第2編 先 史

ぺーじtopへ  百年史topへ


第一章 遺跡と出土品

(1) 古代文化の軌跡
 常紋の旧人 遺跡遺物の調査研究 先史の推移 先史時代の生活
(2) 先縄文文化
 分布と出土品 東地区の遺跡
(3) 縄文文化
 分布と出土品 市街地および東地区の土器 市街地および東地区の石器 登栄床地区の遺跡
 川西および信部内地区の遺跡 芭露および志撫子地区の遺跡 周辺地帯の遺跡
(4) 続縄文文化
 分布と出土品 登栄床地区の遺跡 芭露地区の遺跡 川西および信部内地区の遺跡 周辺地帯の遺跡
(5) 擦文文化
 分布と出土品 川西および信部内地区の遺跡 登栄床および芭露地区の遺跡 周辺地帯の遺跡
(6) オホーツク文化
 特異性と分布 川西地区の遺跡 登栄床地区の遺跡 周辺地帯の遺跡

 第二章 アイヌ社会
(1) アイヌ民族の消長
 湧別アイヌ コタンの衰運 豪勇ハウカアイノ
(2) アイヌ語地名考
 町内の地名 町名の由来



第一章 遺跡と出土品

(1)古代文化の軌跡
    常紋の旧人  いまから約二万年前の氷河期に、間宮海峡や宗谷海峡が海面降下によって陸続きとなり、シベリア大陸からマンモスやトナカイが北海道にも渡ってきて、棲息を始めたといわれているが、同時に人類の渡来もあり、これを「白滝人」と呼んで古代史に位置づけしている。 土井茂雄博士(元北海道地下資源調査所長)の一文に、それらについて次のように記されている。

 
マンモスのいた頃、白滝や置戸などにマンモスやトナカイを追って、狩猟を生活とする旧人が来住していたが、この旧人たちは黒曜石(十勝石)を割り、石の片を細工してナイフや石やりなどの必要な道具(旧石器)を作っていた。そのづくりの石器手法がシベリア大陸の旧人とよく似ていることから、白滝や置戸の旧人はマンモスを追って北海道に渡来したと考えられており、この旧人を「白滝人」と呼んでいる。勇敢で逞しい人種で・・・・
このことは、おそらく白滝を拠点に旧本町地域(上湧別分村以前)が、旧人の生活舞台であったことをしのばせるものがある。 また「湧別町史」<昭和40年>も次のことにふれている。
 昭和29年に寿都郡樽岸遺跡で、北海道で初めての先縄文文化(無土器文化)の調査が行われ、次いで白滝、遠軽、置戸、北見市上常呂でも同年代の遺跡の調査が行われ、北海道にも土器以前の文化が本州の先縄文文化に平行して存在していたことが明らかになった。

これら古代の遺跡は、その大部分が山稜地帯に分布しており、ことに湧別川上流にあたる大切山系の北東部の高原地帯に濃い分布を示しているが、これら北海道における無土器文化の研究の端緒となったのが、湧別川の河岸段丘上から、大正年間に発見された特異の形態の石器類(遠軽町に保管されている)であったことは、本町にとっては近接地であるだけに深い関心がもたれた。

遺跡遺物の調査研究  本町に存在する先住民族の遺跡および遺物については、早くから有識者の関心をひき、対象14年ころに本町在住の小川市十らによって、村内各地から出土した資料の収集保管がなされ、その後、北海道学芸大学河野広道教授、網走市立郷土博物館米村喜男衛館長、遠軽町の遠間栄治ら考古学研究の先覚者によって、川西地区の竪穴群の視察が相次いで行われたが、本格的な調査研究は、昭和30年代になってからである。

(1) 昭和31年7月の北海道大学の調査
北見地方に存在する先縄文文化の遺跡を調査中の大場利夫教授が、たまたま小川市十が保管していた資料を観察し、園中に当時学会で話題になっていた先縄文文化の出土品のあることを知利、その後町在住の高野宏一の援助のもとに大場教授が、東3線の市川谷蔵所有地および隣接地の本格的調査を行った。
調査の結果は昭和33年3月に同大学児玉作佐衛門名誉教授と大場教授の連名で、北方文化研究報告第13輯(北海道大学北方研究室刊行)に「湧別遺跡の発掘について=石刃鏃を伴うブレート文化の遺跡」と題して発表された。それによると、
 本遺跡は「石刃鏃を伴う(ブレード)文化」の遺跡であって、無土器文化の中でもその性格が不明瞭な遺跡であり、昭和25年に北海道大学名取武光教授が発見した吉野台遺跡(浦幌町)と同様の性格のものである。
ことが判明しており、この報告書は先縄文文化の仔細な報告書としては、日本で最初の文献となった。これを契機に本道北東部でも同じ性格の遺跡が次々と発見されるに至った。

(2) 昭和35年8月の網走市立郷土博物館の調査
町教育委員会の援助により、米村喜男衛館長を主流とするオホーツク文化研究会のメンバーが、川西地区の遺跡のうちオホーツク文化の竪穴について調査し、多くの貴重な資料を得、昭和36年1月に「川西遺跡の調査報告=米村喜男衛」にまとめられた。

(3) 昭和38年10月の網走市立郷土博物館の調査

町教育委員会の依頼により、館員の米村哲英が網走市および本町の有志の参加を得て、川西地区の擦文化の竪穴遺跡を調査し、竪穴の構造を解明し、土器や石器など多くの出土資料を得たが、この地帯には現在約500個に近い竪穴遺跡の存在が確認されており、擦文化の遺跡群としては、道内でも著名なものとなっている。


なお、関連して本町に近接する地帯の調査を参考までに記すと、次のようであり、本町内の調査とこれらを総合すると、本町方面の大要が鮮明なものとなってくるのである。

昭30・6    上湧別町上富美遺跡(大場利夫教授)
昭30・7    遠軽町社名渕および瞰望岩遺跡(大場利夫教授)
昭30〜31  白滝遺跡(北海道大学と白滝団体研究会)
昭34〜36  白滝遺跡(同前)
昭31〜    紋別遺跡(北海道学芸大学河野広道教授)
昭32・10〜 常呂遺跡(東京大学考古学研究室駒井和愛)
昭38・7    サロマ遺跡(旭川市立博物館佐藤忠雄)

    先史の推移  本町および近接地の遺跡や出土品から判明した、本町における先史文化の変遷は、先縄文文化(無土器文化)にはじまり、縄文文化を経て、縄文文化の伝統を受けた続縄文文化、そして擦文化と経過し、アイヌ文化の時代へと推移している。 したがって本町に人類が住みはじめたのは、およそ一万年の昔にさかのぼるものと思考される。

 本町の東地区で発見された石刃鏃の文化は、道内および本州各地に分布している。 いわゆる石刃の文化とは性格を異にしており、北海道独特のもので、分布は北海道の北東部沿岸地帯に濃く、本町と浦幌(吉野台)と女満別(豊里)の遺跡が代表的なものとされている。 この文化が道南や本州に波及していないのは、おそらく源流を北方大陸にもち、道内北東部にわずかに伝播して終息した特色ある文化であると考えられている。

 時代区分  文化内容    遺             物  遺         跡   推定年代
町内 近接町村
旧石器時代 無土器文化
(先縄文文化)
石 器 石刃 上湧別、遠軽、白滝
常呂、紋別
(前)5000年



(前)4000年






(前)3000年

(前)2000年

(前)1000年

0年(紀元)




1000年




1500年












石刃鏃









早期 土器(尖底、平底)
石器
燃糸文土器 川西
絡縄体圧痕文土器
前期 土器(筒形)、石器 綱文式土器
押型文土器 東、登栄床 遠軽、紋別、佐呂間
北筒式土器 東、芭露、志撫子、登栄床 上湧別、遠軽、紋別
中期 土器(筒形)、石器 網走式土器 東、登栄床 遠軽、紋別
後期 土器(鉢形、壷形)、
石器
野幌式土器
晩期 土器(鉢形、壷形)、
石器
栗沢式土器 東(苗圃)、信部内 生田原
遠軽





