第1章 社会福祉
第2章 福祉施設と関係機関
第3章 未熟期の衛生環境
第4章 保健衛生
第5章 医療と保健事業
(1)児童保育施設 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
季節託児所 | 戦時中の農業労務者の極端な減少から、食糧増産体制の一環として、婦人労働力の動員が意図され、道庁では保母養成などを通して「農村季節託児所」設置を指導勧奨した。本町にも芭露と上芭露に地区経営(人件費は村費支弁)の季節託児所ができた。 ■ 芭露託児所 昭和14年に青年会館を利用して開設され、同17年に元病院の建物を専用施設として移転し、同19年まで継続運営された。 ■ 上芭露託児所 昭和16年に伊藤石松の発起により開設され、同18年には皇后陛下から救急箱および金一封の下賜を受けたこともあった が、終戦により同20年閉鎖された。 |
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保育所の創成 | 農漁村における婦人労働力確保のうえからも、幼児保育事業の必要性が年とともに高まり、さらに、有識者の問で「鍵っ子」問題が経済成長とともに社会問題としてとりあげられ、交通事故や火災事故および非行の芽の予防策が論議されるようになった。また児童福礼法や児童憲章によって「健やかな心身の育成と保護」謳われ、福祉国家建設をめざす戦後の社会情勢の推移のうえからも、保育施設の実現は時代の要請ともなった。本町における保育所の草分けは次の3園である。 ■ 芭露保育園 芭露婦人会長松田こふじが保育所設置を計画し、道庁に認可申請を行ったが、手続のうえで町および支庁を経由しなかったため物議を呼んだ。しかし、中沢初子らの熱意によって昭和29年5月に、町費の助成を得て、婦人会事業として消防番屋の一部に間借りして季節保育園の開設をみた。 昭和35年に町から学校解体材の無償交付を受け、区の寄付によって25坪の独立園舎が建設された。 ■ 湧別保育園 真宗寺住職の畠山岸雄が児童遊園地に解放した境内と関連させて、本堂の一部を利用して、昭和30年に保育園を開設し、「母の会」も組織するなど充実を計り、同32年に町の助成と有志の寄付金により独立園舎が建設され、運営委員会によって経営されるようになった。 ■ 上芭露保育所 昭和30年になって保育所の必要が区住民の中から叫ばれ、伊藤石桧の奔走と婦人会の熱意によって、翌31年に婦人会事業として青年会館に間借りして季節保育所を開設した。さらに同43年からは、区に移管され、運営委員会によって経営されるようになった。 |
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保育所の公営 | その後、保育所の運営は諸法規の改正整備により公的助成の道が拡大され、開設の規模や期間により「へき地保育所」 (通年または通年に準ずる)と、「季節保育所」 (夏季またはそれに準ずる)に位置づけされるようになった。本町でも地域事情に合わせて整備が進んだ。 なお、町営以外の保育所は、「保育所運営委員会」により、公営に準じた運営がなされている。園児および園舎の概要を1427頁の表にみよう
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児童遊園地 | 学校や保育所で生活する以外の時間に、児童たちが戸外の遊びで不測の事故にあうことが懸念されること、また遊具を施設して健康な遊びがもたらされることの必要から、市街地や交通量の多い地区から、逐次、児童遊園地がが設けられており、現在は11ヶ所となっている。 みどり(緑町)、錦、信部内、はまなす(中番屋)、三里浜、芭露、上芭露、東芭露、計呂地、栄町、東 |
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(2)地域福祉施設 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
児童館 | 地域の子供たちの組織活動、あるいは交流の場として、また「鍵っ子」対策の一環として、昭和45年に湧別小学校佼下の留守家庭の子ども30名を大勝に、学校や公民館で指導していたが、昭和49年に児童館が開設され、嘱託指導員によって指導課程に基づき、系統的な指導保育が行われている。
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母と子の家 | 子ども会、母子会、婦人会、あるいは老人の会合、研修、娯楽に供される集会施設として「母と子と老人の家」が開設されているが、計呂地の施設は現在「老人寿の家」として利用されている。
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老人寿の家 | 地域の老人が、生きがいを求めてグループ活動をしたり、自由に楽しんだりする場として、「老人寿の家」が逐次各地域に整備され、老人たちの自主的な運営で活用されている。
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生活改善センター | 地域住民の生活改善と文化向上に併せて、福祉増進を図る施設として、登栄床に「生活改善センター」を建設し、地域の集会施設として開放し、子どもから老人まで、広い階層にわたって活用している。
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(3)公営住宅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
住宅行政の始動 | 住宅問題は大正9年ころから国の施策としてとりあげられ、公共、公益団体に低利資金を融通して、公益住宅を建築する借置が講じられたが、都市が対象とされ、辺地町村には及ばなかった。 戦後の昭和21年以降は、国庫補助および「臨時建築制限令」「建築等制限規則」によって、重要産業労務者住宅や庶民住宅など戦時の荒廃回復に重点が置かれ、同23年からは無縁故引揚者や戦後開拓者のための補助住宅が建設されるようになり、本町でも同24年に無縁故者引揚者収容のため木造1棟(24坪)が建築されて4戸を収容したが、これが本町における一般公営住宅のはしりとなったものの、一般住宅行政は戦後の緊急修復の域を出なかった。 戦時中の物資統制で放置同然に置かれていた一般住宅は、平和のおとずれとともに修理改造に迫られ、さらに人口の急増による住宅事情の窮迫が表面化し、戦後復興と民生安定を図るため政治的に解決を迫られる成り行きとなったことから、物資統制の解除と併行して、昭和25,6年に「住宅金融公庫法」「北海道寒冷地住宅建設促進法」「公営住宅法」などが相次いで公布施行され、本町でも昭和26年から公営住宅の建設が進められた。 |
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公営住宅の建設 | 国費から補助枠を得て町村が建築し管理して、住宅困窮者に貸与して住宅不足を緩和する「公営住宅」は、「町(村)営住宅」とも呼ばれ、昭和26年に公布された「公営住宅法」第1条の、 国および地方公共団体が協力して、健康的で文化的な生活を営むに足る住宅を建設し、これを住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で貸与することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与・・・・ に基づくもので、本町でも次項表のように建設されている。
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団地造成 | 公営住宅を建築するに当たっては、敷地の設定が計画的で、敷地環境が住宅地にふさわしいものに整備されなければならない。このため本町では、公営住宅団地構想を樹立し、計画的に用地買収を図るとともに、公営住宅建設を集約することにより、土地および付属施設環境の有効利用につとめている。現在の団地構成は次のとおりである。
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道営住宅の建設 | 昭和40年に「福祉住宅」と呼ばれる低家賃住宅の建設をみたのが、本町における道営住宅の最初で、以来60余戸が建てられたが、特に母子世帯や老人世帯など低所得者の生活安定に寄与してきた。 なお、福祉住宅として建てられたものは、2年後に譲渡(年賦償還)され、一般公営住宅として管理しているし、一般道営住宅として建てられた登栄床の8戸は、昭和56年8月に町に移管され、公営住宅と同様に管理している。道営住宅の推移をみよう。
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公営住宅の管理 | 公営住宅の維持管理については、町条例が設定され入居者基準、家賃、修理維持などについて詳細規定されており、道営住宅についても、町が北海道から委託を受けて、町の条例に準じて維持管理を行っている。 入居者の選考は、町長の諮問機関として、条例に基づく「入居者選考委員会」を議会議員、民生委員、学識経験者らの中から委嘱して構成し、公正を期しているが、参考までに入居者申込状況と入居率をみると次のとおりである。
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公営住宅の比重 | 高度経済成長が国の行政の中で宣揚されていたころ、住宅行政の面で「1世帯1戸」が唱えられ、さらに「世帯内1人1部屋」が叫ばれたことがあったが、昭和48年からの石油危機で、その願望は中途で下火になってしまったという経緯がある。1世帯1戸というのは、「持家」本位の願望で、個人の自力建設を促進することを第一としていたもので、その行きとどかない面を住宅公団や公営の住宅で補うというものであった。本町における持ち家の推移と公営住宅が占める比重の推移は、国勢調査の結果に、次のようにあらわれている。
一覧して、総体からみれば10%前後であるが公営住宅だけが比率を伸ばしていることがわかるし、持家の比率が微減を続けていることがわかる。これは高度経済成長と裏腹に進んだ過疎現象による離農離町の結果であり、公営住宅の増加は市街地への転住と世帯の独立によるものである。なお、もう一つの特色的な傾向をとらえるならば、公営住宅と給与住宅の比率を合わせると、総体の4分の1に近づきつつあることがあげられ、本町の職業構成および世帯構成が変容しつつあることを物語っているといえよう。 ちなみに、持家の比率を全道および網走支庁管内郡部と比較(昭50)すると、全道平均60・7%、管内郡部平均51・4%より高い水準にある。 |
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(4)福祉関係機関 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
方面委員 | 北海道方面委員規定(大6)によって本町でも和田収、大口丑定、本間為吉、小川清一郎、新海忠五郎らが方面委員に任命されたが、方面委員の任務が比重を増し職責が高まったのは、昭和6年に「救護法」が施行されてからであった。改めて国家的に方面委員を位置づけしたもので、その第4条に、 市町村二救護事務ノ為委員ヲ設置スルコトヲ得、委員八名誉職トシ救護事務二関シ市町村長ヲ補佐ス、 と示されて、任期は2年であった。本町でも昭和8年の予算書に委員の費用弁償が計上され、「7人分1人8円」と付記されている。 昭和12年1月に勅令による「方面委員令」が公布されて、任務は著しく拡大強化されることになった。委員は道庁長官から委嘱されて、 軍事扶助、生活扶助、助産、医療救済、罹災者救済、養老、精神病者監護、衛生督励、行路病人保護、人事相談、家事相談、争議調停、職業紹介、棄児保護、児童虐待防止、不良行為防止……
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日本赤十字社分区 | 明治20年に北海道にも「日本赤十字社北海道支部」が誕生したが、会員の募集が全道に波及したのは日露戦争後のことで、特に大正2年ころから勧誘が活発になったといわれている。本町に北海道支部の「下湧別分区」がいつ結成されたのかは不明であるが、犬正15年の村勢1班には、 赤十字下湧別分区 1 205名 と記されている。その後の分区動向としては、 (一) 赤十字社員調(年度当初)
(二) 正社員募集割当
(三) 寄付金募集
(四) 年醵金収入実績表
