第 4 章 戦時にいたる運輸事情
第五章 戦後の消長
第4章 戦時にいたる運輸事情
(1) 緒車の普及 (2)自動車運輸業 (3)戦時の運輸統制
第五章 戦後の消長
(1)道路網の拡充 (2)橋梁の整備 (3)車時代の到来 (4)鉄道運輸の変転
(5)旅客自動車の変転 (6)貨物運送業の変容
第4章 戦時にいたる運輸事情
(1) 緒車の普及 | ||||||||||||||||||||||||||
馬車と馬橇 | 冬山造材の盛業は馬橇に創意工夫が施されるようになり、木材の遠路運搬には「ョツ」 「バチバチ」と呼ばれる型式のものが出現した。これらは、ふつうの馬橇にくらべて、重心が低くて安定性があるので、木材を積んでも転覆することが少く、しかも一度に多量の積載が可能であった。 さらに雪に接する平滑面の幅が広くて馬力を軽減する効果もあった。 しかし、これらは木材運搬専用であったから、ふつうの馬橇の需要も馬匹の増加、農業生産の増大とともに増加した。 馬車における変革は、保道車の出現であった。昭和年代の自動車の普及とともに、その古い車輪が金輪の車輪にとってかわり、振動が少く軽快で、道路を痛めないところから「保道車」と呼ばれるようになった。 保有台数の推移は次のようである。
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自転車とオートバイ | 自転車は徒歩、騎馬に代る庶民の足として、その軽便性が重宝され、次第に一般に普及をみるようになり、婦人や子供も利用できることから、住民生活に不可欠の存在となって、役場や産業組合への所用に、買物に、通学にと利用が拡大され、はては子供たちの遊具にもなった。 オートバイは、当初「自動自転車」と和訳されたもので、昭和三〜四年ころ湧別市街の戸田医院が往診用に備えたのが、最初のものといわれており、輸入品で価格が高く大衆的なものではなかった。 芭露での最初の購入者は年代不詳であるが、横山武一といわれている。 保有台数の推移は次のようである。 なお、この自転車台数を戸数で割ってみると、大正一四年は五・二戸に一台、昭一五年は〇・七戸に一合となっている。
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自動車 | 大正11年に伊藤幸二が旅客営業許可を得て、小型フォード6人乗りを導入したのが、本町にお目見えした自動車の最初であり、自家用車としては、昭和五年に上芭露の横山武一商店が商品運搬のために、ページと呼ぶ中古トラックを購入しヽ併せて一般貨物の託送も行ったのが最初である。 同じころ湧別市街の島崎祐次郎がトラックー台を購入して貨物営業の先べんとなっている。 旅客および貨物の営業については次節で詳述するとして、次に自動車保有台数の推移を掲げるが、営業車輌を台む台数である。
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(2)自動車運輸業 | |
乗合自動車のはしり | 客馬車馬橇に代って登場したのが乗合自動車(いまのバス)で、大正11年に伊藤幸二が下湧別〜上湧別間の営業認可を得、小型フオード6人乗り1台で営業したのが最初である。 片道40銭の料金で1日5〜6回随時運行をしたが、その後、経営者は遠藤栄、安藤経歳、阿部忠左衛門と変った。 |
幻の乗合自動車線 | 大正15年から昭和2年にかけて、国鉄に遠佐腺(遠軽〜上芭露〜佐呂間、佐呂間〜網走に結ぶ)の運行計画があるとの情報が流れ、宇山三平らが運動し、一時は測量隊が西芭露〜上芭露にかけて調査もし、期待も大きかったが立ち消えとなった。 これも政治家に踊らされたのだろうか(前章に「幻の鉄道物語」かおる)と、住民はいぶかったという。 |
湧別乗合自動車会社 | 昭和4年ころ浜湧別の武藤富平と阿部忠左衛門が、「湧別乗合自動車会社」を組織し、下湧別〜上湧別(前々項の継続)と、下湧別〜上芭露の定期便を運行したが、うち続く凶作不況のあおりで利用者が激減し、昭和7年に倒産して廃線となってしまった。 |
遠佐線乗合自動車 | 昭和5年に遠軽〜上芭露〜東芭露〜武士を運行する「遠佐線乗合自動車」ができ、上・西・東芭露方面住民の足として喜ばれたが、昭和9年ごろ廃止された。 |
湧別乗合自動車合資会社 | 昭和9年8月に阿部忠左衛門から路線の権利を譲り受けた石田福弥と多田倍三は、「湧別乗合自動車合資会社」を設立し、 昭9・8 下湧別〜上湧別(1日6往復) ″9・11 下湧別〜上芭露(夏季のみ1日3往復) ″10 計呂地一三号まで路線延長 ″11 下湧別〜登栄床 ″11・5 芭露〜東芭露(冬季運休) と運行路線を拡張して、村民の利便に寄与したが、やがて戦争のため各種団体同様に続合された。 昭和9年から統合まで乗務員をしていた石田立幸は、次のように話している。 当時の車輌はシボレーとフォードの5〜6人乗2輌で、中湧別〜上芭露間の乗車賃は70銭、中湧別〜下湧別は10銭だった。 |
貨物運輸会社 | 昭和5年ころ湧別市街の島崎祐次郎が、沼ノ上鉱山の鉱石輸送を請負い、トラック1台を購入して輸送をはじめたのが、貨物自動車営業の最初である。 島崎は、その後事業を拡張して、昭和28年には7台のトラックで、村内の海産物や木材の輸送を行い、島崎が機雷事故で殉職したあとの19年には株式会社に組織され、本社を野付牛に置き、木町の事業は湧別営業所として戦後におよんだ。 |
(3)戦時の運輸統制 | |
