第5編 産業と経済 林業
第3章 林 業
(1)林野の幕開け
(2)造材事業の勃興
(3)森林の受難
(4)造材の変遷
(5)薪炭と茸
(6)造材の推移
(7)営林の改新
(8)営林振興のための施設
(9)関係機関および団体
第3章 林 業
(1)林野の幕開け | |||||||||||
眠れる樹海 | 開拓以前の湧別原野は、原野とか林野というよりも、樹海という字句がふさわしい天然の密林であった。 エゾマツ、トドマツ、ナラ、イタヤ、シラカバ、シナ、ヤチダモ、セン、ハン、ヤナギ、白楊をはじめとして、およそ亜寒帯の樹種はほとんど繁茂し、純成林、混交林とさまざまに林相を形成していた。 こうした斧鉞(ふえつ)を知らない森林は、オホーツク海やサロマ湖の漁族とともに、未開時代には絶好の資源であったのであるが、漁族が宗谷場所の開設で早くから主要資源化したのに対し、森林資源の開発ははるかに遅れるものになった。 それは、道南のように藩政がおよんで、地域の需要や、江戸や浪速への御用木回送といった産業活動(流通)が勃興したところは別として、和人の手近な所で自由に伐採し利用する程度のもので、かりに伐出したとしても、輸送の問題などで市場価格に合わないという時代相があったからである。 従って沿岸でのささやかな用材や薪の価値は、伐出したアイヌの報酬に等しく、その報酬は1日玄米7合5勺の介抱米のほかに賃金として玄米を男5合、女4合を支給するに過ぎなかった。 明治5年の網走本陣の書出しによると、男1升、女5合とあるから、当時改正された新貨幣に換算すると、男が1日6銭ということになる。 開拓者が移住入地をはじめても、まだ森林に資源としての価値はつかなかった。 むしろ農地開墾のガンとして邪魔物扱いされたことは、開拓編で記したところである。 ちなみに芭露の山峡では大正の初めころ、「いくら木を伐っても薄まることのない芭露の山」という例えがあったという。 |
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林政の始動 | 法制的に林政が行われるようになったのは開拓使がおかれて、北海道全体が大日本帝国政府の帰属となったときからで、林野は国有林として位置づけされることになった。 それに伴い明治8年6月に開拓使根室支庁では、初めて伐木を出願させる布告を発し、伐出場所と伐出数量を記載することを定めたが、 薪炭の儀は員数不及記載何方に於て伐出度旨可願出候事 というゆるやかなもので、販売の道のない薪は量的に制限されることはなかった。 また、このころ漁場持制度の改革があって、アイヌが雇用先を失い生活に困るものが続出したので、その保護救済策として、アツシやシナ皮製手工芸品の制作が奨励され、原料樹皮の無料剥取りを認めたが、原木保護のため、明治10年7月に北見国一円に次のような布達を行っている。 網縄及び衣類に製すべき柳椙厚子皮土人者是迄剥き取候来候処剥取候後の本木其儘手入無之より畢竟立ち枯れ致し漸次右品類減耗候条以来剥取後は本木根本より切り倒し萌芽をして成木候条厚く論達可致此旨相達候事<開拓使根室支庁布達令集より> このように、最低の需要に対する森林資源の保護規定が設けられたに過ぎなかった林政も、その後、次第に積極策に移行するが、そのあたりを「北見営林局史」(昭43刊)などから抜粋して、初期の林政の体系をみよう。 ■明治10・4「山林取締例規」布達 官林、公林、邑林、私林の4種に区分され、官林は絶対に伐採を許さない禁伐林とし、公林は3等級に分けて、1等林は官用のみに伐採、2等林は保安林、3等林は「林木払下規則」に基づく民願により伐採させるものとした。 ほかに山林への放火と山林付近での焚火の禁止が定められた。(根室支庁は明13・12から施行) ■明治10・12「山林取締仮規則」 =根室支庁布達 (ィ) 私有地を除くの外、すべて官有なるを以て猥りに立樹を剪伐するを許さず (ロ) 官庁、官園、市街近傍、道路の左右、大小可流の源および可田斗の林木は、凡そ1町より36町迄伐木を許さず これには、翌年1月になって海岸樹木の伐採禁止も加えられ、薪炭材は目通り3尺移譲の成木に限られて若木の伐採を禁止するとともに、さらに3月に林木払下代金も瑠儀のように定められた。 家・船用材は100石に付2円50銭より5円迄 薪 1敷(長さ2尺5寸高さ5尺横6尺)2銭5厘より4銭迄 炭焼用材 1敷に付1銭5厘迄 ■明治11・12「山林監守人規則」布達 これが林業体系のいとぐちとなり、明治13年8月に一部に山林係派出所を置く。 (根室県は明治15年から実施) ■明治14 「林 区」設定 北海道の林区制のはじまりで、全道を10林区に分け、山林係派出所の区域を拡張し、北見国は第8林区として留萌派出所管下となった。 ■明治19・2 国有林を内務省所管とする 農商務省から移管され北海道庁が運営にあたることとなる。 ■明治21 道庁「林務課」新設 網走林務派出所が設置され、紋別郡は紋別分所管轄となる。 ■明治30・4 「森林監守制度」発布 派出所に森林監守人が配置された。 ■明治34・4 「官林保護区域」指定 98ヶ所に保護区員駐在所を設置=本町一円を区域に3号線(現在のスノー食品隣)にも開設。 ■明治41・6 「営林区署制度」発足 全道を5営林区署16営林分署に管轄させ、125保護区員駐在所が設けられ、紋別郡は網走営林区署紋別分署の管轄となり、一時芭露保護区員駐在所が設置された。 ■大正2 紋別分署廃止 ■大正8・4 網走営林区署遠軽分署設置 遠軽分署管轄となり、翌年3月東芭露に保護区員駐在所開設(大10上芭露に移転)。 |
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白楊とクルミ | マッチはすべて輸入に依存していたが、明治11年には国産マッチの輸出に成功するまでになり、阪神地方にマッチ工業の著しい台頭をみた。 そして同13年には完全に輸入を阻止するとともに輸出が伸び、明治末期には年額1,000万円におよぶ貿易産業に発展した。 そのマッチの軸木原料となる白楊(はこやなぎ)は、はじめは東北地方から丸太のまま阪神地方へ輸送されていたが、原木不足を告げるにいたって北海道の白楊が着目されるようになった。 北見国における森林資源の伐出が活発になった第一歩は、実にマッチ軸木原料からであった。 道産の白楊伐出には軸木製造工場の進出が伴っていた。 それは阪神地方のマッチ製造が軸木、小箱、マッチと分業的に個別企業に委ねられていたことから、軸木原木を供給する方法よりも、軸木を地元で製造して阪神の工場に供給するほうが、効率的で加工という付加価値も生ずることに着目した発想であった。 北海道における軸木工場は、明治14年に茅部郡と札幌ではじまったとされており、道南地方に数工場をかぞえるようになった。 明治24年に山田慎が網走の大曲に山田製軸所を操業するにいたって、北見国に本格的な製軸事業が勃興し、以来、本町および近隣町村にも数工場の操業がみられるようになり(工業の章参照のこと)白楊の伐出に拍車がかかったが、開拓者が伐採したものの持て余していた白楊も買付けて原木をまかなったほど北見国の製軸はいん賑をきわめた。 これは北見国が道内最大の白楊蓄積地帯であったからである。 しかし白楊の伐出は、あくまでも白楊だけに止まり、他の樹木は眼中におかず、次から次へと伐出し、払下げ地に白楊がなくなると、また次の林野の払い下げを受けるというやり方であったから、伐出跡は他の樹木が密生していて未開地となんら変わることがなかったし、また、こうした掠奪的な乱伐で白楊がなくなると製軸工場も閉鎖というのが例であったというから、国や道の奨励があったとはいえ、およそ林業とか造材の状態にはいたらない一面があった。 なお、官林内の白楊伐出について、明治27年から工場所有者以外への払い下げを停止する借置が取られたが、これは国や道の軸木生産奨励策の一環であった。 日清戦争(明27〜28)のころから銃床材として着目されていたクルミは、日露戦争(明37〜38)への雲行きとなるにおよんで、伐出が全道的に奨励されたが、本町でも出口助次郎がクルミ材を取扱い、日露戦争当時は御用商人の指定を受け、官有地内でも自由に伐出する特権を与えられ、銃床材として湧別港から東京の深川兵器工廠に直送された。 当時の作業員は100人くらいで、御用商人の印絆天を着用し、活気あふれるものであったと伝えられており、 銃台用クルミは好況なり<明37・勧業年報> がそれを裏づけている。 しかし、銃床材は戦後の明治39年から急減してしまった。 |
