第10編文  化

昭和の小漁師
百年史top


第1章 風土のしたたり
第2章 芸能文化
第3章 体育文化

第1章 風土のしたたり

(1)文学作品
寒川光太郎の
「北風よ吹かん」
 昭和14年に短編小説「密猟者」で、道産子作家として初めて芥川賞に輝いた寒川光太郎が、昭和17年に湧別原野でハッカ栽培に命をかけた男を描いた長編小説「北風よ吹かん」を発表した。梗概は、芥川賞作家らしい感覚で、
  剛直な明治男、栖原剛蔵は、山形県庄内平野の一族の長として構えていたが、村に入り込んできた高橋浅造という金貸しに次第に追いつめられ、一族ら農民の貧しさを救おうとハッカ栽培を手がける。しかし、これが失敗に終わって農民の激怒を買い、ついて父祖の地を捨てて、新天地を求めて北海道の湧別原野に渡る。旅を共にする子供三人や一族郎党に剛蔵は、
 ○村ば逃げ出すではないぞ、逃げ出すといわれたにせよ、ハッカのためだら満足だ!。ハッカは北海道で必ずできる!。できるつうことば目当てにしねで、いったい何ば目当てにすっか!。北海道へ行って土地のある限り植えつけてみせるぞッ
という信念を壮語した。
 ○時は明治三○年ころのこと、湧別原野の一角に腰を据えた剛蔵一族は、厳しい大自然と闘いながら耕地を開拓し、来道の年秋に待望のハッ力収穫に成功した。そして荒地はまたたく開にハッ力畑に変わり、剛蔵一族の勢力は徐々に湧別原野一帯へと広がっていった。
 その後、明治三四年の初の道会議員選挙に出馬したが、このときの競争相手が庄内の地を捨てさせた高橋浅造であったり、また地盤割りをめぐって対決する双方のかけ引含や乱闘場面もあったり。と同時に剛蔵の長男・繁太郎と浅造の妹・おみねとの清純な恋愛もあるなど……

波乱のアクセントと、しっとりした彩りで綴った力作である。
 作者が「この作品は大体において私の祖父の半生を書いてみた」と、あと書で述べているように、剛蔵のモデルは明治末期に山形県からハツカ作りのために湧別に移住した菅原保蔵(光太郎の本名は菅原憲光)であるが、資料は残っていない。作中の植物好きで向学心に燃える若き学徒・菅原繁太郎は剛蔵の息子、つまり光太郎の父親繁蔵がモデルで、光太郎は大学時代に湧別を訪れている。繁蔵は、独学で植物学を身につけ、民間植物学者として著名な存在となり、のちに北海道文化奨励賞を受けた人で、明治34年から1年間、初代湧別尋常小学校の校長を勤めたこともある。
金子きみの
「藪踏み鳴らし」
 作者があと書で「青春時代を注いで、私も北海道の土を耕した。その上は私の父母が、深い熊笹の根を据って、食べ物のとれる土にしたものです。険阻な開墾地で、樹にすがって混にくれた話は、少女の私の心を強く打った」と書いているように、金子きみは第2世の北海道人であって、「開拓の困難と、怖るべき人間開係の無秩序(本能むき出しのエゴイズム)」に対して、冷徹な視野をひらいた作品である。梗概は、
 お蝶は奉公先の名主の若旦那に犯され、孕んだ子をおろして罪に問われ、兄の宇助は「妹が旦那の家の面汚しをした」かどで小作地を追われて、護岸工事の飯場に人った。お蝶もそこへ飯炊きに雇われたころ、大作という男が転がり込んできた。そのときすでに天作は北海道移住を夢見ていた。一匹狼めく天作の口ぐせは、
  北海道には煮ても焼いても食えん伝統ちゅうものかないんだ。賢い血のめぐりと腕前が、縦横に活躍するのに、邪魔者のない新大地なんだ。身分だの、家柄だのは、あそこへ行けばクソくらえよ。
  であった。大作と結ばれたお蝶とて、うしろ指さされる土地から飛び去りたい思いであったから、耕す土地を失っている宇助も誘って移住する決心をした。
  内地からー〇日の長旅の果てに、石狩、上川の原野を横切る鉄道の終点から駅馬車で二日、オホーツク海辺の湧別村から山中に分け入ること五里
  背の荷にのめって歩きながらお蝶は、前を行く夫の大作が、長いこと口をきかないので気にしていた。天作はすぐ前を行く道突内人が、残雪をはじいて身を起した熊笹を押し分けて進むうしろで、熊笹がはね返って頬をたたかれ、みみずっぱれのできそうな痛さに不機謙になっていたのである。
  こうして、日没近くに馬老部落の荒田だらけの移住地に辿りついた。二里の長さの沢中に一一戸が点在する馬老部落では、先住者の家をまず宿にするのがきまりであった。八年間住みついたという部落頭の寒河江茂十の家は貧寒としていて、
  はじめは誰も泣くよ。おれもなあ、あねさん、樹に抱きついて泣いたっけ、明治三一年だった。
  という。
   移住は小屋がけからはじまる。大力の宇肋は丸太造り、お蝶は敷地にするために熊笹の根株堀りに熱中するが、大作は怠け通しで……できた本材も作物も全部自分たちのものになる。小作百姓に育った兄姉にとっては信じられないほどの手ごたえのある暮しともいえる。

 といった開拓者の言の移りを描くいっぽうて、バクチで人殺しをしたことのある道案内と、無法者大作の葛藤をはじめ、食いつめ者の居直りや、一旗組の賭事じみた営為が筋としてクローズアップされ、不良開拓者の典型をえぐっている。さらには茂十の妻イトと道案内人の密通がイトと大作の密会に転じ、お蝶は道案内人と逢い引きを重ねたうえ、若い小間物行商人を不倫の相手にし、……さらに多くの不義の転変があるなど、あすの運命もはかりがたい世界の女にとって、「性」は「生」の原点であるとともに手段たらざるを得なかったという一面も映し出している。

金子きみは本町芭露8号線の出身であり、「馬喰一代」 (昭27)の作者である中山正男の義妹でもある。

(2)詩 碑
大町佳月の詩碑  大正10秋に湧別に来遊した大町桂月は、いまの「竜宮台」 (砂丘の道路を「竜宮街道」と命名したのも大町佳月=産業編参照)方面の美観にひかれ、一日止宿先の主人を誘い、酒を携えて清遊し、漢詩を詠んで、その主人に贈ったという。条幅に達筆でしたためられた詩は、
  奇花異草接天空 馬跡輪痕川字通
  百里挾洲波浪裡 恍然疑是到竜宮
で、「猿間湖行、徳弘大人」に贈ると付け書されており、竹中登(曙町)が所蔵している。
 昭和46年に町では、観光協会などの協賛を得て、大町住月の来遊を記念する詩碑の建立を企画し、竜宮台(登栄
床三里浜)に前記佳月の詩を刻んだ(拓本を造って彫刻)銘石の詩碑を実現した。

島田梅洞の歌碑


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 芭露の御園山の頂上に、サロマ潮を見おろすように自然石の歌碑が建っており、その碑面には島田梅十(号・梅洞)の短歌が刻まれている。
  サロマ湖を一望にして佇つ丘に
  遠くオホーツクの海鴫りきこゆ
                 梅  洞
また、果皮の裏面には、梅洞を讃えて、

   島田梅十 明治二十三年新潟県生
 明治四十四年渡道、三十余年間教職に努む、現在酪農を営む、大正七年より作歌、昭和三十九年ぬはり社同人、本年歌集上梓
 地域社会に貢献し薫陶遍し、師の徳を敬慕し碑を建て永く顕彰す
  昭和四ゴ五年十一月
                        梅洞先生建碑委員会
なお、島田梅十は「芭露とうか会」を結成して、その主要メンバーとなり、作歌活動に励むとともに、歌集を自費出版するなど、本町の文化に大きな足跡をしるしている。

蔦保巨柿の句碑   戦前から作句活動を続け、戦後まもなく「湧別俳句会」の結成に際しても、率先して尽力した蔦保巨柿が、冬の一日志撫子の桜ケ岡に歩を運んだときの句で、仙台石の碑に、
  オホツクも凍てサロマ湖も雲の下

と刻まれている。この句碑は、昭和43年7月21日に湧別俳句会の名で除幕されたもので、巨柿の作風を讃え、その薫陶に報ゆる句友の心情をあらわすと同時に、桜ヶ岡から眺望した詩情を象徴するものである。
 なお、桜ケ岡には、もう一つのささやかな石の句碑があり、それには次の句が刻まれている。
  通り雨湖水を渡る虹のはし  鳳 声
鳳声は国民健康保険芭露診療所長であった柴田正雄で、昭和34年に自費で建立したといわれている。

(3)音 曲
「サロマ湖の歌」  昭和28年に発表され、レコードにもなって愛唱された歌に「サロマ湖の歌」がある。中山正男作詩、古関裕而作曲によるもので、ベテラン歌手伊藤久男の重厚な歌唱で一世を風びした感があったが、いまもラジオやテレビでメロデーを耳にすることが多いロマン豊かな歌曲である。

 一   アー サロマ湖の水はからいよ
    青く澄むむとも 君知るや 君知るや
    思い焦がれて泣く女の
           熱い涙がしみてるからよ

 二   アー 恋の鳥月に嘆くよ
    哀れ今宵も、さい果ての さい果ての
    暗いコタンの森こえて
           遠く悲しく君よぶ声を
郷土芸能
「さろま湖太鼓」
  昭和48年10月に子供の舞踊のつどい「わらべ会」が、木戸幸太郎や林恵美子らの世話で発足して、郷土芸能的分野の創作活動をはじめたのが発端となり、同51年に「わらべ太鼓」が誕生した。
その後、小谷啓、窪内康人らの強力な後援に加えて、郷土芸能を切望する町民有志の声もあり、壮大なサロマ湖の自然や躍動と住民生活のかかわりを太鼓のリズムで演出することが発想され、曲は10種を数えるまでになった。
そして、町の開基100年に向けて開花するよう精進の結果、「さろま湖太鼓」と銘打つ形ができあがった。
 昭和57年5月には後継者育成のため「さろま湖太鼓保存協力会」 (窪内康人会長)の結成をみ、従来の子供主体の編成から高校生や社会人を含めたものにひろげ、保存伝承に意欲をもやしている。
(4)顕 彰
青少年文化賞  本町では先人が築いた文化遺産の着実な継承と、新しい生活文化の創造による理想郷建設の一環として、次代を但う青少年の情熱と実践活動に期待し、事績を賞揚するため「青少年文化賞」を制定している。
 ■「湧別町青年文化賞」発足(昭32)
   当初は青年団体を対象とし、1月15日の成人祭に表彰していたが、昭和36年からは個人も対象とした。
   青年文化賞、同努力賞、同奨励賞の三つがある。
 ■「湧別町青年文化賞表彰実施要項」制定(昭41・I)
   3つの賞には変りがなく、表彰期日が3月の青少年行事の際に変わった。
 ■「湧別町優良青少年文化賞表彰実施要項」制定(昭49・4)
   青年が「青少年」に変り、表彰は11月3日の文化の日に自治功労者および優良職員の表彰につづいて
   行われている。
が、その経過であり、実施要項(昭49・4)の大要は次のとおりである。
 (1) 資 格
  ・個人 義務教育修了者(16〜30歳)で、青少年グループ、サークル活動に参加している者
  ・団体 青少年で組織し、結成以来3年以上の実績を有する団体
 (2) 選考基準
  ・個人 (ィ)社会教育活動の振興発展および団体グループの育成に寄与した者
       (ロ)音楽、演劇、文学、美術など文化活動に優れた成果を収めた者および
         文化団体グループの育成に寄与した者
       (ハ)各種スポーツ競技に優れた記録と功績を収めた者および体育団体グループの育成に寄与した者
       (二)産業研究や生活改善に優れた成果を収めた者および関係団体グループの育成に寄与した者
  ・団体 (ィ)社会教育活動の振興のために年間の活動を通じ優秀な成績をあげた団体
       (ロ)町内はもちろん、支庁管内的にも発進的にも評価される水準の研究実践活動と
         特色ある活動を行い、地域社会の振興に寄与した団体
次に、これまでの受賞者を記そう。
  昭32 東青年団(文化賞)
   昭33 東青年団(奨励賞)
   昭34 計呂地青年団(文化賞)、東芭露青年団、東青年団、北斗青年団(以上努力賞)、
        芭露青年団(奨励賞)
   昭35 芭露青年団(文化賞)、東青年団、計呂地青年団(以上努力賞)、上芭露青年団(奨励賞)
   昭36 東湧青年団「こむぎグループ」(文化賞)、伊藤茂、清原拓郎(以上努力賞)、
        桑原清子、川上正雄(以上奨励賞)
   昭37 黒田勝雄(努力賞)、斎藤勇、兼田博、三沢雄一、小関敏子(以上奨励賞)
   昭38 中尾庄一(文化賞)、水野静子、吉泉徳孝、村川充子(以上奨励賞)
   昭39 石渡輝道、川西青年団(以上文化賞)、釜神悦夫、佐々木節子(以上努力賞)、
        小野勉、服部功洽、高橋慶子、横関敏子(以上奨励賞)
   昭40 黒田紀臣、多田光男、清水三千枝(以上努力賞)、小川征一、服部一夜(以上奨励賞)
   昭41 渡辺カツ子、吉田洋子、計呂地地区青年団体協議会(以上努力貢)、村川勝彦(奨励賞)
   昭42 小川敬子(文化賞)
   昭43 洞口忠雄(文化賞)、橋本典之、伊藤章、川音安王(以上奨励賞)
   昭44 本田勝樹(文化賞)、三浦直樹、佐藤英二(以上努力賞)、金森和子、読谷由子(以上奨励賞)
   昭45 服部一俊(文化賞)、加藤健治(努力賞)、山下哲夫(奨励賞)
   昭46 野口信敏、渋谷弘昭、橋本政敏、本間義麿(以上努力賞)
   昭47 湧別町ボランティア麦の会(奨励賞)
   昭48 五島順二(奨励賞)
   昭49 栗田敏(努力賞)、計志青年会、友沢勇司(以上奨励賞)
   昭50 岩佐祐行、越智信(以上奨励賞)
   昭51 長田洋之(努力貢)、湧別市街地区青年会(奨励賞)
   昭53 湧別市街地区青年会(文化賞)
   昭54 湧別漁業協同組合青年部(努力賞)、友沢直樹(奨励賞)
   昭55 横山麻里子、押野初枝(以上奨励賞)
   昭56 井谷一茂、四関誠一、木戸恵(以上努力貢)、稲熊敏則、高橋徳雄(以上奨励賞)
   昭57 上田範幸、湧別軽音楽研究会(以上努力賞)浪江国彦、東湧青年団(以上奨励賞)


