志撫子郷土史
風雪の歩み
志撫子部落開基70周年
志撫子小学校開校60周年

(〜昭和48年現在)

昭和の小漁師top ! 計呂地郷土史!


部落沿革


1,当地方を含めた
   北見と北海道
 北海道は遠く古代においては、こしのしまに属し日本の領土であったことは明りょうであるが、その後たえて経営、開発がなく、歴史的記録も当時の国威伸張の限界線をしのぶ程度である。

(一)えぞ地の頃(安東時代)
 室町時代に入って津軽の豪族安東氏は、南部氏と争いえぞ(北海道)に敗走、その後、しばしば旧領土回復を図ったが果たさず、遂に断念。えぞ地経営に専念した。要所に館と称する小砦を12箇所に設け、えぞ地経営に当たったのである。(渡島半島の海岸線)1456年、アイヌとの争いがおき(コシャマインの乱)危うくなった時、たまたま花沢館に身をよせていた、武田信宏(松前藩の始祖)がコシャマインを討ち、乱を平らげた。

(二)松前氏時代
 その後永く松前藩領として東蝦夷、西蝦夷とし、東は亀田、西は熊石に板書をおいて不時に備えた。御領、知行所にはそれぞれ請負人をおいて土人と交易をし、漁場を経営した。
 松前藩は貞亨3年(1686年)に、宗谷場所を開設、北見全体を治めたが、網走支庁管内もこれに属した。場所には藩士を交代勤藩させ、物産の交易、運輸の監督をさせた。
 寛政2年(1790年)宗谷場所から分離、斜里場所となって、紋別、常呂を包括し、村上伝兵衛が支配者(場所請負人)となる。
 その後何代かの支配者があり、北見地方の開発に貢献したことは甚大である。天明年間頃(1780年頃)から露人(ソビエト)で北海道沿岸をうかがうものが多く松前藩だけでは防衛の完全が危ぶまれたので、幕府はみずからこれに力を注いだので、国内一般からもようやく注目されるようになった。

(三)開拓使時代
 明治2年新政府は、対ロシア国防上から本道開拓の重要性に鑑み、併せて失禄士族の救済、東北地方農民への耕地附与などの急務もあり、「民部省」の中に「開拓使」を設け、札幌に鍋島直正を初代開拓使長官として派遣する。同年(2年)えぞを北海道と命名し、11国86郡を設定、北見は6郡(紋別、斜里、常呂、網走、宗谷、枝幸)となったが、明治5年宗谷、枝幸の2郡を除き4郡は根室出張開拓使庁の所管に移され、網走に出張所がおかれるに至った。

(四)3県1局時代
 明治15年、開拓使が廃止され、函館、札幌、根室の3県がおかれ、北見は根室県に属した。つまり3県1局時代となるのであるが、本道拓殖行政遂行上多くの欠陥を内包して適当でなかったため、明治19年これを廃して北海道庁を設けることにした。明治30年官制改正により郡役所が廃止されて網走支庁となった。(全道に18支庁がおかれた。)

※※  場所請負制度

 北海道では米ができなかったので、松前藩はえぞ地交易の独占権、徴税権を財政の基礎にした。藩は交易権を一部家臣に知行として分与し、その交易場を「場所」とよんだ。藩及び知行主は、米、酒、日常品などを船に積んでいき、アイヌの漁獲物などと交換し、それをまた諸国からきた商人に売却して利益を得ていた。
 しかし18世紀にはいると、しだいに知行主が自分で場所にでかけて交易するよりも、所定の運上金をとって商人に交易を委託するようになった。これを場所請負制度、委託された商人を場所請負人とよぶ。場所請負人は、利潤をあげるため、幼稚なアイヌ漁法を改良、指導したので、生産は著しくあがった。場所請負人には近江商人が多く、産物のおもなものは、干しさけ・ます・にしん・あわび・いりこ・こんぶや獣皮などであり、とくにこんぶ・いりこなどは中国に輸出された。場所には会所や番所がおかれた。
 場所請負人は、また場所のアイヌと保護撫育する介抱の責任があったが、やがて請負人は利潤追求のあまり、安い手当で酷使した。こうなると場所請負制はアイヌのうらみを買った。幕府がえぞ地を直轄したとき、東えぞ地の場所請負を廃止したことがあるが、明治維新後、開拓使のもとで、明治2年場所請負制度は漁場持に改められ、明治9年廃止された。

