(1)スポーツの振興 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開拓期の大衆スポーツ | 入植者は家が散在し、各戸とも寸暇を惜しんで開墾と耕作に専念していたので、寄り集まって競技を楽しむ機会などあろうはずもなかったし、体育施設や用具も求め得べくもなかった。強いてスポーツといえるものは2人で力くらべのできる角力(相撲)、かけっこ、はだか馬での乗馬、河や湖での水あび(水泳)ぐらいのものであった。 それが、ささやかながらも神社が建てられ、学校が開設されて運動場(校庭)ができてくると、いくら体系だったスポーツが地区単位におこなわれるようになったというのが、一般的な流れであった。それは祭典余興の相撲と、学校の運動会という形で年中行事となったが、この2つは特別の用具や服装は必要とせず、かんたんに楽しめるという自然の成り行きがあった。 祭典余興の相撲には、子供から力自慢の壮年まで出場し、近隣の地区や多村からの参加もあって、境内には地区住民の声援がこだまする中で、子供角力、青年角力、力自慢の飛び入り角力が行われたが、こうした光景は、やがて馬頭観音祭や盂蘭盆の余興にも拡大されていった。 運動会は学校のというよりも、地区の運動会という熱の入れようで、地区内の人すべてが弁当持参で校庭に集まり、小学生もまじって青年や父兄たちも競走や綱引きに興じ、わが子や家族におくる応援の歓声でにぎわったのであった。 大正2年に東輝青年会の発会記念として、学校と青年合同の大運動会が開催され、えん麦畑跡で盛大に行われた。男は労働者そのままか裸に褌(ふんどし)姿、女は和服にモンペ姿、もちろん素足であった。<上芭露> が、その情景の一端をものがったっているが、こうした相撲や運動会のしきたりは、現在も受けつがれて、楽しい年中行事となっている。 めずらしいケースとしては、芭露の草競馬の例がある。明治44,45年とも、大正元(明45)、2年とも伝えられているが、とにかく2回開催されている。馬産振興と住民の娯楽を兼ねて愛馬家が主催したもので、 馬場は原野道路の6号線橋を起点として、直線部分を走り、4号線をゴールにした。出走馬は芭露地域のほか、計呂地、湧別などからも改良馬10数頭が参加し、ヤンヤの拍手と声援でにぎわったものだった。 だが、不幸にしてキナウシの桑原清右衛門が馬に蹴られたことが原因で死亡するという事故が起きたため、2回限りで終わってしまった。<今野竹次郎> |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
剣道の伝来 | 未成熟な体育環境にあって、剣道の伝来は早かった。明治29年に川西に入地した小松松次が、当時の青年に奨励したのに初まっている。しかし、当時は道具が得がたいのと、青年の気構えがいま一つ冴えなくて盛りあがらず、けいこに励んだのは西沢健一ぐらいであっとという。やがて小松松次も故郷へ帰ってしまった。 次いで、高知県から一刀流の山崎慶造が来住し、4号線で青年に毎夕けいこをつけてから、湧別の剣道が緒につき、わが国とロシアの風雲急を告げるにいたって剣道熱が高まったのであった。さらに、明治49年代に同じく4号線に石川林作がいて、青少年の指導に励んで、本町の剣道の伝統が形成された。このあたり、当時の川西の剣道熱のもようから推測してみよう。 山崎慶造のところに毎晩けい古に通った出口助次郎、小川清一郎らは、島村戎三郎校長(明44着任)の助言で学校の教室を借り、数人で夜ごとの練習に励んだが、さらに川西の野津不二三、4号線の石川林作を指導者としてからは、毎夜10数人が参集し、教室の夜は道場化した感があった。 以来、川西の青年であれば、たとえ3ヶ月でも竹刀(しない)を握らなければ、川西の青年ではないといわれても致しかたないぐらいであった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近代スポーツの萌芽 | 開拓にいちおうの目安がつき、集落や村の形が整いはじめ、精神的、肉体的に多少のゆとりがもたらされると、本町にも近代スポーツが徐々に芽生えてきた。 ■ マラソン大会 芭露小学校長弦巻千代三(大9着任)は青年に呼びかけて陸上競技を奨励したが、大正10年8月29日に芭露温根湯64qのマラソン大会を行った。