第4章 | 宗教文化 |
第5章 | 青年団体 |
第6章 | 婦人団体 |
第7章 | 生活の電化 |
(1)男子青年団のあゆみ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
青年組織の芽生え | 明治威信による文明開化の思潮は、青年層を幕政時代の封建社会の枠から一歩脱皮させ、知識の向上、立場の自覚、農事の改良などを、会や倶楽部など同士の組織化によって志向するすう勢を醸成した。こうした流れは、開拓の鍬が原野に広がると共に本町にも流入し、明治30年代に早くも次のような芽生えがみられた。 湧別に於いて青年活動が始まったのは明治32年である。秋9月の秋季皇例祭(いまの「秋分の日」)に4号線の横沢金次郎の青年塾で第1歩を踏み出し、川西からこれに参加した藻のが〜6名いた・・・・<湧別> キリスト教の理想を掲げて、その実際活動をはじめるため北見青年会を組織したのは、明治32年10月15日であった。これは湧別地方に誕生した最初の青年団組織であり、冬の農閉期に夜学校を開き、15〜20歳の青少年を会員とし・・・<学田> 明治34年ころから各地区に青年会の結成があり、16〜30歳を会員とし、補修教育講習会の開催による精神面の事業を行う。<屯田兵> 明治35年には横山玉四郎、宮本光馬、出口助次郎、小川清一郎、西沢健一ら10余名があつまって、川西青年会の前身が発足した。<川西> |
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開拓期の青年組織 | 明治38年12月に政府は「地方青年団体向上発展に関する通牒」を地方長官あてに発しているが、その冒頭には次のように記されていて、積極的な青年団体の設置を要請するものであった。 青年団に関する件 近来各地方に於て風儀の矯正・智徳の啓発・体格の改良・其の他各種公益事業の幇助を目的とする青年団体の設置を見るに至れるは通俗教育上に於ても其の効果尠からざることと存候処向益々是等団体を誘掖指導して一層有効のものたらしむると同時に其設なき地方に対しては之を設置せしむる等充分御奨励相成様致度此段通牒候也 これをうけて道庁でも、明治43年に「通俗教育奨励規定」を設けて、青年団体の育成奨励に乗り出したが、この時点で青年団体は地方改良運動の一翼として位置づけ(教育編参照)された。 次いで、大正2年9月に「地方青年団体に関する通牒」が出されて、青年団体の政治活動禁止が示されたが、これら通牒は自主的なもの、指導によるものとを問わず、青年組織の促進を政策的に推進するいっぽうで、小学校長は青年団体指導者育成の任を指示されたのである。本町でも、以上の状況を反映して、次項のように青年組織が相次いで誕生した。 |
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国家基準への対応 | 自主的に、あるいは行政指導によって発足して、着実な基礎づくりに入った青年会活動にとって、やがて勃発した第1次世界大戦は大きな影響を及ぼすものとなった。それは国家的統制の色彩をもった青年団体育成方針の浸透であった。 その第1弾が、大正4年9月に内務省と文部省の両次官が通牒した「青年団の指導発展に関する訓令」で、内務省(治安関係)が一枚噛んだ重大な意味があったのである。
一 青年団体は青年修養の機関とすること。 一 青年団体の組織は、義務教育を終えた者または同年齢以上の者を以て組織し、最高年齢を20歳とすること。 一 青年団体の設置は市町村を区域とすること。 一 青年団体の指導者援助者は小学校長、市町村長その他名望ある者のうち適当と認める者を指導者とし、市町村吏員、学校職員、警察官、在郷軍人、神職、僧侶その他篤志家中適当と認める者に協力指導の任にあたらせること。 一 青年団体の維持はつとめて団員の勤労による収入を以てすること。 と規定され、道庁もこれに基づいて「青年団施設要項」や「青年団規定準則」などを出し、国家的統制基準が明確になった。その後も、 大 9 団員の最高年齢を25歳にしてもよい 〃10 青年団体の名はすべて「青年団」に改めて統一する などの訓令によって、第1次世界大戦後の社会不安に対処して、青年団体の教化をはかり、事業は、もっぱら修養講習会、社会奉仕、運動競技などが奨励された。それは、 青年団は結成以来地区行事遂行の中心的存在としてやってきた。あらゆることを引受けて情熱を傾けた。利害と得失とかということは考えなかった。青年は全部入団するものと信じて疑わなかった。冬は先生に頼んで夜学をやったが、面白くないからなどといったこともなかった。<川西> 地区の運営事業は一切青年団で受持ち、消防関係では火の見櫓の建設、道路の修理、橋の架設など・・・・農業増産については早起き励行による堆肥増産・・・・午前4時一斉に板木を打鳴らして、それを合図に朝食前に野草を刈って堆肥を積み・・・<上芭露> 学校に薪を寄贈したり、神社の清掃ほか祭典の準備などの奉仕活動、一夜講習会などの修養活動、それに毎年行われる村内連合大会への出場などであった。<東芭露> などが明確に代弁しており、全村的にこういう状況におかれていたのである。 大正11年12月に道庁告示で「青年団補助規定」が定められ、同年本町でも65円の村費補助金交付を行っている。 |
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全村的組織活動 | 大正4年9月の通牒に示された「青年団体の設置は市町村を区域とすること」に準じた形で、同5年6月15日に「下湧別村連合青年会」が全単位青年会(13団体)の加入で発足し、全村的歩調の青年組織となったが、初代連合青年会長には、三浦忻郎村長が任じている点に行政指導のほどがうかがえるのである。 連合青年会発足と同時に、網走外3郡連合青年団に加盟して、網走外3郡連合青年大会(弁論、競走、撃剣、銃剣術など)に参加するなど交流を活発にするほか、上湧別村青年団連合会との連合行事もたびたび企画するようになった。参考までに大正9年の役員会議録をみると、次のように記録されている。
なお、大正10年の訓令に則って、同12年に「下湧別村連合青年団」と改称したが、その後の加盟状況の推移は次のようである。
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北見青年産業総動員運動 | 第1次世界大戦後の農村恐慌につづく、昭和6,7,9,10年の冷害凶作と不漁で農漁民はどん底におかれていた。この打開策の一環として、青年の奮起によって苦境を克服することが管内的な運動としてとりあげられ、昭和9年から「北見青年産業総動員運動」が展開された。 (一) 産業動員と1反歩試験畑経営 青年各自が1反歩の試験畑を設営し、農事試験場の分場的機能をもち、登録制とした。 多収穫技術の研究を行い一定の経営簿記に記帳し発表させた。 (二) 副業動員 農家の田畑の収入を補うことを目的として家畜の飼育を奨励し、小学生から青年学校生徒も 参加協力させ、兎、鶏、羊と拡げて羊ではホームスパンの衣料自給化、兎の皮は軍需に 回すなどを競走動員させた。 (三) 貯蓄動員 産業動員と副業動員による収入と併せて備荒貯蓄を奨励し、また他日後継者の分家の 資金となるように貯蓄奨励をさせた。 というもので、いずれも個人の実績の集積を単位団の実績として競争させ、部門別と総合の順位を決定して表彰するので、本町の青年団も真剣そのものであった。また一人一研究の成果(試験畑)もあって、一般から「なかなかやるな」と讃辞を受けたものである。なお、この運動は昭和16年の太平洋戦争(大東亜戦争)勃発までつづけられた。 |