軍需本位の鉄道 | 日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)と進む中で、昭和15年2月1一日に「陸運統制令」と「海運銃剣令」が公布され、あらゆる交通運輸機関が、軍需本位の輸送に切り替えられるようになった。 昭15・2・11 三等客車の赤帯標示廃止(左翼思想弾圧に関連) 昭16・7・16 三等寝台車廃止、食堂車の連結削減 昭17・10・11 時刻表の24時間制採用(軍隊に準ずる) 昭19・1・17 鉄道運賃の戦時特別借置要綱発表 昭19・4・1 1等客車、寝台車、食堂車を全廃し、急行列車を削減。 入場券、一時預かりを全廃。 旅行証明書制度実施(不急行の制限)〜乗車券発売制限 昭20・7・6 皇土決戦輸送実施要項決定 こうして終戦を迎えたが、今度は敗戦による終戦処理と社会経済の混乱にふりまわされ、 昭20・12・21 石炭不足により旭川鉄道管理局管内旅客列車3,500`bの運転休止(華鮮人引揚後の炭坑夫不足による) 昭21・1・1 往復切符発売中止 昭21・2・20 定期乗車券の登録制実施 昭22・1・4 急行列車全廃。 長距離旅客の8割抑制。学生定期券の使用停止 と苦難の経過をたどった。 |
乗合自動車会社の統合 | 戦時体制の強化は小企業や団体の整備統合に発展し、運輸通信省(昭和18・鉄道省を改組)の指定により、運行や必要資材の配給を受けることとなり、昭和18年5月に湧別乗合自動車合資会社は、遠軽地区の他の3社とともに合併して「北見乗合自動車株式会社」 (北見バスの前身)となって、既存路線運行を継承した。 しかし、統合後は戦局が悪化し、物資統制の強化から燃料割当の減少と修理部品の配給減が服重り、ついに昭和19年には本町内の運行は中止された。 燃料難の苦い思い出としては、ガソリンの代りに木炭を用い、木炭ガスの発生炉を後部に取付けて走行した光景があった。 |
陸上小運搬業組合 | 専業の小運搬業者は、日華事変勃発を機に、昭和12年に30余名で「挽馬組合」を組織して団結したが、さらに戦時体制の進展に伴い、輸送力の強化を図るための組織整備が行われ、昭和16年に農家の季節稼働者も加えた300余名の「遠軽地方陸上小運搬業組合下湧別事業所」が結成されて、上部組織の統制下におかれることになった。 事業所は芭露に置かれ、飼料の配給、輸送力の配分、造材運搬など大量需要者に対する賃金決定の折衝を行うなど、組合員の福利擁護と輸送統制の大任を果し、昭和26年3月まで存続した。 |
運送業の統合 | 各駅ごとに一店ずつ開業していた運送店は、昭和12年4月5日に「小運送業法」および「日本通運株式会社法」 (政府の半額出資)が公布されて、整備統合が推進されることになった。手初めは一駅一店の制限であったが、本町内は従前から一駅一店体制であったから変動はなかった。 日本通運株式会社は輸送上の重要拠点の運送業吸収から着手して同年10月1日に札幌支部を設置し、逐次、網をひろげて、同17年3月11日には札幌、旭川、稚内など巡内九拠点に小運送業者を統合した支店が開設され、札幌に支社を設置した。これと併行して地方の小運送業者の統合が指導され、同一七半六月二九日に、遠軽駅を中心とする三三駅の運送店が合同して、「I遠軽通運株式会社」が発足し、各運送広は同社の営業所となった。 こうして運送業界は戦力増強の一翼を批って、軍需物資優先輸送に組み込まれていったが、さらに昭和一九年一〇月、遠軽通運株式会社は日本通運株式会社に吸収されて遠軽支店となり、本町の四営業所はその所轄下に配されることになった。 |
第五章 戦後の消長
(1)道路網の拡充 | ||||||||||||||||||||||||||
道路交通の発達 | 戦後の交通体系の著しい特色は、自動車など車輌の普及増加による道路交通の急速な発達と、航空機による空路交通の台頭であった。 特に道路交通の発達は、航空機の主要都市間飛行とちがって、町村の涯にまでおよび、本町においても自動車の普及と道路改良は、隔世の感を呈するまでになった。 昭和26年に北海道開発局が設置されて、開発建設部が配置され、道の土木現業所も充実して、道路行政に積極性が加わり、国道や道道は計画的に改良が加えられ、幹線道路としての機能が著しく向上した。 また、町(村)道においても逐次機械力が導入されて、延長や改修が進んでいる。 とりわけ、本町の幹線道路は、開拓期の開さくで、路線体系のうえでほぼ筋書きができたが、その後、鉄道の開通、集落の発達、河川改修などとかかわって、改良が進行し、拡幅、砂利敷込みが盛んに行われた結果、起伏や曲折の改修が次第に進み、利便は大きく向上するようになった。 町内の道路事情の推移を表にみよう。
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幹線道路網 | 現在の道路管理区分(国道、道道、町道)になった昭和30年代の幹線道路としては、次のように国道1路線、道道2路線であった。 2級国道 信部内〜四号線〜七号線経由計呂地(昭36昇格) 道 道 @湧別〜上湧別線(昭29・3・30指定) A遠軽〜芭露線(昭32・3・30指定) その後、国道、道道はもちろん、町道の整備改良が進んだ結果、 昭40・3 2級国道が「国道238号線」として告示される 昭40・3・26 芭露停車場線が道道に昇格 昭44・6・18 湧別停車場サロマ湖線が道道に昇格 昭45・3・31 計呂地停車場計呂地線が道道に昇格(のち計呂地停車場線は町道に移管、残りが 道道「計呂地〜若佐線」となる」 をみて、国道1路線、道道5路線となって現在にいたっている。 昭和55年度末の延長は表のとおりである。
道道湧別停車場サロマ湖線 道道計呂地若佐線 |