参加者は12名で、ランニングシャツとパンツに草鞋(わらじ)ばきのいでたち。午前6時39分芭露郵便局をスタート、志撫子、佐呂間、留辺蘂などで青年団や、婦人から茶湯、牛乳、卵、キャラメルなどの接待を受け、一人の落伍もなく温根湯大江本家にゴールインした。<芭露> ■ 水泳競技大会 観海流の水泳特技をもっていた弦巻校長は、学校の体操の時間は芭露川の入り口まで引率して水泳を指導していたが、大正13年7月土用丑(どよううし)の日に、芭露川口=サロマ湖岸で第1回の水泳競技大会を開催した。低学年は浅瀬で徒競走、旗取り、騎馬戦など、高学年や青年は深いところで100b・500bの競泳を行った。<芭露> ■ 他校選手招待リレー 志撫子校が運動会に他校選手を招待してリレー競走をはじめたのは、大正10年であった。参加したのは芭露、上芭露、東芭露、計呂地、床丹の各校と、それに志撫子校が加わって6校であった。志撫子はそのとき6年生の男子が6名で、その中から4人の選手が出場したのだから、全員選手みたいなものであった。<志撫子> ※このリレーは志撫子以前に慨にあったことは確かであるが、明確な記録のある志撫子を例としてあげた。なお、この他校リレーは国民学校時代を経て、昭和30年ころまで行われていた。 ■ 陸上競技大会 陸上競技の台頭は青年団活動によって促進された。詳細は次項にゆずるとして、大正10年ころの青年団の意気込みの一端をみると、次のようであった。 特に心身鍛練行事としての陸上競技は、連合青年団主催で地区対抗あるいは町村対抗などで連年盛んにおこなわれ、体育増進に資するものがあった。昼の疲れもなんのその、深夜にいたるも道路面をはしっている青年の努力がみられた。 ■ 体育デー 国民体育の振興を目的として、大正13年から10月3日を「体育デー」とすることが示され、毎年この日には学校や青年団を中心に体操会や小運動会が開催され、戦争突入後までつづいたのが、現在の「体育の日」の前身といえよう。 ■ 野球の対外試合 昭和年代に入って北海タイムス社(いまの北海道新聞)主催の全道少年野球大会が開花し、小学校の野球チームが各地に編成されるようになり、湧別尋常高等小学校でも昭和7,8年ころに対外試合をするようになり、父兄の関心を集めたという。しかし対外試合は日華事変突入とともに、教育上弊害を生ずることを理由に抑制され、全道少年野球大会も中止になった。 社会人の野球は、昭和16年に湧別市街の同好者によって一チームが編成され、しばしば隣接町村と親善試合を行ったが、戦時体制の進展で衰退を余儀なくされた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
青年団のスポーツ活動 | 地区での青年団単位の競技会が村内の団対抗競技大会に発展し、村連合青年団陸上競技大会は、当時の村内スポーツのメインエベントの座に据えられた。大正9年10月に道庁学務部に社会教育主事が置かれ、積極的な青年団の指導に乗り出すとともに、同10年7月に第1回「網走支庁管内連合青年団大会」が開催され、以来、陸上競技を中心に水準が大きく向上し、予選をかねる村内大会もますます盛会となった。ちなみに、大正7年10月25日に湧別尋常高等小学校で開催された村連合青年団大会のもようは、次のように記録されている。 一、参加団体と出席会員数 下湧別青年会25人、北斗青年会21人、北光青年会19人、北星青年会12人、川西青年会16人,信部内農友会11人、東青年会12人、大正青年会14人、志武士青年会17人、東輝青年会13人、北華青年会12人、計11団体182名なり(不参加は床丹、勇立、西の沢3団体なり) 二、競技種目 200ヤード競走、400ヤード競走、500ヤード競走、600ヤード競走、1200ヤード競走、マラソン競走、1分間競走、載のう競走、はん檣競走、俵かつぎ競走、2人3脚、自転車競走、砲丸投、撃剣、角力 さらに、昭和10年当時の支庁管内大会競技種目をみると、次のように変わり、近代スポーツへの脱皮のほどがうかがえる。 ・競 走 100b、200b、400b、800b、1500b、800bリレー ・跳 躍 走幅跳、走高跳 ・投てき 砲丸投、円盤投 ・特殊目 角力、剣道、兎跳、俵運び、綱引き |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)戦時教育の流れ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
