第6編 公安と防災
第1章 治安の備え
第2章 災難の記録
第3章 消 防
(1) 警 察 | |||||||||||||||||||
開拓期の警察 | 3県時代の明治15年12月27日に、根室警察署網走巡査出張所が設置されたのが、北見国最初の警察機関であった.同出張所は翌16年2月19日に根室警察署網走分署となり、紋別に巡査派出所が置かれて、紋別郡にも警察機関が実現した。 次いで、北海道庁時代になって同20年1月15日に、網走分署が網走警察署に昇格して、北見国管内の治安維持を司るところとなった。 しかし、開拓期の広大な北海道に、拓殖行政と警察を分離した形で専任警察を充足することは、行政上のむだであるとした岩村初代長官は、明治20年5月に札幌で聞かれた郡、区長諮問会議での施政方針演説の中で、 茫漠寥なる北海道の曠にして、苟も纔に一聚落を為すの他には必ず郡役所、警察署を設置し、屹然相対して各事務を執り、昭会往復二時間ト手数ヲ費シ、甚シハハ互二職権ノ抵触ヲ論ジテ桔抗相下ラザル……… と指摘し、改革を強調して、行警融合と官吏定員の増員抑止策を実現した。 この結果、郡・区長は警察署長を兼任し、郡・区書記は警部、警部補を兼ね(警部、警部補も郡・区書記を兼任)ることとなり、戸長役場は警察分署を併置して、戸長が警部または警部補を兼ねて分署長となった。このとき紋別巡査派出所は網走警察署紋別分署に昇格して坂本戸長が分署長を兼任し、巡査2名が在勤して紋別郡一円の治安に当るようになった。この制度は、郡役所が廃止され支庁が設置される明治30年11月まで存続したが、その開、地方開発の進展にあわせて兼任を解き、行警分離の借置がとられたようで、 九代戸長高橋重郎、明治二十九年十二月署長免官、引続き戸長の職にあった。<紋別市史> 明治二十九年郡長・戸長の兼任は千島の一署二分署に過ぎなかった。<北海道史> といった記録がある。 当時の網走警察署管下の配備状況を「北海道統計総覧」にみると、表のようであった。 (×印は郡書記および戸長の兼任))
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湧別分署の設置 | 紋別分署管下にあった本町に、湧別巡査駐在所(一説には仮駐在所)が設置されたのは、明治23年と伝えられているが、確たる記録がないので明らかでない。しいて裏付けすれば、 当時、サケ、マスの遡上期になると密漁防止のため、一定期間だけ分署から巡査が派遣され、漁舎の一角を借り 受けて駐在して巡回査察した。 ことが、駐在所の起源とされたのかもしれない。 明治27年以降、農業移民の増加をはじめ市街の形成、屯田兵村の開設などにより、同30年に湧別戸長役場の設置となり、人口5,000人を超える発展をみせたことから、同34年8月15日に網走警察署湧別分署が設置され、紋別分署から署長心得巡査部長白木練太郎が11月に着任し、巡査2名とともに湧別村全域の治安を担当した。 湧別分署管下の問発の進展につれて、明治40年9月に遠軽、同43年6月に屯田(現上湧別市街)、同44年4月に芭露と、それぞれ巡査駐在所の開設をみ、大正4年の分署管下駐在所の設置状況は次のようであった。
明治四十四年四月に芭露にも巡査駐在所の設置があり、現郵便局前、川田商店横に開設をみて下芭露、上芭露、志撫子、計呂地、床丹の広大な地域を受持区域とした。<芭露> 大正七年8月部落寄付と労力奉仕に依って、神社通りの大鳥居脇に駐在所が建設された。爾来、この処に………建物腐朽に依り移転改築の議が起り、昭和四年上芭露部落は東、西両部落の協力により寄付金を得て、労力の面は共同事業にて聖明寺の下隣りに建設を見たのである。<上芭露>
その後、大正10年9月の道庁告示により同年10月1日に紋別分署が紋別警察署に昇格するとともに、紋別郡一円は同署の所轄区域とされ、湧別分署は紋別警察署湧別分署と改められた。これと同時に同告示にもとづき、上表の設置をみた。 大正15年6月5日に大幅な機構改革(地方官制改正)が庁令第61号を以て告示され、分署が廃止されて警察署として独立することになり、湧別分署も湧別警察署に昇格した。次いで同月30日の告示で遠軽警察署が新設されて、湧別警察署の管轄区域は両湧別村に縮小され、さらに同告示で計呂地および渋津内の両巡査駐在所は廃止された。 |
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戦時下の警察 | 昭和10年4月6日に湧別警察署が廃止されて、遠軽警察署管下に編入され、現在の警察機構の原形的な配置となり、本町には遠軽警察署警部補派出所が置かれ、湧別市街第1、同第2、芭露、上芭露の4巡査駐在所を所管したが、さらに同15年4月1日に警部補派出所は巡査部長派出所に編成替えされて戦後におよんでいる。昭和15年の村勢要覧には、次の記録がある。
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民主警察の誕生 | 終戦とともに警察制度は大きな変革をみた。GHQの覚書によって治安警察法廃止以下諸法の改革を求められ、民主警察の道を踏み出すことになった。 昭和22年12月17日に新憲法に基づく「警察法」の公布をみて、大幅な機構改革が行われ、翌23年3月をもって警察は自治体警察と国家地方警察の二本建となった。この制度は、中央集権下下にあった警察を分解して、地方自治と密者させるねらいを持っていたものの、自治体警察は自治体の財政負担加重となって、同列地域警察間に格差を生じたり、広域活動の連絡協調に支障をきたすなど、実情にそぐわなかったから、昭和27年の講和条約発効とともに、3月限りで自治体警察は廃止され、国家地方警察に編入された。 しかし本町は、警察法施行に際して、司法の定める有権者5,000入以上に該当しなかったから、当初から国家地方警察系列におかれ、北見方面遠軽地区警察署の管下におかれていた。また、国家地方警察の発足と同特に湧別市街の 第2巡査駐在所は第1巡査駐在所に吸収され、巡査部長派出所のもとに3巡査駐在所(湧別、芭露、上芭露)配置の形となった。 そして昭和29年7月1日の「新警察法」により、道府県単位の警察制度に移行することとなり、同年9月から 「北海道警察」 (道警)が発足し、本町は北見方面本部が管轄する北海連警察北見方面連軽警察署の管下に置かれて現在にいたっている。 こうして民主警察の体系が確立されたが、風俗的にいえば、終戦までの腰のサーベルが警棒に変り、いかめしい肩章付の詰襟服がネクタイに替わり、ひげを生やして「オイ、コラ」「本官」式であった応対が、庶民的な笑顔と言葉に変節したのであった。 |
