開基70周年記念 「思い出の虹」 湧別町西芭露
昭和54年10月4日発刊
第1部 部落のあゆみ
2,産 業
3,諸団体
4,神社・墓地・馬頭尊
2,産 業 | ||
薄荷の盛衰 | おらが薄荷は 洋の涯 香るはずだよ 血と汗が 珠と輝く 炎天に 天恵波うつ 西芭露 当部落は薄荷を生命とし、薄荷によって拓けたと言っても過言ではない。栽 培の最盛時は、本流、遠軽沢、6線の沢と、かなりの傾斜地まで開墾され、そ の9割以上は薄荷作付地であった。 時代の流れは、大きく私達の経済生活を変えて行った。満州事変、大東亜戦 争と、進むにつれ、食糧軍需作物の強制耕作とにより、薄荷は不急作物として 現象の一途を辿った。 戦後遠軽に試験場が開設され、笠野場長の、日夜献身的努力により、品種も 万葉、豊葉、綾波、早生波と、含油率の高い品種の開発により、住民の生産意 欲も向上したが、海外より、安価な原油が輸入されまた人造薄荷も製造される という報導は耕作者にとっても、きびしい現状となった。 次に北見地方の薄荷栽培の起源を延べ相場の変動等を述べてみたい。 明治29年5月湧別原野西1線7番地に入植した、福島県会津出身、渡辺 精司(後上芭露郵便局初代局長)は上川郡永山村屯田兵、石山伝右ェ門より、 種紺6貫〆を移入したのが北見薄荷の始まりとされている。 また、明治34年芭露6号線、奥農場入植者、武藤留助が湧別原野西1線 で栽培し其の種根を各地に供給していた高橋長四郎から分譲を受けて植えたの が芭露薄荷の始まりと言われている。 芭露川流域の風土は薄荷の栽培に適することにより生産量も多く、大正12 年5百町、13年779町と激増し、昭和13年1,318町2反、14年1,365町2 反となった。昭和16年以降は減反傾向を辿り、20年には503町8反と減少した。 薄荷相場 明治34年永山相場で1組6円50銭 (1組は1,2キロ) 明治35年 4円50銭 明治36年湧別相場 5円 明治37年 3円50銭 日露戦争の影響 明治40年 4円10銭 米1俵と同じ値 明治45年 協約値段 9円 値上がりの場合は13円以上は折半を約束 したが協約破れ値がくずれ9円より15円35銭となった。 サミュエル事件 と言われている。 大正2年は大凶作であったが5円40銭という安値であり、次の年には10円に 3組という前例のない安値であった。 大正6年 1組 3円12銭 大正8年 1組17円50銭 大正12年 1組37円50銭 昭和14年 1組18円 昭和21年 キロ当600円〜800円 昭和22年 キロ当2,400円 昭和29年 1組 1万円 昭和52年 1キロ 5,880円 昭和53年 1キロ 4,650円 以上のような変動により現在に至っている。 現在は反収平年で、10キロは収穫可能であるが、ビート其の他の大量作付 や、製油の条件などにより、当部落に於いても昭和54年度は次の耕作者7軒 となった。 ・大隅政太郎 1町4反 ・阿部 正井 1町5反 ・大隅 栄一 1町3反 ・佐藤 英二 1町5反 ・峯田 勤 3町3反 ・石山 信吉 3町歩 ・鈴木 富雄 3町歩 計 約14町歩 |
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馬産振興 | 大正末期に、小向竹内牧場よりホマレ号が出張種付し、優良産馬を生産した。 戦時中は軍馬の買上も多く、高級乗馬も買上げられ、満州種牡馬の買上げ 及び補助耕馬として牡馬購買も行われ農林省種馬としては、小林定七氏の育成 馬が買い上げられたことは未だ記憶に残っている。 馬産地芭露の声価を高めた。 安彦作助氏が、第3クレベル号の払い下げを受け、種付事業も行った。前記 ホマレ号が廃馬となり、大正8年、三菱木材の運材に、吉田新三郎氏が使用し て、廃馬ながら、大きな力を発揮した。 元来、上芭露地区馬産の基礎は、湧別地区の初春、春雨等の、優秀種馬の血 統を引いた馬が多く、湧別種馬所のアーキテクト、ボークルール、良勇、ソー ジョン等派遣馬の利用も、あづかって力があったと思う。 種馬所の第3レスカ、アルビスト、エムリユ等、遺伝力の強い種馬の影響が 大いにあったと思われる。 湧別種馬所境内で、毎年、網走管内の畜産共進会が行われ、終了後は馬市 が数日開かれ、陸軍軍馬の買上げ、及び内地府県畜産組合の、種馬農耕馬の 買上が行われた。