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一般需要のはしり | 漁場施設用材として、わずかに伐採されていた湧別原野の森林、開拓者に邪魔物扱いされた樹林に用材価値が付された古い資料として、明治19年に紋別郡一円の官有林払下高の統計<北海道統計>がある。 この年の郡内の戸数は紋別49戸、湧別15戸、幌内6戸を主とし、まだ藤野家資本下の漁業主体時代がつづいていたころで、先述した漁業用に振り向けられたものと思われる。
薪1敷=30銭(明33・庭前値) 木炭1俵=12銭(明29) というように、作物収入の乏しかった開拓当初の農家に、わずかに副収入をもたらす程度のものであった。 また、市街における建築材は、手近に針葉樹材が少なかったことから比較的運搬に便利なサロマ湖畔から伐出されたといわれているが、造材業者によるものではなかったようである。 |
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(2)造材事業の勃興 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
屯田兵村建築用材 | 明治29年からの屯田兵村施設および兵屋建築工事は請負業者の手によって着手されたが、この時旭川の阿部角太郎が用材の伐出を請け負っており、これが本町における最初の造材業者の出現で、 建築用材は前年「イクタラ原野」より切出せしが殆んど欠乏を告げ更に「ヌツボコマナイ水源地」より採出し以て其用を弁ぜり<兵村誌> 湧別原野のイクタラ(現安国駅付近)より伐採し、溝渠に等しいニイタップ川の渓流に径3尺余の巨木を投じ、降雨の日を待ち、或は馬匹を駆って渓流の中を搬出するという労苦を味わい、8、000石内外を社名渕部落(現開盛付近)迄輸送するのに多大の日数を要して、遂にその年に完了できなかった。<古老談> といった語り草が伝えられている。 |
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北見材時代の現出 | 明治23年に「官有森林原野及産物特別処分規則」が制定されて、森林資源の特売制度が発足するにおよんで、資本家による森林伐採の道がひらかれ、特に清国(現中華人民共和国)向けの枕木輸出などに木材商業資本の本道進出がめだち、本町においても腰田某が枕木生産を行っており、同30年代に北海道の林業は著しい進展をみた。 さらに海外木材市場(主として広葉樹)の拡大や,不二および王子など製紙工場の道内建設で需要は増大し、林業は発展の一途をたどった。 特に不二製紙工場(釧路・明38)と王子製紙工場(苫小牧・明40)の本道進出は、トドマツやエゾマツ(パルプ原料材)の需要急増につながったが、これには、およそ、 明治30年代は新聞、雑誌の相次ぐ創刊がめだった年代であった。 ことに日露戦争(明37〜38)に勝ったあとは世論も大いに伸長し、各種刊行物の発行を促しはじめたこともあって、これが洋紙の需要急増の原因となった。 創業間もなかった国内製紙業界は競って生産に努力したものの急激な需要増をまかないきれず、不足分を輸入で補わなければならなかった。 しかも本州ではパルプ材となる針葉樹の原木不足が必至の情勢となり、にわかに着目されたのが本道の森林資源であった。 という背景があり、これによって道東方面の針葉樹がパルプ材として伐出されたのであるが、それらによる活況は、「明治30年代後半〜40年を天塩材時代、同41〜大正7年を北見材時代と呼ばれている」<日本産業史大系>というほどであった。 こうした発展過程を背景に、本町でも下請造材、あるいは小企業による造材事業が発生したものと思われるが、企業系列を知る資料は見あたらない。 明治37,8年ごろ造材を営んでいたものに、出口助次郎、角谷栄政、白井徳蔵、清水喜太郎の名があり、出口助次郎は クルミ銃床材で記したとおりであり、清水喜太郎は輸送船を所有していたというから、かなり本格的なものであったことがうかがえる。 また、明治40年代になると、 湧別の横山清が生田原および社名渕方面の民有林を伐採して湧別浜まで流送し、湧別から汽船に積み込まれて、輸出されていた。 という事実があり、もう一つの木材需要面として、湧別鉄道敷設決定に伴う鉄道工事用材の供給が促進され、けっこうな造材があった模様である。 このように、明治時代の造材は、ほとんど湧別川水系沿いの白滝、丸瀬布、生田原、社名渕方面で行われ、河川を利用して湧別浜に運んで、木材積取船によって移出されていたが、芭露方面での造材は見られなかった。 上芭露地帯の村有地に小作人を入植させるため立木処分が行われ、払下を受けた野村丈太郎、横山清が、大正元年から地元民を雇って造材を行ったのが、芭露方面における造材の最初であった。 この原木は芭露川沿い(現在の13号付近)に集材し、融雪期の増水を利用してサロマ湖に流送して、湖面で筏を組んで鐺沸(現在の常呂栄浦)に運び、湖口から船積みして名古屋方面へ移出したという。 村内造材高が、 大3 1,083円 大5 2万9,601円 と急激に増加したのは、山林分布の状況から芭露方面の造材が本格的になったことを裏づけるものであるが、同時に全道的な開拓の進展による木材需要の増加、鉄道敷設の拡大および工業原料としての需要増に伴って、木材ブームの前兆をみせたことにより、素材価格が表のように上騰したという背景もあった。 国有林払下価格(石当単価)
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木材積取船 | 湧別川水系流域の流送材は湧別港で巻き立てられて、積取船によって需要地に移出されたが、b2年の積出実績に 林産物価格 6万9,100円<北見事情> とあり、これを当時の100石当り単価150円で換算すると4万2,000石余に相当し、入港船舶146隻(16万5,796d)が一般貨物船を含むとしても、木材積取船の入港は湧別市街に活気を注入するものであった。 また、大正2年の湧別港積出実績には、 松・栓 2万5,000石 横山 清 松・栓 5万1,000石 後藤・其の他 松 角 6,000石 横山 清 チ丸太 6,000石 柳 角 清水喜太郎 計 8万8,000石 (持越古材を含む) <殖民公報> と記されていて移出造材の倍増ぶりを伝えており、さらに同年の他からの積出分として、 猿澗 各種32,000石 姉崎・横山・西村・上杉 <殖民公報> があり、芭露方面での造材を物語っている。 しかし、木材積取船のにぎわいは、大正5年の湧別線鉄道全通で一変し、木材は貨車輸送の時代を迎えた。 |
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木材ブームの到来 | 北見材時代とまでいわれた造材は、開拓の一段落地域建設という時代に入って木材需要が上昇するとともに、大量高速輸送の鉄道網の拡大によって、木材ブームの時代を迎えた。 そのあたりを国有林払下価格(石当単価)の高騰を表にみることができる。
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大企業の経営 | 本町の林業形成の特色の一つに大資本の進出があった。 前項に出てくる三井物産株式会社、板谷順助(板谷商会)、三菱美唄炭鉱株式会社、徳川家達(華族)、不二製紙株式会社がそれで、大地積を所有した大規模経営であったから、その動向が本町の林業界の盛衰を左右したといっても過言ではなかった。 全盛期の資料はわからないが、こうした変動も木材市況にかかわった大企業経営の事業縮小や中止が影響していた。 戦後、次頁表の大企業経営に変動があり、一部は農地改革時に解放され、王子製紙株式会社が不二製紙の吸収合併と三井物産所有地の買収を行った結果、大きく地図は塗り変わり、王子製紙では前者を小樽の山本某〜箱崎清八の請負で、後者を西坂仁四郎の請負で造材を行い昭和44年まで搬出したが、原木難から造材事業は大きく縮小されている。 その間の造材実績を次表にみよう。
