やまさん丸
やまさん丸

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1969年頃の概要


所 属  稚 内 港
漁 法  掛け廻し
トン数  125d
漁 種  ニシン、ホッケ、イカ、スケソウタラ、タラ、カレイ類、オオナゴ
漁 期  1月〜3月 スケソウタラ漁  4月〜5月 ニシン漁 6月〜8月スケソウタラ漁 
      9月〜11月 ホッケカレイ類漁 12月 タラ漁
海 域  日本海(樺太上方・利尻礼文島) オホーツク海全域


10月14日、海が季節の変わり目を迎えようとしている時、名寄線の稚内行きの車中の人になり、沿線の海岸沿いを枝幸から眺めながら、これからの地に想いを馳せながらも曇りガラスを指でなぞり、莫迦と書いてみる・・・・馬鹿ではなく、莫迦・・・・!!
 手繰り、底曳き網漁船の通称です。
 板曳き、オッタートロール漁船の通称とは、もっと古い漁法を言う・・・・
機械化になる前の、漁網に付随するロープを手で手繰った事から、手繰りと称されるようになって随分と時は流れたから・・・・
それらの漁船の概略や漁法や、船種なども思い起こし、なお、自ら乗り込んだ底曳き網漁船の事も、乗組員の事も思い出しながら唇に少しの笑みを浮かべ、車窓をよぎる景色に照らし合わせて、随分と幼い自分を感じて波間に見え隠れしている「ゴメ」を自分に重ねて・・・・

稚内に自分がたどり着いたのは、なんの為だったのか? 父の酒乱が酷くなり、母と妹を連れ家を出たのは真冬だった。 母の働いている親戚の加工場へ自分も住み込みで働き、妹もその加工場の二階で共に住み、何もない部屋だったが忘れていた笑い声がみすぼらしい部屋に薄い幸せの明かりを灯らせていた。 
 何時までも世話になるわけにも行かず、部屋を探すと親戚に考えを話すと返ってきた言葉は、小さいけれど家を一軒買ってあるから支払いは月々少しづつ無理のない範囲で良いよとの言葉に、三人顔を見合わせてきょとんと・・・・
 それからの7ヶ月の間母と自分は受けた行為に答える為に、がむしゃらに働いたけれど、加工場に二人で働いて親戚から給料を頂いて、家の返済に充てるのは甘えすぎだとの考えから、自身の仲間に働き口を探して貰って、稚内に良い船があるよ・・・だけど辛いかも・・・なにせ「地獄丸」の異名をとる船だからとの話ではあったけれど、今でも同じ事だと・・・・
 やはり、仲間の言っていた事は大当たり
この船の船頭は、回数で漁をする人だから・・・・

船頭、船長、一等航海士、機関長、一等機関士、甲板長、操機長、調理長
役付の連綿・・・

経過はどうであれ、自分が稚内という日本の最北の街に脚を下ろした事は、何かの力によるものなのか? 
 11月の初旬、粉雪が舞い始めて、3〜4日になろうという時の小高い平坦な丘陵地帯の下に、長く長く伸びきったようにこの街は点在をしている。 稚内の駅に旭川経由で着いた。 出迎えの波間漁業の職員にいざなわれて、社車に乗り繁華街や目抜き通りを一通り説明を受けながら、目的の会社に着く・・・

 会長の名前は「三平」という。 「カジカ」汁の呼び名が三平である。 物腰の静かなそれでいて暖かいものを感じさせるような眼差しで、旅の労をねぎらう言葉遣いに、何かしら・・・・自分が今まで、目上の人というものは?という印象がひどく、違うように、間違っていたように・・・・感じられるのも、まだ自分が幼い事を物語っているのだろうか?
 社長は、外出しているから暫くは会長と話していて下さいと自分に言い、家の面白い事を教えてあげますよ。
実は、このお爺ちゃんの名前は「三平」と言うでしょう・・・
 そしてねっ
社長の名前は「三郎兵衛」と言うんですが、荒木さんは、この名前に何かを感じますか?
 ・・・・そう言えば、これは「カジカ汁」の地方の方言では?
 あなたは、何処の出身なのかしら?
自分は、生まれは噴火湾(内浦湾)の砂原というところの生まれで、小さいころから炭鉱街や漁師町を転々としていたから、どこかで聞いたような気がしたんです。
・・・・老婦人が、自分の前にお茶を差し出しながら、さり気なく話しかける雰囲気に何かしら穏やかに自分の身体が和んでゆくのが、不思議なくらいに解る。 この会社の奥まった部屋に入ってからまだ20分しか経っていないというのに・・・・
丸顔の、60歳を終えようというように思える年代だろうと・・・・椅子に腰を下ろして、自分に優しく、暖かな趣を向けるこの人は、実はまだ52歳だそうです。
なにが、この女性(夫人)をここまでにしたのか、それとも、本来この夫人がもっているものからくる、雰囲気なのだろうか?
 失礼な事ではあるが、会長の話に顔を向けて頷いていると、会長が、荒木君、何かこの婆ちゃんに惚れたのか?
・・・・??
 そんな失礼なと・・・・
夫人の言葉に、そうなんだ、自分はこういう人に憧れを持っていたんだと、改めて自分に問いかけている自分が、会長・・・・「そうかも知れません」
会長・・・・{駄目」・・・・俺が惚れた女だから、誰にもやらん、・・・・でも・・・人が「これ」に惚れるのを見るのは、悪い気がしない。
 へ〜〜〜〜〜。}
なんて、・・・・あとは、3人で自分の話やら、会長の若い時の莫迦話などで、4時間位でしょうか、腹が減ったか?
はい・・・
それでいい・・・・
あとで職員の話では、珍しい事なんだそうです。
会長が、夫人が、初めて逢う人に長い時間笑いながら過ごす事なんて、会社でも自宅でも、余りないそうですよ。 なんて・・・
 どういう風に言われても、落ち着いた感じの自分には恐縮しなければならないような雰囲気など微塵も感じさせない、2人の「器」 「器量」 「大きさ」をみた思いがして、自分の中にある固まった人生観をも溶かしてくれたような時間であり、世界でしたから・・・
 稚内の街に降り立ってから、4〜5時間しか経っていないというのに、もう自分はこの街を好きになってしまっている事を感じさせてくれる位に、度量の大きさというものを教えられた貴重な経験・・・・

