志撫子郷土史
風雪の歩み
志撫子部落開基70周年
志撫子小学校開校60周年

(〜昭和48年現在)

昭和の小漁師top ! 計呂地郷土史!

古老訪問


開基70周年・開校60周年記念
開拓のはじめはどこも風雪の舞い込む、ひどく粗末覇チヤクシ小屋であったという。
 厳しい自然とたたかいながら、現在の豊かな志撫子部落を築き上げてきた偉大な先人の中、現在もなお志撫子にあって、かくしゃくとされ、部落の発展に大きく貢献されている古老の方々の御宅に訪問し、昔の想い出を語って頂いた。志撫子の歴史とともに歩んでこられた6名の方々に想像を絶する開拓の苦労を中心に、当時の様子を率直にお話してもらい末永く記録として残すことにした。とかく忘れがちな先人のご苦労・・・。
 改めて感謝の意を表するとともに、今後の部落発展をお互いに誓い合いたいものである。

 深沢 近則さんを尋ねて
















































































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司会

深沢










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深沢







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深沢



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 志撫子に入られるまでの経緯と当時の様子についてお話して下さい。

22才の時、台湾へ行こうと思って東京で警部試験まで受けたが、母親に「台湾は暑くて大変だから北海道へ行け。兄(武康)もいることだし」ということで北海道へくることになった。
 山梨県から汽車で青森、函館、滝川、池田、野付牛(北見市)留辺しべ・・・当時は留辺しべまでしか鉄道はなく、そこで下車、あとは徒歩だった。汽車賃は全部で4円かかった。移住証明があったので4円でこれたのであって、なければ12円ということだ。若佐まで(当時武士といった)歩いて駅停で1泊、佐呂間、床丹と1人で歩いた。非常に心細い旅だったが、たまたま床丹で追永栄太郎さんに声をかけられ、「私も志撫子だから一緒に行こう」ということで道中2人連れになれた。無事、深沢武康兄のところに到着したが随分遠い旅だった。ちょうど大正3年のことである。
 当時の志撫子は、浜のほかに桑田さん追永さんがいたし、上には、愛知、静岡団体など40〜50戸は入植していた。

当時の志撫子についての記憶をいろいろお話ししていただけませんか。

大正5年9月14日に兄が死亡した。かけがいのない兄の死は私にとって大きなショックだった。
いつもと同じように、朝早く馬車で仕事に出たが夜、馬だけが帰ってきた。翌朝早く探しに下にいくと排水の中に倒れていた。馬車から落ち首の骨を折ったらしく意識不明、すぐ医者(上芭露ぐみ医院)にきてもらったが手当のしようがなく、まもなく死亡した。大事な兄だったんだが・・・・。

開拓の様子について聞かせて下さい。

昼でも位密林だった。家の周囲は、すべて、3尺も4尺もある「赤だも」と「かつら」の密林で、昼間でもゆうゆうと「熊」が歩いていたし、「てん」もいた。まっくろできれいな動物だった。立木はみんな「土佐のこ」を使って切りたおしたし、切りたおした木は全部燃やしてしまった。今考えてみるともったいないことをしたもんだ。山火事の心配なんかしたこともないなあ。
開墾したあとには、「大根」をまいた。太くていい大根がなんぼでもできた。とてた大根は湧別の漁場へ馬車で運んでいって、1本
1銭5厘で売った。

商店を経営されていたようですが。

兄(武康)が今の所で店と農家をかねてやっていたが兄がなくなってから私があとを継いだ。
大正6年に雨宮清重・治助の両氏が山梨から私をたずねてきた。半年程手伝ってもらった後、清重さんに私の店を引き継いでもらい、私は今の山根さんの裏に新しく店を出した。馬車に1台分商品を仕入れ(150円程)12月30日に見せびらきをした。商品といっても焼酎、酒、たばこ、米が主だった。
 子供(則久)が学校へ入る頃、通学を考え今の所にもどることにした。店は、古屋さんにゆずり又、清重さんには上(今の雨宮商店)へ移ってそこで店を開いてもらった。
それを機会に私は店をやめることにした。