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(3)森林の受難 | |||||||||||||
森林の受難 | 開拓期の山火については、公安と防災編で記したが、山火事による森林資源の被害については、西芭露の例をみても、 明治44年には全道的な山火があり、この地区でも大きな山火があり、山は枯山と化した。大正3年の大山火も記憶に残っている。 大正8年には裏山の全焼、昭和初期にも旧学校の裏が焼け、戦後間もないころ上遠軽より燃えた火が西芭露奥地に燃え広がり、住民は1週間移譲も消化に出役した。 そのころの標語に「焼け山のふもとの村は皆亡ぶ」と書いてあった。 とあり、森林地帯にあっては、公有林民有林を問わず、山火の被害は住民にとって大きな痛手をもたらすものであった。 |
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戦時需要 | 日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)と戦争が長期化〜悪化する中で、航空機用材、艦船用材、建設用材としての軍需用材、さらには石炭増産のための坑木、代替え燃料としての木炭などの生産増強がはかられたことについては、行政編で概述したが、相次ぐ従軍で労働力不足とあっては、造林保育には手の回らぬままに、ただ、ひたすら割当量伐出に専念したから、無計画乱伐となり山林に荒廃をもたらした。 戦時中と手詳細な資料は見あたらないが、昭和15年の統計から、その一端をうかがうこととする。 【林地状況】 山林地積 9,434町3反(公有487町3反、私有8,947町) 造林面積 67町(公有19町4反、私有47町6反) 伐採面積 171町5反(用材、156町5反、薪炭材15町) 【生産状況】
昭17 1万石 昭20 3万石 と、ひたすらな増産奨励にもかかわらず、労力や資材の不足から大量生産にいたらなかった一面を示している。 |
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戦後の緊急非常伐採 | 太平洋戦争(大東亜戦争)の終結は軍需の生産を解消したが、代って荒廃の著しい戦災を復興するための緊急用途が課題となり、紘鉱業生産施設の整備(炭鉱住宅など)と併せて、木材は「重要指定生産資材」とされ、緊急非常伐採の名のもとに、戦時同様の伐採が続けられた。 指定は昭和25年1月1日に解除され、昭和14年以来の木材統制に終止符をうったが、戦時以来の無計画に等しい乱伐傾向の代償は、昭和26年に農林省が森林荒廃復興対策として、国有林の縮伐方針を実施する結果となり、自由経済でこれからという矢先の本町の林業界に、払下げの頭打ちが宣告されたのである。 戦後混乱期のこととて資料が散逸して詳細は不明であるが、緊急非常伐採の余韻が残る昭和25年の伐出は次のとおりであった。 山林地積 1万8,191町 造林面積 165町(人工造林) 伐採面積 主伐250町、間伐320町 生産量 2万石 |
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台風禍 |
幸いにも本町方面は道内でもっとも損害の軽微なほうであったが、芭露の奥では公安と防災編に概述したような状況に見舞われ、風倒木を処理して造林にかかるまでの苦労はたいへんなものがあった。 そのあたりを前頁の統計が物語っている。 表でみられるように、皮肉にも台風禍は造材量の増大をみて、木材景気を一時的に回復させたが、処理が終わると、戦時中と戦後の荒廃に台風禍が累積して沈静し、造林による登熱待ちの時期に入った。 |
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(4)造材の変遷 | |||||||||
冬山造材 | 造材山といわれた森林での木材伐出作業は、伐採からはじまって港または駅の中継土場への搬出までの作業をいうのであるが、この作業には冬山造材と夏山造材があった。 北海道では特殊用材を除いて、多くの一般用材向けの造材は、 (1) 運搬など積雪を利用することの有利性 (2) 労働力を農閑期の出稼ぎに依存できる などから、まず作業に必要な食糧や資材を運び込む道路の開さくにはじまり、次に労務者のための小屋掛け(飯場)を行った。 実働する労務者は、ふつう次のように組織され、賃金の支払いは出面(日給)か出来高で計算されていた。
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飯 場 | 現代風にいえば現場宿舎のことで、「飯場」という呼び方は造材に限らず、土木や建築などの建設現場でも用いられ、戦後も各種事業が機械化され、近代化されるまで通用語として使われていたが、寝泊まりと食事のために仮設したものであって、そまつな建物で、重労働で食欲が先行したから「飯場」と名づけられたのだといわれている。 長方形の掘立長屋で、屋根も外壁も長さ90aぐらいの長柾ふうの松の割材でふき、小屋の中は入口から奥に長い土間の通路があって炉と食台がしつらえてあり、通路の両側に一段高くなった床があって、居住権寝所となっていて、床には松の小枝と燕麦悍、それに荒莚が敷かれ、その上に各自持参のウスベリを敷いていた。 また、屋根の上部に煙出し、炉の上には干棚が簡易につけられていたが、冬の寒さをしのぐため昼夜の別なく生木を焚いて寒さをしのいだもので、単調な生活は疲れをいやす酒と空腹をいやす飯だけが楽しみであったという。 |
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山 子 | 山子は代償の鋸、刃広、サッテ、ガンタ、トビ、スコップなどの道具を筵や叺で作った背負子に入れて、ズックやゴムのボッコ靴をはくようになるまでは、藁作りの爪子をはき、雪の深い時は、かんじきを用いて作業に出かけた。 山子の作業は鋸の目立てなど熟練を要し、道具代がかさみ、危険度も高いことから、賃金は他の労務者よりも、かなり割高であったが、激しい労働に見合う「山子の1升飯」(弁当)といわれたフライパンのような形のこげ目のついた握り飯は有名であった。 伐り倒された木は枝を切り払って、所定の長さ(おおむね12尺)に「玉切り」されて、山子の作業の区切りとなるが、搬出方法の幼稚な時代は運材がしやすいように(形と重量の点から)角材に削る仕事もあったし、枕木なども造材現場で山子によって成形されたこともあった。 しかし、運材事情が好転するにつれて丸太材一色の造材傾向となった。
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藪出し | 藪出しは数人がグループを組んで、藪の中に山子が伐ったまま散在している木材を山土場(流送の場合は起点の川べり)に集材する作業で、ガンタ、トビ、スコップを用意し、初期には手橇で運び出したこともあったようであるが、おおむねタマ橇を用い、タマに木材の端をのせてカンを打ち込んでとめ、さらに何本かの木材をカンで数珠つなぎにして傾斜を滑らせて運んだものである。 この作業の先乗り(パイロット)は危険度が高いので、運動神経が敏感で身軽なものがあたっていたという。 やがて藪出しにも馬が使われるようになると、適当な傾斜にした雪道を作り、割り木を台にして馬車油を塗り、滑りをよくした上を甘煮角材を曳かせたこともあったが、丸太材になってからは、数珠つなぎの先頭の木材にくさりのついたカンを打ち込み、それを馬に連結して雪道を曳くようになり、これを「カン曳き」といった。 |
