志撫子郷土史
風雪の歩み
志撫子部落開基70周年
志撫子小学校開校60周年

(〜昭和48年現在)

昭和の小漁師top ! 計呂地郷土史!

回 顧 録

夢また夢で過ごすより
    希望の夢を吾は求めて     薫

牧野の中の桜見て
    志撫子の里の桜こいしき   幸江


   過ぎにし日を    第6代校長    今井 義雄

現代歌手の中に、誰かがふり返らないで、と歌ったが私は過去をふり返って自分を知り、そして将来の私を育てたい。所詮、温故知新で日々を生きたいと思う。
 昭和22年から30年まで、微力ながら学校経営と部落振興のため努め、お世話になったわけで、その間いろいろな悩み、苦労と、又働き甲斐や楽しさを味わったのである。
 終戦後の混乱は教育に一大影響をもたらした。例えば体操などは、軍隊を思慕するような号令とか規律あることは、進駐軍の嫌うところで、競技球技に変えられてしまった。音楽のレコードで軍国的な色彩のあるものは、処分せざるを得なかった。日本人としての教育の源泉たる教育勅語は、一片の文書として扱われ、従って修身教育の目標たる愛国忠勇などの精神涵養は厳しく取り締われ教科書などはなく、修身教育は廃しされてしまった。日本歴史は教科書名が「日本の歩み」となり、文化的方面が殆ど教授されたのである。
 時流は自由欧化と自我主義的な方向へと進んで、やりづらい時代となった。然し私は、志撫子はその時流には押し流されはしなかったと信ずる。いろいろな思い出(一)、学校配給と、リュックを背負う私の姿。(二)美しいグランドを人間優先の立場から、いろいろな運動の出来るグランドにしたこと、特に野球は忘れられない。固定ネットは、当時は中学2年の中山君が、大事なところを「のみ、かんな」でつくったこと。藤原君の打球が向かいの深沢さん宅によく飛んだ事。計呂地、床丹などの学校と試合をやって優勝したこと。(三)、中学の修学旅行に全職員が参加したこと。(四)、運動会当日は雨天だったり、延期したりで、雨降り校長の尊号をいただいたり、屋内運動場の建築に部落の御協力で規定よりは広く、球技も出来、学芸会などの舞台はゆったりと設営出来た事等である。(五)、其の他イ、計呂地の市街に洋裁学級を開設したこと(大畠校長、其の他の人)。ロ、校庭を拡張、教員住宅の建築。ハ、塩の配給の不足と浜の方々から買ったいさだの味。ニ、なくなられた軒名さんの指導で、青年団の俳句会に、私も出席したが、是には参りました。ホ、お正月は青年団のカルタ大会、私の子供もよく加わってやったものだが、快勝で研郎が確か橋本君だと思うが、一騎打ちをやったこと。ヘ、ピンポン大会をやったり、青年の運動会での橋本3兄弟のあの走りっぷり、目に浮かんで来る。ト、志撫子時代を集めたアルバムの中に、昭和25年の運動会のがある。主に青年団員の方々が写っているが、深沢さん、桑田さんが写っている。その団員の方々はもう家庭に入られて、志撫子に居る方もいない方もあることと思う。又、秋のお祭りの演芸会の時の写真に、扮装した姿の中で軒名さんがおり、又直孝君が、アコーデオンを持った姿の「かっこ」いいのも写っている。私が転任の時、一部の青年団員の方から(同級生)送別会を開いてくれたのがある。直敏君、市川君、女子では古屋さん達が写っている。志撫子には一人として住まいされて居らぬ方ばかり。職員玄関前で、送別会のあと写したものもある。何人が志撫子に残っている事だろうか(2男の受持ちの組)。
 愈々御別れの日、計呂地駅ホームで、誰が写してくれたのか、小さな写真がある。前の法に深沢さん、大畠校長、当時青年団長の市川君、橋本君、その後方に生徒が写っている。是れも部落、学校の歴史の一ページである。この小さな素人写真が感慨深くグーッと胸に迫ってくる。
 あの事この事、永遠に失われない自然の風物が志撫子の歴史を刻み込んで生として生きてゆき、私達部落人であった人も、現在の方も永遠に生きとして生きることを、しみじみと味わっている。

私は、昭和30年から34年までに在任した。その間に同僚として暮らした数人の職員の想い出を記してみた。     第7代校長  久能 栄

  一、ストーブ
 A教諭は栃木県から来た。それで薪ストーブが珍しかったようだ。職員室で、よくストーブの前ぶたを開いて暖を採る。在る時、「そうすると、よく燃えないんだよ」と注意すると、「僕は炎が見えないと、寒い気がするんです」と答えた。いろりの焚火を見て育った故であるらしい。在任1年で「実業界に入りたい」と言い残して栃木に帰ってしまったが。