社員ノ募集竝二之レガ寄付金、年醵金ノ成績裕メテ不良ナルハ誠二遺憾トスル所ナルモ、右ハ連年ノ水害凶作ノ惨禍二依り農村ノ疲弊其ノ極二達シ醵金スルノ余裕二乏シク、為メニ係員ノ努カモ空シク…… と述べているが、表の中に割当とか調定とかという字句があり、分区長が歴代村長であったことも考え合わせると、上部行政機関からの示達によって組織強化を行っていたことがうかがえるし、また、戦争と赤十字というかかわりから、当時としては赤十字社員になることは愛国心のあらわれであったともいえよう。 戦後、日本赤十字社に関する行政上のかかわりはなくなり、個人の任意にまかせられているが、町内では1、063名(昭57)が社員となっており、玄関先に社員表札を掲げた家は珍しくない。 |
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民生児童委員 | 昭和21年10月1日に生活保護法に併せて、勅令による「民生委員令」が公布施行され、方面委員をさらに強化した民生委員の誕生となった。本町でも14名の民生委員が選任されているが、事務報告に、 方面委員4名、新任者10名 とあるものの氏名を明らかにする資料はない。最初の民生委員は社会情勢の急変、戦災、引揚者など、かつて経験したことのない事態に対処しながら、敗戦国再建の一翼を担うことになったのであるが、活動方針の基準には、 (1) 生活扶幼者の状態調査 (2) 要保護者の毎月調査 (3) 生活保護法の趣旨の普及徹底 が柱として示された。なお、任期は2年であった。そして昭和23年4月1日からの児童福祉法施行により「児童委も兼ねることになった。 昭和23年7月29日に「民生委員法」が公布され即日施行されて、民生委員は厚生大臣が委嘱する非常勤特別国家公務員的性格のものとなり、同法第1条には、 民生委員は社会奉仕の精神を以って、保護指導のことに当り、社会福祉の増進に努めるものとする。 と示され、実費支弁の名誉職として、現在の形に衣がえした。 職分を円滑に遂行するための本町の民生委員定数は18名(昭24)、20名(昭26)、21名(昭34)と増員されて現在にいたっており、民生委員法以降任期も3年に延長されて、それぞれの地区を分担して、社会福祉事務所と連携して任務を果すとともに、民生委員協議会を設けて、相互の連携協調も行っている。 なお、民生委員の委嘱については、民生委員法第5条により、市町村に設置される「民生委員推せん会」の選考を経なければならないことから、本町でも昭和28年に推せん機関(推せん委員12名)が設置され、改選および補充の際の適正な人選を行って推せんしている。推せんにより委嘱を受けた歴代民生委員は次のとおりである。 和田収(昭28〜31)、岩佐徳孝(昭28〜31、34〜37)、安藤おこ(昭28〜31)、本間彙(昭28〜43)、友沢喜作(昭28〜43)、白田正雄(昭28〜34)、岩佐惣吾(昭28〜31)、横関薫(昭28〜31)、山口章吾(昭28〜33)、曽根春吉(昭28〜40)、大石橋正夫(昭28〜31)、伊藤時太郎(昭28〜34)、長屋鉄次郎(昭28〜40)、越智数代(昭28〜31)、藤根正重(昭28〜34)、稲熊ナオ(昭28〜31)、落合桁(昭28〜55)、村井玉吉(昭28〜34)、桑田多一郎(昭28〜40)、村上益太郎(昭28〜34)、長屋春栄(昭28〜34)、畠山岸雄(昭31〜34)、高野サキ(昭31〜34)、梶清次郎(昭31〜34)、高柳喜重(昭31〜43)、伊藤オハル(昭31〜32)、西川キミコ(昭31〜40)、長谷マツエ(昭31〜43)、伊藤レイ(昭32〜34)、小川市十(昭34〜40)、谷口みさ(昭34〜37)、大桃貫竜(昭34〜40)、井谷一男(昭34〜40)、田部武(昭34〜46)、山本みつ(昭34〜43)、島田梅十(昭34〜40)、伊藤清太郎(昭34〜43)、佐藤豊太郎(昭34〜37)、沢西武雄(昭34〜37)、渡辺義一 (昭34〜46)、坂口文江(昭37?39)、堀川幸道(昭37〜39)、石山信治(昭37〜49)、渡辺テル(昭37〜43)、畠山タッ子(昭39〜47、現)、三沢義男(昭39〜43)、内山武男(昭40〜50)、伊藤清光(昭40〜41)、加藤正意(昭40〜現)、渡辺満雄(昭40〜43)、内山テッ(昭40〜49)、樋口久郎(昭40〜49)、平井倉一 (昭40〜52)、佐藤勝治(昭40〜43)、野沢ヤエ (昭41〜現)、奥谷房吉(昭43〜44)、多田正礼(昭43〜49)、関ロトヨ(昭43〜49、55〜現)、田畑上(昭43〜49)、黒田辰夫(昭43〜現)、木下正治(昭43〜現)、押野昇(昭43〜現)、上田健次(昭43〜現)、黒田フサ(昭43〜現)、大沢ヤエ(昭43〜50)、阿部Y子 (昭43〜46)、遠峰進一 (昭44〜46)、松本高根(昭46〜現)、舘岡文治(昭46〜52)、雨宮次雄(昭46〜49)、中谷定雄(昭46〜現)、浜本亘(昭49〜現)、忽滑谷智恵子(昭49〜現)、管野れい子(昭49〜54)、佐藤誠(昭49〜55)、石山貞子(昭49〜現)、深沢則久(昭49〜52)、高野照子(昭50〜現)、荻原千代子(昭51〜現)、後藤義男(昭52〜現)、内山幸一(昭52〜現)、井田弘(昭52〜現)、茂木ふみ子(昭54〜現)、長屋正孝(昭55〜現)、井野トキヨ(昭55〜現) |
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社会福祉協議会 | 昭和26年3月29日に「社会福祉事茶渋」が公布され、社会福祉事業体系の一本化と運営の基盤整備がはかられることになり、同法に基づく社会福祉団体として、同年4月1日に「下湧別村社会福祉協議会」が組織された。 全村民を会員として発足した社会福祉協議会は、低所得者層の法外援護、保護世帯児童生徒の修学旅行費補助、福祉施設の慰問、歳末助け合い運動などを推進する機関として、北海道共同募金委員会からの地域配分金、’町内一般の善意による醵金、村の助成などをとりまとめ、各福祉団体や恵まれない個人に配分して愛の手をさしのべてきた。 さらに昭和30年代になって、国が「世帯更生資金」の貸付業務を委任し、「母子金庫」など社会福祉関係金庫および「愛情銀行」の利用も、社会福祉協議会を通じて行うことになったから、活動範囲が大幅に拡大されて現在にいたっている、 歴代会長は武接源久、豊原正一、内山武男、小林国雄、高久喜三郎で、理事・代議員によって運営されている。 |
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共同募金委員会 | 「赤い羽根」で知られる共同募金運動は、アメリカで創始された社会運動にならって、昭和21年11月25目から1ヵ月間、[国民助け合い共同募金運動」の名で行われたのが発端であるが、このときは戦禍で生活の拠りどころを失った人々に愛の手をという、当面の目的のために都市など局地的な営みに終っていた。 翌22年に政府が共同募金運動を社会福祉事業に位置づけし、全国的に展開することになったことから、推進機関として本町にも「下湧別村共同募金委員会」が組織され、村長を委員長とする委員14名、募金委員25名で構成された。ちなみに初年度の募金状況を事務報告にみると次のようであった。 募金総額 19万4、691円17銭 内訳 各戸募金 9万1、191円17銭(1戸平均417円92銭) 大口募金 1万3、500円(1口平均2、700円) 道委員会へ送金 4万1、876円47銭 村内助合い資金 6万2、814円70銭 昭和26年の社会福祉事業法の制定を機として、組織強化が図られて社会福祉協議会と表裏両輪の体制が形成され、都道府県単位に共同募金委員会が設置された。本道では北海運共同募金委員金のもとに各支庁に支会がおかれ、さらに町村分会が設置されて、村共同募金委員会は「北海道共同募金委員金網走交庁支会下湧別村分会」に移行して現在におよんている, 町分会は29名の委員で構成され、道委員会の割当額と町内福祉事業費の一部、および歳末救助金を年間募金額とし、一般各戸募金と篤志寄金によって募金達成を図っている。 |
(1)生活用水のなやみ | |||||||||||||||||||
河水と溜湧水 | 生活に欠かせない水を開石者たちはどこに求めていたのだろうか。どんな水をどうやって飲み水や炊事用水として用いていたのだろうか。入殖者の苦闘の第一歩が「原始自然とのたたかい」であったことは、開拓編で既述したところであるが、原始の密林、野獣の横行、河川の氾濫などとは別の意味で、生活用水の確保もまた原始自然とのたたかいだったのである。それは、地表水以外に求めどころのなかった当時の幾多の例が克明に物語っている。とりわけて、明文化された「北海道殖民地選定報文」 (開拓編参照)にあるように、湧別川をはじめとする各河水に依存することが、拓殖計画の目安とされていたことで、およその推測ができよう。 井戸の掘さくは入植当初の人々にとっては考えられない負担であったから、まず河畔に、それ以外の人は地下からの湧水や天然の溜水を求めて住居地を定め、着手小屋が建てられた。従って、土地条件に恵まれながらも、飲料水の不便から開拓の遅れを余儀なくされた原野もあったわけである。一例をあげれば、 地勢平坦で交通に比較的恵まれ、農耕適地とみられた芭露の旧内山農場網走道路沿い(現国道沿い)の一帯は、用水に欠けることから開拓は見送られ、牧野に利用されるに過ぎなかった。 ー−太平洋戦争末期の疎開および戦後緊急開拓でこの地に入植した29戸の開拓民は、未経験の開墾の苦痛にも増して、用水のないことが大きな障害であった。このため井戸の掘さくに苦心を傾け、5、60尺の試掘も行われたが水脈に達せず、ほとんどが絶望視される状況であった。その中にあって白石昌寿が10数万円の巨費を投じて、ようやく掘さくに成功したが、他の者は馬車、馬橇で芭露市街から「もらい水」をする状態であった。 という、戦後にもおよぶ不毛の世界があったのである。 |
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井戸の掘さく | いつごろから井戸を掘って給水するようになったかについては、屯田兵村の例がもっとも古いものであって、 向う三軒両隣の六戸共同でーカ所の掘井戸が設けられ、「井戸組」という呼び名で集団生活の単位とされた。 という記録があるが、これは屯田兵村という恵まれた条件下においてのことで、一般人地者の井戸掘さくは、明治44年1月2目日付「北海タイムス」の下湧別通信に、 昨秋掘抜井戸ヲ試掘シタルニ結果良好ナリシニヨリ既二六個ヲ「掘サク」シタリト尚ホ価格ハ四十五円ノ割合…… とあるのが、最初の試みであったようである。一般的な井戸掘さくの営みは、ささやかな生活用水源であった川が、開拓の漸進とともに河畔はかっこうの洗たく場や水浴の場となり、家畜の導入とともに、それを川で洗う姿もみられるようになり、塵芥の投棄もあって、次第に衛生上好ましくない状況になりつつあったこと、また、散在する農家も開拓が進むにつれて樹木が減少して水源が枯渇し、いっぽうで増加する家畜のため用水量が多くなり、浅井戸程度の溜水では聞にあわなくなったことなどから、少しでも清浄な水を恒常的に確保するため地下水を求めたもので、故郷の生活体験にならったものであった。 このように、衛生的見地から必要性に迫られながらも、経済力の乏しさから井戸掘さくは急速には普及しなかったようで、 芭露市街は泥炭地帯のため河水を飲料用に供していた。旧芭露橋付近を用水源としていたが、旧郵便局付近が小市街化し、さらに発展した陰には、この用水源がどれほど大きな影響をもったか計り知れないものがあった。 また、芭露河畔から現農協付近までは4〜5bの井戸ては、鉄分が多くて良水が得られなかったので、井戸水は使い水とし、なかには飲用水(お茶用)を半ナウシ付近まで汲みに行った者もある。 上芭露で初めて井戸を掘ったのは明治末期ころ17号の山本商店で、これを昭和の初めころまで市街の全住民が利用していた。 という話が残っている。しかし芭露奥地の、 入植当時はすべて河水を飲料用水として使用し井戸は見られなかったが、大正12年に川上に住居していた家庭に腸チフス患者が発生し、地区のほとんどが用水によって感染したことがあった。以来、各戸に井戸を据るようになった。<桑原喜平淡> このような事態も手つだって、井戸掘さくは逐年増加した。 地城中の人々が、お互いに力を貸し合って掘り、井戸伜を施した井戸は、綱を付けた桶や釣瓶(つるべ)で水を汲みあげていたが、まれに滑車式の汲みあげも行われるようになった。 |
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ろ過の工夫 | 故郷で休験した生活の智恵はまだあった。少しでもいい飲料水や炊事用水をと考えて、水を「ろ過」する装置を施す人もあった。手ごろな桶に小砂利や砂藻や木炭を人れて「ろ過層」を作り、下の穴から取水するむので、いまの水道の浄水池(槽)に当るもので、多くは台所に取り付けられていた。 |