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馬追い | 馬追は山土場から駅土場や、流送起点が伐採現場から遠いところでは山土場から流送起点までの搬送をしたが、流送起点への搬送は「タマ曳き」の方法で行われ、駅土場への搬送には、初めは馬橇、のちにヨツやバチバチが用いられるようになった。 馬橇の積載量は3石ぐらいだったので、巨材の搬出には欠陥があった。 大正6,7年ころ造材が盛んになるにつれて、その不便を補うためタマバチが先進地から導入されたのにはじまり、やがてヨツやバチバチなど大量輸送用の橇類が出現して、15石ぐらいの木材が積載されるようになった。 特に雪道に散水した凍結道路の条件のよい時には、バチバチに20〜30石が積まれ、それが40〜50台もつづく光景は冬の風物詩でもあった。<古老談> なお、参考までに、土場における運材の測尺検収に際しての寸法(径)の呼称の例を掲げるが、一般には次のようであった。 5寸=ごんべい、8寸=やぞう、1尺=いっしゃ、しゃくまる、1尺4寸=しゃくし、めしもり、1尺7寸=しゃくなな、ふりそで、1尺8寸=こむそう、2尺=にしゃまる |
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流 送 | 屯田兵村建設用材の伐出のところでニイタップ川の流送のことを記述したが、これについては遠軽町史にも、 ニイタップ川の水量の少ない谷川に直径3尺もの針葉樹丸太を転がし込んで降雨で水量の増すのを待ってわずか3里余の開盛橋付近までの流送に約8ヶ月を要し・・・ と苦難のほどが記されており、馬匹も馬橇(馬車)も道路も不備な時代の窮余の一策的な面をしのぶことができる。 なお、これは季節を限らずに行われた流送であった。 北海道における流送は、全道各地の大中河川で行われ、その歴史は各地の造材の勃興と同時に、それぞれにはじまり、鉄道網の発達で次第に退潮し、道路網の整備と畜力輸送事情向上で姿を消してしまったが、自然の力を利用した流送は大量送材の手段として、欠くことのできない歴史的価値をもつ作業で、本町でも湧別川や芭露川に歴史を印している。 流送は、冬山造材地近辺の川辺の土場に木材を巻き立て(土場に積み上げること)るとともに、川に堰(アバ)を作って融雪期の増水を待ち、春先に巻立てた木材を巻崩してアバに落し込み、アバを切って一斉に放流するが、この方法のことを「鉄砲水」をもじって「てっぽう」と呼んでいた。 流送木を円滑に終着点の溜場まで流下させるためには、専門の流送人が雇われていたが、流送人夫の作業は危険を伴い、未経験者では不可能なことから、本場の木曽川や吉野川方面から、はるばるやってきた熟練者たちで、湧別川では生田原、丸瀬布、白滝方面から河口まで、ポン川〜芭露川ではサロマ湖まで、流送木に上乗りして1丁の長柄のトビであやつる軽快な所作は、人々を感嘆させ、流送風景は春の風物詩であった。 風物詩にも、ときとしてトラブルがあった。それは流木による堤防欠潰で川辺の開拓農地に氾濫があったり、橋脚を破損して交通に支障を生じたりして、農家と紛争を起こすことがしばしばあったことで、大正5年には北見木材同業者組合で対策を協議したことがある。 |
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筏組み | 木材積取船が沖合にきていた時代には湧別川河口と芭露川河口のサロマ湖では、流送木の溜り場で木材の筏組みが行われた。 これは積取船までの運材の能率と利便のためにおこなわれたもので、曳船(ランチ)で曳かれて積取船に横づけして積み込まれたが、芭露川河口の場合はサロマ湖を長躯して旧湖口の栄浦まで筏を曳いたもので、長時間を要するのんびりした光景もまた、湖上の風物詩であった。 その後、湧別線鉄道の全通で湧別港の筏は姿を消し、サロマ湖の筏は大正8年からの馬鉄運送開始で、テイネー浜に回送されるようになったが、流送の消滅とともに姿を消した。 |
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馬鉄軌道 | 不二製紙株式会社が芭露2,404番地2,000余町の直営伐採を開始するにおよんで、大正8年に中間集積土場のテイネー湖畔から中湧別駅土場まで馬鉄が敷設され、さらに同12年にはテイネー東8号付近から分岐して、バロー原野西4号線11号(ポン川)まで11`余が延長されて造材搬出の能率向上がはかられ、昭和4,5年ころまで継続されたが、事業縮小に伴い廃止され、馬橇輸送に切り替わった。 この馬鉄は10年余の寿命に終わったが、当時としては新しい息吹の試みで、住民の関心を集めたものであった。 |
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駅土場集散 | 鉄道の開通は駅土場が木材集散基地化して、沿線地帯の流送は減退し、積取船も姿を消すことになり、かわって山土場〜駅土場間の畜力による道路運送を盛んにする結果となった。 概述した「木材ブームの到来」は、湧別線鉄道の全通(大5)に符合しており、馬鉄の敷設もその延長上の視点にたった施設であって、湧別駅および中湧別駅で貨車積みされるようになったのであるが、特に生産地である芭露方面の木材は、地理的関係もあった中湧別駅に集中するようになった。 こうした状態は湧網船鉄道が開通するまでつづいたが、湧網線の部分開通で芭露駅(昭10)、計呂地駅(同)、床丹駅(昭11)が開業するにおよんで、芭露方面の木材集散は近接各駅に集中するようになり、志撫子、計呂地、床丹方面の森林にも活発な造材の手が伸びるようになった。 芭露駅を例にとれば、 冬期間搬出された木材は、駅土場に山積みされ、その量は〜3万石に達し、1年かかって貨車輸送された。 こうした状況は戦中、戦後もつづいたが,昭和30年代でその姿を消してしまった。 という盛況で、芭露にしろ計呂地にしろ駅前市街は、かなり木材景気で活気のあったことをうかがわせるものがある。 |
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機械化と省力化 | 造材が人力と畜力に頼って操業されたことは、耕作農業の推移と類似しており、その大勢は昭和30年ころまでつづいたが、機械化、省力化の営みもいくつかみられた。 大8 馬鉄軌道敷設(前記) 昭3 上芭露市街の横山武一がトラック(フォード・2d積)を購入し、木材運搬にも使用 昭4 三井物産株式会社がバロー原野(8〜23号)〜湧別駅の冬期間運材にトラクター使用 などが、それであるが、いずれも当時としては特殊な例で、一般には畜力に依存するのがほとんどであった。 しかし戦後は、農業がそうであったように、林業にも機械力の導入による省力化と機動性がもたらされるようになった。 特に北海道の場合は昭和29年の台風15号の被害が契機となって、機械力の導入が急速に進んだ。 北見営林局管内で約1,200万石の被害を生じたため、その風倒木処理を急ぐため、チェンソーや集材機など諸種の機械導入が計画され、同30年から次第に山子の鋸はチェンソーに変わり、藪出しにはブルドーザーやケーブルが、積載にはフォークリフトが活躍しはじめ、林道も自動車道が開さくされるようになってトラック輸送が拡大され、様相は大きく転換するにいたった。 この結果、冬山造材が主体であった造材事業は、夏冬を問わぬ態勢に移行し、トラック輸送の拡大により馬搬が姿を消し、さらにトラック構造の強大化による長距離輸送で、鉄道輸送も激減して、駅土場はさびれてしまった。 |
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農家の副収入源 | 耕作体系や技術の未成熟な時代の農家では、農業収入の不足を補うため、農閑期に薪炭材の伐出や各種の賃仕事への出稼ぎをしたが、最も大きな副収入源は冬山造材であった。 冬山造材そのものが農閑期の農民と農耕馬に労力源を求めていたこともあって、その賃金は農家経済の安定に重要な役割を果たすものであったが、特に馬を使っての運搬に従事する者が多く、ほとんどは飯場付で、馬は雪囲で屋根だけという馬小屋に、麻袋で作った馬服で覆って夜を過ごさせるというやりかたで、こうした出稼ぎが正月を除いて毎冬3ヶ月以上はつづいたのである。 こうして農外副収入源として恒久化するにいたった冬山造材への出稼ぎは、戦後にもおよんだが、機械力の導入とともに圧縮され、トラック運行のできない山間部か、冬期の限られた場合をも沿い手労務需要がなくなり、馬匹の急減とともに、まったく姿を消した。 |