  二、石  器
 志撫子にも石器類が出る。それを丹念に集めて居たのは栗木さんだった。B教諭は通信教育で考古学をやって居た。いつか常呂遺跡に行って、土器の破片幾個かを集めて帰った。彼は苦心の末、それを一個の壺に復元し、喜んで私の住宅に見せに来た。栗木さんやB教諭の仕事を見て、私も考古学に興味を感じ始めた。
 この二人のコレクションが、其の後如何なったろうか。

  三、オーロラ
 C教諭が、冬の或晩、私の住宅にやってきた。「湧別が大火らしい。空が真赤なので、すぐに実家に行ってみたい」と言う。驚いて出てみると、成程、部落の空が一面に薄赤い。それは、すき透って少し青みがかった薄赤さだ。「直ぐに行ってみなさい」と言ったが、火事でなくて、全く珍しいオーロラ現象だったことが後でわかった。

  四、あんころ餅
 D教諭は山梨県出身で、応用昆虫学の研究者だった。農作物の害虫駆除に農薬を使わず、虫体に寄生して是を倒す一種のカビの研究等をやって来た篤学の士である。夏休みに知床に出かけたが、昆虫は少ししか採ってこない。「風景がよくて、それに見とれて」と言うのが彼の報告だった。山梨県に帰省の途、東京科学博物館から「北海道の昆虫が少ないので」と依頼されたと言って、毎晩窓外に誘蛾の電灯をつけて、採集する人だった。
 彼は校舎裏の、ごみ捨て場になっていた空地を、中学生と一緒に働いて小さな水田に変え、部落から餅苗を戴いて植え付けた。秋に少量だが餅米が収穫された。それを中学生の手で、あんころ餅にし、全校で賞美した。それは、文字通り賞味だった。

  五、真室川音頭
 E教諭は、小柄な謹直な人だった。住宅の若い男子職員は、欠食生活を起こし勝ちであるが、E教諭には、それが無かった。そして調理の腕も確かだった。学期毎に1,2回職員の会食を催したが、E教諭が当番幹事の時は、食卓の美味が楽しめた。1杯の酒に品良く酔って、手拍子を取り乍ら、座に興を添えてくれる彼の真室川音頭はけだし絶品だった。

 追憶の歳月     第8代校長   愛洲 松次郎

 「故里は遠くにありて憶うもの」
と誰かが詠っているが、全くその通りだと思う。開校50週年の時はこの土地を離れた直後だけに在任3ヶ年の苦悩と愛憎が、まだ炎を燃やしていただけに在任中口にし得なかったことを一気に吐き出したような文章表現になってしまったが、遠くにあり年月を重ねてきた今の時点では、故里を憶うような、昇華された、なつかしいもの美しいものだけが心の底に生きている。その頃のかずかずの出来事もいまでは懐かしいもの美しいものに純化されて来ている。想い出を綴るとしても、そういう意味からすれば随分と焦点のぼけたものになる。だがそれがほんとうの意味の追憶かも知れない。
 「あのころは学校も大きかった。6学級120人もいた。部落も上から浜まで煙が立ち並んで賑やかだった。」先日私を訪ねて下さったSさんが淋しげに話しておられた。あの頃、昭和34,5年の4月の着任に日は元の先生の結婚式だとかで迎えてくれた先生は2人ぐらいだった。三輪車にゆられて学校に着いた。その晩、学校林の残り火が強風にあおられて一晩中住宅の窓を紅く染めていた。赴任第1日の印象で残っているのはこれ位である。校庭の一位の並木を美しく刈り込んで下さった方のこと、小児まひの大流行の時遠軽保健所長と協力し合って校下一円の消毒を完了したことなどは今も忘れられない。あとで偽医師だったと聞かされたが今でも私はあの医師をほんとうの医師だったと思っている。
 何故ならば、それは人間愛に充ちた医師であったからである。校庭のぬかるみを馬糞を積んだ馬車で往来するのを、回り道して呉と頼んで憎まれたり、簡易水道の水源池の上流に飯場を建て便所を作った木材業者に、「人命と金もうけとどちらが大切なのか」と真正面から斬り込んだことも忘れられない出来事の一つである。
 私が志撫子校を去ってから十年余りになる、中湧別の訓練校に来てからは所用であの沢の道を通ることが時折ある。あの家、この道、それぞれの想い出が浮かび上がる。そしてあの頃は若かったなあ、今だったらもっと別な方法で自分が火傷しない手段を選ぶだろうと考える。そのどちらが正しいのか歴史の審判に委せればよい。あの頃の教え児たちがそれをしていてくれるだろうと思っている。サロマ湖の自然と、それにはぐくまれた幼ない者たちが、何時までも美しく純粋であるように私は祈る。

 ○ 夕されば夕風千鳥鳴く磯を
        志撫子が浜と名付けしは誰そ
 ○ 京訛り志撫子の浜にキャンプする
        女子大生を染むる夕焼け
                  (湧別地方高等職業訓練校主事)