格技奨励 | 日華事変の勃発でスポーツにも「勤倹尚武」が唱導され、相撲、柔道、剣道、さらに強兵鍛錬のため銃剣術と女子の薙刀の奨励となり、武技、格技が国民体育となった。 小学校〜国民学校の体育では、1年生から相撲が必修とされ、運動場の一隅に土俵が設けられたのがそれであり、青年学校にも銃剣術の防具が備えられ、それまで在郷軍人が時々行っていた銃剣術訓練が生徒にも課せられるようになったのもそれである。また、招魂祭や神社祭典にも在郷軍人の銃剣術試合が、余興として盛大に催されたものである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近代スポーツの抑制 | 格技の奨励と表裏して進行したのが近代スポーツの抑制で、特に敵性排除の名のもとに球技に対する制限が厳しくなった。例えば、野球の場合には敵性語(英語)追放で「ストライク」を「良球一つ」「良球二つ」、「セーフ」を「良し」などと唱えるよう指導したほどである。また、運動用品の生産が止まり入手困難となったから、球技はいや応なしに下火となった。 陸上競技においても、次第に戦技的、産業生産的、耐久的な色彩のものが加えられたから、青年団の大会にも、次のような珍しい種目がまかりとおるようになった。 草刈競走、俵差し、棒押し、俵運びリレー、障害物競走、手榴弾投てき<村連合青年団> しかし、こうしたほほえましい青年の大会も、昭和15年ころからは下降線をたどり、若いエネルギーは、すべて戦技訓練と銃後活動に振り向けられていった。 そのあらわれの一つが、陸上競技を極度に変形させた「国防競技」であり、完全武装(銃と剣を所持し背のう着用)のいでたちで、障害乗越え競走、手榴弾投てき競走、斥候競走などを団体競技として実施したものである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体力章検定 |
どちらかといえばスポーツらしい形のものとして、ただ一つ登場したのが「体力章検定」と呼ばれるテストの実施であった。昭和16〜17年に行われ、あとは戦局の急迫で途絶えたのが、個人の能力の測定を目的としたものであった。 100b疾走、2000b耐久走、土俵運搬(300s、50b)=以上所要タイム、手榴弾投げ、走幅跳=以上飛距離、懸垂屈臂(鉄棒)=回数 を行い、記録により上級、中級、初級にランクされ、体力章が付与されるもので、おもに青年学校生徒や一般青壮年を対象に年1回の実施であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)戦後復活の軌跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武道の禁止 | 戦後の近代スポーツの復興は早かったが、荒廃と空虚の中にあって、行政よりも、産業よりも、なによりも早く蘇生した陰に、GHQ(連合軍総司令部)の積極的なスポーツ奨励の指示があったことは見逃せない。 その一方では、 柔道、剣道、銃剣術、薙刀は排外思想の顕現であり、「武士道」につながるものである。 として、GHQの指示で禁止された。相撲だけは例外とされたが、これは武器を持たないから、裸で凶器の隠蔽がないからということであったらしい。 これらの制限、禁止は、昭和26年の講和条約の発効で、わが国の自主行政権が回復するとともに解除され、柔道と剣道は相撲とともに、スポーツとして愛好の輪をひろげるようになった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近代スポーツの復活 | GHQの積極的なスポーツ奨励は、文部省を通じて都道府県にも示達され、道庁でも昭和21年7月に各市町村長に対して、「夏期運動週間実施要項」なるものを通達したが、これもスポーツ奨励の一端であった。実施要項は8月5日から1週間にわたるもので、趣旨として、 明朗闊達な気分の醸成を主眼とし、国家再建の根基は国民体育の培養にある旨を徹底せしむるために、新ラジオ体操、健歩会、登山、マラソン競走大会、相撲、水泳、各種競技大会、陸上競技大会について、土地の実情を勘案し、生産を著しく阻害せずになるべく多人数に亘る行事を選定のこと。 