店の経営状態はどんなものでしたか。

大正のはじめ頃のことだし、団体入植して間もないことだったから・・・。みんなくるしい生活をしていた。だから現金収入は殆どなかった。品物もあまり売れんかった。石油の2缶、米の15〜6俵も仕入れると1年は十分もったものだ。

石油があまり売れなかったというのは、どうしてですか。

当時は殆どチヤクシ(ホッタテ小屋)だった。土台のある家なんてあまりない。ふみ切り炉があって、そのたき火のあかりで晩ごはんをすませていた。
あかりを点すとしても、それはすべて「手ともし」だ。
だから4合びん1本も買うと1か月は十分間にあってしまう。ランプはあったのだが、使うのは、「寄り合い」か「葬式」時ぐらいだった。だから石油は2缶も仕入れると間に合うことになる。でも、焼酎はよく売れたもんだ。2合びん1本12銭だったけれどみんな燗をして飲んでいた。
 はっかが売れるようになってから店の経営もよくなったのを覚えている。

当時の食事についての記憶をお話して下さい。

入植した人達の常食は麦だ。丸麦をたいて味噌汁をかけてのみこむようにして食べるのが普通だった。だから当時の人達はずいぶん若死にしたもんだ。

牛を飼われたのがずいぶん早かったそうですが。

そうだな。昭和5〜6年頃、いれたと思う。私の所が一番早かったようだ。当時、集乳所は中湧別だった。自転車で運んだものだ。勿論、自転車の1号も私のところだ。まもなく鉄道が敷かれて汽車で牛乳を運んだんだが、行きの運賃は1缶5銭・・・帰りの空缶の運賃が、なんと20銭もとられた。とても採算がとれず又自転車で運び出した。やがて計呂地に集乳所ができ、心配がなくなった。

学校について話して下さい。

学校のそばに家があったからずいぶん学校へいったし、先生方とのつきあいも多かった。
大正4年に下から学校が現在の位置に変わって建てられたものだが、グランドがせまく、神社の前の笹を刈って、そこで運動会をやった。学校の付近はひどい湿地でグランドづくりは大変なものだったことを覚えている。

忘れられないことが他にもありましたら・・・・。

昭和17年5月26日だったか、湧別の浜で漂流機雷が爆発した事件があって大勢の人が死んだのを覚えている。
当時、警察からおふれが出て、「見にくるように」ということもあったから、あんな大事件になったんだ。
私は幸運にも前日のうちに行って見て来たものだから助かったようなものだ。当日だったら命は、なかったろう、志撫子でも確か、2人はなくなったと思う。

どうもありがとうございました。

桑田 多一郎さんを尋ねて








































































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桑田






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志撫子に入られた経緯と当時の様子についてお話して下さい。

私の父が17才の時、祖父母に連れられて湧別の5号線に在住していた「今さん」をたよってきたのだということを聞いている。
そこで働いていたのが、暫くして東4線に土地1戸分を貰って農業をはじめた。併し経営が思わしくなかったので、そこを売りはらって現在の場所に入植した。私が2才の時である。(明治39年)
志撫子をえらんだのは、たまたま父が原野測量の仕事をしており、志撫子についてよく理解していたということがあるのではないかと思う。

当時の志撫子についての記憶をいろいろとお話していただけませんか。

私の一番古い記憶では、今の栗田さんの入口あたりに深沢倉助さんが住んでいたのを覚えている。
当時は8戸程しか入っていなかった。当時は山火事が多くて・・・・。夜通し赤赤と燃え続けるその様は異様に美しく、又、不気味なもので今でも鮮やかにその情景を思い浮かべることができる程だ。
 入学したのは計呂地の小学校(志撫子に学校はなかった)で、満足な道路はなく、従って川の縁を歩いて登校しなければならなかった。
明治45年になってやっと1里20丁の志撫子道路ができたのだが・・・・。道路とは名ばかり、土盛りをした粗末なもので、特に私の家から今の学校にかけてはひどい湿地帯だったから、道ができても道の片側に丸太を2本ならべてその上を歩かなければならない程だった。
こんなひどい道を当時、上に入植していた中山徳三郎さんや岡田糸平さんと一緒に計呂地まで通った。
夏は、そう欠席しなかったが冬は雪で道がなくなるので半分位は休んだ記憶がある。
はき物は夏の間、「ぞうり」、「げた」が主で雨の日は腰に、はさんで通学した。喧嘩は、げたでやった。
冬は、つまでが殆どで恵まれていた家の子は、防寒靴(ラシャ製)をはいていた。
6年生になった時、尾張蔵重さんがゴム長靴を履いて来たのが志撫子の第1号で、今でも忘れられない。それまではゴム長靴は見たこともなかった。