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ポンプ給水 | 大正時代の初めごろから「手動式汲上ポンプ」が実用化され、本町にも大正の半ばころから姿をみせるようにな0、掘井戸にセットして大いに重宝された。 その後、揚水機器の技術的な開発が進み、「打抜きさく井」方式が登場して、副題的な給水施設となり、戦後の電動式汲上ポンプや水道の実現まで重宝された。打抜きさく井方式というのは、特殊地盤のところを除いて、’どこででもバイブ(鉄管)を水脈に届くまで地下に打込み、そのパイプに手動式汲止ポンプを直接セットして汲上げるもので、多くの労力を要する井戸掘りや井戸枠の手当が不要で、しかも、家屋の新改築時には台所内に施設できる利便があった。 |
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もらい水 | 「もらい水」については、内山農場開放後の人地者の苦労で触れたが、昭和の初期まては、どこにでもみられた光景であったし、一部ては戦後も続いており、本町の生活用水のなやみの根深かったことを物語っている。 その一端を掲げよう、 芭露市街で最初の良い水質の井戸は、昭和2年に地区で建てた病院の裏に掘った5b余の打抜きポンプで、一 般課程でも、もらい水をしていた。 昭和10年の西湧網線鉄道開通後、鉄道職員宅用として中湧別駅から毎日水槽車輌が芭露駅と計呂地駅に回送されたが、両医市街地住民はその余剰分を、もらい水して恩恵に浴していた。この鉄道給水依存は昭和30年を過ぎるまでつづいた。 同じく昭和10年代のこと、現芭露農協以西の伊藤時太郎、山中春男の打抜き井戸の水質がいいため、近隣の人々は夏はリヤカー、冬は橇に水桶を積んで、もらい水という不便な体験をした。
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水と伝染病の因果調査 | 町では、昭和二八年一〇月に水道施設計画のため伝染病の発生と水との関連を地区別に調 査したが、結果は飲料水と消化器官系統のかかおりの深いことがわかった。調査結果を前頁の表にみよう。 |
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(2)時代のへだたり | |||||||||||||||||||
し尿の行方 | し尿処理に関する最初の規制は、明治33年3月7日に公布された「汚物掃除法」であるが、北海道では翌年9月1日からわずか3区(市)9町村に適用されたに過ぎず、開拓途上ないし未開拓の地にはおよばなかった。 本町方面では開拓当初から自己処理主体でし尿処理が行われ、主として耕地に還元されて経過した。農業肥料としてのし尿は「肥やし」と呼ばれ、天秤棒を肩に肥桶を2つ提げて、畑に直接ふりまくほか、うねを深くきって肥やしを流し込み、それに土をかけた上に種子を播いたり、あるいは薄めて追肥として利用することが多かった。特に自家用野菜や南瓜などには欠かせないものであった。また市街周辺の農家などでは、必要なときの備蓄手段として肥溜を作り、腐熟させて施用する者もあった。こうした状況は昭和30年ころまでつづいていた。 昭和29年の清掃法の施行に伴い、湧別市街は特別清掃地域に指定され、し尿を直接畑地に施用することが禁止されて(夏期は3ヵ月、冬期は6ヵ月間腐熟させてから施用しなければならない)、し尿処理が行政上の課題となり、また、昭和30牛ころから殺虫剤や消毒剤が便所で用いられるようになって、野菜などへの影響も見逃せない公害となることが注目され、本町では昭和33年から弊害抑止による衛生環境保持のため、清掃業者による汲み取りと指定地への投棄を実施するようになった。 |
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ごみ捨て場 | ごみ処理に関する規制も、前項の汚物掃除法によったが、し尿処理同様の経過で、本町方面は各戸まちまちに処理していた。住居の周辺の適当な場所に仮の「ごみ捨て場」を設け、ごみ、食べ残し、不用品など毎日家庭内から出る物を集積して、時には焼いたりもしたが、冬などは雪が中にはさまって、うず高くなるのが常態であった。これを雪どけとともに焼いたり、低温地などに埋め立てたりしていたのである。 のちに市街住宅や公共施設などでは、蓋付きの木の「ごみ箱」を設置するようになり、ごみ箱がいっぱいになると 処分するのに、焼却できるものは焼き、肥料になるものは穴を掘って埋め、ガラスや瀬戸物は指定のごみ捨て場に投棄するよう、春秋の衛生指導で重点的に指導が行われたが、これは、市街地一帯にまだ低湿地が各所にあったので、そこを村が投棄場に指定して捨てさせ、ときどき覆土して衛生を保つものであった。しかし、やがて市街地一帯に投棄埋立適地がなくなってきたため、昭和30年にいたって、衛生環境保持のため新たに投棄埋立地を指定し、湧別市街および芭露市街のじん芥について、ごみ処理運搬トラックによる無料収集を行うようになった。 |
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葬 祭 | 開拓の当初は墓地と呼ぶ敷地がなかったから、死去者があったときには、手伝いの人たちによって葬家の私設墓地で穴を掘って「,野焼き」が行われ、骨拾いのあと土をかけて「土まんじゅう」にし、その上に木の墓標を建てたものであるが、野焼きは飛び火による山火の危険があったし、残り火の不始末も山火につながるおそれがあった。また野犬や狐が供物をあさり、土まんじゅうをほじくるなど墓地を荒すことも絶えなかった。さらに歳月がたつと土中の遺骨が燐化して、いわゆる「火の玉」が出るという怪談まで生んだものである。 いくらか開拓が進んで人里ができると、地域の申し合わせで共同墓地を設けるようになったが、正式に墓地とするには道庁の認可が必要であったから、開拓が一段落すると許認可手続がとられ、一部は北海道国有未開地処分法第4条により、大正末期から昭和13年ころにかけて認許付与されている。しかし墓地といっても野焼きに土まんじゅうと木の墓標といった形は、その後もつづいた。ちなみに大正13年現在の墓地は11ヵ所、昭和28年現在では13ヶ所(うち正式付与地4ヵ所)で、火葬炉は昭和6年に湧別、同16年に芭露と上芭露に建設されている。 |
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衛生組合 | 明治31年7月に「伝染病予防法」が公布されヽ隔離病舎の設置および予防措置が町村業務として取扱わなければならなくなり、同年11月には北海道庁令で「衛生組合設置規程」が示された。さらに同33年4月に庁令で清掃に関する規程が示され、毎年2回(春秋)の大掃除が義務づけられたが、本町では、未だ機が熟さず、同36年にチフス患者が発生の際、集団連帯で伝染病の脅威を駆除しようという機運が盛りあがり、翌37年7月に「湧別村衛生組合」 (組合長=高橋謙造医師)が組織され、同40年からは組合事業が村の衛生行政と不可分なことから、村費による補助金が交付され、組合の育成助長が図られた。 組合事業としては、予防衛生医学の発達していない当時のこととて、家の内外の清掃、伝染病発生の際の注意事項の啓蒙普及、春秋2回の各戸巡視衛生検査、のち石油乳剤の配給(蝿退治用)も加え、初歩的な活動が主であり、活動組織体制としては、村行政区ごとに分区が設けられ、衛生伍長をりーダーとして活動した。衛生検査というのは、家の内外の清掃の状況、台所の流し汁の水溜ぬの衛生処理状況、便所周辺の衛生措置状況、ごみ捨て場の管理状況を査察するもので、いつのころからかは不明であるが、 、 査察に合格した家には名刺大ほどの証紙が戸口に貼られ、不適な家にはやり直しを督促して再度査察という光景がみられた。 昭和13年までつづいた衛生組合は、翌16年の隣保組織(町内会・部落会)の機構整備に伴い発展的に改組され、分区は隣保班の衛生部に組み込まれ、衛生組合に代る「下湧別村連合衛生部」が発足した。衛生部は役場、警察、医師と協力して幼児の発育向上、国民体力検査、妊産婦の登録など公的な任務にもかかわるようになり、国民体力と出生率の向上という国策の末端実践機関となり、終戦後の隣保班庇の解体まで存続した。 |
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(3)およばぬ医療 | |||||||||||||||||||
富山の売薬 | 開拓初期から農漁村のほとんど各戸に常備されたといわれる越中(富山県)の家庭薬は、当時すでに全国的に名の知れた売薬方式によるもので、年に1回薬商が行李に詰めた胃腸薬、風邪薬、膏薬、貼薬などを背負って散在する各戸を巡回し、薬袋に1年分を適当に見つくろって配薬し、翌年の巡回時に使用分の代金を回収するシステムで、薬商は「先用後利」方式といっていた。 無医時代の人々にとって富山の売薬は、「越中富山の千金丹」などと重宝がられ、医師の開業がみられるようになってからも、家庭常備薬として不可欠のものであった。本町に初めて富山の薬商が来村したのは、 竹内侍華堂薬館が北海道の湧別地方の屯田兵の開墾特に既に訪れて、仕事中の畑で滋養強壮・健胃薬である「健心丹」を販売し・・・<富山県・竹内正一の書簡=昭56・11> 明治33年に浜市街の石山宅を訪れたとき、たまたま薬商が居合せて、近所に広めてくれと、詰合せの薬袋を3個ほど委託されたので、持ち帰って知人に奨めたのが、芭露における富山の薬の最初で、翌年から毎年回ってくるようになった。<野村丈太郎談> とあって、明治30年代初頭の屯田兵来往のころである。富山の薬にまつわる思い出を2、3ひろってみよう。 医者が遠くてかかれないから、富山の薬とゲンノショウコなど薬草でしのいだし、火傷や腫れ物には富山の膏薬に木灰、毒ダミ、ザリガニなどを生活の知恵で用いたものだ。<明治生れの人> 仁丹、千金丹、反魂丹など丹のつく薬が多かったが、昭和編第二入るとカタカナの薬名がつけられるようになった。市場競争も激しかったらしく、千金丹が出回ると翌年には万金丹が、アスナオールが出回ると次はスグナオールが出回るというぐあいだった。いつごろからか景品(お土産)が配られるようになり、紙風船(ふくらむと立方体)や絵師(食当たりの注意書き)をもらって喜んだものだ。<大正生れの人> こうして、家庭に定着した富山の売薬は、戦時中も続けられ、戦後の著しい市販薬品の普及および医療施設の充実といった中においても、開拓以来の根強い伝統と結びつきで、姿こそオートバイや乗用車に変わったが、営業は絶えることなく現在につづいている。 |
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伝染病 | 明治19年に全道を席巻した伝染病について、「コレラ、天然痘流行し3,444人死亡」という恐怖の記録が残されているが、紋別郡方面の罹患状況を知る資料は見あたらない。本町における伝染病発生に関する記録としては、明治40年ころに役場吏員が村勢概況的にまとめた報告の中に、 明治36年腸チフス患者2名発生し明治37年腸チフス1名ジフテリア1名発生したる事あるも短期間に全治す死亡者等なし 明治39年8月系統不明の実状垤亜1名腸室扶斯患者17名迄続発したるも1名も死したるものなきのみならす他に伝播せす何れも20日内外の帰還に悉く全治す 町村費等負担を以て予防等の施行を為したる事なし とあるのが最初である。また、明治時代の伝染病発生状況をまとめたものとして、次項の統計資料があるが、明治39ねんについては前記報告と一致しない点もある。 また、開拓期の特色あるケースとして、トラホームらしい患者が多く、子供も大人も「目くされ」といわれる現象に悩んでいたことが、明治43年に網走支庁が管下戸長に宛てた次の指達からうかがい知ることができる。 【伝染病患者調】
トラホーム予防に関する件 其役場管内に於けるトラホーム予防のため特に町村医を置き1年1回以上町村内を巡回検診せしめ尚貧民患者は其町村にて強制治療にせしむる事とせば1ヶ年幾千の費用を要すへきや左記に依り調査の上回報有之候也 これは、開拓当時の住居の炉で焚く薪の煙によるもので、特にアカダモは刺激がひどかったので、「目くされ薪」といって敬遠したという伝えもあり、よほど行政的に大問題であったと思われる。 大正4年に腸チフスを主として43名の伝染病患者が発生したが、この時代までの患者は自宅治療であったことから、治療ならびに予防対策のため隔離病棟舎建設が計画され、同6年に隔離病舎が建築されて、行政的配慮の緒についた。 その後、大正7年に伝染病ではないが感染流行で全世界を震撼させた、悪性感冒の発生があった。当時これを「スペイン風邪」といい、39度以上の高熱にうなされ、咳がひどく、血痰を吐き、急性肺炎を併発して死亡する者が多発し、死亡率は10%の高率であったというが、このときの本町における記録は不明である。 なお、現在では信じられないことであるが、終戦までは肺結核を亡国病視する風潮があって白眼視された。患者を「肺病たかり」と陰口し、感染を恐れて患者に近づくことはもちろん、なかには患者の家族や家にも近づくことを避けるありさまで、患者が出ると家族まで肩身のせまい思いをしたとういうことである。これは結核が「不治の病」と考えられていたことによるもので、病理衛生や医療の決め手がなかった時代に罹患率が高かったことから、非常に恐れられ、特に男子の罹患は、それだけ兵役免除者がふえて国防力を減退させると云うところに起因していた。 |