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戦時体制への対応 | 昭和14年に日華事変の長期化から、青年団体を予備戦力化する意図のもとに、組織の改編が行われた。4月にそれまでの大日本連合青年団に改組され、それまでの「全国青年団の連絡提携に任じて、共同の進歩発達を図る」が、「令旨を奉戴し、全国青年団の統制指導を計り全国一体としての活動を遂行」に変わり、北海道連合青年団も翌15年5月に、同様の路線変更で北海道青年団に改組された。そして同年9月に道庁は訓令によって「青年団設置要綱」を定め、 時局の進展は青年団をして単なる酋長団体たることを許さず・・・国運推進の主流として活躍するに於て真に其の存在の意義を有するもの・・・・ と性格の変更を強調して、市町村段階での青年団組織の改編を指令した。このため本町でも連合青年団を「下湧別村青年団」(合田堯助団長)と単一組織体に改組し、従来の単位団を分団とする借置をとった。 戦時体制が一層強化され、青年団にも行政の介入が多くなり、東青年会は下湧別村青年団のもとに第5分団に改組され、銃後活動に挺身した。<東> |
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(2)女子青年団のあゆみ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
処女会の誕生 | 女子青年の組織は男子に比して10〜15年遅れて実現したが、それも青年団というよりは、現在感覚でとらえれば婦人会的な存在であった。 大正10年6月10日第1回「時の記念日」に芭露小学校長弦巻千代三の指導によって芭露処女会を創立、会長に同校長、会員16名で発足した。校下女子青年の修養団体として運動会、茶話会、講演会、共同作業、料理、編物講習会などを催して教養の向上に努めた。<芭露> 昭和元年上芭露でも処女会を創立し活動をはしめた。<上芭露> 処女会は青年会に遅れて大正8年に結成された。初代会長には桑原先生の奥さんが就任している。冬期間、裁縫や料理の講習会を行ったという。<東芭露> 大正11年西芭露に於て、山本泰雄先生御夫妻のお骨折りにより、静修処女会が組織された。会長に船戸ヒデさんを選び、冬期は裁縫、編物などの興趣会を開き、其の道の講師を頼んで行った。若い女性の教養と、円満な生活の指導など、その頃としては、地域に明るい呼吸をみなぎらせた。<西芭露> 大正13年、当時青年団員は男子のみであったため、会員20余名をもって信部内処女会を堀川校長が発足させ、専ら女性としての教養と研修にはげんだ。<信部内> とあるように、おおむね小学校長の指導で発足したが、大正13年3月に道庁告示で「処女会補助規程」が公布されるにおよんて、信部内をはじめ各校下にも次々と結成され、同15年4月には村内12団体400名の会員数<村勢1班より>となり、「下湧別村連合処女会」(会長は村長)の結成をみるにいたり、村費による補助金が交付されるようになった。 |
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女子青年団に衣がえ | 昭和2年になって処女会は男子青年団体に準じ、かつならって、「女子青年団」と改称し、連合処女会も「下湧別村連合女子青年団」に改組し、統一的な事業計画がもたれ、女子必修の技能習得講習や社会性の向上を期する各種行事が、地域の実情に添って実施されるようになった。ここで女子青年団の発足が男子青年団より遅れた時代背景にふれておこう。それは、 (1)「男尊女卑」の風潮による 男には兵役があり、選挙権があり、家替相続権ありで社会的にも家庭的にも、また個人的にも地位があり、女は嫁いで子を産む、内助に徹するというように、女の社会性の必要がかえりみられなかった。 (2) 「男女七歳にして席を同うせず」の通念による 男女の交際は厳しく戒められ、小学校も多級校は男女別学級編成、中等学校以上も男女共学制がない時代のことであるから、男子青年から呼びかけることはならず、校長らの指導による以外に道がなかった。 に要約されるもので、本町の場合の処女会は、結果的には女子青年団への準備期間ないし予備措置という形になってしまった。 従って昭和16年まで青年団体は男女の二本建がつづくことになる。上芭露では、昭和10年ころこなって青年団に女子が加入るようになったとあるが、これとても組織的には男子部、女子部と明信に分限され、男子部は村の連合青年団につながっていたのである。連合組織加盟の推移をみよう。
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(3)臨戦体制 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
男女青年団の統合 | 青年団が改組されたばかりの翌年―ー−昭和16年1月に大日本青年団と大日本連合女子青年団それに大日本少年団連盟と帝国少年団協会の4連合体を統合して、「大日本青少年団」が結成された。これをうけて本道では、2月に「北海道青少年団」(長官が団長)が結成され、逐次単位市町村青年団と女子青年団の統合再編成が進行した。 本町でも村長を団長に、中心学校長を副団長とする「下湧別村青少年団」に改組され、各校長を分団長とする分団編成に移行した。このとき女子青年団は統合という形で吸収され、初めて一本化した青年団の実現となったが、青年団本来の自主性はまったく失われ、神祇奉仕、貯蓄運動、生産増強、銃後後援、勤労奉仕、健民運動、そして国防訓練へと臨戦即応の組織となったのである。昭和17年の道庁の指導方針には、 道民伝統タル質実剛健不屈不技ノ屯田兵魂ノ昂揚ヲ基調トシ、高度国防国家体制確立強化ノ要請二即応大東亜建設ノ指導者タルニ相応シキ国民練成ヲ主眼…… とあった。村内各分団でも、それを映して、 会員の応召に次ぐ応召により、特筆すべき行事はなく:・・・<西芭露> 青年活動は戦争問題一本に集約され、相次ぐ召集のため青年団の力強い援農が実施された。<上芭露> と青年団活動の空白を記している。 |
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青年推進隊の全国武者修行 | 昭和18年11月13日から1ヵ月間にわたり、全国各地で土地の代表青年と錬成道場を開いて時局を考え、宮城(皇居)、明治神宮、靖国神社、泉岳寺、橿原神宮、松下村塾、大本営、陸軍省、海軍省などを歴訪し、持参した南瓜を東条首相に贈呈して慰問したり、陸軍と海軍に各3,000円を飛行機献納資金として献金したりして、新聞やラジオで大々的に報道されたのが、全国視察団「北見青年推進隊」で、1行12名の中に川西の羽田宏も選抜されて参加した。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
国民義勇隊に編入 | 戦局の極度な悪化により敗色濃厚となった昭和20年春、軍部と政府は、敵軍の本土上陸を想定し、本土決戦を企図して「国民義勇兵投法」(昭20・6・22)を制定した。 之により、青年団体、婦人団体は解体され、在郷軍人の指導のもとに、村長を隊長とする国民義勇隊に統合された。登栄床小学校沿革誌に、 昭20・8・ 1 国民義勇隊(地区)結成式が校庭で行われた。 〃20・8・12 登栄床地区国民義勇隊戦闘隊結成式 とあって、当時の一端を伝えている。こうして、記録こそ見あたらないが、各地区ともに地区隊を結成した下湧別村国民儀湯隊が編成されたのである。 |