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巡査から警察官へ | 現在では「警察」とか「警官」と略称されている警察官は、以前は「巡査」が通称で、事件のまれな地方では巡回査察が主務であったことを裏書きしており、「おまわりさん」の愛称もここから出たものである。 通称が警察官に移行したのは、昭和43年4月1日の機構改革を機としており、このとき各巡査駐在所は 「警察官派出所」と書き改めている。 翌44年には、さらに機構改革があって、宿直勤務を行わない派出所は「警察官駐在所」と改められ、本町の派出所はすべて警察官駐在所となった。 なお、湧別巡査部長派出所は、昭和43年4月1日の機構改革の際に、湧別巡査駐在所と合体して前記のように湧別警察官派出所となり、以後も巡査部長が配置されている。 上芭露警察官駐在所は、昭和37年10月には町の胆入りで上芭露市街の病院横に新築するなどしたが、平穏でとかく閉職なため遠軽の本署に通勤が続くありさまで、いずれは廃止の予感もあった。 昭和47年7月の移動で駐在警察官が空席のままになったとき、地元防犯協会が町長ともども存置運動を続けたが、ついに同49年5月25日に閉所となり、従来の管轄区域は芭露警察官駐在所の管轄に編入された。 |
(2) 防犯と司法機関 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
事犯と非行 | 宗谷場所時代に湧別漁場でアイヌに対する虐待があったことが記録されているが、当時は封建社会で弱肉強食もみられた時代であり、刑法的な幕藩の御定や奉行所の検察が未開の奥地まで行き渡るはずもなかったから、単なる「おとがめ」程度に終っていたらしい。また、開拓初期のころ、遡上するサケ、マスの密漁取締りにきた巡査が、それとなく移住者に漁のやり方を暗示したという話が伝えられているし、鉄道敷設におけるタコ部屋人夫の酷使についても、公然と許されていたわけではなく、請願巡査が工事現場に派遣されていたものの、僅かな人数では充分な取締りが不可能で、大目に見たふしもあったようだと伝えられていて、古い時代の事犯については不明確な点が多いし、記録資料も残されていない。 本町にも司法行政が行きとどくようになってからの経過は、一般的には、犯罪発生が比較的少ない町村とみられてきたが、一面で次のような話が古老によって語り継がれている。 湧別港に出船入船が盛んだったころの浜市街は、自首屋のにぎわいとともに、博徒的な人や破目をはずす遊侠入も、かなり出入りしていたらしく、賭けごとのいざこざや女性(自首)の奪い合いなどで、立ち回りがあり、ときとして刃傷事件もあった。 また、湧別橋の架け替えのとき、乗り込んできた鳶職のなかにやくざがいて、料理屋や飲食店を震えあがらせたという話がある。・・・・・・・・・ある日のこと、紅灯がゆらめく湧別市街の料飯店=入舟にあがり込んでいたやくざが、短刀を畳に突っ立てて女将を脅迫するという事態が発生した。これを報せで聞いた快男児=某(学校の先生とか)が胴巻一つの裸で乗り込み、他に迷惑をおよぼしてはならじと戸外へ呼び(連れ)出し、とにかくおさまりをつけたとか・・・・・ なお、次に遠軽警察署管内の犯罪者の推移を引用するが、これは高度経済成長による景気上昇とは裏腹に、各種のひずみが地方の社会にもたらされ、少年犯罪の増加が社会問題となった世相を映している。
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防犯協会 | 終戦後の混迷した社会相を背景にして、昭和23年8月1日に遠軽警察署への協力団体として[民警懇談会」が結成されて、治安維持に協力したのが防犯協会の前身であるが、本町における動向は明らかでない。 昭和25年に同会を母体として「遠軽地区警察署管内防犯協力会」に改編され、各巡査駐在所区域ごとに支部が設けられて、本町にも、湧別、芭露、上芭露の三支部が結成された。同27年にいたって町内3支部の連絡協調と統一のため連合会が組織され、事務局を役場内に置くようになった。 昭和32年に組織の改善策として「遠軽地区防犯協会」に改めて自主活動の促進を図るとともに、連合会は支部に改められ、3支部は分会と改称された。 支部長には歴代町長が推され、全町的に、 (1) 消防団と提携して行事跡の警備 (2) 春夏、年末の防犯運動と防犯診断 (3) 広報紙や立看板などの広報活動 (4) 防犯灯および防犯連絡所の設置 などを通じて防犯と青少年の非行防止に寄与している。 なお、上芭露分会は、上芭露警察官駐在所廃止後も存続して、芭露警察官駐在所管下の分会として指導員を委嘱し、自主活動を行っている。 |
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保護司 | 大正21年に「少年法」による「嘱託少年保護司」が置かれたが、昭和14年には「司法保護事業法」が公布されて「司法保護委員」に改められた。 同委員は嘱託少年保護司時代の少年院からの他出所者のほか、昭和16年制定の「免囚保護規程」の任務も併せ受持つことになり、刑務所からの未満期出所者と仮釈放者についても、保護観察所の指揮監督のもとに、補導や家庭調整を行い、更生への道をひらくのが任務てあった。本町で委員に任命されたのが誰であるかの記録は、残念ながら見当らない。 戦後は、昭和25年に「保護司法」が制定されて、現在の保護司制度が確立された。起訴猶予音.刑の執行猶予中の者、刑務所からの仮出所者および刑期終了者のほか、保護処分を受けた少年少女などに対する更生、社会復帰、保護を任務とするもので、法務大臣の委嘱を受けて市町村に配置される奉仕者である。本町には、現在6名が委嘱を受けて任務に当っているが、歴代の保護司は次のとおりである。 国技善吾(昭19・‥11〜41・5)、豊原正一 (昭20・3〜27・4、昭33・I〜49・1)、友沢喜作(昭25・5〜41・ 5)、栗田多一郎(昭25・5〜現在)、藤根正重(同)、山口章吾(昭26〜32-H2)、長屋鉄次郎(昭31・I〜40・ 2)、曽根春吉(昭31・1〜42・3)、阿部秀吉(昭31・5〜34・7)、大桃貫竜(昭31’5〜42・5)、小湊金吉 (昭25・5〜26・I)、井谷一男(昭25・5〜27・5)、和田収(昭25・5〜31・5)、越智頼義(同)、高須実(昭 341―(0〜44・10)、沢西武雄(昭34・10?38・4)、樋口久郎(昭40・10〜現在)、渡辺満雄(昭42・10〜45・7)、阿部勝治(昭42・10〜現在)、伊藤誠司(同)、加藤正意(同)、村上家治(昭46・10〜50・10)、佐藤武志(昭50・ 10〜51・11) |