2,部落創立時代  志撫子部落の起源について是を明らかにすることは容易ではないが、口碑(いいつたえ)によると明治30年頃から漁業を目的として数戸の漁家が入地しはじめた。ということである。その多くは津軽地方より渡来したといわれる。
まず明治29年末当沸村より来住した畑田春松氏がテイネより志撫子浜まで通い船による通い漁をしていたが、その後明治33年に志撫子に定住するようになった。これが移住者第1号である。又明治32年頃から尾張蔵之助も通い漁をはじめ、間もなく定住するに至った。
 明治34年計呂地原野の貸付解放で尾張蔵之助氏の兄弟であった尾張倉吉氏、深沢蔵助、加えて水島徳太郎氏、野崎勇吉氏が農業を目的として次々に入植、漁業では水島徳太郎氏の弟である水島熊八氏、水島徳市氏が定住したのである。
 ひき続き明治39年に桑田万次郎氏、明治41年に尾張兵助氏、木戸福二郎、明治42年に今井八五郎氏と井上氏(追永寅松、榮太郎両氏の父)が入植し力強い開墾の営みがはじめられ、ここに志撫子開発の歴史がはじまったのである。
 併し、当時の農業、漁業は想像もできなぬ厳しいものであったといわれる。湧別町史に夜と、「志撫子の農業の実情は栽培技術の後れていた上に、野獣の跳梁がはなはだしく収穫できるものは南瓜ぐらいで、殆ど徒労に終わることが多かった。4、5戸の孤立した農家では成り立たないことから開拓の拡大をはかり、奥地の調査を行い、区画設定を当局に誓願し、44年シブシ川沿670町歩の殖民区画が実施された。」(畑田幸五郎談)という原始状態であった。
 又、当時の漁業についても「にしん、ちか、きゅうり、そい、いとう、ぼら等、魚族が豊富でいくらでも漁獲できたが売ることができず僅か秋口から結氷期まで屯田市街から魚屋が買い出しに来るだけで、それも石油箱1箱(約40キロ)15銭ぐらいにすぎず、夏季の漁獲物は魚粕に製造したが、これも百石湧別着値で450円ぐらいでは高い運送費を引くと引き合わなかったため、殆ど休漁して払下地の農耕や他人の漁場に船頭として出稼ぎした。」と記されてある。

3,団体入植の時代  明治44年区画地の貸付告示と共に、岡田金七氏を団長として、静岡団体13戸が入植した。佐藤恵助、中山小三郎氏、中山善吉氏、長谷川善蔵氏、宮内留吉氏、笹本教次氏、杉森杉蔵氏、大角平太郎氏、岡田長作氏、岡田熊蔵氏、岡田常蔵氏、鈴木かさく氏を含めての13戸である。(第1次入植)「早春3月、道なき志撫子の沢を、残雪を踏みしめながら荷を背負い、大層難儀をしながらのぼっていく団体の人たちの後ろ姿が今でも、はっきり思い出せる。」と木戸三郎氏はしみじみ語っている。
 3ヶ月程遅れ、同年6月頃、愛知団体5戸が入植した。小島春吉氏を団長に、小島金次氏、小島富三郎氏、浅井由松氏、井田種次郎氏の5戸である。
 明治45年になってやっと志撫子道路1里2丁目(約6キロ)が開策され、部落の一大光明となった。