続縄文文化 土器(鉢形、壷形)、
石器、金属器
前北式土器 芭露 佐呂間、遠軽、紋別
後北式土器 川西、芭露、東 佐呂間、遠軽、紋別
擦文文化 土器(鉢形、壷形)、石器、金属器、紡錐車 オホーツク式土器 川西、登栄床 佐呂間、紋別
擦文式土器 川西、東、登栄床 佐呂間、遠軽、紋別
金属器時代 アイヌ文化 漆器、鉄器

 また、本町で見られる縄文文化の主要なものは、絡縄体圧痕文、綱文、櫛目文(シブノツナイ式)、網走式(向陽ヶ丘式)、北筒式、野幌式、栗沢式などの土器文化である。 はじめのころは系統の異なるいくつかの土器があるが、前期になると北筒式が代表格となって、普遍的に分布しており、後期には、野幌式、晩期には栗沢式と、斬新しながら変遷している、この推移は道内北東部で一般的に認められる常態であるが、節目文や網走式は本町と周辺のみに偏在しており、おそらくは源流は北方大陸にあるものと考えられている。

 続縄文文化のころになると、前北式と後北式がみられ、ついで擦文式、オホーツク式などが出現しているが、そのうちオホーツク式以外の文化は、道内北東部に普遍的に分布しているもので、本町も例外ではない。 オホーツク式文化は、その点おもに道内北東部のオホーツク海沿岸に限られ、内陸には浸透していない特異なもので、擦文文化期に大陸方面から本町方面に伝播したものである。

 したがって本町の古代社会は、北海道北東部に分布していた文化の中で生育し、その一環を成していたが、何時も北方大陸から本道に流入する外来文化の窓口的役割、ないしは拠点的立場に置かれていたといえよう。

 先史時代の生活  本町で発見された遺跡や出土品によって、先史時代の人々の生活を推察すると、人々の住居は河川や湖沼近くの段丘上に、竪穴を構築して営まれ、生活の糧は河川や湖沼の魚貝や海獣、丘陵で獲れる陸獣によって支えられていたと考えられる。 また、金属器や鉄器が出現するまで、利器として重宝された石器の材料は、石刃鏃以来、そのほとんどが黒曜石であることも特色で、黒曜石が火山活動による噴出物であることを思えば、本町地域にも火山活動の影響が、さらに古い時代にあったか、あるいは本町地域が黒曜石の原産地に近かったかを想像させるところであり、黒曜石が以下に重要な役割を果たしていたかをしのぶことができる。

 なお、本町の遺跡が、縄文中期ころまでは現在見られる丘陵の麓付近に分布し、後期以降擦文文化期までのものは、湧別川の河岸段丘やサロマ湖畔段丘の上に営まれているのは、海峡海退に起因するものであることを示している。

 こうした先史時代の生活と文化を証明する出土資料は、つぎのとおり保管され、貴重な考古学資料として、また民俗資料あるいは郷土資料として伝えられている。
(1) 湧別町郷土資料館
小川市十が収集した資料を同人が町に寄贈したもの
(2) 北海道大学付属北方文化研究施設
昭和31年に北海道大学が発掘したもの
(3) 網走市立郷土博物館
昭和35年に川西地区で発掘したもの
(4) その他
一部が湧別小学校に、そのほか清野忠(遠軽町)、三宅昭二(上湧別町中湧別)、近藤忠(網走市)、佐藤信雄(西芭露)、伊藤留作(西芭露)、聖明寺(上芭露)が保管している。

(2) 先縄文文化
  分布と出土品  ほとんどが山稜地帯に分布しており、あとの縄文文化遺跡とは著しく立地条件を異にしているが、これは海侵海退出、地形の変化があったことに起因するとされている。
 遺跡から出土する遺物は石器で、あとの縄文文化以降の石器とは特徴を異にしており、ヨーロッパに見られる旧石器時代の各種石器と、形態や製作手法に共通する点が多く、しかも洪積土と考えられる地層に包含されているので、年代的にもヨーロッパの旧石器文化と対比しうるものである。
 出土品の種類は、長さ10ab×幅二ab前後の(ブレード)、不整形の剥片石器(フレーク・ツール)などの利器が主体で、石刃製作用具の端削器(エンド・スクレーバー)、彫器(グレーバー)、舟底形石器などのほか、石核(コア)といわれる石刃を剥いだ円錐形の母岩などが伴出しているが、原材のほとんどが,湧別川上流に産出する黒曜石である。

 本町および周辺の先縄文文化遺跡は、湧別川に沿った高原地の現河川より10b前後高位の段丘上に分布しているが、これは中湧別、上湧別、遠軽、瀬戸瀬、丸瀬布、白滝など南方丘陵の全域にわたる分布と脈絡するものである。
また、西芭露や上芭露でも、開墾した笹薮などから多くの石器が出土しているところをみると、芭露川、志撫子川、計呂地川沿いの丘陵地帯にも、全般的に先縄文文化期の人の気配があったものと推測される。

   東地区の遺跡  昭和31年7月に行われた市川谷蔵所有地および隣接地の調査は、A〜Eの五地点が選定されたが地層は第一層が黒土層、第二層が黄褐色の粘土層、第三層が黄色粘土層で、遺物は主として第二層の下縁と第三層の上縁から出土しており、樽岸、白滝、置戸のように粘土層の中から出土しているのと比べて、おもむきの相違が認められる。 また、立地が海岸線に近い低地帯であることも、白滝など他の遺跡の状態とは著しく異なる一面である。
 出土品の種類は石刃(ブレード)、石刃を用いて作った石刃鏃、石刃先、石刃を加工して作った端削器(エンド・スクレーバー)、彫器(グレーバー)、それらの原石となった石核(コア)、擦切手法で作られた石斧、砂岩の石鋸、自然石を加工した磔器、石錐、装身具などであるが、土器が少数混在している場合が認められている。 土器の混在は、東地区の先縄文文化が土器を伴っていたのかどうか不明であるが、縄文文化に接近した年代に形成された遺跡と見るのが妥当かもしれない。
 なお、生活遺構の跡は、何の手がかりも得られなかったが、その後に調査された女満別の遺跡では、生活跡の外郭に柱穴が円形に配列され、その中心部に作業台が配されていたので、それに類似した平地住居の様式であったと考えられている。

 一連の先縄文文化遺跡と見られるものの調査は、その後も各地で進められ、浦幌、えりも、東神楽、端野、訓子府、置戸、雄武、枝幸、網走(嘉多山、天都山、クッチャロ、呼人、湖荘付近、向陽ヶ丘、大曲)、常呂、女満別、美幌、斜里、紋別にまで、その広がりをみせている。

 そして昭和46年にいたって、網走開発建設部が翌47年に東地区国営直轄明渠排水事業を実施する計画を知り、関係機関と再三再四折衡の結果、国費で東三線の市川谷蔵所有地を再び調査することになり、大場利夫教授の推薦で、札幌大学文化交流研究所木村英明所員が主流となって来町,網走開発建設部、市川谷蔵、湧別高等学校郷土史研究サークルなどの協力のもとに、昭和47年7〜8月発掘調査を行った。 この結果は、昭和48年に「湧別市川遺跡」(市川遺跡調査団)として報告されているが、それによると出土品は、
(1) 石器類
石核60、石刃2.447、彫器397、掻器および削器の類164、彫器から剥がされた削片333、尖頭器31、石刃鏃136(押圧剥離状)、石鏃29、石刃槍5、ナイフ55、石斧39、石錐40、砥石34、敲石5、磨石18、凹石4、石皿29、装飾品3、石鋸10、石匙3、ロク200、 原石71、矢柄研磨器1、鋸2、剥片9.944