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(4)戦後のあゆみ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
混迷の中の模索 | 昭和20年9月に既成団体のすべてが解散を命じられたが、命じられたというよりも、敗戦終結のショックで雲散霧消してしまったといったほうが、あたっていたかもしれない。同じ9月に文部省は「新生青少年団体設置要綱」を示し、 新生青少年団体は郷土愛に基づく社会生活訓練の機関であり、新日本の建役につとめ、世界平和に貢献する資質を養う民間団体・・・ という方向を示した。 昭和21年に村長名で村内有志青年を招集し、協議の結果、地区青年団体の成立を前提として、「下湧別村自治青年連盟」の結成にこぎつけ、会長に村上庄一村長が就任したが、戦時中の統制団体が復活するのではないかという懸念と、明確な目的把握の困難などから、解散すべしという意見も台頭するなど、混迷の場面もあったが、かろうじて解体をまぬがれ、同年11月村長退任後の会長に宮崎広が推され、もっぱら単位団体の成立と民主的な組織運営の指導に尽力した。 当初は、大きく湧別地区、計呂地地区、芭露地区の3地区に組織されていたようであるが、一部地域の青年は団体規制に反発し、「自由」を楯に参加を拒むなど根回しがたいへんであったし、加えて町村助成禁止で財政的にも困難をきわめ、見るべき成果は遅々としてあがらなかった。しかし、たしかな新生の鼓動がなかったわけではない。 芭露青年連盟(越智清敏理事長)は21年3月祖国再建と郷土振興に寄与するため人格の陶冶、知識の向上を図り社会文化に貢献しようという目的を以て、20歳以下の男7、女17、20歳以上男24、女11の59名をもって結成し湧別、芭露、計呂地3地域で下湧別村自治青年連盟を組織し、芭露における事業として盆おどり、馬頭観世音祭、野球大会、陸上競技、相撲大会、弁論大会、盆の墓掃除、援農、農事視察、体育大会、神社清掃、遺家族慰問、演芸大会、歌留多大会、料理講習会などを行った。のち芭露地区は一時脱退した。<芭露> 統制団体復活への懸念とその目的把握の困難から一時動揺はしたが、昭和21年11月25日男女を含めた信部内青年団を結成し、自青連の下部組織となる。<信部内> 昭和24年に学校の手伝いの為に東湧青年同志会として発足した。<東湧> |
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全町的組織の新生 | 社会不安の鎮静に伴い単位団体の結成が進み、昭和26年には芭露青年団の復活をはじめとし、各地区単位団体加担次いで誕生し、村内にて12団体をかぞえるにいたった。このため連絡育成助長機関として、「下湧別村青年団体連絡協議会」を結成することとなり、自治青年連盟を改組して、同年9月15日に結成大会が開かれた。規約も成文化され、その第二条に、 本会は各青年団体がそれぞれの目的を達成する様連絡の強調を図ると共に青年団体の育成助長に必要な運営を行う。 と性格を明記し、幹部青年の各種研修会、弁論大会、スポーツおよび文化行事(第2、3章参照)などの全村的な共通事業を主催するようになった。当時の青年団体活動は、 文化活動 機関紙の発行、生活記録の交換会、研修旅行、演芸会、夜学 産業活動 農事講習会、堆肥増産、洋裁や料理講習会 体育活動 レクリエーション、球技大会、交歓交流会 社会活動 共同作業による奉仕(学校、神社、墓地、道路など) などが、一般的なもので、以後の活動内容の主流となって継承されている。なお、特記すべきことは、発足のすべてが男女一体の組織であったことで、このへんに時代認識の変革が明確にうかがえる。なお当初の加盟単位団は、 緑蔭、信部内、川西、北斗、東、東湧、芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地 の12で、昭和35年までこの加盟構成に変動はなかった。 昭和29年4月には規約を改正し、単位会→湧青協に体質を変更し、「湧別町青年団体協議会」に改称した。 |
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過疎と組織の消長 | 連絡協議会〜協議会10年のあゆみは、着実に充実向上をみせたのであったが、10年を経たころから高度経済成長のあおりと、それにかかわる農業政策の転換から、農村地帯の離農転出と若年労働力の都市流出が巡行し、以後ほぼ10余年間に青年団体の組織は大きな変転を余儀なくされたのである。 昭和36年ころより離農者が急増して極度に人員の不足をきたし、37、38年は特に減少し、解散の止むなきにいたった。昭和40年に至って伊藤輝光、野口信敏、布目由一らが野幌機農高等学校を卒業して帰郷し、農業に定着し青年団の再建が図られたが、農協青年部の組織強化と研修に強力な活動がなされ、団員も部員であったこともあり、統一をはかって吸収合併され、昭和50年をもって解散された。<東> 芭露地区にも過疎化の波が押し寄せ、青年男女も急激に減少せるため、昭和45年4月に従来の青年団を芭露青年会と改名した。<芭露> 社会情勢が急変して農村地帯から町場の工場地帯への人口の流れがはげしくなり、上芭露地区の過疎が進むにつれて青年団に入る若者も次第に少くなり、昭和56年3月に上、東、西芭露の青年6名により、「上芭露青年団」として再建……<上芭露> 昭和36年ころから離農者が相次ぎ、地区から若者の姿が少くなると共に活動も縮小され、ついに昭和45年その歴史を閉じた。<東芭露> 30年代の後期からは、会員も年毎に減少して、以後は農協青年部一本となり解散の止むなき情勢となった。<西芭露> 時の流れから、昭和48年に、計呂地と志撫子の青年団が合併して、「計志青年会」として10数人でスタートしたが、2つの地区が合わさっているので、なかなか運営が天変だった。<計呂地・志撫子> 我々市街地区青年会は昭和46年の発足であるが、他の会と違っているところは、会員がすべてサラリーマン、OLといった集まりということ???<湧別> 次にそれらの変動のあとを掲げよう。
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湧青協創立30周年 | 昭和40年に創立15周年、同45年に創立20局年の記念式典を催して、過疎の中にも決意を新たにした湧別町青年団体協議会(湧青協)のその後は、昭和50年の現況が網走支庁管内青年団体協議会「30年誌」 (昭52・1発刊)に、次のように寄稿されている。 会員の減少と各種行事が競合し合うために、専門部会を廃止し、単位団をもって組織している。現在6単位団(信部内、川西、市街、東湧、芭露、計志)で、会員総数は86名(男64名、女子22名)、農村青年が全体の85%を占め、男女の対比が3対1となっており、6単位団の半分は女性会員がおらず、活動に支障がおきている。年齢層も若く、22歳前が全体の70%を占めている。活動の現況は、 主催事業 体育大会、文化祭、一泊研修会、公報発行(年2回) 参加事業 遠青協青年大会、道青協青年祭、網青協夏期及び冬期青年大会、遠軽地区青協 夏期及び冬期青年大会 そして昭和55年11月24日に町中央公民館において、創立30局年記念式典が挙行され、記念誌が発行され、30年目の現況を下表のように記録に止めている。
