自 分 史
昭和の小漁師
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自分がこれから敢えて自分のことを公開するのは、自身のことを皆さんに見てもらうことを意識しての事ではなく、今の自分を形作った経過なり順序なりその他諸々の要因が噛み合わさっているモノとは思うが、この日常的に目まぐるしくも変わりうる自分が一体どこから来て、何処へ行くのかを知ろうと思いついたため。
この自分史は読み進むほどに暗い、心が重くなって来るはずです、然し、このくらい成長過程を書き込まなければ今の自分の、その時々の感情なり思いの起伏は理解が出来ないものと思う。 暗いばかりではなく若干の希望もそこそこにあったのである。
砂原村での荒木家系譜
【エピローグ】
平成16年7月30日。晴れ 気温21度 波1,5b 午後4時45分紋別市本町5丁目に、松野病院にて荒木正直永眠。 享年89歳 母の入院する病棟での事態に、母が知ることはない。 老人性痴呆症 何年になるだろうか、8年位でしょう。 5月に入院してから、痴呆が進んだと思う。幸せだったとも思う。
父と結婚してからの母は、幸せとは縁遠い人生を歩んできた。
女三界に家なし
福田家の子として、幼少より家の手伝いに追われ、長じてから見ず知らずの家に貰われて行く。 当時としては当たり前の女性の生き方。
曾祖父(自分から)荒木豊吉 昭和九年六月壱日 死亡
曾祖母 トセ
祖 父 荒木豊太郎 豊吉長男
出生 明治拾五年五月貳拾七日
北海道茅部郡砂原村大字砂原村字彦澗百五拾八番地
明治四拾四年拾壱月貳日太田イネト婚姻届出同月受附
祖 母 イ子
出生 明治貳拾壱年四月弐拾四日 父 太田栄太郎 母リセ 参女
茅部郡砂原村大字砂原村会所町八拾五番地 戸主太田玉太郎妹
明治四拾四年壱月貳日荒木豊太郎ト婚姻
父 荒木正直 豊太郎長男
出生 大正参年拾月五日
北海道茅部郡砂原村大字砂原村字彦澗百五拾番地
紋別市本町七丁目拾五番地ニ転籍昭和四拾壱年八月壱日受附
平成十六年七月三十日 松野医院にて死亡
泰岳院正譽玄空居士 89歳
母 リセ 父 福田慶太郎 母 ヨシ 四女
出生 大正五年九月拾日
北海道亀田郡亀田村字西桔梗五百拾壱番地
昭和拾壱年四月拾四日荒木正直と婚姻
平成十七年五月二日 松野医院にて死亡
蓮世院随譽貞順大姉 88歳
長男 荒木正春
出生 昭和拾壱年四月貳日
北海道茅部郡砂原村大字砂原村字彦澗百五拾番地
昭和参拾九年五月拾八日 山本絹江と婚姻
神奈川県横浜市港区長津田町弐千弐百拾六番地に新戸籍
茨城県つくば市桜ヶ丘にて死亡
長女 照江
出生 昭和拾貳年八月参日 本籍にて
昭和拾参年九月拾参日午後拾壱時五拾分 死亡
二女 セチ 節子
出生 昭和拾参年拾壱月弐拾弐日 本籍に於いて
昭和参拾参年八月六日 原田喜三郎と婚姻
東京都杉並区堀ノ内壱丁目七拾七番地 原田喜三郎に入籍
二男 治男
出生 昭和拾六年壹月弐拾壱日 本籍に於いて
三女 洋子
出生 昭和拾七年八月弐拾八日 本籍に於いて
昭和参拾六年拾弐月四日 宇野仁士と婚姻
紋別市本町七丁目十五番地の三 新戸籍編製
昭和四拾七年六月七日 宇野仁士と離婚
昭和四拾八年一月十一日 所学と婚姻
平成十七年六月七日 岩手県水沢市上姉体3−3−9本籍に於いて死亡
慈室妙洋清大姉 62歳
参男 昭洋
出生 昭和拾九年拾壱月貳拾貳日 本籍に於いて
昭和貳拾年八月参日午前壱時 本籍に於いて死亡
四男 忠洋
出生 昭和貳拾年拾貳月九日 本籍に於いて
五男 義洋
出生 昭和弐拾弐年拾壱月弐拾壱日 本籍に於いて
六男 誠一
出生 昭和弐拾四年拾月参拾壱日 本籍に於いて
昭和五十四年一月七日 石垣幸子と婚姻 石垣姓を名乗る
紋別郡湧別町港町三十一番地九の一に入籍
七男 通孝
出生 昭和弐拾六年拾弐月弐拾日 本籍に於いて
昭和弐拾七年弐月四日午前零時参拾分本籍に於いて死亡
四女 三枝子
出生 昭和弐拾七年拾壱月弐拾八日 本籍に於いて