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人権擁護委員 | 昭和24年5月31日に「人権擁護委員法」が公布された。同法は憲法に基づき、国民に保障されている「基本的人権」を擁護し、自由人権思想の言及向上を図るために、全国の市町村に人権擁護委員を配置して、監視と啓蒙を図るとともに、人権相談に応ずることを目的として施行されたもので、昭和28年9月から法務大臣の委嘱によって委員が配置されており、本町の人権擁護委員は次のとおりである。 武藤源久(昭28・9〜32・1)、鍵谷薫(昭32・2〜54・6)、渡部精三(昭35・9〜39・I)、長谷川隆(昭39・2〜現在)、加藤正意(昭54・12〜現在) |
(3) 交通安全 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
交通事故 | 自動車の普及と自動車輸送の広域化は、道路改良の進展とともに通行量の増大と高速化が進み、交通事故が深刻な社会問題となり、「交通戦争」 「交通地獄」という新語を生むにいたった。 本町も、その例外にはなり得ず、痛ましい事故の発生をみているが、本町における事故発生は、遠軽警察署管下7カ町村の中では、特に多い遠軽町に次いで、佐呂間町、上湧別町とともに多発地帯になっている。遠軽警察署のまとめによると、過去10年間の事故の状況は次のようである。
(1) 国道238号線、道道計呂地〜若佐線、同芭露〜遠軽線、同湧別〜上湧別線など拠点市町村を結ぶ本町経由の幹線道路があって、経由車輛が多い。 (2) (1)の道路に道道湧別停車場〜サロマ湖線も加えてレジャー、観光などの周遊車輛が多い。 (3) 鉄道と道路の立体交差施設がなく、平面踏切になっている。 (4) 交通量増加、車軸の大型化に見合うだけの歩行者および自転車通行の施設が整っていない。 などの点があげられてはいるか、要は運転者をはじめとする通行者のマナーの問題であって、一時は、 市街地はずれでマイ・カーを降りて放置し、市街で、あるいはハイヤーで中湧別まで往復して酒を飲み、そのあ とマイ・カーで帰るという警戒の目を盗む手口かおり、それで事故を起した例もあった。 ということである。また、交通事故防止は、広域交通の時代にあっては、単に本町民が懸命の注意と努力を払うだけでは実効を奏することは不可能で、町外からの通行者も一体となった全国的な交通安全運動が推進されなければならなくなっている。例えば、 とりわけ惨状をきわめたのは、昭和56年1月20日の事故で、福島の湧網線の踏切で停止と確認を怠って線路に進入したトラック(タンクローリー)が、列車と衝突大破してトラックの乗務員2名(いずれも釧路市)が即死したという惨事であった。 などは、大きな教訓を選した事故であり、せっかくの町民の交通事故死ゼロ運動にも水をさすものとなった。 |
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交通事故死 ゼロの記録 |
交通事故絶滅の願いは町民のみでなく、全道民、全国民の悲願である。 事故による負傷の後遺症、被害者に対する莫大な賠償金、それらにかかわる本人および家族の精神的苦悩は、加害者たると被害者たるとを問わず計り知れないものがあり、わけても事故によって、あたら有為な人生に終止符をうち、遺族に因果がおおいかぶさる悲惨な現実など、以後の人生を狂わせる例が社会問題となっているからである。 そうしたことから、郷土の面目にかけて各市町村が決起したのが「交通事故死ゼロ作戦」でありヽ「交通事故死ゼロ運動」である。 本町でも町交通安全推進委員会や交通安全協会が音頭をとって、町ぐるみの決起大会や地域ぐるみの決起集会を開催して、「交通事故ゼロの願い」を町民の願いとして結集した。 町内の道路の要所に、交通死ゼロ日数を報知し交通安全を呼びかける 掲示板を設けるとともに、交通安全指導員の配置や交通安全協会員の 奉仕出動による街頭指導を積極的に行ってきたが、昭和54年までは毎年1〜2名の死亡事故が発生して、長期達成はならなかった。 昭和54年9月2日に発生した死亡事故のあと、3日からのゼロ行進が本町の過去最長期間で、同56年1月19日までの505日間を記録したが、前項で述べた福島の踏切事故がくやまれてならない。 町民は、決意も新たに1月12日からゼロ運動を厳しく展開したが、1年後の57年2月6日正午ごろ、奇しくも同じ踏切で列車と乗用車の衝突かおり、即死者1名を出して振り出しに戻った。 さらに3月8日に信部内の名寄線踏切で、即死1名、重傷1名の衝突事故が発生した。 |
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交通規制 | 日本では、明治34年以来、人も車も左側通行の規制が行われてきたが、昭和24年に道路交通法が改正されて、歩道のないところでは「車は左、人は右」の対面交通が実施され、自動車交通量の増加に対応するようになった。 また、交通安全のための措置(施設を含む)として、交通信号機、カーブミラー、追越禁止区間、横断歩道、一時停止箇所、速度制限区間などが、北海道公安委員会によって指定され、本町の昭和55年現在の施設状況は次のとおりである。 ・交通信号機 4基(湧別小学校前、遠軽信用金庫支店前、国道4号線交差点、芭露駅前交差点) ・カーブミラー 32ヵ所 ・追越禁止区間 6ヵ所(国道および道道の一部) ・横断歩道 23ヵ所 ・速度制限区間 22ヵ所 ・一時停止箇所 36ヵ所 なお、歩道については交通運輸編に記述したとおりである。 |
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交通安全協会 | 自動車運行の増加に伴う交通事故の多発から、その対策として、各警察署管轄区域ごとに交通安全協会が結成され、本町でも昭和26年5月10日に「遠軽地区交通安全協会」の下部組織として、湧別、芭露、上芭露の3支部が発足した。 会員は事業所車輛管理者、運転免許所持者、自動車および原動機付自転車所有者、交通用具の製造修理販売業者、交通用燃料販売業者らが、自発的に加入して構成され、自らの啓発はもちろん、安全運動の中核体となって、警察と協力して組織活動を行っている。近年の主な活動のあとをみよう。 (一) 教育活動 (1) 学校、保育所などの交通安全教室開催と指導 (2) 街頭に出動しての指導監視 (3) 運転免許更新時の法規講習会開催 (3) 警告立看板の設置 (二) 広報活動 (1) 会員に改正法規の解説書配布 (2) 新入学児童や保育所入園児に安全PR用マフラーなどの配布 (三) 優良運転者および交通安全功労者の表彰 |