馬産景気が盛り上げられ、馬産地湧別の声価が高く評価さ れた。 馬産に付いて、金井、西川両獣医師、大塚装蹄師の技術を讃えたい。 戦後種馬の管理は民間に移され、矢崎保氏これを管理したが、30年代より、 児島政市、高嶋千代吉の共同管理に移されたが、農村過疎と機械化により、 飼育馬も甚だ減少したため、個人委託となったが、現在は児島氏が自己所有 として種馬を飼育している。 当部落に於ける馬産功労者として、茶山秀吉、小泉豊、佐藤豊太郎諸氏の功 績を讃えたい。当部落に於いて馬産畜産に生涯をかけたと言って過言でない人に 児島政市氏がある。幼少の頃より馬産一筋に生き、網走管内の優秀な畜産商と して定評がある。部落近隣はもとより幅広い活動を続け、人間児島としても、 右に並ぶ人は少ない。後継者和夫氏また父に劣らぬ畜産に懸ける努力家である。 |
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土地改良 | 当部落の平地一帯は、乾燥地が多く、冷害の年は割合影響は少ないが、主に高 台と称する、高地は十粘土地帯が大部分で、冷害雨害を受け易い。 他の部落と同様、土地改良の必要に迫られている場所も少なくない。 戦争の末期頃、国有林、町有林より柴木の払下げを受け、青年団員及び援農 隊の応援を得て暗渠排水を施行した。 其の後昭和30年以降、興農公社の土管や、ヒューム管を用いて、前回の場 所も含めて、本流、6線高台、遠軽沢と、かなりの大面積の土地改良を実施 した。 これは上部よりの補助もあり、かなりきびしい検定があった。 其の後20年、年移り再び改良に迫られ、52年度、当部落で30町歩近い 大面積の暗渠排水を実施した。これは土建業者の請負で施行し全経費の半額 は、国及び道の補助によるもので、同時に心土破砕も行った。 農地振興地域と指定を受けた特典であった。 故梅津庄左衛門氏は、営農知識の交換が必要だと言い、また堆肥の増産を奨 励した。土地を改良して堆肥を混入することは、今提唱されている土づくりの奥秘 である。 お互いに個々の考えている知識を語り合って、これからの部落づくり、村づく りに協力することが、明るい農村を築く第一の要素であると確信する次第であ る。 |
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水田の耕作について | 西芭露地区における水田耕作の記録は古い。 大正時代の末期、石山一二氏、石塚勘蔵氏は多額の金銭を投じて、当時とし てはかなりの大面積を造田したが、当時は温床苗の時代ではなく、モミを 直播し、冷たい沢水を引き入れたのと、寒冷地に強い品種の改良も進まなかっ たため、大きな収穫は得られず終わったようである。 其の後戦中、食糧難の時代、食糧生産が高く評価された時、自家用飯 米を得るため、水田の試作が行われ、かなりの収穫が得られるようになったが、 離農地の拡張と食糧が自由に手に入り易くなり、国の施策の減反政策と相まっ て、順次に転作され、今は全区域内で2町歩程度の水田を残すのみとなった。 |
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亜麻耕作 | 昭和16年、軍需作物として亜麻の耕作が奨励されたが、戦後湧別亜麻工場 の閉鎖と共に耕作は終焉した。 |
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馬鈴薯 | 上芭露に矢崎工場、組合工場、芭露に大沢工場と、たくさんの澱粉工場が造 られ、馬鈴薯の種類も紅丸、農一、エニワと耕作されたが、収支の不均衡を欠 いたため、酪農、ビート、其の他の作物に切り替えられ、冷害に強い作物ではある が敬遠されている。 |
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甜 菜 | 甘味資源法により奨励され、値段も安定しているため、耕作意欲も上昇して、 大型苗植機、掘取機も導入され、増反に拍車をかけている。 平均反収5トンを目標にしている。 |