4,大正時代の志撫子  (イ)、店舗の開設(商店の起こり)
 入植戸数の増加に伴い、日用品を見越して、明治43年頃、高橋徳次郎が湖畔(現在の雨宮商店付近)に店を出したのが起源である。2年程でやめたが、明治45年深沢武康氏が中野川栄吉氏と共に来住。武康氏は学校前に定住、同店を出した。やがて大正3年に深沢武康氏を尋ねて、実弟深沢近則氏が山梨より移住する。同5年、武康氏が急死され近則氏があとをついで商店経営に当たったのである。
 大正8年頃、雨宮清重、治助の両氏がやはり山梨より移住うち雨宮清重氏は深沢氏の商店をひきつぎ、同時に深沢氏は湖畔に下って浜で商業に従事した。大正9年12月のことである。
 又、畑田幸五郎の義父長谷川某が湖畔で大正3〜4年頃開店、5年から幸五郎氏があとをひきついだし、更には浅井由松氏も神社附近で大正5〜6年頃開店(大正13年頃まで)している。
 昭和のはじめに深沢氏は商店をやめられたが、追って畑田幸五郎氏もやめ、現在は雨宮商店のみとなっている。
  (ロ)、社名淵団体の入植
 大正7年になって当時、概に遠軽町社名淵に小作として移住していた人たちの中から、自営自立を強く志す若い人数名が集団で志撫子に入植した。それは、図子甚助氏、小野小次郎氏、山下寅造氏、安藤四郎次、森谷利左ェ門の各氏である。
  星野農場の入植者
 同じく大正7年、星野農場に5戸の入植者があった。それは「後藤庄右ェ門、草野藤庫、黒龍直蔵、鈴木角蔵、福永磯治」の5氏である。少し遅れて土田民蔵氏も入植、合計6戸となった。
  (ハ)、○わ造材について
 ○わの沢(通称)で大正5年12月より同7年3月まで大規模な造材作業が行われた。
5,昭和の志撫子  1,製炭業の盛衰
 大正時代から昭和のはじめにかけての志撫子は、薄荷作りを目的とした移住者が多かったようであるが、更にこの木炭製造のための入居者もかなりの数にのぼった。
 大正の末、多田農場(多田直光氏、大正12年移住)では、概に10数戸のすみ焼きをやとったといわれている。又○わの沢附近では、高橋、元木という業者が昭和6年から7年にかけ入地、製造に従事していた。鉄道開通が木炭市場の拡大となり、仲買人の発生もあって生産が高まったこともあるが、昭和初期の凶作被害の打開策として製炭が非常に盛んになったともいえる。(副業としての製炭)
 多田直光氏によると、大正の13,14年当時の値はいたやの上質で1俵(10貫、やく40キロ)1円50銭、雑木で1円であったという。
 戦前、時局の要請もあって、終戦まで木炭の生産は続いたが、戦後木材用途の拡大、及びプロパンガスの普及で需要も少なくなり、現在志撫子では全く生産されていない。
 製炭業の盛衰により住民の出入りがきわめて激しかったのが、昭和前期の志撫子の特徴といえる。