山下忠幸(昭26)、高橋照夫(昭27)、富永隆(昭28〜29)押野健一(昭30〜32)、若杉茂(昭33)、川上正雄(昭34)、長谷川昭義(昭35)、伊藤茂(昭36)、福田勲(昭37)、三沢雄一(昭38)、石渡輝道(昭39)、中尾庄一(昭40)、多田光男(昭41)、服部一俊(昭42)、本田勝樹(昭43)、橋本典之(昭44)、野口信敏(昭45)、山下哲夫(昭46〜47)、友沢勇司(昭48〜49)、岩佐祐行(昭50〜51)、本間保利(昭52)、伊藤斉(昭53)、井谷一茂(昭54〜55)、上田範幸(昭56〜) なお、青年団体協議会への加盟購成とは別に、町教育委員会が昭和53年3月31日現在でまとめた青年団体の現況によると、 地域団体 7組織 113名 職場団体 5組織 229名 計 12組織 342名 という数字があるが、地域のうち6組織は湧青協加盟団体で、あとの1組織はボランティア「麦の会」であり、職域の5組織は湧別農業協同組合、芭露農業協同組合、湧別町畜産農業協同組合、湧別漁業協同組合、湧別町商工会の各青年部である。 |
(1)戦争と婦人団体 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
封建社会と婦人 | 封建社会時代の家族制度下の婦人は、男尊女卑、家長絶体という風潮の中で夫唱婦随専一に、家庭内にあって家事(炊事、洗たく、掃除、裁縫など)を処理しながら生産労働も一人前に担い、そのうえ出産と育児 を天職として負わされていた。特に農漁村では土着封建色が強かったから、その枠外に出ることは極めて少なかったというよりは、それがあたりまえのこととして時が流れていたのである。従って婦人の組織や活動が芽生えるのは遅かった。とはいっても、まったくなかったわけではなく、 大正初期、時の校長堀川章太郎のすすめにより誕生したのが信部内婦人会(初代会長白崎べん)の最初である。<信部内> という記録がある。当時すでに大日本連合婦人会というのがあったが、その影響が開拓地にまで及ぶはずもなく、皮肉にも婦人組織がひろがったのは、戦争との出会いによることになった。 |
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愛国婦人会 | 北清事変(明33)のとき慰問使として現地に赴いた奥村五百子が、帰国後、出征軍人および傷病兵の慰問ならびに遺家族援助を行う目的で、婦人団体の創立を提唱し、翌34年に文部・内務両省の胆入りで上流夫人層によって「愛国婦人会」が結成された。 その後、日露戦争(明37〜38)を機に全国の上流夫人に浸透して、明治39年には北海道支部も設立され、道内の会員も増加し、その後、本町でも会員募集が行われて、 大 8 101名 〃15 140名=愛国婦人会委員部 昭 7 愛国婦人会委員区となる の記録があり、昭和12年の村勢概要には次のように記載されている。 (一) 会員調 昭和12年7月現在
これによって明らかなことは、醵金(会費)や寄付金募集など中央の事業資金造成団体の色彩が強く、その貢献度によって資格区分が行われていたことがわかる。 且華事変勃発後は、会本来の目的である出征軍人の歓送、千人針の製作贈呈、慰問袋の送付、遺家族慰問、愛国貯金などが行われ、戦時体制強化とともに報国貯蓄組合の結成が行われるなど、カーキ色の上っぱりに「愛国婦人会」のたすき姿で活発に活動した。 戦時中は、戦争に奉仕する目的の愛国婦人会(会長稲熊なお)があったが、終戦とともにその存在価値を失い自然解消に終わった。<芭露> 東地区においてもその主旨を理解して昭和初期に高橋マツエ、伊藤れいを中心として次第に会員が増えていった。<東> |
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大日本国防婦人会 | 満洲事変勃発(昭6)の翌7年10月に、軍部の提唱で厚生省、陸・海軍省の合作によって、一般夫人を会員とする「大日本国防婦人会」が結成された。北海道では昭和11年9月の陸軍特別大演習を機に、急速に結成が進み、日華事変勃発で全市町村に結成が行きわたったが、本町では昭和11年7月と比較的早く発足している。 愛国婦人会と異るところは、軍部の要請が背景にあったこととかかわって、一般婦人すべてを対象とした庶民的な組織であったこと、戦争目的遂行という大義のもとに、既婚者のおおむね全戸加入であったことが特色で、のちには隣保現組織や地区組織を通じて現がつくられるようになった。事業活動は愛国婦人会とほとんど変らず、そのため、 然り而シテ愛国婦人会員ノ募集及寄付金ノ募集二対シテハ之ト略同一ノ目的ヲ以テ国防婦人会ノ結成ニヨリ成績遅々トシテ進マズ・・・・ <昭12村勢概況> といった不条理が末端にみられるという一幕もあったが、会員数の多いことから戦局の拡大とともに留守家族の援農活動、防空演習、防空壕掘りなどにも動員され、モンペと白エプロンに「大日本国防婦人会」のたすきがけ姿で、大いに活躍したものである。なお、会長は村長夫人が任じていた。 最初は会員も少なかったが、支那事変以後は意識が高揚されて、銃後の護りを固め、婦人という婦人は全部会員となり、川西班長のもとに一致団結した。<川西> 昭和17年婦人会を既婚婦人強制加入による大日本国防婦人会に改組し、国民総動員の一翼を担った。<信部内> |
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大日本婦人会 | 愛国婦人会と国防婦人会の存立は、ともに戦争遂行協力団体として活躍したが、時に対抗的な不条理を生み、また国防婦人会の全員加入から、両方に入会を余儀なくされる婦人もいて、末端町村では対応に苦慮しなければならない一面をかかえていた。 ところが、昭和17年2月に大日本連合婦人会、愛国婦人会、大日本国防婦人会の存在を、大政翼賛運動に合わせて銃合することになり、同年8月8日に「大日本婦人会」が結成されて一元化された。大日本婦人会は20歳以上を会員資格と定め、町村に支部が置かれ、支部長は初め村長であったが、あとから村長夫人が任ぜられた。 「兵隊さんは命がけ、私たちはたすきがけ」を合言葉にして、必勝貯蓄の増強、衣料切符献納、集団内職、廃品回収、軍事援護、国防訓練、勤労報国隊参加など、銃後の守りを積極的に分担した。 しかし、この大日本婦人会も戦局の急迫とともに、青少年団や在郷軍人とともに国民義勇隊に編入され、解散の運命に絡った。 |
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(2)戦後のあゆみ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
空白と模索 | 終戦という事態で自然消滅という成り行きで崩壊した婦人活動に対し、昭和21年に道庁では「婦人団体設置要領」を示した。これは、たぶんにGHQの民主主義育成助長〜制度的に拘束された人権の解放の重視にそったものであり、また20年12月16日の婦人参政権を含む選挙法改正を直視したものでもあった。 そして昭和21年11月の憲法発布で、基本的人権が明示され、女性の差別はいっさい除かれて、男女平等の新時代を迎えたが、窮乏に打ちのめされ、食糧の手当に追い回される婦人に、社会的活動意識が芽生える余裕があろうはずもなく、婦人会の成立は容易にみられなかった。わずかに、 大日本婦人会が消滅するとき、親睦会に目的を変更してグループを存続し、終戦後、一応婦人会(越智数代会長)として再興したが有名無実となった。<芭露> という動きがみられただけであった。 |