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戦時中の特用作物 | 現在は一本の苗でも見つかり次第きびしい処置を受けるが、戦争中は煙草・ 大麻・けし、などを作ることが出来た。けしは実の部分の液汁を乾燥させて買 上げ、大麻は皮糸を利用した。煙草は葉を乾燥させて買い上げた。 今思えば嘘のような話である。 |
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酪 農 | 昭和6年頃、打ち続く畑作の冷凶により、農作物の減収のため、農家経済建 て直しの一助として、乳牛の飼育が奨励され、当部落でも大隅正雄氏がとり入 れた程度で、あまり実を結ばず、其の頃は数頭の飼育であった。 終戦後27年頃、上松敏邦氏が単独で乳牛を飼育し初め、漸次近隣の人々 に普及したが、経営面積の少ないこと、施設の不備なこと、その割合に収支の 均衡を欠いたため、これを機会に離農する人々も多くなった。 当時より、搾乳牛を飼育している人は、現在、伊藤剛、小池勝、長屋政二、 以上の3戸となったが、離農者の跡地を合併して、近代的機会施設を導入、 益々生産を高め、芭露農協内の優秀な順位を占めている。 其の他、乳牛の育成、肉牛の飼育をしている人も数軒あり、かなりの成果を あげている現状である。この人々が集まり、西芭露酪農組合を組織している。 元湧別町長の生涯をかけた酪農振興策を受け継ぎ、酪農こそ湧別町の基幹 産業であるという、現清水町長の信念のもとに、着々其の実績あげ、昭和53 年には乳牛1万頭肉牛3千頭と、網走管内有数の酪農郷となった。 オホーツク海特性の周期的冷凶のめぐりくる当地に於いてこの言葉は妥当 ではあるが、当部落は面積も狭く、それを強く実行に移すということは、経済の 面からも、到底不可能なことであるため、畑作専業者の多い理由でもある。 昭和50年、湧別町第二次農業構造改善の一環として芭露農協管内酪農家 全戸の、集乳バルク・クーラーの設置が必要となり、計呂地地区芭露地区と、 奥地まで3相電気の工事が実施された。 これは奥地程、資材其の他の経費も多く必要としたが、組合相互扶助の精神 により、一律の出費、僅か1戸3万円で完成された。 農協共同精神を高く評価したい。 |
3,諸団体 | ||
芭露農業協同組合 | 昭和53年11月5日、農協創立30周年記念、牛乳生産1万トン突破祝 賀会が芭露湖陵中学校体育館で行われた。 ふり返って見れば、昭和22年11月9日、農業協同組合法の公布をうけ て、23年、中原円次郎氏を組合長、代表監事に茶山秀吉氏、参事に越智清 敏氏を選出して、本部を上芭露に置き発足した。 24年、石塚義雄氏が上芭露事務所に常勤、中原組合長が芭露へ常勤する 体制となり、 26年、上芭露農業協同組合を吸収合併、中原組合長が上芭露へ、 清水清一が専務理事として芭露へ常勤。 28年、計呂地農業協同組合を合併し、組合長に清水清一氏、代表監事に茶 山秀吉氏、上芭露支所に中原円次郎氏を常勤理事として選任した。 昭和38年、清水組合長が、町長に当選するに及び、後任に越智修氏が組 合長に就任し現在に至っている。 前37年、越智清敏参事退任の後、小湊薫氏が選任された。 其の間28,9年、31年、39年等の大凶作、累積した負債に耐えきれず、 離農者の続出、生活物資の価格上昇にもかかわらず、生産物価の暴落、 オイルショックなど、幾多の困難な情況に耐え、農村電化の完成をみた。 第一次、第二次農業構造改善事業の推進により、耕地の改良、枠農に於いても 全戸バルククーラーの導入、施設の完備、畑作地帯に於ても大型機械の導入に より、益々生産意欲を高め、一方に於ては土づくりを奨励し、着々実績をあげ ている現況である。 この重大な時に、小湊参事の急逝あり、組合員一同、否湧別町農民一同は 参事の生前の業績を讃え、逝去を惜しんだ次第である。 今や農業はきびしい曲り角に立たされている。この時、組合員は一致協力し て農村生活防衛のため、奮起しなければならない。 当初より、部落選出の役員を記したい。 1期 理事 長屋政二 小泉豊 石山信治 監事 茶山秀吉 2期 理事 長屋政二 石塚義雄 宇野又一 監事 茶山秀吉 3期 理事 石塚義雄 峯田繁蔵 伊藤辰五郎 監事 茶山秀吉 4期 峯田繁蔵 村井玉吉 監事 茶山秀吉 5期 理事 峯田繁蔵 村井玉吉 監事 茶山秀吉 6期 理事 小田春次 佐藤豊太郎 監事 茶山秀吉 7期 理事 小田春次 佐藤豊太郎 8期 理事 東海林昇 9期 理事 伊藤留作 10期 理事 伊藤留作 11期 理事 長屋春吉 12期 理事 長屋春吉 30周年記念式には 永年勤続役員として、次の人々が表彰を受けた 茶山秀吉 峯田繁蔵 伊藤留作 昭和46年には集団電話が開通した。 |