(5)薪炭と茸 | |||||||||||||||||
薪 材 | 湧別市街の駅生徒ともに薪炭の需要が起こり、巻きに商品価値が生じたので、入植農家では開墾地で焼き払っていた樹木の一部を薪にして、副業的に供給するようになった。 しかし、開墾地の樹木が皆伐されると、こうした状態は消滅し、代わって、山林所有農家や、造材残木を買受けて薪炭材製造を行う特定の農家が、供給者として直接販売するようになった。 遅れて芭露や計呂地方面でも同様な経過で、市街地や漁家に供給するようになったが、 庄司喜三郎は人を使って薪1敷を25銭で伐らせ、それを漁場に1敷20銭で相当数量さばき、「やれやれ、これであっぱりした」といったという。 はたのものは1敷で5銭も損したのにと奇異に感じたが、当人は1敷分の木を処分するのに、わずか5銭でしょりできてまわりがさっぱりしたのだから大助かり、やすいものといった心情だったのである。 といったエピソードが伝えられているように、農家の自家用も含めて、薪材は全般的に豊富な状況にあった。 しかし、大正末期になると開拓の早かった湧別地帯では市街関係の消費をかかえながら山林不足の状況となり、供給事情に異変を生じて、薪1敷の価格に湧別70銭、芭露50銭、上芭露40銭と差ができているが、供給地の移り変わりによる運搬距離のかかわりを示したものである。 こうした供給事情の不円滑を反映してか、大正14年に湧別小学校の燃料が石炭に切り替えられるという局部的借置がみられた。 石炭の一般家庭での消費は昭和6年にはじまっていて、しだいに薪の入手が窮屈になり、供給源が遠隔地になったことを物語っているが、学校の燃料の石炭への切替でみるかぎりでは、芭露小学校が昭和17年、上芭露小学校が同18年、西芭露小学校は同40年ころで、山林に恵まれた芭露方面では薪の寿命が長かったことを示している。 以上の経過からみて、薪生産の専業者はなかったようで、すべてが農家の自家用生産および副業生産で地場需要が満たされてきていたが、専業者のなかったことは戦中、戦後の乱伐と重なって、芭露から計呂地方面の市街地でも薪の供給が絶たれる状況となり、戦後復興(石炭生産の正常化)とともに急速に石炭に切り替わっていった。 薪材生産の推移をみよう。
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木 炭 | 湧別市街の形成による木炭需要から木炭生産の萌芽をみて、明治27年に上野徳三郎が炭焼きをはじめた。 当時の取引は1俵(10貫入り)単位で行われ、価格も20銭ぐらい(明29=22銭、一時は15銭まで下落)で推移した模様で,大正初期にかけて次第に山間農家が副業的に製造するようになった。 湧別線鉄道の開通は木炭市場の拡大となり、仲買商人の往来もあって、木炭生産を大いに刺激し、大正6年には4号線の伊藤紋蔵が所有地に炭焼きかまど8基を築造して、4〜5年間にわたって製造移出したというし、芭露方面でも同13年ころ本間沢の谷半次郎が所有山林で炭焼きをはじめたといわれ、大正14年の生産状況<村政一斑>は、 数量 25万3,850貫 価格 3万5,539円(1俵当り1円40銭) と、現在に残る記録の中では最高の数量を示しているから、かなりの山間農家が炭焼きを行ったと思われる。 その後の推移は、次表のとおり<村勢概要>である。
普通木炭 6万4,714貫 ガス木炭 1万2,233貫 計 7万6,947貫 にとどまっている。 戦後になると、戦後開拓の進行で入植者が未開地開拓に挑み、開拓のかたわら炭焼きを営む姿がみられるようになった。 戦後の木炭生産の統計としては次の統計がある。
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椎 茸 | かって山野に自生する茸が、住民の食膳をにぎわしたことがあったが、それが商品価値を伴って市場性を形成することはなかった。 林業資源の副次的拡大による農漁家の副収入源として、椎茸の人工栽培をとり入れたのは昭和22年のころである。 椎茸の人工栽培は森林組合が昭和21年に村有林から榾木の払下げを受けて翌22年春に3,000本余を植え込み、法明寺(錦町)の用地を借りて伏込みを行ったのが最初で、同24年春には榾木から多いものは30〜40個の椎茸が収穫された。 当時の新聞は「椎茸の人工栽培成功」と写真入りで大々的に報道され、見学者や視察者が絶えないほど来訪したものであった。 自信をつけた森林組合では、林業経営者の副収入源に、また食生活改善の一環にと、椎茸菌の斡旋と栽培の指導に乗り出し、さらに組合に特産係も配置して普及に力を入れた。 中には、 菌を植えたらすぐ生えると勘違いして、3年ほどたっても出ないと蒔きにした。 という例もあったが、普及が進み、ナメコ、タモギ、シメジの栽培も手がけるようになった。 しかし露地栽培しかできず、市場にも恵まれず、結果的に自家用の栽培程度に止まっている。 |
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(6)造林の推移 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
最初の植樹 | 明治33年に北海道庁は造林奨励のため、「苗木無代下付規程」を定めて、造林思想の普及を計ったことがあるが、開拓が進んで樹林の皆伐された地域に対する配慮のあらわれであったらしい。 湧別小学校で、 明治38年5月20日落葉松200本植樹<沿革誌> とあるのは、苗木の入手経路は不明であるが、同規程に関連するものとみられ、本町では最初の植樹の記録であり、同じころ北湧小学校周辺にも落葉末が植栽されている。 さらに、 明治41年5月25日落葉松700本校地周囲に植樹せり<沿革誌> とあるところから察すると、学校に集中していたのは、造林思想の啓発と併せて教育環境の整備を図り、これを地域の範とする意図もあったものと思われる。 |
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初期の造林 | 大正2年「北海道植付林造成補助金下付規程」が公布され、内山牧場では、さっそく牧場の網走道路沿いに大量の落葉松を植樹したが、虫害のため枯死して植林を断念したという記録がある。 野津幾太郎も大正7〜8年に規程にそって長野県から落葉松の苗木を取り寄せ、所有牧場内3町歩に植林したが、これが本町における造林の最初の記録である。 大正9年になって「荒廃地造林補助規程」も公布され、造材の勃興と表裏した造林の奨励が、政策的に実施される段階に入った。 同13年に島崎卯一はキナウシに所有する原野に造林を計画して、ドイツトーヒー1,000本、落葉松1万5,000本、赤松(3年生)300本の造林育苗を行ったが、これに対して当時は嘲笑のことばを浴びせる者もあったという。 それは、木材に不自由しなかった当時の人々に造林の将来性を予測する客観的思慮など芽生えようもなかったからである。 また、大正15年に床丹の伊藤常蔵が、傾斜畑地を主とする2町5反歩に造林を行っているが、これは開墾成功検定にきた支庁職員に勧奨されて、試験的に実施したものであったといわれており、のちの傾斜畑地造林の先駆となっている。 以上のように全村的には造林を試みた例は、ごく稀であったが、公的な施策は各種規程にみられるように着々進み、大正14年には瀬戸瀬に営林区署の苗畑が開設され、さらに昭和5年に湧別苗畑の開設となり、本格的施行体制が整えられていった。 これら公的な施行について波高を改めて詳述する。 |