五女 清子
出生 昭和弐拾七年拾壱月弐拾八日 本籍に於いて
昭和弐拾七年拾弐月拾五日午前八時参拾分本籍に於いて死亡
一般人がこの世に生きてきた道を表す記録として残るものは、上記にあげるように戸籍謄本になるが、一覧して分かるように、死亡が確認されたものは一行増えるのみで、誠に悲しくなるようなものです。
【生誕の地】
昭和24年10月31日、西暦1949年の事です。 13人兄弟、男9人女4人の上から11番目に自分は生まれた。現在生存しているのは、男5人女2人である。
北海道駒ヶ岳の太平洋側、駒ヶ岳、砂原岳、鹿部側に東円山と一体となり駒ヶ岳山と呼ばれている。砂原岳山麓から幾筋の小さい沢が海側に走り川となっている。
八右エ門沢川、その下側脇に馬地沢川が流れ、明神川、そばに名も無き川が2本噴火湾に注いでいる。
砂原へは函館本線を森駅から函館方面に尾白内駅を超え押出、小石崎を過ぎ掛澗駅から場中、掛澗、度抗崎、長瀬崎を経て今の砂原町役場に入る。
それから紋兵エ砂原、四軒町(しけんまち)があり会所町に至る、次に渡島砂原駅がありそこから函館側に海から砂崎、八島渡、彦澗となり海岸側に国道を越えると実家があった。
北海道茅部郡砂原村大字砂原村字彦澗が戸籍上自身の最初の本籍となる。
内浦湾、別称噴火湾の半農半漁の荒木家には砂原岳の麓に大山という小高い山があり、そこに畑を持っていて港の近くの家から、肥だめを担ぎながら街のとおりを抜け、急な坂を登り、駅の近くの線路を越えて800m歩き、墓地の脇を抜けて1,5qくらい行ったところに自分の家の畑があったそうである。
うろ覚えにしか記憶はないが、網元をやっていた位ですから持ち船もあったわけで、動力船が2隻、和船が1隻あり底建て網(北海道ではこの漁法が噴火湾から全道に広まったとされている。ちなみにこの後、父を含め多くの噴火湾の漁師がオホーツク海に出稼ぎに行き漁法を伝授したとされている)や、カレイ網漁、アブラコ漁、スケソウダラ漁、そして和船によるホタテ曳きなどを生業にして、漁の始まりと終わりに砂浜に船を引き上げるために、馬を飼っていて豚も数頭食料用に飼養していたが、この豚は、後に兄の火遊びの不始末による出火により消失していて、祖父の雷声が近隣にまで轟いていた事を、当時を知る者は今でも語り草にしている。
その頃には、荒木家の長男である父の長男坊正春、次男坊治男は漁師の手伝いに使われ、長女の節子は函館の旅館の住み込み女中に出ていて仕送りをし、次女の洋子は近隣の家のお手伝いで某かの給金を得ていて親に渡していたようである。 当時として子供が親に仕えるのは当たり前のことで、親もそれを当然のことのようにしていた。
網元の名は、鳥取県出身初代荒木豊吉、二代目荒木豊太郎、祖母はイネ旧姓太田といい同じ砂原村の太田家から荒木家に嫁いできた。一軒の家に自身の子供達4夫婦長男正直、三男正一、四男正義、五男正男を住まわせていた。祖父母の子供は長男正直、長女イワ、次女の名前は記憶にないが、鹿部村の吉田家に嫁いだ。次男正豊は田崎キセと結婚、三男正一は池田トモヱと結婚、四男正義は吉田スエ子と結婚、五男正雄は平田タエ子と結婚で現在荒木家の本家を次ぐ。
三男正一は別に一家を構え、妻をトモエと言ったが2人の子供をなし、出稼ぎの最中現在は亡くなっているが房江という女性との間に子が出来、別れられなくなり離婚をしている。ちなみに、房江との間には3人の女子をなした。長男はよしやといい次男は良宗これは自分と同じ歳である、長女は勝枝といった。良宗は父母が離婚後砂原町に小学校一年まで住んでいたが、新しい母と父が住む紋別市本町7丁目に来紋して、中学校卒業後海上自衛隊に入隊し現在は横須賀に住んでいる、長女勝枝と長男のよしやは砂原村から出ないで、母と共に暮らしていた。
四男正義には3人の子供があり、長女裕子これは自分と同じ歳である、長男美智也、次男俊也と言った。
正義家族は、父が紋別に移り住んでから何年いただろうか?
