第5編 産業と経済 商 業
(1) 未開期の商人 (2) 先進地区と商店 (3) 後進地区と商店 (4) 鉄道開通の波紋 (5) 戦禍の投影 (6) 戦後の転変
(7) 関係機関および団体 (8) 金融事情 (9) 流通関連企業
(1) 未開期の商人 | |
未開の商人 | 正保年間(1640年代)にいち早く蝦実地に進出した近江国(滋賀県)の商人は、着々勢力を伸長し、松前藩城下には両浜組と称される近江商人の組合ができて、松前藩初期の経済を実質的に左右する存在になったという。 しかも、単に商業のみに止まらず、資本を駆使して漁業経営(場所経営)も手中に収めたから、次第に蝦夷地の経済を独占する地位を保持するにいたった。 北見国も例外ではなく、近江商人の藤野家によって掌握されたことは、行改編および漁業の章で詳述したとおりで、漁場持制度の廃止後においても、藤野家の経済力が住民生活を左右する決定的な存在であったから、藤野家の資本援助(仕込制度)と産物買取りがなければ、経済が成立しない時期がしばらくつづいたのであった。 根室県の記録に、 北見国4郡景況 <根室勧業雑報> 明治十六年十二月 物価 年々十一月後ハ入船ナク物価騰貴ヲ例トスルモ、明治十四年以降ハ夏冬ノ別ナク玄米一石十五円白米十七円五十銭(是ハ藤野伊兵衛ガ土人其他二売渡ス相場)本年ハ殊二輸入品ノ不足ヨリ玄白米ノ別ナクー石十八円大山酒一樽四円味噌・醤油・茶・烟草・灯油ノ類ハ品切トナリ、其他ノ輸入品ハ異動ナシ、山産物(鷲尾、獣皮類)ハ四割合下落ナリ。 とあるのが、いぜんとして藤野家の独占経済に依存する慣習から脱していなかった一端を物語っている。 |
店舗営業の創始 | 商業の発生と盛衰の動機は、古今を通じて人口の動態を基礎に、交通事情や産業の消長がかかわって、促され、あるいは推移してきたが、「北海道庁統計総監」に紋別郡の商店の戸数が、 明治24年1戸、25年8戸、26年17戸、27年39戸、28年41戸 とあることは、開拓が緒についた人口動態に伴った推移を物語っている。明治24年の1戸というのは、 明治24年会所の隣りに太店舗を新築し屋号を根室の白木屋支店と名づけ、藤野紋別出張店主若林辰次郎を責任者として開業した。<紋別市史> で、紋別郡最初の商店営業であった。 本町における商店営業のはじまりは、浜市街で遠峰栄次郎が開店したものて、明治27年のことであるが、当時の生活用品の購買については、次のような話か伝えられている。 入植当時は日用品を紋別まで買いに行ったものだが、浜市街でも遠峰栄次郎が酒、駄菓子、脚絆など三品ぐらいを販売するようになった。 <明27・4入植の土井菊太郎談> |
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(2)先進地区と商店 | |||||||||||||||
浜市街の商家 | 戸口の増加は浜市街に商業を営む者の進出を促し、明治29牛秋の「河野常古巡回手帳」によれば、 商店一二戸、鍛冶屋二戸、料理飲食店四戸、湯屋一戸、理髪床一戸 と、ちょっとした商店街の観を呈するほどになった。商店の取扱商品も日用品、雑貨はもちろん、呉服、菓子の専門店もみられるようになり、中でも楠瀬彦九郎(酒、雑貨、日用品)、(菓子製造卸売小売、写真、時計など)は上湧別、中湧別、芭露方面まで手を伸ばしたというし、菓子は屯田兵家族に好評であったという。 こうして浜市街は、湧別原野および以奥聞拓地の起点となり基地となったが、明治30年に芭露に入植した入たちの買い物のもようを、古老は次のように伝えている。 物品を買うため、五鹿山を抜ける踏み分け道を通り、コタン(現中湧別付近)〜4号線を径て浜市街に行ったが、呑佐川、遠縁、丸大などの店があった。四号線やコタンに店ができたのは、その後のことだった。 イクタラ原野に入地した人は、 味噌、醤油、塩をはじめ、石油、布地、農具などの必需品は、はじめのうちは定期船が湧別に入るたびに、駄鞍馬を曳いて泊りがけで湧別まで買いに出かけた。 と、伝えていて、浜市街が海陸の接点として商業が隆昌したことを伝えているが、明治45年の山浦網走支庁長視察談の中にも、次のように浜市街が語られている。 浜市街などは洵に驚く程盛況を呈している……この盛況の原因は薄荷の高値と海扇の豊漁にあり。……薄荷は年産優に40万円、海扇もほぼ薄荷の収入に匹敵す。……白首屋(ごけや)と称する小料理屋の繁昌…… と、農産物および海産物景気と生活物資の移入で浜市街がにぎわったことがしのばれ、一説には白首屋が20軒も並んでいたとかで、奥地から出てきた農夫が紅灯に幻惑され、一夜で売上げを費消したといういい伝えもある。 |