食べ物についてはどうでしたか。

それはひどい粗末なものだった。麦7分、米3分は、上等の部類。いなきびなどもずいぶん食べた。小麦を石うすでしいて粉にし、だんごをつくって塩あんを入れ弁当にしたものだ。学校では、弁当の交換がはやり楽しみの一つだった。白い米のごはんは、盆と正月ぐらいのもおで1戸年間1俵ぐらいの米で終わっていた。

子どもの頃の楽しみは何でしたか。

それは、なんといっても、盆、正月、お祭りだった。お小遣いをもらえるから・・・・。
当時、高橋さん、深沢さんと2軒のお店があって、お祭りというと店を出していた。
パッチをよく買って一日中遊んだことが忘れられない。パッチの買えない時は「石板」を破ってパッチにした。

石板とはどんなものですか。

3年生頃までノートや鉛筆はなかった。当時は、学校では、鉛筆がわりに石墨を、ノートがわりにボール紙に墨をぬった石板というものを使っていた。それが古くなると破いてパッチにしたというわけだ。

買いものは、どこへいかれたのですか。

店が志撫子にあったから大体は間に合っていたと思う。ただ、年に2〜3回は馬の背に駄鞍をのせて湧別まで米、味噌を買いにいった。

病気の時は大変だったと思いますが。

私が6年の時、大病をして、学校を2か月も休んだことがある。湧別まで父におぶさって行った。
湧別の「はたの」という医者のところへ行ったのだが当時の病院は入院室もなく従って宿屋に部屋を借りなければならなかった。父に看病して貰っていたが思わしくなくて、そこをでて、4号線にあった武野病院、そして中湧別の赤塚病院へと転々と医者をかえ、やっとなおった。忘れられないことの一つに、酒をさらしに浸してシップをしたことがある。

当時の農業についてお話しして下さい。

豆、はっかが主だった。私の所は豆作が中心だったが、上の方は殆どはっかを作っていた。
愛知団体長の小島さんなどは、はっかでかなり収益をあげ、間もなく郷里へ帰った。
米が1俵5円の頃、はっかは最高で25円から30円もしたものだ。併し、値の変動が激しくて大変だった。一晩で10円も値が下がることもあって・・・。みんながみんな成功したとはいえない。まあ、運のよい人がもうけたということになろう。

その他、特に記憶に残っていることについてお話しして下さい。

図子さんの家が焼けた時の山火事が忘れられない。計呂地の農家で「はだか麦」を焼いたその焼きがらが原因だったらしい。夜通し燃え続けて志撫子に入ったものだが、一時は稲熊さん宅が危ないとさわいだが火は下にさがり栗田さんの裏附近から近江さんのところまで飛火、午後3時頃だったと思うが図子さん宅が燃えてしまった。当時は消防もなく部落の防火組合で消火にあたったが殆ど手のつけられない状態で部落中、恐怖におののいた山火事だった。
もう一つ、木材の流送も忘れられない。志撫子川は今よりずっと水量も豊かで奥で切り出された木材が長谷川さんのあたりから流送されたのだが、その勇壮さは今なお思い出すことができる。

どうもありがとうございました。

多田 直光さんを尋ねて














































































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多田

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多田












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多田









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シゲ










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シゲ



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多田





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志撫子に入られるようになった経緯とか当時の様子についてお話下さい。

