開基70周年記念   「思い出の虹     湧別町西芭露

                                       昭和54年10月4日発刊

第1部 部落のあゆみ

昭和の小漁師top
西芭露郷土史top

1,沿革  西芭露年代表 西芭露部落居住者分布 〜遠軽峠〜


一、沿革
地理的環境   当部落は、湧別町の東南芭露原野の西端に位す。
 北緯44度4分ー43度59分、統計43度3分ー143度33分の間にある(55年記念誌より)。
 東はシャクシバローと呼称する岐線を境として東芭露部落に接する。接続の原野部は西4線
19号を以て上芭露部落に接し、北西の長い部分はかなり高い分水嶺を境として遠軽町と、一
部は上湧別町に接する。 南は生田原町に境す。
 河川に付いて述べれば、生田原町との境に発する渓流は遠軽町境より流れ出る数本の小流
を併せ、上芭露地域で東芭露より流れ出る川と合流してサロマ湖へ注ぐ芭露川の上流を形成
する。
 当区域内の面積は3,090ヘクタールでその90%は山林、そのうち70%位は国有林、残り
の山林は民有林である。山林以外の200ヘクタールは農耕地である。
 農耕地は比較的小石まじりの黒土の部分と、堤防地域に分けることが出来る。大部分は地
味肥沃でハッカ・ビート・スイトコン・豆類其の他の作物の栽培に適する。
 気候はオホーツク海性特有の気象の影響を受け、夏は海霧の発生あり。
 気温も涼しく、冬期は零下30度以下にも下がり、開拓以来周期的冷害に見舞われ、昭和6,
7,9年の冷害、28,29,31年の冷害はその代表的なものである。
沿革の概要  西芭露部落は上芭露部落の一部西の沢と呼ばれ、明治42年「町誌」にも記されているとおり
、「西芭露原野貸付告示」をうけて、其の歳の1月、高橋忠兵衛外6名により、開拓の鍬が下さ
れた。
 その前年41年、殖民地区画割が実施され、西3線より、西9線まで、区画された。
 入植希望者は西3線より下流の地の払下げを申請したが当時西3線より7線の間を、村有地
と決定した。新聞其の他報道機関も少ないため、住民は支庁に出向いて初めて、其の事情を
知り、あらためて、7線より上流地帯に出願して、入植したという事実であった。
 43年4戸、44年9戸と、年毎に入植者も増加した。
 大正2年小学校の前身、上芭露小学校附属西の沢特別教授場の設立と共に、上芭露部落
より独立した。 其の歳の0月5日学校に於いて、独立総会を開き、次の役員が選出された。
  区   長 千葉 仲助 
  第1組長 村田重五郎
  第2組長 村井吉衛門
 また部落祭典を、10月17日と決定した。
 其の歳の1月遠軽へ通ずる道路が出来、冬期は馬橇の通行が可能となった。
その時も夏期は駄鞍で、生活物資を運んだ。(茶山秀吉氏記録)
 大正10年部落貫通道路、及び、8線18号より遠軽市街に至る峠を越えて、2里17丁余の道路
の開削により、当部落は遠軽市街との接近により、経済生活の面に於いて、文化生活の面に於
いて、大いに好転する結果となった。
 前大正8年には、流行性感冒が猖獗をきわめ、部落内にもかなりの死亡者があった。
 部落会初の原動力となったものは、薄荷の栽培であり、薄荷の生産を主軸として、農家経済生
活は年を追って上昇した。
 穏健な気風と堅実な努力に培われ、住民は一致団結して、生活の向上と、部落発展に努めた。
部落の戸数も、其の時世、時世を反映して増減した。
 開拓当初より年次増加した戸数は大正14年頃は53戸、昭和12年頃は66戸であった。
 戦後食糧難の時代は、新開拓者の入地があり、昭和25年頃は、64戸となった。
 昭和22年には農村電化の第一歩である電気の導入、学校も中学校を併置し、校舎の増築をお
こない、児童生徒の教育も向上したが、一面に於いて戦時中荒廃した都市も、急激に復興し、国
内の生産物も増加、諸外国との貿易関係により、生活物資も豊富になり、加うるに他産業労働
賃金の上昇により、29年頃より。当部落の人口は、遠軽、北見、札幌方面への流動がはじまり、
30年代の後期には、隣接の部落と共に、甚だしい過疎という現象を呈するに至り、中学校は統
廃合という上ない情勢となった。
 而しながら、農村に踏みとどまった人々は、強固な精神と、撓ゆまぬ努力によって、薄荷、ビー
ト、豆類の作付専業農家も、酪農家も、国の施策と呼応して、近代的機械を導入して、きびしい
現実に耐えて、着々と堅実な歩みを続けている現状である。
 
樹木の言葉  開拓の元老梅木庄左ェ門の言葉を借りれば、入植当時四囲は熊笹に蔽われ、桂やアカダモ、
ヤチタモの巨木が天日をさえぎり昼尚暗い鬱蒼とした密林であったこと、平地はこの言葉通りで
あり、当部落の東部を占める民有林は明治末年の山火の炎症により枯松の林と変わった。後
年(大正7,8,9年頃)三菱造林部が枯松を割材矢板として造材し、この地方に多い枯れた水松
は鉛筆材として搬出された。
 其の頃生えた白樺、楢、イタヤの雑林は現在天然林として七十年の齢を経ている。当時三菱
造材部は現東海林沢を開さくして木材を遠軽へ搬出したという。その道は今も峠に残っている。

