第5編 産業と経済 観 光

昭和の小漁師top

湧別町史top


 (1) 資源の見直し  (2) 資源の特色  (3) 観光客の受け入れ  (4) 関係団体

(1) 資源の見直し
名勝・名所のころ  昭和20年代半ばまでの村勢要覧や各種の印刷物をみても、「観光」という字句は見あたらない。 それまでは、サロマ湖や湖周辺の景観は、すべて「名勝」として締めくくられていたし、古墳や社ち桜の調和などは「名所」として記載されていて、感覚的には目ぼしい自然のたたずまいや人文を、郷土(村域)が自負し得る景物としてとらえられているに過ぎなかった。
 従って、一部の人々によって採勝され、親しまれるに過ぎず、それらが資源という側面から詮索されることはなく、「詠人不知(詠み人知らず)の和歌的に歳月が流れていた」といえよう。 そんな中で、大町桂月のサロマ湖来遊は一つの教訓となった。

竜宮街道の由来  オホーツク海と一条の砂丘で境するサロマ湖は、延々24`余におよぶ沿岸砂州を配して、豊かな景観を呈していたが、大正10年秋に来遊した大町桂月は、「天の橋立」をほうふつさせる美観に魅せられて、砂丘の道路を「竜宮街道」と名付けて著書に遺した。
     大町桂月「北海道山水の大観」
  日本3景の一なる天の橋立(京都府)は宮津湾と与謝の海との間に突出せる狭洲にして其の長さ42町あり、之に類するものを求むれば伯耆の夜見が浜(鳥取県)、中の海と美保湾の間に突出して長さ3里、天の橋立に対して、大天の橋立と称せらる。尚、其の大なるものを求むれば、北見の猿澗湖とオホーツク海との間に長洲突出す、長さ10里天の橋立に9倍し大天の橋立に3倍す。 幅も言わば、天の橋立は数10間、大天の橋立15,6町、此の長洲は2,3町なり。 大天の橋立は幅広きに過ぐ、橋立と云ふよりむしろ半島と云ふべし。 長さ10里幅2,3町ならば、長さ42町、幅数間と略々型を同うす。 9倍の天の橋立と云ひても名実相応ずる也。 殊に大天の外立は幅広きに過ぐる為に歩きても左右に水面を見ること能わずして天の橋立の突は益々欠くれども、天の橋立も9倍の天の橋立も左右に水面を見る也。 此の9倍の天の橋立に、未だ名あらず、9倍の天の橋立には、地名として妥当ならず、猿澗湖よりとて猿澗崎としても好く、猿澗湖とオコツク海との間に在ることなれば、猿澗の猿とオコツクのオとを合はせて猿尾崎としても好きが、余は滋に「竜宮街道」と命名す、余り奇抜に失するやも知らず、世に通問するや否や。
 猿澗湖は平湖の一種なる海岸湖也。 周囲23里長方形にして沿岸殆ど出入りなく、東南隅に一海水通ず。 下湧別に下車すれば、直ちに竜宮街道の入口に達す。 初の程は幅広きが次第に狭くなる。 中頃とても道路を歩きては一方の水面のみ見ゆるが、風景を愛する者は、足の労を厭はずに尖れる丘陵の上を歩け、さらば左右に水面を見るを得べし。 後には道を歩きても、水面が見ゆるやうに成る也。 左も姻波水茫、前にも山を見ず、唯是竜宮に行くかと思はるばかり也。 此の竜宮街道には部落なし、楢の木断えては又続く、地には玖瑰(はまなす)相連なる其の花紅にして薔薇に似て野趣を帯ぶ、其の実赤くして美麗也。 朝に下湧別より駅馬を雇ひ若くは徒歩にて能取、網走2湖を経て網走に達するを得べし。 竜宮街道を味はむには下湧別より常呂に向かはざるべからざるが、余は都合ありて其の路を逆にとりたることあり・・・・
  天の橋立は成相山より見れば縦一文字となり、樗峠より見れば横一文字となる。 是れ天の橋立の一特色也。 竜宮街道は床丹方面より見れば横一文字となるべきも、之を縦一文字に見るべき山なきを如何せむ。・・・・
  北海道には唯山上に偃松有るのみ、蝦夷松や椴松の名を帯ぶるも杉桧の類にして松とは別物也。若し街道の楢が松ならば、それこそ鬼に金棒也。