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交通安全推進委員会 | 交通事故多発という社会不安に対処するため、昭和38年6月8日に地方自治法の一部改正により、交通安全保持のため、公共団体も通切な施策を講じなければならないとされたが、本町では、それに先だって昭和33年12月に「湧別町交通安全推進委員会」が発足している。 同委員会は「交通安全町民大会」や「交通事故死ゼロ運動」などのアピール活動を主催するほか、 @ 歩行者の安全確保 A 正しい運転とマナーの励行 B 交通安全住民運動の企画立案と推進 C 交通安全環境の整備 D 交通安全の広報活動 E 交通安全実践組織の育成 F 交通安全住民運動について関係機関団体との連絡調整 などに主眼がおかれ、毎月の1日と15日を「交通事故ゼロの日」に定めて、交通規則の遵守や交通道徳の啓蒙に資するとともに、各種のPR活動を展開している。委員会構成は町長を陣頭(会長)に次の関係者である。 町議会、教育委員会、消防団、交通安全協会、交通安全指導員、防犯協会、学校、PTA、保育所、郵便局、商工会、農業協同組合、森林組合、事業所、青年団体、婦人団体の代表と警察官 |
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交通安全指導員 | 昭和44年7月に「湧別町交通安全指導員設置条例」が制定されて、それまで交通安全協会の自発的善意と安全推進委員会の要請の半ばした立場にあった指導員が、町政のうえに明確に位置づけされ、非常勤の特別職として町長が任命することとなった。 その活動は、 (1) 毎月1日、15日の「交通事故死ゼロの日」 (2) 春秋の「交通安全運動旬(月)間」 (3) 学校、保育所や各種集会での「青空交通教室」 での集中指導はもちろんのこと、児童生徒の登下校時間を主に常時街頭に立って、歩行者の安全確保と交通マナーの指導にあたっている。 |
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交通災害共済制度 | 昭和43年11月2日に「網走支庁管内町村交通災害共済組合」が、管内全町村の共同による事務組合として設置された。 交通事故の犠牲者救済のため相互扶助を行うことを目的として、翌44年1月に共済業務を開始した。 一人一口の掛金が年額360円(1日1円)というユニークなもので、年とともに加入率の増加をみている。本町における加入状況と見舞金給付状況は表のとおりである。 【加入状況】
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第2章 災難の記録
昭和の小漁師top 湧別町百年史top 1章 治安の備え 3章 消 防
(1) 防犯と司法機関 | |||||||||||||
開拓期の山火 | 入植者が増加するに従い山火の発生が多くなった。 それは、新開地の障害物を除去するための火入れが開拓には付きもので、しかも、木材が経済的に無価値であったから必然的に焼却処分の火入れ頻度も多く、また開拓者の山火予防意識も低いうえ、さらに、わずかな山林監視吏では監視の行きとどくはずもなかったから、火勢の赴くままに延焼して山火となったものである。 その後、木材に価値が生じ、火入れが警察の許可立会を要するようになって、いくぶん下火にはなったが、数少い住民と消防施設皆無という条件下では、やはり山火がひん発するのも止かを得なかったようである。 当時の山火は、特に5〜6月の乾燥期に多く、この時斯に火入れの多かったことを、うかがわせている。各種の記録から主な山火発生のもようを抜粋してみよう。 ■明治二九年 湧別原野 原野二火起り移民小屋三十全棟ヲ延焼シ、其内家具家財ヲ出スニ遑アラズシテ悉ク之ヲ失ヒタルモノ四、五戸アリ。<殖民状況報文・北見国> ■明治四一年 芭露に大山火が発生した。これが芭露における大山火の初めである。 ■明治四二半 四月十五日前代未聞ノ暴風二際シ、偶々山火ノ飛火ヲ蒙リ、延焼シ不幸全区六戸ヲ残シテ殆ンド全滅灰燼二帰セリ。<兵村誌> 北兵村三区の兵屋一ハ戸を類焼したこの山火は、隣接する東地区方面にも延焼して、一般入植農家も相当数被災したが、幸いに人家の類焼なし。<東> ■明治四四年 北海道の山林を炎の海に化したといわれる明治四十四年の大山火は、北見地方では特に甚だしく、約二週間燃え続け、紋別郡一万一、五〇七町 常呂郡六、〇〇〇町 網走郡二万五、九三三町 斜里郡一、〇三〇町の国有林被害を記録。<北海道山林史> 五月九日東芭露の開拓地の野火による大山火は下芭露にも及び、鎮火しかけては烈風にあおられて各所に野火が起り、約一週間にわたり延焼停止するところを知らず、人家の焼失数戸、樹木その他の損害は不詳、芭露小学校沿革誌には「五月十五日一夜を徹し学校の防火に尽せり」とあり、大正七年東ノ沢で造材した三菱の本村適造は、「このときの被害枯損木を主として伐り出した」という点から、大きな傷痕を残したことがわかる。<芭露> 東ノ沢と西ノ沢境の山から西山に飛び火し、烈風にあおられて火勢を増し、今の神社山から市街地に向った炎は、あわや市街をーなめにしようとした。それまで各戸では屋根に菰をひろげ家族全員がバケツで水をかけていたが、最後に迎え火を放って、ようやく危難を免かれた。<上芭露> 山火により地区はほとんど焼失し二戸残る。<西芭露> ■大正五年 春ボン川から発生した山火事は、本間沢の山まで燃えた。 ■大正六年 本間沢の梶原山から出火し、中湧別寄りの森林組合の山まで燃えた。 ■大正一三年 八月計呂地方面より山火が出て志撫子方面まで延焼、神社あたりから湖畔付近まで山林、農作物のほとんどを焼失、四戸を全焼。 |
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建造物の火事 | 民家の焼失は、「明治28年1月隣家よりの失火により類焼家財及酒75石を烏有に帰す」<和田麟吉伝記>が、記録のうえで本町最初のもので、当時の草囲いや粗末な板囲いに炉火という住まいでは、ちょっとした不注意が原因で出火し、丸焼けになることがしばしばであったという。 その後も、不幸にして民家や畜舎などの火災はしばしばあちこちの地域に発生したが、農村地域では1戸のみの被災に止まり、家屋の密集する市街地でも幸いに総なめといった大火はなく、数戸を超える災禍も稀であった。従って民家焼失の一つ一つを記載することは省略し、公共性を待つ建物の火災や人命にかかわった火災、および市街地火災を抜粋して掲げよう。 明40・1・17 午後八時半に北湧尋常高等小学校物置から出火して、校舎二七二・五坪を全焼した 昭6・11 四号線密集地帯の空家から出火し一角六戸を全焼(現山田商店向い側) 昭12・8・19 亜麻工場の火災(教育編=日蝕観測の項参照のこと) 昭18・3 湧別座が管理人の不注意から出火全焼し、管理人が焼死した 昭37・2・3 上芭露郵便局の局長宅の失火で局舎を半焼したが、重要書類は搬出して事なきを得た 昭48・3・11 湧別公民館大ホールの集合煙筒から出火し、大ホール部分二八〇平方bを全焼した 昭53・1・17 曙町の湧別町森林組合所有の木工場(木造平屋建五〇六・七平方b)が原因不明の出火で全焼し、内部の機械器具も含めて損害額は二、八〇〇万円にのばった |