 2,主要農産物の変遷
  (ア) 豆 類
 大正は薄荷が代表作物だったが、大正3年第1次世界大戦が欧州で勃発すると同時に、雑穀黄金時代を迎える。雑穀の高騰で団体入植以外の農家では、大正初期よりずっと青えんどう、大正金時、手亡などの豆類を主に作付けしていた。
 併し、大戦の終わった大正8年以降、不況に陥り、昭和初期まで続き、それに加えて昭和6年から10年頃までの凶作で豆作農家は大きな打撃を受けた。天候に左右される豆作、相場の変動の大きい豆作は徐々に減反の傾向を辿りはじめ、販売作物としての豆作は、昭和40年頃からは、殆ど作付けされなくなった。
  (イ)馬鈴薯
 馬鈴薯は入植のはじめから殆どの農家でつくられていたがすべて自家食糧用として栽培された程度であった。
 昭和14年になって軍需用として割当があったことから(澱粉のりなどの製造のため)作付けがふえていった。
 戦後、澱粉工場が多くなったこと、及び農産物価格の低落に伴って、安全作物である馬鈴薯作付けは急激に増加し現在に至っている。(平均反収2・5万円)
  (ウ)紺菜(ビート)
 紺菜の栽培は大正の末になってはじまったが、併し、栽培方法が難しく収穫はあがらず、作付面積はふえなかった。
 併し、昭和37年、38年頃になって従来の直播から移植する栽培方法が導入されたが、実にこれによって収穫は2〜3倍と飛躍的に増大した。これが契機となって、紺菜の作付面積も戸数も増加し、現在の主要作物の一つになっている。
 (反収4万円)野村一美氏が最初。
  (エ)亜 麻
 大正5年に日本繊維工業会社の湧別工場が操業、耕作奨励もあり、又夏収作物としての魅力もあって急激に普及した。
 支那事変が始まる頃より軍用作物として割当てられた(見返りの繊維製品あり)こともあり、殆どの農家で昭和20年頃まで盛大に耕作された。
 しかし、戦後急速に減少してしまった。今は全く作付されない。
  (0)アスパラガス
 昭和40年頃湧別町の気候、風土に適した作物で収入も大きいアスパラ栽培を農協で積極的に奨励した。これに町自体も助成したこともあって急激に志撫子に於ける作付面積も増大して現在に至っている。
 道内の喜茂別地方で栽培されていたその苗を導入したもの、である。農協の契約栽培であり、需要も多く値段も安定し、短期間で(5月〜7月上旬)終わることから、貴重な作物として着実に普及しはじめている。(反収10万円以上)
 3,養殖事業
 明治、大正期の漁業は雑漁業で発展性に乏しく、極めて経営は不安定なものであったといわれる。加えて、大正末期から昭和初期のいわゆる大不況により、海産物の値段も下落、漁業も又、不況におちいっていた。
 更に、戦時中には、資材不足に悩まされ食糧、衣料等の窮乏と合わせて生産条件は極めて悪くなっていたが、その悪条件を克服していった漁家は懸命に努力、戦後まもなく動力船を導入生産を高めていった。しかし、戦後の乱獲から漁獲量も減り、とる漁業から育てる漁業へと転換の必要が叫ばれ、漁業組合が設立、志撫子では昭和25、6年頃よりカキの養殖、41年頃よりほたての養殖が行われている。養殖漁業の発達にともない、現在では年収も飛躍的にのび、安定した経営がなされている。
 4,酪農の振興
 大正中期より牛ははいったが定着することはなく、農業経営には殆ど影響をおよぼさなかった。
 志撫子に牛が導入されたのは戦後である。道の貸付牛が昭和24年に入り、これを機会に増加しはじめたが、昭和28年の冷害凶作から29年酪農振興法の公布を見たこと(従来志撫子は森永だったが、その後雪印に転換)、加えて雪印からも貸付牛が入ったこともあって畜牛は増加の一途をたどった。
 最近になって、牛肉の高騰もあって育成牛が急激に増加した。
過疎が進み、戸数が激減した現在、志撫子の酪農は一層発展するものと考えられる。
 5,観 光
 面積149平方キロメートル、周囲96キロメートルのサロマ湖を抱いたこの志撫子は、まさに観光の中心地である。
 昭和25年8月に、このサロマ湖一帯が道立公園に指定され、にわかに脚光注目を浴びるようになった。絶景サロマ湖眺望の桜ヶ岡公園を有し、最近大がかりな整備もも行われ、ボートもおかれるなど逐年、観光客が増加している。