が掲げられていた。 食糧難の厳しい環境の中で、青壮年たちはいち早く躍動をみせ、空虚と空腹をひとしき忘れて自由の大気を満喫したのは、スポーツの世界の汚れのない純粋性を知っていたからであった。 ■ 野球の人気 終戦とともにもっとも急激な復活をみせたのが野球で、各職域や地域によるチーム編成が相次ぎ、学校のグランドは球場化し、土曜日の午後や日曜日は、野球のみられぬ日がないありさまとなった。 こうした状況から、健全な野球人口の育成をはかるため、昭和23年に「湧別野球協会」が結成され、湧別国民学校グランドの古池埋立てによる球場整備、試合日程の調整、少年野球の育成などに取り組んだ。 ■ 陸上競技と相撲 戦後の陸上競技の復活は、やはり戦前の主流であった青年組織によってであった。昭和21年11月に下湧別村自治青年連盟が結成されると、湧別地区、計呂地地区、芭露地区の単位組織ごとに、翌年から 野球大会、陸上競技、相撲大会などを行った。<芭露地区> よいうような活動をはじめた。 昭和22年は各町村青年組織の始動にあわせて、7月に遠軽小学校グランドで、復活第1回の網走支庁管内青年団陸上競技大会が、美幌で同じく相撲大会が開催され、本町からも少数の選手が参加して、復活の兆しをみせた。 そして昭和26年下湧別村青年団体連絡協議会結成により、翌27年には第1回陸上競技記録会、同28年には第1回陸上競技大会のスタートをみている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スポーツ繁栄の推移 | 戦後のスポーツ熱は、復興に加えて、著しく多様化して分野を拡大し、戦前をはるかに超える盛況となったが、その背景としては、 (1) 学校体育の充実 強化体育のほかに、クラブ活動としてのスポーツの振興が、スポーツ人口の底辺拡大につながった。 (2) 婦人の開放と種目の多様化 前項と関連して陸上競技、卓球以外にも庭球、籠球、排球、バトミントン、ソフトボールなど、 女性にも適した種目が普及し、家庭婦人にまで層が拡大された。 (3) 社会教育における社会体育の充実 体育が社会教育に位置づけされて、町ぐるみのスポーツ活動が促進され、体育施設(学校施設も含めて) も著しい充実をみた。 (4) テレビのスポーツ番組の影響 「観戦する」スポーツが、やがて「体験する」スポーツへの橋渡しとなった。 などの要因があった。それが、やがて同好の輪をひろげて種目単位のスポーツ組織結成へと進み、地域あるいは町内でのスポーツ隆盛の基盤となり、対外交流にも発展した。スポーツ団体の推移をみよう。
湧別町陸上競技協会、湧別町野球連盟、湧別町ソフトボール協会、湧別町バレーボール協会、湧別町バトミントン協会、湧別町卓球協会、湧別テニス同好会、湧別町柔道協会、湧別町剣道連盟、湧別町弓道協会、湧別町スキー協会、湧別スケート同好会、芭露スケート協会、湧別山岳会 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
青年団体の体育活動 | 前の項で述べたように陸上競技と相撲で復活し、昭和27年に芭露小学校で陸上競技記録会、翌28年には陸上競技大会と伸展した青年団体連絡協議会の体育活動は、陸上競技を拡大し、昭和29年に第5回「遠軽地区陸上競技大会」を湧別小学校グランドで主催するまでになった。そして、昭和30年代からは、町内における体育活動の領域 体育大会(昭31〜43)=ソフトボール・卓球・バレーボール・体育祭(昭44〜48)、球技大会(昭49〜) と若人の祭典にまで盛り上げ、遠軽地区、網走支庁管内、全道の青年大会にも選手を派遣することが多くなったが、昭和44年10月の滝ノ上町における管内青年団体ソフトボール大会では、優勝の栄冠を得ている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野球協会〜野球連盟 | 戦後いち早く復活したスポーツである野球界の組織化は早かった。高橋貫一、飯塚力雄、笠野栄、中川昭夫、高野宏之らの発起により昭和23年4月に「下湧別村野球協会」が組織され、役場、漁業協同組合、農業協同組合、亜麻会社、商工団体のチームが参加してスタートした。 その後「湧別野球連盟」に改組したが、町内各種野球大会を開催するほか、国民体育大会予選、全道大会、道民スポーツ大会にチームを派遣するなどし、道民スポーツ網走大会で優勝を果たしたこともある。一時活動が低迷したこともあったが、近年再び意欲的な活動がみられるようになり、各チームリーグ戦による朝野球も行われている。現況(昭56)は会長が窪内努で、所属会員は9チームである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