 
 思い出     第10代校長   大関  真
 私が志撫子にお世話になったのは、昭和40年4月から昭和44年3月までの満4ヶ年間の短い期間でしたが、思い出は余りに多く、3,4枚の原稿用紙にまとめることは容易なことではありません。私の教員生活40年間の中で特に思い出の多い地であったからです。
 辞令を受け取って近日中に赴任と考えておりました所、大吹雪に見舞われ赴任が1週間も遅れてしまいました。志撫子、誰も知っておる人もない土地、心は不安でなりません。只部落の名前のやさしさから押して、きっとよい所なんだろうとは想像しておりました。赴任して不安も一掃されました。風光明媚なサロマ湖、海の幸、山の幸に恵まれた土地、暖かく人情味に溢れた部落の人々、そして素直で明るい子ども達、又協力して下さる先生方、安心して学校経営に専念する事が出来ました。管内でも珍しいと言われている水松の垣根に包まれた校舎、後には清らかな志撫子川が流れ、よい環境の中で子ども達は伸び伸びと勉強に運動に励んでいました。志撫子の子ども達はよく働きました。私も色々な学校にお世話になりましたが、自ら進んで仕事をする子供、自ら仕事をみつけてする子供は珍しいことです。志撫子校の校庭は何時もじめじめしていました。このような土地ですから、夏になると雑草の茂りが大変です。1週間もほおって置くと一面草ぼうぼうになります。こちらから仕事の事を指示しなくても物置から鍬や鎌を出して授業の始まる前に除草に精を出しておったものです。又秋になれば落ち葉集め、ごみ集めに懸命になりグランドは何時も綺麗になっておりました。又年に何回かは湖陵中学校に行っている生徒も協力してくれました。来校者は皆びっくりしていました。
 元志撫子中学校の職員であった岡部先生の母上が恵まれないへき地の子供にと言って、ひな人形一式を寄贈して下さいました。この有り難いお志しに感謝し、3月、5月の節句にはお母さん達と一緒に色々な会を催すことにしていました。学校と親密の度を加えて参りました。
 又夏休みに入る1日前にはお母さん方と子ども達と共に色々な催しをして1日浜辺で楽しく遊ぶことにしていました。西瓜割り、宝探し、水泳、又色々な御馳走、時間のたつのも忘れて過ごしたことも想い出しております。春の花見、秋の観楓会、部落挙げての運動会、特に部落対抗の競技には真剣になって勝負を争ったものです。
 この様なことが学校と部落の連携を密にしたものと思われます。学校林の間伐には部落の方々交代の出役でやって戴きましたが、予定していたより意外に手間がかかりお手上げしたうれしい悲鳴、この様に立派な学校林を手がけて下さった先輩の方々に感謝し、私も毎日出かけたものでした。今はもう皆伐出来る位成長したことでしょう。これ等の収入で立派なPTAの資金が出来ることを想像しています。先生方にも随分協力して戴きました。学校の勤務が終わると校長住宅に集まり教育談義、食飲談義?海あけのつぶ拾い、桜ヶ丘の集い。楽しいことばかりでした。一生私の脳裡から消えることはないでしょう。過疎の波は志撫子の部落にもひしひしと寄せて参りました。特に神社から上の部落の戸数の減り方がひどい様でした。その中にあって学校改築の話も本格化して参り、いよいよ栄町4年度中に着工という時の4月に私は小清水町の上浦小学校に転出することになりました。次の校長にバトンをゆずり、学校改築を手がけなかったことを残念に思っております。
 ふり返って見ますと、不敏な私に対して随分不足も多かったことと思いますが、それを意に介せず部落の方々は一致団結して学校の為に応援して下さったこと、只管に子供の幸福を願い環境施設、其の他の行事全般に亘り不絶協力の手をさしのべて下さったこと、ただ感謝あるのみです。志撫子を離れて5年、戸数も減ったことでしょう。でも皆様のたゆまぬ努力によって輝かしい発展を遂げること、深く信じています。真にいたらぬ私で御座いましたが、永年公私共にお世話下さいました皆々様に感謝を延べ、今後の志撫子部落、志撫子小学校の御発展を祈り、擱筆いたします。
 想い出          徳武 忠男
 中学校が統合された。昭和39年4月志撫子校に着任して以来7年間、大変世話になった志撫子校の思い出は、任地が変わり年がたっても私の心に焼きついていつまでもはなれません。
 桜ヶ岡から眺める美しいサロマ湖、雄大な丸山、親身にお世話下さった部落の皆様方などなつかしく思い出されます。
 着任した当時、旧校舎で教室数も多く、校庭校地も広く中学生のいなくなった50余名の小学生だけでは到底きれいに掃除することができず、PTAの方々に御協力を願ったものです。
 さらに冬期間は窓枠や床板のすき間から、冷たい風が教室内に吹き込み、ストーブをいくらたいても暖まらないので手袋をはき、ラックを着ての授業でした。それが町並びに部落の方々のお骨折りにより、44年の秋、校舎が全面改築され、冬でも暖かい教室で子ども達も安存して勉強できるようになったことは何よりのことでした。
 部落ぐるみの運動会は、子供はもとより部落挙げての楽しい行事の一つでした。これは他の地域ではみる事の出来ないものであり、朝から夕方まで部落中が和気藹々、各種目に熱戦を繰り広げ、終了後は一同に会しての一杯をかたむけながらの反省はいまだに、忘れる事の出来ないものの一つです。
 ここに志撫子部落開基70周年並に志撫子小学校開校60周年を迎える部落、学校にお慶びを自分の事の様に思い、心からお祝い申し上げると共に、何らなすことのなかったことをお詫び申し上げます。