というおびただしい数に上っており、昭和31年の発掘調査の資料に大きな証左を付加することになった。 また、昭和31年の調査同様に、次のような伴出土器がみられた。
 絡縄体圧痕文土器
 無文土器
 条痕文土器
 斜行縄文土器
 貝殻条痕土器
この土器の伴出は、やはり、ごく縄文文化早期に近く、先縄文文化と縄文文化早期が重なったことを意味している。 なお、北筒式土器が一部にみられたが、報告書では、これは後に混入したものとして、いちおう研究資料から外している。 特に昭和47年の調査が有意義であったのは、浦幌遺跡に次ぐ貴重な資料の出土があったことで、浦幌遺跡との共通点解明はもちろんのこと、人類学上、考古学上からも重要な文化財となったことである。 そして、本町が古代文化流入の一大拠点であったことをも物語っていたのである。
 以上のように、東地区における立地条件や地層位は、縄文文化の条件に近似しているが,出土品は先縄文文化に極めて類似しているので、おそらく先縄文文化の様態を、比較的後代にまで保有した人々が縄文文化の初期に近い年代に居住し,北海道の北東沿岸地方を占拠していたといえよう。


(3) 縄文文化
   分布と出土品  北海道の地形は、縄文文化期に入って混在とほぼ同じ形状となり、漁労や狩猟に依存した古代人は河川湖沼に沿って集落を形成して生活したので、先縄文文化期の山稜地帯とは趣を変え、現在の河川や湖沼に沿って多く分布している。
遺跡を広く北海道各地にみると、その種類は遺物包含地、竪穴住居跡、貝塚、砦(チャン)、環状石籬(ストーンサークル)環状土籬、積石墳墓、盛土墳墓、洞穴遺跡などがあるが、本町方面で確認されているものは、六号線と七号線の間に存在してといわれる積石墳墓(栗沢式土器が出土)と、湧別市外地区をはじめ登栄床、テイネー、芭露、川西、信部内、志撫子などでみられる遺物包含地、また信部内、芭露、登栄床、川西に残存している竪穴住居跡などであって、種類は多くないが遺物包含地と竪穴住居跡の分布は全町に及んでいる。

出土品の種類は、土器、石器、骨角器,装身具などであるが、市街地および東地区からは、縄文文化早期とみられる、
 絡縄体圧痕文土器
 撚糸土器
 押型文土器
 綱文土器
など多くの種類が出土し、さらに縄文文化前期から中期と考えられる北筒式土器、縄文文化後期の野幌式土器、縄文文化後期から晩期の栗沢式土器も出土している。 また、登栄床、テイネー、芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地、川西、信部内の各地からも、各期の土器が出土しているので縄文文化の人々は本町に広く足跡を残しているといえる。


   市街地および
   東地区の土器
湧別川東岸一帯で、湧別市外をはじめ、東の東南部、テイネーを含めた低地帯の一帯で、本町に存在する縄文文化の遺跡の多くが密集している。
 遺跡には竪穴、遺物包含地などがあるが現在埋没していて、地表からは認めがたい状況のものが多い。 しかし耕作などによって出土した資料はかなり多く、出土品のほとんどは土器と石器であり、絡縄体圧痕文土器、撚糸文土器、押型文土器、綱文土器、北筒式土器、網走式土器、栗沢式土器などがみられる。
 絡縄体圧痕文土器は、東三線の一号付近から出土しており、特徴は深鉢形平底で、胎土に繊維は含まれず、比較的薄く作られていて、文様は口縁部,胴部,底部などに殻縄体の圧痕文様が規則的に付されている。 この土器は、本町以外でも紋別、美幌、女満別、網走、釧路、浦幌でも出土しているが、出土地点を標式として東釧路式、タンネットウE式、梁川町式などと呼ばれている。

 撚糸文土器は、東三線二号付近から絡縄体圧痕文土器や押型文土器と混在して発見されていることが多いが、完形に復元するほどの出土物がないため特長は明らかでなく、器形は深鉢形で尖底に近いものと推察されており本町以外でも美幌、斜里、釧路、根室に分布がみられる。
 押型文土器は東三線一号付近から出土しており、特徴は焼成温度が中等で、胎土に繊維を含むものと含まないものがあり、肉厚も中等である。 形は深鉢形で、底は尖底のもの(温根沼式)と平底のもの(神居式)がり、文様は縄文とは異なり、押型文を連続回転して斜め方向や縦方向に施文する手法になっているが、本町での出土は破片のみなので温根沼式が神居式かは明らかでない。 本町以外では紋別、美幌、女満別、網走、斜里、釧路、根室などで出土している。

 縄文土器は東二線六号の墓地付近から出土しており、特徴は焼成温度が比較的低く、胎土に繊維を多量に含み、形は広口鉢形で丸底になっていて、文様は太く深い縄の平行縄文が施されている。 本町以外でも美幌、女満別、網走、斜里などで出土している。

 北筒式土器は、一号線から五号線と、東二線から東九線にまたがる東地区一帯にわたって出土している。 高さ三十ab前後の円筒形で、一般に大型に作られていて、底は平底であり、胎土には繊維を含み、肉厚は薄く、文様は地文として斜行または羽状の縄文を帯びるが、口頭部には粘土帯を環し、付近にこぶ状の突瘤文を施しているのが特徴である。 道内分布は、本町をはじめ北東部全域に普遍的に及んでいる。

 網走式土器は別名を向陽ヶ丘式土器ともいい、東四線四号付近から出土しているが、破片であるため特徴は明らかでないが、網走の向陽ヶ丘で出土したものでは、広口の深鉢形で平底であり、胎土には繊維を含まず、焼成温度は高く、肉厚は中等で、文様は縄文がなく無文のものもあるが多くは型押文、貼付文を主体としている。 この種の分布は、本町以外では紋別、美幌、網走が知られているだけである。

 栗沢式土器は亀ヶ岡式土器とも言われるもので、東一線六号の営林署の苗園内から出土しており、特徴は焼成温度が高く、肉厚は薄いが堅く、形は深鉢形、浅鉢形、かめ形、壷形、注口形(急須)、皿形、台付など変化に富み、文様も多彩で、繊細な斜行縄文に曲線文を配するものが多いが、爪型文、貼付文を施文したものや、摩消手法を加えたものなどもあって、なかなか精巧である。 この種のものは斜里町栗沢台地、静内町御殿山から出土している。
 野幌式土器の出土は全例が破片であるが、その特徴は栗沢式に類似しているとされている。

   市街地および
   東地区の石器
 三号線東四線付近から、縄文土器に伴って各種の石器の出土があり、石斧,石のみ、磔器、石冠、石鏃、石槍、石錐、削器、装身具など多様である。
 石斧は代償あるが、長さ十ab×幅四abのものが多く,作り方には半打、半摩、鼓打などの様式があり、刃は全例摩研してつけられており、両刃のものと片刃のものがある。 石質は緑色泥岩がほとんどで、粘液岩もみられるが、珍しい例としては長さ六・二ab×幅二・七ab厚さ○・七両刃で、体部中央に相対して快溝のあるもの、長さ七・八ab×幅三・九ab厚さ○・七abの片刃で、基部に両快りの小孔を有するものなどがある。
 石のみは長さ七ab×幅一・五ab前後と、石斧の細身といった形状で、作り方も石斧と同様であるが、全例摩製である。
 磔器は細長く平たい斧形の自然磔を利用して、その一面か両面または側縁のみを調整したもので、多くは側縁または頭部が刃状を成している。 大小あるが、長さ七〜一○ab×幅三〜五ab前後で、用途は打砕器であったらしく、石質は硬砂岩、片岩、安山岩などである。
 石冠は手ごろの自然礫を利用して作ったもので、物をすりつぶす用具とみられ、形は頭部と摩擦面を有し、側面から見ると半月形のものが多い。 大きさは摩擦面が長さ一○〜一五ab×幅三〜五abで、高さ八〜一○abぐらいであるが、この地区の出土品の特徴として、摩擦面の幅が著しくせまいことで同類は網走でも出土し、天都山式石杵と命名されている。 石冠は道内西部の円筒式土器にかなり伴出しているが、幅のせまいものは見折られないから、幅の石質はほとんど黒曜石である。