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4号線の新興 | 明治31年に紋別道路が開通したことにより、4号線は一躍交通の要点となり、遠く滝ノ上方面にもおよぶ農産物の集散地として、冬期には馬橇が列をなし、商店も著しいにぎわいをみせた。 一般商店はもとより、飲食店、旅館、湯屋などの開業が相次いで、たちまち小市街を形成し、商店数は浜市街におよばなかったがヽ販売高は匹敵する繁昌ぷりで、中には伊藤紋蔵商店(酒造)のように、紋別郡はおろか常呂ヽ佐呂間、網走にまで販路を持つ者、あるいは紋別まで米を売り込む有力商人も出現したほどであった。 参考までに大正7年の新聞記事には次のように記されている。 中川、伊藤、山田、田中、片桐、桜井の大商店を始め、福山、山口の馬具金物店、香川、藤田の菓子店、小川時計店、戸田薬店、浅野理髪店等いずれも堅実な経営……それに赤繁、遠藤の旅館あり、郵便局、戸田医院、加藤、里中の蹄鉄工場、飯豊、斎藤の両獣医、その他飲食店、鍛治屋、大工、洗濯屋、古物商等に至るまで軒を並べ……遠軽地方より呉服太物買に汽車賃を投じ4号線市街に来る客筋あり…… |
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屯田市街の商店 | 明治32年に陸軍省は兵村構想の仕上げとして、17号線を中心に市街区画を設定したのに伴い、商店の開業が促され、同年中に渡辺表太郎が永山から来往して雑貨商を営み、翌33年には札幌から高橋忠次郎が、湧別から樺沢金八が来往して開店し、屯田市街の商業の基をひらいた。 その後、屯田市街区画地は、木材搬出や湧別〜遠軽間の中継地として市街地形成が進み、上湧別分村(明43)〜明治45年ころには、 商店20戸、料理飲食店8戸、旅館3戸、運送店2戸…… など約150戸の市街となり、だれいうとなく「屯市」 (屯田市街の略)と愛称されるようになったという。 |
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海運とのかかわり | 湧別浜市街および4号線市街、屯田市街に商店が勃興した時代の商品流通は、海上輸送にすべてを依存していたので、海運状況が商店街の明暗を左右する一面をもっていた。 日用品は従来絞別港を経て輸送せしが近頃俄に商人を増し、二十九年夏以後は進んで小樽其他より直接輸入し汽船は直ちに湧別の浜へ来りて、貨物を陸揚げせり、故に物価は比較的廉なり、目下取引は小櫛を第一とし次は函館次は紋別とす。<北海道殖民状況報文>=注・不定期長船の寄港である。 当時物資はすべて小樽から根室回り海運の便によったが、三十二年からは網走・小樽間を補助航路として月二回航海があったので、浜湧別(下湧別)もその便に浴した。物資はそこで陸揚げされたが、波の荒い時は紋別港で陸揚され、湧紋七里の間、貨物一駄の賃金が八十銭もしたという。<古老談> 海上輸送時代の湧別市街(浜市街)の商業は奥地開発の進展に伴う需要の増大から発展の一路を辿り、ことに航海途絶の冬期間中に仕入商品は余すところなく売り捌かれ、安易な商業経営で資金量に応ずる収益を収めることができたという。<昭40刊=湧別町史>
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集落と商店 | 浜市街と4号線市街の商店が、開拓初期の村民生活の利便を支えたことは前節で記述したが、周辺地区においても、開拓の人煙まばらな時期が過ぎて、業落がみえはじめると、それを追うように商店が出現している。 その創業の多くは、 (1) これらの商店は、集落形成を追って、周辺の需要を補う供給機関としての役割の域を出なかったから、目立った商店街の形成は見られず、取扱商品も食料品、日用雑貨、それに少々の衣料など、ささやかな日常生活品にとどまっていた。 (2) 開業しても人馬の通行量加少く、需要戸数も限られていたから、販売高も生活を支えるまでにはいたらず、半商半農的経営であった。 といわれている。 従って家財道具や農機具など地元の店にない物の調達は、いぜんとして自身で浜市街や4号線に出向くか、農産物を搬出した帰りの荷駄として依頼したのであった。 テイネー以東の地域における商店の創成は、おおむね、この類型で、開店のあらましを略記すると次のようである。 芭 露 山平旅館(明37、明39〜本間放館)、山本栄三商店(明38)、山本政吉商店(明41)、小野旅館(同)、越智延義商店(明42ころ)、中山雄吉商店(明43ころ)、中島文三郎商店(明45ころ28号線)、山川茂商店(大3=8号線) 上芭露 山本栄三商店(明41=芭露より、明43〜簡易飲食店および簡易旅館兼営) 東芭露 山水子之吉商店(明44)、山本政吉商店(太4、太7〜山本多平商店、太9〜長屋太平商店) 計呂地 高橋徳次郎商店(明43)、水嶋巳之吉商店(明44)、深沢武康商店(明45)、浅井由松商店(大5)、深沢近則商店(大9)、雨宮清重商店(同)=いまの志撫子を含む 床 丹 長船慶喜商店(明44) なお、信部内では信太農場という特異な開拓形式であったため、農場事務所で物資の供給がまかなわれていた。また、西芭露に商店の開業をみたのは、ずっと遅れて、昭和10年ころに船戸ヨネが開業している。 |