 呼称「徳川の山」と言われている東芭露と接する民有林は、当時年賦払として部落各個人の
所有となった。時の流れは前記の雑木林も伐採され、落葉松、トド松の植林地と変わりつつあ
る現況である。
 最大の面積を占める国有林は、戦前までは僅かに不良木などの柾材、薪材の払下げ程度で
あったが戦時中軍需材などの名のもとに遠軽町奥原木材店の大量払下げを受けたのを初めとし
て年々木材業者への大量払下げがあった。
 戦後遠軽営林署上芭露担当区事業所が当部落に開設されるに及び、皆材植林となり年々大
面積の皆材払下げがあり、跡地は大部分落葉松、トド松の植林地と大きく一変した。
 冬期間木材の搬出には馬橇(バチ)が使用された。
 杣夫の3尺もある鋸に切り倒される巨木のうめき、造材人夫の木遣りの掛け声、馬の鈴の音、
春近い頃の馬糞の道、それ等は遠い思い出となった。
 木材を満載した馬を御し、吹雪の遠軽峠を越え、或いは芭露方面へ下る。
 防寒具に身を包んだ、夜も昼も無く働き続けた人々の姿を、忘却の彼方へ押し流すがのように
、今は夏季トラック運材の時代とかわり、血と汗を流した偉大な労馬の功績は昔の夢と変わった。

西芭露部落年代表

年 代 行政 学校 農業 町村長 駐在員・区長 町村議員 PTA会長 校長 記事(湧別町) 記事(西芭露)     topへ
明治  
41









兼重重太郎 芭露簡易教育所尋常小学校に昇格
42    〃 シブノツナイ原野東芭露、西芭露原野
貸付告示
11月上旬 高橋秀太郎外6名  
入地開拓に従事
43 藤田松之助 6号線北南を上湧別村と分割し以北を
下湧別村と改称
東芭露分教場開設
芭露原野道路16号〜23号開通
開拓初の犠牲
 高橋勧兵衛死す
44














宮崎 簡亮 芭露巡査駐在所設置 山火により部落はほとんど焼失
2戸残る
佐藤忠兵衛、村井吉衛門
入植者増える 29戸
45
大正  
元年
池沢  亨 部落独立総会












   〃 千葉 仲助 千葉 仲助 東芭露、西芭露特別教授場設
置国有種馬所7号線に設置
上芭露教育所尋常小学校に
昇格
上芭露尋常小学校附属西の沢
特別教授場設置 生徒27名
西の沢神社建立
青年会創立 会長村井繁蔵
三浦 哲郎    〃   〃 10月1日、信部内、志舞子特
別教授場設置
   〃 佐藤忠兵衛 佐藤忠兵衛
樋口 金蔵    〃   〃 湧別鉄道全通  10月18日
緑蔭特別教授場設置
芭露郵便局開局
川西特別教授場尋常小学校
に昇格
学校井戸新設(深さ25尺)
7月以降60日間降雨なし
   〃 船戸 喜助 船戸 喜助 計呂地特別教授場尋常小学
校に昇格
方面委員制度定まる
西4線〜7線まで道路完成
檜森 憲一 梅津庄左衛門 梅津庄左衛門 湧別市街 4号線に点灯
湧別電気会社設立
上芭露巡査駐在所設立
三菱炭坑造材始まる(11年まで)
  〃 佐藤忠兵衛 佐藤忠兵衛 信太寿之シブノツナイに30町歩の
造田計画を樹立
ハッカ30円の高値








  〃 宇山 三平 宇山 三平 芭露局電信事務取り扱う
志撫子特別教授場尋常小学校に
昇格
墓地初めて使用(石塚家)
10 金田 虎吉 船戸 喜助 船戸 喜助 上芭露郵便局開局
大町桂月来遊
10月 植民道路完成
遠軽まで馬車可能となる
11 国上国太郎 村田 重蔵 梅津庄左衛門 村田 重蔵 上芭露国有種馬所開設 女子青年団(静修処女会)
創立 会長 船戸ヒデ
12 関坂 半治 佐藤忠兵衛   〃 佐藤忠兵衛 床丹 信部内特別教授場尋常小
学校に昇格
一教室増築 
青年会館建立
13   〃   〃   〃   〃 ハッカ30円の高値全盛時代
皇太子御手播カラ松5本植樹
14 西








中村 与吉 船戸 喜助   〃 船戸 喜助





西ノ沢小学校に昇格(2学級)
15
昭和
  元年
小坂武十郎 佐々木直太郎

石山 一二
石山 一二 佐々木直太郎


石山 一二
西芭露道路完成  戸数53戸
11月28日 新築校舎落成式
校舎敷地地均に部落総出役
(300名)
武藤藤五郎 石塚 勘蔵   〃 石塚 勘蔵 部落部長を区長と改称
  〃 村井 豊助 石塚 勘蔵 村井 豊助 中番屋特別教授場設置
計呂地、湧別に産業組合結成
議会議員24名
御大典記念カラ松100本植樹
堀川 重敏 伊藤忠五郎   〃 伊藤忠五郎 サロマ湖口開く 小学校に物置付設
水量不足によりポンプ据え置く
西












  〃 佐藤作太郎   〃 佐藤作太郎 湧別消防番屋新築 西芭露尋常小学校と改称
  〃 梅津庄左衛門   〃 梅津庄左衛門 湧別墓地火葬場設置
上芭露消防組第3部設置
大凶作 愛林の日遠軽営林署
よりカラ松20本寄贈植樹
高木  勉 石塚 勘蔵 石塚 勘蔵