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近年の発生状況 | 近年、公共建造物の耐火耐久構造化が進み、一般住宅や店舗の新、増、改築が活発に行われて不燃化が進行しているとはいえ、本町内の木造建築物の占める比率は、昭和47年の86%から同54年の73%と、大幅な改善とはいえない推移に止まっている。 また、2万670平方f余の森林面積をかかえており、建物、森林とも火災発生が危惧されているが、消防団の熱意と町民の注意力で大過なく経過している。 次に昭和40年代からの火災発生状況をみよう。
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(2) 水害と台風禍 | |||||||||||||||||||
湧別川の洪水 | 湧別川は湧別原野にとっても、また湧別原野の住民にとっても「母なる川」であったし、現在もそれに変りはない。 しかし、自然の流下にまかせた原始河川の姿であったこの長流は、気ままなまでに岩を噛み、大地をうがち、彎曲をほしいままにし、融雪といえばあふれ、雨期といえば洪水となり、台風といえば濁流が大地を席捲したのである。 こうした自然の脅威とたたかった開拓者の苦難は、その後の村の歴史にも継がれて経過し、昭和14年の治水事業竣工まで続いた。「湧別川治水報文」<網走開発建設部>の湧別川の洪水記録をみよう。 明31・9・6〜7 降雨水害=堤防のない湧別原野は一面洪水 明34・9・7〜9 降雨水害=被害大 明43 水害 明44 水害 大2・5 融雪出水=氾濫日数七日間、浸水面積一九七f 大4・4・28〜29 撤回出水=氾濫面積四一三f、橋梁流失六ヵ所、畑流失埋没一二○f 昭5・7 融回出水=氾底面積六〇〇f 昭8・8・3〜7 降雨出水 昭11 降雨出水=各地に冠水ほぼ全域被害大 なお、以上を補う記録として、各種資料から抜草してみると、次のようなすさまじい水魔の跡が記されている。 明治三十一年九月六日、全道的な大豪雨は八日までに一五七戸_b(札幌測候所観測)に達し、各河川の氾濫となり、湧別川の増水は実に一丈四尺余(四・六b)におよんだと云はれ………川沿の農作物と居小屋二十余戸はたちまち押し流され、逃げ遅れたものは屋根を破って逃がれたり………なかには痛ましい溺死をとげた入もあった。………かつて経験したこともない………ために学田農場入植者は飢餓の恐怖から志気を失い………ついに湧別その他に逃走するものが続出した。<学田> 明治三十一年の洪水では、四号線市街も約一bの鹹水で全村水に没した。
明治三十、三十一、三十二、三十四、三十八、三十九年の収穫半作は水害がもたらしたもので………大正四、八、十一、十二 と水害は繰り返された。水害に備え川沿の農家には舟を所有する者も数あったほどである。<川西> 明治三一年九月巌望橋、金山橋、社名渕橋流失、同三九年春闘盛橋も流失、湧別橋も明治四四年、大正一〇年、昭和十四年と流失………(交通運輸編参照) 明治三十四年九月七、八、九、十日降雨湧別川増水交通杜絶シ休業<湧別小学校沿革誌> 大正七年ヨリ以降年々洪水ノ為メ湧別川河身変更西二線一七番地ヨリ以北ノ土地流失、将来八本流貫流セントスル有様ナルヲ以テ移住民離散<川西小学校沿革誌> |
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芭露川の洪水 | 本町第二の河川であり、芭露、’上芭露、東芭露、西芭露方面の住民にとっては、やはり「母なる川」である芭露川も、湧別川同様に蛇行弯曲の連続する原始河川で、増水するごとに氾濫するのを常としていた。 ことに、10〜11号線間と7〜8号線間は氾濫の常習地点で、その下流城はいつも冠水、落橋の被害を受けて住民は悩まされた。 明治31年の秋、7日間も降りつづいた豪雨で、本関沢川が氾濫し、現市街が大洪水の被害を受けた。<芭露> のは、湧別川同様に全道的な大豪雨にかかわるものであったが、明治から大正の半ばにかけては特筆するほどの水害はなかったようである。水害が激しくなったのは、開拓が進むにつれて山林が乱伐(辺材も含めて)された後のことで、集中豪雨による洪水が発生するようになった。洪水に関する詳細な記録資料が見当らないが、次のような断片的な記録がある。 大正十一年八月二十四、五日大洪水ノタメ七、八尺増水………大正十二年九月十六日九尺増水<芭露小学校沿革詰> 昭和十年八月大豪雨来襲して大洪水となり、各地に被害多し………昭和十六年六月豪雨のため洪水、各所に被害多し<上芭露 小学校沿革誌> 昭和二十八年九月二十七日の豪雨によってボン川野村橋の地点で氾濫、六号線から四号線の農地を冠水し、芭露小学校校庭に 流れ、校舎床上浸水一尺余、校舎裏から芭露川に流下した。一方本間沢川の洪水は市街地にあふれ、太田商店前で二尺余に達し た。この洪水のとき芭露で一番低地といわれる阿部養太郎所有の農地冠水は、乾燥作業にかかるまでーカ月もかかり、収穫皆無 ………<芭露農協の記録> 昭和二十五年から三十四年までの十ヵ年の被害総額一億七千五百二十五万五千円、昭和三十年九月の水害被害額六千三百八十八万八千円<網走土木現業所具べ> なお、こうした悩みは、昭和33年以降の洽水事業の進展で次第に解消され、現在は小川の氾濫がある程度である。 |
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その他の水系の洪水 | 湧別川や芭富川に限らず、本町の河川は原始河川ゆえの水害を開拓以来住民にもたらし、一部には、いまなお改修の手が行き届かないところがあって水害をみている。 ■シブノツナイ川<信部内六十年史より> 大‥‥8・24 水害 大13・3・27 堤沢決潰、大洪水は名寄線の路肩の一部流失 ■志撫子川<志撫子小学校沿革誌より> 昭46・11・1 志撫子川氾濫し橋梁ほとんど流失。 大雨洪水のため 臨時休業 昭50・4・9 融雪増水により志撫子道路交通不能となり臨時休業 ■計呂池川<洞目正喜談> 計呂岳に源を発する計呂地川は、一五号線、一三号線、一一号緑の各四つの小川が合流しているが、ふだんはそれほど水量の多い川ではない。 しかし、原始河川で曲りくねっているため、融雪期や長雨のときは増水して、八号線〜三号線間は特に河川の欠壊、田畑の冠水にさらされやすく、また道路が川のようになって通行不能となり、臨時休校などが多かったが、昭和五六年に完了した計呂池川国営明渠排水事業で災害は皆無となった。 |