 石鏃は長さに〜五ab前後で、両面とも加工されたものが多く、形としては有柄、無柄、柳葉形、三角形があり、石質はほとんど黒曜石である。

 石槍は長さ一○ab前後で、両面とも加工されていて、形は有柄、無柄、菱形があり、石質は黒曜石がほとんどを占めており、石鏃の大型のものといった感じのものである。

 石錐花笠五ab前後で、一端が錐状に作られ,体部は有頭形をなし、石室はほとんど黒曜石であるが、硅岩製のものもみられる。

 削器は一面が加工され、一面は平坦面をしていて、一端は尖頭が作られ、他の一端は柄を形成しており、有柄の石小刀といわれるものである。 縦型と横型のものがあるが,ほとんどは縦型のもので、石質は黒曜石が多いが、頁岩製のものもみられる。

円形削器も一面のみ加工され、他は平坦面で、直径五ab前後の円形スクレーバーである。 また端削器は、やや細身の剥片の一端をスクレーバーに作ったエンド・スクレーバーといってよく、いずれの石質は黒曜石が多い。

 石箆様石器は、一端が箆状に作られた長さ八〜一○abの打製石斧様の形状で、石質は黒曜石が多い。 また石鋸先は長さ三〜五ab×幅三ab前後で、形は石槍に似ているが、石槍よりも幅広である。 なお、半月形石器は長さ一一・五ab×幅三・八abで、正面からみると半月形で、辺縁が刃状を成しているが、刃器か削器かは明らかでない。 これも石質は黒曜石である。

 小型石核様石器は、直径四ab×高さ二abで亀甲形で、小型石核が利用されているが、削器様に作られたものか、ハイ・スクレーバー(削器)として作られたものかは明らかでない。 この石器はしばしば北筒式土器に伴って出土している。

 石皿は凹みのある自然石を利用したもので、本町出土のものは長さ一四abの安山岩質である。 また、鼓石は掌握に適した細長の自然石を利用したもので、一端が著しく磨耗しているところから、打砕器として用いられたものと思われる。

 装身具の出土は少数であるが、一例に直径三・二ab×高さ二・二ab、他の一例に直径二・五ab×高さ三・五abの、いずれも耳栓状のものがあり、おそらく耳飾であろうと考えられており、栗沢式土器に伴出したものである。 別に例として一面が凹弯し一面が平面で、平面上に雲状文様の刻まれたものがあり、さらに他の一例として両面凹弯しているが、文様のないものもある。 また、東地区の出土といわれる高師小僧(水酸化鉄)を加工して作った、長さ五ab、直径一・七ab前後の赤褐色の菅玉六個は、町郷土館に保管されている。

登栄床地区の遺跡  東地区の東方に伸びる細長い砂丘状の地帯で,オホーツク海とサロマ湖を分断する楔状のこの一帯は、漁労生活のうえで海と湖に両面に恵まれた、好個の拠点であったと思われる。 三里番屋、中番屋一帯を含む個の地区では、未調査の部分が多いので、全容は明らかにされてはいないが、三里番屋と中番屋付近から縄文文化早期のものと考えられる押型文土器の破片が出土しており、また、中番屋〜丁寧の中ほどのサロマ湖北岸とサギ沼付近から、縄文文化前〜中期の北筒式土器が出土している。

 なお、登栄床からは、北筒式土器に伴出する黒曜石を原材とした石鏃、石槍,削器などの出土がみられるが、調査次第によっては、かなり多くの未知の部分が発見される可能性がある。

川西および信部内
地区の遺跡
 湧別川の西岸の,湧別川とシブノツナイ湖の中間を占める川西、信部内、旭(上湧別町)の一帯で、編年的な遺物の出土の点では、東地区に劣らぬものがある。 遺跡が地表上からは判別できないので,今後の調査に待つところが大きい。 また、隣接する緑蔭地区からは、いまだ資料例はないが存在の可能性を秘めている。

 出土した土器の特筆的なものは、縄文文化早〜前期と考えられる節目文土器で、信部内で最初に発見例が報じられたことから「シブノツナイ式」と命名されている。 この土器の特徴は、胎土に繊維を含まず、砂粒を多く含み、焼成温度は比較的高く、色調は赤褐色を呈しており、形は深鉢形の平底をなし、文様は節目文と刺突文が主体で、中には沈線または隆起帯をめぐらしているものもある。 これについての文献には、安部三郎(網走)の報告「シュブノツナイ式土器(節目文土器)について」(昭和33年11月アイヌ・モシリ)があるのみで、全容解明にはいたっていない。
 また、信部内地区からは、縄文文化晩期と考えられる栗沢式土器の破片が出土したほか、装身具と思われる直径三・五ab前後の円玉が三個も出土している。

 旭地区からは節目文土器のほか、北筒式土器に伴出する石鏃、石斧、削器などの石器類が出土している。

芭露および志撫子
地区の遺跡
芭露地区のサロマ湖に面した地帯では、まだ縄文文化と目される出土はないが、芭露市街地南方の山の手で、芭露川の上流にあたる地点と福島の山の手地点から、縄文文化早期と考えられる絡縄体圧痕文土器と、同期〜中期の北筒式土器が出土しているほか、装身具と思われる直径一abの平玉一個も出土している。
 
 いっぽう志撫子川流域の西岸丘陵地帯からは縄文文化前〜中期と考えられる網走式土器の破片と、北筒式土器の破片が出土しているが、まったく不明の計呂地同様に、これからの調査に待つところが多い。

 ただ一つ疑問に思うのは、サロマ湖に面する湖畔地域になぜ出土がみられないのかということであるが、芦原にみられるような低湿地であること、季節的な湖水位の上昇氾濫があったと思われること、などから湖畔を避けたものか、あるいは居構が一時的にせよあるにはあったが、湖水や河川の災禍で湖底に流失したものか、不明である。

 
 周辺地帯の遺跡  本町に隣接する上湧別町、遠軽町、佐呂間町、生田原町、紋別市など周辺地帯にも、縄文文化の遺跡が広く分布し、かなり多くの出土品がある。
 上湧別町関係では、中湧別の五鹿山山麓地帯には縄文文化前〜中期の遺跡が存在し、北筒式土器の破片が、中湧別からは縄文文化晩期と考えられる栗沢式土器が出土している。 また、本町の東地区に近接する上湧別五ノ三地域からは、北筒式土器と網走式土器(いずれも清野忠が採集所蔵)、および縄文文化早期と考えられる型式不明の土器尖底破片(三宅昭二が採集所蔵)が出土している。 上湧別町上富美地域は昭和三十年六月に北海道大学が調査を行い、大場利夫、北村英夫両教授により「上富美遺跡」と題する報告(古代文学六巻二号=昭和32・8)がまとめられているが、それによると北筒式土器が出土している。

 遠軽町では下社名渕、学田、瞰望岩から北筒式土器が東社名渕からは押型文土器が、向遠軽からは野幌式土器が出土している。
 サロマ湖に面するという点で本町と類似する環境にある佐呂間町には、遺跡の分布が多く、近藤忠によれば、縄文文化早期と考えられる押し型文土器と同期〜中期と考えられる網走式土器および北筒式土器が出土しており、佐藤忠雄によれば、浜佐呂間の五島神社付近から網走式土器および北筒式土器が出土している。 また、紋別市からは、押型文土器(神居式)、網走式土器、北筒式土器が出土している。