が、その抜粋であるが、文体を現代風に直せば、まさに名案内文といえよう。
 その後、湖口開削により砂州は分断されたが、本町側の突端部の砂丘一帯は竜宮街道にちなんで「竜宮台」と命名され、サロマ湖観光の拠点となった。

観光事業の勃興  戦後復興がなって平和な時代がよみがえってくると、「レクリェーション」「レジャー」「観光」といった風潮が、新しい感覚の生活の波として台頭したが、その端的な台頭の契機となったのは、昭和25年の朝鮮動乱による、わが国の経済の急速な発展と国民所得の増加であり、その後の高度経済成長に伴うレジャー産業および観光開発の著しい進展であった。
 本町においても、新しい時代の第3次産業として、観光開発に着目し、名勝や名所を観光資源として見直すとともに、過去かえりみられなかった諸種の資源開発を試みるようななった。主な経過としては、
昭25・8   サロマ湖一帯が道立公園に指定される
昭26・8 町として湖畔景勝地8ヶ所(竜宮台、原生花園、サギ沼、千鳥ヶ浜、サンゴ岬、月見が浜、桜ヶ岡、円山)を遊覧拠点に選定し無名地には名称を付ける
昭27 サロマ湖観光事業実施計画を樹て観光客誘致施設設置に着手し、「簡易キャンプ、貸ボート程度の施設せるに推定1万人来往す」<事務報告>の実績をみる
昭30 サロマ湖内ヨット施設の増設
昭31・4 湧別町観光協会設立(施設、事業を町より継承)
案内標識、遊覧ボートとその桟橋(テイネー、志撫子、芭露二軒橋=翌年流出)を整備
昭32・1 サロマ湖畔鶴沼アッケシ草群落が天然記念物に指定される
昭33・7 網走国定公園の誕生により本町のサロマ湖一帯(5,967f)が編入される
昭34 観光協会が遊覧船「湧別丸」(14d)を107万円で購入し、円山〜桜ヶ岡〜サンゴ岬〜竜宮台を結ぶ湖上遊覧を開始
昭42・3 シブノツナイ縦穴住居跡が文化財(史跡)に指定される
昭46 竜宮台に大町桂月の詩碑建立
昭48・3 円山地区がサロマ湖畔自然休養林に指定され野営場も設置
     7 サロマ湖の青少年キャンプ村開設
昭49・3 北海道自然保護条例によりシブノツナイ湖の湖岸一帯が自然環境保護地区に、湧別神社樹林地が環境緑地保護地区に指定される
昭50〜51  志撫子に町森林公園造成
昭50・11 郷土館(資料展示場)完成
昭51・7 登栄床海浜学校(旧小学校跡)完成
があり、町内外にわたる各種の動向によって逐年盛りあがりをみせてきた。 こうした成果が中村光夫(評論家)をして、
  初めて北海道のけいがいに接した。
と、風雪を経たオホーツク沿岸の風土を満喫させている。

広域観光圏構想  近年、鉄道に加えて航空機、バスなど交通機関が急速に充実し、さらに自家用自動車の普及によるモータリーゼーションのあおりと、労働事情の週休2日制の進行、国鉄や旅行業者のパック旅行や周遊旅行の企画および年金旅行など、次々に観光に新風が持ち込まれて、観光レクリェーション活動は質量ともに増大と多様化の道をたどったが、本町の場合は観光資源に恵まれながらも大雪山国立公園、阿寒国立公園、知床国立公園、北オホーツク道立自然公園など、近接する道内主要観光地との結びつきが薄く、地理的に不利な条件下におかれざるを得なかった。 そのため、サロマ湖周辺はバスやマイカーによるポイント観光通過客が多くはなっても、対流客の増加については展望が厳しいものになりつつあった。
 昭和45ねんころから紋別郡と常呂郡の一部町村および町村観光協会が協議し、「広域観光圏」構想を想定して両郡内周遊の拡大を図り、併せて大雪山、阿寒、知床、北オホーツク各観光地との結びつきを強め、ルート観光地として定着することが企画され、白滝、丸瀬布、遠軽、生田原、上湧別、佐呂間の各町村と本町が共同歩調でPRに当たっており、サロマ湖をオホーツク中部海域観光圏の拠点にという発想がみのりつつある。