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造林の漸進 | 先達者によって植樹された林地が、年とともに成長して美林が注目されるに伴い一般の関心が高まり、林政の面からは、昭和5年に「愛林樹栽の日」の設定が告諭されて、造林思想の普及と造林の奨励が行われるようになり、植栽を試みる者が漸増したが、特に山間地帯の傾斜地が営農上地力の減耗が著しく、作物栽培では収支償わない畑地もあって、これの活用面から畑地造林が普及するようになった。 本格的な造林の設立が進行したのは、昭和14年に「森林法」が改正され、翌15年に「森林法施行規則」が制定されて、森林組合の設立を見るようになってからで、本町でも同17年に森林組合の設立を見て造林計画が策定され、人工造林の積極的な奨励のために、組合員所有山林7,984町余の施業策として、2町1反歩の苗圃が設置されたが、この苗圃は組合事業としては網走支庁管内最初のものであった。 こうして植栽造林面積は加速度的に拡大されていったが、一面に戦時中に農業統制で生産資材や肥料が窮迫し、さらに労働力の不足で耕作生産条件の悪化が重なったため、低生産地への植林が進行するという事情も手伝っていた。 ちなみに、造林が本格化しはじめた昭和15年の造林状況を示す資料<村政概要>があるので、次に掲げよう。
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荒廃林野の造林 | 戦時中に戦力資源として乱伐された山林は、木材資源の質と量の両面から問題視され、治山治水のうえからも憂慮されて、造林は国家的緊急事となった。 昭和23年に「国土緑化愛林週間」(緑の週間)の設定があり、「緑の羽根」運動で大衆の協力を求めて、造林施策が強力に進められるようになった。 つまり、林野にも戦災復興の願いがおよんだわけであるが、本町における昭和25年の造林実績は次のようであった。
しかし、そうした造林施策とは裏腹に、戦災復興資材として木材需要が急増して、昭和初期に植栽の落葉松など小径木にも需要が生じ、樹齢14,5年は間伐、20年以上は皆伐という状態であったから、一時的に乱伐と造林のイタチごっこ的な現象がみられた。 しかも戦時につづく乱伐で登熱林が極度に荒廃したことから、昭和26年8月に森林法の大改正が行われ、国策として積極的に造林の普及に乗り出すことになり、伐採の抑制を加味した造林5ヵ年計画が推進された。 ところが、その矢先の15号台風(昭29)で、一時造林事業の渋滞を余儀なくされた。 しかし、風倒木処理などの進行とともに、造林事業は以前にも増した勢いで復活し,昭和32年には町森林組合が苗圃2町9反余の拡張を行って苗木の自給自足態勢を固め、造林施業を組合事業の最重点に据えて公私有林の充実をはかるいっぽう、国有林においても営林署の積極策が進行し、遠軽営林所管内では同年造林地1,000fを達成した。 ちなみに、昭和35年の「農林業センサス」による本町の公私有林の人工林面積は769町余に増加している。 また王子製紙(王子造林株式会社)の社有地でも、大々的に造林が行われ、昭和37年までに920町余の造林をみて、現在その林相は他ではみられぬ美林を形成している。 |
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(7)営林の改新 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
町有林経営 | 村が誕生して日浅いころは、村作りの一環として必ず基本財産の蓄積を掲げるのが、一般的な傾向で、その中核となったのが公有林(村有林)の取得造成であった。 備荒的な性格も含めて、学校営繕、薪炭補給、施設用材供給などを目的としたものであったが、歳月の経過とともに経営の目的も変遷をとげて現在におよんでいる。 本町の公有林が行財政面で町(村)勢の発展に潜在的な力をもって経過したことはいうまでもない。 現有(昭57)までの町有林の取得経過は次のとおりである。
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林業構造の改善 | 本町の林野形成は、造在の勃興の項で記述した時代から、私有林(民有林)と公有林(村有林)が官林(国有林)を上まわって経過しているが、これは他町村の林野形成と大きく異なる特色である。
昭40〜42 第1次林業構造改善事業 昭46〜48 (追加事業) 昭48〜51 第2次林業構造改善事業 なお、これら事業の詳細は行政編で詳述しているので省略するが、これら積極的な施業も含めて本町の町有林経営は、道内でも有数な実績と伝統を綴っている。 |
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林相の更新 | 国有林については営林署が、町有林は町が直営で、私有林については森林組合が、積極的に人工造林施業を行って、林相の更新につとめてきたが、その成果は次項の表のとおりである。 【面 積】
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林道の整備 | 森林の撫育管理、造林作業の効率化を図るため、かってはせいぜい人馬が通行できる程度の山道(間道)であった林道を、機械化による機動力駆使にふさわしいものにする改良が進められ、現在は次のようである。 【国有林】
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町有林施業計画 | 本町の町有林は2,176fと、網走管内一の面積を有しているが、戦時から戦後にかけての林地の荒廃から、いち早く造林施業に着目し、5年ごとの年次計画をたて、昭和30年代には毎年30f、同40年代からは毎年50fに施行している。 これは粗悪林を伐採し、将来有利な造林を行う遠大な計画で、昭和55年には造林地912fに達した。 東保から粗悪天然林の皆伐を行って造林する方途がとられていたが、皆伐材は町財政を少なからずうるおすものであった。 しかし近年の木材不況に伴い、カラマツの植林よりも天然林を針濶混交材として温存撫育することの有利性も注目されたため、皆伐造林は50%限度という考え方に変わっている。 戦後から現在までの植林実績は、次頁の表のとおりである。 |
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森林総合利用促進事業 | 町森林組合では、国道238号線の改良工事が行われることになったとき、2間橋〜志撫子間の国定公園サロマ湖月見ヶ浜付近一円100fの林地に、森林総合利用の構想を企図して、昭和50年施設に着手し、翌51年に完成した。 生産機能と自然景観を調和させた中に、間伐枝打の施業、ポット造林、天然林の単木施業、花木植栽など、林業近代化モデル森林総合利用を促進するほか、林間キャンプ場、キャンプフィールド、展望台、あずま屋、休憩舎、遊歩道、駐車場などの保健機能と、広葉樹原生林、天然林など見本林を現出し、一代森林公園化を図ったもので、眼下にサロマ湖を望み、円山を眺望し、さらに知床連山を遠望できる景観に恵まれ、6月15日〜9月15日は林間キャンプ場として解放し、ひろく道内外からの青少年はもとより、一般にも多岐にわたって利用されており、観光開発にも一役かっている。
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(8)営林振興のための施設 | |||||||||||||