 珍しい種類のものとしては、町郷土館所蔵の中にある装身具と思われる平板状の垂飾がある。 これは生田原町の出土と伝えられているハート形状のもので、長さ六・二ab×幅六ab×厚さ0,五ab、表面は平たくて竹菅文が円状に配列され、園中にさらに五列の竹菅文が施されており、裏面も平たいが施文はなく、上端の左右二ヶ所に、垂孔と思われる小孔をうかがっている。 また、同所出土品として、長さ一〇ab(原形推足三〇ab)×直径四・七abの不完形の石棒があり、おそらく縄文文化晩期の栗沢式土器に伴出したものと考えられている。

(4) 続縄文文化
   分布と出土品  本州では漁労と狩猟を基調とした縄文文化から、新たに金属器を使用し、農耕を生活の基盤とする弥生文化へと移ったが、北海道では地理的環境が農耕を受容し得なかったので、弥生文化の影響が少なく、縄文文化の恩恵の波及があって,土器と石器の文化は次第に改善され、金石併用の兆しを見せた。

 続縄文文化の遺跡は、縄文文化のそれよりは、いっそう海岸線に近いところに分布しており、立地条件は縄文文化と同様に、河川ないしは湖沼の沿岸に住居を営んでいたことがうかがえる。

 遺跡の種類としては、遺跡包含地、竪穴住居跡などに見られ、竪穴は縄文文化よりも年代が新しいので、地表に円形にみえる凹地を残しており、一見して竪穴と判別できる。 これまでに確認された竪穴は登栄床、芭露、川西地区で、登栄床と芭露地区のものはサロマ湖畔の台地上に、川西地区のものは河岸台地上にある。

 出土品は土器、石器、骨角器などである。 正式な調査が行われていないので、土器には前北式土器といわれるものと、後北式といわれるものがあるが、前北式土器の年代については、まだ未開の余地が残されている。

登栄床地区の遺跡  湖畔台地のところどころに竪穴の分布があるが、特に丁寧〜中番屋の中ほどのサギ沼付近、三里番屋付近に明瞭な凹地になって残っている。 また、旧新田牧場内には、かって五十個ほどの竪穴があったといわれ手いるが、現在は遺跡のみられない平地になっている。

 出土品としては、いわゆる前北式土器と後北式土器があるが、前北式土器の特徴は胎土に植物性繊維を含まず、焼成温度が比較的高く、肉厚は薄くて、形は深鉢形を主に、壷形、浅鉢形も見られ、文様は地文として斜行縄文が付されていて、口頭部に刻線文や縄目文、さらには突瘤文が施されていることが多い。

 芭露地区の遺跡  サロマ湖南岸のこの一帯も、登栄床地区同様に湖岸台地上に竪穴が見られるが、特にテイネー〜芭露市街の中間地域と、二間橋付近に多い。

 出土品は前北式土器と後北式土器であるが、後北式土器の特徴は、胎土に繊維を含まず、肉厚は比較的薄くて、形は変化に乏しく、深鉢形を主とし、浅鉢形、壷形、急須などが見られ、文様は縦方向に施した縄文を地文とし、最盛期のものには数本の縄を一束にして施文する手法がみられる。

 かなり多数出土した土器破片の中から、めぼしい例をあげると、その一つに高さ三五ab(推定)×口径一五・五abの「かめ形」土器があり、口縁は水平で、文様は地文として斜行縄文を全面に施しているが、頭部には一列の縄目文(押縄文)があり、口縁部と口頭部には瘤状の突起をなす突瘤文がみられる。 もう一つは小型深鉢形平底土器で、高さ九・二ab×口径九・二ab、口縁は水平になっていて、文様は地文に斜行縄文が付され、頭部に三条の縄目文(押縄文)が施されているほか、底面にも縄文が見られる。 さらに、もう一つは大型深鉢形土器で,前二者と異なり口縁が山形をなしており、文様は口縁部に外凸内凹の突瘤文を一条環し、口縁部から胸部にかけて小隆帯を数条垂下して変化をみせるとともに、胸部には縄目文が施されている。

川西および信部内
地区の遺跡
 湧別川の両岸台地とシブノツナイ湖の周辺台地上には、竪穴がかなり多数存在し、地表に円形の凹みを残しており、耕作のときに畑地から土器の破片や石器が出土している。 ここで出土した前北式大型土器の破片が、町郷土館に所蔵されているが、これは前北式土器の一般普遍形態のものといわれ、深鉢形で波状口縁をなし,文様は地文として斜行縄文が施され、口縁部には隆帯が認められる。なお、後北式土器の破片も出土している。

 周辺地帯の遺跡  続縄文文化の遺跡はサロマ湖畔にかなり多く分布しており、外洋であるオホーツク海よりも、おだやかなサロマ湖の漁労資源と後背地の狩猟資源が、生活の恵みとなっていたことを物語っている。

 佐藤忠雄によれば、浜佐呂間の五島神社付近には、後北式土器を出土する砦(チャシ)が存在しているし,竪穴は広くサロマ湖東岸にまで分布している。 なお、佐呂間町東二号線で出土した後北式土器の完形品が、本町の郷土館に保管されているが、これは高さ一一ab×口径一○ab、深鉢形平底で水平口縁をなし、辺縁の一部が片口状に作られ,文様は地文として束状の斜行縄文が施され、体部には小隆起帯が浮彫りされている。

(4) 擦文文化
   分布と出土品  北海道の引く部および北東部で一時代を形成した前北式土器および後北式土器の文化と、南東部で栄えた恵山文化は、奥羽の土師器文化の影響を強く受けて、やがて続縄文文化から擦文文化へと移行したが、これは本州中枢部の文化でいえば、奈良〜平安朝の年代に平行するものと考えられている。

 本町に存在する擦文文化の遺跡としては、竪穴住居跡があるが、これらは一辺五〜一○b×深さ○・五〜一bで矩形の凹地をなし、地表からも明らかに認められる。 立地条件は縄文文化および続縄文文化と同様で、河川や湖沼の台地上に分布が濃い。
 確認された竪穴住居跡はテイネー、登栄床、芭露、川西の各地に存在しているが、中でも川西地区の湧別川およびシブツノナイ湖周辺台地上にはおよそ五○五個がかぞえられていた。 その一部については昭和三十八年十月に町教育委員会の主催で、網走市立郷土博物館長米村哲英によって発掘調査が行われたが、ついで同四十一年六月に本格的は全面調査が北海道大学大場利夫教授らによって行われた結果、六六五個の確認がなされた。

川西および信部内
地区の遺跡
 湧別川西岸およびシブノツナイ湖畔一帯に大規模竪穴群落が存在することは、早くから知られていて、大正年間から多くの研究者が視察に来ているが、学説的な確認にはいたっていなかった。
 「シブノツナイ竪穴式住居跡」と本町の地図に明記されているこの遺跡は昭和三十八年十月の調査によって、はじめて擦文文化の遺跡と確認されたもので、調査はA〜Cの三個の竪穴で実施されている。 
それによると、
A
方形で一辺の長さは七b前後,内部の構造は南壁の中央部に壷が作られ、穴全体の中央に炉跡が認められ、床は堅く踏み固められているが、柱穴は明らかでない。 出土品は土器数例と土製の紡垂車二個、石器などである。

B-C  
Aとほぼ同様の構造であるが、Cでは四隅に柱穴が確認された。 出土品は土器と石器である。
出土した土器は擦文土器で、園特徴は、焼成温度が高く、肉厚は薄く、形は深鉢形、浅鉢形、高坏(ツキ)などがあり、文様は縄文がなく、整調痕に似た擦痕が地文的にみられ、口頭部または体部に、並行または交差する刻線文の施されたものが多い。 昭和三十八年の調査時ないしそれ以前の出土資料が、町郷土館、清野忠、三宅昭二らにより保管されているが、保管出土品の種類は土器、石器のほかに骨角器、金属器、紡垂車、装身具などが見られるが、その代表的ないくつかをみよう。