第2章 芸能文化   ページtopへ

(1)芽生えから開花へ
俳句のつどい  本町における俳句の芽生えは、他の文芸や美術の分野に比して、断然早く、明治時代に発している。
以来、大正〜昭和と脱皮と発展をつづけて、村の文芸の伝統を形成した。
■北声吟社〜北斗吟社〜凍海吟社
  初代戸長として明治30年に着任した小池忠吉は、黙蛙と号して俳句をたしなみ、住民にも句作をすすめて俳句会をつくり、「北声吟社」と名づけて、中川花宿(のちに空洞)、山酒屋雀子、米本迷外、酒井星光ら男女同志が
 集まって句会をもつようになった。
  大正5、6年から昭和2〜5年にかけて大いに盛りあがり、昭和5年には互選俳誌「ほくせい」を創刊、4号線 を中心に句友が中湧別方面にもひろがり、中湧別と交互に句会がもたれるようになって、「北斗吟社」と改めた。
  対外的には、網走の十七美吟社、滝の上の滝見吟社、野付牛(いまの北見)の名塩呑空らの集いと交流し、昭和2年8月には句会100回を記念して、竹田凍光(役場税務主任)の労により、俳誌「暁雲」の主宰者である青木郭公を招いて盛大な句会が開かれ、「凍海吟社」と改称したが、当時は竹田凍光、各務呉子、小川十時、中川空洞らの活躍で大いに句風がみがかれた時代であった。
 しかし、その後句友の移動で衰退し、日華事変の時局の転変で影をひそめてしまった。
■辛夷(こぶし)吟社
  上芭露の東輝青年会が大正末期に文芸誌を発行していたが、それに関連して俳句が話題になって月並句を作るようになり、大正15年に北海タイムスの俳句選者であった青木郭公が俳誌「暁雲」を発刊するにおよんで、藤根巽香、江島渓水らが会員となり、北海タイム俳壇にも投稿していた。
  昭和2年の北斗吟社の句会100回記念には藤根巽香、江島渓水、桐谷無弦、佐々木史葉、小山紫水も参加し、その息吹を契機として、上芭露地区の同志に呼びかけて「辛夷吟社」を創立し、毎月句会を開くとともに、俳誌「辛夷」を発刊し、田中一路、金井白亜、金沢公頼、渡部雪道、佐々木笹鳴、後藤渉外らも活躍した。
  町内外の他吟社との交流や、道内外の指導者に郵送して選句してもらうなどのほか、昭和7年には青木郭公を迎えて句会がもたれ、「暁雲支部」もつくられた。
  しかし、戦争の影響で衰退し、句会と俳誌も休止となって、わずかに暁雲の誌友数名が投句をつづけたが、昭和18八年に青木郭公が没して廃刊になり、その後、古田冬草の俳誌「緋衣」の発刊で、これに入会したものの、やがて廃刊となり空白期に入った。
■その他
  昭和9年ころ湧別市街に阿部愁涙、木場一葉子、蔦保巨柿ら「ホトトギス」系の句友がいて、時おり句会をもち、同11年6月の日蝕のときには、旭川や鴻之舞からも俳人が来村して、サロマ湖上で日蝕を見ながら句会を開いたという。

短歌のつどい  個人的には、古くから多くの人々に短歌(和歌)はたしなまれ、往時の特色として御製(天皇が詠んだ和歌)の朗詠なども、よく行われていた。
文芸活動  作文、詩、短歌、俳句の分野を、個々の趣味や好みによって創作したものを持ち寄って、発表し合うという文芸活動が、大正時代に青年団や小学校で文芸誌という形で開花した。
■ 青年団と機関誌
 大正年代になって各地区に青年団体が発会し、夜学会など教養活動が活発化するとともに、作文や詩歌の創作を学ぶ機会がふえ、大正10年代から、各青年団体が機関誌を刊行するようになると、文芸欄が役けられて文芸活動の場とするようになった。例えば連合青年会の機関誌「修養の青年」は、大正14年に創刊され、文苑という欄が役けられていて、小品文、詩歌、和歌、俳句、川柳、感想文などの投稿を得て集録していた。
 こうした傾向は次第に文芸熱の高まりと作品の充実をみて、「志学」(上芭露)、「真声」 (西芭露)などは文芸誌の観を呈するほどであった。
■なでしこ文芸団
  大正9年に志撫子小学校に着任した桑原宗英と大塚盈は、児童の情操陶冶を図り、文学的才能を仲ばすため文芸機関誌「なでしこ」を発刊し、児童の作文や詩歌を掲載するとともに、学校と家庭の連絡誌として活用していた。また両教師の指導で「なでしこ文芸団」を組織し、学校で購読していた小国民新聞にも投稿することとなり、それが好成績をあげて、「なでしこ文芸団」の名を全国に馳せたものであった。

  なお、犬塚盈は、その後、作文、作詩教育で教育界に貢献するとともに、道内各地の校歌の作詩に携わり、本町でも芭露、上芭露、東芭露、志撫子、東湧の各校歌を作詩している。
  この流れを受けて現在も健在なのが佐藤信雄(西芭露)で、小学校5年生のときに犬塚盈の薫陶を受け、のちに西芭露小学校校歌、遠軽小唄、湧別町開基八十五年奉賛歌の作詩に入選し、農民詩人として評価されている。

百人一首のつどい  北海道の小倉百人一首の「かるた取り」は、下の句のみを涜んで、下の句を毛筆で書いた(草書)木の札を取るのが特徴で、本州方面とは大いに趣を異にしており、気合のこもった「かるた取り」は、北国の厳しい自然にふさわしいものである。犬正11年ころのことになるが、

  若者の趣味というか遊び(ゲーム)というか、正月の楽しみは「かるた会」ぐらいのもので、そのころ湧別市街の河武本工場の管理人で藤野要蔵という人は、近隣に名を知られた「かるたの名人」であった。この人が中心になって、かるたのグループを作り、紋別方面まで遠征していた。

という活か和田収によって伝えられているほどに、なかなか湧別の「かるた会」は盛んで、正月から夏ころまで行われたともいわれているが、「村雨クラブ」というつどいは、そのころ生まれたものであるという。しかし足跡は不詳である,
演劇のつどい  演劇といえば、小学校の学芸会で劇を演じた歴史は古く、また、たまにくる旅芸人の芝居を、民家の広間やハッカ小屋にムシロを敷いて、暗いランプのもとでみたという話も残されているが、特筆すべきは青年団の演劇活動の勃興で、大王年代中期に開花した青年演劇は神社祭典の余興として、大いに地域住民の目を楽しませたものであり、それは文芸活動とともに、当時の青年の気概を示すものとして、日華事変の混迷期ころまで伝統が守り継がれていた。こうした演劇活動の面影の一端を2、3抽出してみよう。
   いまも古い神社の建物の面影が残っているが、それは社殿と青年会館が一棟に合体した長方形のもので、長い一辺が取りはずせる木戸になっていて、社殿兼青年会館を舞台にして演劇が行われ、広い前庭(いまは畑)が観客席になっていた。<計呂地>
  大正7〜8年ころの青年演劇は活発で、現代劇のほか歌舞伎の公演も行った。わざわざ佐呂間村の栃木団体まで歌舞伎を習いに出向いたり、歌舞伎の衣裳や刀槍、甲冑などを借りに行ったりしてハッスルしたもので、いつも公演は大好評だった。<東芭露、芭露>

華道のつどい  風流な雅趣をもつ華道は、日本古来の奥ゆかしい作法として、特に女性のたしなみとして個々に関心をもつ人はあったが、社中(あるいは個人教授)として弟子に温習を行うようになったのは、昭和年代になってからである。
         要項
流派
師範 地区 開設 備考
未生御流忽滑谷社中
未生御流古川社中
未 生 御 流 会
忽滑谷 武
古川 竜甫
忽滑谷 武

湧別市街
昭11
昭12
昭18
昭12閉止
昭17閉止
昭50まで

囲碁のつどい  昭和10年ころ酒井清光、坂上竪正、木下宇八ら囲碁同好の士が発起して、太田勝美を会長に10名ほどで同好会を発足させ、戦時中も例会を継続していた。これが「湧別囲碁同好会」のはじまりで、囲碁や将棋を通じての組織的交流であった。
 もともと囲碁と将棋は、古来からの伝道的棋道として親しまれてきたもので、新聞に棋譜が連載される用になった歴史も古いものがある。従って、村内の囲碁および将棋人口もかなりあって、個々に対局の場を持つ光景はあちらこちらにみられたのであるが、湧別囲碁同好会以外の具体例は不明である。
音楽のつどい  戦前戦中を通じて小学校〜国民学校の音楽は、「唱歌」と
いう科目で、もっぱら歌唱に終始していたのであるが、湧別小学校には昭和9〜10年ころラッパ鼓隊が誕生していた。その経験者たちが器楽への興味を結実させて、次のような郡部では珍しい音楽活動が芽生えた。
■湧別簧琴協会
  昭和10年ころ、飯塚力男、吉竹房之らの呼びかけで、「簧琴」と称する同好者グループが結成された。10名ほどの青年たちであったが、アコーデオン(当時は「手風琴」)、クラリネット、マンドリンなども加えたハーモニカバンドで、湧別音楽協会の前身である。
■湧別音楽協会
 昭和13年半ばころ、飯塚力男、吉竹房之らが簧琴をより整備した楽団に編成するために音楽協会を結成し、12名ほどの吹奏楽本位の楽団「郭公」の誕生となった。トランペット、トロンボーン、クラリネット、大太鼓、小太鼓、’シンバルのほか、アコーデオン、ギター、バァイオリンも加わって、ちょっとしたミニ・オーケストラ的編成で、楽器は各自待ちのほか飯塚力男が調達寄付したものなどであったが、戦時中のこととて楽器の入手や修理に苦労したという。
 活動としては、戦特色を反映したものが多く、自発的に出征兵士の歓送、沿岸特設警備隊の慰問、村内はもちろん村外まで出向いての慰安演芸会への出演のほか、盆踊りの伴奏なども行った。
  しかし昭和17年、機雷爆発事故による犠牲や戦争による徴兵などで、メンバーの大半が欠けるにいたって一時中断の止むなきにいたった。

舞踊のつどい  盆踊りがいつごろから行われるようになったかは不明であるが、老若男女が太鼓とお国自慢の民謡に合わせて踊りの輪を作ったのは、大衆レクリエーション的な舞踏の場であった。
  流派とか創作といわれる舞踊が芽生えたのは昭和15年ころのことで、和田ミサヲらが湧別市街の少年少女に呼びかけて、20名ほどの「小ざくら会」を結成し、奉仕的に創作舞踊と劇を指導したのがそれである。戦時中の出征遣家族慰問のために毎年春秋の2回、休日に地域を巡回したり、楽団「郭公」と合同して村外に出向いたりの活動を続け、昭和18年には村の助成で旭川陸軍病院を慰問して感激されたこともあった。

書のたしなみ


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 寺子屋式教育の昔から、子弟に対する教授は「読み」 「書き」 「そろばん」の3つが主眼におかれて、日本伝統の毛筆書道が奨励されてきた。尋常小学校〜国民学校時代にも、「書き方」あるいは「習字」として教科に位置づけされ、1年生のときから週2時間、墨と硯と筆と半紙に取組かのが習わしとされていたから、特に芸術化性を意識しなかったけれども、一般にも達筆な人が多かったし、現在でも高年老の中にそれがうかがえる。
 こうした書の道で一般に開けたのが「書初め」の習わしで、学校でも冬休みの課題としていたが、一家そろって1月2日に、大きな紙(条幅ないし条幅のたぐい)に大書する光景がみられたしヽ年賀状も筆字が多かった。また、役場や学校などの公式記録文書も、筆字のものが数多く残されている。これが、戦後の芸術書道開花の伏線となったことは催かである。
(2)戦禍とのかかわり
戦争が落とした暗影   日華事変が勃発して1年、2年と経過するにつれて、陸軍の「憲兵」や内務省筋の「特別高等警察」 (「特高」と略称した)の目が、市井にも光るようになり、昭和16年3月には「治安維持法」が改正されて、思想と言論の統制は弾圧へと進展した。左翼の摘発投獄(赤狩り)、厭戦的思想傾向の出版物の摘発処分、文芸文学および美術などの分野における危険分子と作品の摘発追放(思想と作風から)、敵性国家系の音楽の禁止などがそれで、郡部寒村にいたるまで、作文教育の教師のチエック、文化活動舎の作品や言論の監視が行われるとともに、広く一般に対しても、
 戦力にも銃後の守りにもならぬことをたしなむ時間などあり得ない時局認識を全面的に唱導したものである。
 外的にこうした抑圧の情勢をみ、内的に出征や移動による会友の減少をみて、本町でも「凍海吟社」 「辛夷吟社」「短歌会」などが影をひそめてしまったし、青年団体の機関誌も用紙難から発刊など思いもよらない事態になって、やむなく活動の中断休止に陥ったのである。
 
戦後混迷期の流転  終戦という現実は、文化活動に関心を待つ人々に、さまざまな感慨をもたらして、流転がみられたが、
 (1)敗戦と混乱で離散
 時代展望の定まらぬなかで、青年団という絆が消えて、若者の文化活動が一時的にせよ消滅したのが、もっとも大きな流転であった。 (青年団体の項参照)
 (2)平和と自由の蘇生
 敗戦終結の中にも民主主義社会建設歩みは、文化活動の再興に大きな拍車となった。 (次節参照)
(3)戦後再興の消長
俳句のつどい  古い歴史と輝かしい伝統をもつ本町の俳句は、戦時中その活動が休止状態になっていたが、風土のエネルギーは、確かな鼓動を守って温存されていた。
■湧別俳句会〜湧別「うしお吟社」〜湧別「うしお俳句会」
  昭和21年いちはやく青年の文学熟の盛りあがりとともに俳句会結成の機が熟し、11月3日に蔦保巨柿の斡旋で北見の俳誌「阿寒」主宰、唐笠何蝶を迎え、盛大な句会を開き「湧別俳句会」の発足となった。同25年には「阿寒」の湧別支部も結成され、和田白蝶、中内豊穂宅を会場として、渋葉万造ら10余名が例月句会を継続した。
  昭和28年に俳誌「ゆうべつ」を創刊し、第7号から「うしお」と改題、同29年に文化協会加入とともに「うしお吟社」に改めた。昭和32年には、開町60周年を記念して句集「落穂」の発刊も行った。同34年「阿寒」の廃刊により支部は解消したが、湧別神社祭典奉納句会、町文化祭行事への参加、町外吟社との交流、月例句会をつづけて今日におよんでおり、町制施行記念(昭28)、開町60周年(昭32)および70周年(昭42)には客員を招いて、盛大な記念俳句大会も開催した。また昭和48年から「うしお俳句会」と改称した。
  なお、当会では俳誌「うしお」の50号、70号、100号、130号を記念して、第1〜4巻の郷土句集を集録刊行している。
■上芭露吟社
 戦後混乱の中にも藤根巽香、渡部裕雪、佐々木早苗、金沢公頼らによって、ときおり句会が聞かれたが、結社再興にはいたらず、藤根巽香だけが「葦芽」の同人として句作をつづけていたといわれているが、昭和31年8月5日に上芭露郵便局長宅(渡部裕雪)で、竹田凍光を迎えて俳句会が開かれ、このときの主催が「上芭露吟社」となっている。しかし、さきの結社再興にいたらず、