 回顧録        市川 弘光

 祖父梅太郎志撫子に入植以来、父恒雄、又私と3代に亘って53年間志撫子に於いて皆様より海山のお世話になりつつ過ごした思い出は、誠になつかしく感謝と共にこんこんと泉の如く次々と湧き出で、私の脳裡をいつも慰め豊かにしてくれて本当に嬉しい。
 昭和40年3月末離農して札幌に移転、鍬もつ手をペンに代えてデパートに勤務、きびしい商戦に耐えて日夜頑張り抜き、他業者を排して店を安奉の場に置く事の出来るのも、一重に故郷志撫子に於て42年間営々として培った農民精神、気骨根性、農村に義理人情の豊かさをそのまま実現励行したお蔭としみじみ思い、故郷の山河、お世話になった部落の皆様方に心より万控の感謝を捧げております次第です。
 尽きない思い出の中で小学校6年を終え、現在の佐藤勝治様の隣接地へ移転、父母と共に熊笹茂る未開の地を拓き入植者同様の生活辛苦に耐えて重粘土地の改良に客土、堆肥増産に早朝3時4時より起出で頑張った青年期、戦時中、又戦後を農事のかたわら青年団運動に挺身し、自己の修練と公共への奉仕を目指して慰安少なき農村にうるおいをと、同志と共に今は亡き軒名妖星氏のご指導の下煮年間演芸会、盆踊り等多彩な行事を行い、若い情熱を捧げて、更に生業である農業に励んだ当時の同志がなつかしく思い出されます。
 青壮年期を通じ一貫して皆様のお世話になりつつ農家の経済規模の安定と農業技術の向上を図るべく農事研究会、酪農研究会と同志を糾合して結成、和気藹々たる中で深夜迄語り明かし、行事も農産物品評会、堆肥増産共励会、乳質改善共励会と寧日なき努力を続けた農家時代が、又共に励んだ皆さんの顔が次々と走馬燈の如くまぶたに浮かんできて、無性になつかしく思われます。
 現在の札幌での生活に比べて部落のお正月、春の運動会、お盆、秋祭り等情味豊かな行事、風光明媚なサロマ湖畔、志撫子の大自然も下に精一杯悔いない半生を送った喜びを今更乍ら誇りに思っております。
 故郷志撫子の皆様に幸多かれと開基70周年を迎えて、部落の益々の御発展を心よりお祈り申し上げます。

 同窓生の一人として            井上 清子

 終戦以来28年目、長い様で短かった歳月、昭和20年4月1日、希望に胸膨らませて学校の門をくぐった私でした。
こう書いただけで、何か胸にジーンと熱くなる思いです。此の度、母校の60周年の式典のお知らせを受け、今や過疎化への時流の中でおめでたい行事が催され、亦主催される貴部落の皆様方に心よりお礼申し上げます。
 いまだに忘れる事の出来ない昭和20年、敗戦と共に私達の学校生活が始まり、食糧難と共に引き揚げ者の増加、学校のグランドいっぱいひろげられた「フキ」現代の子ども達に話しても想像も付かない様な話です。
 1年生の時の遠足、梅漬けの入った「おむすび」にゆでたまご、これが最高の御馳走でした。3年生の時は、教科書がかわり新しい教科書は小さな字のうすっぺらな本でした。
 こうした思い出深き母校にさよならをして19年、我が子を学校に送り出し時代の変化につくづく考えさせられる今日此の頃です。人は去り、耕作面積の増大と共に大型機械の導入によって農作業の進歩も私達の重労働を解消してくれます。農業一筋に生きようとしている私には、土に接して苗を育て、やがてすばらしい実が結実するよろこびをすてずに毎日の農作業に頑張っている私です。
 一時は進学の夢をなくし、くじかけた私に、「進学ばかりが能ではない。若々しさは常に希望をだいている事です。
 かなわぬ迄も、高い理想をもっている事、永遠に変わらぬと信じていた大地も時代に生きる為に変動しつつあります。まして人間が依然として同じ位置にいてよいものか。
  人智の極を発揮して、自然の征服!
 なしとげられないかもしれないが、努力しようではないか。」
 と強くはげまして下さった母校の先生、その言葉のようにお蔭様で幸せな生活をしている私です。
此の度の記念誌発行にあたり、寄贈の依頼を受け本当に幸せと思っております。記念に残るようなりっぱな文章は書けませんが、私なりに思った事を書きつづりました。
 どうぞ今後共、貴部落の発展と此の記念行事が盛大に行われます様、蔭ながらお祈り致しまして、筆をおきます。