 深鉢形の土器の完形品は四例あり,その高さは、それぞれ一六・五ab、一八ab、三三abあり、口縁は水平で,底は口径より小さくなっていて、脚部は外側に突出するものが多く、器面一面に擦痕が地文的に見られ、文様は口縁部に単純な刻線文を施しているものと、刻線を重複して幾何学的に整然とした文様帯を成しているものとがある。

 浅鉢形土器は一例であるが、高さ七・五ab×口径一一・五ab底径五・三abで、文様は無文に近く,刻線が器面の上下に印されているのみである。 ほかに壷形土器もいくつかあるが、不完形なので省略する。

 高坏形土器は、高さ(台を含む)一○ab×口径一八センチb×台底径五ab前後のものが多く、口縁は水平で、文様は下半分と器台に施されるものが主であり、文様は他の土器と同様に、刻線文の重複文様が多い。

 紡垂車は、糸を紡ぐ用具であるが、四例みられ、いずれも表面の直径が五〜六ab、裏面の直径が四〜五ab、厚さ一・五abで平臼形を成し、中心に直径一abぐらいの孔があり、表面には竹菅様のものでつけられた文様が、中心から放射状に印刻されているが、裏面には文様がみられない。

 また、擦文式土器に伴出する石器も少数保管されており、黒曜石で精製された石小刀などがあるが、この時代には石器の一部が金属器にふり替えられたせいか、石器は少ない。
 なお、竪穴内部から出土したといわれる「カシ」の実の炭化物を清野忠が保管しているが、当時の食生活の一端を知るうえで貴重な資料である。

 二度目の本格的調査が、昭和四十一年六月に北海道大学大場利夫教授を主班とすし、町教委、農業普及所、小川市十、三宅昭二、清野忠、湧別中学校生徒、上湧別郷土研究会などの協力によって実施され、
 竪穴数  六六五
   うち町営牧野内   五一五
      町営牧野入口 一○七
      伊藤務住宅裏   四三
という確認がなされ、竪穴の輪郭は矩形で、内部に窯、炉、階段状の出入り口、四隅に柱穴なども確認されている。 発掘した二個の竪穴からの出土品は擦文式土器と伴出石器などで、
 A
 破片 一一八、深鉢形 四、高坏形 二、石器剥片 三、紡垂車破片 二、木炭 二
 B
 深鉢形 一、高坏形 一、砂片 三五、黒曜石削器 九(円形スクレーバー 六)、石斧 一、砥石 一、石器剥片 六

があり、Bからは続縄文文化の後北式土器破片二○個も出土した。

登栄床地区および
芭露地区の遺跡
 登栄床、テイネー、芭露の湖畔や河川に沿った段丘上でも遺跡が散在的ながら出土しており、登栄床地区からは擦文土器の破片と紡垂車が、丁寧地区からは擦文式土器の破片が、芭露市街西方の河川沿い台地上からも擦文式土器の破片が出土している。

 周辺地帯の遺跡  東方では佐呂間町に、西方では紋別市に分布しているが、昭和三十八年七月に旭川市立博物館の佐藤忠雄によって、佐呂間町浜佐呂間のサロマ湖畔東岸に存在する竪穴群のうち、五個の発掘調査が行われ、一個竪穴から土器、石器とともに「アワ」「ヒエ」の炭化物が出土したことは、擦文文化のころの食生活や生活様態の変化を示唆する実証的遺物として貴重なものである。

 なお、他に農作物を出土した例は、天塩郡豊富町の擦文文化遺跡にあるが、ここでは「アワ」「そば」「緑豆」が出土している。

(6)オホーツク文化
   特異性と分布  擦文文化の時代に、特色ある文化が北海道に伝えられ、遺跡の大部分がオホーツク海に沿う地帯にあることから、「オホーツク文化」と称されている。 オホーツク文化は北海道北東部沿岸地帯を主とし、サハリン(樺太)、利尻島、礼文島、南千島を分布圏とし,時代的に並行する擦文文化と明らかに異なる特徴を持っていて、擦文文化の担い手をアイヌの祖先とすれば、オホーツク文化の担い手は誰かの疑問は、明治中期に擦文文化とオホーツク文化の相違が指摘されて以来、いまだに明解は得られていない。

 戦後間もないころ、児玉作左衛門博士により、エスキモーの仲間であるアリュート説が試みられることもあったが、近年はむしろ大陸とのつながりに関心が向けられている。 しかし、定説が確立されるにいたっていない。

 オホーツク文化の遺跡は、擦文文化の遺跡と同様の立地条件をもち、海岸に近い河川や湖沼の辺りにも見られ、ところによっては、擦文文化の遺跡と隣接している。
本町における分布は登栄床と川西で、川西地区のものは昭和三十五年八月に、米村喜男衛(網走市立郷土博物館長)らによって調査されている。

 川西地区の遺跡  湧別川の西岸とシブノツナイ湖の中間地帯に、六六五個にも達する擦文文化の方形状の竪穴式住居跡が分布しているが、それらの一部に隅丸で方形に近い形状の竪穴が三○個ほどみられる。 一見して擦文文化のものと形態を異にしているが、はたして擦文文化のものなのか、それとも異質のものなのかは不明であった。 しかし、昭和三十五年八月の網走市立博物館長米村喜男衛を主班とする。 畠山三郎太、阿部三郎らのオホーツク文化研究会の調査によって、一部が発掘され、オホーツク文化のものであることが確認された。

 調査の結果は、昭和三十六年一月二○日刊行の網走市立郷土博物館シリーズ「川西遺跡調査報告」にまとめられているが、それによると二個の竪穴が発掘され、次のようであった。

 A
 第一号竪穴=隅丸で長方形に近く、南北、九・一b×東西七・三bあり、内部構造は撹乱されていて明らかでなかったが、網走のモヨロ遺跡などでは,中央に石で囲んだ炉があり、周囲に柱穴が作られており、獣類や頭骨や遺骸が祀られているのが見られている。

 B
 第二号竪穴=ほぼ同類の構造で、出土品はオホーツク式土器と石器、骨角器などであって、土器の特徴は、胎土に植物性の繊維を含まず、砂粒をかなり多く含むもので、焼成温度は割合低く、器質は薄くてもろい。 また形は独特であるが変化に乏しく、平底のかめ形や壷形が大部で、文様は縄文がなく、刻文、型文などをいんこくするか、または粘土の細紐を貼り付けた浮文を口頭部や胴部に環している。

 この遺跡から先に収集した土器のうち、完形品または完形品に近いいくつかを記述するが、抽出したものは、いずれも小型で、高さ一○〜一五ab×口径八〜一○abの壷形土器である。 文様は縄文も擦痕もなく、粘土の細紐で作ったソーメン(素麺)状の貼付文を、口頭部や胸部に並行、直線、並行曲線で幾重にも環しているが、中には単純な円形の象形文を貼付したものもみられる。 また、かめ形平底土器で貼付文を環した、高さ五○abもの破片も出土しているし、細紐を口頭部に網状に入念に貼付けた変わった文様の破片も出土している。

 同じく収集された石器も、かなり異色のものがみられ、擦文文化では石器が少ないのに、オホーツク文化では石鏃、石槍、石鋸先、石小刀、石斧,石錘など種類も数多もい。 中でも石鏃には有柄、無柄,柳葉形など普遍形のほかに、鋸歯形、将棋駒型(五角形)などがみられ、石斧には摩製品のほかに、刻打政調法で作られた乳棒状のものがあり、石小刀の中には先縄文文化の石刃に似た形状のものがあって興味深い。