大正12年4月12日にばあちゃんが亡くなった。たまたま北海道に住んでいた兄が葬式に見え、「北海道へこないか」ということで、思い切って渡道することにした。
私が26才の時だった。私達夫婦と子ども2人、それに16才になる家内の弟を連れて、4月17日に郷里富山を出発した。
函館に上がったのが5月5日。当時、函館にあった移民事務所に寄ると、「きょうは神武天皇祭だから、あなたには、特別、土地を10町歩あげる」といわれた。(普通は5町歩)入地場所も根室の中標津にきめられた。併し、とりあえず兄の所へということで旭川、名寄経由で沼の上に住んでいた兄の所へやってきた。一旦、落着いてから、中標津の土地を見るために沼の上を朝一番列車でたった。釧路に着くと夜だった。そこで一泊、翌朝釧路をたって根室に着いたのが正午すぎ、根室支庁に行くと思わぬ歓迎を受けた。
そこでの話は「あなたの土地は、ここ(根室)から発動機(船)に乗って8時間行くと中標津という町がある。船から挙がって4里歩くとそこにあなたの土地がある。」ということだった。
私は遂にあきらめることにした。土地の権利を投げ、早々に引きあげてきたものだった。今、その場所に中標津中学校が建っている。
早速、兄と相談し、土地を探したのだが、この志撫子は将来鉄道も通りよい所になると予想されていたので、唐島さんという人と共同で志撫子に土地を250町歩、1万円で買った。
ずいぶん高い値段で買わされたようだ。まぁ、そういうことで志撫子に落ち着くことになった。

多田さんのおばあちゃんも北海道へこられた頃のことについてお話を聞かせて下さいませんか。

当時は、北海道なんていわず「松前、松前」とみんな呼んでいた時代でした。いくら行っても北海道へ着かず・・・。
やっと着いた函館で汽車に乗ると、見知らぬ人に「どこいくの」と聞かれ、「北見までいくんだよ」と答えると「子どもなんて連れていかれん。寒くてしばれてしまうから」・・・。
すっかり心細くなってしまった。
ずいぶん長い時間、汽車に乗って・・・どこかわからんが駅のホームで「ワッサムー」「ワッサムー」(今の和寒駅のことだと思う)とさけぶ駅員の声を聞いた時、ほんとうに泣きたいぐらい心細かったが忘れられません。
沼の上に着いても、じいちゃんにとっては兄さんだけど私にとっては、つながりがないもんだから・・・。遠慮で、遠慮で・・・・。早くわが家へ行きたいと想ったものです。

ここへきた時の様子についてもっとお話して下さいませんか。

富山から来る時、米1俵、味噌8升だる1個、大根づけ1たる、それにふとんと現金50円をもってきた。
沼の上から引っ越しをする時、びっこ馬を15円で買い、5円の馬車をつけ、荷物を積んできたが、途中、中湧別の木工場で18円あたい木材(板)を買った。又、芭露の内山商店から焼酎の斗がめを買って志撫子入りをした。2人の小作人がおり焼酎を飲んで貰ったことなど忘れられない。

ここへはじめてきた時、はじめてのわが家は、チヤクシ小屋(2間×3間)でした。ひどいものでした。入口は、むしろ・・・。ストーブもなく、炉に薪をたき、川水で料理をしたものです。
夜、犬の遠吠えを熊と間違え、ふるえていたこともありました。又、道がないので困りました。
1日に1台、家の前を馬車が通るといい方で、そんな時は「馬車が通ったぞう。」といって喜んだものです。
当時の冬は、とても寒さが厳しかった。夜、床の中に入っても寒さで頭がしめつけられるような感じがしたものです。
そんな時に3人目の子どもが生まれるようになって・・・・。
本当にせつなかった。
でも「ぐち」だけはこぼしませんでしたよ。
幸、魚や山菜はいくらでもあったし・・・。ソイの味噌づけなどたくさんつくりました。

病気はしませんでしたか。

ええ。おかげで病気だけは家族中したことがありません。
身体が丈夫だったことが本当に幸せだったと思っています。
弱かったら、とてもここまでやってこれんかったでしょう。

御真影の奉置所設置に当たってずいぶん御協力があったと聞きますが。

昭和3年のことだが・・・。当時校長は蝦名孫次郎先生で、私が区長だった。道庁から「250円出すとレンガの半枚積みで洗い出しの奉置所をつくってあげる。」という通達もあったので部落総会にはかり、私が120円、部落130円出すことにして、つくった。
御真影の拝載、そして奉置所の設置は当時、部落をあげてのできごとであり、児童、青年、父母あげての旗行列、花火の打ち上げ、盛大な余興もおこなわれたことなど、忘れることの出きないものだ。