石北線全通 大凶作
学校井戸小屋建設
満州事変
   梅津庄左衛門 梅津庄左衛門 開校20周年記念植樹 大豊作
  〃   〃 湧別築堤工事開始 校舎傾き修復
10



森垣 幸一 小田 孝作 小田 孝作 西湧網線計呂地まで開通
湧別、芭露産業組合合併
青年訓練所を青年学校に改組
11   〃   〃 石塚 義雄   〃 中番屋特別教授場を登栄床
尋常小学校と改称昇格
12   〃 梅津庄左衛門   〃 梅津庄左衛門 開村40周年記念式典
芭露消防組設置3部制となる
支那事変
13   〃   〃   〃   〃
14   〃 村井 豊助   〃 村井 豊助 消防組警防団に改組
村内3分田設置
戸数68戸
15   〃 玉根徳次郎 茶山 秀吉 玉根徳次郎 一級町村制施行 紀元2000年記念
二宮尊徳像建立
16 西







  〃   〃   〃   〃





大東亜戦争
西芭露国民学校と改称
17   〃 石塚 義雄   〃 石塚 義雄 下湧別村森林組合設立
緑蔭特別教授場国民学校に昇格
5月26日
 漂着機雷爆発死者108名
須徳碑(宇山 石塚)建立
18   〃   〃   〃   〃
19 村上 庄一   〃   〃   〃 産業組合農会を統合下湧別村農
業会設立
芭露市街に電灯つく
20   〃   〃   〃   〃 終戦
21









安田 重雄 大隈 政雄   〃 大隈 政雄 農地委員きまる 高等科併置
22 大口 丑定 村井 玉吉   〃 村井 玉吉 開村50周年記念式典
 村長 村会議員公選
3芭露 計呂地 登栄床に電灯つく
湧別中学校開校
電灯つく
西芭露小学校と改称
上芭露中学校西芭露分校
を併置
23 西上西
芭芭芭
露露露
小中分
学学校
校校
  〃 峯田 繁蔵   〃 峯田 繁蔵

湧別・芭露・計呂地に農業
協同組合発足
東湧小学校開校
墓地移転
24   〃   〃   〃   〃 湧別漁業協同組合発足
芭露農協ラジオ共同聴取実施
北見バス湧別遠軽間運行
西芭露中学校として独立
一教室増築
戸数61戸
25   〃 村井 玉吉   〃 村井 玉吉





北見バス登栄床線運行
村営バス中湧別東芭露間運行
床丹佐呂間村に編入
校舎付属便所 教員住宅
一棟建築
戸数64戸
26 西





 ・
西








  〃 宮田 富蔵   〃 宮田 富蔵 農業委員会発足
芭露・上芭露農協合併
27   〃 伊藤辰五郎   〃 伊藤辰五郎 湧別公民館建設
教育委員会発足
28











  〃 村井 玉吉   〃 村井 玉吉 湧別町と改称
計呂地・芭露農協合併
組合立湧別高校設立
町制施行
29   〃 阿部市太郎   〃 佐藤豊太郎 国保直営診療所芭露に新設 戸数58戸
30 村上 庄一   〃   〃 上松 七郎 現校舎新築落成
31   〃 大隈 政雄   〃   〃 新農山漁村指定町村となる 校庭周囲にカラ松植樹
32   〃 小田 春治   〃 伊藤 留作 開村60周年
湧別大橋完成
学校林設定(6町3反7畝8歩)
33   〃   〃   〃   〃 芭露川築堤工事着手
34







  〃 石山 宣次 峯田 繁蔵 峯田 繁蔵


湧別乳業200頭祭 農村電話架設
開基50周年記念 校歌制定
ピアノ購入 トド松600本植樹
36   〃 小田 春次   〃   〃 教員住宅1棟建築
37   〃 村井 玉吉   〃   〃
38 清水 清一   〃   〃   〃 湖陵中学校一期工事着手
青少年キャンプサロマ湖畔に開く
開基55周年 開校50周年
記念式典 戸数54戸
39   〃   〃   〃   〃



救農事業実施
40   〃   〃   〃   〃 登栄床中学校湧別中学に統合
沼ノ上地区直轄明渠事業着工
41   〃   〃   〃   〃 牛乳1万トン突破
サロマ湖に灯台新設
東芭露中学校湧別中学校に統合
42   〃 長屋 政二 村井 玉吉   〃 開基85周年開町70周年記念式典
湧別公民館芭露分館建設
43   〃   〃   〃   〃 農業構造改善指定
両湧別学校給食組合設立
44 西






  〃   〃   〃 長屋 政二 東湧地区営農用水施設完成
東芭露・志撫子小学校改築落成
中学校湖陵中学校に統合
国有林分収林造成
45   〃   〃   〃   〃


過疎地域対策緊急借置法により
過疎地域に指定
湧別東芭露間町営バス運行
上芭露母と子の家落成
46   〃   〃   〃 大町桂月歌碑建立
湖陵中学校にプール竣工
冷害対策救農土木工事
神社鳥居建立
47   〃   〃   〃 川西・信部内・東湧・登栄床小学校
湧別小学校に統合
湧別総合開発計画策定
分岐点に停留所設置
48   〃   〃   〃 湧別中央公民館竣工
湧別地区第2次構造改善地区に指定
湧別小学校統合校舎落成
神社拝殿建築
開拓65周年祈念碑建立
49   〃   〃   〃