  昭和30年ころ長谷部虎杖子の「葦芽」に入会、断続的ながら投稿をつづけ、また、このころ同時に和田白蝶による「うしお」にも加入投稿したが・::・(藤根異香)
 と考え合わせると、句会のための一時的な存在であったと思われる。
短歌のつどい  俳句のあとを追うように短歌の復活が早かったのは、俳句同様に風土のエネルギーが確かであったことにはかならないが、再興の原動力になったのが婦人層であった点に特色があった。
■湧別「いさり火短歌会」
  昭和24年に湧別市街で横尾富子と橘高春子が主唱し、菊地マサ、宮田秀子、内山時子ら20余名で、婦人同好会「いさり火会」が発足した。短歌中心ではあったが、耳苦しい解釈を避けて俳句同好者も加わっていた。
  昭和27年7月に短歌のみの「いさり火短歌会」に改め、小川清一郎(麦葉)を主幹に会誌「いさり火」の創刊をみた。その後、全町に会員がひろがり、辰田安隆、野田牧聖、島田梅洞、渡辺精護、愛洲白雨、佐藤修一らが活躍した。
  昭和29年文化協会に加入し、湧別神社祭典歌会、町文化祭行事への参加、講師を招へいしての研究会、四季折々の清遊短歌会、ぬはり支部との合同短歌会を活発に行い、開町60周年には「いさり火50号記念歌集」を、同70周年には100号記恋歌誌「いさり火特集号」を発刊した。
■「ぬはり短歌会」湧別支部
  昭和32年5月に桜の名所五鹿山(上湧別町)で「ぬはり短歌会」湧別支部の結成短歌会が開かれ、辰田安隆、清原薫風、秋元実、野田牧聖、永井俊郎らが入会、次いで和田水棹、横尾富子、横川寿美、島田梅洞らも入会し、同年8月にはサロマ湖畔丁寧で、同35年8月には遠軽町瞰望岩下で、湧別支部主催の全北見地区ぬはり合同短歌大会が聞かれた。
■芭露「とうか会」
  郷土に密着した創作と研究を通じて相互の親和を図り、地域文化に寄与しようと、昭和41年9月10日に島田梅洞、松村千代一、根布谷千恵子、井野時代、今野幸子らによって、短歌のつどい「とうか会」が発足した。
  毎月10日を例会としたのが会名のおこりで、以来1回の休みもないという。ほかにも吟行会、毎月の作品を集録して年1回の作品果「とうか」発行(既に16回刊行)をつづけ、昭和51年には発会10周年記念号「とうか」も発刊している。その後同56年に15周年記念号「とうか」を続刊している。

囲碁のつどい  昭和10年以来、戦時中もつどいの輪を継続してきた湧別囲碁同好会は、戦後も存続して一般同好者も自由に参加できる行事を実施するなど、大衆化につとめてきたが、戦後、芭露方面にも囲碁のつどいが誕生した。
■湧別囲碁同好会
  戦後にいたり大口丑定か村長公宅を会場とするなど、年2回の囲碁大会を催し、市街をはじめ川西方面からも多くの参加があって盛会になった。また昭和20年代には芭露との交流も行われ、いっぼう公民館の建設により会場難が緩和され、碁盤も備えられて、相当の普及をみた。
その後、國松楠郎が協力して会場の提供などして恒例の大会を行って経過し、いっぽう酒井清光の計らいで、大野五段(札幌・日本棋院所属)を時折招いて研修会を開いたりしたが、昭和41年に國松楠郎の病気で自然消滅の形となった。
  昭和42年になって杉本邦男、小林政治、本下隆吉らが中心となり、5〜6名で同好会をつくり、会員宅を会場にしてつどいを継続していたが、同54年4月にいたって、田川信男を会長とする「湧別囲碁同好会」の再興をみ た。現在会員10余名をかぞえ、独自の名人戦、本因坊戦、碁聖戦のほか、年間を前期と後期にわけて、会員総当りによるリーグ戦も行っている。
■芭露囲碁倶楽部
  終戦後、相互の親和を第一に、併せて囲碁の普及発展にと、佐々木義光、久保敏博、上田九八、佐々木光夫らが呼びかけて、毎年の新年碁会を開くようになったのが発端で、単なる囲碁倶楽部として座長に土田九八を据えた20名ほどのつどいとなった。
  その後、転出者もあって長田政雄、尾山昌己らが存続に尽力し、昭和27年1月の例会で毎月第2土曜日を例会日とし、月当番(輪番割)により会員宅を巡回して例会を開くようになった。昭和36年に規約を設けて「芭露囲 碁倶楽部」 (越智修会長)となり、このころから岩代学の計らいで大野五段(札幌・日本棋院所属)を招いて、3 ヵ月に1回の指導を受けるようになったが、入段者も逐年増加し、地区囲碁大会も開催している。
■計呂地囲碁天狗クラブ
  昭和22年に沢西武雄が、「ともすれば不健全な手なぐさみ(例えば花札賭博など)に走りやすい傾向にあった戦後の農村の精神的荒廃」を憂えて、健全娯楽育成と囲碁を通じて人生を語り合うため、囲碁同好の士を糾合して20余名でクラブ(沢西武雄会長)の発会をみた。
 毎月1回、輪番で会員宅を会場とした例会がもたれ、申し合わせにより8級に達した人には、天狗クラブの「天」の一字を入れた名号が授与されるというアイデアもあって、和気あいあいのつどいとなった。
 しかし、沢西武雄の転出、そのあと会長を継いだ渡辺芳良の死去で、昭和46年にクラブの活動は休止された。

音楽のつどい   戦後の暗くよどんだ世相に一陣の涼風を送り込んだのは、「リンゴの歌」をはじめとする明るく弾んだ歌曲のメロデーとリズムであった。それに、いち早く反応したのが楽団「郭公」であった。また、以前は良家の娘が手ほどきを受けるのがせいぜいで、庶民には無関係であった筝曲(琴)のつどいが現れたのも、平和と自由に根ざした新しい息吹であった。
 その後、義務教育の音楽科の充実で音楽水準が高まり、郡部では可能性の乏しかったコーラスグループが実現したのも、特記すべきことであった。
■楽団「郭公」
  湧別音楽協会の楽団「郭公」は、戦後の陰うつな空気をぬぐうかのように、平和の使者に変身した。蔦保諧見をりーダーに、畠山朝堂、鈴木栄吉、窪内勇ら10余名が、前楽団の楽器を譲り受けて発足したもので、共同募金演芸会、のど自慢大会、神社祭典余興演芸などに活躍するかたわら、独自の発表会も行っていたが、昭和26年にりーダー(編曲なども担当)の病弱で自然消滅となった。
 その後、4〜5名でピアノやサクスフォーンを入れてタンゴバンド化し、軽音楽を志したが、昭和30年代になって立ち消えとなった。
■湧別混声合唱団
  昭和29年7月18日に、本町では初の本格系コーラスグループ「湧別混声合唱団」が発足した。中川誠一、中川富司(ともに学校教員)を中心に男女30名ほどのつどいで、湧別小学校音楽室で練習を重ね、同年11月7日に公民館で開かれた「音楽の夕」に初出演し、「お江戸日本橋」 「泉のほとり」 「浦のあけくれ」 「花」などのハーモニーを披露して注目を浴び、以来、各種の音楽行事で歌いつづけたが、昭和34年ころ指導者の転出などで消滅した。
■酒井社中「玄奏会」
  昭和24年に山田流(正系)筝曲師範の村上登代が、湧別市街の酒井清光方に社中を結成し、「玄奏会」というつどいを発足させ、毎週2回ずつ門弟20余名に指南を行い、湧別神社祭典や文化祭には筝曲演奏会を開いて町民に披露していたが、昭和43年に社中を閉止した。
■吉塚社中
  昭和30年に山田流筝曲師範の吉塚道子が、4号線に社中を発足させ、週1回門弟30名ほどに指南していたが、同37年に保育園設立で吉塚道子が保母に就任したため、社中は閉止された。

演劇のつどい  戦時〜戦後混迷期に沈黙を余儀なくされていた青年層の演劇活動は、若い情熱と敏感な時代感覚の進取で、再び脚光を浴びたが、それらについては後の「青年団体の文化活動」の項を参照されたい。
■湧別文化青年団{演劇クラブ}
 昭和21年5月に「湧別文化青年団」が結成され、その活動の中で演劇クラブが発足した。花村昭弥、伊藤一夫、和田晋らが中心となり、主として人情劇や喜劇をとり入れ、沈滞がちな村民の心をなごませるために、楽団「郭公」や「小ざくら会」と協力して地元をはじめ各地の祭典などに公演したが、昭和20年代後半になって自然消滅した。
■道の会
  昭和42年に志撫子、計呂地地区の演劇を志す同志が集まって、石渡輝道をりーダーとする演劇集団「道の会」が発足し、20名ほどの編成で盛りあがりをみせ、定期的な発表公演、全道青年大会への参加で、特異な存在として注目されたが、昭和50年ころ自然消滅した。
華道のつどい  終戦を迎えた時点では忽滑谷武の未生御流会のみであったが、戦後の食糧難による「花より団子」の時期を経て復興し、やがて住宅事情も改善されてくると、ゆとりと雅趣を求めて華道をたしなむ人がふえ、さらに素材や感覚の面でも時代を画するようになった。
 湧別神社祭典や文化祭の展示にも意欲的で、欠かすことのできない彩りを添えているが、師弟関係的要素と人口流動のため、社中の存廃に曲折が多かった。
■未生御流(嵯峨流)
 「雅友会」は昭和53年2月に野村聖子、竹村好永らの計らいで、かって本町で教授をしていた上湧別町の古川竜甫の長子正甫を迎えて、雅友会湧別支部を発足させたもので、野村宅で温習を行っている。
       区分
社中名
師  範 地  区 開 設 備 考
壬生御流会
柴山社中
嵯峨御流雅友会
忽滑谷 武
柴山 鈴子
古川 正甫

芭露
湧別市街
昭18
昭22
昭53
昭50閉止
昭38閉止
■池の坊
 「加藤社中」は加藤美代子が昭和35年10月に創立したもので、当初は10人ほどの弟子であったが、現在は20余名をかぞえ、祭典や文化祭の行事に毎年参加している。昭和51ねんには池の坊華道コンクールに入賞、同56年には北海道いけ花100人展に出展するなど意欲的な活動を続けている。
       区分
社中名
師  範 地  区 開設 備    考
加 藤 社 中
山 崎 社 中
田 上 社 中
沢 西 社 中
金 森 社 中
湧別華道サークル
加藤美代子
山崎 貞子
田上多恵子
沢西かつ子
金森 久子
金森 久子
湧別市街
湧別市街
芭  露
計呂地
湧別市街
湧別市街
昭35
昭35
昭36
昭34
昭28
昭47

昭40閉止
昭41閉止
昭39閉止
昭47サークル移行
昭55休会
■日本華道協会系
 「湧別華道同好会」は、昭和47年に畠山タツ子が同好者7名をもって組織したもので、祭典や文化祭の行事に例年参加している。一時は20余名をかぞえた会員も、現在は8名に減り、毎週例会を開いて研修している。
 「現代花同好会」は、昭和48年に畠山マサ子が呼びかけて、同好者5名で発足したもので、婦人学級や上芭露母と子の家などに出張して教授しているが、現在は会員23名をかぞえ、例会には積極的に参加している。
      区分
会名
師範 地区 開設 備考
湧別華道同好会 畠山タツ子 湧別市街 昭47
現代華道同好会 畠山マサ子 昭48
現代花同好会
上芭露支部
上芭露
西芭露
東芭露
昭51 小林アイ子主宰の
婦人の集い
昭55休会