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湖沼の氾濫 | 一般に先住民族の時代から開拓初期の集落は、まず河川沿いや湖畔などに創成されるのが通例であるが、サロマ湖とシブノツナイ湖の湖畔は、水辺なのに開拓と集落の発達が遅れていた。 それは、 シブノツナイ竪穴住居跡など埋蔵遺跡は湖畔から離れた丘陸地にあった=シブ ノツナイ湖 鐺沸ョリ湧別二至ル八里二十丁ノ間ニハー軒ノ人家ナキヲ以テ………=サロマ湖<明23・佐藤喜代吉「北海道旅行記」> などからもうかがい知ることができるし、地域の創成(付録編参照)の経過にも明瞭である。その原因は湖水の氾濫にあった。 芭露川、志撫子川、計呂地川といった流人河川があり、湖の東端の鐺沸付近の天然湖口は毎年秋〜冬のころ流砂で閉ざされ、 春四〜五月の増水氾濫の災厄が不可避であった。 このため人工的に湖口を掘削するのを常とした。=サロマ湖 シブノッナイ川、言東川の流入があり、増氷期には湖東の方角でオホーック海に開口もしたが、内陸低地への氾濫は年中行事で、ひどいときは名寄線あたりまで冠水して、列車不通ということもあった。=シブノッナイ湖 |
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海岸と湖岸の侵蝕 | 本町には、紋別市との境界であるシブノツナイ湖口からサロマ湖口にいたる18・3qの海岸線があるが、高潮四季の波浪による侵蝕がみられ、このうち湧別河口からサロマ湖口にいたる延長十四qは、砂丘のの崩壊によって沿海地帯に影響をおよぼし、一部住民に不安を与えている。 特に登栄床地区はサロマ湖とオホーツク海に挾まれた集落の背面丘陵地が防壁の形になっていて、丘陵他の欠漬か目だっている。 砂丘にひとしい状態が直面する宿命であるのかもしれない。 いっぽう近年になって、サロマ湖内においても内陸に向って浸蝕の傾向が目だち、登栄床漁港を中心に東西湖岸に点在する漁家に不安をもたらすようになった。中でも三里番屋地区は低地のため、高潮時には漁具置場、養殖作業処理場、道路に冠水がみられるありさまとなり、地区一帯が浸水の危険をはらんでいる。 |
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台 風 | 本町方面は道内でも比較的台風被災の少い地域であるが、太平洋に発生する台風のあおりで生ずるオホーツク海の大時化で、ときどき漁業を中心に太被害をこうむることがある。 昭27・10・22 ポリィ台風襲う=定置網に大被害二、三五四万円<湧別漁業協同組合三〇年のあゆみ> 昭29 五月に暴風雨、九月に台風、このためカキ養殖一万連の九〇%流失<同> 昭29・9・26 台風一五号はハッカを入れた吹貫小屋を次から次と倒潰し、住宅の屋根を飛ばされた入もあり、風当りのいい峯や風の通路は老木若木を問わず全滅の被害をうけ、開拓以来の恐怖の日であった。<西芭露> 昭47・12・1 暴風雨襲来、漁業の被害甚大<志撫子> |
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昭和56年の水災 | この年は6月と8月に集中豪雨が全道を襲い、道央や太平洋沿岸を中心に空前の災害をもたらしたが、本町方面も8月には近年では稀な水災をこうむった。それは湧別川上流地方(特に白滝方面)の集中降雨量による湧別川の氾らんであった。 |
(3) 海 難 | |
船舶の事故 | オホーツク海とサロマ湖に面する本町では、宗谷場所時代から漁業にかかわる舟があり、明治時代には湧別港に定期航路がひらけたが、遭難の記録は見当らない。ただ湧別小学校沿革誌に次の記録かおる。 明35・5・19 武蔵、八重山ノニ船坐礁、利尻、礼文ニシン漁者二百余名暴風ノタメ溺死 これは本町沖合でのことと思われるが、激浪に呑まれた漁夫の悲運を伝えている。 港湾施設がなかった本町の漁業では、大型や中型の動力船はみられなかったから、外洋での海難もなく経過し、内水面漁業でも資源と漁獲量のバランスから無理な操業もなく、かず多くの災難はみられなかった。 大11・10 網の陸揚げ途中に四名死亡 大13・10 網の陸揚げ途中に一名死亡 戦後になって中型船の導入や動力船の普及と鋼鉄船の増加があって、操業規模が拡大されるようになってから、特記される事故が発生している。 昭22 運搬船「湧興丸」(30d)が処女航海の枝幸仲で坐礁〜11月に能代仲で再び坐礁 昭29・12・12 湧問丸さらに秋田仲で遭難し船体放棄 昭33・10・14 「泰西丸」(6.9d)がサロマ湖口で転覆し八名が遭難死 昭34・10 網の陸揚げ途中に二名死亡 昭49 大吹雪の湧別沖で網走から紋別に向けて航行中の船舶が沈没 昭51 「第三栄光丸」(1・5d)がサロマ湖で転覆し二名が遭難死 |
高 波 | 大正5年12月26日夜半から31日にかけて猛吹雪があり、オホーツク沿岸一帯を襲った大時化は稀有高波となり、海岸近くの市街が打ちのめされ、前浜の漁民の住宅や番屋10数戸が押し流され、ほかにも倒壊、半倒壊多数を出し、漁船もほとんどが大破したり、畑に打ちあげられるという空前の惨状を呈したが、住民は猛吹雪のため避難することもできず、不安と恐怖の数日を過した。死者のなかったのが不幸中の幸いであった。しかし、シブノツナイ海岸では遭難者を出すという痛ましい事態をみており、次の記録がある。 湖辺に居住していた一戸七人家族は、避難のいとまもなく波に呑まれ、ようやく脱出した一人も途中で溺れ、全員死亡……… 高波となり、海岸近くの市街が打ちのめされ、前浜の漁民の住宅や番屋一〇数戸が押し流され、ほかにも倒壊、半倒壊多数を出し、漁船もほとんどが大破したり、畑に打ちあげられるという空前の惨状を呈したが、住民は猛吹雪のため避難することもできず、不安と恐怖の数日を過した。死者のなかったのが不幸中の幸いであった。しかし、シブノツナイ海岸では遭難者を出すという痛ましい事態をみており、次の記録かおる。 湖辺に居住していた一戸七人家族は、避難のいとまもなく波に呑まれ、ようやく 説出した一人も途中で溺れ、全員死亡……… |
流氷禍 | 冬斯開オホーツク海岸一帯に接岸する流氷は、海面漁業を冬眠させ、浅海水産資源に少なからぬ影響をもたらしているが、人為的に不可抗力な現象なので、休漁は年中行事的な形で毎年くり返されている。 ところが、昭和匹九年一月一日に、湖内示結氷前のサロマ湖に流水が浸入して、湖面の3分の2を埋め、漁業資源や施設に甚大な被害をもたらし、サロマ湖全休では23億円にのぼる大災害となった。 本町関係の主な被害は次のとおりであった。 ・ホタテ養殖施設 八二四台(一億七三〇万粒)=被害額五億八、六〇〇万円 ・昆布根3分の2以上とウニを持ち去る |
海難慰霊碑 | 昭和53年7月22日に、湧別浜(港町)の一角に建立された「海難慰霊碑」の除幕式が行われた。この碑は、海難犠牲者の霊を弔い、海難絶滅の決意を霊前に誓うことを趣旨として、漁民の願望を結集して漁業協同組合が建立したもので、以来、毎年7月に慰霊祭が行われている。 なお、この碑は昭和55年に漁業協同組合事務所の落成に合わせて、事務所前庭に漁村広場が造成されたのを機に、同広場に移された。 |