剣道協会〜剣道連盟 | 昭和31年4月に南川保、大口秀和、浅幸夫、松原政一、島田琢郎、茂木昌らの提唱で「湧別町剣道協会」が発足した。発足当初は「遠軽地方剣道連盟」の傘下に入り、町村ごとの支部協会であったが、昭和52年に独立して「湧別町剣道連盟」となった。この間、芭露支部少年部は、昭和33〜34年に2年連続全道大会で準優勝するという成績を収めているが、これは連盟(協会)が町内3つのスポーツ少年団(剣道)の結成と育成に尽力した成果であり、底辺の充実した連盟は年を追って会員が増加している。現況(昭56)は会長が越智修で、所属会員は130名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スケート協会 | 岩代学、松原静夫、北村敏、三浦直樹、橋本政敏らが「青少年の健全育成と冬期間のスポーツ振興」を目的として、昭和42年12月に「湧別町スケート協会」を発足させた。 湖陵中学校グランドにスケートリンクを設けて、スケート教室を開設したのが最初で、以来、町内氷上運動会やスピード記録会などを恒例行事として開催している。現況(56)は会長が岩代学で、所属会員は80名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スキー協会 | 昭和43年3月に窪内康人、大口小五郎、黒沼昇、小幡昌徳らの呼びかけで、「湧別町スキー協会」が結成され、中湧別の五鹿山スキー場を会場として、町民スキー教室の開設、スキーツアーの実施、基礎技術の講習会開催など、スキーの普及に尽力している。 現況(昭56)は会長が窪内康人で、所属会員は44名である。 設立から38年経過したスキー協会は、同好会組織から平成5年に脱皮し、協会が日本スキー連盟に加入し、現在(平成18)は基礎スキー少年団(週2日、約16回)、競技スキー少年団(週5日、12月〜4月まで)、未就学児スキー教室(3回)、町内小中学校へのスキー講師派遣事業(1月中旬〜3月初旬まで)を行うほか、スキー検定事業も行えるようになって、スキーツアーも実施している。所属会員は43名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柔道協会 | 岩代学、石渡要助、高橋一郎、山城啓男らの呼びかけで、昭和43年4月に「湧別町柔道協会」が発足し、各種大会の開催や柔道教室の開設に尽力するほか、網走支庁管内や全道大会などにも意欲的に選手を派遣している。特に、 昭53 全道少年少女柔道選手権大会優勝(西島美紀) 昭54 全道少年少女柔道選手権大会優勝(岡本博美) 昭55 全日本女子柔道選手権大会3位入賞(押野初枝) また、昭和55年7月に札幌で開催された第3回「全日本女子柔道北海道予選大会」に出場した本町女性勢は、目をみはる大活躍をし、 押野初枝 66s以下級で優勝 岡本紀子 66s超級で2位 岡本博美 61s以下級で3位 の入賞を果たした。さらに押野初枝は9月に東京の武道館で開催された「全日本女子柔道選手権大会」に駒を進め、並みいる全国の強豪を相手に善戦奮闘し、みごと3位に入賞して気を吐き、全国女子柔道強化選手に選ばれるなど、郷土に輝かしい朗報をもたらして、「女三四郎」としての今後の活躍が期待されている。現況(昭56)は会長が石渡要助で、所属会員は21名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
