、それまでの一戸一紙購読から道内紙と中央紙の複数購読の傾向が兆したという事情である。さらに付石すれば、駅の売店網が拡充されて、新聞の店頭購入の道が聞かれて、旅行者などは確かに複数購読者になっている。ちなみに昭和五六年八月現在の町内新開店の主要新聞販売部数を掲げよう。
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地元新聞の発行 |
昭和三0年四月に経済復興の時流に乗って豊原洋が主宰する「湧別新聞」が刊行されたが、三号ぐらいで廃刊となった。購読料もさることながら、広告収入面での地元新聞の活路が厳しいことを両紙とも物語っている。 |
(2)ラジオ放送 | |
無電期のラジオ | 日本で最初のラジオ放送が流れたのは大正一四年三月で、東京からのコールサイン「JOAK」でスタートしたが、本町方面で聴取が試みられたかどうかは不明である。次いで昭和三年六月に札幌放送協会が、コールサイン「JOIK」で開局してからラジオヘの関心が高まったとみえ、 昭和三年十一月三日の御大典記念に現在の聖明寺に於て、当時四号線の遠藤某所有のラジオを借用して一般に無料公開した。 これが上芭露におけるきき始めである<上芭露> 無電地帯のためラジオ普及は全く行われなかったようで、昭和四年ころ電池式のラジオにより大口丑定、つづいて梶原友慰など漸次増加したようだ。<芭露> 当地区における最初のラジオは、昭和八年頃、佐藤則男校長の所持していた充電式のものだったといわれている<東芭露> という記録がみられるが、無電化地帯ゆえの普及の低さを映している。 無電地帯でのラジオ聴取は、戸外に高いアンテナを架設し、乾電池か充電によって、ラッパつきの受信機で行うのであったが、性能が低く、雑音にわざわいされて聴取しづらいのが常であった。従って、その後の普及は、 昭11 一二七戸(普及率 六・六%) ″15 二三五戸( ″ 一二・七%) と伸びたが、上芭露では昭和一五年ころわずか一二戸程度であったというから、ほとんどは、すでに通電していた湧別市街〜匹号線市街方面のものであったといえる。 |
戦争とラジオ | 日華事変〜太平洋戦争が進行する過程で、ラジオの果した役割は大きかった。 「大本営発表」=戦果報道、「宣戦布告」=玉音放送、「防空警報」や「国民歌謡」など、ニュースの提供と志気の昂揚の面で、その即時性と聴覚性は、新聞以上に貴重な存在であった。また、昭和二〇年八月一五日正午には「終戦の大詔」が玉音放送され、むなしさと悲憤の交さくする涙にくれたことなども、戦争とラジオのかかわりの大きかったことを物語る光景の一つであった。 |
電化とラジオの普及 | 戦後、急速に進んだ農村電化により、ラジオ聴取も急速に普及し、ニュース番組のほかにも「街頭録音」 「真相はこうだ」 「話の泉」 「とんち教室」 「鐘の嗚る丘」 「君の名は」 「やん坊にん坊とん坊」などの番組に聞き人ったものであり、ラジオ体操が学校や各地区にも浸透することとなった。 昭26 一、五一三戸(普及率六七%) ″30 一、八九〇戸( ″ 八二%) ″32 一、九三七戸( ″ 八三%) ″35 二、〇四三戸( ″ 八四%) |
有線放送 | 農業協同組合や漁業協同組合が、組合員との間の連絡を密にするとともに、連絡の即時性と具体性を向上させるため、有線放送施設を設け、番組を編成して、連絡のほかにNHKラジオ番組も併せて放送するようになった。 ■芭露地区 昭和二四年に芭露農協と上芭露農協の共同事業として、芭露地区一帯の農家への営農指導と農協からの連絡に併せてラジオの共同聴取を目的とした有線放送施設が設置された。上芭露に本機を置き、同年一二月一日から放送が開始され、のちには役場行政事務連絡、教育文化番組も加味されて、多くの便宜をもたらした。 両農協合併後は本機が芭露農協本部に移されたが、東芭露は部内放送用本機が昭和二六年に東芭露小中学校に設置(のち農事組合員宅に移転)された。しかし、ラジオやテレビの普及とともに連絡通報のみの利用に変身し、地域集団電話が架設されるにおよんで、施設の老朽化から廃止の運命をたどった。 ■計呂地地区 芭露地区と同様の目的で、昭和二五年一一月一日から計呂地農協に本機を据えて、芭露と同じような放送を開始し、農協合併後は芭露農協本部に本機を移して芭露地区と一体化をみたが、終えんの事情は芭露と同じである。 ■湧別地区 昭和二三年からニカ年計画で施設した湧別農協管下の有線放送も、目的は芭露の場合とまったく同じで、昭和二五年に放送が開始された。このとき、まだ電化されていなかった信部内方面では、この放送は唯一無二の娯楽であり、暗いランプの下でスピーカーに耳を寄せ合って楽しんだ。 という。しかし架線延長が長く施設も充全でなかったから架線の故障が多発し、難聴を強いられたこともあったという。 昭和三八年一二月に川西地区の地域団体加入電話架線により、同地区の有線放送施設は取り外され、他も芭露同様の経過をみて、地域集団電話の開通とともに順次撤去ざれ廃止された。 また、湧別漁協管下の登栄床およびテイネー方面は昭和二九〜三〇年のニカ年で全戸に有線放送が施設されたが、てん末は他と同じである。 |