第3章 消 防
昭和の小漁師top 湧別町百年史top 1章 治安の備え 2章 災難の記録
(1) 自警組織 | |
火災予防組合 | 開拓の初期に山火予防の必要から、道庁が国有林近傍の住民に「山火予防組合」を組織させたことがあって、明治39年の「殖民公報」に16組合あったと記されているが、本町での実情は明らかでない。 明治43年になると北海道庁令で、山火予防組合に代えて、各地に「火災予防組合」の設置を勧奨したので、本町でも集落単位の組合設立が進められたと思われるが、詳細はわからない。ただ、いえることは、断片的ながら次のような記録があって、全村を網羅した形になるのは、開拓の状況などから、かなりあとのことになったようである。 上芭露市街が、明治四十四年五月の山火事の猛火に包まれ、あわやーなめにされんとした苦い経験から、大正二年の東輝青年会の結成を機に防火組合を組織し、東ノ沢と西ノ沢の分岐する三角点に火の見櫓とその下に番屋を建て、ブリ牛製の水鉄砲式のポンプ数基とバケツ多数を備えつけた。当時は消火業務は青年会の協力を受け、夜回りは市街の人々が担当し、経費は市街が負担した。<上芭露> 芭露火災予防組合は、昭和五年八月三日芭露小学校において創立総会を開き発足した。組合員二十五名ぐらい、現山川商店横に二間に三間の詰所を建てていた。<芭露> こうして発足した火災予防組合は、上芭露の例にもみられるように、山水ばかりでなく、次第に開拓が進んで形成された集落の火災予防にも当ることとなり、春秋の山火多発期(火入れ期)には受持区域の林地を巡察するほか、四季を問わず各戸の火気使用状況の検察を行い、火災予防につとめた。 その後、次項で述べる森林防火組合の発足があって、山林を持つ地域の火災予防組合は森林防火組合に移行し、火災予防組合は市街地にのみ存続した。村勢要覧にも、昭和7、9、11年とも「火災予防組合4」とあるから、湧別、4号線、芭露、計呂地の各市街にあったものと思われる。 戦時になって昭和13年に内務省訓令による「隣保班」組織(町内会、部落会)が施行されたとき、火災予防組合は隣保班に吸収続合された。 |
森林防火組合 | 明治44年の全道的な大山火の発生を契機として、山火予防があらためて認識され、大正3年3月に庁令第24号で「森林防火組合設置規則」が制定された。 即役立てあったかどうかは不明であるが、この組合は営林区署長または分署長が承認のうえ指導監督することになっていて、機構的には部の単位に組織され、町村ごとに連合組合(昭12・4連合会と改称)を構成していた。 この組合は林地の巡察を組合員交替で行い、山火発生時には笹刈り鎌や火叩き棒を持って出勤し、また集落の消防力も兼ねていた。 村勢要覧には、昭和7年「森林防火組合8」、同9、11年「森林防火組合9」とあり、「9」というのは、信部内、川西、東、福島、上芭露、東ノ沢、西ノ沢、志撫子、計呂地の各部であったと思われる。 戦時になって、昭和15年9月に内務省訓令第15号による「隣保班」組織に吸収続合され、同年11月の庁令 「町内会部落会規則」の制定により、特に山火予防の重要性から、町内会、部落会に山火予防を専掌する「森林防火部」が設けられることになった。 しかし敗戦終結による隣保班組織の廃止で、火災予防組合の流れとともに消えた。 |
自警消防組 | 明治38年5月に、浜市街に「湧別村私設消防組」が設立され、これが本町における最初の消防組織となったが、装備その他については明らかでない。次いで、 明治40年1月南兵村3区で消防器具の購入を部の会議で定め、山火のおりは17歳以上35織までの男子全員が家屋を守り 鎮火に出動する結縁を結成した。<上湧別村誌> が、消防器具を備えている点から、本町における本格的な消防組織の出現といえよう。 さらに明治44年に、村内全域を区域とする公設消防組(明43設置=次節参照)が、能力の限界から機能のおよぶ範囲が浜市街を主とせざるを得ない実情を憂慮し、このころ急速に発展した4号線市街で、自警のための消防組織を発足させた。 芭露方面では昭和2年4月に、上芭露地区総会において自警消防組を設立することが決定されて発足し、 昭3 寄付により手押ポンプを配備 昭5 最初の消防番屋新築(現小坂建設作業場) 次いで昭和10年5月に、芭露市街に自警消防組が設立され、 昭10 寄付により手押ポンプ配備 芭露市街に二階建二五坪の番屋を部の事業として建設 と、以後の公設消防組の布石がうたれ、地域住民が消防組織充実を渇望した一端をうかがわせている。 |
(2) 公設消防のあゆみ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
消防組 | 公設消防組の設置は、明治27年の勅令第15号に基づく内務省令で「消防組規則」が公布され、同年5月に北海道庁令第29号「消防組規則施行細則」によって明文化され、骨子として、 (1) 一町村一組を原則とする。 (2) 任免権および指揮権は警察署に帰属する。 (3) 器具機械などの施設および出場手当は村費で支弁維持する。 ということが示されていて、少なからず村財政に影響するものとなったが、本町では設置気運の成熟するのを持って明治42年に村予算項目に「警備費」を新設し、
石 川 保 重 下湧別消防組消防手を命ず 明治四十三年三月十五日 湧別警察分署 下湧別消防組の初代組頭は秋島兼松で、公設の翌44年に湧別警察分署敷地の一角1畝6歩の貸付出願をして番屋を設置し、貧弱ながら施設体制の基礎固めを行っている。 さらに翌大正元年10月の村会に、警備費予算の追加案が提案され、 近時四号線ハ著シク発達ト共二器械器具其他浜ヨリ以上ノ消防組織サレアルヲ以テ新二公設ニセント欲シ僅二本案ノ支出ヲ要スル所以ナリ<提案説明> という措置があって、その後の経過は、 大2・4 四号線市街自警消防組を下湧別消防組第二部とする。 大8・4 第一部に一二馬力のガソリンポンプー台配備 大12・7 第一部のガソリンポンプを二〇馬力に更新 大15 消防組長六〇名<村勢一班> 昭4・2 フォード・ダービンポンプ自動車を第一部に配備 このポンプ自動車の配備については、「第1部消防組員は、これの購入のため出場手当を蓄積して昭和3年に6,000円で人手し、村に寄付を申し出、翌年1月の村会において採納議決がなされた。採納と同時に組員の熱意にこたえて感謝状が贈られるとともに、ポンプ置き場の整備も急がれ・・・・」というエピソードがあった。 昭5 第一部番屋新築(二階建60・25坪) 昭6・4 当初三年間は一ヶ所二百円を超える経費を地区が負担する条件で、上芭露自警消防組を下湧別消防組第三部とする
昭8 第三部を廃止して第一部に統合し、第三部を第二部とする