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農業共済組合 | 昭和22年、農業災害補償法が制定され、昭和23年、共済組合設立認 可をうけ、芭露農業協同組合内に事務所を置き、農作物共済、牛馬死亡、廃用 共済事業が発足した。 昭和25年、直営診療所を置き、家畜診療、防疫体制が確立された。 昭和30年4月1日、芭露、湧別両農協、開拓農協と乳牛人工授精事業につい て契約を交し、人工授精事業を開始した。 戦後食糧難の時代、西芭露区内に於ても、水稲耕作者が20戸以上にもなり 全員共済組合に加入した。凶作の年には、損害評価を受け、割合によって 補償された。 昭和48年、米生産調整、酪農による草地増加により水稲耕作面積は激減 するに至り、農作物共済事業を廃止した。 昭和50年、麦類作付奨励により、大型機械の導入に伴い、かなりな面積の 耕作が営まれるため、麦類共済事業が再開された。 現在北海道が食糧基地として高く評価され、宿命的にめぐり来る凶作から 北方農業を守るため、ビート、豆類に至る主要な作物の共済が提唱され、数ヶ 町村に於て試験的段階に入っているが、当町としては実施の段階に踏み切っ ていない情況にある。 昭和53年5月22日 組合設立30周年記念式が開催された。 部落選出の役員を記す。 理事 茶山秀吉 昭和23年〜26年 〃 伊藤辰五郎 昭和26年〜31年 〃 小泉藤治 昭和31年〜40年 〃 東海林秀雄 昭和40年〜46年 〃 大隅勝治 昭和46年〜52年 現代議員 長屋政二 佐藤信雄 共済組合現在加入者氏名 ・梶沼 春雄 麦 ・大隅政太郎 馬 ・児島 和夫 馬 ・小田 永吉 馬・麦 ・大塚 豊 馬 ・大塚 進市 馬 ・浅井 菊雄 牛 ・大塚 直見 馬 ・伊藤 剛 牛 ・長屋 晴治 牛 ・石山 信吉 馬 ・佐藤 英二 馬 |
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農業実行組合 | 現在この部落には、3つの農事組合がある 農協、営農、購買、販売など諸般の連絡事項などに協力している。 発足当時は、必ずしも現在のような主旨ではなかったようである。 昭和6年、梅津橋以西に佐藤作太郎を組合長、伊藤辰五郎を副組合長として 発足した。時を同じくして、6線付近に作られた組合を西芭露組合、それより 西、遠軽沢にかけて組織された組合を、西芭露第一組合と言った。 後になって、第二組合は区域が広いため、二つに分かれ、第二、第三と言 い現在まで続いている。 現在西芭露組合と、第一組合が合併して、第一組合となっている。 戦時中戦後は、供出の割当、配給物の配分など、面倒な用件が多く苦労したが、 今は農協の連絡機関程度と変わっている。 第二、第三組合は、部落の役も兼ねている。 部落記録によれば、西芭露組合員、宮田富蔵、茶山秀吉、阿部市太郎、大隅 政雄の諸氏は、西芭露第一部落会に属していたとも記されている。 其の頃の当部落は、第一部落会、第二部落会の二区域に分かれていた。 |
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納税組合 | 納税は国民の三大義務の一つとして、最も重要な義務である。 納税の完納が、国の施策の根元である予算の財源であることを疑う人はいな い、この納税を完遂するため、各階層に組合がつくられ、奨励されていること は必然的なことである。 町単位とした組合には、各部落に役員が委嘱されている。 西芭露でも長岡与七氏が理事になっている。 今部落には四つの組織があり、 梶沼春雄(現在)、大隅政雄、村田正太郎、長岡与七、長屋政二 峯田繁蔵 この方々が多年納税の陣頭にあたって尽くしている。 |