 オホーツク文化の骨角器は、骨鋸、骨鏃、魚鈎、釣針、骨針、骨さじ、縫針人、骨小刀、骨錐、骨斧、骨箆、骨鍬、骨臼など種類も多く、骨角器が生活の小道具として普遍化していることがわかるが、本町で収集された骨角器は、骨箆、釣鉤、骨鋸などで、骨箆は鯨の骨で作った大型のもので、長さ二六ab×幅五ab、一端が純頭で箆状に作られ、他端には柄が作られている。 釣鉤はU字形で長さ一五ab前後の大型で、一端には鉤を装着する抉溝が刻まれ、他端には索孔または索溝が作られている。 また骨銛は回転式と逆鉤式のものがあるが,いずれも長さ五〜一○abで、別に作った銛柄に装着するようになっている。

 オホーツク文化は、金属併用器に入っているので、時折半ば腐蝕した状態の金属器の出土がみられる。 網走のモヨロ遺跡では太刀、刀子、鉾、斧、鍋などが出土しているが、川西地区では長さ一一ab×幅四・五ab×厚さ一・三abの鉄斧一個が出土している。

 オホーツク文化の遺跡から出土するもので、特色豊かで珍しいのは牙製(海獣の牙)の骨偶である。 装身具か護符に用いられたと考えられているが、昭和三十五年の調査で本町から出土し、網走市立郷土博物館に保管されている二個の例は、いずれも動物をかたどった人形で、一例は熊の像で長さ九ab×五・三ab、写実にできており、背面の二ヶ所に二条直線で囲んだ装飾と小円孔がみられ、のど元に懸垂孔とおぼしい円孔を二個貫通して作られている。 もう一例はシャチをかたどったものといわれ、長さ一一ab×胴の太さ四abで、牙の彎曲を利用して先端に頭を刻んでいるので、波に飛躍しているようなおもむきがある。 なお、以上二例より先に収集された骨偶があるが、現在は破損して頭部のみとなり、頭の長さ三・五abで、一見して熊とわかる。 完形であれば全長八abぐらいと推定される。

 
登栄床地区の遺跡  登栄床およびサロマ湖沿岸の他地区にも、オホーツク文化の遺跡が分布しているが、充分な調査は行われておらず、小川市十所蔵の登栄床の出土と伝えられる石皿は、だ円形で長さ一五・五ab×幅九・五ab×高さ四・七ab、底面の四ヶ所に脚が作られていて精巧な作であり、オホーツク文化に伴出する遺物と考えられている。

 周辺地帯の遺跡  東方では佐呂間町、常呂町、網走市に、西方では紋別市オムサロに見られ,中でも特に網走モヨロ貝塚が著名であるが、いっそうのサロマ湖畔の調査が期待されている。

第二章 アイヌ社会 

(1)
アイヌ民族の消長
    湧別アイヌ  擦文文化の時代を過ぎて、近代アイヌの文化が開けるのであるが、湧別川流域を根拠とする本町地域のアイヌも、反映の一時期を形成したものとみえ、元禄時代(1688〜1703)末期に松前藩が幕府に提出した所領の状況書「松前郷帳」には、

 北見沿岸のアイヌの村落十八居のうち、ユウベチ(湧別)までの七居は、ユウベチの支配圏・・・・・と、湧別が中枢であったことが記されており、この支配圏(生活圏)を守りぬくための苦難の伝説も残されている。 
その一つとして、十勝アイヌとの闘争のことが,次のように伝えられている。


 チトカニウシの山胴を境に北見国は、湧別アイヌの狩猟区になっていた。 湧別川をさかのぼってくるマスやサケの群れ、シカなどの獣も豊富で、長い間平和な生活を営んでいた。 あるとき十勝アイヌの群れが、上川を経て湧別アイヌの猟区に入り込み、猟区権を犯したので談判したが、聞き入れないばかりか暴威を揮って、なおも進もうとしたので、ついにチトカウシの山を境に合戦が起こった。
 湧別アイヌは防戦に努めたが,強くて凶暴な十勝アイヌにひとたまりもなく追い立てられ、山を超え谷を渉って後退を続けた。 しかし、各地から援軍を得て、セタウシ山によって逆襲を企て,幾日となく悪戦苦闘を続けたが、予期に反するほどの死傷者を出し、無念にもついに山砦を捨てなければならなかった。
 だんだん後退して、最後の砦インガルシ(瞰望岩)の堅塁によって必死となって防戦に努めた。 出ては攻め、砦によって敵を追い落とし弓矢のうなりものすごく、肉弾相撃つ激戦が続けられ、勝敗はいつ果てるとも知れなかった。 だが、勝ち誇っていた十勝アイヌは、一挙に湧別アイヌを全滅しようとして、ある夜暴風をついて進んだ。
 両軍最後の決戦がまさに行われようとしたとき、夜半にわかに湧別川が氾濫、大洪水となって十勝アイヌは濁流に呑まれ、溺れて死ぬものは数知れず、士気喪失し、生き残ったものも討たれ、あるいは捕らえられ、暁とともに雨の晴れわたるころに、湧別アイヌ側に勝利の歓声がどっと上がったのである。


 これは、単に湧別周辺のアイヌにとどまらず、各地からの援軍とあるから、北見国一帯のアイヌがこぞって参加したものとみとめられる。
 ともあれ、擦文文化が終焉した1500年ころからの200年間、アイヌの社会が全道に成立し、本町方面にも湧別アイヌの文化が存在してことは事実で、後述する「アイヌ語地名」は、園明らかな証左である。 ちなみに川西方面に残る「伝説の水」の話を掲げよう。


 野津牧場の海岸に近い東寄りのところに約四〜五bの崖があって、上は穴居跡のたくさんあるところ、下は湿地であった。 この崖と湿地の境に、一ヶ所だけむかしからの清水の湧き水があった。
 昔、松前藩の殿様(注=藩役人のこと)が蝦夷の北部を巡視の途次,一帯の穴居遺跡をご覧になり休息しているうちに、渇きを覚えて水を求めたが、付近に清水はなく随行者が困っていたとき、アイヌがこの湧き水を汲んできて献上したという。 そこで、この水を「松前藩の御前水」と呼ぶようになった。


 この伝説は、明治三十七年ころ湧別古潭(いまの上湧別中湧別)にいたホテスパという、当時六十歳をこえていたアイヌが話したものであるといわれているが、これは次項の衰運が進んでからのことと思われる。

 
    コタンの衰運  アイヌの先祖といわれる擦文文化期の人々の文化を継承して約二百年後、このころからアイヌの衰運が表面化している。 期を一にするかどうかは不明であるが湧別アイヌの消息について、

 その後湧別アイヌは下社名渕に移って集落を形成していた。 ある夏、老人子供を残して、働けるものは丸木舟に乗り、川を下りオホーツク海に出漁したが、大嵐にあい一人として帰るものはなかった。 後に残ったものは悲しみの幾日かをすごし、親や子供や兄弟(亡き家族の霊と思われる)を慕ってコタンをあとに、あてもない旅に出た。

 とある。 とはいっても、これは伝説であり、かりに事実としたならば、どこへ行ってしまったのか(まさか他部族の地へは)という疑問が残る。

 ここで、確実にアイヌを衰運に追いやった一事を、あえて提起するならば、それは宗谷場所開設の一事である。 つまり、

貞享3(1686)
 北見国は西蝦夷地に属し、初めて宗谷場所として松前藩の直轄となった。
宝永3(1705)
 村山伝兵衛が宗谷場所を請け負う。
 により、それまでアイヌの自由な漁獲の場であり、恵み豊かな権益であったオホーツクの前浜や、サロマ湖水は収奪され、アイヌは漁業労働者として駆使されるようになったのである。 湧別町史にも(昭40)にも、