町議員等、公職に長くつかれていたということですが、この間の思い出についてもいろいろ聞かせて下さい。

たくさんあるのだが・・・・。
特に印象に残っていることとしては中学校の問題だ。
ちょうど私が文教委員長をしていた時で無事、その任を果たした喜びは終生忘れないだろう。又、連Pの役員時代、今後の教育で大きく取り上げなければならないものに視聴覚機器を活用した視聴覚教育がある・・・と考え、各校に関係機器の導入を主張してきた。町でも、理解してくれ、湧別中学校に映写機が入ったことなども、なつかしく思い出である。
加えて志撫子小学校の屋体だが、本来なら60坪しか認められなかったのだが、部落で12万円を負担するということで皆さんのご理解をいただき80坪(現在の屋体)のものにすることができた。体育の振興に大いに役立っているのでは、なかろうか。
その他、部落への電気導入・・・これは又、大変な気の使いようだった。
共同事業で学校の薪をこしらえて部落の財産づくりに努めたこと、公民館の必要をといて、役場負担20万円、残額を部落でもって建てたことなど、みんな忘れられない思い出となっている。

多田さんのお家では、ずいぶん機械化が進んでいるようですね。トラクターは、何時頃入れたのでしょうか。

そうだな。一番はじめは昭和16年だったと思う。この時は購入したのではなく、道庁から借りたものだ。
当時、ビートの振興ということで貸出をしていた。
戦後22年に買った。(小松50)これは木炭で動かすトラクターだったが、当時としては、最初のトラクターだった。

どうも、いろいろありがとうございました。

 佐藤勝治さんを尋ねて



























































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佐藤









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志撫子にきた経緯についてお話して下さい。

大正2年6月、宮城県から親、兄弟と一緒に渡道した。
親の考えは「北海道は金のたまる所」金をもうけて帰ろう・・・ということで来たのであって永住しようなんていう考えは毛頭なかったようだ。当時(大正元年頃)は、ハッカの値段は、1組15円程だった。従って北海道は、すばらしい景気だ・・・ということで、それにつられて来てしまったものと思う。
宮城県から留辺蘂まで汽車で3日3晩かかった。留辺蘂に1泊、武士まで歩いた。当時10才だった。武士で1泊、中佐呂間で1泊、其処からは、馬車に乗せて貰い芭露へ入った。芭露で農家をして昭和3年まで、在住したが、3年に青木農場だったのを買い受けて、この志撫子に移転した。
だから私は、志撫子に入った時期では、みなさんより、ずっと新しいことになるし、又、他の人達のように開拓の苦労は味わってはいない。25才の時だった。

畑作では何を作りましたか。

私の場合は殆どはっかだった。

冬はどんな仕事をされたのですか。

いろいろな仕事をした。特に記憶があることでは昭和8〜9年頃、それはちょうど不景気の時代だったが・・・・。
その頃、ちょうど鉄道がつくられていた。馬そりで土運びの仕事をしたのが、1合1勺の土を自分でつんで自分でおろし、1台12銭5厘だった。1日、30回は、するから3円から4円の収入だった。山で一冬働いても200円位にしかならなかった。併し、当時のことだからそれだけあるとどうやら間に合った。

当時の食物のことについてお話して下さい。

殆ど麦だった。米は入れない。なべの片すみに、米を入れて炊いて、それを弁当にした人がいるが、それは上等の部類だ。
当時の子ども達は「馬が死んだらいいなあ」と思っていたものだ。というのは、馬が死ぬと、手伝いによそから客がくるので、そんな時は、きまって米のごはんだったから。

買いものには、どこへ行かれたのですか。

私の場合、月に一度は、馬で中湧別までいった。肥料も湧別の役場(当時役場内に農会があった)まで取りに行かなければならなかったので、わりと出かけたほうだ。

あかりについての思い出はありませんか。 

ずっとランプだったが戦時中、石油が手に入らなくなり本当に困った。カーバイトを使ったが、それもなくなり、思案の末、札幌に親戚があったので、そこに頼んでバッテリーを借りてきてともした。その時の明るさは格別だった。

