中学生期
人は生まれながらにして人為り、人にてありせば可なり・・・齢51にして職をまったくせず。
自分の人に対する考え方は、中学の時に大凡出来上がったと見るべき事象が、多く身の回りにおきた,自分の中学生の3年間は、永く永く田のしかるべく中学生生活、この頃は、自分の周りはと言うと、高度経済成長期に入り中学2年で始めて我が家にテレビが入ったときでもある。
中学1年
制服も新しく、希望に満ちていた中学生、嬉しかったのは制服が新調された事のみ、学校では依然弁当も持てずに走って帰る毎日、でもお陰で走ることは得意になった、中学校3年間で校内マラソンでは3年連続で7位、これは早いのではない、気力の結果、其れが証拠に運動会ではメイン種目のマラソンでは優勝した事がない。
みんなが成長期を迎えている中、親の遺伝か栄養不足かはしらねども、身長が伸びない、体重も増えない、学年で一番になる不名誉な一番である。
小学校の頃より歴史が好きでしたが中学校に入ると其れが顕著に出たようである、先生の歴史の授業が幼稚に見え自分にははなはだ暇な授業に思えた、
これは小学生の頃に、小説、や歴史書等をかなりの数を読破していた為ではないかと思う、この頃から近代史に興味を懐いたようで明治維新以降の歴史にかなりのウエイトを置くようになったのもこの頃であろう。
兎に角1クラスが50人以上もいるので教室が狭い、休み時間には教室にいた記憶がないほど、遊び回っていた。
この時期に祖父が亡くなり、祖母も家に入ってきたので母は、大変な苦労を背負っていたのではないか、自分達が学校に行く前や、帰ってからも家の手伝いやアルバイトを率先して遣っていたのが、母の助けになったのかどうか、少々の金銭ではどうにも為らない処までに追い詰められていたようである、父の相変わらずの酒に金銭は足りるわけはない、困ったモノである、良く人は辛抱しなさいとか、我慢をしていれば必ず考えを変えると言うが、冗談ではない、今現在父は仏様のようである、然し、その結果が母の痴呆となると、人間綺麗事では済まなくなる、ましてや子供に何の罪があるというのか、母が辛抱をするのは夫婦としての機微がそうさせるのであろうが、子供にとって其れを続けることは、地獄の苦難を強いることになると、何故に気づかないのか理不尽でもある、子は鎹と言うが其れも違う、詭弁であり理想で子供の心は購うことはそれ自体罪な事でもあるのを、妻や、母や女性は気づくべきだと思う、駄目なら別離を選択する、其れがあって始めて平等となり、相手に対して常にくさびを打つことに繋がると思う。 其れが夫婦和合と言えるのでは無かろうか。
自分は英語が大の苦手、テストで30点以上を取ったことがない、従って通知票は何時も1、でもこれも勲章としていた。
自分は日本人、何故英語を習うことが必要なのかなんて、変な小理屈を並べてもいた、今考えるとほんとにこまっちゃくれた餓鬼である。
自分の存在を無にして、生きていた時ですから楽しみというものはなかったでしょう、内面的なものに打ち込んでいたのかも知れない
中学2年
この頃の日本国は、経済成長が顕著に表れて働かざるモノ喰うべからず、と言う風潮が蔓延していた時期でもある、反面我が家というと、相も変わらずの酒乱に悩まされていて、日々の子供の想いが父がいなければ、父さえ居なければと言うところが正直なところであり、何時も父を憎んで暮らしていた。
父はモノを断ることが苦手で、何でも引き受けて居た者であるから当然家庭は崩壊をする道筋をひたすら歩き続けていた、自分はと言うと、石川啄木と出会いむさぼるように、一握の砂、悲しき玩具を読んでいた。”働けど 働けどなお わが生活 楽にならざり じっと手を見る
この頃の自分は、右翼に偏っていた頃がある、図書館で、戦前の、大日本翼賛会の出した書物も読みあさる、そして今の現実の政治や経済家のやり方に憤り何度も癇でもやり玉に挙げていたモノで、ある時期(3学期)限界というか、一つの眼では見ることが出来ないことを知る、その頃から第3者の眼を意識をし出す、第3者とは他者のことではなく、自己の眼のことである。
祖母が母と合わなくなり、砂原へ帰る、その時に祖母を引き取りに来た正男叔父さん(父の兄弟の末弟、網元の家を傾かせた張本人)に、土地の権利や諸々を、総て譲渡をする、何とも愉快な話ではないか、家が瀕死の状態の時でさえなを、理想を通す父に、呆れるは、憤るは、家出を繰り返したのもこのため、益々父が憎くなって行く段階の序章。
この年に、坂本九の ”見上げてごらん夜の星を” が出た、この歌が自分を救ってくれた。
自分の中には、今思うと3人の人格が出来上がった時である。 自分を苛み・落とし・虐めても尚癒されない、どんなに自分を痛めても解決が出来ない。 自殺を図った事が3度あったあの忌まわしい出来事が責任や原因が自分にあったと、自分を責め続けて来たときに耐えられなくなった時に人格が出来ている。 だからこの時期には友人や・部活や・先生などの事は自分の中に入ってこなかった。
しかしこの歌を聴いた時に、世界が開けたといっても良いかもしれません、何かがはじけた・・・・
父は憎むべき存在である、しかし、何故か尊敬もしている自分が居た、母を思うときこの世で一番憎い人であり、社会を見るとき精神に一点の曇りを持たない父を、何故か尊敬をする自分、この頃から多重人格の片鱗を見せ始めている。
この時に自分の性格が変わったと実感できた。 性格をコントロールできるようになったのである。
自分がこの家で生きて行くために必要に迫られて会得したもの、感情のコントロール・精神を極限状態から、平穏な状態にまで意図も簡単に行き来することが可能になった。記念するべき10月30日誕生日の前の日。
中学3年
高校受験の準備が、と普通ならそうなるのだろうが、荒木家はそうは行かない、何故なら親自体が学校なんて行かなくてもと思っているのだから、家の手伝いをするのが当たり前な事で、時代も世間の必要もお構いなしなのである。
家で受験の勉強をしようモノなら、もう大変、スコップはとんで来るは包丁は飛び交うはで、とても本など開いても居られない、第一自分の家には勉強机がない、茶托が勉強机の代わり、本を読みたくなったら学校の図書室か、市の図書館へでも行くしか方法がないのである、然しこの頃の自分はそれが悲惨な状態とはついぞ思ったことがない、何とも呑気な性格というか麻痺をしているというか、兎に角余り気にはならなかったのである、したがって自分の兄弟(現在8人)は、学校に行っては居ない、3男忠洋から下が最低限中学卒業が出来た位であるから、およそ察しが付くとは思う。
中学校の総評としては、学校生活に対する思い出がない事、小学校、中学校を通して家の事での思い出はあるが、学校と言われて想いだす事は学芸会や運動会、修学旅行での思い出は実のところ無い。悲しい現実である今思うに。