8〜10年位だったと思う。紋別に居を構え長女が高校を卒業してから砂原に帰り、砂原漁業協同組合員となり、漁業に従事する傍ら魚介類の行商を手がけ、紋別に1年に2〜3度立ち寄るたびに儲けた話をしていたものである。 平成12年現在は夫婦とも病床にあり、何年かに1度立ち寄ると、愚痴が休む間もなく口をついて出てくる。
五男正雄には2人の子があり、現在も家督を受け継ぎ漁業を営んでいる。主にホタテ養殖と昆布漁で生計を立てている。長男正直が砂原を出た後本家として祖父母豊太郎、イネの面倒をみていた。
父正直が何故砂原から出たのか?
それは、やはり大東亜戦争の影響であろう。
当時父は下戸であったらしく、一滴も酒を口にしたことはなかったようであり、家業である漁業も惣領として兄弟を使い、雇い人も使用しながら事業を行っていたようであり、兄弟も昔から惣領に使われるという習わしが、どこの町でも土地でも疑うことなしに働いていたものである。
終戦を迎え、引き揚げ兵士として郷里の土を踏みしめた時、懐かしさと希望が父の胸を去来したことは、戦争を知らない自分でも安易に想像は出来る。
帰ってきた父は、酒を飲む人に変わっていたわけではなかった。 招集を受ける前には、神様と言われるように大人しく、人の面倒見が良かった経過から村議まで努め、誰からも慕われ尊敬を一身に受けていた父が、酒乱の人となって母の前に立ったのである。
母の驚きと絶望は、計り知れないものとなって我が身と家族と親族を変えて行こうとは、誰一人として推し量れるものではなかったろう。
惣領が、そのように変わって行くだけでは、家業は簡単に傾いて行くものではない。
当時の砂原村では漁業として、キビナゴという魚を捕っていたが、これは大変に人手を要する漁法で、戦前までは兄弟総て同じ家に住み家業に従事していたものであるが、終戦となり自由というものが、日本国中を席巻した当時としては、責めることは出来ないが父の兄弟が自立の方向に向かったことで、ただ同然に使っていた兄弟が、一人離れ二人離れ三人離れるように家を出て自立して生計を営み始めると、他人を雇うようになり、その給金以上に水揚げをしなければならなくなるのは自明の理であって、そこに不漁という追い打ちを自然から頂いた父が取る方策としては、出稼ぎという道を選択する以外に、親と子の空腹を満たす術は見つけることは困難だったろう。
一人炭坑夫として、美唄、砂川、赤平といった即荒稼ぎの出来る働き場所を求めて、点々として行くのだった。
たかが一人の稼ぎである。
父としては、賃金を送って生活を維持するのも大切なことではあるが、それ以上に父が目指していたと思われるのは家業の復活でなかったろうか?