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婦人組織の新生 | 戦後の混乱状態から派生する社会悪の増加は、非行青少年の誘発ともなり、こうした状勢に対し、各地で「子供を守る」という目的の社会運動の機運が強まり、それには婦人の覚醒が切望されるにいたったが、たしかに婦人の立場から寄与すべき分野も多かった。 このため自主性を尊重する民主的配慮から、本町では婦人組織の自発成立を期待したが、事は容易に進展せず、婦人会結成を促す行政指導が起こり、昭和26年に「婦人会結成趣意書」が各区に配布された。これによって結成運動がはじめられたが、 成立当時ある班にくるようにといわれて、3人で出かけ5、6名の集りの所で入会を願ったら、ある婦人が威儀を正したようにして、婦人会に入会することは真っ平ですといわれて、3人顔を見合せ苦笑したこともあった。<上芭露・後藤よしの手記> というように、なかなか新しい婦人会に対する理解が伴わず、加入者は少なかった。昭和26年の事務報告には、 婦人団体2、会員数369名、職業別で農280名、漁8名、商19名、その他62名― とあるが、これは前項の芭露親睦会のいちおうの存続復活と、昭和26年に結成された湧別市街婦人会をさしているものと思われる,その後、翌二七年から各地区の婦人団体結成が相次ぎ、あらまし、 東では地域婦人会として押野とめよ、松下つやらを中心として、初めて自主的な民主組織として活動を始めた。<東> 27年5月に松田徳四郎が芭露小学校長に赴任してから、婦人運動のベテランこふじ夫人の呼びかけによって運動が奏効し、同年8月芭露婦人会を結成、松田こふじを会長として活発な活動に人った。<芭露> 昭和27年10月、上芭露婦人会は設立総会を開き、初代会長に稲熊なおさんが選任され、会員105名で活動がはじまった。<上芭露> 当時の小学校長堂坂先生の指導のもとに組織づくりが進められ、昭和28年1月に、杉本幸子を会長とする「東芭露婦人会」が誕生した。<東芭露> 信部内も例にもれず、昭和29年に信部内婦人会が結成され、新時代の農村婦人としての自覚の上に立ち、明るい地域づくりの一環を荷なって……<信部内> といった経過で全町にひろがっていった。 |
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全町組織の誕生 | 昭和28年8月に町公民館で全町婦人大会が開催され、単位婦人会の共通問題が討議され、共同事業の運営が協議される中で、8月2日に「湧別町婦人協議会」の成立をみるにいたった。 以来、協議会の事業方針に基づいて、教養を高めるための講習会開催、指導者講習会への受講者派遣、先進地視察、栄養講習会の開催などが行われ、単位婦人会では地域保育所の開設、敬老会開催、養護施設児の一日里親、地域行事への奉仕、婦人学級開設など、住みよい地域(町)づくりと婦人の教養と地位の向上に励んだ。 一般的には次の例がある。 その時その先生の奥さん方の多大な協力を得て、婦人学級と併せて、料理講習、編物講習などを開き、保健婦による健康管理なども受講して知識を広め……<西芭露> 活動の中で特筆すべきは、前年度から始められた婦人学級活動が当局の認めるところとなり、昭和36年度には、文部省の指定学級として委嘱を受ける栄誉に輝いたことである。<東芭露> 季節保育所の設立と婦人会による運営、毎年の敬老会の開催、忠霊塔の清掃、老人会の手伝い、先進地の視察など、修養、娯楽、社会奉仕の3つを柱として……<上芭露> 季節保育所の設置とその運営に当りながら保育所の独立図会建設の熱意は学校解体材の交付を受けて建設、さらに町移管を運動しつづけ、ついに、54年町営の目的を達した。また、「交際は簡素に」を決め、冠婚葬祭の生活改善〜簡素化を図るため、農協とタイアップして美容部、理容部を開設する一方、農協婦入部と協力して、花嫁衣裳一式を揃えて貸し出し、他方、婦人学級の開設等……<芭露> |
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湧婦協のもとに | 昭和35年に、より連絡協調の実をあげるために、婦人協議会会則を改正して「湧別町婦人団体連絡協議会」 (湧婦協)に改組した。以来、より充実を期して、 昭37・11 湧婦協創立10周年記念式典、「湧婦協の歌」制定(渡辺智逗子作詞)、機関誌「ともしび」創刊 ″38・11 11月23日を「婦人の日」とする=第二回全町婦人大会 ″39・4 指定婦人会の設定(環境美化推進=芭露・計呂地、生活改善実践=東芭露) 〃45・8 第1回町内婦人運動会 ″47・11 湧婦協創立20周年記念式典、会旗制定、記念詰「ともしび」発刊 などを行った。 湧婦協の特色は、湧青協の構成とちがって、地域婦人団体ばかりでなく、職域婦人団体(農業協同組合、漁業協同組合、商工会などの婦人部)も網羅していることで、これは家庭婦人としての立場から、それぞれの枠を越えて連帯しようという意図のあらわれであった。 |
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地域複数組織の合体 | 湧別町婦人協議会時代は主として地域婦人会で構成されていたが、湧別町婦人団体連絡協議会に改組のころから、農業協同組合、漁業協同組合、商工会の婦入部の結成が進行し、農漁業地区では双方に加入する形となった。しかし、同時に兆した過疎化現象は青年団体同様に会員の減少となってあらわれ、二重の加入活動は整理統合の必要に迫られる結果となり、 昭和36年、湧別農協管下を対象に地域農村婦人の地位向上と豊かな農村建設を目的として、湧別農協婦入部が設立され、それと同時に東支部が設けられ、地域婦人会は発展的解消のもとに農協婦入部へ移行した。<東> 昭和44年度にいたり、従来上芭露婦人会の中に芭露農協婦人部上芭露支部があったのを改めて農協婦入部一本に切り替え、名称も芭露農協婦人部上芭露支部と称する様になり・・・・昭和30年代の半ばから始まった離農傾向はこの地区も例外でなく、かって発足当初105名を数えた会員もいまは32名に減り・・・<上芭露> 後になって芭露農協婦入部の一端を担い協力するとともに、近年、会員の激減などにより運営が困難なため、会費は区費より支出し、地区に居住する全戸の婦人は、老若を問わず西芭露婦人会の会員であるという規約を作り……<西芭露> などの種々相がえがかれている。また芭露では、変った形で異変が生じ、、 戦後、芭露の農家戸数と市街戸数が急激に増加したため、昭和23年に行政区は市街地帯(第一区)と農業地帯(第二区)に分割されたことに遠因し、婦人会分裂の動き・・・・行政区は二区制が布かれたが、婦人会の運営に当たっては一体的な活動をするよう町当局から要望され、分裂の危機は一応避けられたが、農協婦入部の結成に伴い、市街地婦人間の亀裂は覆うべくもなく・・・ 44年ころには指導者なきため自然解散となった。現に芭露の婦人団体は農協婦人部、漁協婦人部、畜産農協婦入部が活動しているだけで、一般婦人会は存在しない。<芭露> と、結果的には協同組合婦入部に移行してしまった。ちなみに湧婦協創立20周年を迎えた昭和47年の湧婦協系統組織をみると、加盟構成団体は次のようであった。 ・湧別漁協婦人部(6支部) 前浜、中番屋、三里、テイネー、芭露、志撫子 ・芭露農協婦人部(6支部) 芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地 ・湧別町開拓婦入部協議会(8支部) 信部内、東、弥生、芭露むつみ、芭露旭、東芭露、計呂地第一、計呂地第二 ・湧別町商工会婦人部 |
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湧婦協創立30周年 | 昭和57年は本町が開基100年を迎えるとともに、湧婦協も創立30周年を迎える佳節である。之までの組織の経過を総括してみよう。欄内は会員数と加入・脱退年次を示している。