上芭露の市街化 | 奥地への入植が増加するのに伴い、明治43年に芭露から林道が開さくされ、東の沢は23号まで、西の沢は西4線まで開通して、その分岐点にあたる17号は交通の要点となり、山本商店が簡易飲食店と簡易旅館を兼営するようになった。 大3年間になると、下芭露(現芭露)、東の沢(現東芭露)、西の沢(現西芭露)、志撫子、計呂地、床丹との往来の基地としての利便から、売薬行商人や農産物の仲買人の出入りが繁くなり、特にハッカの仲買商が秋から正月にかけて入り込み、生産農家もハッカを搬入するようになったため、上芭露17号はハッカの産地市場の観を呈するにいたり、商家が軒を並べるようになった。 森田ブリ牛屋、落合鍛冶屋、山本子之吉食堂、森原大工、大橋豆腐店(以上大1)、島田商店、林商店、水戸商店、大平旅館(以上大2)、山本辰次食堂(大5)、横山商店(大7) など商店街の様相をみせ、これに医院、説教所、学校、巡査駐在所、駅逓、営林区署担当区、郵便局などの設置が加わって上芭露市街を現出し、芭露原野の中心的機能を果す要衝になった。ちなみに三軒の食堂(料理飲食店)は、なかなか繁昌したもようで、 ハッカの取引期には昼夜をわかたず弦歌の音が絶えなかった。 という古老の言が伝えられている。 |
芭露の市街化 | ハッカ生産で著しい発展をみた上芭露にくらべ下芭露(芭露)は、湖畔低地につづく湿地帯ということ、大地積の牧場形式の開拓地帯ということから、商店街形成〜市街化の機運が熱さなかったが、第一次世界大戦勃発(大3)による木材需要の増勢により、市街化のきっかけをつかんだ。初代の芭露郵便局長島崎卯一の回想によれば、 大正5年に郵便局が開設されることになったとき、山本商店(局舎となる)、伊藤豆腐店、小野旅館、本間旅館、木田床屋、里中蹄鉄屋(のち田中蹄鉄屋)ほか2戸ほどに過ぎなかったが、造材〜流送〜搬送の地の利に恵まれて造材関係者の往来が繁くなり、木田食堂、直原商店、内山繁太郎商店、南商店などが相次いで開業、その後、大正8年からの不二製紙の大量造材着手で部落経済の活況が増進され、大正10年ころには山川商店(6号線より転入)、松原商店、大宮蹄鉄屋も開業し、それに郵便局、巡査駐在所、森林看守駐在所のほか医院なども並んで、ちょっとした市街集落を形成した。ということである。 なお、芭露市街とは少し離れるが、6〜8号線の商店開業もあり、造材景気が商業の発達に大きくかかわっていたことを示している。 金田一商店(大7=8号線)、太田商店(天12=6号線)、内山根太郎商店、稲垣商店、松本商店(以上大13ころ=6号線)などこうして6号線では、農家、天理教などもかたまって、一時は小市街を形成したという。 |
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(4) 鉄道開通の波紋 | |
湧別駅前市街 | 大正5年11月の湧別線鉄道の全通による湧別駅の開設は、浜市街から4号線市街にかけての一帯の様相を一変させるものであった。 大量高速輸送機関として、絶対の期待を集めていた当時の鉄道事情は、開駅予定地が明らかになるとともに、鉄道敷設に併行して市街化を始動させ、駅前市街(商店街)の形成をみたのであるが、本町の場合は行政編、交通運輸編で記述したように、駅位置の問題でトラブルがあって、おもむきの異る経過を示した。しかし、厳然たる開駅のまえに、結果は駅前市街の勃興となり、貨物の集散、乗降客の往来で繁栄をみるにいたった。 顕著な変容を示した点を挙げると、次のようである。 (1) 運送業言、旅館、飲食店、商店の新規(移転も含め)開業が駅前一帯に集中し、役場、郵便局、学校など既設公共機関の存在と相乗して、中心街区を形成した。 (2) 海運を軸,として繁米していた浜市街が海運の凋落で漁村集落化し、従来の中心街区から駅前面訴の隣後指区になった。 (3) 農産物集散の要衛にあった4号線市街の機能が鉄道(駅)に移ったため、一地域の小市街的存在に凋落した。 この結果、ほぼ現在の湧別市街地=商店街形成の原型ができたのである。 なお、昭和2年に当時としては珍しい百貨店が、湧別市街に開店した。 剣持百貨店である。 |
名寄線と信部内 | 大正7年に名寄銭鉄道の着工をみると、枕木生産のための木工場が操業を開始し、人馬の往来がにぎわいをみせ、現在の笹川宅付近に雑貨店、魚屋、豆腐屋、料理飲食店、旅館などが軒を並べ、信部内にも小市街地の現出をみた。 大正10年、待望の開通をみたとき、それまで湧別駅まで出荷した農産物や木炭は、近くに開架した沼ノ上駅で事足りるようになったことから、地区をあげて祝宴を催したが、せっかく繁栄をみた市街地は、急速に市街地化した沼ノ上駅前に吸収されるかのように、ほとんど移転し、「旧市街」の名称だけが残った。 |
湧網線と駅前市街 | 昭和10年10月に中湧別〜計呂地、翌11年10月に計呂地〜中佐呂間に鉄道が開通して、サロマ湖畔沿いに芭露、計呂地、床丹の3駅が開業し、駅前市街の形成をみるにいたり、テイネー以東の商店街の分布図に、大きな変動をもたらした。 芭露駅の開設は、その位置が在来の芭露市街と重なるという奸条件に恵まれ、在来の基盤の上に街づくりが進行し、昭和7年191戸であった市街戸数は、開通の年の師走には235戸に達し、湧別市街に次ぐ本町第2の市街となった。特に下湧別村産業組合(昭10)、大沢木工場(昭13)の創業は、在来市街の形成要因の上に大きな比重をプラスし、鉄道と結ぶ産業生産物の一犬集散基地の観を呈するにいたり、テイネー以東の中心的存在となった。 このことが、湧網線開通による計呂地市街の勃興などと相まって、テイネー以東の分村問題を燃焼させる大きな原動力になったものと思われる。 