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利用組合の発足 | 湧別町第二農業構造改善の一端を担い、当部落にも利用組合が組織された。 組合長に、農協理事の長屋春吉氏を選び、75馬力のトラクター、作業機一式 ビート掘取機も購入して、畑の耕転、砕土は勿論、ビートの収穫にも、新しい 威力を添えている。 労力経費の節減により、少しでも営農生活にプラスになるよう、各人は努力 している。 組合員は次の通り 長屋春吉、伊藤 剛、小池 勝 長屋晴治、東海林保政、佐藤英二 |
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農民連盟 | 昭和40年、50年代は高度経済成長の課題の中で、農産物、特に食糧の安 定確保が、国の安全保障につながる重要な問題であり、先に網走管内では、多 くの市町村のうち、これに対処するため、農民組織が結成された。 芭露地区内に於ても、昭和41年度、農協後援のもとに、島田琢郎を委員長 、副に渡辺豊春、田中宏、書記長に島田喜一郎を選任して、農政協が発足し た。其の他、6部落より、3名ずつの執行委員を選び、任期は2ヶ年とした。 後には戸数の減少により、志撫子、東芭露、西芭露部落よりの執行委員を2名 とした。 組織も農民連盟と改めた。 西芭露よりは、伊藤留作氏、小泉豊氏、佐藤信雄氏の3名が選任され5期 10ヶ年勤めた。 小泉豊氏の苫小牧への転出、伊藤留作氏の退任により、小池正明氏が選ばれ たが中途にて退任、佐藤信雄氏一人となった。 農民の生活水準が、他産業従事者の生活水準と伯仲するため、時代に即応し、 農民の力を結集して、地域農民の生活向上発展に参与するため、ますます撓ゆ まぬ努力活動を続けている次第である。 |
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農業委員会 | 我々農民生活に於て、一番大切な資本は何と言っても農地である。凶作や不 況、其の他の災害、負債等より、血と汗の結晶である農地を手放すということ は農民の一大悲劇である。 この部落に於ても、開拓以来長い年月の間には、幾多の人々が転落の道を辿 ったことか・・・。 昭和13年、農地調整法が公布になり、17年には上芭露、西芭露地区内の 林有地が解放になり、昭和21年、自作農創設特別借置法が公布施行され、 不耕作地主所有地、小作農地は安価な代価によって、耕作者の所有となっ た。 最初、この業務施行は農地委員会が司っていた。当部落からは村井豊助氏 が、選出されていた。 昭和26年、農地委員会が解消され、農業経営の合理化をはかるため、土地 所有権の適正な管理業務を取り扱うため、農地委員会、農会の併合による農業 委員会が発足した。 委員会内に於ては、農地部会、農政部会に分れて、それぞれの委員が委嘱さ れている。委員の任期は3年である。 委員会は、公選14名、選任委員7名、計21名となっている。 西芭露部落よりは次の諸氏が歴任した。 桑原 正男、玉井 玉吉、石山 宣次、阿部市太郎、佐藤豊太郎 伊藤 留作、佐藤 信雄 きびしい現況下にあって、正しく農地を守りぬくことは、農業委員会の一大 使命であると確信する。 |
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民生委員会 | 大正7年、生活困窮者救済機関として方面委員会が発足した。 其の後昭和42年、西芭露では梅津庄左ェ門氏が委員に委嘱されたと町誌に 記されている。 昭和21年、生活保護法と民生委員令が公布になり、民生委員会が発足し た。社会福祉事務所と連携をとり、生活保護法の適正な運営に協力する機関で、 厚生大臣より委嘱される。児童福祉委員も兼ねている。 当部落よりは次の人々が委嘱され、多年福祉事務所に協力した。中でも石山信 治氏は、12年勤続表彰を受けた。 峯田繁蔵、佐藤豊太郎、村井玉吉、石山信治、石山良子 以上の諸氏が歴任した。 毎月一回の委員会を持ち、生活困窮者の救済に努力している。 |