書道のつどい




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 戦後は筆記様式が大きく変わり、さらにボールペンやタイプライターの台頭で、毛筆の日常生活に占める比重は著しく減退した。
 学校教育においても習字教育の比重は後退し、毛筆の実用価値は時代の流れの中に消え去ろうとしたとき、美を求める芸術書道を標ぼうして、市井の習字教室や書道塾が各地に出現し、毛筆の伝統を継承しようとする動きがみられるようになり、「ペン習字」という分野もひらけて、書に興味と関心を抱く人たちのサークル活動が行われるようになった。
■ 湧別書道部
 調整施行記念文化祭(昭28)に書道作品も数々出展されたのがきっかけとなって、次第に同士がつどうようになり、個人的な営みが10名ほどの輪にひろがり、湧別小学校の富田一雄らの音頭で、昭和30年代半ばにサークル「湧別書道部」が誕生し、学習会を開いたり、書道誌に入会して添削を受けたり、文化行事に出展したりしていたが、富田一雄の転出により消滅した。
■ 書道教室
 昭和40年代初めに上湧別の浅井静渓が、本町に書道教室を開いて児童生徒を主体に教授していたが、同50年ころ一時閉止となり、同53年に再会して、真宗寺(元保育所跡)で週一回の例会指導を行っている。
■ 計呂地書道同好会
 昭和49年に村口初男が主宰して、林ヤエら10名ほどで発会したのが「計呂地書道同好会」で、毎週一回の例会指導で腕をみがき、50名前後の大所帯に成長し、町文化祭や遠軽地区7ヶ町村移動文化展などに例年出品している。
■ 日本習字連盟芭露支部
 芭露、上芭露方面の地域青少年を対象に、小林清春が主宰して、昭和45年に「日本習字連盟芭露支部」を発足した。50名ぐらいの会員が例会を開いて研修しているが、父母の会の後援組織を持ち、所属系統の書道展に入選するなどしている。
■ 日本習字湧別同好会
 昭和51年4月に伊藤義幸、井谷早苗、小泉清子らによる「日本習字湧別同好会」が発足した。遠軽地区七ヶ町村移動文化展や町文化祭に出品するほか、例会や講習会参加で、レベルの高い歩みをつづけている。
写真のつどい  戦前戦時中は一般がカメラを所持することは珍しく、一般の人たちの家族写真や記念写真、見合い写真などは、市井の営業写真館に依頼するのが通例であったが、戦後復興とともに精密機器産業の技術革新もあって、カメラの生産普及が著しく、カメラ愛好家が急増して、やがて造形美(芸術性)を追求する姿勢が芽生え、アマチュア・カメラマンという通用語が生まれた。
■ 湧別カメラ同好会
 昭和28年ころの湧別神社祭典行事打合会や文化祭設立準備会などに、すでに写真部門代表として高野宏之が参画しており、同29年には「湧別カメラ同好会」(岩淵数彦会長、約30名)の結集をみているから、時期と会員数からみて俳句、短歌と並ぶ文化団体であったことがうかがえるが、その後、岩淵数彦の転出などがあって活動を休止した。次の湧別カメラクラブの前身といえる。
■ 湧別カメラクラブ
 カメラ熱の高まりから新たな組織化の必要を感じ、高野宏一、浜本亘、遠峰徹弥、黒木保雄らの呼びかけにより、昭和40年10月に規約を整えて「湧別カメラクラブ」が発足した。引きつづき神社奉納展、町文化祭に参加するほか、撮影会、例月作品研究会を行い、その成果は全道展など多くの入選を果たし、昭和50年には10周年写真集発刊を行っている。また、町開基100年には古今写真展を企画するなど、幅広い歩みをつづけている。
■ 芭露カメラクラブ
 昭和44年10月に岩代学、北山正義らが中心となって、芭露カメラ愛好者に呼びかけ、「芭露カメラクラブ」が結成された。会員の相互研修、作品の芭露駅展示、町文化祭への出品、撮影会などを行ってきたが、昭和53年で会を閉止した。
園芸のつどい  戦時中から戦後にかけての食糧難は、食糧不足を補うため、花壇はもちろん空き地という空き地は南瓜、馬鈴薯、玉蜀黍、野菜の畑と化していたが、復興とともに花づくりが家庭園芸として復活し、経済復興とともに庭園造形なども個々に楽しむようになった。
■ 湧別菊花同好会
 昭和31年に谷口勇の肝いりで、菊花栽培に興味を持つ人々の申し合わせによる「湧別菊花同好会」が生まれた。初めは役場中心の小グループであったが、次第に同好の輪が広がり、同39年には20名ほどになったので、組織的な強化をはかり、高瀬隆資を会長とした団体に衣がえした。半田要が栽培の秘訣をガリ版印刷して配布したり、北見から講師を招いて研究会を催すなど研究を積むかたわら、文化の日を中心に菊花展覧会を開催して町民の目を楽しませていたが、昭和48年に消滅した。
■ 湧別町家園同好会
 多田藤雄、茂手木一夫、木村幸雄、長岡義見らによって、昭和50年2月に発足したもので、芭露方面が本拠で、上芭露と計呂地には支部もある40余名の同好グループである。日常の家庭園芸技術の研究交流と、神社祭典や文化祭の展示部門への参加に取り組んでいる。
■ 湧別愛石・盆栽会
 昭和30年ころ銘石愛蔵者たちが島崎卯一を会長に「湧別銘石会」というグループを作って展示会や研磨技術の交流をしていたが、大きなものは庭、小さなものは床の間・客間・玄関にいたるまで、盆栽との関係が密接なところから、昭和43年ころに千葉敏らが「湧別銘石・盆栽会」に衣がえしたが、同47年に消滅した。
民謡と邦舞のつどい  戦後の社会事情はアメリカ流の影響を大きく受けて横文字式に塗り変わる傾向にあった。そんな中で「小ざくら会」は昭和30年ころまで活躍した。そして、風土にはぐくまれた民謡や風土を映した日本舞踊など、伝統芸能を伝承し、そのよさを楽しもうとする機運が醸成された。
■ 湧別民謡同好会
 昭和36年に阿部文男、佐藤三千四郎、大館三郎、工藤正男らが発起人となり同好会を結成したが、当初は「民謡舞踊同好会」と称していた。
 昭和44年に「湧別民謡同好会」と改称し、郷土色豊かな日本民謡にふれて、親睦と研さんに励むとともに、盆踊り、町文化祭、老人クラブ慰問、各種発表会にも意欲的に出演している。
■ 計呂地民謡同好会
 昭和48年に小野巌、荻原千代子、真壁喜市らの呼びかけで、10余名が集まって「計呂地民謡同好会」の発足をみた。遠軽の中村師範の指導を受け、地元の催しや町文化祭に出演を続けている。
■ 上芭露民謡同好会
 昭和53年10月に清野宏、沢辺市太郎、加茂義茂らの呼びかけで、15名による「上芭露民謡同好会」の発足をみた。「地域に民謡の灯りを」ということで、盆踊り、神社祭典、老人慰問などに一役かっている。
■ 芭露日舞同好会
 昭和44年6月に岩代学、今野幸子らの呼びかけで、日舞に関心を持つ有志数名が、西川流教師の山田右子を招いて、芭露公民館で週1回指導を受けたのがきっかけとなり、30名ほどで「芭露日舞同好会」の発足となった。
 同46年に山田右子が転出したあとは、若柳流の若柳吉美(中湧別)の指導を受けている。
町文化祭での発表会、敬老会や公的祝宴のアトラクション、芭露神社の山車(だし)などに参加している。
■ 湧別「わらべ会」
 子供対象の舞踊のつどいとして、木戸光太郎や林恵美子の呼びかけで、昭和48年10月に誕生し、一時は子ども達20名ほどが林恵美子の指導で、郷土色豊かな創作舞踊に取り組んでいたが、57年4月に「翠新流福寿美会」に改め対象も成人となった。

 
詩吟のつどい  詩吟も日本の伝統芸能の一つで、戦時中は士気を鼓舞する営みとして、訓練集会などで詩吟の心得のあるものが、戦記的な漢詩を朗々と吟じたり、吟詠にあわせて剣舞を披露したものであったが、本町にサークル的な詩吟のつどいはみられなかった。
 昭和41年の湧別吟友会の発足を皮切りに、詩吟愛好者のサークルづくりが盛りあがり、2〜3年の間に、ほぼ町内かくちに会が結成されたが、特記すべきことは、女性吟士の台頭が目だってきていることであり、どの会も吟道の錬磨と吟舞の研修怠りなく、町文化祭や交流会に積極的に参加している。
■ 湧別吟友会<岳翠流吟剣詩舞道湧別支部>
 昭和41年7月に佐藤岳翠(国風流の高弟)が吟道普及のため来町したのを機に、渡辺佐久真、谷口みさ、木下正徳、半田愛子らを中心に「吟友会」を結成した。同43年に佐藤岳翠が独立して岳翠流を創設したときから、その傘下に入り25名のサークルに成長した。
 毎週例会を開いて相互研修に励み、会員から、全道大会で優勝および入賞者を出すなど成果が認められて、昭和50年には町文化奨励賞を受けた。この会の特色の一つに漢詩の創作指導と研修があるが、これは郷土に根ざした自作や会友作の詩を吟じて、より深い交流を深めようという意図に発している。
■ 湧別吟声会<日本国風流国暁会湧別支部>
 昭和42年に高野サキ、荻原せん、南川保らが呼びかけて、「湧別吟声会」を発足させた。国風流の流れをくむサークルで、週1回の例会で研修と交流を深めている。
■ 芭露吟声会<日本国風流国暁会芭露支部>
 昭和42年10月1日に島田梅十が提唱して、湖陵中学校で詩吟会を開いたのがきっかけとなり、同年12月に公民館の計らいで詩吟サークル創立準備会がもたれ、小湊薫、井上良夫、川田美江、林ハツエらの呼びかけで翌43年1月に「芭露吟友会」が発足した。
 国風流の流れをくみ、毎週定例会を開いて研修し、文化祭や老人クラブ慰問などに出演している。
■ 上芭露吟嶺会<国壮流上芭露吟嶺支部>
 昭和42年3月に藤原正重、高木喜助、清野宏ら7名ほどの有志が、国壮流の「上芭露吟嶺会」を創立した。毎月1回の研修会を開き、昭和52年4月には母と子の家で創立10周年記念式典を催した。
■ 計呂地吟声会<日本国風流国暁会計呂地支部>
 昭和43年5月に栄重義、林勝弥らの呼びかけ「計呂地吟声会」が発足した。真壁喜市を中心に毎週1回の研修会を開き、文化祭や老人クラブ慰問に出演している。

洋舞のつどい  戦後、お目見えした新興サークルで異色なのはダンスのつどいで、時代の流れを反映したものといえるが、婦人層の参加が積極なのが特色である。
■ フォークダンスのつどい
 昭和48年4月に公民館活動の一環として、高橋幸一(小学校教員)を講師とするダンス教室が開かれたのがきっかけとなり、和田なか、高野町子、鮎沢信江らのよびかけで「湧別フォークダンス同好会」の発足となった。そして昭和50年同57年には管内フォークダンス大会を開催するなど、他町村との交流の輪も広げている。
 昭和49年には荻原千代子らの呼びかけで、「計呂地フォークダンス同好会」が誕生、同52年3月には馬場利男、三浦正巳、藤田清幸らの呼びかけで「上芭露フォークダンス同好会」が誕生、さらに同54年11月には高島富子らのよびかけで、東に「さくらフォークダンスサークル」が誕生した。
 それぞれに例会を持っているが、気軽に参加し、気軽に楽しめることが魅力となって、会員間の友愛のきずながたかまり、家事や労働から解放されたひとときが、婦人たちの精神年齢の不老化に役立っており、開基百年に協賛し管内大会が盛大に催された。
■ 湧別町ダンス研究会
 ワルツなどクラシックなものから、タンゴなどポピュラーなもの、さらには近代風のモダンダンスまで、幅広い研究を行って社交ダンスのなんたるかを学び、技術を習得して、ダンスのよさを楽しもうというのが発会の趣旨で、昭和50年4月に野村和成、高橋幸一、窪内睦らが同士を集めて「湧別ダンス研究会」の発会となった。
 以来、紋別市の仙野講師の指導で例会を重ねているが、現在は窪内睦が指導に当たり、ダンスを通じて相互の親睦と健康に資するほか、例年チャリティ・ダンスパーテーも開いている。

その他のつどい  慨述してきたものは、町内に複数以上の単位組織(つどい)がある文化活動であるが、ほかにも次の1分野1組織の同好会活動の足跡がある。
■ 湧別茶道同好会
 昭和40年ころ湧別市街に中川昭子の主宰する社中があって、20名ほどの門弟に茶道教授を行っていたが、まもなく、立ち消えになったらしく、昭和41年には「湧別茶道部」という記録があるだけで、同44年には茶道の記録は消えている。
 こうした流れの灯を再びと、昭和48年1月に佐竹之子師範の指導によって毎週例会がもたれ、荒井カズエ、遠峰美千代らの呼びかけで、「湧別茶道同好会」が発足した。同56年に佐竹之子が転出したが、その後も荒井カズエや遠峰美千代の教授で毎週月曜日に例会が開かれ、毎年の神社祭典や町文化祭に茶の会を催して町民にサービスをしている。
■ 湧別かるた協会
 終戦後の1時期、青少年〜壮年層にかけて、正月の「かるた取り」(百人一首)がブームのように流行したことがあったが、それは数少ない室内の遊びの中で、かるたが血気の若者に適していたからで、敗戦の憂さを吹きとばす盛況であった。きょうほはどこの家、明日はだれそれ宅と、会場を持ち回って「かるた会」が開かれ、青年の新年集会も必ず「かるた会」が催された。
 しかし、その後は若者の間に急速にマージャンが普及して、かるたを忘れたかの感があった。たまたま昭和34年2月に、小林武、野村和成、丸山富男らが全道下の句カルタ大会に参加して、競技規則による整然とした「かるた取り」に接し、組織の必要性を痛感して帰り、なんとか伝統をと会の復活を呼びかけ、豊原正一を会長に20名ほどで「湧別かるた同好会」の発足となった。その後も会員の熱意で20名前後を維持し、昭和49年には「湧別かるた協会」と改称した。事業としては、健全なレクリェーション推進を掲げて、
 昭34 町内対抗かるた大会(毎年開催)、婦人かるた大会
  昭37 オール紋別郡かるた大会
  昭40 北北海道かるた大会
  昭44 職場対抗かるた大会
  昭44 町内子ども会交歓かるた大会後援(毎年開催)

などを実施した。
■ 湧別町絵画サークル
 昭和40年ころ美術に関心を持つ人たちが集まり、和田宏、井上祐光、佐竹尉閲らをリーダーとする「湧別町絵画サークル」が発足し、作品を通じて芸術性を高めたり、美術論を語り合ったり、町文化祭など各種行事に出品したりしていたが、同50年にサークルは解消した。その後、山崎邦子の道展入選などを機に復活の兆しがみえ、56年11月から再発足させて、毎週研修を行っている。
■ 湧別手芸同好会
 余暇を有効に活用して趣味を開発助長するとともに、手作りの楽しさと作品の暖かみを味わおうと、国井直子、増山千恵子らの呼びかけで、昭和51年1月に鍵谷竹代を会長とする「湧別手芸同好会」が発足した。毎月2回の例会で個性的な創作へと領域をひろめ、文化祭ほかの展示会にも出品している。また、公民館講座の手芸教室では、岩間苴枝らが講師として活躍している。

文化団体の推移  戦後再興した文化活動を慨観して観ずることは、戦前に比して著しく多様化して分野が拡大されたことである。これには、
 1) 平和と民主主義により思想、言論、結社などあらゆる面で自由が保証されて、自主性が高まったこと。
 2) 男女平等が実現して、女性の社会進出が増進されたこと。
 3) 文化活動に関わる施設が次第に整えられるとともに、必要な器材や用具が出回るようになったこと。
 4) 生涯教育という立場から、著しく社会教育の充実をみたこと。
などの背景があった。しかし、曲折がなかったわけではない。それは、せっかくの文化の芽が過疎化現象や若者の流出で、むなしく挫折した経過もあるからである。過去10年間の文化団田の推移を次表でみよう。
年次
種別
昭45 昭52 昭55
団体数 会員数 団体数 会員数 団体数 会員数
写 真
文 芸
華 道
茶 道
詩 吟
民 謡
邦 舞
洋 舞
書 道
美 術
演 劇
かるた
手 芸
園 芸
2
4
3
-
5
1

-
1
1
1
1
-
2
21
72
88
47
-
85
22

-
10
10
20
22
-
34
410
2
3
4
-
5
2
3
3
3
-
-
1
1
1
38
38
67
64
-
87
45
71
74
52
-
-
19
14
44
575
1
3
3
-
5
3
2
4
3
-
-
1
1
1
27
15
48
58
10
54
39
31
69
64
-
-
18
12
48
466