 思い出を綴って         草野 薫

志撫子部落開基70周年、志撫子小学校開校60周年にあたり、私達の故郷に活躍される皆様に心から敬意を表したいと思います。
 50周年記念の当時は、佐藤区長を先頭に毎月みんなで積み立てをしてあの様な立派な式典を催したことを振り返ると、佐藤区長をはじめ皆様にはたいへんなご苦労であったと記憶しております。
 私に父は、大正7年ハッカ作りの夢を持って丸瀬布より星野農場に入植しました。私が11月に生まれ、21日があけてから志撫子へ引っ越してきたとの事です。私が志撫子を離れる時、暖かく見送りを受けた事だけは自分の年を忘れても、思い出が残ると思います。
 大正14年、1年生に入学、同級生は男8人、女7人で、1,5,6年が桑原校長先生、2,3,4年が奥さん先生がうけもたれました。薄暗い狭い廊下で7,80人の生徒が遊び、身動きもとれない程であったと思います。遅れて行った時など、大きな生徒の背中しか見えず、次の時間まで廊下に立っていなければならなかった様に記憶しています。校庭の道路側に、当時皇太子殿下御手蒔の落葉松に白ペンキのさくを回したもの、今の公民館の場所に岡田先生の碑があり、登下校の際には必ず帽子を取って頭を下げて通ったものでした。当時の服装は、先生は羽織はかま、生徒は男子がかすりの着物にモンペ、式のある時は、はかまをつけたものでした。また女子もモンペでした。入学の時、私と岡田良平(南米へ行った)と二人だけが学生服に白ズック製の肩かけカバンでした。彼の場合、一人息子だったので、おやじも少し張り込んだのではないかと思います。
 学校が遠いので、カバンは忘れても弁当だけは忘れなかった様です。入学した当時は、昼前早く帰るのですが、校門の橋を越さないうちに、カバンのおにぎりに手をかけたものでした。姉さんたちは学校で弁当を食べるので罐に入れてもらい、私たちは歩きながらでも食べれる様におにぎりにしてもらったと思います。おにぎりに、味噌漬けや生みそを入れてくれるので、親のありがたさがしみじみ身にしみたものです。「親孝行、したい時には親はなし」と親に言われても経験のない者に言うのですから、馬の耳に念仏とでもいった所でしょう。
 星野農場から男ばかり5人、福永秋男君、鈴木喜一君、黒滝新次君、後藤恒雄君、そして私です。当校はかけ足、帰りはのろのろでした。3年の頃蝦名先生、秋山先生がおられました。夏に学校増築のため神社前の青年会館で授業中、オスの離れ馬が来て非常に恐ろしかったことを覚えています。5年生の頃、地理歴史の梶井先生の授業では、覚える気がなかったのか、次の時間に質問されても殆ど忘れており、先生もあきれて、
  「お前たちが忘れてくれなければ、先生が教えることがなくなる。」と言われた事を覚えています。
 この頃から、ハッカ全盛の時代に入っていた様です。自家用の裸麦、カボチャ、トーキビを除いて殆どがハッカ畠で、製造場は軒並あり、お祭りが過ぎるとどこの家でもハッカの製造がはじまり、11月の初め頃までたっぷりかかった様です。満州事変が始まった昭和8年頃、ハッカは日本一どころか世界一であったので、農家に生まれた事を誇りに思っていました。
 私が高等科卒業、妹が小学校卒業の頃、冷害凶作で救農事業も行われました。其の後、昭和8年は大豊作で反6俵も米がとれました。また、酪農組合を組織して、千葉県よりホルスタイン乳牛を導入、組合員は宮木さん、熊谷さん、中山産、私の5人でした。上芭露まで志露峠を越して、1升7銭の牛乳を出したり、計呂地の7号線にも土橇で出したこともありました。支那事変の間、小学校に青年訓練所、青年学校を併置し、小学校の先生が兼任していました。その頃の思い出の人々に新沼校長、梶井先生、桑田指導員、仙波大佐がおります。昭和16年7月、私が軍隊より帰った時、夢でしか会えなかった桑原校長に出迎えを受け、再び逢えた事はほんとうに嬉しいものでした。
 故郷を離れて心残りのない事は忠魂碑が立派になったことでした。
 志撫子の皆様、いつまでも幸福に・・・