炭坑夫として、荒稼ぎをしながらもなお給金の良いところへと、父が流れていったのはそれなしには考えが及ばなかったのである。
しかし、その間
母が置かれていた状況は、父が思う以上に悲惨なものであったに違いない。
祖母の母に対する様子は、伝え聞いたところによっても異常なものであったらしい。
そこには自分の身体の弱さも起因していた。
自分のために、母や次男の治男が幾度となく祖母に、冷たい言葉や暴力を受けていたと古老の話にも出てくる。
自分は癪が異常に強かったらしいことが。・・・
何かが起きると、すぐに唇が黒くなり引き付けを起こすようになる。
3歳になるまで、幾度となく呼吸が止まったことがあったと聞く。
そんなこんなで砂原の家では、毎日が父の家族にとって針の筵の状態が延々と続くのであった。
今でも鮮明に脳裏に浮かび上がるのは、寝床の中から聞こえる、父の兄弟家族3世帯と祖母が、居間でストーブの上に焼き物をのせ、楽しそうに語らいながら少しばかりの酒を飲み交わし、子ども達は食べ物を口に運びながら、走り回っている姿。
深夜の出来事で、毎日ではないにしても、幼かった自分の記憶としては、悔しくもあり悲しくもあった深夜の出来事である。
一家の中心となり父も母も懸命に働きに働きづめ、兄姉も奉公に出たりして苦しかった家計を懸命に支えていた自分の家族が、何の理由があってこの様に理不尽な仕打ちを受けなければならないのか。
藁布団の端を唇で噛みしめて、悔し涙を流したことは、その時分には食べることに神経が集中していたため、思い出すことなしに過ぎていった。
自分にとっての砂原村での思い出とは、現在60歳を間近に控えた今に至っても、脳裏から浮かび上がることのない、禁断の果実ともいえるしろものなのかも・・・
であるから、自分にとっての親戚とは、紋別での親類のみと言えるかも・・・
春先に紋別の漁業者で執り行われる、船玉祭には龍神様と稲荷大明神と金比羅さんがあり、少しではあるが、善光寺さんのもある。
それらの時に、砂原出身者が一塊になって、親戚の動向や故郷の話が出て、幾ばくかの時間を費やすのが慣習となっているが、それらの話の時にも自分は頷きながら、話に加わっているのだが記憶に留めることはない。
そういえば過去にあった・・・・!! 毎日無表情で心を殺し、自己を殺し、存在さえも否定していた時期が。 社会も回りも子どもの世界さえも成長の過程の中で輝いていた時代。 一人、仏ではなく神と対話をしていた時期があった。 自己を救うための対話ではなく、神の存在を知るための会話ではなく。 自己の中の微生物にいたるまで細胞にいたるまで、必要があって生存が約束されるなら、これも必要なことであるのか? 自己が深く思慮することが何に作用することであるのか? 神とは? 自己とは? 存在とは? 人の心の無限なことはその時が訪れる前から、肌で感じていたと思う・・・。
幼少期 (0才〜小学1年)
北海道茅部郡砂原村字彦澗大字掛澗に家があり、駒ヶ岳の麓を領有する家に生まれる。 半農半漁の網元であり、船を3隻(発動機船)で船を陸揚げするのに馬を3頭飼っていた。 比較的に大きな漁師の家である、2階建ての当時としては裕福な家に生まれたのが自分であるが、父の生来の人の良さにこれから家も家族も、途端の苦しみを味わう事になるとは誰も知り得ないのどかな田舎の風景です。
昭和24年と言えば、函館には進駐軍が駐留していた時代で、空襲で焼け残った家もまだ多く存在していた時でもある。
裕福な家といっても、白米を毎日食べるようなものではなく、魚を卸して食料を仕入れていたものだから、当然食べるものも限られていた。
自分の育った所は海と山が直ぐ側にあり、海から山までの距離は7百メートルもあるだろうか、畑といってもネコの額のような小さなものです。 函館本線森駅から内浦湾沿いに、砂原村・鹿部村と続いている狭い土地の半農半漁の貧乏な村に位置する所です。
自分は小さい頃は、とても病弱でしたそれに加えて癇が強く、何かにつけて引き付けを起こす、厄介な存在だったと見えます。
兄や姉、母は一寸した事で倒れる自分の為にしょっちゅう祖母に叩かれていた。 今生きていること自体不思議なことであったろうと思う程の、癇の強さだったようだ。
1日のうち心臓が止まる事は、何回もあったと父の話。
家が完全に立ち行かなくなったのは自分が3才の頃である、その前に父は赤平、砂川などの炭坑に出稼ぎに行っていた。
1才の頃、北見枝幸に砂原の"わげぇしゅう"を連れて出稼ぎに行き、雄武 興部 沙溜と流れ歩き。 2才の頃紋別に居を構えた、長男正春 次男治男を伴っていた。