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無医村 | 明治2年10月に根村開拓使便出張所の開設と同時に、開拓移民100名を引率した松本判官は医師2名を同行し、病院を開設したことが東北海道における医療事業の最初である。次いで同5年9月に紋別と網走にも官設病院が設置されて、北見国にも病院の歴史の第1頁が綴られた。同7年3月に出張病院と改称されたが、同年8月に経費節減のため紋別の病院は廃止された。 明治初期は文明開化といっても、養成施策の行きとどかぬ時期であって、医師不足は全国的な悩みであった。ましてや人口稀薄な開拓地では開業成立の条件が整っていなかったから、行政的な配慮による官設は必然的な借置であった。しかし、官設医療機関の多設は是財政的に不可能であったし、かといって無医地区を放置することは、開拓の進展に大きな支障となることは目に見えていた。 このため開拓使は、官業経費の限界から、当時の7年医療試験制度にこだわらぬこととし、多少とも医術の経験を有する者は「勝手開業不苦」<明5・3根室支庁布達>として、自由開業を促す施策に踏み切った。それでも明治19年に紋別で古屋憲英が「静香堂」医院を開業するまでの10年間は、紋別郡は無医状態におかれるありさまであった。 古屋憲英は祖父、父とも漢方医であったことから医術の心得があったが、正規の医師ではなく、 根室警察署に奉職中、巡視先の家庭で難産の母子を救ったことから、上司から医者で身を立てるようすすめられ、紋別村出張病院の医師に任命されたといあれる。<紋別市史> というように、資格はともあれ、紋別郡ただ一人の医者で、重要な存在であったという。 明治21年に「町村医設設置規則」が公布され、町村開業医に補助するという開業促進策が施行されたが、思うようには医者を得られなかったようで、本町に村医の設置が見られたのは、明治33年のことであった。伝染病の項で引用の同40年ころの村勢概況的なものの中にも、 明治33年村医を招聘し年々存続・・・・現今に村医あり其他・・・に開業医ありて患者の療養遺憾なし とあって、医療の充実を謳っているが、それは湧別市街と屯田兵村に偏在していて、辺地におよぶものではなかった。 従って、 紋別にしか医者がいなかったころ、当時の交通機関と悪路では、重病の場合も遠く病人を連れて行くことはおろか、医者を招くことも容易ではなく、のちに湧別に医者が開業しても辺地地域は同じであった。死亡した場合でも医者がその辺の事情をよく知っていて、死亡診断書などは一回も診察なしで、適当に病名を付して死亡届に添付できるよう便宜を計ってくれた。 従って、 紋別にしか医者がいなかったころ、当時の交通機関と悪路では、重病の場合も遠く病人を連れて行くことはおろか、医者を招くことも容易でなく、のちに湧別に医者が開業しても辺地地域は同じであった。死亡した場合でも医者がその辺の事情をよく知っていて、死亡診断書などは一回も診察なしで、適当に病名を付して死亡届に添付できるよう便宜を計ってくれた。 という先人の遺話が、いまも伝えられているのである。 その後、北海道開拓の課程で実施された医療行政施策としては、第1期拓殖計画(明45〜昭2)で移民奨励策の一環として「属託医」(補助開業医)制度を実施したが、医師の定着が思わしくなく、配置に不均衡を生じたので、第2期拓殖計画(昭2〜22)では、属託医を拓殖産婆とともに「拓殖医」として拡充強化し、辺地新開農村地帯に配置することとし、優遇借置として収入を補う助成金と、診療所兼住宅建築に対する補助金を支給する方途が講じられた。 これら医者の開業などについては、後章で詳述することとする。 |
(1)給水施設 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自家水道給水 | 戦後復興による工業生産の伸展は、技術革新の波に乗って電動機期の面で著しい躍進をみせ、揚水ポンプでも家庭用から工業用にいたるまで、各種の電動式ポンプが市場に姿をみせた。 特に家庭用小型電動ポンプは施設が簡単で、そのうえ使用も簡便で効率がよく、揚水の労力も省けることから注目され、台所ばかりか風呂、洗面所、営業(食堂、食糧品店など)にもホーム水道として給水できる利便もあり、昭和30年ころから市街地に普及をみ、ちょうどそのころ各地域の電化も終わっていたので周辺地域でも使用する家が見られるようになった。また、学校、役場、公民館など公共施設や事業所でも大型電動ポンプを備えて水道化し、電動スイッチと水栓の操作で簡便に生活用水が使用できるようになった。 湧別市街と錦町一帯は、この装置で比較的安直に上質な揚水を得ることが可能なため、特にホームポンプの普及がめざましく、個々に、あるいは共同によって約90%が利用しており、他地区でも、既に各種水道施設が完成している現在も、ホームポンプの給水光景がみられる。 いっぽう芭露市街では鉄道からのもらい水が限度に達し、農協以西の市街化にあわせて、昭和35年ころ自家水道施設の声が起こり、古井戸(戦時中に越智景一が豆腐製造に使用)を利用して、1戸当り1万5,000余円の負担により東西2系統の水道敷設を行い、電動揚水ポンプにより約80戸に給水を開始したが、水量不足により時間制限給水するなどの不便が続いた。なお、この自家水道施設は、後述の簡易水道施設の実現で幕を閉じたが、ささやかながらも電動ポンプがもたらした恩恵であった。 |
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簡易水道 | 昭和28年に実施された水質調査の結果は、伝染病の予防対策も含めて、将来の上水道問題を展望するものであったが、戦後復興と相まって「不自由しないきれいな飲料水」を渇望する町民の関心にも作用した。 鉄道の給水車からのもらい水に依存していた計呂地市街では、戸口の増加に伴い他力依存が限界にきたことから、昭和31年に簡易水道施設の要望が高まり、翌32年に「計呂地水道設置期成会」(古屋泰寿会長)を結成して働きかけた結果申請が認可され、昭和33年に梅の沢水源地から360万円の工費で導水管1,250bを完成、翌34年4月1日から給水された。これが本町における公共水道施設の第1号である。 芭露市街では、とかく水量不足がちであって自家水道施設や鉄道給水車からのもらい水では、戸口増を支えきれなくなったため、昭和44〜45年の継続事業で、4,664万円を投じて、ポン川に水源を求め、浄水場と導水管延長2万1197bの施設を昭和45年11月に完成し、12月から給水した。 昭和45年12月現在の簡易水道施設状況は次のとおりである。
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専用水道 | 上芭露市街では、昭和34年に「水道利用組合」を組織し、1戸当り1万3,000円の負担で、17号の湧水(伏流水)を水源としてモーターを施設し、60戸に導水管を配して専用水道とした。その後、同37年に各戸4,500円の負担で改良工事を行うとともに、給水戸数を70戸に拡張し、昭和45年現在の施設状況は次のようである。
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開拓飲雑用水施設 | 本町は全町的に良水に恵まれず、住民は常に生活用水に苦労してきたが、それは開拓途上の辺地住民にとっては、ことさら営農上の障害になっていた。特に酪農経営を主体とする営農携帯の変革は、乳牛飼養頭数の急増をみて、飲雑用水確保は緊急な課題となった。町では種々の制度助成による給水施設実現に努力してきたが、開拓農家の生活及び営農用水供給施設については、代行開墾建設事業で「開拓飲雑用水施設」を実現した。 ■ 芭露開拓地区 内山牧場開放後の入植者の用水難については、農林当局が1ヶ所50万円の掘さく費を投じて、昭和25年と翌26年に各2ヶ所ずつの井戸を完成させた。この井戸は22bという深井戸で、特殊装置のポンプで揚水するものであったが、これだけでは各戸の利用にいたらないため、同37年に東方山麓に水源を求め、国費350万円と受益者18戸が各2万円の負担で、延長3,100bの導水管が施設された。その後、東地区開拓水道と連結し、本間沢川を水源として現在に至っている。 ■ 東地区 東地区(西8戸)と福島地区(8戸)のため開拓飲雑用水施設が施工されたのは、昭和26年ころからで、これが完成したのは昭和34年であった。福島地区山手水源地から9,030bの導水施設がなされている。 ■ 芭露第2開拓地区 昭和36〜37年に入植した芭露第2開拓地区8戸のため、掘さくと2,023メートルの導水管施設が、昭和37年に完成した。 ■ 信部内(川西の一部を含む)地区 昭和39〜40年に川西の一部を含み,信部内全戸の給水施設が実現した。これは沼の上(シブノツナイ川)に水源を持つ紋別市の簡易水道から信部内に給水したものである。 芭露と東地区の施設は、その後の営農形態の変革に伴い水量不足など支障を生じ、昭和43年に水源地を本間沢川に求め、芭露と東の水道幹線を連結して、なやみを解消した。しかし、永年の給水で導水管が老巧し、漏水などのため給水車による給水で一時しのぎをする場面もあったことから大改修を余儀なくされ、次のように導水管支線を改修した。 芭露・東地区 昭和54〜55年 信部内地区 〃56〜57年 |
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営農用水施設 | 前項の施設により、開拓農家は開拓補助制度により用水の確保が図られたが、開拓関係以外の既存農家においても、水質の問題は深刻で、特に酪農推進には牛の引用水が人間の飲料水以上に関心を払わなければならなくなった。施設の概要をみよう。 ■東地区 水田廃耕による酪農専業への切替により、水量不足が深刻となり、遠距離から水を運ぶような事態もあって、昭和43〜44年に営農用水施設が施工された。水源地は東1線6号で、井戸2本と延長6,396bの導水管が約2,500万円で完成し、対象戸数56戸と乳牛600頭の飲料水が確保された。 ■西湧(川西)地区 古い開拓の歴史がありながら水質に恵まれず、良水を求めて自力で井戸を掘り何百メートルも導水するなどの苦労をしたが、道営営農用水事業で昭和53〜55年に1億6,600万円余を投じて、営農用水施設を完成させ、これで西湧全地区の水不足がいちおう解消した。 |
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無水農漁家生活環境施設 |
代行開墾建設事業(道費)による「無水農漁家生活環境施設」として、生活用水に不便をかこつ地区に、飲用水供給水道施設が、次のように施工された。 ■ 登栄床地区 昭和38年に、登栄床三里番屋の一部22戸を対象として、ポンプ加圧式(地下水)で導水管1,300bの施設が完成したが、次項の施設完成で廃止された。 ■ 計呂地地区 昭和44年に計呂地市街を除く奥地の一部(5戸)に、2,060bの導水管で通水した。 |
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水産飲雑用水施設 | 前項の登栄床地区の施設により、いちおうの給水借置が実現したが、塩分を多く含んだ水は良質とはいえず、加えて近年魚貝のの水洗など水産用、飲用の受容が大幅にふえたことから、国費導入による水道施設が計画され次のとおり完成した。 事業名 漁業集落環境設備事業「水産飲雑用水施設設置事業」 工 期 昭和54〜55年 事業費 1億6,900万円 水源地 錦町、湧別川河畔の地下水 送水管 1万1,518b(ポンプ加圧式により中番屋まで) 配水池 中番屋 配水管 4,527b |
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湧別上水道計画 | 湧別市街および錦町は、周辺各地区に比して、やや良質な水に恵まれ、地下水を電動ポンプなどによって汲み上げて使用しているが、町内最大の集落にもかかわらず、いまだに上水道施設がないまま経過してきた。これは、戦後の伝染病や薬液使用の実態や工業生産の発展などから、地下水の汚染が急速に進行し、昭和28年の実態調査も、それを裏書きしていたので、町では速やかに簡易上水道施設を企画したが、他地区の飲雑用水の確保が先決とあって、今日まで延引していたという事情があった。 しかし、関係地区住民の要望が切実であり、衛生上からも早急に実現の必要があるところから、鋭意企画を進めてきた結果、上湧別町の水道改修にあわせて、両町の提携のもとに総合的に施工する運びとなり、補助申請を行った。計画概要は次のとおりである。 工期 昭和57〜59年 給水人口 1万1,000人(うち本町4,000人) 給水地域 湧別市街、錦町、東、福島、登栄床の各地区 取水量 5,158/日(うち本町分2,219?) 最大吸水量 4,689?/日(うち本町分2,017?) 取水方法 湧別川と社名淵川の合流点より湧別川の上流で、衛生上支障のない地点を選ぶ 導水方法 導水ポンプにより新設浄水場まで圧送 浄水方法 湧別川の最高濁度を考え、薬品沈でんと急速ろ過による 送水方法 新設浄水場から湧別町配水池まで送水管により自然流下 この結果、東、福島、登栄床の既設水道も包含されることになった。 |