農業振興地域の整備に関する法律に
より振興地域に指定
神社参道に階段
部落の班を廃し5組に編成
学校林トド松売却
50   〃   〃   〃 芭露地区に3相電気導入
芭露テレビ中継局開局
郷土館落成
51   〃   〃   〃 芭露局管轄区域内電話自動化
湧別町総合体育館竣工

湧別町農業研修センター落成
寿の家新築
52   〃   〃   〃 芭露診療所改築落成
東芭露小学校芭露小学校に
統合
墓地駐車場設置
53   〃   〃   〃 湧別町役場庁舎 ファミリー
スポーツセンター 畜産総合
研修センター
芭露保育所新築落成
乳牛1万頭、肉牛3千頭突破
学校林カラ松間伐
寿の家                                       造園水松移植
54     伊藤  剛

開基70周年
開校66周年記念
記念誌「思い出の虹」出版

西芭露部落居住者分布
topへ

明治42年入植  高橋秀太郎  村井吉衛門  長屋仙太郎  高橋忠兵衛  千葉 仲助       
 伊藤 太郎   長屋徳右衛門
明治43年入植  永田吉五郎  林谷 文作  石塚 勘蔵  宇山 三平
明治44年入植   松村 岸太  船戸 喜助  大石金次郎  大塚 勘松  阿部文太郎
 高岡 元一  川崎吉次郎  林 利源太  菊地 竹治
明治45年〜大
正3年
 村田重五郎  佐々木直太郎  新居 長吉  小田 孝作  吉田新二郎  森田幸太郎       
 今村 乙吉  武藤 円蔵  茶山 与助  長井仙次郎  高橋久ノ助  梅津庄左衛門
 阿部 義蔵  長屋金兵衛  桑原 才市  今村信次郎  宇野市太郎  佐々木久次郎
 佐藤作太郎  岡 豊蔵  南達庄之助  上田峯次郎  石山 一二  外島  永吉
 江崎覚太郎
大正14年現在  長岡 友蔵  茶山 与助  宮田喜代松  村田 五郎  大隅松五郎  小泉 豊治
 村田愛次郎  八鍬安次郎  川崎吉次郎  今村与左衛門  ※藤国太郎  藤丸喜久治
 戸田菊太郎  阿部 徳七  小田 孝作  村井 玉吉  佐々木直太郎  新居 長吉
 石塚 勘蔵  鈴木 新吾  長屋 治七  松村 岸太  大塚 精逸  大塚 勘松
 伊藤忠五郎  横尾  谷吉  梅津庄左衛門  野村 清吉  佐藤忠兵衛  玉根徳次郎
 関 芳二郎  桑原 才市  長屋金兵衛  伊藤辰五郎  長屋徳左衛門  阿部 義蔵
 小泉 藤吉  向田 丑松  船戸 喜助  菊地 竹治  大竹房次郎  桑原 吉助
 佐藤作太郎  峯田 春吉  石山 一二  千葉 忠助  松田 倉吉  長屋 林蔵
 宍戸五郎吉  村井 豊助  石原嘉太郎  小池源左衛門  笹原 郡治  滝田多一郎
昭和12年現在  長岡 友蔵  茶山 秀吉  阿部市太郎  村田五郎  大隅松五郎  村井 豊助
 小泉 豊  村田愛次郎  八鍬マサエ  上伊沢千代吉  今村与左衛門  菅原 松蔵
 児嶋 政市  中岡幾太郎  戸田菊太郎  藤丸喜久治  小熊 清吉  阿部 徳七
 田代松五郎  戸梶治太郎  小田 孝作  村井 玉吉  新居 徳重  石塚 義雄
 鈴木 信吾  松村 岸太  佐々木 甫  梅津 義雄  石塚 義井  浅井秀次郎
 服部 晴久  伊藤忠五郎  大塚 精逸  上松 七郎  梅津庄左衛門  伊藤 留作
 玉根徳次郎  小池源右衛門  加茂 寅雄  長屋 林蔵  長屋 由平  長屋金兵衛
 伊藤辰五郎  長屋徳右衛門  阿部 義蔵  小泉  藤吉  白田 丑松  船戸 よね
 佐藤 信雄  門脇 広津  宇野 又一  佐藤豊太郎  峯田 春吉  石山 信治
 石山 宣次  多田 重増  向田養次郎  宍戸五郎吉  石原嘉太郎  伊藤 繁春
 小池 政八  諸岡 捨一  峯田銀三郎  大和田 豊  祖父江芳雄
昭和25年現在  宮田 富蔵  茶山 秀吉  阿部市太郎  村田正太郎  大隅 政雄  小泉 豊
 村田 健作  村井 豊助  大隅 政治  今村与左衛門  岩崎 常蔵  児嶋 政市
 中岡幾太郎  戸田 キヨ  小田 孝作  村井 玉吉  石塚 義雄  浅井ヨシエ
 梅津 ヨシ  石塚 義井  船戸 ヨネ  石塚ナツエ  石塚 敏夫  大塚 進市
 伊藤忠五郎  横尾 権蔵  大塚 精逸  上松 七郎  平川吉次郎  上田源平衛
 内海松次郎  佐々木豊助  梅津 昇三  小池源右衛門  伊藤 留作  須藤源二郎
 長屋 林蔵  長屋金兵衛  伊藤辰五郎  阿部治平衛  小泉 藤治  白田 福栄
 桑原 正男  佐藤 信雄  多田 重増  宇野 又一  佐藤豊太郎  峯田 春吉
 東海林 昇  長屋 正義  長屋 栄作  石山 信治  石山 宣次  峯田 繁蔵
 鈴木 富雄  白田養次郎  宍戸五郎吉  石原嘉太郎  長岡 与七  宇野 際治
 峯田金太郎  小泉 美春  高瀬 清  松田 照子
昭和38年現在  宮田 富蔵  横尾 春雄  村田正太郎  大隅 政雄  村田徳次郎  小泉 豊
 大隅 政治  村田 健作  村井  幾  青木 秋男  今村 高徳  児嶋 政市
 中岡幾太郎  小田 永吉  村井 玉吉  大塚 豊  浅井 菊重  村井 一三
 途中 勝吉  大塚 一男  大塚 進市  東海林秀雄  井上 武芳  長屋 正義
 梅津 茂利  小池 勝  伊藤 留作  長屋 政二  長屋 春吉  長屋 栄作
 阿部治兵衛  小泉 勝治  佐藤 信雄  多田 重増  宇野 又一  佐藤豊太郎
 峯田 春吉  東海林 昇  石山 信治  石山 宣次  峯田 繁蔵  平川 貞義
 宍戸 昭美  白田養次郎  宍戸五郎吉  鈴木 富雄  長岡 与七  佐藤 美晴
 高橋 一郎  三井 喜人  秋沢 稔  本田 孝一  我孫子千代子  石塚 澄子
昭和54年現在  梶沼 春雄  大隅政太郎  村田徳次郎  平川 貞義  大隅 勝治  青木 秋男
 児嶋 和夫  小田 永吉  村井 玉吉  大塚 豊  浅井 菊雄  村井 一二
 途中 勝吉  大塚 一男  大塚 進市  東海林秀雄  大塚 真見  長岡 与七
 長屋 正義  小池 勝  伊藤 剛  長屋 晴治  長屋 春吉  阿部 正井  
 大隅 栄一  佐藤 英二  佐藤 実  峯田 保  東海林保政  石山 信吉
 峯田 勤  鈴木 富雄  高橋 哲  池田 恒夫