佐藤さんは、長い間、区長をはじめ、たくさんの役職について活躍されたと聞きますが、当時の思い出についてお話しをして下さいませんか。

私が衛生組合長だった時代、昭和35年、小児マヒが流行した。気の毒なことに志撫子でも2人の子どもが亡くなった。本当に、その時程、真剣になったことはない。当時は、道を歩く人もいなくなってしまう程だった。志撫子中、恐怖のどん底におちこんだ感じがした。「何とかしなくては」という気持ちで頭の中はいつも一杯。私は常時、体温計をもって歩いたが・・・。全く苦しい経験だった。
 それまでの衛生検査は、どちらかというと適当にすませていたものだったがそれ以来、念入りになったし住民の衛生に対する関心も非常に高まっていった。今後も直接住民の幸につながることであるから衛生にだけは十分気をくばっていって貰いたいものだ。
更には中学校の統合問題、賛否両論・・・。最終的には、みなさんの了解をいただいてやっと実現できたが、やせる思いだった。今になって、しみじみ、よかったと思っている。
別なことだけど・・・・。昭和37年から3年間も凶作に見舞われたことがある。この期間に4回も救農耕時をした。
区長として全責任をもたされたこの工事は、志撫子のために、どんなに役立ったことか・・・。荷が重たかったけれどやり甲斐があった。

今の若い人達の農家経営についてどう考えますか。

私達の時代と違って機械がどしどし導入され、近代化された農家経営が行われるようになったことは素晴らしいことだと思う。従来のように働きづめの生活から、時間的にも余裕のある生活に変わってきたことは本当に良いことだ。
 でも機械導入に当たっては、やはり収入と見合わせて、長い計画のもとに購入していくべきでは、なかろうか。機械に使われる経営はして欲しくない。機械を使っていく経営の実現を望んでいる。

どうもありがとうございました

 雨宮善平さんを尋ねて

























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雨宮






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雨宮













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志撫子に来られた頃のことについてお話して下さい。

私の父が深沢さんをたよって北海道へ渡ったのが大正6年だった。1年遅れて母親につれられて私たち兄弟3人が父親のいる北海道へ渡ってきた。下湧別の駅で下車したが迎えに出ているはずの父の姿が見当たらず、1夜を宿であかし、翌朝、歩いて支撫子にきた。後でわかったことだが父親は、中湧の駅にきていたため会えなかったわけだ。
私が12才のことです。深沢さんと桑田さんの家との間の沢に入ったのだが2年程で床丹に炭焼きをするため引っ越した。でも、2年でやめて、現在の所にもどって落ち着いた。

当時の苦労やなつかしい思い出があったらお話して下さい。

17か8の頃、父がいなくなった。それからの苦労は・・・・。とても忘れられない。井田さんのおじいさんに馬を飼うことをしきりにすすめられ、100円で買ったが、その時の井田さんの親切は、いまだに忘れられない。
その馬を使って木材運搬をやった。冬の4時は、真っ暗。
冬の寒さは骨身にしみた。仲間の中には、積んだ丸太の上に火鉢をおいて暖をとった者もいたが私は、もっぱら歩いたもんだ。
おかずなしの弁当を持っていって、きまって中湧別の宮本食堂で昼食にした。15銭でおかずをとるのが、ならわしで、ついでに10銭で餅を買った。6個きた。夕方帰ってから明日運ぶ分を奥までいって積んできてその火の仕事は終わり。6時を過ぎているのが普通だった。それで1日、2〜3円の金になった。3円あると結構、間に合った。
ただえんばくが当時1俵3円だった。他の人は1俵のえんばくを3日程で馬に食べさせたが私は5日は、もたせたものだ。えんばくだは、ずいぶん高かったと思っている。
木材運搬で思い出したがよく、いろんな人に、乗せてくれとたのまれ、そんな時は、道中が楽しくなった。便利屋のような仕事も、たのまれてみんなに喜んでいただいたことなどなつかしい思い出になっている。

どうもありがとうございました。

 畑田市太郎さんを尋ねて














































































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畑田







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畑田さんは、漁業の方では、志撫子の草分けといった方だと聞いてまいりました。ここへ来られた動機といったものについてお話して下さい。