  夢また夢で過ごすより
         希望の夢を吾は求めて      薫
  牧野の中の桜見て
         志撫子の里の桜こいしき    幸江

 昔の記憶をたどって        桑田   多一郎

 私は湧別町東区で生まれ、祖父母や父母と共に現在地に入殖したのは明治39年とのこと。その時は漁家が4戸、農家1戸であったと祖父から聞いた。漁は畑田春松氏が最初で明治35年テイネから舟で通い漁をしたそうだ。私の記憶にあるのは、川沿いに曲り々々の道を歩いて、私の家に着く。当時、戸数は全部で13戸、私の家が終点であった。
 明治44年、愛知県から小島春吉団長で10戸、静岡県から岡田金七団長で20戸入植した。
 私は、45年4月計呂地の学校に入学、深沢彦一氏やその他の先輩と共に通学した。其の年初めて志撫子開拓道路が岡田常蔵氏の入口まで1里20丁開通したが、今の様に砂利を敷くではなし、両側の排水を揚げ土盛りした程度で、現在の学校から私の家近くまでは特にひどい湿地帯でそのままでは歩けないので、道の片側に丸太を2本並べその上を歩きました。
 次の年から、奥から中山徳三郎氏、岡田糸平氏の上級生も通学するようになり、一応賑やかになった。大正3年10月1日、当時の尾張藤三郎氏所有の家屋(現山根氏住宅改築前)を借受け仮校舎とし、芭露小学校志撫子特別教授場として開校、全校児童45名と記憶している。先生は岡田良平氏であった。10月3日、開校と大正天皇即位御大典を兼ねて祝賀会があり、紅白の饅頭とお菓子をもらった思い出がある。翌4年、現在地に校舎が新築された。教室は1室、廊下は1間に4間、教員室、便所、それに住宅等で40坪位あったと思う。其の後、何回かの増改築で現在に至っている。
 又其の年の秋の祭典と併せて、神社境内で第1回の運動会を催した事が思い出される。校庭の整備には、先生をはじめ大変苦労した。初めは体操の時間に、皆家から鍬を持ってきて笹の根や木の根掘りが主であったように思われる。冬の休み時間は廊下や教室で遊び、机の上を走って先生に見つかりお目玉をもらったものもいたようであった。廊下での遊びは、主として騎馬戦で狭いところの遊びなどもしたことを覚えている。その頃では、皆着物を着ていたので、袖や其の外の部分が破られ、帰ってから母親に叱られたものだ。
 大正6年3月16日、卒業式を前にして先生が急性肺炎で亡くなられ悲しいことでした。芭露の桑原青太郎校長先生と小野宗英先生が正式に志撫子校の先生となり、教えを受けました。(後の初代校長桑原先生)先生も考えてみると、ちょうど今の高校を卒業した年頃であった。休み時間には、先生と角力をとったりして遊んだものである。
 私は、大正7年3月卒業、父母の理解もあって4月に湧別の高等小学校に入学(今の中学)。当時は湧別にしか高等科は併置されていなかった。初めは、父の知り合いの家に下宿、後に上芭露の上級生と二人で1室を借り、交代で自炊して通学した。下宿当時は、初めてでもあり家がこいしくて、天気さえ良いと土曜の午後は家へ帰り、日曜の夕方に下宿へ戻ったものであった。湧別まで約20キロをテクテク歩いたことは忘れられない思い出である。今の中学生は全員入学で、家の前からバスで送り迎えされ勉強出来る、当時を振り返ると、今の子ども達は本当に幸せだと思う。時代とは言え、大きな変わりようである。
 以上記憶の一端を。