 これによって、狩猟生活は維持できなくなり、また和人の影響により生活様式を変化し、特に請負人の使役法が苛酷を極めたために、男女数の不均衡、結婚機会の減少、妊孕率の減退など人口増加を阻む要素が多くなり・・・・・・アイヌを衰亡に追い込む結果となった。
とあり、ここで強いて先に記述の伝説との脈絡を求めるならば「大嵐にあい一人として帰るものはなかった」のくだりが、あるいは場所での惨事ではなかったかという点がある。 そして「あてもない旅に出た」先は、場所の魚場周辺ではなかったかと思われる。

 ともあれ、湧別アイヌは衰運をたどりながらも、絶えることなく存続し、文久二年(1862)の実勢二八戸一二一人へと、民族文化の灯をつないだのであるが、場所開設後のアイヌについての詳述は、行政編(幕政時代)によることにする。


 豪勇ハウカアイノ  湧別アイヌの消長を知るもう一つの手がかりに、のちに松浦武四郎が記した「近世蝦夷人物誌」がある。 それによると、生活圏について、
 北海岸モンヘツ領ユウヘツといへるはモンヘツ番屋を去ること五里参拾余町にして大なる川あり幅はほぼ五拾間にも及び其水源五拾余里にしてチトカニウシといへる高山ありて此嶺をもて石狩との境となしけるが昔より相互に往来して此方の土人も彼山へ行住居し彼方の土人も此方へ来りて住し居りけるに・・・・
 と記されていて、石狩国(上川方面)とは友好関係にあったらしい。 このころの湧別アイヌの首領格として名を残しているのが、ハウカアイノで、アイヌ文化盛衰の岐路の時代に、民族の期待を集めた豪勇の人であった。 近世蝦夷人物誌には,先述の「住し居里けるに」に続けて、
 今は其道誰一人知る者なきはハウカアイノ当年より拾弐年前に此処の土人等多くソウヤへ雇といふものに遣はされ追々人別の減ずるを怒りて其番人と口論をなし妻セクンテ(四拾五歳)と娘ヱヘヲヌ(弐拾壱歳)の未だ働き時なりしが是を懐にして其チトカニウシ嶺を越て行き是非帰るべしやと其者らも帰らず留まりしにふと番人等も追々其迯行僕の跡をしたひて多くの宝持て其怒りをなだめ呉れと頼み乞て呼返したりしとかや
 と記され、民族を思う心情と信望のほどをほうふつとさせており、いっぽう場所請負人の就労強化策がいかに厳しいものであったかが、「今は其誰一人知る者なき」によってうかがい知ることができる。
 ハウカアイノは、その後、場所に戻って土産取を勤めるが(以後のことは行政編参照)その豪気のほどは、松浦武四郎が記す、

 其山の事を尋ね問ふに北はテシホ南クスリ西は石狩の山々残りなく其嶺々よりして経歴し水脈山脈を調べ今年迄其収穫せし処熊百頭に過ぐと語りけるなり
 によってしのばれよう。 そして、湧別アイヌのリーダーとして一帯の地理を究め、狩猟に勇往した努力のほどが、いかに大きなものであったかが評価されるのである。
 また、ハウカアイノとは別に、湧別川筋には善導的に名の知られたイクレスイという英傑がいたといわれ、遠軽の瞰望岩はイクレスイの砦(チャシ)であったという伝説が残されている。


 
(2)アイヌ語地名考
    町内の地名  アイヌ文化の遺産の中で高く評価されるものに地名がある。 道内各地の現在の地名のほとんどが、アイヌ語地名を原拠としており、アイヌ語地名を解釈すれば、アイヌの生活や文化の一端を理解できるほどである。 アイヌ語地名の特色は、地理的自然や生物の生息に照らして名づけたもの、あるいは自然や生物を神(カムイ)になぞらえて(あがめて)名づけたものであることで、狩猟民族の面目躍如たるものがある。

湧別川 ユペ・オツで「蝶鮫の多くいる川」お意であるが、この川に蝶鮫がいたという話はないので、イペ・オッ・イ(イペオチ)の「魚の豊富な川」から転訛したものと考えられる。
シブノツナイ スプン・オッ・ナイ「ウグイのいる川」からの転訛で、ナイは「川」の意。シブノツナイ湖はジブノツナイの注ぐ湖、「信部内」(しぶない)は漢字のあて字で転訛したもの。
プイタウシナイ プイ・タ・ウシュ・ナイで「エゾリュウキンカ(やちぶき)をいつもとる川」の意。
丁寧(テイネ) ティネで「ぬれている」の意で、湿地のこと。
ポント サロマ湖のポロト「大きな沼」に対してポント「小さな沼」の意。
サロマ湖 サロマの名は、この湖に入る佐呂間別側の名でサル・オマ・ペツ「葦原にある川」からでたもの。アイヌはポロ・ト「大きなだいじな沼」と呼んでいた。
登栄床 ト・エトクで「沼奥」の意。
芭露 パロの「ロ」から転じて「川口」の意であるが、芭露の地形からどうしてこの名がついたか不明なうえ、芭露川奥の支流にシャクシバローというのがあるが、バロが川の名であるという点がわからない。
ポン川 ポン「小さい、または役にたたない」川の意。
志撫子 シュプン・ウシで「ウグイの多い」の意と思われるが明らかでない。
計呂地 サロマ湖に注ぐ小川「ケロチ」からでたもので、ケレ・オチ「<非常に>削られたところ」の意。計露岳の名もこの類である。一説にはケロチは「鮭皮の靴を忘れたところ」と解する人もいるが、そうしたことは地名にはならない。
床丹 湖畔の村と思われるが、ド・コタン「廃村」の意ともいう。

    町名の由来  「湧別」とは、アイヌ語「ユペ」より出て「鮫」を意味し、「鮫多きにより」(アイヌは鮭のことを鮫といったという)名付けたというのが、町名の由来の通説とされているが、これは永田方正著「北海道蝦夷語地名解」(明24)が原典で、「北海道駅名の起源」に引き継がれて定着した地名解である。
 ところがこの地名の解釈をめぐって、昭和三八〜三九年の町史編纂の際、通説に疑義をを生じ、町名変更論までとび出す一幕があった。 そのあたりを、湧別町史(昭40)がら抜粋してみよう。

 町史編纂に当たって古文献を探って見たところ、「ゆうへつ」(津軽一統誌)「ユウヘツ」(松浦武四郎蝦夷地図)「ゆうべち」(元禄郷帳)等とユが長音で記されてあり、「ユペ」のないことに疑惑が生じた。 加えて本町の地形は大雪山系に源を発する湧別川が貫流し、川伝えに石狩越もおこなわれたというアイヌの生活慣習から同川が無視されたとは思われず、「へつ」は川を意味するものであろうと素人なりの判断が生まれ、地名解に不信を抱いた。

 一方、佐藤喜代吉著「北海道旅行記」(明23)に「湧別ー湯の川の義なり」と記されていることから、米村網走市立郷土博物館長にその真否をたずねた。 氏のアイヌの衣料は厚皮をぬるま水に浸して加工したものであり、現在湧別川上流地帯に幾ヶ所もの温泉が湧出していることから推定して、川水は温み原皮の浸し場に利用されたであろうから「湯の川」が正しいという説に意を強くしたのであるが、概説を変えるには逡巡もあり、さらに大場利夫博士の助言によりアイヌ語研究家知里高央氏(知里真志保博士は実兄,江差高等学校教諭)の紹介を得て、同氏にたずねたところ、疑義を裏づける回答を得たが・・・・


しかし、これの転末がどうなったかについては、特に公式の文書も論議もなく、「湧別」が町民の中ですくすくと育まれて、ここに開基百年を迎えたのであるが、「湯の川」説もそれなりの一説であったといえよう。

 百年史topへ      昭和の小漁師topへ