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町道網 | 昭和35年現在で、町内道路延長の約80%を占める町道は、里道の時代から数多くの認定、新設、改良、廃止を径て今日におよんでいるが、それは開拓の推移、集落の消長と深くかかわっていた。 幹線道路から分枝して地区に通ずる道路、さらにそれから迷路のように入り込む私道、地区と地区を結ぶ山道など、現在の町道とは比較にならぬ悪路が、住民の手で体裁が整えられ、補修されて、やがて村道に認定された思い出や、せっかく新道を開さくして村(町)道にしたが、住民の離農離散で廃屋と同じように廃路となった思い出が秘められているのである。 しかし、総体的には社会状勢や住民生活の近代化に伴って、それに合致した路線拡充が図られて経過し、特に戦後は、その傾向に著しいものがある。 いくつか証左をあげれば、 @ 社会情勢を反映して、昭和24年11村費によるトラック1台の購入など、村道補強の緊要かつ急務に備えた。 A トラックは昭和30年2台に増強し、道路愛護組合の協力で、トラック輸送の川砂利を敷き込み、延長271`余の町道は逐次補強され、自動車通行に支障のない状態となった。 B 河川や沢ぞいに単縦線の形で地区が伸び、総体的には復縦線の形になっている芭露方面では、各単縦線聞を短絡する連絡道路の必要にせまられ、自衛隊の協力出勤によって、次の開通をみている。 昭39 上芭露〜志撫子連絡道路 〃41 東芭露〜西芭露連絡道路 C 路線数のうえで、昭和42年の123本が、同35年には169本にふえている。 D 格付別による延長が次のように推移している。
なお、昭和55年の町道は、次のとおりである。 (●印は1級町道)
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道路舗装 | 砂利道がアスファルトで舗装されるようになって、道路構造と交通事情は新たな時代に入ったが、この近代的な道路舗装は主として大都市とその周辺から進められ、中小都市におよび、昭和30年代後半から本町内でも国道、道道の改良にあわせて舗装に着手した。 手はじめは、 昭和36年に道営事業で港町基線道路元標を起点とした1,020bと、湧別駅前通を施工・・・・・・ で、本町では初の本格舗装道路が実現し、市街地の様相を一変させた。 その後、国道および道道を中心に舗装が着々と進行し、 昭50 国道238号線の町内全区間舗装完成、道道湧別停車場サロマ湖線の改良舗装完成 もあって、昭和55年では、表のように舗装化が進んでいる。
昭50 国道238号線の町内全区間舗装完成、道道湧別停車場サロマ潮線の改良舗装完成 もあって、昭和55年現在では、表のように舗装化か進んでいる。 |
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側溝施設 | がっては、下水路で事足りた路傍の水路も、戦後は生活様式の転変により環境衛生が叫ばれて、市街地では道路改良にあわせた側溝施設の必要に迫られるようになり、併せて火防用水の通水も考えて、湧別市街地の側溝施設計画がなされた。 昭和26年に道営事業として着手し、4ヵ年で東側を完成、同30〜31年の2ヵ年で西側を完成したが、事業費は半額を町費負担(一部受益者負担)の補助事業の形で行われた。 |
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歩道敷設 | 幹線道路の諸車交通量の増加は、道路の改良とともに進行し、各種営業車および自家用車の急増と大型車輌の実現から、歩行者の安全が憂慮されるようになり、交通安全の啓蒙と併行して、市街地および車輌通行量の過密地帯に歩道が敷設されるよへになった。 昭43 湧別市街の歩道完成 わ皮切りに逐次進行し、昭和55年では次のとおり敷設されている。
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除雪体制 | 戦前戦中は冬も自勁車が走行することは稀であり、冬になると馬橇のみが運輸機関となるのが常態であ〈ったが、戦後復興と経済成長で生活が近代化され自動車の普及で産業活動や消費流通の行動半径が急速に拡大した。 このため、道路の通年走行がのぞまれるようになり、開発建設部(国道)や上木現業所(道道)では、戦後、通年走行に必要な冬期間除雪体制を整え、大型機械を導入して除雪に当るようになった。 その結果、昭和55年現在では、本町内の国道および道道は全路線(100%)の除雪が行われている。 町道についても、 バス営業者は冬期運行の確保に、除雪車を備え、降雪や吹雪のつど営業路線の除雪を行うようになった。 町でも昭和28年道路整備にブルドーザー1台を購入、冬期間はもっぱら町道主要幹線の除雪に当らせた。 また、酪農助長策として農協の協力を求め、現在では除雪車輌4台が効率的に巡行、集乳路線の除雪も迅速に行われている。(昭40当時) という経過があり、その後、次のように逐年除雪路線が延長され、
こうした冬期間の道路除雪は、集乳路線と通学路の確保以外に、防火および急救などの面からも重視されており、佐藤信雄(西芭露)は、過ぎし日の除雪の苦労を、 冬期、殊に吹雪のあとなどは、急病人でも発生したらという懸念から、住民が一致協力、総出動で、スコップ、馬橇と各人の道具を持って、1日でも2日でも完通するまで出役した。1冬に3度も総出役で、峠の道を掘ったこともあり、昭和30年代後期まで統いた。 落ち残りのナラの葉を燃やし、冷い弁当を食べた苦い経験も、いまはなつかしい思い出になった。 と述懐している。 また、登米床には次のようなエピソードが語り維がれている。 昭和35年3月のこと、数日つづきの大吹雪で登栄床の交通が途絶えたとき、折悪しく出産―−役場に医師(助産婦)の派遣を求めたが、出張不可能と医師に断られ、役場では遠軽の自衛隊に出動を要請した。 自衛隊からスキー隊15名がスノーボートを曳いて来湧、助産婦をボートにくくりつけて夕刻吹雪をついて出発し、約2時間で三里浜に到運した。 助産婦がかけつける間もなく無事出産。 地区では大勢出て会館に迎え、魚汁を馳走して接待するなど大喜びだった。 午後9時ごろ湧別に帰着した隊員と助産婦の感慨もひとしおであった。 なお、このとき1台の雪上車も来湧したが、以前除雪した雪が道路両側に高く固く積まれ、その中に柔かな雪が平らに積っているため運行が危ぶまれ、スキーとスノーボートにしたのだという。 こうした冬の難事も、改良路面が高いので交通が杜絶することもなくなり、生活の不安が取り除かれたわけである。 |