青年団体の文化活動  戦後の一時期灯の消えた青年団体の文化活動は、昭和29年に湧別町青年団体協議会の組織確率とともに復活し、芸能や弁論に活発な動きをみせるようになった。
 芸能大会・弁論大会(昭29〜34)、青年大会=芸能・弁論(昭35〜38)、秋期青年大会=芸能・弁論(昭39〜43)、湧青協文化祭(昭44〜56)
と絶えることなく事業が行われ、昭和55年11月23日の湧青協創立30周年記念文化祭では、意見発表、舞踊、演劇、コーラス、歌謡、フォークコンサート、記念映画と多彩なプログラムであった。
 こうした努力の集積の成果として、本町の青年文化活動は、網走支庁管内はもとより、全道〜全国的にも高い水準にあり、次のような実績をのこして、次代の本町文化の担い手として力強い歩みをつづけている。
 昭38・ 8 全道青年大会=演劇(川西青年団)優勝
  昭38・11 全国青年大会=演劇(川西青年団)出場
  昭39・12 管内青年大会=演劇(計呂地青年団)優秀賞、弁論(小川征一)優秀賞、同(桑原トシヱ)努力賞
  昭41・ 8 全道青年大会=意見発表(羽田敏子)努力賞
  昭41・12 管内青年大会=演劇(計呂地青年団)努力賞
  昭42・ 8 全道青年大会=演劇(計志青年会)努力賞
  昭43・ 2 管内青年大会=演劇(計志青年会)最優秀賞、コーラス(歌ごえサークル)最優秀賞
                    意見発表(村川芳子、根布谷健一)優秀賞、同(羽田敏子)努力賞
  昭43・ 8 全道青年大会=演劇(計呂地青年団)努力賞、コーラス同努力賞(金森和子)演技賞
  昭44・ 2 管内青年大会=コーラス(歌ごえサークル)優秀賞、舞踊(土屋昭江)努力賞、意見発表(黒田紀美子)努力賞
  昭46・ 1 管内青年大会=舞踊(東湧青年団)努力賞、弁論(黒田紀美子)奨励賞
  昭47・ 1 管内青年大会=弁論(友沢勇司)努力賞、演劇(川西青年会)努力賞、舞踊(湧別市街青年会)努力賞
  昭48・ 1 管内青年大会=意見発表(伊藤英二)努力賞、演劇(信部内青年団)努力賞
  昭49・ 3 管内青年大会=演劇(計志青年会)優秀賞、舞踊(計志青年会)努力賞、歌謡(木村君子)最優秀賞
  昭50・ 1 管内青年大会=演劇(湧別市街青年会)優秀賞、舞踊(計志青年会)優秀賞、実績発表(佐藤隆文)優秀賞
  昭51・ 1 管内青年大会=演劇(湧別市街青年会)最優秀賞、舞踊(計志青年会)優秀賞
  昭51・ 9 全道青年大会=演劇(湧別市街青年会)努力賞
  昭52・ 1 管内青年大会=演劇(湧別市街青年会)優秀賞、同(横山麻里子)演技賞
  昭53・ 1 管内青年大会=演劇(湧別市街青年会)最優秀賞、同(本間弘子)演劇賞、舞踊(湧別市街青年会)優秀賞、
                    作品展示(伊藤達治)優秀賞
  昭53・ 9 全道青年大会=演劇(湧別市街青年会)最優秀賞、同(桧山範子)最優秀演技賞
  昭53・11 全国青年大会=演劇(湧別市街青年会)最優秀賞および最優秀舞台美術賞

 ついに「日本一」になった湧別市街青年会の演劇活動は、昭和49年からはじめたもので、伊藤英二を中心に錬磨を重ね、同53年に山本節弥作「オホーツクのわらすっこ」を上演して栄冠に輝いた。ストーリーは、
 昭和35年ごろの親方制度の下の漁村が舞台で、学業成績優秀な母子家庭の中学生が定時制高校進学を志すが、親方の拒否にあい、結局あきらめて船に乗り組む・・・・・
というもので、本町の風土とゆかりの深い作品であった。
 昭55・1 管内青年大会=意見発表(横山麻里子)努力賞、演劇(湧青協)4位、同(木戸恵)演技賞
 昭56・1 管内青年大会=演劇(湧青協)最優秀賞、同(木戸恵)最優秀演技賞

  
(4)組織体と主事業
文化協会


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 戦後活発に再興した各種同好サークルやグループは、発足とともに、それぞれの立場、分野で文化活動を展開していたが、個々の活動では村民へのPRや村民の幅広い参加の面で限界があり、独善的な弊も伴って、風土と密着した郷土文化創造の難しいことが認識された。これは、民主主義社会という新しい時代相に処しての反省でもあった。その結果、総合的に充実した文化活動を展開して村民を啓蒙し認識と理解を深めるためには、各サークルやグループ間の有機的な連携と、社会教育と密接に表裏した運営が必要であることが痛感されていた。
 昭和27年に下湧別村公民館が設置されて、社会教育推進体制が本格化するとともに、「郷土社会文化活動の推進と文化団体の育成助長」が標榜されるに及んで、文化協会設立の機運が急速に熱し、昭和28年5月17日に第1回の文化協会設立準備委員会(発起人会)が開かれ、サークルからは、
 千葉敏(書道)、蔦保一夫(俳句)、高野宏之(写真)、酒井清光(箏曲)、橘高春子(短歌)、金森久子(華道)
らが参画して、以後も数次にわたる熱議を重ねた結果、
 団体の活発な文化活動を促進するための育成助長を行い、広く村民文化資質の向上を図ることを目的として、各団体間の連絡を密にし、連帯して合同の行事や村内大会などを企画実施し・・・・
との協議のもとに、6月にとりあえず公民館長を座長とし、各サークルやグループの代表による委員(仮称「下湧別村文化協会」)制度で発足することとした。これは、この年10月1日に町制施行が見込まれていたため、記念文化行事を行うための布石でもあった。そして、9月に湧別神社祭典に合わせて、全村的な総合文化祭が実行され、文化協会設立への絶好の体験となった。
 試行的予備期間をおくという慎重な(めずらしいともいえる)配慮がみのって、島崎卯一を会長とする「湧別町文化協会」が正式に設立され発足したのは、昭和29年9月9日のことであった。ちなみに、発足初年度の事業計画は次のようであった。
 9・14〜16 総合文化展開催(うしお吟社、いさり火短歌会、カメラ同好会、池の坊社中)
  9・16 箏曲演奏会(酒井社中)
  11・7 短歌会(いさり火短歌会)
       音楽の夕べ
  12・26 クリスマス・ダンスパーティー後援
  2・20 全湧別俳句大会(賞品は湧別市街商店寄贈)
       短歌会(いさり火短歌会)
  3・6 小ざくら会舞踊発表会後援

なお、初期の文化協会の構成は、
 うしお吟社(俳句)、いさり火短歌会(短歌)、カメラ同好会(写真)、酒井社中(箏曲)、吉塚社中(同)、池の坊社中(華道)、未生御流会(同)、混声合唱団(音楽)、小ざくら会(舞踊)、地域代表(芭露、東芭露、上芭露、計呂地、信部内、登栄床)、その他(青年団体協議会、婦人団体協議会)
となっていて、委員評議制が継承されていた。現在の加入団体による理事制がとられるようになったのは昭和34年からで、以後の加入団体の推移は次のようである。
    【昭和40年】
種別 会   名 会員数 種別 会   名 会員数
写 真
俳 句
短 歌
民 謡
華 道
書 道
湧別カメラクラブ
うしお吟社
いさり火短歌会
湧別民謡同好会
湧別華道部
湧別書道部
52
53
20
22
16
10
美 術
園 芸
園 芸
かるた
茶 道
湧別絵画サークル
湧別愛石盆栽会
湧別菊花同好会
湧別かるた協会
湧別茶道部
    計
10
22
12
22
20
259

     【昭和55年】
種別 会     名 代表者 会員数 備考
写 真
俳 句
短 歌
 〃
詩 吟
 〃
 〃
 〃
 〃
民 謡
 〃
 〃
邦 舞
 〃
洋 舞
 〃
 〃
 〃
華 道
 〃
 〃
 〃
茶 道
書 道
 〃
園芸
手芸
かるた
湧別カメラクラブ
うしお吟社
いさり火短歌会
芭露とうか会
湧別吟声社
芭露吟声会
湧別吟声会
上芭露吟嶺会
計呂地吟声会
湧別民謡同好会
計呂地民謡同好会
上芭露民謡同好会
芭露日舞同好会
湧別わらべ会
湧別フォークダンス同好会
計呂地フォークダンス同好会
さくらフォークダンス同好会
湧別ダンス同好会
池の坊加藤社中
嵯峨御流雅友会
湧別華道同好会
日本華道現代花同好会
湧別茶道同好会
日本習字湧別同好会
計呂地書道同好会
湧別町家園同好会
湧別手芸同好会
湧別かるた協会
高野 宏一
和田 晋
渡辺 精護
松下千代一
木下 正徳
川田 美江
伊藤 誠司
藤根 正重
真壁 喜市
斉藤 安雄
小野 巌
清野 宏
今野 幸子
木戸幸太郎
木下 スエ
荻原千代子
高島 富子
窪内 睦
加藤美代子
野村 聖子
畠山タツ子
畠山マサ子
佐竹 之子
井谷 早苗
村口 初男
多田 藤雄
国井 直子
豊原 正一
15
18
11
18
25
12




12
12
14
13
20
19
10
35
24


21


38
47
17
18

















昭55・4加入










28団体 460
なお、歴代会長は島崎卯一のあと、坂上堅正(昭33)、羽田宏(昭40)、阿部文男(昭44)、渡辺精護(昭52)とつづいている。

文化協会賞  湧別町文化協会では、町の文化ならびに文化協会の発展向上に著しい功績のあった者を、賞を贈ることを、昭和47年4月1日に規定化し、「湧別町文化協会表彰規定」によって、毎年11月3日の文化の日を中心に表彰を行っている。表彰の種類は、
■ 文化功労賞
 本町および本会の向上発展に著しい功績のあった個人および団体
■ 文化奨励賞
 本町の文化振興に貢献し、今後もその研究、または活動を奨励する必要があるものと認められる個人および団体
の2種で、之までの受賞者は次のとおりである。
 
昭47  和田収=俳句、島田梅十=短歌、小川市十=俳句、蔦保一夫=俳句(以上功労賞)、
うしお吟社=俳句、湧別カメラクラブ=(以上奨励賞)
昭48 いさり火短歌会(奨励賞)
昭49 和田ミサヲ
昭50 湧別吟友会=詩吟(奨励賞)
昭51 湧別民謡同好会、芭露とうか会=短歌(以上奨励賞)
昭53 佐藤三千四郎=民謡(奨励賞)
昭54 河津イツ子=詩吟()奨励賞

祭典奉納行事  現在の「湧別町総合文化祭」の前身であり、基盤となったものに、湧別神社祭奉納文化展があった。昭和28年10月1日の町制施行を前にして、文化協会設立準備の気運のなかで、8月21日に奉納行事の打合せ会が開かれたが、その時の協議事項を抜粋してみると、
 1)名称 「奉納文化展」
 2)参加 俳句および短歌(色紙と短冊)、華道、写真作品の展示。琴の温習会も開催
 3)会場 公民館階上
 4)経費 祭典委員に交渉し、得られた予算の範囲で配分する
 5)日程 14〜16日=文化展、16日=箏曲演奏会
のようにまとめられており、これが基調となって、以来、毎年の文化行事の主役として「奉納文化展」がつづけられ、単位文化団体の増加とともに充実をみたのであった。
文化の日記念行事  現在の「湧別総合文化祭」の、もう一つの前身であり、伏線となったものに、文化の日記念行事があった。祭典奉納行事が、協会加入団体主体で展示会本意であるのに対し、音楽、舞踊、民謡、詩吟、演劇などの舞台発表に主眼がおかれ、初期の文化協会事業活動としては注目すべきものであった。
■ 文化の日記念「音楽の夕」
 日時 昭和29年11月7日
 会場 湧別町公民館
 内容 器楽合奏(湧別小学校)、混声合唱(混声合唱団)、ピアノ独奏(中川富司)、バイオリン独奏(佐藤忠昭)、箏曲(酒井社中)、舞踊など
■ 文化の日記念「音楽と劇と舞踊の夕」
 日時 昭和30年11月6日
 会場 湧別町公民館
 種目 劇、器楽合奏、遊戯、箏曲、合唱、フォークダンスなど
 参加 湧別高等学校、湧別中学校、湧別小学校、湧別保育所、酒井社中、吉塚社中、フォークダンス・クラブ、混声合唱団
町総合文化祭  文化の日の意義を高揚して町民文化の向上発展に資する行事が、現在の「湧別町総合文化祭」の形で実施されるようになったのは、昭和40年からで、文字どおり各関係機関および団体一丸の文化祭となっている。
昭和55年度の実施概要を掲げ、歩みの集積をしのぶ資料とする。
 主催 湧別町文化協会
 主管 湧別町中央公民館、湧別町各文化団体
 後援 湧別町、湧別町教育委員会
■ 展示部門
 期日 昭和55年9月14〜15日
 会場 湧別町中央公民館
 参加 28団体338名

行 事 名 主  管  団  体
い け 花 展
盆  栽  展
写  真  展
手  芸  展
児童生徒書画展
書  道  展

アートフラワー展
俳  句  展
短  歌  展
老人作品展
茶      会
池坊加藤社中、湧別華道同好会、日本華道現代花同好会
湧別町家園同好会
湧別カメラクラブ
湧別手芸同好会
町内小・中学校(7校)
日本習字湧別同好会、計呂地書道同好会
「特別参加」浅井書道教室、藤田書道教室
計呂地親愛婦人学級
湧別うしお俳句会
湧別いさり火短歌会、芭露とうか会
町内老人クラブ(5団体)
湧別茶道同好会

■ 芭露地区移動展
 期日 昭和55年9月30〜10月1日
 会場 芭露畜産センター
 内容 俳句展、書道展、手芸展、写真展、児童生徒書画展、華道展
■ 芸能発表会
 期日 昭和55年11月2日午後1〜4時
 会場 湧別町中央公民館
 参加 10団体96名
 内容 詩吟、邦舞、民謡、民踊踊り、
     さろま湖太鼓など33種目発表
 出演 湧別吟声会、湧別吟友会、芭露吟声会
     上芭露銀嶺会、計呂地吟声会、湧別わらべ会
     芭露日舞同好会、湧別民謡同好会
     上芭露民謡同好会、計呂地民謡同好会
     湧別さろま湖太鼓