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水道の管理運営 | 芭露簡易水道は町が直営し、「簡易水道事業特別会計」によって管理運営が行われているが、その他は町の管理下にあって各地区の「水道利用組合」が運営している。なお、信部内地区については、給水区域の一部が紋別市沼の上にまたがるところから、昭和46年4月以来、紋別市の管理するところとなっている。 |
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(3)環境衛生 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新しい衛生組合 | 昭和28年に「公衆衛生に関する民衆組織の育成要領」が示されて、環境衛生の充実が時代の要請としてクローズアップされ、疾病予防とあわせて広範な公衆衛生の昂揚が要請される時代となったことから、同年各地区を単位とする「衛生組合」が復活したが、その性格は戦時までの衛生組合とは大きく変容し、モデル衛生地区の指定による清掃美化運動、遠軽保健所との連携などによる、町民個々の実践的衛生の啓蒙に寄与しており、町でも活動促進のため補助金を交付している。 |
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下水処理 |
昭和52年5月に実施した住民アンケート調査による下水処理状況をみると、 自家用汚水溜による地下浸透 43% 道路側溝利用 36% 河川への直接放流 7% その他 14% で、このうち市街地区のみを抽出してみると、 側溝利用 湧別 41% 芭露 67% 自家用溜 湧別 39% 芭露 19% と、市街地における側溝利用率が高いことを示しているが、これは道路改良による側溝整備が市街地において優先したからで、全体的には交通運輸編「道路網」で記したとおり側溝整備のおくれが目立っていて、下水処理に支障を来している。公共下水施設のない現況について、町総合開発計画では、次のように課題を提起している。 市街地の側溝は緩慢な勾配と水量不足が原因して、流通が悪く、機能低下を来している。このことは将来側溝の底部、あるいは排水口の汚物の体積によって、悪臭の発生など環境衛生上好ましからぬ結果を生み、のみならず生活様式の高度化とともに雑、汚水排水量の著しい増加によって、自家用溜ともども地下水に影響することが予想される。しかも側溝に排出された汚水は、いずれも河川への直接放流となっており、河川〜湖沼・海への影響が憂慮されるので、側溝の整備とともに公共下水道施設の整備が必要である。 |
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し尿処理と衛生事業組合 | 昭和33年から指定業者のバキュームカーが、特別清掃地域に指定されていた湧別市街、錦町、芭露市街の汲み取りを行うようになり、指定投棄場所に投棄する方式が昭和42年まで9年間つづいたが、悪臭公害の発生を伴い本質的な改善にはいたらず、浄化装置を伴うし尿終末処理施設の必要を痛感したが、これは一町のみで果たせるところではなかった。 一町(村)ではなし得ない終末処理施設について、ようやく機が熟し、昭和39年に遠軽地区町村会の話し合いに入り、本町では上湧別町、遠軽町、丸瀬布町、白滝村、生田原町、佐呂間町と連帯して、7ヶ町村による「遠軽地区町村し尿処理組合」を組織して対応することになった。この組合は、消防組合と同じく一部事務組合で、昭和40年6月に発足し、組合事務所は遠軽町役場におかれ、終末処理施設(加温式30日処理、処理能力1日45d)は遠軽町学田4番地に建設され、昭和42年10月操業を開始した。しかし、その歩みは厳しいものがあり、あらまし次のような曲折があった。 昭43・2 開盛地区住民から以上臭気除去に関する陳情=昭44改修 昭45・5 開盛地区住民から「7箇町村協同組合し尿処理公害対策要望書」=昭46改修(風向きによりなお悪臭) 昭47・2 組合の調査特別委員会が検討の結果、新増設案まとまる 昭48・1 開盛地区住民から現施設問題未解決のままの新施設不可とする要望書=昭48・8完全臭気防止完成 昭48・9 新施設場所について開盛地区住民と折り合いがつかず、結局上湧別町南兵村1区に建設決定 昭49・12 「南兵村処理場」(加温消化式、処理能力1日55kl)完成 昭50・3 新施設建設地選定以来紛糾していた公害補償問題が全面解決(昭49・4=開盛と南兵村、50・3=学田) この間の昭和49年2月11日に組合は「遠軽地区衛生事業組合」に改称した。 こうした近代施設の実現により、汲取地区も当初の3地区から逐次拡大され、現在は栄町、港町、曙町、緑町、錦町、登栄床、テイネー、芭露市街、上芭露市街、志撫子浜、計呂地市街におよび、汲取り遅延の解消と作業を能率的に行うため、地域ごとに年2〜3回の日程を定めて計画的な収集を実施している。
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公衆便所 | 市街地をはじめ環境が美化され、公園や遊園地も整備されるに伴い、俗にいう「立ち小便」などの公衆道徳にもとる行いを解消するとともに、環境衛生と美化のうえから、通行人の便宜を計るために、次のところに公衆便所が設けられている。 栄町(昭39)、緑町、錦町、芭露市街、登栄床漁港(以上昭55)、港町(昭45)、上芭露市街(昭46)、三里(昭56)、計呂地市街(昭49) |
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公衆浴場 | 明治31年の紋別道路完成で栄えた4号線市街に湯屋があったと伝えられているが、おそらく、これが本町では最初の公衆浴場(銭湯)でなかったかと思われる。また戦前に湧別市街に風呂屋が2ヶ所あって、かなり繁昌していたことを、荻原センは次のように回想している。 2軒あった銭湯は、どちらもよく繁昌していた。私は大正12年にきたのだが、いまのカネサストア付近の尾崎さんという風呂屋(2階は旅館)を利用していた。3〜4時ごろ行くと料理屋の姐(ねえ)さんたちがたくさんきていて、念入りに化粧して帰っていったものだ。料金は2〜3銭(小人)だったと思う。番台や衣類籠などなつかしい銭湯風景を、いまでも覚えている。 そして戦後、昭和26年から毎年公営住宅の建設が進み、一般住宅も併せて浴室のないなやみから浴場設置が望まれるにいたったので、昭和29年12月に町は公衆浴場を完成させて、町民の保健衛生を一歩前進させた。「町の湯」というのれんを付けて営業したが、当初は利用者も多く、人気を博したものである。 その後、内部火災のため一部を消失し、補修して営業を続けたが、昭和32年8月に施設を土井重喜に売却し、個人営業の形態になった。しかし、高度経済成長とともに住宅事情が次第に様変わりして、一般住宅の浴室の整備が進み、公営住宅にも浴室が取り付けられるようになったため、「町の湯」の客が減少して営業維持が難しい局面を迎えたが、町では町民保健の見地から、営業費の一部を町費助成して存続を計ってきた。 昭和56年にいたって、これ以上の営業継続が困難となり、加えて施設の老巧がひどいため、代わりの策として林業研修センター「しらかば」の浴室を拡充整備し、旧「町の湯」を閉止するとともに、一般町民にも解放した。 |
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じん芥処理 | し尿処理と並んで、環境衛生保全のうえから大きな比重を占める「じん芥」(ごみ)処理の問題は、戦後の経済復興〜高度経済成長の中で、いっそう比重を増していった。つまり、消費生活と物資流通形式の変容から廃棄物の急激な増加をみたのである。 本町が家庭から出るごみや廃棄物の処理について一部規制し、公的にじん芥収集を行うようになったのは、昭和31年からである。 収集地区 湧別市街、芭露市街 収集方法 ごみ処理運搬トラックによる無料収集 収集回数 月2回(1〜3月は月1回) でスタートし、投棄場所は、湧別方面は市街地中心から1・5qの海浜地、芭露方面は荒谷の沢に、埋立方式で処理した。 しあkし、高度経済成長と生活水準の向上は家庭廃棄物排出量の増量傾向をみせ、産業廃棄物の存在も公害などの見地から放置できない状況。となった昭和45年12月に国が「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」を定めたのも、そのような事態を見逃せないとしたからで、その主文に、 市町村は一般廃棄物を生活環境の保全上支障が生じないうちに収集し、これを運搬し、及び処分しなければならない。 と明示された。このため本町では、昭和49年に従来の清掃条例を改正強化するとともに、じん芥収集専用の清掃車(4d)1台を配置して、収集区域と収集回数をふやし、次のような収集体制をとっている。 湧別地区 湧別市街、錦町=月6回、登栄床=月3回 芭露地区 芭露市街、上芭露市街=月3回 計呂地地区 計呂地市街、志撫子浜=月3回 また投棄処理場についても、昭和48年に字東町有地に4万1,245平方b、芭露に3,607平方bの用地を確保し(芭露は冬期間閉鎖)、埋立方式で処理しているが、じん芥排出量の増加、廃棄物の質的変化、投棄処理場用地の確保難などから、 ・・・これが処理について町村共通の課題となっている現状から、処理施設の広域的設置によって、衛生的、合理的処理の実現が・・・・・ と、町総合開発計画では提起している。じん芥処理の推移は次表のとおりである。
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火葬場 | 野やきが環境衛生と宗教道徳の面から憂慮されたことから、村として火葬炉の築説を行った経過は次項表のとおりであるが、いずれも共同墓地に併設された。 しかし、当初の火葬場は喪主が葬祭のとき借りて、手伝い人が薪材を搬入して炉でやくものであったkら、手数は野やきのちきとは変わりなかったし、管理人もいなかったから荒廃の度合いも早かった。 昭和39年11月に湧別火葬場の一部整備が行われ、燃焼方式も重油バーナ焼却炉が取り付けられた。これは町内の全火葬場を湧別火葬場に統合することを前提としたもので、葬儀店の進出や自動車の普及により、柩は霊柩車で野辺送りの自家用車を従えて、火葬場に容易に直行するようになったこと、1ヶ所に集約することによる時間的混雑を解消することが配慮の背景にあった。そして、この施設は、葬送者が休息所で待つこと2時間以内で骨上げができるというもので、 昔は「野辺の送り」といって、遺族、親族、手伝いの人々が位牌、柩、霊花などを所持し、葬列の大小こそあれ行列をつくって、会葬者に見送られて火葬場へ向かったものであった。柩は若者の肩で担ったこともあった。次第に馬車や馬橇で運ぶようになり、葬列の人々も馬車や馬橇を利用するようになった。 葬列が葬家を出ると行路の灯が路傍に点々と立てられ、沿道の子ども達には、米のお握りや菓子を施したもので、野焼きは3〜4時間も要し、夜を徹することもあった。 といった古老の昔物語は、まったく姿を消してしまった。 昭和50年前後から各火葬場は老巧化により次々に廃止され、時代にふさわしい近代的な火葬場が望まれるようになったことから、同54年11月「湧別斎場」の完成をみた。 建物 ブロック造平屋建281u 工費 4,800万円 施設 灯油バーナー式焼却炉2基(無縁無臭方式) これの管理は民間人に委託しており、条例により町民の使用料無料化の施策も実現した。 |
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墓 地 |