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森林愛護組合 | 明治44年には全道的な山火があり、この地区でも大きな山火があり、連 日真紅な太陽が空に浮かんでいたという。山は枯山と化した。 入植間もない部落民の大部分は、住宅まで全焼した。焼失を免れた家は 2軒であったと記録されている。大正3年の大山火も記憶に残っている。 其の後、大正8年には裏山の全焼、大正15年には宮田喜代松さんの家の 出火により、隣の茶山さん宅が燃え、山林に延焼した。 昭和初期にも、旧学校の裏が焼け、戦後間もない頃、上遠軽より燃えた火が 西芭露奥地に燃え拡がり、住民は一週間以上も消火に出役した。 其の頃の標語に「焼け山のふもとの村は皆亡ぶ」と書いてあった。 国有林、民有林と言わず、山火の被害は住民にとって大きな痛手である。 森林愛護組合が何時頃組織されたか、年代は不明であるが、上芭露、東芭露 西芭露部落連合組合が組織され、長い間、矢崎次郎、高嶋三郎氏が会長に選任 されている。当部落にも単位の森林愛護組合があり、山火予防、消防に協力し、 組合長は用材、薪材等の払下げの世話等責任は大きい。 毎年春4月雪どけの頃、町、営林署、森林組合協力のもとに、山火の撲滅に 留意した大会が催されている。 組合長には次の人々が永年勤められ、其の功績は長く住民の心に刻まれている。 石塚義雄、 佐藤豊太郎 石塚義井、 石山宣次 村井玉吉、 長屋春吉 |
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青年と青年会の推移 | 当部落の開拓者と言わず、屯田兵と言わず、明治以来北海道を開拓した人々 の多くは青年であった。 青年の意気と情熱と力がなくては、開拓の難事業は、完遂出来なかったので はないか。 かってトルコ共和国の初代大統領ケマルバシヤは、「青年を期待しない国家 は滅亡する」と喝破した。何と力強い言葉ではなかろうか。 あらゆる辛苦、困難に耐えて、新天地西芭露を開拓した人々の大多数は、2 0代、30代の青年戸主であった。 70年後の今日でも、新しい時代に即応した、新鋭機械を操縦して営農の原 動力となり、農村生活、社会生活の主役は何と言っても、青年層であることに 変わりはない。 次に開拓当初の青年会の推移を述べて見たいと思う。 大正3年4月19日、上芭露東輝青年会、東芭露北華青年会の創立に呼応し て当部落でも、村田重蔵氏発起人となり、北斗青年会支部西ノ沢青年会が発 足した。 会長 村田重蔵、 副会長 新居徳重 会員 村田愛次郎、村田五郎、茶山秀吉 其の年の10月になり、大口源四郎、浅井伊三郎、小田春次、高橋忠志、 大口義一、村井喜兵衛の6名入会して11名となり、 顧問に小田孝作、船戸喜助、宇野市太郎3氏を委嘱した。 其の年の10月17日、西ノ沢青年会の発足式を、村井吉右衛門氏の畑の中を式 場として行う。 この時、会員手製の万国旗を飾り、東輝、北華青年会を招き、昼食には赤飯 をもってもてなした。当時としては最大級の祝いであった。 式後、学校、青年会合同の運動会を催した。これが西芭露運動会の初めであ る。 式次第には村田会長の挨拶、上伊沢村議、東輝の遠藤孝省氏の祝辞があった。 費用には部落有志寄付を受け、宇山三平氏の1円の寄付が大きな光であっ た。 青年会の事業としては、当時、学校校舎と便所との間に2間位野天を通る場 所があり、風雪雨露をしにぐため、会員は材料を持ち寄り、鋸で板を曳き、囲い は長柾を割って老化を作った。このため会員は大いに賞賛されたものである。 冬期は会長宅で、夜学会を開き、作文、俳句などを創り、夏期も続けて会員 の研修と親睦につとめた。 ●大正4年、会員が少なくて、事業を行うのにも微力なため、林利源太氏の努 力により、35才までの人を賛助会員として入会を願い、会長は賛助会員より 選出することとした。 会長 船戸喜助、 副会長村田重蔵の両氏を選び面目一新した。 青年会の夜学に公社を使用したため、火の用心、その他のことで部落内に不 満の声が出たため、青年会場を作ることになり、高橋忠兵衛氏の畑の一隅(現 公社の裏付近)に、柱、梁は前山より切り出し、屋根囲いは会員持ち寄りで、 6坪の小屋を建て、夜学など青年行事の会場とした。これを青年小屋と呼んで いた。 其の頃前山は、44年の山火の類焼により枯死した松の木が、麻畑のよう に立っていた。 この年の12月1日千葉忠一氏が28連隊に入隊した。部落で最初の入営 者であった。 ●大正5年 会長長屋徳右ェ門 冬期は会場で夜学を開いた。