武藤富士(昭28)、松田こふじ〜岩崎喜美(昭29)、谷口みさ(昭30〜31、33)、中沢初子(昭32,34〜39)、酒井美和(昭40〜44)、梶井久子(昭45〜47)、今美枝(昭50,52)、岩佐幸江(昭51,55)、小谷ヨネ(昭53)、長谷川英子(昭54)、竹村好永(昭56) なお、湧婦協への加盟構成とは別に、町教育委員会がまとめた婦人団体の現況によると、次の統計がある。
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若妻会 | 過疎現象で農漁村の後継者が少くなるとともに、後継者の配偶者問題がクローズアップされたが、迎えた若妻たちに精神的にも往みよい地域社会環境をと、昭和40年代半ばころから地域婦人団体の中に「若妻会」を結成する傾向が芽生え、 区内に20代より30代位までの、若い婦人により組織されている若妻会かおる。保健婦、その他の講師を招き、育児、児童の躾、健康法などの講習を受け、明るい地域づくりの一端を但っている。<西芭露> という一般的な誕生と活動の経過をたどっているが、昭和53年3月末には、組織数8、会員数93を数えており、現在の組織体は東若妻会、西芭露若妻会、芭露つくし若妻会、上芭露若妻会、志撫子若妻会、東芭露若妻会、川西いずみ若妻会、信部内若妻会、中番屋若妻会である。 |
(1)電気のない生活 | |||||||||||||||
開拓初期の灯火 | 開拓期の生活の中で暗闇を照らしたものは「火」であって、それは木、動植物性能、ローソク、石油などを燃焼させた炎のあかりであったから、「照明」というには、ほど遠いものであったといえよう。 最初のあかりとなった火は、拝み小屋の中に仕切られたカマドの火であった。開拓のじゃまになるほどの木が燃料で、冬は暖房とあかりを兼ねるものとなっていたが、いぶされて眼疾をわずらうことが多かったという。 次に、わずかながら利用されたものに、魚油と菜種油の火がある。漁労や菜種の耕作で得た自家生産燃料で、貝殻や皿に油を盛り、それにボロ布を撚った芯の一部をひたして油を吸わせ、ひたっていない部分の先端に火をつける方法であったが、油を作ることに手間かかかったし、燃焼の過程で油煙(すす)と臭気に気をつかうという原姶的なものであった。 やがて物資の流通がみられ、湧別港にも生活物資を積んだ船がある程度定期的に入港するようになると、ほそぼそながらローソクや石油(灯油)を入手する道が聞かれて、自家生産燃料から購買精製品燃料へと移行し、一歩進んだあかりをともすようになった。 石油の場合は「カンテラ」という器具を用いた。カンテラはブリキ製の小型の缶(油壷)に芯を出し入れするネジがついたもので、極めて簡単な器具であって、石油は貴重品としてたいせつに使用していたから、年間の消費量は4〜5升(5升で9g)ですんだというが、油煙と臭気はやや緩和された程度であった。ローソクはもっとも手軽で簡便であって、現在も宗教上の営みに使用されているが、当時、石油ほど利用をみなかったのは、光度のこともあったが、消費経済の面で高くついたからであったらしい。 |
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ランプ生活 | ローソクやカンテラまでの灯火は、なんのおおいもないから、炎がゆらいだり消えたりする不便と油煙の散乱があった。従って、油壷の上にホヤの付いたランプが出回ると、その重宝さが受けて一般に普及するようになり、「照明」といえるものになった。ランプは芯の幅によって2分芯、3分芯、5分芯、8分芯の種類があり、芯の幅が広いほど明るかったが、それだけ石油を多く消費するので、経済的に乏しい時代は2分芯でがまんし、石油がなくなると炉火のあかりでしんぼうして、生活経済の向上に応じて幅広の芯のものに変えていったという。 こうして一般に普及し、照明手段として一時期を画したランプは、その後も永い生命を保ち、電灯がつくまで照明器具として重宝されたが、こんなエピソードもある。 ランプのホヤは油煙で汚れるので、毎日内側から磨く(掃除)必要があったが、ホヤの口が小さいので子供の手が入りやすかったから、ホヤ磨きは子供たちのかっこうの手伝い作業になっていた。 |
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カーバイトのガス灯 | ランプ生活時代にカーバイトのガス灯を用いたところもあった。真鍮製の容器にカーバイトと水を入れて、アセチレンガスを発生させ、管の先端に取り付けたノズルから噴出させて点火する方式のものであった。 光度が高かったが、カーバイトが高価であるため、一般には普及をみなかった。また、ときに次のような事故もあったようである。 ガスの出が悪くて火がともらないときに、カーバイトか水がもう切れたのかと思い、ローソクの灯を頼りに容器の蓋をあけたとたんに、ガスに引火して爆発、顔に大火傷を負ったり・・・・ |
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街灯のはしり | 明治40年ころから、湧別市街と4号線市街の商店の店頭に、「ガス灯」と呼ぶ石油灯が看板兼用に取り付けられ、電気事業がはじめられるまで続いていた。点灯風と呼ぶ特異な職を持つ人が、脚立を肩に予約店を巡回して、注油と点灯、消灯を行っていたもので、当時としては、なかなかしゃれた発想であったことがうかがえるし、現在でいえば行灯型看板あるいはネオンサインにあたるものといえよう。当時の俳人がよんだ句があるので紹介しよう、 夕立の間街縫うて急ぐ点灯火 |
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(2)発電事業の勃興 |
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小火力発電 | 第1次世界大戦の影響による物価高を伴う好景気は、大正2年に1缶(1斗入り=18g)2円30銭であった灯火用石油を、同6年には3円に騰貴させた。このため各地で灯火用発電を計画する機運が台頭し、本町でも4号線の山田増太郎が発起して、資本金5万円で「湧別電気株式会社」を創立した。 3号線に10馬力の火力発電機を施設しヽ薪を燃料とする動力機によって、大正7年9月に操業を開始しヽ4号線市街と湧別市街に送電され、本町最初の電灯がともった。しかし幼稚な機械設備で発電力も十分でなかったから、ランプにわずかに勝る程度の明るさであったし、機会の故障も多く、そのつど停電するという不安定供給から脱し切れなかったという。その後、木炭ボイラーとし25馬力から75馬力に改善したので発電力もア。プされて、大正8年からは上湧別市街あたりまで送電したという。 |
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近代的水力発電 | 時代の脚光を浴びた発電事業は、エネルギー革命の様相を呈して水力発電に発展した。ちなみに、電気のないころの工場や劇場はどうしていたのかというと、 木工場などは、すべて石油発動機と機械をベルトで連結して作動させていたし、劇場で映画を上映する場合は、よそからバッテリー充電して運んでくるのが便利であったが、それができないときは、石油発動機で小型発電機を動かしていたものだ。 というありさまであったから、電気の恩恵は家庭生活だけでなく、産業活勁にも大きな活路を開くものであった。 山田増太郎は、さらに水力発電を企画して、大正12年に瀬戸瀬で湧別川水系を堰き止めた近代的水力発電所の建設に着工して翌13年2月19日に完成し、本町方面もこの電力系統に組み入れられ、安定した電力供給を受けられることになった。このため湧別電気株式会社は廃業し、水力発電会社に併合されたのであるが、大正7年の操業ということは、生田原の点灯が同10年、遠軽の点灯が同13年(瀬戸瀬発電所完成後)であることを思えば、同社の事業は近隣町村に先べんをつけた快挙であったといえよう。 ところで、文化の所産といわれた電気も、営利を伴う電気会社の営業方針から、戸口の密集する市街地帯に重点が置かれたために、散在する農漁村地区との聞に明暗を描き、昭和初期に普及したラジオも農漁家には及ぶべくもなく、湧別市街と四号線市街以外は、 開拓以来文明の光に恵まれることができず、ひっそりと闇に沈んでいたが、たまにラジオの音が聞えるのは電池式のほかはなかった。<芭露> という生活が戦後までつづき、生活格差のひろがりをみたのであった。 |