■ 町民短歌会
 期日 昭和55年10月26日午前10時〜午後2時
 会場 真宗寺(湯別市街)
 作品 当季雑詠1人2首
 参加 17名
(6)劇場と興業のあと
共楽座  娯楽を求める人間の欲求は、本能的な自然感情で、開拓初期においては同好者が持ち寄った唄や踊りや芝居を楽しみ合ったり、たまに漁場つたいにくる旅芸人を迎えて、回漕店の倉庫などが開放されて芝居や浪花節が上演されたものである。
 明治41年ごろ回漕店幹部の同好者が中心となって、旧漁業協同組合の横付近にバラック建ての芝居小屋を建て、「共楽座」と名づけて、田舎回りの旅役者の演芸を観覧させるようになったが、これが本町の劇場施設の始祖であった。バラックの土間にわらむしろを敷いた粗末な施設ではあったが、娯楽に恵まれない当時としてはかっこうの存在として、暗いランプの証明の中で、ハシケ人夫や漁夫、街の人々が喜々とし、かなりの大入りであったという。
 共楽座には、こんなエピソードもあった。それは明治43年に消防組が創設された当時のこと、消防施設が何もないため、火の見櫓と半鐘を作る資金造成のため、
 村長宮崎簡亮が会長となり、堀川泰宗を副会長に、警察署長西村覚を顧問にして、共楽座で素人演芸会を催した。
ということである。
湧別座  明治43年に、4号線市街に山西三次が、小さな芝居小屋を建てて「湧別座」と称したが、これは、当時4号線が紋別方面への要衛として、浜市街に劣らない繁華街であったことに着目したものであった。
 大正5年に鉄道が開通して中心街が現市街方面に移るとともに、湧別駅前に移転したが、常時大入り満員という好況であったから、相次いで増築が行われ、舞台装置にも、当時としてはめずらしい回転式(回り舞台)がとりいれられたほどであった。
 昭和10年に山西三次の死去で立野長松(中湧別)の手に渡り、このころからトーキー(音声の出る映画)の上映が行われるようになり、入場料金は高かったが、一般から歓迎され人気を集めていた。しかし、同18年3月に失火全焼(管理人焼死)にあい、折悪く煎じ統制経済下で復旧の手当がつかず、33年間にわたった興業の幕を閉じた。
大正座  大正4年に酒井万蔵も市街に劇場を開設した。先述の共楽座のゆかりにちなんで「共楽座」としたが、まもなく「大正座」と改め、翌5年ころには活動写真(無声映画)の上映も行われ、めずらしさで評判を呼んでいたこともあったが、湧別座の反映に押されて経営不振に陥り、同13年ころまでの営業で終幕となった。
芭露劇場  芭露地区でも戸口の増加で娯楽施設の必要性を生じはしたが、企業の域には達せず、年3〜4回他から興行師がきて、学校や青年会館を借りて舞台を仮設して、芝居や映画を催す程度であった。
 昭和14年に太田森治が興行師の許可をとってからは、かなり積極的に興業が行われ、上芭露や東芭露にも興業圏を拡げるようになった。同17年に大衆の要望にそうべく、芭露市街に芝居小屋の建設を企図したが、戦時体制下で許可にならず、窮余の一策として、農事実行組合の共同作業場の名目を借りて建てることにした。しかし、厳しい物資統制で資材割り当てが少なく、ようやく48坪5合を実現したが、長柾葺きの屋根で土間にわらむしろを敷くというバラック同然のものにとどまり、電気もない粗末なものであった。
 戦後21年に、芭露市街に電気の導入が実現したので、いち早く増改築して劇場の認可を受け、「芭露劇場」としてオープンした。その後、26年に経営者は大沢義時に「変わった。

湧楽座  昭和18年に湧別座が焼失して空白が続いていた娯楽機関について、南川保一は戦後いち早く常設館建設計画を樹て、当時も続いていた厳しい物資統制と建築規制の中で、村理事者の協力も得て百方手を尽くし、昭和21年9月に235坪(417名収容)の劇場を完成した。
 なお、劇場名は、公募によって「湧楽座」と名づけられ、大衆娯楽の変遷を綴ることとなった。
平和座  上芭露では、大正末期に高須郁男が芝居小屋を建てて、劇団や浪曲師を呼んで地域の欲求に応えていたが、戦時になって興業ものが減少し、建物の破損も著しくなったので廃止となった。
 昭和23年に矢崎次郎と小山康雄が共同出資で「平和座」を建てて経営したが、採算がとれず6年目で営業の幕を閉じたため、以後は、時たま消防会館で催しが行われるようになった。

中央劇場  計呂地では、如沢次郎が住民の要望にそうべく、昭和33年5月に常設館として「中央劇場」を開設したが、経営は、その後、林勝弥に譲渡され、映画を主として月10回ぐらいの開館がつづけられた。

劇場興業の退潮  戦後に住民の渇望で生まれた@湧楽座A芭露劇場B中央劇場は、それぞれの地域の娯楽の殿堂として愛され親しまれ、時には青年団活動の場としても重宝されてきたが、開基100年史を綴る現在その姿はみられない。その背景には、
 1) 昭和30年代後半から進行したテレビの普及
 2) 同時に進行した過疎化現象
という時の流れがあって、入場者の低迷〜激減現象が表面化し、企業としての採算が成立しなくなったため、廃止に追い込まれたわけである。各劇場の終幕は@昭和45年A同46B同41年であった。
 しかし、これによって娯楽的色彩の催しが本町からすべて姿を消したわけではなく、社会教育や地域の事業として、のちに充実をみた公民館や類似施設で随時開催されて、健全娯楽の灯をともしている。

第3章 体育文化    ページtopへ

(1)スポーツの振興
開拓期の大衆スポーツ  入植者は家が散在し、各戸とも寸暇を惜しんで開墾と耕作に専念していたので、寄り集まって競技を楽しむ機会などあろうはずもなかったし、体育施設や用具も求め得べくもなかった。強いてスポーツといえるものは2人で力くらべのできる角力(相撲)、かけっこ、はだか馬での乗馬、河や湖での水あび(水泳)ぐらいのものであった。
 それが、ささやかながらも神社が建てられ、学校が開設されて運動場(校庭)ができてくると、いくら体系だったスポーツが地区単位におこなわれるようになったというのが、一般的な流れであった。それは祭典余興の相撲と、学校の運動会という形で年中行事となったが、この2つは特別の用具や服装は必要とせず、かんたんに楽しめるという自然の成り行きがあった。
 祭典余興の相撲には、子供から力自慢の壮年まで出場し、近隣の地区や多村からの参加もあって、境内には地区住民の声援がこだまする中で、子供角力、青年角力、力自慢の飛び入り角力が行われたが、こうした光景は、やがて馬頭観音祭や盂蘭盆の余興にも拡大されていった。
 運動会は学校のというよりも、地区の運動会という熱の入れようで、地区内の人すべてが弁当持参で校庭に集まり、小学生もまじって青年や父兄たちも競走や綱引きに興じ、わが子や家族におくる応援の歓声でにぎわったのであった。
 大正2年に東輝青年会の発会記念として、学校と青年合同の大運動会が開催され、えん麦畑跡で盛大に行われた。男は労働者そのままか裸に褌(ふんどし)姿、女は和服にモンペ姿、もちろん素足であった。<上芭露>
が、その情景の一端をものがったっているが、こうした相撲や運動会のしきたりは、現在も受けつがれて、楽しい年中行事となっている。
 めずらしいケースとしては、芭露の草競馬の例がある。明治44,45年とも、大正元(明45)、2年とも伝えられているが、とにかく2回開催されている。馬産振興と住民の娯楽を兼ねて愛馬家が主催したもので、
 馬場は原野道路の6号線橋を起点として、直線部分を走り、4号線をゴールにした。出走馬は芭露地域のほか、計呂地、湧別などからも改良馬10数頭が参加し、ヤンヤの拍手と声援でにぎわったものだった。
 だが、不幸にしてキナウシの桑原清右衛門が馬に蹴られたことが原因で死亡するという事故が起きたため、2回限りで終わってしまった。<今野竹次郎>

剣道の伝来  未成熟な体育環境にあって、剣道の伝来は早かった。明治29年に川西に入地した小松松次が、当時の青年に奨励したのに初まっている。しかし、当時は道具が得がたいのと、青年の気構えがいま一つ冴えなくて盛りあがらず、けいこに励んだのは西沢健一ぐらいであっとという。やがて小松松次も故郷へ帰ってしまった。
 次いで、高知県から一刀流の山崎慶造が来住し、4号線で青年に毎夕けいこをつけてから、湧別の剣道が緒につき、わが国とロシアの風雲急を告げるにいたって剣道熱が高まったのであった。さらに、明治49年代に同じく4号線に石川林作がいて、青少年の指導に励んで、本町の剣道の伝統が形成された。このあたり、当時の川西の剣道熱のもようから推測してみよう。
 山崎慶造のところに毎晩けい古に通った出口助次郎、小川清一郎らは、島村戎三郎校長(明44着任)の助言で学校の教室を借り、数人で夜ごとの練習に励んだが、さらに川西の野津不二三、4号線の石川林作を指導者としてからは、毎夜10数人が参集し、教室の夜は道場化した感があった。
 以来、川西の青年であれば、たとえ3ヶ月でも竹刀(しない)を握らなければ、川西の青年ではないといわれても致しかたないぐらいであった。

近代スポーツの萌芽  開拓にいちおうの目安がつき、集落や村の形が整いはじめ、精神的、肉体的に多少のゆとりがもたらされると、本町にも近代スポーツが徐々に芽生えてきた。
■ マラソン大会
 芭露小学校長弦巻千代三(大9着任)は青年に呼びかけて陸上競技を奨励したが、大正10年8月29日に芭露温根湯64qのマラソン大会を行った。参加者は12名で、ランニングシャツとパンツに草鞋(わらじ)ばきのいでたち。午前6時39分芭露郵便局をスタート、志撫子、佐呂間、留辺蘂などで青年団や、婦人から茶湯、牛乳、卵、キャラメルなどの接待を受け、一人の落伍もなく温根湯大江本家にゴールインした。<芭露>
■ 水泳競技大会
 観海流の水泳特技をもっていた弦巻校長は、学校の体操の時間は芭露川の入り口まで引率して水泳を指導していたが、大正13年7月土用丑(どよううし)の日に、芭露川口=サロマ湖岸で第1回の水泳競技大会を開催した。低学年は浅瀬で徒競走、旗取り、騎馬戦など、高学年や青年は深いところで100b・500bの競泳を行った。<芭露>
■ 他校選手招待リレー
 志撫子校が運動会に他校選手を招待してリレー競走をはじめたのは、大正10年であった。参加したのは芭露、上芭露、東芭露、計呂地、床丹の各校と、それに志撫子校が加わって6校であった。志撫子はそのとき6年生の男子が6名で、その中から4人の選手が出場したのだから、全員選手みたいなものであった。<志撫子>
 ※このリレーは志撫子以前に慨にあったことは確かであるが、明確な記録のある志撫子を例としてあげた。なお、この他校リレーは国民学校時代を経て、昭和30年ころまで行われていた。
■ 陸上競技大会
陸上競技の台頭は青年団活動によって促進された。詳細は次項にゆずるとして、大正10年ころの青年団の意気込みの一端をみると、次のようであった。
 特に心身鍛練行事としての陸上競技は、連合青年団主催で地区対抗あるいは町村対抗などで連年盛んにおこなわれ、体育増進に資するものがあった。昼の疲れもなんのその、深夜にいたるも道路面をはしっている青年の努力がみられた。
■ 体育デー
 国民体育の振興を目的として、大正13年から10月3日を「体育デー」とすることが示され、毎年この日には学校や青年団を中心に体操会や小運動会が開催され、戦争突入後までつづいたのが、現在の「体育の日」の前身といえよう。
■ 野球の対外試合
 昭和年代に入って北海タイムス社(いまの北海道新聞)主催の全道少年野球大会が開花し、小学校の野球チームが各地に編成されるようになり、湧別尋常高等小学校でも昭和7,8年ころに対外試合をするようになり、父兄の関心を集めたという。しかし対外試合は日華事変突入とともに、教育上弊害を生ずることを理由に抑制され、全道少年野球大会も中止になった。
 社会人の野球は、昭和16年に湧別市街の同好者によって一チームが編成され、しばしば隣接町村と親善試合を行ったが、戦時体制の進展で衰退を余儀なくされた。

 
青年団のスポーツ活動  地区での青年団単位の競技会が村内の団対抗競技大会に発展し、村連合青年団陸上競技大会は、当時の村内スポーツのメインエベントの座に据えられた。大正9年10月に道庁学務部に社会教育主事が置かれ、積極的な青年団の指導に乗り出すとともに、同10年7月に第1回「網走支庁管内連合青年団大会」が開催され、以来、陸上競技を中心に水準が大きく向上し、予選をかねる村内大会もますます盛会となった。ちなみに、大正7年10月25日に湧別尋常高等小学校で開催された村連合青年団大会のもようは、次のように記録されている。
 一、参加団体と出席会員数
 下湧別青年会25人、北斗青年会21人、北光青年会19人、北星青年会12人、川西青年会16人,信部内農友会11人、東青年会12人、大正青年会14人、志武士青年会17人、東輝青年会13人、北華青年会12人、計11団体182名なり(不参加は床丹、勇立、西の沢3団体なり)
 二、競技種目
 200ヤード競走、400ヤード競走、500ヤード競走、600ヤード競走、1200ヤード競走、マラソン競走、1分間競走、載のう競走、はん檣競走、俵かつぎ競走、2人3脚、自転車競走、砲丸投、撃剣、角力

さらに、昭和10年当時の支庁管内大会競技種目をみると、次のように変わり、近代スポーツへの脱皮のほどがうかがえる。
 ・競 走 100b、200b、400b、800b、1500b、800bリレー
 ・跳 躍 走幅跳、走高跳
 ・投てき 砲丸投、円盤投
 ・特殊目 角力、剣道、兎跳、俵運び、綱引き