芭露市街と明暗を分けたのが上芭露市街で、鉄道の開通は農産物の集散基地の機能を、そっくり上芭露から芭露へ移動させてしまい、商店経営者は年々減少し、上芭露市街の衰退と商業活動の不振を招来して、往時の面影を失った。 湧網線の開通で、無煙の地に新しく市街の誕生をみたのが計呂地駅前で、計呂地地区の住民経済〜商業活動は様相を一変した。芭露と類似した要因から、農林産資源の集散基地として、駅の吸引力が占める地域への影響は大きく、鉄道敷設開駅を10号線に予定して地域づくりを構想したおもわくは崩ずれ、商店をはじめ郵便局、運送店、旅館、料理飲食店などが駅前市街を形成し、本町主要の市街地となった。 床丹駅の開業は、ほぼ計呂地に類似した形で駅前小市街の形成をみたが、その後の戦時統制〜佐呂開村編入という経過から、本町商業史上に特に足跡を留めるほどのことはなかった。ただ湧網線開通により、旧来からの佐呂間経済圏的色彩がより濃度を増し、潜在する佐呂聞への編入の機運を肋長させたことは確かであった 。 |
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(5) 戦禍の投影 | |||||||||||||||
統制の憂きめ | 大正末期〜昭和初期と統いた永い経済の不況と低迷から、ようやく脱出の気運をみせたのも束の開、昭和12年の日華事変の勃発で国家統制という試練を迎え、大平洋戦争(大東亜戦争)へとつづいた戦争は、日一日と商業界の暗影を色濃いものにした。 すべての物資が統制配給とされ、さらに企業の統制による営業の縮少整理が進行し、やがて商品の流通が底をつくにいたって、開店休業状態あるいは転廃業の憂きめをみたが、これらのことについては、行改編に詳述したので参照されたい。 |
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闇商人の横行 | 終戦から1年の昭和21年8月、GHQ(連合国軍総司令部)は産業民主化のため、すべての統制令からの解放を指令したが、輸人がいぜんとして絶たれたままのうえ、国内生産も復調していないという背景があったから、組織統制の解除が先行し、物資統制の解除は需給のバランスがとれるまで徐行せざるを得なかった。 こうしたアンバランスな解放経済につけ人って横行したのが「闇」の一文字で表現された商業行為であった。正常の流通ルートにのらないで取引される物資を「闇物資」といい、それを取扱う者を「闇商人」と呼び、闇物資につけられた不当な価格を「闇価格」と称した。闇商人は巧みに法網をくぐって、まだ統制解除になっていない米など食糧を買いあさり、生産地から消費地への流通を手がけるほか、終戦とともに市場に出回りはしめた軍需物資を入手して、百鬼夜行の闇取引を行い、せっかく自由経済復調の兆しで蘇生しかけた一般商店をしり目に、不当な利潤を追及し、善良な商人を切歯扼腕させたのである。 ちなみに、闇価格の不当な実態をみると、当時、なお残存していた公定価格に対して、次のような高騰を示していた。
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小売店登録制 | 前項で述べた物資統制解除の徐行がみられたのは、生産工業復興が兆した昭和24年後半からで、逐次、統制が撤廃され、衣料品、食料品、乳製品、ゴム製品などの「小売店登録制」が実施されるようになって登録という規制はあったものの、いちおう商店の自由営業の門戸がひらかれた。 しかし、登録制は販売権の獲得(認定)という関門があったので、各商店生が統制配給時代の配給所の実績を背景に、地域消費者に購買店としての指定を求めるという競争があって、白由営業が全面的に開放されたとはいいかねる過渡的な措置であった。 登録制の徹底をみたのは、昭和26年5月の物責統制令解除のときで、同年1月に実施された米屋の登録を除いて、自由流通の道がひらかれた。 |
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(6) 戦後の転変 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自由経済の復活 | 昭和26年5月に「物資統制令」が解除されて、消費物資の生産流通が促進され、悪性インフレーションが鎮静して、社会不安が除去されると、庶民の消費動向も徐々に活発化して、商店の再開および新規開業がつづき、市街地商店の復活をみた。 申し合わせ商工会が湧別市街に誕生(昭29)したときの業者数140名はいかに著しい復活であり、いかに自由経済を渇望していたかをうかがい知る一端である。 |