6,志撫子神社  志撫子神社の起源、由来について、先人市川梅太郎氏は、次のような記録を残されている。

 そもそも、志撫子神社と申し奉るは、明治40年10月北見の名勝猿澗湖、即ち現在の佐呂間湖の西方に当たり、約10町、シブシュ沢国有未開地高台に奉祭す。稲荷大明神を祭神と申上げ志撫士神社と奉称。当時、信仰者畑田春松氏、深沢蔵助氏、水島巳之吉氏、山本宗治郎史の4氏祭主となり奉建。毎年10月15日を祭日と定め、祭礼を行い奉る。その後、世の発展に伴い、内地府県より、移民増加し明治43年に至り10数戸となり、進んで同44年3月、静岡県、愛知県の2ヶ団体移住し、34戸の増加を見、明治45年(大正元年)各府県の移民増加し、シブシュ沢の住民戸数40余戸となる。
 大正2年10月、戸数増加に伴い行政区の設置あり、志撫士部落と称す。同年10月10日部落総会を開催し部落部長の選挙を行い静岡県出身、静岡団体副団長、岡田長作氏当選し、その任に当り部落を統治す。総会の決議により、志撫士神社を部落の氏神と祭り奉利、部落住民氏子となり崇拝す。部長、氏子総代の任に当り祭式を行う。大正3年10月10日、部落部長改選に依り、福島県出身市川梅太郎氏、部長に当選し、その任に当り、氏子総代を兼任し祭主を掌る。
 大正4年6月、部落総会を開き、神殿を建立することに決定し、社地を部落の中央公共用地内に移転することに決定す。
 当時、氏子総代市川梅太郎、青年会長尾張睦義氏、大工森原八百蔵氏、建築委員浅井由松氏、小島春太郎氏、深沢武康氏、高橋徳次郎氏、建築の任に当り、大正4年9月30日、建築落成し10月1日、遷宮式を挙行す時の神職、福島県出身、梅村松之函氏祈願す。同時に日本武大神を併社し、2柱の神を祭り、志部士神社を志武士神社と改称し、遷宮記念日を祭日と改正し、毎年10月1日祭礼を行う時の部落部長氏子総代となり、祭事を掌ること久し。昭和元年、部落総会の決議により部長氏子総代の兼任を分ち、別に氏子総代を置き、神社一般の事務を掌る時の氏子総代岩手県出身熊谷市助氏、其の任に当ること久し。昭和6年10月10日、部落総会の議決により氏子総代のほかに神社世話係3名を置き、神社一般を掌り毎年10月1日祭礼式を挙行し今日に至る。
 当時の氏子総代市川梅太郎、世話係中山兼吉、桑田万次郎、浅井林松の4氏。
◎社地取得
 昭和9年4月17日、土地売払出願、区長浅井林松氏の尽力により区長浅井林松氏、氏子総代市川梅太郎氏、青年団長佐藤千一氏、の3名共有地として出願のところ、昭和10年12月17日付、売払許可を得たり、土地売払代金及びその他の費用は部落にて支払い付与を受けたる後、区有財産に提供する事として出願せり。
◎土地の位置及び面積売払金
 北見国紋別郡下湧別村
     字バロー原野4561番地
             及び62番地
 一、  原野  3段25歩
 一、  原野  9畝24歩
                      計4段19歩
 此売払代金29円25銭
 昭和11年1月7日  代金納入す。
 昭和11年1月20日  所有権移転登記申請す。
 昭和11年2月7日登記済となり茲に於て始めて、志武士神社敷地となり永遠にご神体を安置し奉利、
   崇拝信仰する氏子連の幸福之に過ぎたるはなし。
 昭和11年〜12年頃の記録である。
 その後、昭和14年に神社拝殿が建立された。これは、部落民の寄附で完成したものである。
 ついで27年には階段がコンクリートで完成され、38年、社殿の土台修理、更に、40年には鳥居が建立され、現在に至っている。

7,馬頭観世音碑  開拓はすべて馬にたよらなければならなかった。厳しい冷害凶作の時には、馬で出稼ぎに出ることで経営を保った。軍馬時代は、いい値で出すこともできたし、志撫子の発展と馬はきりはなすことのできないものである。
 従ってどの農家も馬は非常に大切にした。
 大正の中頃(昭和7,8年頃)深沢近則氏、図子甚助氏等の発議で、町より土地を払下げてもらい桜ヶ岡に馬頭尊を祭ったのがはじまりで、囲碁部落内に夫々馬頭尊が祭られるよになった。(5・6箇所にあった。)
 昭和28年、各馬頭尊を併合しようという気運が高まった。つまり小数の農家で夫々の馬頭尊を祭るより、併合することでもっと盛大な祭典が開催できるし、馬頭尊を立派な碑にすることもできる。いわゆる馬頭尊を一層大事にすることに通ずると考えたのである。当時の区長橋本二助氏を中心に有志相集い(馬頭尊氏子顧問世話係)馬頭尊碑、小屋の建設にあたり、昭和28年8月16日、その落成を迎えたのである。囲碁毎年8月16日には最大な祭典が行われている。
 尚、石碑の筆者は当時の村長、大口丑定氏によるものである。