墓地が設けられた経過の中に、北海道国有未開地処分法第4条による付与(大正末〜昭和15年ころ)で正式に共同墓地となった経過があるが、湧別、芭露、上芭露の墓地はこれに属する。一例を芭露墓地にみると、 明治35年に官地の貸与を受けたのが湧別墓地のはじまりで、芭露墓地は村有財産台帳に昭和13年12月芭露原野4,850番地(現964番地)の1万2569平方bを付与と明記され、村営墓地として管理されるようになった。 という、もう一つのケースは、戦後まで持ち越されて、昭和23〜24年に道や大蔵省から総て無償付与されて正式墓地となったもので、前記以外がこれに属し、計呂地、志撫子の国有未開地は現在譲渡の手続き中である。一例を西芭露墓地にみよう。 開拓当初は上芭露墓地を使用していたが遠くて不便なため、現村井玉吉裏手の北側の高地を使用するようになった。大正9年に第1番目の墓所ができた。昭和23年以来の村と北見営林局の話がまとまり、譲渡を受けて現墓地を使用するようになった。 こうして9ヶ所の墓地が設定されて、村営墓地の延長のような管理であったから、戦後復興後の社会情勢の流動で集落形成に変化が起きると、管理が行きとどかなくなり、宗教道徳と環境衛生のうえで好ましくない荒廃がみられるようになった。このため町では昭和45年から各区の協力を得て墓地内の立木を伐り、お盆前に各墓地の除草を行い、通路に砂利を敷くなど毎年環境整備に努力した結果、以前のような寂しい墓地はなくなった。2,3の例をみよう、 昭和45年から8月上旬の一日を「墓地清掃の日」として清掃を励行しているので、見違えるほど綺麗になった。<湧別墓地> 昭和47年から5ヶ年計画で「志撫子墓地整備員会」による霊園整備が行われて現在の姿になった。町から機械力の出動を受け、以外は区が労働力その他を拠出して完成したもので、環境整備優良地区として、昭和50年に支庁長表彰を受けている。<志撫子墓地> 駐車場も造成し、老人会員の清掃奉仕、区民定期出役による清掃で環境を保っている。<西芭露墓地> なお、行旅死亡者など無縁仏を弔う「無縁仏」の墓碑が、湧別墓地(石田勇造、横幕石材店の篤志により建立)と、上芭露の報国寺境内にあり、志撫子墓地には「無縁仏供養之塔」(昭54・8・15墓地整備委員会建立)がある。
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(3)予防衛生 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
戦中戦後の伝染病 | 天理教年に隔離病舎を設置してから後の伝染病発生状況については、四郎が散逸して不明であるが、戦時中と終戦後の混乱期には、衣食条件の不備不足や衛生資材の欠乏がわざわいして、健康上からも衛生上からも無理な生活環境を強いられ、戦後復興をみるまで全道的に赤痢、ジフテリア、腸チフスが続発し、本町でも次項のような発生をみている。 このころの状況について、西芭露の古老は次のように回想している。 戦争の悪夢から解放された昭和21年、22年上芭露を中心に芭露一円に悪性の赤痢が発生まん延した。当局の充分な防疫方法もとられないまま、各地域ともかなりの死亡者が出たが、日を追って自然に終えんした。西芭露でも数名の死亡者があった。 その後、昭和29年初夏に再び当地域に感染経路不明のまま赤痢が襲来した。区の全員検査の結果、40名に及ぶ保菌者が発見され、上芭露に隔離されて治療を受けた。特に学校生徒が多く当時の新聞をにぎわしたが、役場でも係員を地区に泊まり込みで出張させて、消毒防疫につとめて、拡大を防止したので前回のような死亡者はなく、不幸中の幸いであった。
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隔離病舎と隔離病舎組合 | 大正6年4月に東2線に建設された84・25坪の隔離病舎は、終戦当時には老巧化が進み、使用に支障を感ずるようになっていた。 終戦後、上芭露を中心に芭露一円に赤痢が発生したことから、隔離病舎の緊急新設がとりあげられ、昭和22年に45・5坪の隔離病舎を上芭露び建設し、応急的に患者の隔離治療に活用したが、施設の不備から同34年に65・75坪に拡張された。 昭和28年に湧別の隔離病舎は老巧により廃止し、同31年に芭露の国民健康保険診療所に65坪の隔離病棟が付設されて、上芭露病舎も廃止された。従来の隔離方式から大きく脱皮した近代的伝染病治療施設であった芭露診療所付設隔離病棟は、当時としては、まれにみる充実した施設であった。 その後、社会情勢の変化により、辺地町村の医師確保難時代がおとずれ、不測の事態に対処するための検討がなされていたが、昭和45年にいたって一部事務組合方式による広域提携がみのり、当時すでに発足していた「遠軽町・上湧別町伝染病隔離病舎組合」に本町と白滝村が加入して、6月1日に「遠軽町外3箇町村伝染病隔離病舎組合」が認可された。この組合は、その後、 昭46・2・20 佐呂間町と生田原町の加入で「遠軽町外5箇町村伝染病隔離病舎組合」 〃47・1・18 丸瀬布町の加入で「遠軽地区伝染病隔離病舎組合」 と推移しているが、事務所は遠軽町役場に置かれ、隔離病舎は遠軽町の厚生病院敷地内に施設されている。 なお、芭露診療所の隔離病棟は、その後、診療所の付属施設として利用されている。 |
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法定伝染病 | 近年の伝染病発生の退潮をたどるなら、その発生の跡を追うよりも、ワクチン、新薬などの開発と保健衛生制度および体制の充実により、諸疾患に対する予防と治療の医学的研究と社会対策が、高水準に達したことをあげなければならない。 その一つが、昭和23年7月1日に施行された「予防接種法」であり、これによってジフテリア、腸チフス、赤痢、猩紅熱など10種の疾病が「法定伝染病」に指定され、のちに日本脳炎が加えられて11種となった。予防接種は国民の義務となり、実施主体は市町村とされた。近年の伝染病の比較的多発(年間5人以上)状況は表のとおりである。
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ポリオの恐怖 | 昭和35年春から川西、東地区にポリオ(流行性小児麻痺)が発生し、子を持つ親を震撼させたことがあった。8月にいたって志撫子にも4名の発生をみ、死亡者が出るにおよんで、関係地域は恐怖におののくありさまとなった。町では保健所と協力して防疫に当たり、保健婦を総動員して予防指導に努め、NHKからテレビ取材に来町するなど、大きく報道されたものである。 志撫子をはじめ隣接の計呂地では、衛生組合が率先して全戸消毒を実施し、志撫子浜では子供を人里離れた円山に避難させようと、真剣に話し合われたという。 その年のうちにポリオワクチンの緊急投与が行われて、6名の発生にとどまり、終熄をみて以来、発生していないが、当時を物語るものとして、いまだに後遺症に悩む気の毒な人が見受けられる。 |
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種痘の中止 |
法定伝染病のうち天然痘については、戦前、戦時中にも予防法制があって、数え年2歳と小学校1年生および6年生の時の3回、予防接種を受けることが義務づけられていた。以来、昭和49年まで予防接種が続けられていたが、昭和50年から厚生省の通達によって予防接種は中止され、実施しなくなった。 これは世界の発生状況が、最終的な天然痘流行地と目されたエチオピアやソマリアでも止まったことによる借置で、以後は、海外旅行に際し、種痘の必要な国へ行くときにのみ接種するだけとなった。 |
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結核予防 | 不治の病といわれ、亡国病ともいわれた結核は、戦後著しい退潮をみた疾病の一つである。昭和26年3月31日に「結核予防法」が施行されて、ツベルクリン反応検査、BCG接種、レントゲン検診による早期発見が促され、併せて特効薬が開発された結果である。 本町における結核罹患状況は逐年減少傾向にあり、死亡率も低下しているが、罹患者は中高年齢者に多く、概して50歳以上が患者数で75%、発生数では73%前後で推移している。なお、本町は昭和51年に結核対策推進優良町村として財団法人結核予防会総裁賞を受けている。 【発生状況】
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成人病対策 | 医学、予防衛生および医療の進歩と保健活動の普及は、平均寿命の伸び、青少年の体位向上をもたらしたが、反面において生活環境の社会的変化により、新たな健康阻害要因が発生し、難病の発生など疾病の質的変化がもたらされている。この変化は昭和30年代半ばから全国的な傾向として認識されはじめたが、高度経済成長の流れと軌を一にしていたのは皮肉な現象であった。本町においても、疾病件数の上位3種でみると、
新しい兆候の最たるものは「脳血管系疾患」(特に脳卒中)「心臓疾患」「悪性新生物」(各種「がん」)など一般に「成人病」と呼ばれるものによる死亡率の上昇で、特に中年層に波及しているのが大きな関心事となっている。
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狂犬病予防 | 人畜に被害を与える野犬は、同時に狂犬病の媒体として危険な存在となっていることから、昭和24年に「狂犬病予防法」が公布され、同28年には「北海道畜犬取締及び野犬掃討統制条例」が制定され、野犬を掃討することと併せて、畜犬(飼い犬)を登録して狂犬病予防注射を施すとともに、畜犬の放し飼いを戒めることになった。 本町でも昭和34年に条例を制定して、保健所と協力して野犬掃討を定期的に実施するとともに、畜犬登録および狂犬病予防注射を実施している。
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食品衛生協会 | 昭和22年12月に「飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、公衆衛生の向上及び増進に寄与する」ことを目的として、「食品衛生法」が公布され、その後、関係の道規則および条例も制定された。これにより、食品関係者はもちろんのこと、国民は法の趣旨に則って、自発的に食品衛生の普及実践を行うべきであるとされたことから、特に食品関係業者が深い関心を示し、社団法人「食品衛生協会」の設立結成をみるにいたった。 本町関係業者は昭和23年に紋別保健所管下一円の協会が結成されたときに加入し、その後、同27年に遠軽保健所の分立設置とともに「遠軽地方食品衛生協会」の発足となり、同時に、その下湧別支部として結集し、現在は湧別支部として活動している。支部長は一貫して阿部文男が歴任している。 |
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保健婦 | 本町における保健婦の配置は、昭和20年4月に「下湧別村国民健康保険組合」が、組合員の保健指導に常時当たらせるために配置したのが最初であり、遠藤松子を上芭露に常駐させて、衛生思想の普及と健康相談を実施している。その後、昭和24年の国民健康保険事業の公営化(村営)に伴い、村が継承して保健婦の活動が現在にいたるまで存続している。在任した保健婦は、 遠藤松子(昭20・4〜24・7)、村井妙子(昭24・11〜26・7)、兼田タミ(昭30・1〜31・4,工藤ヒサ(昭31・4〜35・7)堀川トシ子(昭31・5〜32・7)、細野宮子(昭32・8〜34・6)、山中百合子(昭33・9〜34・9)、馬場寿美(昭34・6〜38・1)、矢守キミヨ(昭35・5〜36・7)、小林アイ子(昭35・7〜56・3)、安彦幸江(昭38・1〜41・6)、川口咲枝(昭38・1〜41・1)、高崎三枝(昭38・10〜45・9)、高松富子(昭41・7〜42・5)、松居美津(昭42・4〜46・2)、菊地香(昭42・4〜46・3)、川本真知子(昭46・4〜47・3)、鈴木恵(昭47・7〜現在)、榊原光子(昭48・4〜50・3)、粥川藤江(昭48・4〜50・6)、小島いづみ(昭57・4〜現在) となっているが、昭和47年の町総合開発計画では、次の実状を訴えている。 保健婦による在宅患者の療養指導、妊婦の健康および育児指導、家族計画、老人の生活指導、栄養指導など町民の健康増進と予防衛生につとめているが、現在2名(うち1名は上芭露市街に常駐)で、保健婦本来の業務とする常時訪問活動を認めながらも、広範な地域と保健婦の不足している現体制では、活動範囲も必然的に制限せざるを得ない現状である。 |
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(4)母子衛生 |