卓球協会 | 大衆スポーツとしてのよさを町民に普及させようと、鎌田博、小林武、氏家国夫らが同士に呼びかけて、昭和43年5月に「湧別町卓球協会」を結成し、卓球教室の開設や町民卓球大会の開催など、四季を通じて室内スポーツの普及に寄与している。現況(昭56)は会長が石川孝司で、所属会員は15名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弓道協会 | 昭和43年9月に清水清一、谷口勇、吉田英男、黒木保雄、工藤輝雄らの発起で、弓道のつどいが発足した。発足当初は「遠軽弓道会湧別支部」として経過したが、総合体育館の中に弓道場が設けられてから、「湧別弓道会」として独立発展してきた。 個人あるいは団体で各級大会に出場し、全道優勝、支管管内優勝など数多い入賞を果たして、湧別弓道会の名を高めるいっぽう、弓道教室を開設して新人の掘り起こしにつとめ、優秀な後継者を育成するほか、昭和53年には創立10周年を記念して体育館敷地に桜の苗木を自主的に植樹するなど、環境美化と精神衛生にも協力している。現況(昭56)は会長が清水清一で、所属会員は32名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ソフトボール協会 | 昭和44年4月に発足した「湧別町ソフトボール協会」は、越智修、田中巌、山城敬男、岩松宣夫らの提唱で発足したもので、農漁村の大衆スポーツとして、レクリエーションの中にソフトボールを位置づけようという目的に発している。 当初は芭露が主体の歩みであったが、ソフトボールの簡易で大衆的な内容がうけて、逐年ソフトボール愛好者の増加をみ、競技人口は年齢、性別を超えてひろがり、ついに体育協会加盟団体としてはトップの会員数をかずえるまでに成長した。 10月10日の体育の日に例年ソフトボール大会を開催するほか、会長旗争奪戦など多彩な競技会が催され、球音と歓声は全町各地域にこだましている。現況(昭56)は会長が茂木昌で、所属会員は150名をかぞえている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸上競技協会 | 高須義夫、藤原春巳、相沢隆治、袴田信郎、片岡一郎、畠山和幸らの発起で、昭和45年5月に遠軽から独立して発足した「湧別町陸上競技協会」は、設立当初は各地区、職場などを全町的に網羅した組織で事業が行われ、記録会、地区対抗陸上競技大会、道民スポーツ町予選会などを開催した。 その後、協会の充実とともに道民スポーツ大会、両湧別大会、町内少年少女記録会などの企画や行事に積極的に参画協力してきたが、近年やや低調の兆しをみせ、マラソン部門が各種大会に出場して、復活の期待を抱かせている。現況(昭56)は会長が加口司で、所属会員は21名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
バトミントン協会 | 昭和52年10月に発会した「湧別町バトミントン協会」は、総合体育館での各種スポーツの振興に刺激されて、佐々木年男、上野隆幸、高崎茂人、茂手木政志バトミントン同好の士が誘い合って結成したもので、例会研修や一泊合宿研修などで腕をみがき、遠軽地区大会で入賞するまでに成長した。現況(昭56)は会長が茂手木政志で、所属会員は25名である。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(4)社会体育の振興 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体育指導委員 | 昭和36年に「スポーツ振興法」が制定された事に関連して、本町では同40年に町教育委員会規則による「体育指導委員」制度をスタートさせた。体育指導委員は、社会体育の円満な振興を図ることを目的として、教育委員会が、 社会的信望があり、スポーツに関する深い関心と理解をもち、その職務を行うのに必要な熱意と能力を有する者。の中から15名を選任(任期2年)するもので、任務は次のとおりである。 (1) 住民の求めに応じてスポーツの実技指導を行う。 (2) 住民のスポーツ活動促進のための組織の育成。 (3) 教育委員会、学校、その他行政機関の行うスポーツ行事または事業に関し協力する。 (4) スポーツ団体その他団体の行うスポーツに関する行事または事業に関し、求めに応じ協力する。 (5) 住民一般に対しスポーツについての理解を深める。 (6) 常に住民のスポーツ振興のための始動助言を行う。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体育協会 | 各種スポーツ団体やグループが相次いで誕生し、それぞれの分野でスポーツ活動の普及拡大を行い、同好者の交流を深めていたが、単位ごとの活動はスポーツ熱が高まれば高まるほど、施設利用や日程の面などで障害を感ずるようになった。 いっぽう、増加するスポーツ人口とそれに見合う体育施設の造成の必要など、全町的に総合的な施策の必要にも迫られる状況となったことから、各団体やグループの有機的な連携の必要性が痛感され、 (1) 町内各種体育団体の連絡協調 (2) 各種スポーツの競技会、講習会、研究会の開催 を趣旨として、昭和33年4月1日に「湧別町体育協会」の結成をみた。各団体からの3名の評議員制で合議される仕組みで、発足以来、町の社会教育と表裏一体となって、町民スポーツの振興と体位の向上に取り組んでいるが、加盟団体の推移は次のようである。 【昭和45】 ( )はチーム、支部数
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スポーツ少年団 | 主として12〜15歳の少年少女を対象に、地域において一つのスポーツを通して、たくましい身体と明朗な精神を養うことを目的としたのが、「スポーツ少年団」であり、はっきりした後援者(母集団)と指導者によって支えられ、日本スポーツ少年団本部に登録される公式団体である。本町におけるスポーツ少年団育成の動きは、昭和40年代になって公式なものとなったが、その台頭とも伏線ともみられる歴史は古く、次のような足跡があった。 昭和28年から町教育委員会と町連合PTAの主催による少年野球大会が、湧別小学校で開催されるようになった。スポーツ少年団結成前に芭露(昭29)、湧別(昭33)、若竹(上芭露)各スポーツ少年団が剣道を志して非公式ながら活動を開始している。 次に昭和56年現在のスポーツ少年団の概要を掲げよう。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スポーツ同好会 | 地域スポーツの振興のために、各種体育施設(後項参照)の整備が進み、各種スポーツ教室なども充実してくると、行事やスポーツ教室参加を契機として、同好会の結成がみられるようになった。昭和56年現在のスポーツ同好会の概要は次のとおりである。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体育施設 | 一部の都市を除いて、わが国のスポーツは学校施設で育まれてきたというのが、過去の大勢であったが、スポーツが大衆に定着してスポーツ人口が増加し、各種行事が盛んに行われるようになると、学校施設では充足しきれないばかりか、学校教育に支障をもたらす懸念も生ずる傾向となったことから、本町では地域スポーツの振興も勘案して、次のように町営施設を整備している。 ほかに、冬期間のみの施設(臨時)として、町民運動広場と湖陵中学校グランドの2ヶ所に、1周180〜200bのスケートリンクを造成して開放している。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
町民体育祭 | 各スポーツ団体や体育協会が主催する競技会、大会は数多く、町内のみならず他町村との交流、各級大会への選手派遣もあるが、それらは省略して、ここでは挙町的な町民体育祭について記することとする。 昭和40,41年は「町民スポーツの日」を設けて体育大会が開かれていたが、同42年から「町民体育祭」として内容も充実されて、同56年で15回をかぞえている。スポーツ人口の増加と種目の多様化に伴う一般町民の参加を勧奨する企画であり、その背景には同36年の「スポーツ振興法」に基づく「体育の日」の制定(昭41)の精神があった。以来10月10日の体育の日を中心に展開された町民体育祭の発展のあとを、第14回の内容を掲げてしのぶこととする。 主催 湧別町体育協会 主管 湧別町総合体育館 後援 湧別町教育委員会
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