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経営構造 | 本町の商業は、産業および交通事情の変遷に符合して、農林水産の第一次産業人口を対象基盤として椎移してきたことは、戦前〜戦後を通じて一貫した特質となっている。 従って食料品、衣料品、雑貨など日用生活必需品の販売を主とする小売業が主体で、総体的に経営規模が零細であり、 (1) 資力に乏しく、家族従業を基調とする店舗が多い。 (2) 地理的条件から購買力の流人がなく、固定した顧客範囲に止まる傾向にある。 (3) 一般商店類型とは別に、農業協同組合および漁業協同組合の購買店舗が3店あって、一面で競合、一面で共存の形になっている。 といった不安定要素をかかえて経過してきた。次頁の統計参照のこと。 なお、昭和40年代後半から商店の販売形式に新風を注入したものに、「スーパー」方式かおる。従来の対面販売から脱皮してセルフサービス化したもので、本町でも農業協同組合や漁業協同組合の購買店舗が採用しているほか、湧別市街の一般商店でも2〜3の店舗にみられるようになった。 |
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購買力の流出 | 他からの購買力の流人が見込まれない本町の商業にとって、過疎化の進行による消費人口の減少は、営業の固定対象を失うことを意味しており、総体的に販売低下をみて経営の不振を招く結果となった。特に周辺地区 【商店数】 <商業統計>
過疎現象と並んでというよりも、それ以上に本町の小売店に脅威をもたらしたのが、町民生活の中に根ざした広域消費、つまり町外商店利用率の増加傾向である。この傾向を誘発したのは、昭和30年代後半からの高度径済成長に伴った社会情勢の変化で、 (1) 大衆伝達手段(新聞、雑誌、ラジオ、テレビ)の発達による情報化社会の現出 (2) 自動車の普及による行動の広域化と道路交通網の発達 (3) 生活水準の向上に伴う消費動向の多様化と高級品志向 などの背景があげられる。昭和44年に湧別町商工会が実施した商店街診断のための「買物動向調査」の結果は次のようであった。
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地場防衛の息吹 | 過疎化と広域消流の波は、昭和41年を頂点として、本町の商業の販売伸び率を鈍化させた。 しかも物価上昇を含んでの伸び率であるから、実質的には大幅な低下という現象を迎えた。
従って、購買力流出に対応するための体質の改善による経営の近代化が課題となり、郷土色豊かな商店の研究開発が構想され、町と商工会が一体となって体制づくりを進めている。昭和50年来の主要施策をみよう。 (1) 経営診断、消費者との懇談会の拡充 (2) 展示即売会、地域特産品開発の促進 (3) 消費生活モニター、物価モニターによる消費者保護 (4) 店舗改修、宣伝活動、従業員教育の計画的効果的な展開 |
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(7) 関係機関および団体 | |||||||||||||||||||||||||||||
初期の商工会 | 昭和初期の全国的な景気低迷下の中小商業者対策として、昭和7年に道庁条例で「商工会則度」が定められた。 税金対策、福利増進、不正競争の防止、優良従業員表彰や慰安会開催などを事業とするもので、主として都市型商業地域の組織化が勧奨されたが、本町の関係者は将来展望にたって、地方町村ながら「下湧別商工会」を発足させた。 次いで、同じ昭和7年の9月に「商業ノ改良発達ヲ図ルタメ共同ノ施設ヲ為ス」ことを目的とした「商業組合法」が公布され、全国的に商業者の組織化をめざすことになった。これは、商品の共同仕入れや運搬などの共同事業、共同保管庫の設置、価格協定と乱売防止を軸に、裏付けとして低利融資の進をひらくというもので、本町では下湧別商工会が、法制の趣旨を汲んでそのまま存続した。村をあげての経済更生計画推進の不況期であったから、厳しい歩みであったことは想像されるが、事業内容を明らかにする資料は不明である。 |
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商業組合 | 日華事変に突入し、戦時体制が進行するのに伴い、物動計画に基く経済統制が強化されるようになり、商業組合法も昭和13年3月と同15年4月のニ度にわたって一部改正が行われ、非常時に即応するように強化された, 本町においても行政指導のもとに、昭和15年9月に商工会を解散し、ほぼ全商店を網羅して、決意も新たに「保証責任下湧別商業協同組合」を結成した。概要は、 組合員数 84 出資総額 5,000円 運転資金 10,000円 であったが、政府が進める物資および物価統制のもと、運営は最初から多難であった。詳細は行政編に記述したので省略する, |
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配給統制組合 | 諸物資の配給がほとんど切符制になり、特別配給物資が役場から直接に事業所、町内会部落会、農業会に一括配給されるようになったうえ、一般生活物資の配給品が底をついてくると、商店の機能は極安に薄らぎ、転廃業を余儀なくされる状況となり、昭和18年6月には「戦力増強企業整備要項」が示されて、転廃業労力の軍需工業への転用が企画された。 さらに昭和19年7月には、商業組合無用の見地から、商業組合を廃して配給統制組合の設立が布達されるにいたった。 本町では、商業組合が移行する形で「下湧別村配給統制組合」の発足となったが、詳細は行政編に記述したので省略する。 |