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(2) 資源の特色
雄大な自然美  サロマ湖がそこにあるというだけで絵になる雄大な自然は、本町の観光資源の第一の特色である。
断崖絶壁や奇岩の美でもなく、火山活動による山容や湖沼の情趣でもなく、人工によって演出された遊休地でもなく、あくまでも坦々と広ぼうする大自然の大らかさが、訪れる人に豊かな憩いと視野を開かせるところに魅力が存在している。
 さらには大町桂月が「竜宮街道」と命名して、「天の橋立」に比肩すると讃えた砂丘、冬ともなればオホーツクのたたずまいを一変させる大流氷群、いずれも雄大な自然美の象徴である。

明媚な自然の造形   
 雄大な景観にプラスして明媚な天与の美が、四季折々にアクセントをつけるのも、本町の観光資源の特色である。
  水鳥たちがひしめくように郡来して、たわむれ憩う「サギ沼」
ハマナス、アヤメ、エゾスカシユリなどが天然樹林を背景に、残り少なくなった自然美の最後の砦を形成するかのような「原生花園」とキタキツネの遊歩
  湖辺の林に野鳥がさえずり、浜辺に浜千鳥がたわむれる「千鳥ヶ浜」(テイネー浜)
 アッケシ草(サンゴ草)が数ヘクタールの赤いじゅうたんで秋を彩り、ときに丹頂鶴の優雅な飛来がみられる「サンゴ岬」
月見草(宵待草)が観月の詩情ををいざなう「月見が浜」
など、北国の野生が回り舞台のように四季の移りを楽しませてくれる。 それは清純な生命の息吹の中に訪れる人を融け込ませる魅力をもっている。

人工と自然の調和  人工的に観光資源を造成する場合、往々にして自然を破壊して社会問題となるケースがあるが、本町における人工による観光資源の形成は、自然にさからわずに自然の魅力を温存し、人と自然のふれあいの場として調和ある機能を発揮している。
■円山の自然休養林(昭47・3指定)
 ケビン、水道、炊事場などの野営施設のほか、休憩施設、駐車場、円山登山遊歩道が施設されている。
■志撫子の森林公園(昭50〜51造成)
 町有林内に林間広場、林間遊歩道、キャンプ場、炊事場、駐車場、休憩施設が完備している。
■志撫子の桜ヶ岡公園
 地元民の手によってサロマ湖畔沿いに造成され、サロマ湖を一望できるが、円山の遠望、漁労の点景、眼下の月見が浜などの眺望のほか、ファミリー行楽に快適な場で、各種の碑が歴史を物語っている。
■芭露の御園山
 頂上に立てばサロマ湖〜オホーツク海、目を転ずれば、はるか阿寒〜知床の連山も遠望される臥牛状の丘陵が、地元の労作によって公園化され、山麓の神社一帯とつなぐ風情は,清遊や詩作に快適なコースとなっている。

  
原始との対面  シブノツナイ湖に足をのばせば、一帯に無数と見まがうほどの先住民族の縦穴遺跡が展開し、湖岸線には広葉林と植生群からなる自然景観保護地区指定地がつらなり、一種独特の原生の雰囲気に包まれ、海岸一帯の砂丘にひろがるハマナスのたたずまいが、原始の往古をささやくかのようである。
 またシブノツナイ湖は、春はボラ、冬はワカサギの釣場として、釣り愛好者の訪れるところである。