この会社の、概要はというと
 北転船といい、500dクラスの船が1隻(この船は主に太平洋を主漁場としている)、350dクラス1隻(この船はオホーツク海、太平洋を主漁場)、129dクラス2隻(オホーツク海と日本海、太平洋と北海道近海での主漁場で1隻はオッタートロール船、自分の船は掛廻船)が持船で、他に加工場を経営し、冷蔵庫会社も・・・・北海道ではやまさん丸「波間漁業」、美登丸「佐々木漁業」、惠久丸「浜屋水産」、寅丸「松田漁業」が、底曳き網漁業では有名である。
 
会社の裏にある、船員の寮に暫くは住まいしなければならない。
多くの漁船員は(所属の船員)家を持つか、賃貸住宅に移り住むようです。 が、自分はそのまま寮暮らしを選びました。
 食事の心配をしなくて良いのと、最低限の家庭道具を必要としないのと門限を設けていないので自由で住んでいられるから・・・・という、安易な理由から(そればかりでもなく、社長一家と隣り合わせに住んでいると家庭料理を毎日一度は、食べられるという美味しい理由もあった。)、離れたくなかったんだと、後から思うと感じますが・・・・・・

 給料の大半は、家宅送金に当て、小遣いはというと相変わらずの船乗りの金の工面としての、会社公認の横流し(主漁業から得る以外の漁獲物)から、結構な金額を懐に、夜の稚内を闊歩して歩く。
映画・喫茶店・図書館・百貨店廻りなど・・・・、時間が経って行くのが余りにも早く感じられたのは、楽しかったからくる内面の時間の経過感でしょうか?
 神社仏閣を巡り、図書館では稚内史を紐解き、港へ行き時間が経つのも忘れるくらいに水平線に見え隠れする樺太の山並みを眺め、樺太とこの地との間をうめる空間に想いと歴史がある事も、その時に感じてみたことが、今に通じる価値観の見方だろうと思う。
 岬から見える海峡と樺太の景色とは違い、空間に見える(感じる)風景が大切なもの・・・・だろう?

 誰か知っている人がいるだろうか?
樺太に日本人が住んでいたことは、知っているだろうし、戦争の終結によって悲しく痛ましい物語が数多く生まれたことも、調べることが出来ようし垣間見る事も出来る。
しかし、
 ソビエトの地と樺太の地との間の、もの凄く近いことを自分は船で見た。
この距離を見た時、この海峡にトンネルが何故に無いのかと疑問が、湧き起こったのも不思議なこととは自分は思わない。
後々、仙台の図書館で知ることになるのだが、やはり、あったのだ。
 戦時中に、その計画が現実に胎動していたのを・・・・
犯罪者や政治犯を1万人規模で動員し、重機を運んで大陸と樺太との両面から、掘削を行い北海道に上陸を開始するという計画は、樺太侵攻とカムチャッカから千島列島南進との併用で進められていたことを・・・
 おおよそ現在の日本海側の留萌と太平洋側の釧路辺りとを結んだ一本の線が、ドイツや朝鮮半島のように、日本での民主主義と共産主義との壁になりうる危険性をはらんでいたことを・・・・知る人は少ない。

人々の生活の流れとともに歴史もまた流れていることも・・・・

そういう風に感じる事を憶えてから、現実に去来する景色も、季節も、物事総てに輪廻というものが当てはめて見ることが出来ることを知る。
 男女間の間にも・・・
 同性同士の繋がりにも・・・
 仲間同志にも、それ以外にも・・・・
人は、感じることで生きてゆける動物なんだと
この地で、知り合った人達・・・・
この地で、自分に関わった人達・・・・
この地で、自分から去った人達・・・・
この地で、得た・・・・・もの、・・・・・大切な価値ある空気!!

 「やまさん丸」 
大きな存在であり、大切な人・・・・