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商業協同組合 | 昭和21年8月にGHQ(連合国軍総司令部)は産業民主化のため、すべての統制団体に解散を命じ、代って同年12月に、自由経済商業への移行のため「商工業協同組合法」が公布され、ただちに施行された。 本町では、昭和22年3月に、戦後の混乱で機能を失いつつあった配給統制組合に終止符をうち、新たな意欲のもとに、民主的な自主経済活動を促進する目的をもって、「下湧別商業協同組合」の組織をみた。組合員相互の団結を図り、やがてくる自由経済に備えるという新生の船出であったが、「戦禍の投影」の項で記したように、 (1) 生産工業の復調に間があって、物資統制の解除が遅々として連まなかった。 (2) 闇商人の横行で正常な商業行為が阻害されて、再起にいたらなかった。 (3) その後の小売店登録制などで利害関係が生じ、組織機能を集約できなかった。 などがあって、組合本来の使命を顕現するもくろみは、ほとんど休止の状態におかれて時が流れた。 |
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申し合わせ商工会 | 昭和26年5月に物資統制令が解除され、第一次および第二次産業の生産が軌道に乗るとともに、小売店登録制は撤廃され、商品の流通が活況を呈するようになり、物価も安定して闇取引的商業行為は鎮静して、新生の気みなぎる商魂の立ち上りは目ざましいものがみられ、昭和27〜28年における商店の復活は著しかった。 こうした新しい局面に処して、個々の力では克服できない金融や税制への対応のため、商工業者の結束が必要となり、有志者の発議により、湧別市街の業者140名を結集して、「湧別商工会」 (武篠源久会長)と称する申し合わせせの組織が昭和29年2月に発足し、改正新税法の研究と対策、金融機関との組織としての対応、販売促進面での連携を事業の柱として推進することになった。その後、昭和30年1月にいたって、遠軽、生田原、丸瀬布、上湧別、湧別の5町の業者776名による「遠軽地方商工会議所」設立の運びとなり、湧別商工会の会員は申し合わせ組合を存続させたまま、商工会議所会員として加入した。遠軽地方商工会議所は昭和28年10月改正の「商工会議所法」に基づくもので、以来、本町の会員が脱会する昭和35年までの間に、会議所議員として名を連ねたのは武藤源久、南川保、嘉多山吉郎、田中長次、坂口秀弥、高橋貫一、蔦保一夫、落合末正らであった。 いっぽう、芭露方面の商工業者の間でも商工会結成の議が進行し、昭和33年に芭露、上芭露、計呂地の各市街商工業者55名を糾合して、申し合わせの「東湧商工会」 (大崎竹茂会長)が組織された。 |
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商工会 | 昭和35年5月20日に「商工会の組織に関する法律」が公布されて、近代的な商工業界への脱皮が促進され、体質強化のため法制上の各種の保証が町村商工会にも付与されることになった。本町でも全町の商工業者を一丸とする組織化が有志の奔走で進められた。 設立趣意書 現在の商工会は申合せにより設置された極めて弱体な組織であるため、これを発展的に解消し、対外的にも公式に意見具申の出来得る法人団体とすることが、商工業の発展に寄与するところ大なるものがあると考えられるので、商工会の組織等に関する 法律の施行に伴い……… 昭和35年11月30日 設立発起人総代 武藤源久、古屋泰寿、山本喜作、喜多山吉郎、石川保重、落合末正、小休国雄、田中長次、坂口秀弥、阿部文男、今野与四雄、大沢良一、小沢虎一、井上正、小林定次郎、長沢政市、横山吉太郎、仙頭直之 その結果、昭和36年1月25目に創立総会が開催され、2月1日付で北海道知事の認可を受け、3月1日に登記を完了し、「湧別町商工会」の誕生となった。以来、 @ 税務対策と経営指導対策 A 税務対策 B 金融対策 C 福利厚生対策 を事業の四本柱として推移してきた。 〔沿 革〕 昭36・3・I 武藤商店の一隅を借りて事務所問設 (職員一名) 昭38 「港まつり」 「湖水まつり」「盆おどり」や祭典奉納「音楽行進」(小中学校)を実施するようになる 昭39・3 従業員による湧別町商工青年部および同婦入部を結成 昭39・51 事務所を高橋商店方に移転 昭39・10 全町一丸の総合カレンダーを作成配布 昭41・2 商工婦入部の再結成 昭42・5 事務所をフタ八時計店方に移転 昭43・8・26 商工会館落成(木造モルタルニ階建228・55u=5,128千円)=11月6日落成式 昭48・12 組織強化のため事務局長制をしく(初代・落合末正) 昭49・7 商工青年部を解消し商工会青年部(20〜〜40歳の店主と二世)誕生 昭51・11 創立一五周年記念式 昭53・9 第一回「青空市場」開催(翌年より年2回開催とする) 昭55・1 観光協会と共同で観光絵はがき「サロマ潮と流水の町」発行 昭55・9 創立20周年記念式典および記念誌発行 【歴代会長】 武藤源久(昭36・2〜39・3)、南川保(昭39・4〜47・3)、阿部文男(昭47・4〜現在) <会員数>=各年度末