町民運動会 | 伝統を重ねつつある行事に、「町民運動会」がある。昭和48年に第1回大会が開催され、同56年で9回を数える全町民参加の大運動会で、地区対抗で興趣と交流を深めている。第8回の実施概要から、その盛会をしのぶこととする。 会場 湧別小学校グランド 期日 昭和55年8月3日 地区 @登栄床(紺色)A港・曙・緑町(ピンク色)B栄町(緑色)C錦町(白色) D信部内・川西(水色)E東・福島(黄色)F芭露第1、第2(紫色) G上・東・西芭露(えび茶色)H計呂地・志撫子(赤色) 得点方法 ・個人 1位9点〜9位1点(1点刻み) ・団体 1位20点〜9位4点(2点刻み) 主な種目 ・個人 名所めぐり、徒競走 ・団体 樽転がし、輪回しリレー、バイアスロンリレー、綱引き、年齢別リレー、玉入れ すごろくリレー、むかで競走、距離リレー なお、当日は会場の一隅に、園芸、ホタテ加工品、牛乳、牛肉、食堂、売店などのサービスコーナーも設けられ、終日町民が家族をあげて楽しさを満喫した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体育協会賞 | 湧別町体育協会では、町の体育の振興に貢献した者を表彰し、その名誉を顕彰するために、昭和50年4月1日に「湧別町体育協会表彰規定」を設けた。表彰の種類は次の2種で、選考基準は、 ■ 功労賞 本町の体育の指導に特に貢献した個人または団体 (1) 本町体育全般もしくは地域社会の振興に特に功績のあった者 (2) 協会あるいは加盟団体の発展に特に功績のあった者 ■ 優秀賞 各種競技会において特に優秀な成績を収めた個人または団体 (1) 日本選手権大会、あるいは全国的大会で特に活躍した者 (2) 全道選手権大会、あるいは全道的大会で入賞した者 (3) 管内選手権大会、あるいは管内的大会で優勝もしくは2年連続上位入賞した者 となっており、これまでの受賞者は次のとおりである。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)オリンピックとのかかわり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
聖火リレー | 昭和47年2月にアジアで初めての冬季オリンピック大会が札幌で開催され、笠谷幸生選手の70b級ジャンプ競技優勝で、日本人としては初の冬季オリンピックの金メダルを獲得するなど、道民の血を湧かせたが、大会に先だって、開会式のときに聖火台に点火する聖火の道内リレーがあった。 各市町内の青少年代表(15〜20歳)がランナーとして、「聖火リレー」に参加したのであるが、本町からも、 吉田徳司、三浦栄、藤原修子、石塚数子 の4名が栄誉を担って参加し、留辺蘂町役場前〜温根湯間を、りっぱに走破し大任を果たした。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マラソン選手の合宿 | 夏季オリンピック大会の華、”マラソン”のトレーニングのため、日本陸上競技連盟が本町を適地に選んで、過去5回にわたって選手の強化合宿を行っている。前の2回は第20回ミュンヘン大会(昭47)、後の3回は第21回モントリオール大会(昭51)に備えたもので、次のように実施されている。 第1回 昭47・6・6〜20(15日間)= コーチ3名、選手4名 第2回 昭47・7・28〜8・3(7日間)= 前回と同じ顔ぶれ 第3回 昭48・5・30〜6・15(15日間)= コーチ4名、選手11名 第4回 昭49・8・5〜14(10日間)= コーチ7名、選手5名 第5回 昭51・6・14〜24(11日間)= コーチ4名、選手5名 これらの選手の中には、第1〜2回にはメキシコ大会(昭43)マラソン第2位の君原健二選手、第4〜5回には最近の国際マラソンで好調の宗茂・宗猛の兄弟選手や瀬古利彦選手の顔もみられた。そして日本陸上競技連盟からは、次のような感謝状が届けられ、総合体育館内に掲げられている。 北海道紋別郡湧別町殿 第20回オリンピック・ミュンヘン大会並びに第21回オリンピック・モントリオール大会に際しマラソンの強化に対し多大なるご支援を賜りました 本連盟は茲に基町に感謝状を贈り深甚なる謝意を表します 昭和51年10月1日 財団法人 日本陸上競技連盟 |