氷原の躍動  厳しい冬になるとオホーツク沿岸を埋めつくす流氷原や、サロマ湖の結氷で景観は一変するが、沿岸随一といわれる本町沿岸の流氷の造形は、カメラ愛好者の絶好の被写素材として評価されており、昭和57年1月のテレビ正月番組では、再三にわたり町内カメラ愛好者の作品が全国に紹介されたほどで、流氷を目当てに遠来する観光客や写真家が絶えない。
 いっぽうの、湖面に展開する大氷原は、かって馬橇運搬のかっこうの通行路であったほど厚く、いま馬橇の鈴の音を楽しむことはできないが、スノーモービルで軽快に疾駆する現代的な光景は痛快そのものである。 また、漁家が時折営むカキの水揚げ・・・・分厚い氷を切って水面を出し、そこから養殖カキを垂下器ごと引き揚げる漁労をみることができるが、これも新しい時代のサロマ湖の冬の風物詩である。 ほかにカレイ、氷下魚の冬漁もみられる。

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(3) 観光客の受け入れ 
入込み客の推移  本町への観光客の入込み数は、宿泊施設など受け入れ施設の整備と平行して逐年着実に伸び,昭和50年代に入って年間30万人を突破しているが、次表のとおり、昭和48〜50年に低迷がみられたのは石油危機の影響によるものであった。
地区
年次
登栄床 テイネー 志撫子・円山
合計 うち宿泊 宿泊率(%)
昭42
昭44
昭46
昭48
昭50
昭52
昭54
452.260
65.765
140.890
160.828
171.946
183.264
182.519
8.844
11.230
15.620
17.482
17.194
61.614
60.149
36.227
43.870
64.530
82.947
89.960
134.634
144.072
90.331
120.865
221.040
261.257
279.100
379.512
386.740
1.414
2.735
10.030
25.248
27.352
35.787
34.941
1・6
2・3
4・5
9・6
9・8
9・4
9・0
これを、種々の要素で似かよった立地にある小清水町と比較してみると、・・・・つまり、本町にオホーツク海,サロマ湖、原生花園とアッケシ草群落、円山自然休養林、流氷、先住民遺跡、水産物があるように、小清水町にもオホーツク海、濤沸湖、原生花園、藻琴山自然休養林、流氷、先住民遺跡、水産物があり、宿泊施設もほぼ同程度の規模で交通機関も鉄道と路線バスの共通点がある。 しかし、入込み客の推移では、
年次
町名
昭42 昭44 昭50 昭52
湧別町
小清水町
90.331
498.998
120.865
655.600
279.100
823.940
379.512
978.837
のように、伸び率では本町が上まわっているが、総体的には大きなへだたりがみられ、周遊面と受入施設の面から課題が残されている。

受入れ施設  宿泊施設、休憩施設、給食施設(食堂など)、レクリェーション施設などのほか、駐車場、案内所および案内板、みやげ物店、キャンプ場など関連施設の充実を期しつつあるが、主な施設状況の現況は次のとおりである。
       【宿泊施設】  ()は収容人員
地区
区分
湧別 登栄床 テイネー 芭露 志撫子 計呂地
旅館
民宿
船宿
2(50)


4(115)
1(60)

1(5)


1(20)
1(20)

2(50) 4(115) 1(5) 1(20) 1(20)
       【主な関連施設】
 ・案内板  中湧別駅前、湧別市街バス終点前、湧別農業協同組合前、芭露郵便局前、計呂地郵便局前
 ・船付場  2ヶ所(志撫子・テイネー)
 ・野営場  3ヶ所(三里浜、円山、森林公園)
 ・ボート   50艘(円山、三里浜)
 ・釣 船  

 

(4) 関係団体
観光協会  昭和31年に武藤源久、鍵谷薫、佐藤富治、嘉多山吉郎、多田直光ら15名が、観光協会の早期設立要望にこたえて発起人となり、会員募集の結果293名に及ぶ賛同応募を得て、同年4月に「湧別町観光協会」が設立された。
 観光協会は、従来、町が実施してきた観光に関する事業や施設の一切を継承し、町商工観光施策と連動して、大要次の活動を推進している。 現在の会員は80名である。
 (1) 観光PR活動の推進
 (2) 広域観光ルートの開発促進
 (3) 特産資源活用の研究
 (4) 観光資源の保全管理
 (5) 拠点施設およびレクリェーション施設の改善整備
なお、歴代会長は大口丑定、村上庄一、鍵谷薫、石渡要助である。

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