湧別種苗事業所 | 昭和5年に遠軽営林支署の苗畑として設置されたのが起源で、網走支庁管内(現北見営林支局管内)で6番目のものであった。 明治32年の湧別原野殖民区画設定のとき、幅182bの防風保安林予定地とされていたところを、大正11年になって、そのうち73bを防風保安林および道路敷地に使用し、残り109b(面積5・41f)は苗畑用地に編入されることになったところに開設をみたものである。 大沢重太郎(当時下湧別森林防火組合連合会長)は開設の経過について、次のように思い出を語っている。 営林区の署長から「湧別5号線の防風林を苗畑にしたいので払下げに助力願いたい」という相談があり、網走支庁にかけあったところ、概にこの用地は近くの農家が無許可ながら開墾しており、払下げるならば当該農家にということで却下された。 その代わりとして、川西に支庁の未開地があるので、そちらにして欲しいという話があったが、苗畑は年間多数の作業員が従事するので、各地からの通勤に便利なところでなければと局側が5号線に固執し、曲折があった。 しかし、当時は極度の不景気で農家経済が沈滞していたため、苗畑をつくることは救農事業になるという視点もあって、地元選出代議士を通じて道庁などに強力に運動した結果、営林財産に編入替えになり、湧別苗畑が実現した。 その後、昭和19〜20年に隣接の防風林を解除し、同32年度以降数次にわたり隣接民有利を買収して育苗地の拡張を図り、現在の規模になった。 おもな経過をみよう。 【沿 革】
・苗畑の面積 20・4f ・川西採種園 9・73f ・苗木生産量 山行き苗木70〜80万本(年間) |
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自然休養林 | 日本3大湖の一つにかぞえられるサロマ湖畔には、本町〜佐呂間町〜常呂町にまたがる亜寒帯性樹種で構成される美林があり、その大半が「網走国定公園」に指定された景勝地に編入されている。 雄大な原始的な森林美と湖水との調和のとれた自然景観資源を、広く国民のための保険休養の場として提供するため、林野庁では湖畔一帯を、 自然景観の維持に十分配慮し、かつ林業経営との調和を図りながら地帯区分をなし、森林のもつ公益的機能を積極的に発揮し、広く国民の要請にこたえる。 ことを目的として、「自然休養林」に指定して、自然休養林事業を実施している。 概要は、 「サロマ湖畔自然休養林」 指 定 昭和48年3月24日 所在地 湧別町()遠軽営林署〜佐呂間町(佐呂間営林署)〜常呂町(北見営林署) 総面積 1,889f うち本町関係施設円山野営場=湧別町計呂地 で、このうち本町(遠軽営林署)関係の面積は751fを占め、円山一帯の地区と登栄床地区が対象になっており、その後の施業の推移から現況は次のようである。
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カラマツ利用センター | 湧別川流域の民有林4万1,180fは、カラマツ人工林が1万3,300fに達しており、将来、主伐、間伐材とも増大することから、従来の分散供給を一元集荷し、安定供給と価格安定を図るため、北海道森林組合連合会の指定で、地元森林組合を事業主体として、昭和47年2月に「カラマツ利用センター」を発足させた。 町森林組合では簡易加工工場を建設し、主として梱包材、パレット材、ダンネージ材の生産を開始し、本道におけるカラマツ材の利用価値の向上につとめた。 さらに昭和50年に林業構造改善事業の中で木材集出荷施設を拡充して、カラマツ利用センターの充実を図り、年間1万立方bのカラマツ材の生産供給と利用面拡大に貢献した。 しかし、次第に記述する森林組合の破綻により、昭和54年で事業は閉鎖された。 |
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林業研修センター | 昭和48年に第2次林業構造改善事業の指定を受けて、林業構造の改善向上を推進することになって、町および町森林組合は協業活動体制の強化整備に着目し、道および林野庁と慎重に協議するとともに、湧別川流域の関係町村および所在森林組合とも合議して、湧別川流域の地域民有林振興の広域事業として、「林業研修センター」の設置が決定され、本町に建設されることになったもので、町が事業主体となり、昭和51年に次のように完成してオープンした。 名 称 林業研修センター 所在地 錦町 規 模 木造モルタル平屋建599u 主施設 実技訓練用広場、実技訓練用機械器具1式、映写機(研修用フィルム)、宿泊施設(定員30名、浴場(昭56改修)、食堂ホール) これらの施設の運営は、町から委託を受けた町森林組合が当り、「しらかば」の愛称をつけて、研修会、会議、宿泊など林業振興と林業後継者づくりに活用されてきたが、町森林組合の存立が行き詰まった昭和55年から、町の直接管理に移して運営をつづけ、同56年10月に新しい森林組合が誕生したのを機に、森林組合に管理運営を委託して現在にいたっている。 |
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(9)関係機関および団体 | |||||||||||||||||||||||||||
営林署 | 大正8年4月に網走営林区署遠軽営林区分署の開設をみるまでの経過については、「林政の始動」の項で記したので省略し、以後の推移についてみると次のようである。
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林産物検査所 | 昭和16年4月に戦争の進展に伴う木材需要に即応する体制として、「北海道林産物検査所規程」が強化され、北海道林産物検査所紋別支所検査員遠軽駐在所所管から分離して、同年8月1日に「芭露駐在所」(芭露市街)が新設された。 大沢重太郎が、 太平洋戦争(大東亜戦争)中は、飛行機や車輌用の木材を大量に伐採したものだ。 計呂地の計露岳などからは、径級80aもあるマカバ丸太や、径級1b以上もある栓丸太などの銘木が生産されたもので、何百頭という馬を使った多勢の人々による人海作戦で増産した。 と語る時代であったのである。 昭和20年5月27日から機構の手直しがあって、「網走支庁芭露林産物検査員駐在所」に改められたが、同45年3月行政整理の一環として廃止され、同年4月からは社団法人「北海道林産物検査会」(民営)が行うようになり、それの遠軽検査所が本町および遠軽、上湧別、生田原、丸瀬布、白滝区域の検査を行うようになった。 |
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森林防火組合 | 開拓手記のころは、開墾のための火入れによる山火発生がひんぱんで、森林資源の被害が逐年増加したため、明治21年5月に「山野火取締規則」が布達されて、開墾地の火入れは警察に届出て許可を受けることとなり、それに併行して入植者に対して「山野火予防組合」組織を勧奨し、自衛を呼びかけた。 本町に山野火予防組合がいつできたかは不明であるが、明治39年3月の「殖民公報」に「山野火予防組合16」と記されていて、これが森林防火組合の前身である。 道庁ではより積極的な住民参加の山火予防体制づくりのため大正3年に「森林防火組合設置規則」を制定して、組合設置に対して補助金を交付するようになって組織の充実がはかられ、本町においても大正10年前後から公認の森林防火組合の相次ぐ発足をみている。 ちなみに村勢要覧では同7年8組合、同9年9組合が組織されており、村内の全組合による「下湧別森林防火組合連合会」も結成されていた。 その後、太平洋戦争(大東亜戦争)による国家総動員体制の一環として、森林防火組合は部落会機構の中に統合されて森林防火部となり、戦後22年3月の部落会解散まで存続した。 |
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森林愛護組合 | 部落会解散のあと、昭和22年5月に「森林愛護組合設置要綱」が示され、同要綱に基づく組合結成が勧奨されるにおよんで、各区に森林愛護組合が結成され、単位組合を網羅した「下湧別村森林愛護組合連合会」も発足した。 昭和38年ころ12組合をかぞえた森林愛護組合は、その後の区域の変動で、現在は13組合(町内11、町外2)になっている。 |