自分はその時まだ砂原に祖父母 母と一緒に居た、3男忠洋 4男義洋 3女美枝子 長女節子は函館へ奉公に出され 次女洋子は赤平に是また奉公、家は自分が生まれた頃には、父の兄弟達に家の身代を食いつぶされて、極貧に至っていたようである。 今思うに父の人の良さが起因したのだと判断をせざるを得ない、それ程にお人好しである。 人に向かって罵声を揚げたのを終ぞ見たことも聞いたことも記憶にはない。
その父も戦争前は一滴も酒を飲まない人であったが、帰還後は酒を飲む人に変わっていたのである、何故か?兄弟のこと、家の事、村の議会の事、それらの事で優しい人であるから、相当に悩んだモノと思う、それ故の酒である。
3才になったときに母 自分 妹の3人が紋別に呼ばれて渡ってきたが、兄2人姉2人は砂原に置いて行かれたことは、誰も話はしないが今にして思ったとしても相当に両親を恨んでいたと自分は思われる。極貧は辛いモノではない子供にとっては両親と離ればなれになる事ほど心細いモノはないはずであり、ましてや、家をつぶした兄弟達がいる砂原の村にである。 両親の優しさから出た思いとは云え、子供は今自分が3人の子を持ってみて始めて実感できる事くらい、寂しくも悲しくも辛い事であったろうと思う。
紋別で初めて住んだ家の2階は、下がやくざの親分の家であり、小さいながらに毎日が怖くて、怖くて一歩も家からでられなかった記憶が今でも鮮明に浮かび、夢にまで出てくる時がある。 紋別でのあの歳の子供にとって毎日が戦の連続、おちおち寝ても居られない程、あの頃のやくざの世界は”男気”だけの世界、それを守るために妻をも売り飛ばして、平然としている一般の人からは考えられない世界に自分も小さい頃を2年間過ごした。 漁師の気質と、やくざの気質、あの頃の両者には不思議と共通点が多いのは何故? 今に至ってもその謎は解けては居ない、やくざの自称専門家の本を買い求めても、疑問は解けては居ない。
本町7丁目に移り住むようになって兄弟が揃う(長女は東京へ函館に来ていたセールスと一緒に成って行った)自分が小学4年に上がる時の事、
紋別に来て何が驚いたことと言って、3度3度に白米が出てきた事であり、おかずが人数分も食台に有った事、カルチャーショック父の酒乱には困ってはいたが、ご飯が楽しみなことの方が自分にとっての一番の関心事であり砂原にいた事を思えば、幸せの絶頂に思えるのもあながち不思議なことではない。
それ程の貧乏は、反面今の自分を形成してくれたことのように思え、何はなくても両親が自分にくれた生涯最大の財産となってもいる。
やくざの家での恐怖の体験と、父の酒乱、母の働き過ぎの不在等々の幼少期の貴重な経験が今の自分を作っていることを両親に感謝をしなければならないだろう。
自分が、今の精神構造を得たのは小学校の5年生か6年生の事の、一つの出来事が原因であるのは疑う余地もない、この場で言える事ではないけれど、その時に自分が経験した事は、人を信じる事の怖さ、人に疑いの目を向けて生きる事、本心を出さない事、自分を無くす事。
この気持ちを自分が完全にマスターできたのは中学2年生になるまでかかった。
苦しいとも、辛いとも誰にも言えずにいた3〜4年間は、自分の暗黒の時代である。
自分にしても妹にしても、または、兄や姉にしても今で云うところの”両親の後ろ姿を見て子供は成長する”下りは納得は出来るが、理解は出来ない。
何故なら、自分達兄弟は父も母も後ろ姿を見せたことがないからであり、その点では、反面教師ともいえば言えるだろう。
あの頃はどの家庭も貧乏が当たり前のようであり、貧乏故に助け合ったり助けたり、およそ今では考えられないような光景が、毎日繰り広げられていたのである。
今暮らしが豊かになり蒼の時期よりも生活や金銭的なことも含めて豊かさを謳歌していてもおかしくはないはずなのに、何故?テレビが登場するのは自分が小学校5年頃ではないか、紋別に入ってきたのは、その頃からである、テレビから映し出される豊かな家庭、話題のある親子の会話、およそ日本人の日本人らしからぬ光景が厭と言うほどに垂れ流され始めたのは、テレビが悪いわけではないが現在のまか不思議な光景を創り出した要因の一助を果たしたことはゆがめないだろう
自分の小学生の後半に起きた出来事は、今現在も胸から離れる事はない。
何故?自分も子供を3人持ち一生懸命に育てても尚悔いの残る、事ばかりです。
いたいけのない、小さな子供に何の罪が、いや、罪とはこの場合には言わないだろう。 いる事、存在そのものが否定されたのだと自分は思う。
家に、必要なもの不必要なものとしか、写らないものなのか?
今は両親共に安穏な毎日を送っているが、子供が何時までもその事から逃れられないでいるとしたら、これは罪以上の何ものでもない。