其の頃、小川純直という乞食同様の姿で迷い込 んで来た人が会館に起居して、習字、漢文を会員に教えた。月謝もなく、会員 は麦を集めて、その代りに当て、灯油代だけで習った。 ●大正6年 会長梅津庄左ェ門 前年同様夜学を開いた。 其の時、大塚先生が教職を去って6線で農業を営んだが、病弱と仕事に不馴 れなため、畑は荒れ放題となり、これを見かねて、青年会援農の話が起こり、 援農可否が論議となり、青年会解散の危機まで陥ったが、宇山三平氏の仲介で 円満解決した。 ●大正7年 会長 茶山秀吉 ●大正8年 会長 林 信次 林信次氏は同年5月先生として着任、入会と同時に会長を引き受け、青年の 指導に情熱を注がれ、会員の作文、俳句、自由画等を集めて「真声」と名づけ て本を発行して、青年の教修に努められたが、翌年正月、徳島歩兵62連隊 に入隊した。其の後も原稿を送り青年会を励ました。 ●大正9年 会長 新居徳重 ●大正10年 会長 村田五郎 ●大正11年 会長 茶山秀吉 部落に会館建設の気運が萌し、部落総会の同意を得て、用材払下げの手続き をとり、部落の有志、石山一二、高橋忠兵衛、石塚勘蔵の3氏より各35円づつの 寄付を奮発して貰った。 ●大正12年 会長 高橋忠志 会館材料、遠軽峠より松12本払下げを受け、雪の上で搬出した。 3人の木こ挽(阿部、藤丸、八鍬)にて製材し、松村岸太氏を棟梁として、9月 完成、10月18日落成式をした。 ●大正13年 会長 石塚官次(以上茶山秀吉氏記録) この年以降も青年の研修に体育に、部落事業の協力に努め、部落の発展に 寄与した。順次に大隅正男、石塚義雄、伊藤留作、玉根松助、小泉藤治の諸氏 に変わり、時世は満州事変、大東亜戦争へと移行して、青年訓練と併せて、戦時 色一色となった。其の間、東郷青年団など隣接青年との交流、石塚義井氏の相 撲などは当時の花である。加茂寅治、玉根徳次郎氏等同好者の協力により、 青年演劇なども盛んに行われ、秋祭りなどを賑やかにしたのもこの頃、笠原、笹 木先生の絶大な協力と、希望社後藤静香の影響を受け、青年修養と勉学に一時 代を画した。 戦時中は、会員の応召に次ぐ応召により、特筆すべき行事はなく、長屋春吉、 新居健孝、船戸喜一郎会長時代を経て、戦後は女子青年と合流、広く湧別方面 の青年会とも交流して、知識を広め、交歓会、研修旅行と幅広い活動をした。 部落内に於いても、共同作業、夜学などを行い、部落活動に協力して、青年会の 本分をつくした。 また演芸会なども盛んに行い、部落に花を咲かせたものである。 記録が紛失して、其の時々の会長会員など、また会則会規なども不明なまま 記載、姓名漏れ、後先の事項などもあるかと思われるが、御了承願いたい。 諸岡利起、村田正太郎、村井 繁、小田永吉、宍戸憲治、宍戸弘士、伊藤金 美、白田義光、上松敏邦、上西俊雄、宇野 覚、石塚 勤、小田幸一、小泉勝 男、大隅勝治の諸兄の努力業績に感謝したい。 30年代の後期よりは、会員も年毎に減少して、以後は農協青年部一本とな ったが、伊藤 剛、佐藤英二、村井義邦、其の他数名の会長を経て解散の止む なき情勢となった。(昭和51年) しかしながら、部落内に一人でも二人でも適齢青年のある限り、青年の意気 と情熱の火は燃え続けると確信するものである。 |
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静修処女会の発足 | 大正11年、西芭露に於いて、山本泰雄先生御夫妻のお骨折りにより、静修 処女会が組織された。 会長に船戸ヒデさんを選び、冬期は裁縫編物などの講習会を開き、其の道の 講師を頼んで行った。 若い女性の教養と、円満な生活の指導など、その頃としては、部落に明るい 呼吸を、みなぎらせた。 後には女子青年会へと発展した。 |