ラジオ聴衆の様変り | わが国の放送は逓信省が管轄する国営事業であったが、昭和二五年の「放送法」により日本放送協会=NHKに改組され、公営放送となった。けれども聴衆料をラジオ設置者から徴収することには変わりはなく、今日も継続されている。 その後、昭和二六年に民間放送事業が認可されるにおよんで、放送事業のNHK独占は崩れ、本道でも北海道放送(HBC)がラジオ局を開局し、遅れて札幌テレビ放送(STV)も開局して、にぎやかな電波合戦を展開するにいたった。民間放送の場合は後述のテレビ放送も併せて、すべて商業ペースの広告(コマーシャル=CM)料で事業がまかなわれ、聴取料を徴収することのないのが、一般に耳新しくひびいた。 しかし後述のテレビ放送の実現は、相対的にラジオ聴取率を低下させ、家庭用ラジオの実態は把握できない時代となったが、ここにきてラジオの効用は新しい分野を切りひらくことになった。それは、従来の真空管方式によるラジオに代って、技術革新によるトランジスタラジオが出現したことによるものである。真空管ラジオにくらべて格段に性能がよく、しかも小型化が進み、旅行やレジャーの携帯用から車用(カー・ラジオ)まで開発され、加えて深夜放送やFM放送など多様な放送方式が実現して、ラジオ聴取は大きく様変わりしてしまった。 |
(3)テレビ放送 | |||||||||||||||
白黒テレビの放送 | NHK東京テレビ放送局が本放送を開始したのは、昭和二八年二月一日のことで、民間テレビ放送局では同年八月の日本放送が最初であった。本道では同三一年一二月二二日にNHK札幌テレビ放送局が試験電波を送ってテスト放送を行ったが、本町では受像できない状態であった。 昭和三二年四月にNHK札幌局とHBCが同時に本放送を開始して、町内でもHBCテレビの受像に成功する者があらわれ、テレビに対する関心が強まったようである。そして同三四年にSTVもテレビ放送を開始したが、いずれにしても映像の不鮮明に災いされて苦労したようで、 三十四年九月湧別市街のモカ食堂を初め五、六戸にー〇b近くの支柱にー〇素子のアンテナが立てられテレビ視聴の扉が開かれた。しかし映像は不鮮明で視聴に満足できないものであった。このようなことからテレビ販売業佐藤勝巳は希望者六、七十戸を取りまとめて、共同聴取施設の許可を受け三十六年三月二十五bの鉄塔にアンテナを取りつけ、有線方式に改善してHBC聴取に成功した。 という話が伝えられている。そして昭和三六年四月にNHK網走テレビ放送所の運用が開始されて、聴取台数は次のように増加した。
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カラーテレビの放送 | カラーでテレビ放送が行われるようになったのは昭和三五年からであるが、本町の場合は難視聴区域であったため、カラーテレビの導入は比較的遅れ、同四五、六年から活発になったようである。そのあたりを次表に掲げるが、過疎化による戸口の減少にもかかわらず、カラーテレビ台数は着実に増加している。
なお、道内のテレビ放送局は、NHK、HBC、STVが「VHF電波」により開局したが、昭和四〇年代に入って「UHF電波」によるテレビ放送免許が行われて、昭和四三年に北海道テレビ放送=HTB、同四七年に北海道文化放送=UHBが開局し、NHK以外は民間放送である。 |
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難視聴解消の経過 | 昭和三六年にNHK網走テレビ放送所の運用が開始されて、本町でもテレビの普及をみるにいたったとはいえ、地形の関係で上芭露、東芭露、西芭露、計呂地、志撫子など山峡地帯では満足な受像が困難であった。このため、 上芭露市街では三六年六月にテレビ受信組合が役立され、中継塔を建てて、有線方式で家庭に電波を導いて視聴した。次いで 四六年四月に改修工事が行われ、NHK運営の共同受信施設となって映像は鮮明になった。当時組合員は七〇名であった。その後、芭露テレビ中継局が施設されたことにより、共同受信施設は五一年三月に無償で払下げられ、テレビ受信組合の施設として自主運営している。<上芭露> アンテナを高く揚げたが映りは悪く、画面は不鮮明で雨が降ったような状態であったが……、その後、ある人は山頂に、またある人は……とより高い場所に、よい電波を求めてアンテナを立て……<東芭露ほかの沢地帯> という営みがみられた。 昭和五〇年一一月に、上芭露の王子山林の頂上に建設をみた「芭露テレビ中継局」は、上芭露市街地以外の、いわゆる沢地帯の受像の不安定解消のため地域住民から施設を要望されていたもので、これによってNHK関係のチャンネルだけではあるが、沢地帯でも鮮明な映像がみられるようになった。なお、これより先の昭和四八年に、若里(佐呂間町の)町有休の山頂にテレビ中継局施設が建設されており、計呂地地区の一部が難視聴解消の恩恵に浴している。 |