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開発建設部と土木現業所 | 町(村)道以外の道路の建設および維持管理については、網走開発建設部(北海道開発局所管)と網走土木現某所(北海道所管)が現在当っているが、この2つの機関は、もとは1つのものであったが、次の経過で2分されたものである。 明35 北海道庁拓殖課「網走派出所」 ″39 北海道庁第6部「国費工事課網走派出所」 ″43 北海道庁「網走土木派出所」 大11 北海道庁「網走土木事務所」 昭14 北海道庁「網走土木現業所」 (土木事務所、築港事務所、治水事務所を統合) 昭26 北海道開発局設置により「網走開発建設部」を分割(国費工事を開発建設耶に移譲) 両機関は道路と橋梁のほか、河川改修、農地開発など広範な国費、道費土木事業を担当しており、本町関係には、次の出先機関を設置している。 網走開発建設部 遠軽出張所 遠軽道路改良事業所 湧別川上湧別改修事業所 湧別農業開発事業所 網走土木現業所 遠軽出張所 |
(2)橋梁の整備 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
町道橋の減少 | 終戦当時の本町における村道の橋梁数は、あわせて約130橋をかぞえたが、現在ではほぼその半数に減っている。 これは道路改良と河川改修が進行した結果によるもので、永久構造化とあわせて、洪水など災害による交通傷害を著しく緩和した。 次に町道の架橋状況の推移を掲げよう。 【架橋数】
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初の永久橋 | 昭和12年ころ、芭露原野道路8号線の村道(いまは廃道)の小湊金吉宅付近に鉄筋コンクリートの底付箱型橋がかけられたのが、本町初の永久橋といわれている。 なお、前項の表で昭和26年の永久橋が13橋とあり、同42年より多いが、これは、その後、路線改良などにより廃道になったものである。 |
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架橋の永久構造化 | 主要橋梁が洪水で流失した記録は概述したところであり、湧別大橋など特に長大橋の永久構造化は、住民の多年の宿願であったが、戦争と戦後の混乱などから建設が保留され、昭和30年代になって、ようやく実現を見るにいたった。 また、以来、永久構造化が着実な進行を見せた背景には、自動車交通量の増加と、積載重量の大きな大型車輌の出現という事情もあった。 本町では初の長大永久橋となった「湧別大橋」(国道)は、 明治44年、大正10年、昭和14年と流失、耐久度の高い橋梁架設が計画され、昭和17年に4ヵ年の継続事業で架橋に着工、橋脚2基の基礎工事が進行中に、戦時行政の転換で中止のやむなきにいたった。 以後、流失破損などで数回も仮橋の架設替えが行われたが、戦後いちじるしく増犬した自動車の交通量から耐久性が危ぶまれ、本橋架設の陳情請願が関係住民によって熱心に続けられた結果、昭和28年9月に現在の橋の架設に着工、3年の歳月を要して同31年11月に完成した。 本橋は高度の近代橋梁技術を採用し、鋼ワーレントラスおよび鋼ゲルバーガーダー型式併用の延長383・6b×幅員6bの永久橋で、国費1億3、340万4、000円を要した。 という経過があり、その後、部分改修も行われ、水銀灯10基がつけられ、昭和51年には歩道橋が付設された。 また、町道では初の長大永久橋になった「観月橋」には、次の記録がある。 町道の橋梁も木橋から永久橋に架設替えされるすう勢にあり、昭和36年11月3日に芭露原野車線道路の観月橋が、上部がPSコンクリート構造で完成した。この橋は延長50b×幅員5・5bで、総工費1、570万円(4分の3は国庫補助金)を要した。 次に、昭和55年現在の町内の橋梁を記そう。 ■国道
■道道
■町道
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長大橋5傑 | 本町には長さ50b以上の橋梁が6橋あるが、うち1橋(1号橋)は幅員3bの木橋なので、永久橋5傑が本町の長大橋5傑として偉容と景観を誇っている。
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(3)車時代の到来 | |||||||||||||||||||
馬車と馬橇の末期 | 昭和25年といえば、戦後の混乱の中から希望と活力が展望され、戦後復興の足がかりをつかんだ時期てあるが、その当時の諸車の保有台数は、次の表のようであった。 これをみてわかることは、乗用としては自転車、運搬用としては馬車と馬橇が、戦前戦中同様に主役の座にあったことである。 しかし、以後の戦後復興と経済成長は、それら保有比率を年々書き換えて、馬車と馬績の数を減少させたが、それは自家用自動車の普及と農業における機械化の進展による結果であった。 つまり、馬匹の減少とともに馬車と馬礒が姿を消したのであるが、馬車と馬橇の統計資料が不明確なので、馬匹飼養の推移から、そのあたりをみよう。 昭30=2、236頭 昭34=1,766頭 昭38=1,394頭 昭42=729頭 昭45=483頭 昭50=127頭 昭53=53頭
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オートバイの盛衰 | 戦後のオートバイ熱は、朝鮮動乱(昭25〜28)による工業生産力の著しい上昇が引き金となり、昭和28、9年ころに自転車に取付ける原動機が開発されて、手ごろな価格で市販されたことから関心を集め、 「ポンポン自転車」の普及となった。次いでオートバイに類する腰かけ型のモーターバイクが国産され、性能の秀れたオートバイの開発とともに、各種二輪自動車の普及が進んだ。 昭30=50台 昭34=268台 昭38=781台 しかし、その後は自家用乗用自動車の台頭で頭打ちとなり、乗用自動車の普及とともに減少傾向をたどった。 |