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地域の電化 | 市街以外の電化もごく一部にあったが、それは、極めてささやかなものであったことはいうまでもない。次に、その記録をみよう。 ■ 川 西 昭和12年8月に小池澱粉工場が澱粉製造の動力用に電力の導入を計画し、湧別川を越えて工場まで架線して、同時に付近数戸の工場関係者宅にも点灯したのが最初で、同14年9月に伊藤澱粉工場(のちの共同澱粉工場)も導入した。 ■ 芭露 昭和17,8年ころ産業組合が、木炭ガスによる自家発電施設で事務所に点灯していた。 |
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戦時の電力統制 | 日華事変〜大平洋戦争のさ中にあっては、電力は生産動力の重要性から昭和13年に国家管理におかれ、同18年1月の電力消費量配分は軍需産業70%、平和産業30%に規制され、さらに電力不足が決定的になった同年12月末には「電力動員緊急措置」加とられて、家庭用電カ量も著しく削減された。このため一般家庭への送電流量が細ってほの暗い電灯になり、「ローソク送電」と形容されたほどであった。 こうした中にも、地域性民の電気への執着は根強いものがあったらしく、次のような、うらみ、つらみが綴られている。 どれほど電灯の光を待ち望んだことか、村にも陳情、電気会社にも交渉したが、いかんせん戸数がまばらのため莫大な経費を必要とするので、数度の計画も自然に立ち消えとなって終る。そのうちに戦局も拡大し、すべてが軍事優先の世相となっては、配電の資材もなく、もはや電灯の光さえ「ぜいたく」の中に入れられてしまった。こうして電灯問題は戦後を迎えた。<芭露> |
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街灯の点滅 | 大正7年の湧別電気株式会社の操業とともに、市街〜5号線開に村費で32ヵ所の街頭が設置され、先述のガス街灯は姿を消したが、戦時中は電力使用制限と防空上の灯火管制で戸外灯の撤去を命ぜられ、終戦時には街灯は1灯も姿がみられなかった。 |
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農漁村の電化 |
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戦後の電力事情 | 昭和20年8月15日に敗戦という結末で終戦を迎えると、軍需産業の停止に伴い第2次産業が極度の低迷状態に陥ったため、同年8月23日に電力の使用制限が撤廃された。これは過剰電力の消費を一般民需に求めるための手だてであった。 こうした情勢を背景に、本町でも各地区が電力導入に積極的に動き、昭和26年までに全地域が導入を果し、ごく一部の辺地農家を除いて、全町的な電化をみ、産業動力と生活文化の向上に資することになった。大要をみると次のようである。 昭21 芭露市街と周辺地区・福島に点灯 ″22 川西・東・芭露の奥地区・上芭露・東芭露・西芭露・志撫子・計呂地に点灯 ″23 登栄床に点灯 ″26 信部内に点灯 しかし、これの実現にはなみなみならぬ地域住民の努力と対応があった。@地区ごとに期成会を組織して導入運動を推進、A極端な資材不足のもとでの電線や電柱など確保のための奔走、B工事労働力の提供、C多額の受益者負担、などがそれであるが、特に資材の調達には時局がら難渋を極めた。それだけに点灯の喜びも大きかったが、それらについては次項に詳述する。 |
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ついに得た光 | 開拓入植以来いく星霜、特に湧別市街や4号線に電灯がついてからの電気に対する憧れは、当時をランプのもとで生活した人でなければ、いい表わせないものがあった。それだけに、通電点灯を見たときの驚きさえ交えた喜びは大きく、それは地区創成期の教育所開設、のちの鉄道開通以来の歓喜の渦であった。そのあたりを、くつかの地区からの証言から抜粋してみよう。一読して総合すれば、当時の共通した概要がうかがえる。 ■ 芭露 昭和20年ようやく農村電化事業が促進されることになったが、戦後なお浅く資材不足のとき、配電会社と数次にわたる交渉と手をつくしての要請の結果、「電柱、電線などの資材と労力は受益者負担という条件」で21年10月ようやくまとまった。労力提供はともかくとして電線の入手は困難、電柱は建っても電線がない。八方に奔走してようやく一部現物が到着したときは、関係者一同安堵の胸をなでおろした。 こうして昭和21年12月20日架線工事の終った芭露市街の一部から試験点灯、顛を追って8号線まで点灯したのが30日。このときあちこちで期せずして「ついたぞ/」と感激の声が発せられ、だれいうとなく「ことしは明るい正月が迎えられるぞ」と喜びの声があがった。 だが、同じ地区内でもキナウシ、本間沢、ボン川、8号線以北は、なお実現をみなかったので、同じ芭露小学校に通う子供たちの中で電灯の下で勉強できる者と、ランプを頻りにノートをひろげる者に分れてしまった。これは電線の入手難を物語っていた。しかし好機はめぐり、上芭露の誘致運動に併せて翌22年、未電化地域の工事が行われ、文明の余慶に浴することができた。 思えば、電化期成会を組織して誘致運動と資材入手に区の有志が食糧を背に、関係方面に狂奔したこと、当時統制品だった電線は汽車で運べず、馬橇で運搬したこと、工事労力を提供した地区の面々、多額の受益者負担など、当時の功労を忘れてはならない。 ■ 東 昭和21年に伊藤金一を代表とする54戸の電化期成会が、翌22年には押野栄治を代表とする10戸の期成会が結成され、強力な運動が展開された。21年網走支庁管内で電化の申請は103地区から出されていたが、道庁の査定で一番先に認定を受けてうれしかった。 電柱は町有林から払下げを受け、芭露馬搬、資材の購入など大変な苦労であった。北電への補填金1戸平均5,800円、事業費合計31万3,260円だった。 押野栄治のの組は上湧別中土場から営林署の払下げを受け、馬搬、電柱建立はもちろん、すべての工事は労力提供による共同作業でなされ、金銭的にも労力的にも大事業であった。こうして地区住民待望のうちに22年、伊藤金一の組が6月に、押野栄治の組が10月に完成し、初めて電灯がついたときの喜びと、電灯の明るさの驚きはたいへんなものであった。 ■ 上芭露・東芭露・西芭露 昭和20年12月に伊藤石松が発起人となって電気期成会を作り、東・西芭露も参加し会員200余名となった。21年暮に芭露に点灯されたことから農村電化事業として架線申請したが、終戦直後のこととて「電柱・電線などの資材と労力は受益者負担」という条件が伴い、電線入手に走り回り、電柱は国有林から払下げを受けて伐採し、馬橇で運んだ。さらに電工の指示に従い、穴を掘り電柱を立てる作業も地区総出で行い、その苦労は容易なものではなかった。ちなみに受益者負担は1戸約1万円であった。 