topへ     遠軽峠     開拓時代よりこの部落に居住し、或いは遠くこの地を離れた人々の心に、寒酸な苦渋な、
当時の生活と共に、今なつかしい思い出をして浮かぶものがあるとすれば、其の一つは遠
軽峠の思い出ではないでしょうか。
 この峠は大正2年頃以降、しばらくの間、今の長岡さんの畑の上の峠を越えていたという。
 其の頃よりずっと長い数十年もの間、峠は一面の萓原であった。
 処々に楢の木々が枝を広げていた。それは夢のような思い出である。
 春はわらびなどの山菜が生えていた。
 大正11年頃、今は廃道になっている遠軽との町界付近に、一軒の茶屋があった。その人
は後に西芭露へ住んだ阿部徳七さんであった。
 この峠を越す人はたいてい汗を拭いて休憩した。
 その跡地には、しばらくイチゴが熟れて通る人の心を慰めた。
 喜びの時も悲しみの時も、人々はこの峠を越えた。運命の峠であった。
  峠 の 詩
 白い雨降る   峠の路に
 若いいのちの  遠い日の
 影なつかしみ  佇めば
 うす紫の     萩も無く
 枯蘆風に    泣くばかり

 去にし日は再び還らない
 夕焼の空の  彼方に
 新しい明日の来ることを願い
 幾度か越えた 峠は心の慰安所
 いざさらば   涙こらえて手を振って
 別れし人は  幾久し
 ああその人も 今は亡し