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開拓初期の出産 | 開拓初期の母子衛生環境も、環境衛生や予防衛生と同様に、なんらの施策も及んでいなかった。医者も助産婦(産婆)もいない当時の出産は、地域あるいは村内の巧者な素人産婆に頼るほかなく、そうした人を得難いところでは、ときとして妊婦が独りで出産することもあって、難産ともなれば手の施しようもなく、みすみす新生児はおろか、妊婦の生命まで落としかねなかった。巧者な素人産婆については、芭露方面に次のようなエピソードが残されている。 有資格者の助産婦のいなかったころは、「取り上げ婆さん」と愛称した人に助産を依頼し、昭和になってから湧別の産婆を招くようになった。 明治37,8年ころ9号線に竹田の婆さんがいて、上芭露方面の取り上げをしていたし、明治32年に湧別2号線〜同35年に芭露7号線と転住した多田サトは、産婆助手の経験者で、人助けのため30有余年にわたり、400人をくだらない出産を取り上げたといわれ、「サト婆さん」と慕われていた。また、小野サツは大正7,8年ころ内山牧場に入り、頼まれて取り上げること10有余年におよんだというが、小野サツも産婆見習いの経験者で「サツ婆さん」と愛称されていたが、サト、サツ両婆さんとも、頼まれれば吹雪の夜でもいとわず出向いて感謝されていたという。 なお、本町に有資格の助産婦豊島ムエが開業し、「産婆さん」と呼ばれて、ときの氏神のように安堵感をもたらしたのは、大正12年で、以後60年間にわたり、交通不便なとき、戦時の産めや殖やせよの時代を通じて母子衛生に献身的に活躍し、取扱った出産は優に4,000人に及ぶといわれる。その功績で昭和51年に勲6等宝冠章を受けている。 |
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助産婦(産婆) | 昭和40年代から集散の場所が、妊婦の家から施設のある助産院や産科病院に移りはじめ、現在では上湧別町母子センターや遠軽厚生病院、あるいは紋別や遠軽の産婦人科医院に入院して出産する習わしとなった感がある。 しかし、それ以前は「産婆さん」と呼ばれて親しまれた助産婦が、貴重な存在として出産と母子衛生に貢献してきたのである。助産婦が制度的に配置されるようになったのは、第2期北海道拓殖計画(昭2〜22)による「拓殖産婆」であるが、幸い本町では、それ以前に開業した産婆がおり、大正15年の「村勢一班」には3名と記されているし、次のような証言もある。 昭和となってからは中湧別の渡辺産婆や湧別の豊島産婆、秋葉産婆を招いていたようである<芭露> その後の助産婦の開業状況は、村勢要覧や村勢概況の「産婆」の項に、次のように記されている。
だれが拓殖産婆であったかは判然としないが、開業のあとを印した助産婦のうち確認できたのは次の人たちである。 豊島ムエ、秋葉ミツ、井出くに、八百坂くに(以上湧別市街)、福原芳枝、西川きみ子、(以上芭露市街)、清原とみ子(上芭露市街)、洞口リン子(計呂地) |
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母子保健事業 | 戦後、町村が主体的に実施するようになったものに、「母子保健法」による母子保健事業がある。その一つが「母子手帳」の交付による妊産婦および出生児の保健指導であり、もう一つが母子の栄養改善のための食品支給である。前者は昭和20年代後半から、後者は昭和40年から施行されたものである。特に後者は生活保護世帯、前年度町民税非課税世帯、同所得税非課税世帯(昭49削除)に該当する妊産婦と乳幼児に対し、 (1)妊婦は届け出から出産まで (2)産婦は出産の翌月から3ヶ月間 (3)出生児は出産4ヶ月後から9ヶ月間 栄養強化のため必要な食品を無償で支給するものであった。しかし、食品支給は、戦後急速に台頭してきた人工栄養による授乳に対して、母乳による育児の見直しが叫ばれるようになったことから、粉乳を無償で支給することの矛盾が浮き彫りにされて、実施の見直しが行われ、支給条項を一部改正し、昭和43年から新たに「母子保健推進員」が制度化され、本町では小林アイ子、安藤アイ、豊島ムエらが委嘱されて経過した。
実施状況は表のとおりである。 |
(1)拓殖施策と医療 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初期の村医と開業医 | 明治21年に「町村医設置規則」が公布され、町村開業医に補助を講ずる道が聞かれたが、本町に村医の良医をみたのは明治33年のことである。それ以前に開業医があったことについては、 それ以前の明治28年に四号線に高知県から高橋謙造医師が移住し、診療所を開いたが、いまだ新開地で患者が少なく、そのため非常に苦労し、近くの国有未開地の貸付を受けて家族の者に開墾させて、食糧の自給を図りながら医療を続けていた。 明治33年ころになると紋別道路も完成し、また浜市街や四号線を中心とした殖民地への移住者もふえ、患者も多くなったので、「回陽医院」を開設し、同時に下湧別村の村医を委嘱されたのである。<土井重喜述> があり、これに開速して同37年の事務報告(後述)に「湧則浜殖民地村医高橋謙造」と出てくるのが、その証左といえよう。 明治35年に屯田兵村行政区では村医養成を計画し、学資を支給して医師の養成を実施したが、のちの庄田万里がその人である。翌36年5月5日に青木伊勢松が来村して早速9日に兵村で診療所を開業し、併せて北湧尋常高等小学校の校医に委嘱されているが、これは屯田兵制度解除後の軍医の引揚げに着目したものであった。しかし、入植者が相次ぐにつれて医師招へいは緊急の課題となり、村としても努力したが、 学田部落村医ノ必要性カラ補助申請ヲ為ン補助ヲ受ケタル金額ヲ以テ村民ヲ雇聘ノ件、百方探索スルモ適任者ヲ得ズ湧別浜殖民地村医高橋謙造二部落村医ヲ嘱託シ月々○日ヲ出張診療スルコトトシ其ノ医務二充テタリ<三十七年事務報告> というように、医師の穫得については社会的に条件が整わないものがあったのである。 明治40年に湧別市街に武野医院の開業があり、校医として湧別尋常高等小学校に武野明、北湧尋常高等小学校に庄田万里、遠軽尋常小学校に青木伊勢松を委嘱しているが、この時点で、いちおう医師の要点配置がなり、 現今庄田万里、青木伊勢松ノニ村医アリ其他武野明、高橋謙造ノニ開業医アリテ患者ノ療養遺憾ナシ ということになったのである、とはいえ医師の開業地は比較的集落人口の多い市街地に限られ、戸口の散在する芭露方面には医師がみられなかったのである。 芭露方面に医師の足が坤びたのは、明治41年のことで、「明治四十一年村医小原隆造校医を命ぜられ、同四十三年依願解職」<芭露小学校沿革誌>の記録がある。このとき同時に付属の上芭露・計呂地両簡易教育所の校医も委嘱されており、年度の誤りはあるが、「四十二年芭露校、上芭露・計呂地教育所校医小原隆造」<北海之教育>という記録もある。小原隆造については、自叙伝に、 明治四十年拓殖医として岩手県より来往し、湧別浜市街において五ヵ年間開業。この間に村医を委嘱され、芭露小学校などの校医を委嘱されていた。 とあり、明治43年1月21日に浜市街基線1番地で長男の出生(戸籍の出生届受付)をみているから、当時の本町の医師は5名であったことになるが、拓殖医という点(次項参照)については疑問の余地があり、やはり町村医設置規則による補助開業医であった思われる。湧別浜市街に開業しながら、芭露方面の校医というのも、そのあたり(設置規則とのかかわり)をうかがわせるものがある。 |
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属託医と拓殖医 | 「嘱託医」=補助開業医(第1期北海道拓殖計画=明45〜昭2)と「拓殖医」 (第2期北海道拓殖計画=昭2〜22)の趣旨については、すでに記述したとおりであるが、この二つは流れとして密接しているので併述することにする。 大正2年に上芭露に、宮城県出身であった上伊沢伝(当時の村会議員、上芭露部落部長)の招請に応じてヽ仙台か 召請に応じて、仙台から春日中正が嘱託医として、子息良夫を伴って来往した。広い芭露方面は、中正が老医のため往診は良夫が代診していたが、老医は大正4年に老齢のため死去し、良夫は無免許のため湧別浜市街の武野医院の分院ということで代診をつづけた。しかし、ようやく医業分限の取締りが強化されるにおよんで、大正6年5月に廃業して帰郷し、芭露地区は再び無医状態になった。なお、この関、武野医院が芭露市街に分院を開設し、作田某が代診していたが老齢のため間もなく閉止し、春日良夫の往診に依存していたという話も伝えられている。この当時の医療体制をうかがう資料として、「北見発達史」に「網走3郡医師会」のことが記されているので、関係部分を抜粋してみると次のようである。 網走3郡医師会は明治44年に組織されたもので、3年目の大正2年当時の会員数は45人であった。うち紋別郡内には、次の16人がみられる。 上湧別 3人 興 部 1人 下湧別 4人 雄 武 2人 紋 別 2人 幌 内 2人 渚 滑 2人 下湧別村を中心に上湧別村を合した旧湧別村の医療体制が、当時としては群を抜いていたことが読みとれる。なお、両湧別の医師会員氏名は次のとおりであった。 下湧別 高橋謙造、池野明、岩村俊吉、春日中正 上湧別 青木伊勢松、庄田万里、丹治重雄 春日良夫の離村後、大正8年に阪本利之劫(軍医)が、さらに、同13年5月に菅原通之劫、次いで小谷寺某とし芭露に嘱託医が開業したが、断続する状況に不安の納らない地区住民は対策として同15年に部の事業で診療所建物の建設を決め、1、260円で完成し、遠征の村上医院の名儀で村上医師の出張と佐藤某の常駐代診が数年続いた。 しかし村上医院の診療は嘱託医ではなく一般開業医であったから数年で引揚げ、せっかくの建物建設であったが永続せず、その後は芭露の拓殖医の出張診療に利用された。この事情から昭和8年に拓殖医設置要請が行われ、翌9年夏にようやく武田幸治を迎え、同11年には村費で診療所の増築(24・5坪)と施設の整備が行われ、同12年7月武田幸治が転出のあと安藤安、翌13年に上杉栄二とつづき、同14年10月まで在任したが、上芭露における医師在任の断続は相変らずであった。昭和15年5月に芭露から稲熊篤を迎えて、ようやく断続に終止符を打ち、同医師は同32年5月に老齢で引退して大阪に転出するまでの通算17年間を、拓殖医としての精神を堅持して、地域住民から慈父として慕われた。 以上は上芭露の推移であったが、芭露市街方面は先述の武野医院の分院以外に開業はみられず、上芭露の医師に依存する状態がつづいていた。これは当時の薄荷ブームを反映した両市街間の力学的な差のあらわれであったのかもしれないが、大正13年(14年ともいわれる)に神吉章が現阿部理容店隣りに開業して展望がひらけた。いっぽう期を同じくして計呂地に立花保太郎が開業し、遠隔の上芭露に依存していた地区住民にひとすじの希望をもたらした。しかし、両医師とも経営は苦しかったらしく、大正15年10月の村会では、次の理由により属託医設置誓願を決めている。 本村管下下芭露以東ニハ交通不便ニシテ現二下芭露ニハ神宮章、字計呂地ニハ立花保太郎ノ両氏医師開業中ナルモ経営困難卜認メラレ候条之ヲ北海道拓殖医トシテ宇下芭露、計呂地ノニケ所二股置セラレンコトヲ其ノ筋へ請願スルモノトス 請願の結果、拓殖医の設置が決まり、芭露では医療施設、宿舎の建設などの条件に基づき地区住民の莫大な負担と協力で3階建の診療所を建設した。 以来、神宮章、遠間某、平尾某、小野千春、稲熊篤の各拓殖医が診療を継承したが、昭和15年5月に稲熊篤が上芭露診療所へ転出して再び無医地区となり、稲熊篤の往診に依存するようになった。なお、稲熊篤の上芭露転出後、もと上芭露(村上医院のとき)にいた佐藤某が一時医院を開設したが、老医のためごく一時期に終っている。 芭露と同時に拓殖医の設置が決まって計呂地では、区の共同事業で医師誘致のため11号に建設し、立花保太郎が開業した診療施設を、そのまま拓殖医施設に指定して「計呂地拓殖診療所」とし、立花保太郎が拓殖医として昭4年まで在任した。しかし、立花保太郎の転出後は後任者がなく、昭和7年3月の村会でこの対策として、次の2点の申請を決めた。 計呂地拓殖医ハ最近三年余医師ノ赴任ナク設置ノ目的ヲ達スル不能……昭和七年度当初二於テ医師ノ配置相成度 診療所八三年余医師ノ不在二依り既設ノ屋舎ハ損傷甚シク、且建設後交通網ノ異動二依り位置ヲ同原野六号線二変更シ此処二移転スルノ必要ヲ感ジ侯・・・・損傷アル建物ヲ移転スルハ反ツテ不経済二付新築致度候、然共本地域ハ拓地殖民ノ初当ニアリテ民資薄弱、多額ナル建築費ノ拠出ニハ到底堪へ難ク候ニ付最高額補助相仰度候 この結果、870円の補助を受け、2、283円89銭で59・23坪の診療所を昭和7年10月に6号線に完成し、拓殖医として高橋俊雄が赴任した。以来、松永恕助、岸田景観と診療が継承されたが、昭和15年7月16日に岸日景観が転出してからは後任者がなく、翌16年10月から上芭露の稲熊篤の兼務となり、診療所は名目的に存続した。しかし、ほとんど利用価値を失ったことから、昭和19年に湧別市街に移築され、国民健康保険組合事業に利用されることになった。 以上の経過を村勢要覧などの統計から抜粋してみると、およそ表のようである。