昭和22年6月に上芭露点灯祝賀会、10月には3地区全通祝賀会が上芭露小学校に200余名が出席して行われたが、思えば開拓当時、雁皮で光を得、カンテラで灯をともし、ほの暗いランプで宿題をする子、つくろい物をする母親、そして暗いガス灯の光を頻りにハッカあみなどの深夜作業を行う父親、戦中戦後は石油の入手困難なままに、臭いの強い魚油をたいたり、カーバイトをともしたり、苦しみの中に「電灯がほしい」という悲願は、老若男女を問わず全地区住民のものであった。 ■ 志撫子 計呂地地区との共同作戦で、芭露からの延長導入を図った電化工事で、昭和22年12月25日に一部地区の19余戸を除く98戸に点灯され、文化の恩恵に浴した。総工費は62万7,000円だった。 ■ 信部内 昭和26年8月9日に信部内開拓地電気消費組合(白崎政名組合長)を結成し、必要な電力利用共同施設を行うことを目的に、35条から或る規約のもとに発足した。組合加入者は信部内地区45戸、川西地区10戸の計55戸で、計画概要は、 高圧延長 8、700b 低圧延長 7、320b 変圧器 8基 電 柱 269本 点灯戸数 63戸(灯数312灯) 工事費 223万2、000円 で、同年9月下旬に着工、負担金は1戸約3万5、000円、労力提供延べ613人、馬役延べ56頭で、 昭和26年12月1日に完成し、同日通電式および祝賀会を信部内小学校で行った。 上のうち、信部内地区の場合は消費組合が電力会社から一定必要量の電力を買い受けて、料金支払いも一括、施設は組合が維持管理して運営する方式で、「農電」と略称され、他の一般給電よりも経済負担の増高を伴うものであったが、昭和43年に解消された。 |
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農産漁村電気導入促進法 | 昭和27年の国会で「農山漁村電気導入促進法」が成立した。これは無電灯農漁家解消のため、国の補助(3分の1)に都道府県も同額(3分の1)を上積みして、計画的に電気導入事業を推進するというもので、補助外3分の1についても「農林漁業資金融通法」 (昭26)を適用するとしていた。 農業協同組合、開拓農業協同組合、漁業協同組合が組織する受電組合、あるいは当該地区の「共同自家受電組合」が事業主体となって施設し運営するもので、昭和26年の信部内地区と同じ「農電」方式であった。貧困な戦後間拓地を主な対象に、関連する既存農家を含めて地域指定して実施されたから、本町でも以後10年ほどの間に、福島、(一部)東湧別原野、ボン川、本間沢で導入が行われた。 この結果、昭和37年現在の無電化農家は奥地に散在する40余戸に過ぎなくなったが、その後の離農転出(過疎化)により、思わぬ方向で無電化農家解消が進行した。 |
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一般供給切替事業 | 農電方式は補助と融資で最初はうまく事が運んだが、以後の維持管理が容易でないうえ、割高な料金(維持費負担も加算)となって、開拓農家をなやませるようになったことから、国では農山漁村電気導入促進法の改正を行い、補助事業として一般供給切替(電力会社への移管)を促進することになった。強力な補助事業としたのは、当該農家の格差是正のほかに、電力会社へ移管となれば、移管の基準に即した老朽施設の改修や、受電組合の負債整理などの問題が付帯していたこともあった。本町の一般供給切替の概要は次のようである。
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三相動力電気導入 | 産業生産の近代化に伴い業務用電力の需要が増加し、加えて機械施設の多様化、大型化(例えばバルククーラー)で3相動力電気が不可欠のものとなり、既設架線に3相動力電気導入施設のなかった、次の3地区で施設された。
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(4)電力利用の多様化 |
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街灯の復活 | 昭和25年に湧別市街のグループ「8人会」 (伊藤清光、多田正礼、野田舶男、南川保、塩原辛吾、中内清司、鈴木三郎、窪内栄)が、混濁した世相の中で暗黒の市街地を美化するため街灯建設を申し合わせ、資金その他を蓄積して、市街の要所に街灯を設置し、大きな社会的反響を呼び、その美挙が新聞に報道されたものである。 8人会はさらに意を新たにして、より完備した街頭施設計画をたてて資金造成に努力し、集積30余万円で、昭和28年に町制施行記念事業として、大通を主とした一連の街灯を完成した。このとき会員は10数名にふえていたという。完成後の維持管理は町内会に引き継がれ、昭和37年には本社の街灯が近代的な電柱に改められて、市街の情趣に美観を添え、非行防止や防犯に貢献してきた。 しかし、昭和37年に改修した街灯も、20年近くを経て支柱のいたみや照明度の低下がみられるようになり、再改修の声が聞かれはじめた。たまたま町開基100年が近づいていたことから、町の中心市街として時代にふさわしい施設の実現を望む気運が醸成され、昭和55年に設置にふみ切った。道道沿いには200h、裏通りの主要地点には100hの街灯を90基(工費1、100万円)を完成させ、近代照明の明るい市街になった。 芭露市街の街灯は、昭和37年に防犯と非行防止のため、町の助成を得て施設されたもので、32基が設けられて今日にいたっている。 なお、近年は国道および主要道道の改良が進むにつれて、集落地帯や橋梁および主要交差点などに街路灯の設置がすすみ、交通安全に資している。 |
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家庭用電気器具の普及 | 戦後復興〜高度経済成長は工業界に著しい技術革新をもたらし、その結果、町民の生活にも確信をもたらしたが、主役は家庭用電気器具の普及であった。トースター、アイロン、ドライヤー、かみそり、扇風機、クーラー、オープン、ストーブ、こたつ、毛布、あんか、ジャー、ラジオカセット、幻灯機、映写機、加湿器などの小〜中型品から冷蔵庫、冷凍庫、洗濯機、テレビなど大型のものまで、かっての電気といえば証明(電灯)という通年を完全にくつがえしていまった。一時、家電「3種の神器」といわれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫も、昭和50年には本町でも1世帯に各1台の水準に達している。 |
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電業所 | 北海道電力株式会社(北電)が、配電施設の保守管理と消費者サービスのために、湧別市街と芭露市街に電業所を設置している。湯別電業所の開設は昭和2年(当時は散宿所=初代所長豊島正太郎)で、担当区域は湧別川をはさんで西部一円と東部は丁寧川までであり、芭露電業所は同22年の開設で、丁寧川から計呂地にいたる湧別電業所担当以外の区域を担当している。 芭露電業所担当区域は、以前は中湧別電業所の担当であったが、昭和21〜22年に果たした芭露方面の電化が、大阪の戦災地区の電線を求めての架線であったため、停電、消灯事故が続出して中湧別電業所では容易に手が回らなかったことから、芭露電化期成会を中心に各地区期成会が協議して、建物の提供を女権に電業所の開設を要請し、昭和22年10月に親切の運びとなったものである。その後北電の営業合理化の一環として、同52年芭露電業所は廃止され、湧別電業所が芭露地区も担当して現在に至っている。 |