 襟を正して眉あげて
 征衣の人よ  彼の君よ
 ああ南溟の空のもと
 雲染む花と散ったるか
 幾年春は   花咲けど
 峠を越えし人は来ず
 別離は人の世の宿命
 耐えなければならない
 峠に星は流れゆき 朔風ひょうひょうと
 荒ぶ峠     氷雨降る峠に想う
 氷雨降る峠は永遠に心の  ふるさと
 今日も越えゆく峠
 明日も越えゆく峠 
生活のうつりかわり   村井豊助翁の話によれば、当時西芭露奥地一帯は、湧別の岩崎某の払下地で
あったと言う。
 翁は、大正3年、計呂置より当部落の一番奥地に通い作して開拓に従事した。
最初の2週間位は、大きな桂の樹の空洞の中で雨露をしのぎ、後になって2間に
3間の着手小屋を建て、桂はドス楢の木で屋根や周囲は、自己手割のエゾ松の
3尺柾で作った。其の頃は、狐や熊が、時々家の周囲に出没したという。
 作物はソバやイナキビ、後に麦、ハッカを作ったという。大正5年には家族を伴っ
て移住をした。其の時はハッカが1町歩程になり、反収は2,5組位であり、其の
頃、山は山火のため枯松の林であった。生活物資を運ぶには、冬期馬橇を使用
した。
住宅  おがみ小屋
 これは初め私共の父や祖父が、未開の荒地を拓くために、現地の草や木を使用
 して、雨露をしのいで寝泊りした三角形の小屋である。
着手小屋
 これはおがみ小屋より進歩したもので、現在のハッカ吹貫小屋の小型なもので
ある。草や作物の殻や柾で、まわりや屋根は作られた。穀物も少しは良い方であ
った。
 其の後部落の人々は、何十年も掘っ立てで、柾や板囲いの家に住んだ。
 私共の子供の頃の記憶にあることは、吹雪になると、雪が周囲の天井やすき間
から冷たい風といっしょに侵入して、思わず首をすくめることであった。
 昭和の初期から製材による建築が出来た。(それ以前にも2,3軒あったが、)。
 大正十年近くまではストーブを使用せず、玄関口から入ったところに炉が切って
あり、三尺も五尺もある薪をそのまま燃やしていた。
 北海道速もつを煮る鍋も、つるのついた鉄製の鍋が多く、炉の上に天井よりさげ
られた鈎に鍋を掛けて、食物を煮炊きした。
 その頃の主食は稲きびや麦であり、米は僅かにお盆や、正月の御馳走ていどで
あった。
 孝作について、開墾には丸鍬を使用した。樹木の伐採には鋸、まさかりが使用
され、集木には鳶、角まわしが使用された。
 次には馬による耕運、プラオ、ハローの時代となり、この時代は長く、今日耕耘機
、トラクターの時代となっても一部にはその利点を生かして使用されている。
 生活物資などの荷物の運搬には、最初人の力に依存したが、馬の背に駄鞍とい
うものを着けて運び、後には夏は馬車、冬は馬橇が使用された。
 ゴム車輪の保導車を使用するようになったのは、戦時中で、石山宣次さんが三
輪車を購入して、物資の運搬に協力した。
 今はトラクター、トラックの時代を変わった(昭和30年以後である)。
 乗り物のうつり変わりをのべれば、開拓当初は、乗馬で、刈分け道を行って用件
を済ませたようであり、遠くへは馬橇馬車が使用され、自転車を使用するようにな
ったのは大正末期からである。
 オートバイは戦後25,6年頃から盛んとなり、今は乗用車をほとんど各戸に持つ
ようになった。 
生活用品の購入  開拓当初は、衣、食、住共に質素であり、従って購入品も簡素であった。
主に上芭露市街の商店、或いは遠軽市街の商店より購入した。
品目は当区内に開店していた商店より購入した。
 次に店を開いた人は次の通りである。
 宇山 三平  林利源太  大隅松五郎  小田 孝作
 石塚 官次  浅井芳次郎  船戸 よね  村井 一三
履物のうつりかわり  開拓の当初は、主に手作りの足袋を履き、冬はわら細工の靴(つまご)を履いて
作業をした。その他ゴム底でない地下足袋を履いたという。
 児童生徒も夏は、下駄、草履、冬は防寒靴をはき、ゴム靴は大正末期より店頭で
売られた。
 児童の衣服も夏冬和服で、冬は男女ともモンペを履いた。
 学用品、教科書も、風呂敷包み、ズックの肩掛けカバンは大正10年頃より使用
された。
 道路が川沿いにあった頃、風呂敷が解けて教科書や学用品が川の中へ流れた
こともあった。
交通のうつりかわり  開拓初期、道路は主に川沿いの深く的熊笹や、立木のすくない所を刈り分け、
また隣り同志の境界、主に線として認められているところを利用した。
 大正10年以降は、現在の道路を通って、上芭露、遠軽方面に出るようになった。
 月見峠も、最初は急な坂を上り下りして、とうてい道路という程のものではなか
ったが、幾度か部落住民の出役により、道路の形を呈した。
 昭和42年、遠軽営林署の併用林道としての工事竣功により、現在は自動車も通
れる道となり奥地住民に明るい光を与えている。
 西6線より東芭露26号に至る道路も、幾度か改修され、今は両部落を結ぶ幹線
となっている。その他6線の沢には、立派な林道も完成している。
 当部落は、農協の開設以前、生活物資の大部分を、上芭露市街、遠軽市街に依
存した。遠軽市街に至るには。
 現在は自動車で20分足らずの行程であるが、以前は徒歩で小半日、馬車馬橇で
3時間余を要した。今は立派な舗装道路である。
 冬期、珠に吹雪の後などは、急病人でも発生したらという懸念から、住民は一致
協力、総出動で、スコップ、乗馬、馬橇と各人の道具を持って1日でも2日でも完通
するまで出役した。
 一冬に三度も総出役で、峠の路を掘ったこともあり、昭和30年後期まで続いた。
落ち残りの楢の葉を燃やし、冷たい弁当を食べた苦しい経験も今はなつかしい思い
出となった。
村有地の解放  明治42年、西3線より西7線の間を湧別村村有財産となった。
 44年から小作人が入地を始め、大沼寅造、栗山浜吉、林利源太等が入植し、45
年(大正元年)、佐々木直太郎、小田孝作、長井仙次郎、吉田新三郎、等が入地し
大正2年には、夷塚但木、武藤円造、森田幸太郎、新居長吉、福島金太郎、桜井宇
三郎、福地茂、殿住吉蔵、今村乙吉、茶山与助、大正4年には、大隈松五郎の諸氏
が入地して満員となった。
 小作人は開墾計画を5ヶ年とし、開墾5ヶ年を鍬下と称し、小作料を無料とした。
 6年目から順次に、小作料を納入する規程とし、料金は甲乙の差をつけ、1反歩1円
50銭から2円位徴収され、不作の時には減免の方法がとられた。
 開拓以来30年余、若干の移動はあったが、大部分開拓以来そのままの人で、昭
和13,4年頃から、小作人の間に開放の声が高まり、17年には時代の要求に即応
して、全区域自作農創設の意図から村は率先して開放に踏み切り、民有未墾地解
放の制度による資金の導入により、10ヶ年の年賦償還という契約であったが、物価
上昇と貨幣価値下落により、豆1俵代金位で完済、前年1ヶ年だけ年賦全納入で、繰
上げ償還することが出来た。
 20戸の住民のうち、10戸が西芭露の住民であった(茶山秀吉氏の記録)
6線の沢の今昔  現大隈政雄氏の宅より、東芭露に通ずる道路を、6線道路と呼んでいる。
 大東亜戦争の頃は10戸近くも居住者がいて、或る人は、此処を西芭露の銀座通り
と言った。
 それ以前大正8年頃は、三菱造材部の飯場が並立して、人々の出入りも多く、市
街のような様相を呈した(以上茶山秀吉氏の記録)