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自転車の見直し | 戦時中の統制配給と部品不足による修理不如意から、昭和21年には1,208台に減少していたが、戦後復興とともに市場の出回りも回復し、同32年には1,709台をかぞえるまでになり、通学や近距離通行の主役となった。 その後、オートバイや乗用自動車に関心を奪われて青壮年層男女の利用が低減したが、昭和40年代後半から児童用と婦人用の機種開発が著しく進歩し、それに合わせるかのように、レジャーと体育を兼ねた「サイクリング」の動興があって、本町でもサイクリング熱が徐々に波及し、乗用自動車を持つ者でも自転車を購入するようになり、通勤、通学、買い物など以外にも利用され、幼児用自転車の普及も見られるようになった。 |
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自家用自動車の普及 | 馬車と馬植の末期を演出した自動車の普及は戦後における交通運輸の一大革命であった。 しかも、鉄道やバスの営業をもおびやかすまでの主役にのし上ったのであるが、その背景には、 @ 朝鮮動乱を機とした工業科学の向上による国産自動車生産技術の躍進 A 国際貿易の拡大によるガソリン原料の輸入増 B 経済成長による生活水準と消費経済力の向上 C 小回りのきく戸口から戸口への軽便性と快適なスピード D 消費流通の広域化とレジャーや観光の進展に伴う行動半径の広域化 など種々の要因が幾重にもかかわっていた。 本町における普及の動向は、商工関係企業者の貨物本位の自家輸送(営業用)から本格化している。昭和12年に小池澱粉工場がアメリカ製小型四輔車を購入し、翌22年さらに国産大型トラックを購入した例や、同じく21年に村漁業会が軍用トラックの払下げを受けて、水産貨物の託送を行った例が、その端緒を物語っている。 その後、自家営業車は逐年増加し、車種もまた用途によって多様化して、昭和37年3月現在では、次の保有台数に達している。 <陸選局登録数> 貨物用 普通車42台、小型四輪車66台、小型三輪車14台、計121台 乗 用 普通車3台、小型車10台、計13台 合 計 125台 自家用乗用車の普及は、昭和40年代になってから本格化して、過疎による人口減にもかかわらず、他の自家用車を含めて保有台数は、次のように増加した。
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(4)鉄道運輸の変転 | |||||||||||||||||||||||||
湧鋼線の全通 | 戦争のため敷設工事が中断され、西湧鋼線(中湧別〜中佐呂間)、東湧網縁(網走〜常呂)として部分開通していた湧網線は、戦後になって工事が再開され、 昭27・12・6 常呂〜下佐呂間 ″28・10・22 下佐呂間〜中佐呂間 の開通をみて全線間通がなり、支庁所在地である網走との直通路線が実現するとともに、サロマ湖畔産業の振興に大きな刺戟となった。 |
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気動車運行とSL廃止 | 戦後の行政改革で、昭和23年に「日本国有鉄道法」 「公共企業体法」が制定されて、国有鉄道の営業は公共企業体の手によることとなり、翌24年に運輸省所管から分離した「日本国有鉄道公共企業体」(略称「国鉄」)が発足した。これにより企業としての経営改善〜企業合理化が進められることになり、その第一弾として、 @ 未電化路線区間の動力のジーゼル化 A 蒸気機関車(SL)の逐次撤収廃止 が打ち出された。これは、製作費および燃料費のコストを下げ、軽便化によるスピードアップを図り、併せて配置要員および関係施設の削減を目的としたものであった。 名寄線および湧網線にも、 昭31・1 レールバス運転=湧網線 昭31・2 レールバス運転=名寄線 昭31・11 ジーゼルカー(気動車)運転 が開始され、旅客輸送は次第に気動車に移り、貨車牽引もジーゼル機関車に代った。 年を追って数少なくなった蒸気機関車の運行は、全国的な「SLファン」「SLマニア」の出現をみて、本町内の鉄道沿線でも、去りゆくSLの雄姿にカメラを向ける姿がみられたが、 昭50・5・14 名寄線全線から姿を消す 昭50・6・8 湧網線SL最後の日 となって、黒煙と汽笛の余韻が消えた。その往時の面影を伝えるものとして、本町には次の事蹟が残されている。 ■蒸気機関車 「C58139」号 (実物) 昭和51年8月に町が買い取って町体育館前広場に安置した通称「Cゴハチ」機関車で、口ーカル緯貨客車用として次の歴史を特っている。 ・製造年 昭和14年3月29日 ・走行緯 石北緯(網走〜旭川) ・走行粁 224万8、861`b ・廃車年 昭和50年7月18日 ■SLシリーズ切手 昭和50年5月15日発売のシリーズ第4集で、湧網線と国道238号線の交さする床丹踏切付近を通過する「9600」型蒸気機関車の雄姿が紹介された。 ■SL「9600」はがき 芭露郵趣会が企画し、芭露郵便局が後援して、官製ハガキに蒸気機関車「9600」号の雄姿を印刷して発行した(1集3枚)もので、第3集「サロマ湖となつかしのSL」では、湖畔を走る通称「キューロク」を印刷し、次のような解説が付されている。 9600型蒸気機関車は、犬正2〜昭和15年の聞に784両製造された純国産機で、機関車重量60・35d、炭水車重量34・50djで、狭軌でありながら広軌と同じ力を持った機関車です。 わが国の風上に合った貨物用機関車として、全国各地(四国を除く)に配属され「キューロク」と呼ばれて親しまれた。特に北海道においては、地方線の主役として活躍し、その勇姿も昭和50年6月8日を最後に湧網線からその姿を消した。 |
