自  分  史

  自分がこれから敢えて自分のことを公開するのは、自身のことを皆さんに見てもらうことを意識しての事ではなく、今の自分を形作った経過なり順序なりその他諸々の要因が噛み合わさっているモノとは思うが、この日常的に目まぐるしくも変わりうる自分が一体どこから来て、何処へ行くのかお知ろうと思いついたため。
  この自分史は読み進むほどに暗い、心が重くなって来るはずです、然し、この暗い成長過程を書き込まなければ今の自分の、その時々の感情なり思いの起伏は理解が出来ないものと思う。  暗いばかりではなく若干の希望もそこそこにあったのである。


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■ 小学生期

小学1年

  晴れて入学、ランドセルもかわゆく毎日登校をする、なんの屈託のない一生のうちで一番輝いていた頃でなかったかと思う。
父は毎日酒を飲むために働き、母は家族を養うために働いていた、家には両親の姿は何時もない、朝起きれば母はいなく父は明るいときは殆どいない、こんな毎日ではあるが、白いお米が食べられるのが楽しみなのです、おかずは少ないモノのそんなことは全然気にもならない。
毎日が明るく過ごせるのだ、砂原の頃には考えられないことが此処にはある、父が飲んだくれようとも母が毎日家にいなくても、そんなことは自分にはなんの影響もないのである、砂原でのことを思えば、幸せな毎日が此処にある、家の布団は藁を詰めたものであり、天井はと見れば、夜には満天の星空が寝ながらに見えることは、恥ずかしいことではなく、自分には夜空の星を見ながら眠りにつける、幸せなことに思えるのである。
朝起きれば、水汲みに天秤棒を担いで入れ物に少しの水を入れて家まで運ぶ、自分の姓の高さの水瓶にくんできた水を入れるのが辛かった、未だも鮮明に記憶しているのも変な感じである。
  
小学2年
  
  この年に、三男忠洋 四男義洋が砂原より紋別へ来た。
兄弟が来て家族が増えて、母のいない時間は以前よりも増えたが母は何時も笑顔を絶やさずに自分らに向かった、砂原で居る時から比べれば格段の差があったのだろう、父はと言えばやはり酒である、父は網元の生まれであり坊ちゃん育ちなのか貧乏ではあるがやはり甘いと自分は思う。
紋別に、長男政春 次男治男 次女洋子 三男忠洋 四男義洋 七男誠一 三女美枝子が揃う、長男政春は父と共に働き一切の給金を家に入れていたのである、次男治男はよそで働き自分で生計を立てていた、家がもっとも活気に満ちていたあの日の生活、今ではもう二度と帰り来ることのない日々。
  この頃の自分の楽しみはと言うと、食べることは馴れてしまい、もっぱら外での遊びに夢中になったいた、紋別が漁師町として活気に溢れていた、家が繁華街の片隅に位置していた関係で、夜とも成れば罵声や嬌声が響き渡り夜が長かったことを覚えている。

小学校3年

  砂原の祖父が両親を頼って紋別に来た、祖母はまだ砂原に留まっている、来て欲しくはない人であり母はそんな素振りさえ見せないが、自分と同じ思いであったに違いない。  この頃から父に連れられ船の櫓をこぐ練習をさせられた、手が痛くて痛くて泣きながら漕いでも前には進まず父の罵声が飛んでくる、それでも進まなければ手が飛んでくる、船は厭ではないがああまでして怒らなければものを教えられないモノかと、小さいながらも思うことが多い日々。
両親に何かを買って貰った記憶がない、運動会の足袋や上下、鉢巻を揃えて貰った記憶しかない。  この頃から学校に行くのが厭になり休むことばかりを考えていた、この頃は給食はなくみんな弁当を持参していたが、自分はと言うと日の丸弁当におかずが入っていない、この時期周りの子供達の家庭は少し生活が楽になってきていた時期なので、弁当のおかずもちゃんと入っている、恥ずかしいことをこの時期に覚えた。 従って昼休みになると妹を連れて家まで走って帰り昼食を撮り、又学校に引き返すという毎日を過ごしていた、自分は男であるから、多少のことは辛抱は出来るが、妹は物心が付く前に紋別に来て自我が育ってきた頃だから、今でも可哀想な思いをさせたと、自分の所為ではないにしろ後ろめたさを感じている、今でも
紋別は坂の多い町であり、その頃の荷揚げは大八車でリヤカーを買うお金も我が家にはない、兄が働いても自分達がアルバイトをしていても、何時も何時も金欠病のごとく、借金取りに悩まされていた。  金銭感覚がないわけではない、無駄な使い方をしているのでもない父の性格に由来するのである、人が良いにも程度があり、お茶を御馳走になれば何かで返さなければ気が済まない、本当に人がよい・・・