 星移り、年は流れて60年、過疎化の嵐の中に、現在は数戸を止めるのみとなった。
 此処の沢を6線の沢と呼んでいる。昭和10年頃、6線の沢には入口より3キロ位奥
まで、かなりの傾斜地まで開墾され、ハッカが栽培された。
 戦後、動揺の嵐の中で全住民離農して、その跡地はトド松、落葉松の植林地と変わ
っている。
 昭和50年、湧別町はこの沢に立派な林道を建設した。
当時の入植開拓者の労苦を偲びたい。
 戸梶治太郎  阿部 徳七  田代松五郎  加茂 寅治  小熊 清吉
 藤丸喜久治  中岡幾太郎  戸田菊太郎
この沢は大正14年徳川家から分割解放されていた。
 
造材のはじまり  1,明治44年、村有地内のヤチダモが湧別横山造材部により角材として造材
   搬出され、その角材は後年まで残っていた。
 2,南達の沢で白楊が造材され、床丹のマッチ工場へ搬出された。
 3,遠軽沢酒井、横尾、高田の土地より(現長岡、大塚、東海林)安国の中村
   木材店が造材して、遠軽へタマで搬出した。
保健と医療  人の幸福の第一条件は、身体が健康であることだと思う。
 われ等は常に健康であることを念願してはいるが、不幸にして病にかかった時
、切望することは、病院に近く、医師の診療をたやすく受けることが可能であると
いうことであると思う。病院に遠い僻地であったり、医師が不在であった時の不安
や心配は、言葉に言い表せないものがある。
 未開地時代の人々の精神的身体的な労苦をしのぶ時、言葉に絶するものがある。
 西芭露では、一番近い上芭露市街の医師か、遠軽の医師の診療を受けた。
大正2年より6年まで、上芭露には春日医師親子が居住して、新設に診療したと
記されている。芭露80年史、上芭露史を参照させていただき、医師の在任を記
したい。
 大正6年沢本利之助医師、大正13年菅原通之助医師、小野医師
 大正15年遠軽村上徳治医師と佐藤代診、
 昭和9年武田幸治医師、昭和12年7月まで其の後安藤医師、
 昭和13年北見より上杉栄二医師、
 昭和15年芭露より稲熊医師転任して32年まで17年間、
現在は芭露より岩代学校医師週3回出張診療に当たっている。
 前記武田幸治、稲熊医師は仁術を旨として住民の信望も厚く、その退任を惜しま
れた。現在は交通の便も発達して芭露診療所の外、遠軽市街の諸病院にお世話に
なっている。
 特筆すべきことは、昭和38年以来上芭露に在任している保健婦小林アイ子氏の
功績である。保健相談、指導に昼夜を分たず活動を続け、広範囲な地域と多面的
指導、特に幼児、老人の健康管理に留意した指導、明朗な性格は部落住民の生活
に明るい灯をかかげている。ここに感謝の意を表す次第である。
赤痢と台風  永い戦争の悪夢から解放された昭和21年、芭露一円に悪性の赤痢が蔓延した。
当局者の充分な防疫方法もとられないまま、各部落ともかなりな死亡者が続出した
が、日を追って自然終えんした。当部落でも数名の死亡者があった。
 その後昭和29年初夏、再び当区内に、感染経路は不明のまま襲来した。
部落全員検査の結果、疑いのある人は上芭露へ隔離され療養をうけた。とくに学校
生徒が多かった。当時の新聞報道を賑わした。役場でも係員を当部落に泊まり込み
出張させて、消毒防疫につとめ拡大を防いだ。
 そのため前回のごとき死亡者は一人もなく、部落は不幸中の幸であった。
 この年は冷害凶作の烙印の押された年でもあった。
 9月26日、台風15号の本道上陸により、洞爺丸の沈没、岩内町の大火と悲惨な
事故が発生した。この地方でも建物、山林に相当の被害があった。ハッカを入れた
吹貫小屋は次から次へと倒潰され、住宅の屋根を飛ばされた人もあり、風当たりの
よい峯や、風の通路は、老木若木を問わず全滅の被害を受けた。
開拓以来の恐怖の日であった。
昭和23年と
  25年の出来事
 昭和23年3月29日、この冬は特別雪の多い年であった。昨夜来の雪で、木々の
梢は真白い雪の花が咲いていた。
 何となく物さみしい日であった。この日当部落では、開拓以来の気の毒な出来事
が起こった。それは父の薪切りの手伝いをした22才の女性と、3日休みを利用して
手伝った中学2年生の女生徒の2人が、伐木の下敷きとなって、通称石原の沢とい
う場所で即死した
ことであった。
 永遠に還らない若い2人の悲劇を、部落の人々はいつまでも悲しい思い出として
残している。この2人の霊を、新しい墓地の第1号として葬った。