湧別町商店連合会(会員35名)、湧別税務指導所(指導数310名)、労働保険事務組合湧別商工会(加入34名)、湧別町商工納税貯蓄組合(組合員50名)、湧別青色申告会(会員115名)、湧別法人会(会員36名)、食品衛生協会湧別支部(会員140名)、北海道火災共済協同組合(加入42名)、湧別町商工会簡易保険部会(加入16名) |
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(8) 金融事情 | |||||||||||||||||||||
個人金融と高利貸 | 経済行為の発達は、自己資本の不足を補う手段として、資金の融通という行為を発生させた。本町における金融のはじまりは、漁業にみられる仕込み制であろう。それは、物件供与〜産物による償還といった金銭以外の要素が、かなり大きな比重を占めていたので、現代的な金融と異質な面をもっていたが、形のうえでも、また内実的にも相互信頼にもとづく賃借行為であったから、形態がどうあれ仕込み制は、個人金融のはしりであった。 以来、開拓期から昭和年代初頭にかけて、庶民金融は個人融資のほか、高利貸、質屋、あるいは隣保互助の頼母子講や無尽など種々の形式がみられるようになったが、開村当初のもようを伝えるものに「河野々帳」の、 「宮崎ョリ借入レ八四百円位トス」 「署ヲ持参セショリ融通セリ」 「金貸一戸横沢」 があり、明治27・8年に人殖した人たちが個人の融資を受けていたこと、高利貸が既に存在したことを物語っている。こうした事情は以後も存続していたとみえて、経済恐慌と冷害凶作で農漁家経済が極度に窮迫した昭和初期の「長山漁家負債状況」 (農業の章=天災の二重苦の項参照)にみる限りでは、個人金融が過半(59・82%)を占め、年利3割に達する高利も稀ではなく、利息支払いも容易でなかったと伝えられている。 |
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質 屋 | 市街地および近郊住民を対象にした庶民金融の窓口として、本町に質屋が登場したのは大正9年のことで、南川吉太郎が副業的に創業したものである。その後、南川長次郎、南川長太郎、福田甚平と経営が受け継がれ、後年、佐藤栄蔵も質屋を開業して、「一・六銀行」とも呼ばれて庶民金融に寄与してきたが、いずれも現在は廃業している。 |
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北海道拓殖と銀行 | 北海道開拓という特殊事情から、明治32年12月に「北海道拓殖銀行法」により、農業開発のための特殊銀行として「北海道拓殖銀行」 (現在の「たくぎん」)が創設されたが、本町の住民とかかわりを特つようになったのは、後述のように、かなり後年のことになる。 開拓が進み、市街形成も発展すると、農民や商工業者は個人金融の不利を嘆き、銀行の進出を渇望するようになり、加えて湧網線および名寄線鉄道の開通で産業生産の流通が活発になったことから、大正10〜11年に遠軽に銀行が進出した。そのうち、旭川に本店を特つ「糸屋銀行」は、かねてから農村地帯に金融の根を張って農民金融機関として名を知られていたことから、その遠軽支店と本町の住民の間にもかかおりを生じ、利用者の漸増をみた。ところが、大正末期になって不況が深刻の度を加え金融恐慌に陥り、今頃銀行も取付けにあって倒産し、大正15年5月24日の朝、遠軽支店に突然「臨時休業」の貼り紙が出されて、預金者は血相を変えたのであった。遠軽支店の当時の預金状況は、 遠 軽 村 893人 37万7,038円76銭 下湧別村 270人 107万4,642円35銭 上湧別村 96人 4万7,432円23銭 生田原村 61人 2万7,351円86銭 で、本町関係住民の利用がかなり多かったことから、衝撃はおおいきれぬものがあった。早速、6月5日に遠軽支店関係の預金者大会が開かれ、次いで旭川で全道預金者大会が開かれて善後策が講じられた結果、10月にいたって、ようやく和議の成立をみた。結末は、関係筋の要請を受けた北海道拓殖銀行が、大正15年12月をもって京浜銀行の全資産の譲り受けを行い、預金者との協定条件に基づいて、預金音に4割7分8厘の預金支払いをして落着したが、不払い52・2%という痛手は大きかった。なお、大正10年代のどの時期かは不詳であるが、一時期湧別に糸屋銀行支店のあったことが伝えられている。 その後の北海道拓殖銀行と本町とのかかわりについては、行改編で記述した信部内地区の信太農場跡地の問題がある。 |
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産業団体の信用事業 | 昭和3年に産業組合(農業団体)が、同10年に漁業協同組合が誕生したことは、農業および漁業の章で記したが、その事業の中に、いずれも信用事業が掲げられ、貯金事業および貸付事業(金融)が組合員を対象に行われている。このことは豊漁業者にとって低金利融資の道がひらかれたことになり、経済不況〜経済更生の時期にあって大きな朗報であった。どの程度の利用状況であったかを明らかにする資料に乏しいが、昭和10年8月の統計からみると、次表のようである。