(2)戦時教育の流れ
格技奨励  日華事変の勃発でスポーツにも「勤倹尚武」が唱導され、相撲、柔道、剣道、さらに強兵鍛錬のため銃剣術と女子の薙刀の奨励となり、武技、格技が国民体育となった。
 小学校〜国民学校の体育では、1年生から相撲が必修とされ、運動場の一隅に土俵が設けられたのがそれであり、青年学校にも銃剣術の防具が備えられ、それまで在郷軍人が時々行っていた銃剣術訓練が生徒にも課せられるようになったのもそれである。また、招魂祭や神社祭典にも在郷軍人の銃剣術試合が、余興として盛大に催されたものである。
近代スポーツの抑制  格技の奨励と表裏して進行したのが近代スポーツの抑制で、特に敵性排除の名のもとに球技に対する制限が厳しくなった。例えば、野球の場合には敵性語(英語)追放で「ストライク」を「良球一つ」「良球二つ」、「セーフ」を「良し」などと唱えるよう指導したほどである。また、運動用品の生産が止まり入手困難となったから、球技はいや応なしに下火となった。
 陸上競技においても、次第に戦技的、産業生産的、耐久的な色彩のものが加えられたから、青年団の大会にも、次のような珍しい種目がまかりとおるようになった。
 草刈競走、俵差し、棒押し、俵運びリレー、障害物競走、手榴弾投てき<村連合青年団>
しかし、こうしたほほえましい青年の大会も、昭和15年ころからは下降線をたどり、若いエネルギーは、すべて戦技訓練と銃後活動に振り向けられていった。
 そのあらわれの一つが、陸上競技を極度に変形させた「国防競技」であり、完全武装(銃と剣を所持し背のう着用)のいでたちで、障害乗越え競走、手榴弾投てき競走、斥候競走などを団体競技として実施したものである。
体力章検定


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 どちらかといえばスポーツらしい形のものとして、ただ一つ登場したのが「体力章検定」と呼ばれるテストの実施であった。昭和16〜17年に行われ、あとは戦局の急迫で途絶えたのが、個人の能力の測定を目的としたものであった。
 100b疾走、2000b耐久走、土俵運搬(300s、50b)=以上所要タイム、手榴弾投げ、走幅跳=以上飛距離、懸垂屈臂(鉄棒)=回数
を行い、記録により上級、中級、初級にランクされ、体力章が付与されるもので、おもに青年学校生徒や一般青壮年を対象に年1回の実施であった。
(3)戦後復活の軌跡
武道の禁止  戦後の近代スポーツの復興は早かったが、荒廃と空虚の中にあって、行政よりも、産業よりも、なによりも早く蘇生した陰に、GHQ(連合軍総司令部)の積極的なスポーツ奨励の指示があったことは見逃せない。
その一方では、
 柔道、剣道、銃剣術、薙刀は排外思想の顕現であり、「武士道」につながるものである。
として、GHQの指示で禁止された。相撲だけは例外とされたが、これは武器を持たないから、裸で凶器の隠蔽がないからということであったらしい。
 これらの制限、禁止は、昭和26年の講和条約の発効で、わが国の自主行政権が回復するとともに解除され、柔道と剣道は相撲とともに、スポーツとして愛好の輪をひろげるようになった。
近代スポーツの復活  GHQの積極的なスポーツ奨励は、文部省を通じて都道府県にも示達され、道庁でも昭和21年7月に各市町村長に対して、「夏期運動週間実施要項」なるものを通達したが、これもスポーツ奨励の一端であった。実施要項は8月5日から1週間にわたるもので、趣旨として、
 明朗闊達な気分の醸成を主眼とし、国家再建の根基は国民体育の培養にある旨を徹底せしむるために、新ラジオ体操、健歩会、登山、マラソン競走大会、相撲、水泳、各種競技大会、陸上競技大会について、土地の実情を勘案し、生産を著しく阻害せずになるべく多人数に亘る行事を選定のこと。
が掲げられていた。
食糧難の厳しい環境の中で、青壮年たちはいち早く躍動をみせ、空虚と空腹をひとしき忘れて自由の大気を満喫したのは、スポーツの世界の汚れのない純粋性を知っていたからであった。
■ 野球の人気
 終戦とともにもっとも急激な復活をみせたのが野球で、各職域や地域によるチーム編成が相次ぎ、学校のグランドは球場化し、土曜日の午後や日曜日は、野球のみられぬ日がないありさまとなった。
 こうした状況から、健全な野球人口の育成をはかるため、昭和23年に「湧別野球協会」が結成され、湧別国民学校グランドの古池埋立てによる球場整備、試合日程の調整、少年野球の育成などに取り組んだ。
■ 陸上競技と相撲
 戦後の陸上競技の復活は、やはり戦前の主流であった青年組織によってであった。昭和21年11月に下湧別村自治青年連盟が結成されると、湧別地区、計呂地地区、芭露地区の単位組織ごとに、翌年から
 野球大会、陸上競技、相撲大会などを行った。<芭露地区>
よいうような活動をはじめた。
 昭和22年は各町村青年組織の始動にあわせて、7月に遠軽小学校グランドで、復活第1回の網走支庁管内青年団陸上競技大会が、美幌で同じく相撲大会が開催され、本町からも少数の選手が参加して、復活の兆しをみせた。
 そして昭和26年下湧別村青年団体連絡協議会結成により、翌27年には第1回陸上競技記録会、同28年には第1回陸上競技大会のスタートをみている。
スポーツ繁栄の推移  戦後のスポーツ熱は、復興に加えて、著しく多様化して分野を拡大し、戦前をはるかに超える盛況となったが、その背景としては、
 (1) 学校体育の充実
    強化体育のほかに、クラブ活動としてのスポーツの振興が、スポーツ人口の底辺拡大につながった。
 (2) 婦人の開放と種目の多様化
    前項と関連して陸上競技、卓球以外にも庭球、籠球、排球、バトミントン、ソフトボールなど、
    女性にも適した種目が普及し、家庭婦人にまで層が拡大された。
 (3) 社会教育における社会体育の充実
    体育が社会教育に位置づけされて、町ぐるみのスポーツ活動が促進され、体育施設(学校施設も含めて)
    も著しい充実をみた。
 (4) テレビのスポーツ番組の影響
    「観戦する」スポーツが、やがて「体験する」スポーツへの橋渡しとなった。
などの要因があった。それが、やがて同好の輪をひろげて種目単位のスポーツ組織結成へと進み、地域あるいは町内でのスポーツ隆盛の基盤となり、対外交流にも発展した。スポーツ団体の推移をみよう。
     年次
団体名
昭  45 昭  52 昭  54
組織数 加入者数 組織数 加入者数 組織数 加入者数
陸上競技
野   球
ソフトボール
バレーボール
バトミントン
卓   球
庭   球
柔   道
剣   道
弓   道
スキー
スケート
山   岳
   計
-
1
1
1
-
1
-
1
1
1
1
2
1
11
-
119
100
50
-
30
-
40
100
20
54
190
60
763
1
1
1
1
-
1
-
1
1
1
1
1
-
10
24
89
67
20
-
10
-
15
37
34
40
13
-
349
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
-
12
20
100
100
13
33
20
37
16
30
34
40
80
-
523
上の表に記された組織数に該当する団体名称は、次のとおりである。
 湧別町陸上競技協会、湧別町野球連盟、湧別町ソフトボール協会、湧別町バレーボール協会、湧別町バトミントン協会、湧別町卓球協会、湧別テニス同好会、湧別町柔道協会、湧別町剣道連盟、湧別町弓道協会、湧別町スキー協会、湧別スケート同好会、芭露スケート協会、湧別山岳会
青年団体の体育活動   前の項で述べたように陸上競技と相撲で復活し、昭和27年に芭露小学校で陸上競技記録会、翌28年には陸上競技大会と伸展した青年団体連絡協議会の体育活動は、陸上競技を拡大し、昭和29年に第5回「遠軽地区陸上競技大会」を湧別小学校グランドで主催するまでになった。そして、昭和30年代からは、町内における体育活動の領域
 体育大会(昭31〜43)=ソフトボール・卓球・バレーボール・体育祭(昭44〜48)、球技大会(昭49〜)
と若人の祭典にまで盛り上げ、遠軽地区、網走支庁管内、全道の青年大会にも選手を派遣することが多くなったが、昭和44年10月の滝ノ上町における管内青年団体ソフトボール大会では、優勝の栄冠を得ている。
野球協会〜野球連盟  戦後いち早く復活したスポーツである野球界の組織化は早かった。高橋貫一、飯塚力雄、笠野栄、中川昭夫、高野宏之らの発起により昭和23年4月に「下湧別村野球協会」が組織され、役場、漁業協同組合、農業協同組合、亜麻会社、商工団体のチームが参加してスタートした。
 その後「湧別野球連盟」に改組したが、町内各種野球大会を開催するほか、国民体育大会予選、全道大会、道民スポーツ大会にチームを派遣するなどし、道民スポーツ網走大会で優勝を果たしたこともある。一時活動が低迷したこともあったが、近年再び意欲的な活動がみられるようになり、各チームリーグ戦による朝野球も行われている。現況(昭56)は会長が窪内努で、所属会員は9チームである。
剣道協会〜剣道連盟  昭和31年4月に南川保、大口秀和、浅幸夫、松原政一、島田琢郎、茂木昌らの提唱で「湧別町剣道協会」が発足した。発足当初は「遠軽地方剣道連盟」の傘下に入り、町村ごとの支部協会であったが、昭和52年に独立して「湧別町剣道連盟」となった。この間、芭露支部少年部は、昭和33〜34年に2年連続全道大会で準優勝するという成績を収めているが、これは連盟(協会)が町内3つのスポーツ少年団(剣道)の結成と育成に尽力した成果であり、底辺の充実した連盟は年を追って会員が増加している。現況(昭56)は会長が越智修で、所属会員は130名である。
スケート協会  岩代学、松原静夫、北村敏、三浦直樹、橋本政敏らが「青少年の健全育成と冬期間のスポーツ振興」を目的として、昭和42年12月に「湧別町スケート協会」を発足させた。
 湖陵中学校グランドにスケートリンクを設けて、スケート教室を開設したのが最初で、以来、町内氷上運動会やスピード記録会などを恒例行事として開催している。現況(56)は会長が岩代学で、所属会員は80名である。
スキー協会  昭和43年3月に窪内康人、大口小五郎、黒沼昇、小幡昌徳らの呼びかけで、「湧別町スキー協会」が結成され、中湧別の五鹿山スキー場を会場として、町民スキー教室の開設、スキーツアーの実施、基礎技術の講習会開催など、スキーの普及に尽力している。 現況(昭56)は会長が窪内康人で、所属会員は44名である。
 設立から38年経過したスキー協会は、同好会組織から平成5年に脱皮し、協会が日本スキー連盟に加入し、現在(平成18)は基礎スキー少年団(週2日、約16回)、競技スキー少年団(週5日、12月〜4月まで)、未就学児スキー教室(3回)、町内小中学校へのスキー講師派遣事業(1月中旬〜3月初旬まで)を行うほか、スキー検定事業も行えるようになって、スキーツアーも実施している。所属会員は43名である。
柔道協会  岩代学、石渡要助、高橋一郎、山城啓男らの呼びかけで、昭和43年4月に「湧別町柔道協会」が発足し、各種大会の開催や柔道教室の開設に尽力するほか、網走支庁管内や全道大会などにも意欲的に選手を派遣している。特に、
 昭53 全道少年少女柔道選手権大会優勝(西島美紀)
  昭54 全道少年少女柔道選手権大会優勝(岡本博美)
  昭55 全日本女子柔道選手権大会3位入賞(押野初枝)

 また、昭和55年7月に札幌で開催された第3回「全日本女子柔道北海道予選大会」に出場した本町女性勢は、目をみはる大活躍をし、
 押野初枝 66s以下級で優勝
  岡本紀子 66s超級で2位
  岡本博美 61s以下級で3位

の入賞を果たした。さらに押野初枝は9月に東京の武道館で開催された「全日本女子柔道選手権大会」に駒を進め、並みいる全国の強豪を相手に善戦奮闘し、みごと3位に入賞して気を吐き、全国女子柔道強化選手に選ばれるなど、郷土に輝かしい朗報をもたらして、「女三四郎」としての今後の活躍が期待されている。現況(昭56)は会長が石渡要助で、所属会員は21名である。
卓球協会  大衆スポーツとしてのよさを町民に普及させようと、鎌田博、小林武、氏家国夫らが同士に呼びかけて、昭和43年5月に「湧別町卓球協会」を結成し、卓球教室の開設や町民卓球大会の開催など、四季を通じて室内スポーツの普及に寄与している。現況(昭56)は会長が石川孝司で、所属会員は15名である。
弓道協会                                 昭和43年9月に清水清一、谷口勇、吉田英男、黒木保雄、工藤輝雄らの発起で、弓道のつどいが発足した。発足当初は「遠軽弓道会湧別支部」として経過したが、総合体育館の中に弓道場が設けられてから、「湧別弓道会」として独立発展してきた。
 個人あるいは団体で各級大会に出場し、全道優勝、支管管内優勝など数多い入賞を果たして、湧別弓道会の名を高めるいっぽう、弓道教室を開設して新人の掘り起こしにつとめ、優秀な後継者を育成するほか、昭和53年には創立10周年を記念して体育館敷地に桜の苗木を自主的に植樹するなど、環境美化と精神衛生にも協力している。現況(昭56)は会長が清水清一で、所属会員は32名である。
ソフトボール協会  昭和44年4月に発足した「湧別町ソフトボール協会」は、越智修、田中巌、山城敬男、岩松宣夫らの提唱で発足したもので、農漁村の大衆スポーツとして、レクリエーションの中にソフトボールを位置づけようという目的に発している。
 当初は芭露が主体の歩みであったが、ソフトボールの簡易で大衆的な内容がうけて、逐年ソフトボール愛好者の増加をみ、競技人口は年齢、性別を超えてひろがり、ついに体育協会加盟団体としてはトップの会員数をかずえるまでに成長した。
 10月10日の体育の日に例年ソフトボール大会を開催するほか、会長旗争奪戦など多彩な競技会が催され、球音と歓声は全町各地域にこだましている。現況(昭56)は会長が茂木昌で、所属会員は150名をかぞえている。
陸上競技協会  高須義夫、藤原春巳、相沢隆治、袴田信郎、片岡一郎、畠山和幸らの発起で、昭和45年5月に遠軽から独立して発足した「湧別町陸上競技協会」は、設立当初は各地区、職場などを全町的に網羅した組織で事業が行われ、記録会、地区対抗陸上競技大会、道民スポーツ町予選会などを開催した。
 その後、協会の充実とともに道民スポーツ大会、両湧別大会、町内少年少女記録会などの企画や行事に積極的に参画協力してきたが、近年やや低調の兆しをみせ、マラソン部門が各種大会に出場して、復活の期待を抱かせている。現況(昭56)は会長が加口司で、所属会員は21名である。
バトミントン協会  昭和52年10月に発会した「湧別町バトミントン協会」は、総合体育館での各種スポーツの振興に刺激されて、佐々木年男、上野隆幸、高崎茂人、茂手木政志バトミントン同好の士が誘い合って結成したもので、例会研修や一泊合宿研修などで腕をみがき、遠軽地区大会で入賞するまでに成長した。現況(昭56)は会長が茂手木政志で、所属会員は25名である。
(4)社会体育の振興
体育指導委員  昭和36年に「スポーツ振興法」が制定された事に関連して、本町では同40年に町教育委員会規則による「体育指導委員」制度をスタートさせた。体育指導委員は、社会体育の円満な振興を図ることを目的として、教育委員会が、
  社会的信望があり、スポーツに関する深い関心と理解をもち、その職務を行うのに必要な熱意と能力を有する者。の中から15名を選任(任期2年)するもので、任務は次のとおりである。
 (1) 住民の求めに応じてスポーツの実技指導を行う。
 (2) 住民のスポーツ活動促進のための組織の育成。
 (3) 教育委員会、学校、その他行政機関の行うスポーツ行事または事業に関し協力する。
 (4) スポーツ団体その他団体の行うスポーツに関する行事または事業に関し、求めに応じ協力する。
 (5) 住民一般に対しスポーツについての理解を深める。
 (6) 常に住民のスポーツ振興のための始動助言を行う。
体育協会  各種スポーツ団体やグループが相次いで誕生し、それぞれの分野でスポーツ活動の普及拡大を行い、同好者の交流を深めていたが、単位ごとの活動はスポーツ熱が高まれば高まるほど、施設利用や日程の面などで障害を感ずるようになった。
 いっぽう、増加するスポーツ人口とそれに見合う体育施設の造成の必要など、全町的に総合的な施策の必要にも迫られる状況となったことから、各団体やグループの有機的な連携の必要性が痛感され、
 (1) 町内各種体育団体の連絡協調
 (2) 各種スポーツの競技会、講習会、研究会の開催
を趣旨として、昭和33年4月1日に「湧別町体育協会」の結成をみた。各団体からの3名の評議員制で合議される仕組みで、発足以来、町の社会教育と表裏一体となって、町民スポーツの振興と体位の向上に取り組んでいるが、加盟団体の推移は次のようである。
     【昭和45】 ( )はチーム、支部数
団 体 名 加入者数
湧別町野球連盟
湧別町柔道協会
湧別町剣道連盟
湧別町スキー協会
湧別町バレーボール協会
湧別町ソフトボール協会
湧別町山岳会
湧別町スケート同好会
芭露スケート協会
湧別町卓球協会
遠軽弓道会湧別支部
      計
(9)119
40
(3)100
54
50
100
60
130
60
30
20
763
     【昭和55年】
団 体 名 会長 加入者数
湧別弓道会
湧別町剣道連盟
湧別町野球連盟
湧別町柔道協会
湧別町卓球協会
湧別町陸上競技協会
湧別町バトミントン協会
湧別町ソフトボール協会
湧別町スキー協会
湧別町スケート協会
      計
清水清一
越智 修
高野宏之
石渡 要助
石川 孝司
加口 司
茂手木 政志
茂木 昌
窪内 康人
岩代 学
10団体
34
115
90
21
15
20
20
120
40
80
555
なお、歴代会長は村上庄一(昭33)、坂口 要(昭38)、岩代 学(昭43〜)が就任している。