 昭和25年11月12日、この日西芭露小学校(菊地幸治校長)生徒が2人の先生
に引率されて、隣部落東芭露小学校へ学芸会を見学に行った。夜になっても、一人
の児童も帰宅していないことが明らかになった。
部落中は大きな心配に包まれた。
 その晩は、その年初めての雪が降り、30センチ以上も積もった。
 次の日、早朝より部落総出動、東芭露部落、上芭露部落、芭露部落の応援を得て
探索したが、夕方になっても探し当てることが出来なかった。
 不明になってより3日目の午後、東芭露奥の吹貫小屋の一隈児童を発見すること
が出来た。両親、部落民は言うに及ばず芭露一円の喜びであった。
 延千人近い人々の絶大な協力、温かい人の心、共同精神を、影響に賛美したい。
旧校舎跡地の処理  昭和30年、平地に現校舎が増築されるに及び、旧校舎の跡地は雑草の茂るまま
となった。
 其の時、青年会より遊園地として活用したいと計画が立てられたが、会員の離農
離脱者が多く、未完成のまま時は流れた。
 昭和45年、梅津家の離農の結果、旧校舎周囲の畑地を、長屋家が引き継ぐこと
になり、中央に残された6反歩の旧校舎跡地が、営農の障害となったため、町役場
当局と相談の上、長屋家に払下げて、営農に活用することが妥当であるという見地
から長屋政二氏に払下げた。
 現在はブルドーザーで整地して、立派な牧草地として活用されている。
 其の時周囲の立木は伐採して部落費の一部とした。
部落道路の改修  芭露市街より上芭露を通り、西芭露を経て、遠軽町へ通ずる道路は、この部落の
幹線であるが、道々に昇格して改修され、昭和47年以降舗装されて、サロマ湖に
通ずる観光道路となり、木材、物産の輸送と併せて、車輌の往復が賑やかになり、
昔の雑草や蕗に蔽われた静閑なおもかげは姿を消している。分岐点より遠軽市街
まで、僅か十数分の時代となった。
 西8線より、学校を経て奥地へ至る道路は、昭和50年以降、過疎基幹農道の指
定を受け、毎年改修がなされているが、工事が遅々として延びないため、住民より
速やかな竣功が強く要望されている。
共同事業  西芭露と言わず、僻地に居住する文化に恵まれない時代の人々は、創造に絶す
る苦労の連続であった。
 洪水で道路や橋梁が破損すれば、修理のため何をおいても人夫として出役した。
吹雪で道路が埋もれば、幾日で、開通するまで出役した。
 其の他、冬期間は馬橇を持ち寄り、道路にバラス(小石)を敷く、これ等のことを部
落の人々は共同事業と呼んでいる。僻地に住む者の宿命的な義務とあきらめてい
た。或る人の記録で、戦争直後ではあったが、この部落の或る組内の一年中の共
同事業が40数日と記録されている。
 若し、現在も続いているとすれば、生活への大きな脅威である。而しながら今日、
50年代は大きな共同事業もない、恵まれた時代となり、喜びと感謝に明け暮れて
いる。
学校林  昭和32年、学校林6町3反7畝8歩が6線の沢町有林内に設定された。
 32年 とど松1町3反(3,300本)
 33年 から松2町7畝(6,300本)
 34年 から松1町歩(3,000本)
 35年 とど松2町歩(6,000本)
 4ヶ年にわたり、一部は生徒の応援もあったが、部落事業として完了した。
其の後部落総出動により、数度の雑木の除抜,カラ松の間伐手入れを行った。
 49年、他部落の学校林トド松の湧別町への売却に同調して、止むなく売り
渡した。
 残りのカラ松は53年春、共同作業により間伐を実施して、今後の成長に
期待をかけている。
 当初売上金の分配は、8対2の割合であった。
部落分収林  昭和44年、遠軽営林署と西芭露部落との間に分収林としての諸契約が取
り交わされ、遠軽町早川延治氏の植林地の上部に隣接する国有林2町4反歩の
面積が、分収林地となり、特定の人により区域内の地ごしらえが終わり、春、部
落総出役により植樹作業が完了した。
 最初の数年間は、区域内全刈りを実施して手入れをした。
 枝打ち手入れもして将来の生育に期待し、後の人々の基金と致したい。
過ぎし日の記念式典  昭和38年、西芭露部落は村井玉吉氏を協賛会長として開基55周年・
開校50年の式典を挙行した。この時、次の方々に感謝状を贈って表彰した。
 ○ 開拓功労者
    千葉 仲助  佐藤忠兵衛
    梅津庄左衛門  船戸 喜助
    石山 一二  小田 孝作
    石塚 義雄
 ○ 自治功労者
    茶山 秀吉
 ○ 特別功労者
    上伊沢 伝
 ○ 歴代校長
    笠原 郡治  大和田 豊
    今井 義雄  高瀬 清
    菊地 幸治  佐藤 美晴
その時、高橋一郎先生の骨折りにより記念誌が発刊された。寝食を忘れて
の努力に、衷心より敬意を表する次第である。
 昭和48年、開拓65周年・開校60周年記念碑を校庭に建立した。
 盛大な除幕式を行い、開拓以来の功労者をねぎらった。
 遠隔の人々よりたくさんの厚意が寄せられ、部落一同は感激した。