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中間駅の開設 | 昭和24年に町と川西の経費負担(2万円)で、中湧別駅と沼ノ上駅の中間に「旭駅」(旅客専用)の設置をみた。 これは両駅間9・3`の中間に位置する川西地区住民が、湧別、中湧別、沼ノ上のいずれかの駅まで行かなければ鉄道に接することができないという不便を解消したいという陳情が実ったもので、「地区民の歓喜するところであった」という。 次いで、レールバスや気動車の運行によって、その軽便性が都市の市街電車に類似する機能を発揮することから、国鉄の住民サービス即増収方針と地域住民の願いが複合して、既設駅の中間要所に旅客専用の簡易乗降場の設置ができるようになった。設置費の一部を利用地域住民が負担したもので、 昭34・11 4号線、福島、志撫子、川西 に簡易乗陣場が実現し、利用者の多い時間帯の気動車が停車して、通勤通学者、通院者や買い物客などに利便を供するようになった。 簡易乗降者にまつわるエピソードとしては、昭和35年10月24日に、「志撫子乗陣場の志撫子中学校生徒による清掃奉仕」に対して、旭川鉄道管理局長から表彰されたという美談が残されている。 |
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旅客運賃の急騰 |
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駅取扱業務の縮小 | 道路交通の発達による自動車輸送の急激な進展は、鉄道輸送に深刻な影響を及ぼすようになり、
昭34・2 駅長廃止(中湧別駅の管理駅となる)、職員5名に縮小 昭38 6往復の客車が2往復となり職員も2名に縮小 となった。 次いで昭和47年には「国鉄営業体制近代化計画」が発表され、 昭47・2 芭露駅の手小荷物および計呂地駅の手小荷物と貨物取扱廃止 昭47・3 芭露駅と計呂地肌の駅務を民間(日本交通観光社)に委託 昭53・11 湧別駅の貨物取扱廃止 昭57・3 芭露駅を無人化し貨物取扱廃止 が行われて、鉄道黄金時代の面影が年とともに薄れた。 この間の各駅の貨客取扱実績の推移を表にみよう。 |
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赤字地方線廃止問題 | 日本国有鉄道(国鉄)では年々累積する赤字経営対策として、従来も貨物駅の整理、旅客駅業務の民間委託、少人数利用駅の無人化などを行ってきたが、昭和54四年に至って、経営再建の切り札として「特定地方交通線の整理」 (赤字ローカル線の廃止)構想を打ち出し、政令による実施を図ることとした。 そして、これに関する第一次の法案か国会に提出されたのは、昭和54年暮〜55年明けの国会であった。 以来、この問題は全国的に国民の世論を沸とうさせて2年有半を経過したが、歴史的な鉄道と地域の結びつきの深さから、全国各地で廃止反対運動が盛りあがり、その決着はいまだに、どう流動するか予断を許さない状況にある。 この問題は人口密度と産業構造の上から、特に北海道においては深刻な打撃を住民にもたらすものとして、道民の間に危機感が流れ、中でも本町も含めた遠東、道北地域においては予想される対象路線が多いことから、激しい存置運動が展開された。 その経過概要をまとめてみよう。 〔特定地方交通線間係政令〕 (一) 整理基準 @ 旅客の輸送密度が1日1戸当り500人未満の路線 A 旅客の輸送密度が500人以上2,000人未満で、路線の長さが30`未満の路線 (二) 選定基準 輸送密度が4,000人未満の営業線(ただし、昭和60年度まては2,000人未満)から、次のものを除く。 @ ピーク時間、片道1,000人以上のもの A 代替輸送道路が未整備なもの B 積雪による代替輸送道路の不通期間が10日を超えるもの C 普通旅客の平均乗車キロが30`以上であって輸送密度が1,000人以上のもの (三) 選定手順 営業線の長さ、旅客の量、他の営業線との接続態様などを総合的に勘案して、段階的に行うものとし、次に掲げるものを他に先立って選定する。 @ 営業キロが30`以下で、かつ輸送密度が2,000人未満のもの A @以外のもので、営業`が50`以下てあり、かつ輸送密度が500人未満のもの この基準に、単純計算であてはめてみると、網走支庁管内運行の路線では、興浜南緯、渚滑線、名寄線、湧網線、釧網線ヽ池北線ヽ相生線が対象となりヽ石北緯だけが残る状態でヽ管内鉄道網は破滅に等しいものとなる。 その後、関係閣僚協議会の審議により、昭和56年3月2日に、昭和60年までに廃止する対象赤字線として、次の合意がなされた。 〔第一段階の廃止対象〕 実施年度 昭和56〜57年度 道内対象 興浜北線、同南緯、渚滑線、相生線、白糠線、美幸線、万字線、岩内線 〔第二段階の廃止対象〕 実施年度 昭和58〜60年度 道内対象 天北線、羽幌線、名寄線、湧網線、池北緯、標津線、士幌線、広尾線、富内線、胆振線、瀬棚線、松前線、幌内線、歌志内線、深名線 この案のうち第一段階については、同年6月10日に国鉄から運輸大臣に正式に承認申請がなされ、赤字線の整理廃止は本格的な着手をみることとなった。 ちなみに本町内を経由する2線の輸送密度は次のようであった。 名寄線 894(過去五年間の平均) 湧網線 268( ″ ) 名寄線と湧網線を失うことは、本町の民生、物流、産業の安定に大きな脅威となるところであり、しかも関係近隣町村との共存共栄にも影をさすところから、町および町議会を陣頭に管内市町村と連帯して、概要次のような存置運動を展開して経過している。 昭55・3・13 国鉄地方交通緯の確保に関する要望意見書議決 昭55・4・1 名寄緯、渚滑緯、興浜南緯沿線市町村長会議参加=紋別市 昭55・4・11 国鉄地方緯確保対策町内打合せ会議 昭55・4・17 国鉄名寄本緯ほか地方交通緯対策協議会設立総会参加=紋別市 昭55・9・20 国鉄地方交通緯確保網走地区犬会参加=北見市 昭55・11・12〜13 湧網緯確保対策協議会中央陳情(本町と上湧別町合同) 昭55・11・19 網走支庁管内総合開発期成会中央陳情参加 昭56・1・12〜13 網走支庁管内総合開発期成会および国鉄名寄本線ほか地方交通線対策協議会中央陳情参加 昭56・1・23 自由民主党国鉄地方交通線対策プロジェクトチームに対し、町内産業経済団体の協力で電報要請 昭56・1・27〜28 北海道国鉄地方交通線対策協議会および国鉄名寄本線ほか地方交通線対策協議会中央陳情参加 昭56・2・5 国鉄名寄本線ほか地方交通線対策協議会構成市町村長会議参加=紋別市 昭56・3・1〜2 同上 昭56・5・22 国鉄地方交通線関係団体長会議参加=東京 昭56・6・29 国鉄湧網線利用対策打合市町村長会議参加=佐呂間町 |