 回顧録に寄せて           長谷川  昭義

 志撫子部落の歴史70年、よく子供の頃祖父母から開拓の話を聞かされました。静岡県の掛川から静岡団体として、志撫子の土地に鍬を入れた事、当時10代で嫁に来て60年余り、皆様にお世話になりました祖母も一昨年80才で他界しました。その間、色々な世の中の移り変わりの中で生き、一生を志撫子の土地で過ごした事は幸せな事ではないかと考えます。
 現在、私は家を離れ、遠軽町に住んで居りますが、小中学生、青年団時代を振り返り、志撫子で過ごした思い出が、胸の中で駆けめぐって居ります。小学校の入学は昭和18年、戦争の最中で父が入隊した事を覚えて居ります。学校の行き帰りには、天皇陛下の写真の奉ってある辺りがあり、頭を下げて通った事、何かの式典の時まず校長先生が勅語を読み上げた事など思い出します。1年生の担任は桑原ヨネ先生か、と記憶して居りますが、現在はどうして居られるでしょうか。終戦となり、良く畑の作業に繰り出された事、中学は第3回卒業かと思いますが、志撫子小中学校となり義務教育になった事を思い出します。当時、クラスは20名ですでに亡くなられた方もあり、それぞれ一家の主人、主婦となっていることと思います。卒業後、交流もなく安奉に暮らして居るかと思いますが、如何でしょうか。中学時代の思い出は、上の学校へ行きたくて、夜外に出て涙を流した事を2度程記憶しております。長男は家を継ぐものとの考えが、当時は強いようでした。卒業の翌年に湧別高校が出来、自分の人生も1年遅ければ、又変わった生き方をしているのではないかと考えます。
 やはり一番の思い出は、青年団時代で、自分の意志で行動出来る年齢で当時は交通機関も発達していず、よく自転車で走り回ったものでした。青年団とは何だろうか、教養団体、奉仕団体と活発に意見の交換をみんなでしたものでした。夜学の名称から、30年には青年学級と変わり、勉強する場を自分達で作れるようになり、春は運動会、秋は演芸会と町の若者達では味わえない作り出す喜びといったものを味わったものです。当時は公民館もなく、部落の会館とか、学校を使用させて頂き、大変迷惑な事であったと今は思っていますが、若さもあり、行き過ぎもあったでしょうが、青春時代の思い出として一生忘れる事の出来ない事で、青春に悔いなしと自負して居り、誇りとも思っています。36年には、湧別町青年団体協議会々長として1年間勤めたのですが、ちょうど過疎の前兆でしょうか、団員数も減りつつありました。又、農業問題にしても、畑作から酪農への移り変わりの時期で、大変だったと考えます。
 現在の社会は、きわめて複雑化している反面、高度化されています。酪農を中心にした機械化の農業においては、現代社会に即応する知識、的確な判断力が必要とされています。部落の70年、学校の60年の輝かしい歴史を基礎に、益々発展されん事を祈り、心からお祝い申し上げます。

 お祝いのことば            栗田  光子

 部落開基70周年、小学校開校60周年と一言に申しますが。考えますと想像も出来ない昔を偲び、じっと目を閉じて空想します。
 この意義ある式典に遠方から訪れました。来賓の皆さん、なつかしい諸先生、先輩、後輩、となつかしい顔、顔です。私共は今日のこのおめでたい日を住民一同心より待っており嬉しく思います。故郷志撫子は過疎となり家々は点々としていますが、こん日の70年の歩みを基礎として今後益々それなりに発展させてゆくように努力したいと思います。
 此の平凡の志撫子に生まれ母校を出て一生涯を此の地で住める事を幸せと考え、毎日を有意義に過ごしているつもりです。校舎も現代的に明るく、数少ない児童ではありますが、学校行事は部落こぞってお互いに協力し合い、親密度を高めています。この意義ある行事を持てる事は、先人の数々のご苦労とご努力、各地でご活躍の同窓生の故郷を思う温かい心の洗われと信じ、在住の1人として感激しています。新鮮な海の幸、山の幸に恵まれた、故郷志撫子。何年後は想像も出来ない変化となりましょうが、故郷を思う心は変わらないものと信じています。

 思い出=そして出発           栗田  敏

 思い出せば懐かしい事ばかりでした。右も左も分からず入学した小学校生活、休み時間の体育館は現在の交通ラッシュ、学校の田へバケツリレーでの水入れ、秋には山へガンビとり、そして水田で獲れた米で餅を作ってもらい食べた事を何をとっても思い出深い事ばかりです。
 こうして開基70周年、開校60周年をなつかしい想い出と祝うと同時にこの70年、60年、の歩みを土台になおいっそうの発展を考えようではありませんか。50周年記念後、ここサロマ湖畔に位置し風光明媚な小さな部落にも過疎化々々とさわがれ、人口も半数以下になりました。この数少なくなった中で人同士、一つの仲間として自分だけでなく他人、又、親・子、又先輩・後輩とたがいに対立しやすい関係を話し合い、教わり合い、自分だけは!という事で今後ますますの発展を考えていくべきだと思います。