昭12・4 芭露自警消防組を下湧別消防組第三部とする
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防護団 | 日華事変勃発に伴う銃後体制の強化から、昭和12年秋に「防火法」以下の防空法令が制定された。これは、国土防衛のため敵機の来襲に備えるものであった。 警報伝達、対空警備、灯火管制、防火、救護など、空襲の被災抑止が任務で.、本町でも昭和12年10月23日に結成されたが、構成はおおむね消防組長と重複するものであった。 |
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警防団 | 昭和14年1月24目に、日華事変の拡大に伴う、より強固な対応のため、勅令で「警防団令」の公布をみて、同年4月1日に防護団と消防組を統合した「警防団」の設置となり、「下湧別村警防団」が次のように組織された。
風俗的にみれば、徳川時代から連綿と継承された伝統の「纒」が「団旗」に変わり、通常服装が石綿の刺子からカーキ色(黒の詰襟)の団服に黒の戦闘帽とゲートル姿に変わり、組頭は団長に、出初式は観閲式に改められていた。 この警防団は、諸種の機関や団体が、戦後直ちにGHQの指令や覚書で解散または解体されたにもかかわらず存続し、戦後処理の混乱期に地域の秩序維持のため重要な役割を果し、昭和222年4月30日に解散を迎えた。 ちなみに、戦後の公職追放令の条項には消防組および警防団の履歴が令まれていなかったことをみると、GHQも消防関係だけは重要視していたふしがうかがえる。 |
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自治体消防の誕生 | 戦後の行政制度改革に伴い、警防団を解消して新たな消防組織を形成するため、昭和22年4月1日に勅令による「消防団令」が公布され、本町でも同年7月30日に「消防団設置条例」を設け、団員定数192名による「下湧別村消防団」の発足となったが、これは暫定措置で、3分団制は消防組〜警防団時代を踏襲したものであった。 昭22 第三分回番屋を区の事業で改築(三六・七五坪) 昭22・10 第三分団に自動車ポンプー台配備 本格的な消防団は昭和二二年七月二回目公布の「消防法」 (翌年8・―施行)と、同年T一月二三日公布の「消防組織法」 (翌年3・7施行)により、「自治体消防」制度が明確にされてからであり、これに対応するため本町では条例の改廃を行い、 昭23・10・29 消防団設置条例廃止、「消防団員の定数並に任命に関する条例」改定 によって、自治体消防「下湧別村消防団」の正式発足となった。
昭25 上芭露分団に自動車ポンプー台配備 昭25・7・1 湧別分団に常備員一名配置(運転手) 昭26 芭露分団にサイレン施設 昭28 上芭露分団にサイレン施設 川西班が亜麻工場から消防用ガソリンポンプ払下げを受ける 上芭露分団の自動車ポンプ一台入れ替え 自治体消防とは、それまで北海道警察部にあった指揮権、任免権、監督権などの一切が自治体に移管され、すべてが町村長を消防長とする体系下におかれるものである。 |
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町の消防団 | 町制施行に伴い「湧別町消防団」と改称したが、町制施行という弾みと経済成長という背景があって、以後の消防団は著しく整備され、近代化へ脱皮した。 昭30・4 芭露分団にポンプ車購入 昭31・8 湧別分団にタンク車購入 昭32 上芭露分団番屋新築 昭33 湧別分団に鉄塔望楼新設 昭36 上芭露分団の自動車ポンプ一台入れ替え 昭40・10 湧別分団に普通消防車配備=遠軽信用金庫寄贈 湧別消防会館完成 昭42・9 芭露分団に車庫新築138・4u=272万円) 昭43・7 芭露分団に可搬式小型動カポンプ配備 昭43・11 竿頭綬一旒知事より授与 昭44・4 現有体制次のとおり
昭44・9 湧別分団に積戦車一台配備 昭45 上芭露分団の消防会館新築 昭45・10 現有施設次のとおり
昭45・7 芭露分団に積戦車一台配備 |
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広域消防組合 | 昭和40年代に入って道内では、広域消防体制確立のため、各地で消防組合の組織をみているが、その背景には次のような事情があった。 (1) 発生する災害が複雑多様で大型化する傾向にあることから、町村ごとの消防力をもってしては有効に対処し得 ないことが予期される。 (2) 社会構造の進化で防災理念も進化したが、現実の体制との間の落差が、いぜんとして解消されないまま残って いるのは、主として財政上の問題に起因している。 (3) 自治法に根拠をもつ一部事務組合で消防業務を広域的に共同処理することにより、財政上の圧迫を軽減し、装備の集中と高性能機械力の共同使用によって組織的に対処でき、国の財政援助も受けられる仕組みがある。 遠軽地区においても、本町、上湧別町、遠軽町、丸瀬布町、白滝村、生田原町、佐呂間町の7カ町村により、昭和46年10月1日に「遠軽地区消防組合」が発足し、本部を遠軽町大通南4丁目(現在北3丁目)におき、各町村には支署が配置された。これにより本町では「遠軽地区消防組合消防署湧別支署」と、湧別町消防団が据えられることになった。 |
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組合消防 | 組合消防といっても、消防団の組織そのものに変動はなく、本部が消防組合に移って、代りに支署が配置されたわけである。 発足時の組織状況は次のとおりである。
昭47・7 芭露分団に可搬式小型勤カポンプー台配備 昭47・11 支署が救急業務開始 【救急出動状況】 三は件数、3は搬送人数
昭49・8 上芭露分団に積載車一台配備 昭49・9 消防無線電話機配置
昭50・7 湧別分団に可搬式小型動力ポンプ一台配備 昭50・10 支署に救急自動車一台配備 昭51・3 日本消防協会長より竿頭綬を授与される 昭51 芭露簡易水道改修により芭露市街に本町初の消火栓六基実現 【消防水利=貯水槽数(40u)】
昭51・4 常備消防職員定数を一一名に増員 (支署七名、分遣所各二名) 昭51・10 湧別分団に可搬式小型勤カポンプ一台配備 昭51・12 芭露分団に水槽付消防車一合配備 昭52・3 日本消防協会員より表彰旗授与 昭53・9 湧別分団に水槽付消防車一台配備 昭54・4 消防団員定数を一二五名に削減 消防団員の削減については、人口減、特に青壮年層の不足から定員確保が難しい状況になったことと、消防力の近代装備化が進んだことが表裏して行われたもので、昭和53年度の組織実態は次のようであった。 |