スポーツ少年団  主として12〜15歳の少年少女を対象に、地域において一つのスポーツを通して、たくましい身体と明朗な精神を養うことを目的としたのが、「スポーツ少年団」であり、はっきりした後援者(母集団)と指導者によって支えられ、日本スポーツ少年団本部に登録される公式団体である。本町におけるスポーツ少年団育成の動きは、昭和40年代になって公式なものとなったが、その台頭とも伏線ともみられる歴史は古く、次のような足跡があった。
 昭和28年から町教育委員会と町連合PTAの主催による少年野球大会が、湧別小学校で開催されるようになった。スポーツ少年団結成前に芭露(昭29)、湧別(昭33)、若竹(上芭露)各スポーツ少年団が剣道を志して非公式ながら活動を開始している。
次に昭和56年現在のスポーツ少年団の概要を掲げよう。
              区分
団体名
結  成  時 昭和56現在
年 月 指導者 団員数 指導者 団員数(女)
湧別剣道スポーツ少年団 昭43・4 吉田 英男
大口小五郎
25 大口小五郎 59(13)
芭露剣道スポーツ少年団 昭43・4 大口 秀和 63 長田 洋之
泉   瞭
山口 秋寿
36(10)
上芭露若竹剣道スポーツ少年団 昭43・4 藤原 春巳
小林 清春
井上 剛
13 小林 清春
井上 剛
22(0)
湧別柔道スポーツ少年団 昭43・4 石渡 要助
高橋 一郎
14 上野 法美
石垣 博幸
18(9)
湧別野球スポーツ少年団 昭50・4 木戸 周平
佐藤 博
12 木戸 周平
佐藤 博
23(0)
芭露野球スポーツ少年団 昭50・4 工藤 勉 13 工藤 勉 21(0)
湧別バレーボールスポーツ少年団 昭55・4 河村 隆夫
藤井 明弘
11 河村 隆夫
藤井 明弘
13(13)
登栄床野球スポーツ少年団 昭56・4 本間 吉弘
町元 直春
平山 国夫
15 本間 吉弘
町元 直春
平山 国夫
15(0)
なお、スポーツ少年団は技術研さんばかりでなく、宿泊研修、他スポーツ少年団との交流、社会奉仕も行って、人格形成に励んでいる。
スポーツ同好会  地域スポーツの振興のために、各種体育施設(後項参照)の整備が進み、各種スポーツ教室なども充実してくると、行事やスポーツ教室参加を契機として、同好会の結成がみられるようになった。昭和56年現在のスポーツ同好会の概要は次のとおりである。
        要項
クラブ名
結 成 時 昭56現在
年 月 指導者また
は代表者
会員数 指導者また
は代表者
会員数
湧別ママさん
 バレーボールクラブ
湧別テニスクラブ
湧別卓球同好会
芭露みそのレディース
 バレーボールクラブ
芭露テニスクラブ
湧別ママさん
 バトミントンクラブ
昭46・5

昭52・10
昭52・10
昭53・4

昭54・4
昭54・4
増山智恵子

吉松 勉
小林 武
東海林 勝

新国 洋靖
富永志津子
32

34
30
13

10
12
浅野 道子

吉松 勉
小林 武
東海林 勝

新国 洋靖
藤原 東記
13

41
45
16

22
14
ちなみに結成の同期を類別すると、テニスクラブは高校時代にテニスを経験した者が中心、卓球とバトミントンはスポーツ教室参加者、ママさんバレーは湧別は家庭婦人バレーボール大会を、芭露はファミリースポーツセンター完成を契機としている。
体育施設  一部の都市を除いて、わが国のスポーツは学校施設で育まれてきたというのが、過去の大勢であったが、スポーツが大衆に定着してスポーツ人口が増加し、各種行事が盛んに行われるようになると、学校施設では充足しきれないばかりか、学校教育に支障をもたらす懸念も生ずる傾向となったことから、本町では地域スポーツの振興も勘案して、次のように町営施設を整備している。
ほかに、冬期間のみの施設(臨時)として、町民運動広場と湖陵中学校グランドの2ヶ所に、1周180〜200bのスケートリンクを造成して開放している。
名   称 所在地 完成年月 規模(平方m) 主  要  設  備
湧別町総合体育館 栄町 昭51・11・10 2,518・276 バレーボールコート2面、バスケットボールコート1面、テニスコート1面、バトミントンコート6面、卓球10台
湧別町武道館 栄町 昭50・11・30 691・440 柔道練習用2面、剣道練習用2面、弓道場1立
町民運動広場 栄町 昭52・9・30 10,054・000 ソフトボールコート1面、テニスコート1面、陸上トラック180m
湧別町ファミリー
 スポーツセンター
芭露 昭53・12・10 1,246・940 バレーボールコート2面、バスケットボールコート1面、テニスコート1面、バトミントンコート4面、卓球台8台
湧別町営プール 栄町 昭56・10・30 997・700 25m×16m(7コース)
湧別町営上芭露プール 上芭露 昭49・7・20 200・000 25m×8m(4コース)
湧別町営芭露プール 芭露 昭46・7・27 651・700 25m×15m(6コース)


町民体育祭  各スポーツ団体や体育協会が主催する競技会、大会は数多く、町内のみならず他町村との交流、各級大会への選手派遣もあるが、それらは省略して、ここでは挙町的な町民体育祭について記することとする。
 昭和40,41年は「町民スポーツの日」を設けて体育大会が開かれていたが、同42年から「町民体育祭」として内容も充実されて、同56年で15回をかぞえている。スポーツ人口の増加と種目の多様化に伴う一般町民の参加を勧奨する企画であり、その背景には同36年の「スポーツ振興法」に基づく「体育の日」の制定(昭41)の精神があった。以来10月10日の体育の日を中心に展開された町民体育祭の発展のあとを、第14回の内容を掲げてしのぶこととする。
  主催 湧別町体育協会
  主管 湧別町総合体育館
  後援 湧別町教育委員会
大 会 種 別 会  場 参  加  対  象





ラジオ体操 町民運動広場 町内在住者全般(記念品贈呈)
剣道大会 総合体育館 小学生、中学生。高校生、一般
弓道大会 町弓道場 町内在住者
柔道大会 町武道館 小学生、中学生。高校生、一般
ソフトボール大会 湖陵中グランド 小学生と中学生の混成チーム
ハイキングの集い 総合体育館前 町内在住者全般
10月
12日
マラソン大会 総合体育館前 小学生3q、中学生5q
高校と一般7km、一般女子と40歳以上3km
柔道教室 町武道館 小学生、中学生、高校生、一般
10月
19日
バトミントン大会 総合体育館 小学生、一般男女
11月
 9日
卓球大会 総合体育館 小中学生、一般男女

町民運動会
 伝統を重ねつつある行事に、「町民運動会」がある。昭和48年に第1回大会が開催され、同56年で9回を数える全町民参加の大運動会で、地区対抗で興趣と交流を深めている。第8回の実施概要から、その盛会をしのぶこととする。
 会場 湧別小学校グランド
 期日 昭和55年8月3日
 地区 @登栄床(紺色)A港・曙・緑町(ピンク色)B栄町(緑色)C錦町(白色)
     D信部内・川西(水色)E東・福島(黄色)F芭露第1、第2(紫色)
     G上・東・西芭露(えび茶色)H計呂地・志撫子(赤色)
 得点方法
    ・個人 1位9点〜9位1点(1点刻み)
    ・団体 1位20点〜9位4点(2点刻み)
 主な種目
    ・個人 名所めぐり、徒競走
    ・団体 樽転がし、輪回しリレー、バイアスロンリレー、綱引き、年齢別リレー、玉入れ
         すごろくリレー、むかで競走、距離リレー
なお、当日は会場の一隅に、園芸、ホタテ加工品、牛乳、牛肉、食堂、売店などのサービスコーナーも設けられ、終日町民が家族をあげて楽しさを満喫した。
体育協会賞  湧別町体育協会では、町の体育の振興に貢献した者を表彰し、その名誉を顕彰するために、昭和50年4月1日に「湧別町体育協会表彰規定」を設けた。表彰の種類は次の2種で、選考基準は、
■ 功労賞 本町の体育の指導に特に貢献した個人または団体
 (1) 本町体育全般もしくは地域社会の振興に特に功績のあった者
 (2) 協会あるいは加盟団体の発展に特に功績のあった者
■ 優秀賞 各種競技会において特に優秀な成績を収めた個人または団体
 (1) 日本選手権大会、あるいは全国的大会で特に活躍した者
 (2) 全道選手権大会、あるいは全道的大会で入賞した者
 (3) 管内選手権大会、あるいは管内的大会で優勝もしくは2年連続上位入賞した者
となっており、これまでの受賞者は次のとおりである。
昭50  大口秀和=剣道、小林清春=同、吉田英男=弓道、谷口勇=同、石渡要助=柔道(以上功労賞)
沢向勇二=弓道、黒木保雄=同、工藤輝雄=同、鳴海恒雄=同、湧別弓道会、湧別町野球協会(以上優秀賞)
昭51 天野博=スケート(功労賞)、佐藤昌司=弓道、小林政治=同、島田明子=陸上、湧別弓道会(以上優秀賞)
昭52 安彦英則=スケート(功労賞)、林正=陸上、南川恂一=剣道、越智宗晴=剣道、湧別弓道会(以上優秀賞)
昭53 及川央=元体協事務局長(功労賞)、岩佐好博=弓道、湧別弓道会(以上優秀賞)
昭54 大口小五郎=剣道(功労賞)、長田洋之ー同(優秀賞)
昭55 田宮秀幸=剣道(功労賞)、長田洋之=同(優秀賞)
(5)オリンピックとのかかわり
聖火リレー  昭和47年2月にアジアで初めての冬季オリンピック大会が札幌で開催され、笠谷幸生選手の70b級ジャンプ競技優勝で、日本人としては初の冬季オリンピックの金メダルを獲得するなど、道民の血を湧かせたが、大会に先だって、開会式のときに聖火台に点火する聖火の道内リレーがあった。
 各市町内の青少年代表(15〜20歳)がランナーとして、「聖火リレー」に参加したのであるが、本町からも、
 吉田徳司、三浦栄、藤原修子、石塚数子
の4名が栄誉を担って参加し、留辺蘂町役場前〜温根湯間を、りっぱに走破し大任を果たした。
マラソン選手の合宿  夏季オリンピック大会の華、”マラソン”のトレーニングのため、日本陸上競技連盟が本町を適地に選んで、過去5回にわたって選手の強化合宿を行っている。前の2回は第20回ミュンヘン大会(昭47)、後の3回は第21回モントリオール大会(昭51)に備えたもので、次のように実施されている。
 第1回 昭47・6・6〜20(15日間)=
      コーチ3名、選手4名
 第2回 昭47・7・28〜8・3(7日間)=
      前回と同じ顔ぶれ
 第3回 昭48・5・30〜6・15(15日間)=
      コーチ4名、選手11名
 第4回 昭49・8・5〜14(10日間)=
      コーチ7名、選手5名
 第5回 昭51・6・14〜24(11日間)=
        コーチ4名、選手5名
これらの選手の中には、第1〜2回にはメキシコ大会(昭43)マラソン第2位の君原健二選手、第4〜5回には最近の国際マラソンで好調の宗茂・宗猛の兄弟選手や瀬古利彦選手の顔もみられた。そして日本陸上競技連盟からは、次のような感謝状が届けられ、総合体育館内に掲げられている。
    北海道紋別郡湧別町殿
    第20回オリンピック・ミュンヘン大会並びに第21回オリンピック・モントリオール大会に際しマラソンの強化に対し多大なるご支援を賜りました
    本連盟は茲に基町に感謝状を贈り深甚なる謝意を表します
       昭和51年10月1日
                        財団法人 日本陸上競技連盟
 

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