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森林組合(旧) | 戦時中にあらゆる物資の統制とともに林産物も統制経済下におかれ、一般用材向け素材はもとより、薪炭材などすべての消費材も配給統制物資とされた。 これに伴い、昭和14年に「森林法」が改正され、翌15年には「森林法施行規則」が制定されて、山林所有者は森林組合を組織して、森林資源の培養と伐採を計画的に遂行しなければならないこととされた。 同法に基づき本町では、昭和17年6月3日に森林組合の結成をみた。 追補責任「下湧別村森林組合」 組合員 346名(所有面積2町歩以上) 組合長 森垣幸一 事務所 役場内 発足した森林組合は、時局の要請に即して施業案の運営、造林および収穫の殖伐調整、直営苗圃の設置、造林啓発、副産物の指導などの業務に当たったが、時局がら村内生産薪炭関係の統制業務にも多忙をきわめた。 昭17 組合員所有山林7,984町歩の造林推進のため苗圃2町1反を設置(組合事業として網走支庁管内初) 昭23 組合員の福利と事業強化をかねて製材工場建設 事務所を新設し移転(職員増強) 林野経営合理化策として椎茸の人工栽培の導入奨励 昭25 床丹地区の佐呂間編入後も同地区組合員は離脱を嫌って残留 などの業績を重ねて、昭和26年8月に森林法改正を迎え、翌27年2月に新法による「下湧別村森林組合」に組織変更した。 新法による組合は、民有林に関する制度が大幅に改められた結果、強制加入方式から任意加入方式の自主協同体に体質が改められ、 組合員が協同して森林施業の合理化と森林生産力の増進とを図り、経済状態を改善して社会的地位を高める。 という目的にそって、 (1) 組合員のための森林経営案の作成とその指導 (2) 組合員の委託を受けて行う森林の施業および経営 (3) 組合員所有の森林の経営を目的とする信託の引受 (4) 組合員の行う林業に必要な資金の貸付 (5) 金融機関に対する組合員の責務の保証と金融機関の委任による債権の取り立て (6) 組合員の行う林業に必要な物資の供給 (7) 組合員の生産する林産物の運搬、加工、保管および販売 (8) 組合員の行う林業に必要な種苗の採取および育成に必要な施設 (9) 組合員の行う林業に必要な林道の設置と、そのほか共同利用に関する施設 (10) 病害虫の防除その他組合員の森林保護に関する施設 (11) 組合員の福利厚生に関する施設 (12) 林業に関する組合員の技術向上および組合事業に関する組合員の認識向上をはかるための教育、ならびに一般的情報提供に関する施設 (13) 組合員の経済的地位改善のためにする団体協約の終結 などの事業を推進することになったが、すでに強固な経営基盤と推進体制が確立されていたので、施業は順調に伸展し、特に造林施業案の着実な遂行は逐年造林面積の拡大を果たし、その業績が認められて、 昭28 林野庁長官賞 昭29 農林大臣賞 の栄誉を受けている。 その後の主な経過をみよう。 昭28 湧別町森林組合と改称 昭32 苗圃2町9反余の拡張 昭35 チップ工場新設 林道敷設日本一(ヘクタール当り6b強) 昭48 組合員数876名、基本財産(所有山林)351・8fとなる 昭51 林業研修センター開設
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森林組合の破綻 | 昭和53年度末の組合員数639名と、農山村戸口の減少にもかかわらず、ほぼ農業協同組合員数(昭53・655名)に匹敵する組織を誇り、事業量においては、道内約160の森林組合の中で33億6,000万円(昭539と断然トップの座を占め(2位の穂別森林組合は9億円)、日本一の森林組合と評価されていた湧別町森林組合が、昭和54年も押し詰まった2月に、町民はもちろん全道林業関係者を仰天させる事態を露呈して、町中に暗く重苦しい空気を漂わせた。 事件の核心には、「帳簿操作で資産や収益を大幅に水増しして、赤字隠しをした粉飾決算」があり、加えて融通手形の乱発がからむという乱脈経理が原因していて、本町産業の星と期待されていた栄光の座から、いっきょに暗転して破綻倒産の奈落に崩れ落ちたもので、工場閉鎖〜従業員解雇、さらには責任者(組合長)を告訴する騒ぎなど、年末年明けのテレビや新聞報道で「湧別町」の名が、不名誉な事件の中で全道に印象づけられたのであった。 当時の木材業界は、オイルショックの影響で昭和49年グロから急激に木材市況が悪化しており、原木値より加工販売価格の方が安くなるという不況になやまされていたから、本町の森林組合も冷害ではあり得ず、経営悪化が進行し、加えて大口取引業者の倒産による売掛代金の焦げ付きが発生するなど、赤字のふくらみは目に見えていたにもかかわらず、組合はなぜか赤字隠しのため粉飾決算を行ったのである。 しかし、昭和54年春に北海道林務部が組合の53年度決算について、定期検査を行った際に、景気低迷の折りにもかかわらず、 (1) 棚卸資産が前年度比1億2,000万円増=9億5,000万円 (2) 総事業高が前年度比約13億円増=33億6,000万円 (3) 約650万円の黒字決算 が計上されていることなどから不審を抱き、数次にわたる検査の結果、粉飾の事実が明るみに出たのであるが、道林務部の見解は、 組合長のワンマン経営体質、融通手形の誤った操作という放漫経営が原因だ。 全道一、全国一の見栄が乱脈経理の引き金になったようで、こうした経理を永年続けていた疑いが強い。 で、ついに事実上倒産同様に陥った事態は、その後の究明で負債額約4億円を含む巨額の赤字であることが判明した。 この間、関係者および関係機関は、なんとか再建の方途をと苦慮したが成らず、次のような末路をたどって、38年の歩みに終止符をうった。 ■組合長を告訴 昭和54年12月21日付で組合長が次表を提出したが、「責任を明確にするため現段階での辞任は不合理」として受理されず、逆に役員らが組合長の責任を重視して、組合長を遠軽署に告訴する局面があった。 ■工場閉鎖と従業員の解雇 昭和54年12青豌豆漁業権津21日で操業を中止した加工工場は翌22日に閉鎖され、同時に工場従業員56名の解雇が行われた。 このとき解雇手当として在庫のチップ材と製材の現品支給(1人当り約10万円相当)が行われた。 さらに12月29日に事務職員16名も解雇されたが、年の瀬を迎えた失業従業員に対し、近隣町村の木材業者や森林組合職員、さらには本町の労働組合協議会などから、かずかずの支援と激励が寄せられる光景があった。 ■破産宣告 昭和55年2月16日に債権者会議が開かれたが、結論は見出せず、再度債権者会議を開いても債権額の90%棚上など、再建への大筋の同意は得られないことが確実となったため、法に基づく和議か破産かの局面に立たされ、いったんは組合再建を前提とした和議申請を行ったが、却下となり、ついに破産の申し立てを行うにいたった。 これに対して釧路地方裁判所北見支部は、同年9月4日に破産宣告を行った。 |
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新しい森林組合 | 昭和55年8月に森林組合の破産による解散を兼ねた報告集会があったが、その集会終了後、「母体解散のままでは民有林の疲弊を招き、森林所有者は経営上支障をきたすので、早急に新しい森林組合を設立する必要がある」とのおおかたの要望にこたえるべく、森林組合創立の準備に取り組むことが申し合わされた。 準備委員は広く町内を網羅した50余明で発足し、昭和56年3月に準備委員会が開かれ、谷口勇ら40余名の発起人を決め、翌4月には各地で地区懇談会を開催して、設立の趣旨説明と加入勧奨を行い、次いで5月の準備委員会では全会一致で発起人の目論見書(原案)を承認したが、この時点で設立同意者334名、出資見込額1,548万8,000円であった。 昭和56年6月18日に設立総会が開催され、直ちに設立認可申請を行い、同年7月25日認可の運びとなり、同年9月24日に設立登記を完了し、新しい森林組合の発足となった。 登記時の概要は次のとおりである。 名 称 湧別森林組合 地 区 湧別町一円 面 積 5,370f 組合員 323名 出資金 1,479万7,000円(1口=1,000円) 事務所 湧別役場内 組合長 谷口 勇 |
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