しかし、戦後に新発足した農業協同組合および漁業協同組合は、法制による各種の制度資金が組合を通じて融資されるようになり、それぞれの項(農業および漁業団体)で述べたように実績をあげている, |
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商工金融の道 | 戦後、経済活動の発展に伴い、商工業者の資金運用が活発化するにおよんで、遠軽信用金庫が本町方面にも営業網を拡大して、利便を開発したが、これについては次項に詳述する。ほかに北海道銀行中湧別支店、北海道拓殖銀行遠軽支店も利用されている。 いっぽう町として商工業振興のために行った金融施策は、昭和36年にはじまっている。これは、従来から商工業者の資金導入は市中銀行など金融機関に依存していたものの、業者の業態あるいは金融機関の営業方針なとがら、融資額が制限されたり、融資を受けられなかったりといった事情があって、小企業や零細業者の経営改善が隘路に立だされていたことに対処したもので、町が金融機関に融資表付預金をなし、その限度内で金融機関から業者に融資させる「商工振興資金融資制度」の道をひらいた。 初年度は600万円の枠で、商工会役員の保証で融資されたが、次第に枠の増額がはかられ、昭和37年には、1,200万円となり、方式も町が返還保証あるいは利子補給をするように改められた。 その後の町融資枠の推移は次のようである。 昭45=2,500万円 昭50=7,000万円 昭55=9,000万円 |
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遠軽信用金庫 | 昭和28年に遠軽信用金庫(本店=遠軽、昭25・7遠軽信用組合で発足、昭27・6信用金庫)が、本町の商工関係者の要望によって、湧別市街の商業協同組合事務所あとに出張所を設置し、業務を開始したが、いくばくもなく閉止のやむなきにいたった。 その後、本町および上湧別町を区域として中湧別に湧別支店(のち中湧別支店と改称)の開設をみたが、町民の強い要望もあって、昭和37年12月3日に、本町のテイネー以西を営業区域(テイネー以東は従来どおり中湧別支店)とする湧別支店が、栄町の高橋商店店舗の一部を改造して開設された。 つづいて、 昭38・10・13 現店舗の向側に独立店舗新築落成しオープン 昭55・6・23 現店舗新築落成しオープン この間、同支店は、町税などの収納および町融資の取扱窓口業務を開始するなど、町行政とも深いかかわりをもつようになった。 歴代支店長は、 鹿野内米蔵(昭37)、山下健治郎(昭42)、秋山竜夫(昭48)、小田晴治(昭549、浪江宣夫(昭57) で、営業実績は次のとおりである。
職員数 6名(同) |
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(9) 流通関連企業 | |
卸売市場 | 人口の漸増で魚貝類の地場消費が拡大した明治年代末期に、大益恒夫らか発起人となって、小売業者が生産者から直接買付けする仲介市場を計画し、浜辺でせりを開いたのが、本町における魚菜市場の発祥といわれている。その後、大益呉服店の家屋を借り受けて委託販売を営むかたわら、せり市場を開設した。 ところが、大谷恒夫らの市場経営行為に、法制上疑義があると憂慮した市街地の有力者10名は、健全な市場の育成と発展のため、出資して株式会社組織の(丸十)湧別市場を設立して認可を得、大益恒夫の委託販売権も吸収して、大正4、5年ころ開設した。丸十は出資者10人をあらわす商標であって、この市場は地場生産物に限らず、村外産の果実、蔬菜、魚介類も取扱い、遠軽魚菜卸売市場が開設された大正15年まで、近隣町村一帯の小売業者を集めて盛況をきわめたといわれている。遠軽魚菜卸売市場の開設後は、次第に業績が下降し、昭和12年には山田社長の死去という事態もあって解散の危機に陥った。これの立て直しのため、石川保重が社長に就任して経営に当ったが、日華事変で統制経済が進行したため事態は好転せず、さらに昭和16年に鮮魚介配給統制規則が施行されて、市場の存在価値を失う時世となった。 水産物の集出荷ルートが漁業協同組合に一本化されて、民間市場の機能が消滅したことから、昭和16年に丸十湧別市場の施設は漁業協同組合に売り渡され、株式会社丸十は解散したが、丸十湧別市場(道指定)の商号だけは貼示された。 戦争のため中絶のやむなきに陥っていた市場機能は、戦後復興とともに湧別漁業協同組合の事業として再興されたが、このことは漁業の章の漁業協同組合の項を参照のこと。 |
製氷事業 | 鉄道の開通で鮮魚介類の市場が拡大され、移出が増加したのに伴い、鮮度を保つための氷の需要が生じた。 大正10年に下湧別貯氷株式会社(資本金2万円)が設立され、湧別川口付近の天然氷を採取貯蔵して販売し、地場消費のほか北見方面の需要にも応じていた。 昭和18年に漁業協同組合も貯氷事業を開始するにおよんで需要が激減し、経営困難に陥り、その後は漁業関係出資者の利用程度に規模が縮小されて戦後におよんだが、新しい漁業協同組合の事業体制が整うにつれて、存続価値を失い、昭和32年に解散した。 |