 学校の憶い出          阿部 松男

 その一 他校選手競争
 運動会で志撫子校が近隣の他校選手を招待して、リレー方式で覇を争ったのは大正10年がはじめだったと記憶している。参加したのは芭露、上芭露、東芭露、計呂地、床丹で、それに志撫子が加わって6校であった。
 志撫子校はその時6年生の男子が6人で、その中から4人の選手が出場したのだから全員選手というようなものであった。当時は情報も皆無であったので自他の実力を知る由もなく、どれ程戦えるか全く未知数で選手となった者も不安と責任感でビクビクであった。
 いよいよ競技がコールされた。突如として起る各校の応援歌の応酬、選手は先ずその迫力と熱気に圧倒された。当校の選手はトップから宮本達男、大友清光、小野喜一、阿部松男の順で、1人1周150b走るのである。やがて号砲一発、スタートは切られた。一斉に起る怒濤のような歓声、次走を待機する選手も異常な雰囲気に包まれて緊張した。宮本君はスタートから上芭露とデットヒートの熱戦を演じ応援団や観衆を沸き立たせたが、1位を争いつつ大友君にリレーした。大友君はチーム中第1の実力を持っていたから大きな期待が持たれていたが、彼はその期待に応え断然トップに躍り出た。この時の応援団と観衆の欣喜雀躍の姿、私は今以てその情景を忘れる事が出来ない。斯くて僅かながらリードして小野君に引き継がれた。小野君もよく善戦して殆ど動尺でアンカーの私に引き継いだ。然しその時のリレーの仕方にミスがあったのか、私が走り出した時は2位になっていた。耳をつんざく嵐のかん声、わたしは全力を尽くして力走したが遂にこれを抜くことが出来ず、上芭露の後塵を浴びて2位に泣いた。
 戦いは終わった。はじめての戦いにはじめて味わう敗戦の苦汁、4名の選手は声もなく頭をたれて無念の泣を制えていた。応援団を一きわ高く応援歌を歌い、観衆も先生もその善戦を称えて失意の選手を慰めてくれた。
 然し、選手一同は慰められる程止めども流れる涙をどうすることもできなかった。

 その二 なでしこ文芸団
 桑原先生は青春の情熱をかたむけて教育に当たっておられたが、情操教育にも非常に熱心で、音楽や文芸にも大変力を入れておられた。幸い大塚先生も文学、絵画に熱心で、特に詩歌、絵画には特別の天性を持っておられるように見受けられ、桑原先生の良き協力者であった。
 両先生の熱意と指導力で生徒の文学的才能が次第に伸びてきたので、大正9年頃から文芸機関誌「なでしこ」を発刊し、生徒の作文、詩歌等を搭載すると共に、学校と父兄との連絡機関として活用していた。大正10年になって私たち生徒は両先生の指導により「なでしこ文芸団」を組織し、当時学校で購読していた「小国民新聞」に投稿することになった。生徒は好むと好まざるに不拘何かを投稿することになったが、外部に対しはじめて自分の作文を発表してその評価を得ることについて、大きな不安を恥ずかしさを感じ、最初の新聞の来るのが恐ろしかった。然し、第1回の当校で何人かが入選したのである。これが大きな自信となり、力強い前進のきっかけとなって、その後窶々投稿したがその都度幾人かが入選して、「なでしこ文芸団」は小国民新聞を通じて全国にその名を馳せたのであった。我つぃも文学的には素質的に恵まれておらなかったのでなかなか興味をもつまでに至らず苦しんだが、前記(その一)の「他校選手競争」の情景と選手の心境を綴った「選手競争」、「窓にもたれて」、「晩霜」等が秀作に入選したのは我ながら意外であった。文学的にかたくなな私をこれまで育てて下さった両先生の薫淘に今なを深く感謝し肝銘している次第である。
 大塚先生は其の後作詩、作文等で教育界に大変活躍され、先生の作詩した校歌が全道各地で歌われているのも宜なるかなと、その大成を心から喜んでいるものである。

 その三 降参角力
 大正時代のスポーツは極めて原始的なものばかりで、用具を使うものは殆どなく、専ら走る、角力といったものが中心であった。夏期は主として走ることに重点を置かれたが、冬期間は寒いので肉弾相打つ角力、騎馬戦などが盛んに行われた。薪ストーブ1個の周辺は下級生や女生徒に提供し、上級男生徒は全員紅白に分かれて降参角力をやるのが始業前の時間、昼休時間を活用する慣例的なスポーツであった。これは相手が降参するまで押さえ込む角力なので、なかなかスタミナを消耗し、どんな寒い時でも5分も経てば汗が流れるのであった。私達はそれが又大きな楽しみで、予め打合せて朝は必要以上に早く登校し、ストーブも焚かないで早速この角力を始めるといった有様だったが、桑原先生も早すぎる登校には時に注意することもあったが暗黙にこれを容認しているようであった。そして時には自らこれに参加し熱戦を演じたのであるが、生徒も自然に柔道の押さえ込みや逆手を会得していたので、先生もかなり苦戦するという情景も窶々見られた。先生も生徒も真剣で、上になったり下になったりする中に先生のボタンは飛び、生徒の袖がちぎれたりしても降参するまでは決して遠慮も手加減もしなかった。
 師弟の関係を調節したこの肉体の激突は、自然に心の結びつきとなりいい知れない感動の流れを感ずるのであった。始業の鐘でようやく戦いは終わり、玉なす汗を拭い去る先生と生徒の顔は晴れやかで明るかった。そこにはボタンや袖の地切れを気にしている様子は全く見られず。「さあこれから授業だ」という活気に満ちた瞳の輝きがあった。
 体で教えられたこの教育は今も忘れ得ない懐かしい憶い出となっているのである。
  
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