岩手県から北海道へいって、ひとつやってみようということで14才の時、北海道へきた。利尻、礼文、稚内、声間、浜中・・・と転々し、最後におじ(畑田春松氏)をたよって、今のテイネに落ち着いた。年は18か9だった。
それから暫く「通い船」で、志撫子まで漁にきた。早くきた者が近くのよい漁場を選んだので、後から来た者は漁場を遠くに求めなければならなかった。当時は、テイネ附近はよい漁場といわれていた。というのは、市街地も近く買い人がたくさん来たから・・・。
一時、計呂地に土地を求め、農家をしたが間もなくやめ、志撫子に定着した。その頃、買い人たちは、より安い魚を買うため、志撫子にまでどんどん来てくれるようになった。

当時、どんな方がおりましたか。

川のそばに深沢蔵助さんがいた。おじの畑田春松、野崎さん・・・・。農家は桑田さんだけだった。
川ぶちに、アイヌが5〜6戸いたがつき合いはほとんどなく、次第に減っていったのを覚えている。

その頃の漁の仕方について教えて下さい。

今のような網なんてなかった。よしでつくったものだ。
(すだれのようなものと思うとよい)
よしは、いくらでもあった。よしをを刈ってきて、あんで海にたてた。俵をほどいて縄をなって、つかった。よしの網をまっすぐたて、魚の道をつくり、桃型にたてたよしの網の中に魚を導いてとったものだ。
よしだから氷には、とても弱いんだ。併し漁師たちは、少しでも早くとりたかったから(早い程、値がいい)初先、無理をして網をたてるんだな。氷の張る晩は、夜通し、よしの両側の氷割りをしなければならなかった。

網はどの辺にたてましたか。

潮のひいた先のあたりから岸に向かってたてた。
当時は、魚はいくらでもいたから、遠くにまでいく必要は全くなかった。

どんな魚がとれましたか。

それは、なんといっても鰊だよ。毎年とは、いかなかったけど・・・。海の色が変わる程、岸にきた。又、鰊が終わる少し前からコマイがかずの子をねらって大群できたものだ。
その他、ちか、きゅうり、そい、いとう、ぼら等いくらでもとれた。

カレイはどうでしたか。

あれは、平ったい魚で海の底にいるものだし・・・だから大漁に期待出来ないし・・・。あまりとらなかった。だけど海の色が変わる程いた。

鰊の思い出についてもう少しお話して下さい。

親方にしこたま叱られたことがある。それは、寝坊をしたから・・・。というのは、鰊が網にすっかり子(かずの子)を生みつけて、網が使い物にならなくなったからだ。
8分目の網が、びっしり子が着いて網の目がつまり水が通らなくなってしまい、折角たてた網が揚げられなくなる。

そんな時はどうするのですか。

切って捨ててしまうより方法はないな。子がつかなくするためには、夜通し網揚げをしなければならないのだが、これは、キンキラ網といって、若い者は、みんないやがった。何時頃だったか・・・・。私も7間×70間の網を一かどう(一ヶ統)かずの子のために駄目にした。その網は、農家の人にくれてやったけど・・・。喜んで持って行ったのが忘れられない。

とれた魚は、どこに売ったのですか。

当時は、組合もなかったから、買い人がくるのを待った。農家の人にも売った、いきが悪くなると困るから殆ど、大きなかまで煮て、肥料にして、内地に送った。
やはり、買う人が少なくて困ったことが多い。
潮が引いて行くと、もどりきれない魚がたくさんいて、いつもカラスがつっついていた。
かきだって湖底を埋める程いたが、商売には、ならないから、とらなかった。
志撫子に団体入植があると売り先がふえるといって喜んだこともある。

収入はどんなものだったかお話して下さいませんか。

今の魚箱は4貫(15キロ)だろう。昔は石油箱(10貫箱)だった。安かったなあ。1箱15銭か20銭だった。夏の魚は殆ど魚粕に製造したが、これも輸送費を引くと収入は本当になくなってしまった。
よく農家の人と石油箱一つの魚と、いも半俵または1俵と取りかえたものだ。買い人とはよく値段のことで口論したこともある。

食事についてお話して下さい。

そりゃあ、殆ど米のめしだったよ。漁師は、秋田とつながりがあったからね。(秋田から出稼ぎ人夫をつれてきた)米と、塩と、むしろだけは不自由しなかった。

どうもありがとうございました。