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オホーツク本線構想 | 赤字地方線廃止問題を契機として、オホーツク海沿いに細分化されている6線と建設中の部分(興浜線)をつないで、稚内〜釧路(500`)を一本化しようという息吹が、沿線自治体間で高まった。 昭56・10 オホーツク縦断鉄道(本線)実現のための期成金発足 このオホーツク縦断鉄道構想は、天北線〜興浜北線〜<未開通区間>〜興浜南緯〜名寄本線〜湧網線〜釧網本線を結んで、道北と道東の幹線を形成しようというもので、寸断された在来線機能を飛躍させようとする意図を持ち、メリットとしては次のことが考えられた。 @ 在来のこま切れルートのダイヤを稚内〜釧路のストレートのダイヤにすることにより、飛躍的に活発な路線になる, A 年間10万dを超える原魚の長距離輸送や、冬場の観光(流水列車など)の目玉にもなる。 以来、各関係方面に建議陳情を行っている。 |
(5)旅客自動車営業の盛衰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北見バス | 昭和21年に路線バス営業の統制が緩和され、復活の気運をみせると、北見乗合自動車株式会社は「北見バス」株式会社に改組して営業を再開した。 昭24・4 戦時中鉄道との併行で認可されなかった遠軽〜中湧別認可 昭24・5・8 湧別〜遠軽1日3往復の運行開始 昭25 湧別市街〜登栄床1日3往復の運行開始(バス利用組合を組織して誘致)、ほかにサロマ湖観光線として夏季貸切バス運行 昭25・9 遠軽〜西芭露〜上芭露1日2往復の運行開始 以来、利用者が増加して、湧別〜遠経線は北見バスのドル箱といわれるようになり、昭和30年代後半には30分ごとの1日25往復にまで増便され、北見行急行使も登場した。 また、遠軽〜上芭露腺も一時は1日4往復に増便される盛況であった。 利用客数の推移は表のようである。
このため、北見バスでは赤字運行に陥った系統の廃線を打ち出し、若佐線(昭44から)、東芭露線(昭45から)、三里浜線(昭49から)の巡行をやめ、残るは湧別線(14往復)と上芭露線(3往復)のみとなった。 なお昭和55年現在では湧網綿19往復(うち6往復は紋別まで=そのうち2往復は急行使)と、上芭露線3往復の運行を行っている。 |
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町営バスのはしり | 戦後、バス運行の復活をみたが、芭露方面の再開をみなかったので、村では村営バス企業を計画し、路線認可を得て、次のように運行を開始した。 昭25・1 湧別〜東芭露(中湧別〜芭露〜上芭露経由)1日3往復 昭27 湧別〜若佐(中湧別〜芭露〜志撫子〜計呂地経由)1日2往復 これら2本の辺地路線は、経営採算の見通しがついた昭和32年に経営権を北紋バスに移譲したが、営業中は石田福弥が委嘱を受けて責任者として運営に当り、その献身的な尽力によって、冬期間もほとんど運休することなく、辺地住民の足が確保されたという。 |
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北紋バス | 昭和26年に「北紋バス」株式会社(紋別)が、国道を経由する紋別〜中湧別線の運行を開始して、緑蔭、信部内、川西方面の住民の足に利便をもたらした。 その後、北紋バスは昭和32年に、前項で記した町営バス2系統の運行を引き継ぎ、同37年に北見バスに移譲するまで運行した。 昭和39年からは車輛の充実と相まって、長距離幹線ルートの運行を志向し、北見バスとの相互乗入れの形で、次の2線の運行を開始した。 ・遠軽線(紋別〜湧別〜遠軽) ・北見線(紋別〜湧別〜遠軽〜北見) この結果、さらに緑蔭、信部内、川西方面住民の利便がますとともに、湧別〜遠軽聞は北見バスの運行と合わせて、「バス銀座通」の観を呈するに至った。 乗客数の推移をみよう。
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過疎バス関係法制 | マイ・カーが普及したものの、それを使えない人たちも少くない。 市街へ買い物に行く、続合された学校へ運う、病院や金融機関へと出かける、役場や農漁協へ用事をたしに行く、社会教育事業や福祉行事に参加するなど、路線バスヘの依存はかなり犬きいものが残されている。 しかし、営利会社である民間バス会社は、いかに公益事業とはいえ、赤字の累積をかかえて、過疎不採算路線の運行を継続することはできないところから、赤字路線廃止の運命となる。 そして町村では、採算は最初から度外視した町村営で、代替バスを、それら民間バス廃止のあとを走らせることになる。 これを「生活路線」と呼び、赤字を覚悟で生活路線を走るバスを「過疎バス」と形容し、法制上、次のような措置がとられている。 ■生活路線の認定基準 運輸省はバス事業者の地方バス助成を行うにあたり、路線を起点から終点まての乗車密度で第1〜3種生活路線に分類した。 第1種は15人以上、第2種は5人以上15人未満、第3種は5人未満で、第1種はバス事業者の責任で運行し、第2〜3種は運行費などを国、道、市町村が補助する仕組みであるが、うち第3種は昭和50年度から5年間で、@他の路線に統合A廃止B代替バス運行−−‐‐などでゼロにするというものである。 ■私バス補助 バス事業者の赤字地方バス路線運行に対する補助には、第2〜3種生活路線に対する赤字補てんと車輛購入費補助がある。 第2種生活路線の赤字補てんは赤字運送経費の3分の1および4分の1を限度として国と道が、残る赤字の6分の1を市町村が持つ。 同じく第3種生活路線は赤字の2分の1を市町村が、国と道が各4分の1を補助するというものである。 ■白バス (代替バス) 地域住民の足を確保するため、道内で町村が代替バスの運行を開始したのは、昭和44年からで、そのほとんど は白ナンバーの自家用車(町村所有)である。 当初、運輸省では自家用自動車の有償運送に難色を示したが、私バスの赤字路線廃止の急増から、「道路運送法」第101条の「公共の福祉を確保するためやむを得ない場合」を適用して、白バスの有償運送を詔めた。 ちなみに佐呂間町の場合は、同法第4条による一般自動車運送事業の認可によるもので、札幌市営交通などと同じ青ナンバーに属している。 ■代替バス補助 地方バス路線維持対策費として、国と運が車輛購入費(1台最高350万円に対し、その90%の3分の2)、および車庫、待合室などの初度開設費(最高限度200万円の3分の2)を補助するほか、道単独で路線維持費として、年間1系統につき、赤字200万円以上に対し100万円まで、200万円未満は2分の1を補助するというものである。 ■スクールバスヘの混乗 文部省では車輛購入費50%を補助しているスクールバスについて、通学児童生徒以外の乗車を認めていなかったが、昭和49年10月の通達で、特に過疎地区のスクールバスについては、「承認を受ければ一般住民の利用も差しつかえなし」と混乗を認めた。 以上は昭和52年現在の法制措置で、本町の町営バスも、これらの措置を受けているものの、「走る赤字、民間バスなら倒産」 「お客ゼロでも運行、点在農家の命綱」といった状態で「足の福祉」にあたっている。 |
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町営バス | 北見バスの赤字路線運行廃止で、町内には次々と3系統の廃止をみた。 これに対処して、町営バスによる代替輸送が計画され、次のとおり3系統の運行が開始され、北見バス廃止前の姿にもどった。 昭45・6 東芭露線(湧別〜中湧別〜芭露〜上芭露〜東芭露) 1日3往復=上芭露で北見バス(遠軽〜上芭露)とダイヤ接続 昭47・1 計呂地線(芭露〜志撫子〜計呂地)1日3往復=芭露で東芭露線とダイヤ接続 昭49・4 三里浜腺(湧別〜登栄床〜三里浜) 1日3往復 さらに、昭和51年4月からは一般性民のスクールバス混乗が認可されて、川西・信部内線、登米床線、東・福島線、西芭露線、志撫子線の各スクールバスを利用できるようになり、辺地住民の足に役立つこと になった。 運行はスクールバス兼町営バスの車輛と、両者兼任の乗務員によって行われているが、自家用車の普及と過疎化にさらされている白バスの営業は、次のように厳しい推移をたどっている。 【輸送乗客数】
【収支決算】 単位・円 △は(−)決算
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湧別ハイヤー | 昭和35年に石川保重がハイヤー・タクシー営業の認可を得て、湧別駅前で開業し、その後同41年に経営は深沢豊が継承して、現在3台で営業している。 |
(6)貨物運送業の変容 | |
最後の馬搬定期便 | これは営業運送ではないが、戦後聞もなくまで20年にわたって続いた名物に、旧漁業協同組合〜漁業会の歴史のかくれた存在として、湧別市街〜三里番屋を1日1往復の資材運送に携わった島根運送があった。 馬搬を委託されて従事していた古竹桝太郎は、次のように回想している。 漁組の資材運搬が本務だったが、登栄床の人たちにいろいろ小用を頼まれて、まるで便利屋みたいな一面もあった。吹雪くと 道が通れるようになるまで休むのだが、登栄床の人たちにとっては、休まれると仕事のうえでも、生活の面でも支障を生ずるので、それこそ登栄床の人が総出で、三里から湧別小学校までの聞の据わり作業をしてくれたものだった。 |
独占集中の排除 | 昭和22年に独占禁止法と過度経済集中排除法が公布されて、戦時中に国策会社として官主導で組織された日本通運株式会社一本の運送業界は解体され、日本通運株式会社は一民間会社となり、複数の開業が認可されるようになった。 本町では、各駅の鉄道貨物取扱にかかわる新規開業はみられなかったが、一般貨物運送業としては、昭和32年5月に古田勉が自動車による小型運送業の認可を得て、湧別市街に「湧別小型運送株式会社」を開業した。湧別小型運送株式会社の経営は、その後、3代の経営者交代があって、昭和44年から現在の福原毅一が社長となって、農産物、水産物、建設資材の運送を主として営業している。 現有車輌は大型車輌17白、重機8台で、町内全域および近隣町村間の運送に当っている。 |
日本通運の経営合理化 | 昭和三五年ころから自動車による輸送比率が伸びて、鉄道輸送にとって代ったため、鉄道貨車の集荷積載、荷おろし配達の量が減少しはじめたので、日本通運では昭和38年から全面的な合理化に取組み取扱量の少い営業所の廃止や統合、または地元の人への委託営業に切り代えるなどを実施した。 この結果、湧別、芭露、計呂地の3営業所は中湧別営業所管下の委託営業となったが、整理はさらに進み、国鉄の合理化による駅務縮小にあわせて、昭和47年に芭露と計呂地、同53年に湧別の委託営業所が廃止されて姿を消した。 従って現在は、本町方面の鉄道貨物の取扱いは中湧別営業所の手にゆだねられている。 |
路線トラック運輸 | 戦後の貨物自動車運輸の一つの形として、鉄道にならった系統路線運輸の台頭があった。 本町にも昭和25,6年当時、遠軽トラック株式会社湧別営業所と、紋別トラック株式会社湧別営業所があったが、自家用車の普及、ホクレン(農業協同組合)や漁業協同組合のトラック事業の発足などがあって、自然消滅の形で閉鎖された。 |