小学校4年

  紋別に図書館が出来、珍しさも手伝って毎日通った、自分が初めて目にする蔵書の数にどうしたらこれを全部読むことが出来るだろうかなんて真剣に思ったりした4年の夏、あの頃の自分には確かに季節感があった、図書館の裏は紋別公園で季節の草花がいろとりどりに咲き誇っていたのを、目が疲れた折りに、花を愛でるこれが4年生のすること・・・金に執着をせず、人に媚びを売らず、咲く花に無心に目をやるときが無上の喜び、家に帰れば現実に引き戻される、じっと無言で只父の愚痴に耳を傾ける、無言でいなければ何時までも寝ることは叶わない父が眠りにつくまで只ひたすらに、祈る、母と兄弟全員がひたすら祈る。
  自分も人並みに初恋を経験したのがこの時期、相手は大原小百合双子の兄弟の姉、妹は百合可愛かった、今あったら変わっているだろうな〜、自分もそうだから言えないが、人の人生は年輪に表れると聞いたことがある、年輪とは皺のことであろうか、皺なら誰にも負けないくらいに多いが,そう言うことではあるまい。
  小学4年と言えば、物事の判断基準もある程度出来ていると思うが、父の存在が精神的に自分の成長を止めてしまった嫌いがある、今でも、自分は自律神経失調症と認識をしている、医者の診断こそ仰いではいないが、精神が異常を来すことがしばしばある。誰にも悟られぬようにはしているが、この時期の自分を今振り返ってみると、人の視る目、人に対する考え方、モノの言う言い回しがこの時期に出来上がったと考えるのが自然である。

小学校5年

  祖父が寝込んでしまう、学校では毎月月謝の催促を職員室で受ける、馬鹿な話である小学校の子供に月謝の催促をしたってどうなるモノでもないはずなのは解っているはずなのに、でも毎月は自分も堪えた徐々に徐々に自分が変わって行く、家は自分にとって居心地の良いものではなく、暗い気持ちの続く毎日にすさむ心が自分ながら解って行く。この頃、何かに逃げ込むように唄ばかり詠っていたそれも一つだけを毎日〜〜
♪覚えているかい 故郷の村を 便りも途絶えていくとせ過ぎた 都へ積み出す 真っ赤な林檎
看るたび辛いよ おいらのな おいらの旨が♪ 此ばっかりです 下手なのに決して上手なわけでもないのに。
何かにぶつけていないと自分の心が壊れてしまうのが解るから、自己防衛で懸命でした、上昇志向など思いも寄らない。
この頃、共鳴して片時も話さずに読みふけっていたのが”石川啄木”の悲しき玩具  一握の砂、自分の今の生活や人に対する想いが良く理解が出来る。
自分は小学校5年生、他の人と自分とのギャップに何故かイライラしていた時期です。

小学校6年
  自分は勉強をした試しがない、机を買うゆとりとて在る筈もないが、アルバイト、父の手伝いに船に乗ることもチラホラではない、元々貰うことのない小遣いを当てには出来ずに(正月の50円、お盆の50円、お祭りの50円一体何時の時代の小遣いなのかと思うほど)新聞配達、牛乳配達、加工場のゴミ拾い、子守自分の時代にこの様な事をしているモノは、まずあるまいに。 
担任の森田先生、感謝して燃しきれない先生です、自分が毎月職員室に呼び出されて、月謝の催促を受けていたときに自分には知られずに、支払いをしてくれた今は亡き先生。
1クラス53人、8学級1学年400人を超える生徒の中で自分はどの位置にいたのか、同級生にどう映っていたのか、学校のことはあまりに記憶がないと言うことは、自分の存在も空気のようなモノであったのかも知れない。 
自分は兎に角、この歳で生活の事で手が一杯の毎日ではあった、家と、色々な処でのバイトの連続が、歳の割に現実的な行動を起こさせていたのだろう。

父が自分を含め子供に見せた後ろ姿は

欲をかくな
真っ正直でいろ
嘘を付くな
モノを盗むな
騙すより騙される方を選べ

この後ろ姿が、自分に物言わずにかけてくるプレッシャーを、心に染み込ませた事が今の自分の行動を端的に表しているとも言えよう。