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戦時の医療事情 | 昭和12年以降の医師の減少は、戦争による応召(軍医)という事情が大きくかかわっており、従って芭露および計呂地の拓殖診療所にも後任の手当てがつかなかったのである。 昭和16年の3名(戸田太郎、太田勝美、稲熊篤)が、同18年には戸田太郎の死去で2名のみとなっては、村民の保健を期し難いことから、行政措置によって翌19年に戸田策郎(苫小牧市立病院副院長)が招致されて、湧別市街で開業するという一節もあったが、ここで、本町の歴史とゆかりの深い「戸田医院」のことについて、触れておこう。 戸田医院の先代は戸田太郎で、戸田太郎は4号線の回陽医院に薬局員として入り、ここで高橋謙造医師の指導を受けて、医師の資格を取得した人である。回陽医院の医師として勤務中に高橋謙造の娘と結婚し、高橋謙造の死後、そのあとを継いで「戸田医院」としたものて、昭和10年ころ浜市街に移転して開業を続け、死後(昭19)、娘婿の戸国策郎が招致されて継承したのであるが、親子2代にわたり生涯を本町の医療に捧げた功績は大きいものがある。<土井重喜述> なお、4号線においては、戸田医院のほかに、昭和初期に村上辰四郎が開業し、昭和8年に転出するまで続いた。 そのあとを佐藤一郎(勝美の義兄)が大田医院の代診という形で開業し、同23年まで診療にあたった。昭和23年から佐藤一郎の子息隆雄が芭露で開業したが同29年国保診療所開設に先立って転出した。 |
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(2)戦後の医療機関 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開業医 | 終戦とともに第2期北海道拓殖計画(昭2〜22)は自然消滅となり、戦後緊急開拓に明け暮れることになるが、医療関係では軍医の復員、医科系大学などの戦争医学体制の解除などで、医師の不足緩和の傾向が兆しはじめ、本町にも次々と開業医が進出してきた。村勢要覧によれば医療体制は次のように回復している。 昭24 医師6 〃26 医院3、診療所2 しかし、戦後復興とともに全道的に開業医の都市への流出傾向があらわれ、経済復興〜高度経済成長による人口の都市集中(農産漁村の過疎化)とともに、その傾向は決定的となって開業医の都市集中が進み、遠紋地区でも紋別市、遠軽町などに偏在する結果となり、辺地無医地区が拡大し、農山漁村をかかえる町村では医師の確保が難しい時代になっていった。昭和45年現在の状況は表のとおりである。
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湧別診療所 | 前節で既述した戸田策郎医師の招致にあたって、従来の戸田医院(戸田太郎時代のもの)では狭隘なため、増築の議が進められていた。 旧計呂地拓殖診療所の解体材を利用し、昭和21年に国民健康保険の補助を得て、戸田医院横に増築の形で付設し、「湧別診療所」と呼称して、施設は戸田策郎に委託して、活用されていたが、のちに戸田策郎に譲渡された。 なお、湧別診療所は昭和35年に戸田策郎の死去後閉止した。 |
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計呂地診療所 | 昭和24年9月に村国民健療保険事業の一環として、計呂地市街に「計呂地診療所」を開設し、開業医村上繁雄に経営を委託したが、同36年に井上医師が転出したのを機に、芭露診療所の充実もあって廃止した。 |
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高野医院 | 本町出身の高野宏一は、昭和27年11月に湧別市街地に「高野医院」を開業し、地域住民の診療に当るほか、町医、国民健康保険運営協議会委員として、町の保健と医療に永年にわたって貢献し、現在におよんでいる, |
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芭露診療所 | 昭和29年に町国民健康保険事業で、芭露市街に診療所を開設することになった。これは関係住民多年の要望にこたえて、芭露方面の医療センターを企図したもので、 病 棟 1棟118坪 住 宅 2棟48・5坪 施 設 ベット10床、レントゲン設備 工 費 404万5,000円 の近代的偉容を誇る施設が、11月15目に完成し、初代所長に山野茂樹(下佐呂間国保診療所長)を迎え、12月26日に町国民健康保険の直営診療所として診療を開始した。診療体制は内科と外科の2名の医師を配する計画であったが、思うように専任医師を得られず、 山野茂樹=内科(昭29・12〜32・10) 岩代 学=外科(昭30・4〜31・8) の期開のみの専任配置に終り、以後、柴田正雄(所長、昭32・10〜35・8)に引朧がれた。 柴田正雄が転出することになって関係住民は、無医地区化することを憂えて何とか有志が協議し、釧路市立病院外科医長になっていた岩代学に懇請、快諾を得て昭和35年9月21日の着任をみた。しかし直営診療所の経営は、過去6年間の決算が、 昭30〜35 (一)1、076万7、159円 という状態に立ちいたったため、運営改善上これを昭和36年4月から、岩代学個人の委託経営制に移して現在におよんでいる。 ただし、施設は公有財産として附加管理するもので、昭和52年には次の概要で現診療所施設を完成している。 建 物 本造モルタルー部2階建525・6u 施 設 温水暖房、病床=10床 工 費 6、084万5、000円 |
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上芭露診療所 | 昭和32年5月に稲熊篤が大阪に去ったあと常駐の医師がなく、無医状態解消のため、そのあとを湧別町上芭露診療所(建物はもともと公有)として、芭露診療所に岩代所長が赴任とともに、同医師に委託して週2回の出張診療を行って現在におよんでいる。 |
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湧別歯科診療所 | 昭和34年10月に町国民健康保険事業として、「湧別歯科診療所」を開業歯科医師稲江長次郎に委託して開設し、芭露診療所に出張診療を行った時期もあったが、同36年11月に医師の転出で休止の止むなきにいたった。 その後、再開策が検討され、昭和48年12月に次の概要で現診療所を建設し、歯科医師陳錫新を招請し、委託経営方式で昭和49年2月から開設して現在におよんでいる。 建 物 本造モルタル2階建194・9u 施 設 診療台=3台、レントゲンほか1式 工 費 948万円 |
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(3)国民健康保険 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国民健康保険組合 | 昭和2年に施行された「健康保険法」に原拠を得て、同13年4月1日に「国民健康保険法」が公布され、7月1日から施行された。同法は、 相扶共済精神二則り疾病負傷分娩又ハ死亡二関シ保険給付ヲナス を目的としており、立法の背景には、昭和初期の経済恐慌と冷災害で大きな痛手を受けた農村事情があり、 政府は昭和7、8年救農事業費を支出し、また皇室は同7年に農山漁村救済費として内務省に300万円、拓務省に30万円の下賜があった。……国民健康保険制度がその立案の背景に当時の農村対策を背負っていたということが明らかである。<解説国民健康保険> と伝えられている。 当初、国民健康保険組合の設立は任意であったが、政府は日華事変の拡大による長期戦に対処するため、人口の増加を期し(「生めよ殖やせよ」施策)健康を増進する施策として、国民健康保険の拡充と全国民を制度の対象とすることを検討し、昭和17年3月に改正して5月1日から改正案を施行した。 (1) 組合設立の促進強化 (2) 組合加入の強化徹底 (3) 保険医制度の確立 を3本柱として、道庁長官からも「国民皆保険」の強力な指導がなされ、時あたかも太平洋戦争(大東亜戦争)のさなかであったこともあって、国民義務意識は急速な設立運動となった。 本町でも飯豊健吾ほか5名が発起人となって組合設立準備を進め、組合員有資格者1、709人のうち1、043人(約70%)の同意をまとめて、昭和17年5月3日に「下湧別村国民健康保険組合」の設立をみた。当初の保険料は月額で1級70銭〜20級5円30銭(1戸平均1円60銭強)で、事業としては医療と助産の給付および保険医の充実が行われた。給付内容の詳細は不明であるが、助産費に限り1件5円が給付されたという。 しかし、この画期的な医療福祉も種々の障害があって関係者の苦労は大きいものがあった。先ず医師側の認識不足がその一つで、村内医師には手当を支給して保険医とし、村外の医師とも所定の契約をして保険医の数は増加したが、保険事務の複雑なこと、ときには保険が差別的な取扱いであるとの声も出て、充分な協力が得られず、目的達成を阻害していた。第2には村民の無理解で、給付の支払方法が組合窓口である不便さから請求権を放棄したり、従って保険料の納付を渋ったりする者がいて、充分に活用されないうらみがあった。 昭19・3 保健婦配置(前章参照) 昭19 旧計呂地拓殖診療所を湧別市街に移築し戸田医師を迎える など、運営の合理化も行って椎移したが、終戦後の混乱期の運営もまた、たいへんなものであった。農漁村経済のひっ迫と労働力不足による過労と食糧事情の悪化から罹病者が増加し、いっぽう昂進するインフレーションの中で、保険料および医療費一部負担分の滞納現象もあり、資金運用は極度に窮迫する場面もあった。しかし、村理事者の理解と関係者の懸命の奔走で崩壊をまぬがれ、次の公営保険事業にバトンタッチされた。 |
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公営国民健康保険 | 昭和23年6月30日に国民健康保険法の改正があって、事業は原則として市町村が行うことに強化され、地方自治体の重要事業となり、翌24年2月に国民健康保険組合は解散し、同年4月1日に村がいっさいを継承したが、この時点では設立は任意で、加入は義務であった。 【国民健康保険特別会計】
また、この間、昭和24年には計呂地診療所の開設を厚生省や道の補助で果たし、無医地区解消に資した。 その後、保険料は地方税法の改正に伴う保険税の創設に代り、国および道の支出金も1・52倍に増額され、国民健康保険財政の強化が図られた。 本町でも昭和27年度から保険税が賦課されて、収納率も1〜2年で大幅に向上し、事業運営は次のように好転した。
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法改正による充実 | 政府は昭和33年12月に国民健康保険法の大改正を行い、同35年度中までに改正法による事業の開始をするよう通達した。目的は、 国民健康保険の健全な運営を確保し、もって社会保障および国民保険の向上に寄与する。 と改められ、国の補助義務を明らかにし、新たに次のような助成策を明示したものであった。 (1) 療養給付および療養費の支給に要する費用総額の10分の4を下らないこと。 (2) 保健婦に要する費用については3分の1。 (3) 事業事務執行に要する費用については全額。 (4) 調整金の交付と調整のための貸付制度を設ける。 と同時に、国民皆保険の方向が打ち出され、 (1) 任意加入から強制加入への切り替え。 (2) 一般療養給付率を逐次改善し70%を指向する。 など、画期的な大改正となったが、これを裏返せば、国民皆保険の達成と当時の町村国民健康保険事業の悲願ともいえる関係案件の成立だったのである。以後の事業の経過をみよう。
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運営と給付 | 国民健康保険事業の運営の基本は、「湧別町国民健康保険条例」であって、昭和23年の制定以来いく度かの改正が行われて現在におよんでいるが、主な点を抜粋すると次のようである。 (一) 国民健康保険運営協議会 被保険者を代表する委員 2名 保険医、保険薬剤師を代表する委員 2名 公益を代表する委員 2名 (ニ) 保険税の税率
【保険給付費用額】<単位・円>
鍵谷薫(昭27〜45)、太田勝美(昭27〜28)、友沢喜作(昭27〜37)、如沢元治(昭27〜28)、蔦保一夫(昭27〜28)、谷口勇(昭28〜31)、藤根正重(昭28〜47)、戸田策郎(昭28〜29)、越智修(昭29〜30)、長沢政一(昭34〜37)、柴田正雄(昭34〜35)、高野宏一(昭34〜現在)、嘉多山吉郎(昭34〜41)、岩代学(昭36〜現在)、本間資義(昭38〜45)、高須実(昭41〜42)、阿部文男(昭42〜49)佐藤富治(昭46〜53)、清原松太郎(昭46〜47)、長谷川隆(昭48〜49)、中村重雄(昭48〜現在)、中谷定雄(昭50〜現在)、市川太平(昭50〜現在)、遠峰進一(昭54〜現在) |