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婦人会 | 昭和30年代の初め、菊地幸治校長時代、戦時中の国防婦人会が忘れられ た頃、新たに西芭露婦人会が結成され、会長に菊地マツ氏を委嘱した。其の後、 毎年改選があり、佐藤ウメ、伊藤ヤエ、途中義子、平川貞子、村田若子、石山 貞子、河原田美代子、以上の会長を経て、副会長を補佐役とし、其の時々の先 生の奥さん方の多大な協力を得て、婦人学級と併せて、料理講習、編物講習な どを開き、小林保健婦、役場保健婦による健康管理も熱心に受講して、知識を 広め、円滑な会の運営を期している。 最初は湧婦協の一員として、いろいろな集会研修に参加している。後になっ て、芭露農協婦人部の一端を担い協力するとともに、西芭露独自の婦人会とし て運営されている。 近年、会員の甚減などのより、運営が困難なため、会費は部落費より支出し 部落に居住する全戸の婦人は、老若を問わず、西芭露婦人会の会員である。と いう規約を作り運営し、老人会、敬老会、学校の諸行事などに協力して部落発 展の一助を担っている。 役員は毎年改選している。 其の他に20代より30代位までの、若い婦人により組織されている若妻会 がある。保健婦、その他の講師を招き、育児、児童の躾、健康法などの講習を受 け、明るい部落づくりの一端を担っている。 |
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老人会と寿の家 | 昭和49年、東海林昇氏が発起人となり、当部落に老人会が百寿クラブの 名のもとに発足した。老後の健康と幸福、相互の親睦と、家庭の平和をモット ーとして、毎月一回の定期集会を持ち、役場より社教の係員、小林保健婦によ る老後の健康管理についての指導をうけ、会員は60才以上となっているが、 50代の人でも加入を歓迎している。 慰安旅行、他部落老人会との交歓会等も行い、相互の親睦を深めている。 神社、墓地の清掃、寿の家周辺の清掃にも特別の力を注いでいる。 当初、会費は一人千二百円であったが、物価の上昇を併せて倍額とした。 発足当時より、会長 東海林昇、副に伊藤留作の両氏を選任している。 百寿クラブ発足当時、主会場は学校であったが、児童生徒の教育上好ましく ないと判断した結果、地域選出の町議を通じて、会館の設置を要請した結果、 浅井菊雄氏の厚意による敷地譲渡を受け、此処に建設の運びとなった。 51年秋、鎌田組の請負で建設竣功した。 老人会の会合はもとより、総ての部落集会はこの会場を使用している。 52年、53年と老人会は部落の援助のもとに植樹、花壇作りに励み周囲の 清掃にも総力を挙げている。 |
4,神社・墓地 ・馬頭尊 |
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西芭露神社 | 頌徳の碑、明治12年宇山三平氏、西芭露に入地し、大正元年土地1反 歩の寄付により、西ノ沢神社を創立す。 大正7年、石塚勘蔵氏、更に1反6畝歩の土地を寄付して、境内の拡張を 図り、総代を勤め、納税を奉仕して、感謝の意を表し、両氏の徳を伝う。 紀元二千六百年 西芭露部落一同 以上が境内に建立されている碑文である。 明治45年、宇山三平氏土地1反歩を寄付して、此処に天照皇太神を祀 る神社を建立した。其の時の大工は森原五百吉であった。 記録によれば、大正13年12月12日の役員会で拝殿建築がきまった。 昭和2年、神社の幟(50円内外の品)を購入することと、鳥居建立のこと が決まり、鳥居建立には、必要な人夫は部落出役とし、金額28円で村井 豊助氏に一任した。全額部落寄付による。 と記されている。 昭和3年、拝殿が改築された。 更に、昭和9年拝殿の一部が修理された。 翌10年、部落一同の寄付により、本殿の改築となり、其の時の大工は同 部落の浅井秀次郎氏であった。 屋根にはトタンを張り、塗装して現存している。 境内には、桜、トド松、エゾ松、カラ松の齢を経た大木が茂り、荘厳な環境を 呈している。落葉松の植樹は大正10年であった。 昭和46年5月、鳥居が老朽化したため再建となり、村井豊助氏の献身的 な奉仕により、見事な鳥居が建立された。 また昭和48年10月、村井玉吉氏の渾身的努力により、小形であるが立 派な拝殿が完成された。茲に併せて両氏の偉業を記し、感謝の意を表す次第 である。 神社は部落民の心のふるさと、干ばつ時など、部落民一同はこの社に集まり、 一心に天の恵みを祈願した。 また出征兵士は、この社前で一死報国の赤誠を誓って応召したが今にして 思えば感無量である。 お祭りには、子供角力、青年角力もあり賑わった。 大正2年以来、お祭りは10月17日と決まっていたが、祭日は時々変更した記録 が記されている。現在は部落全住民の休日10月10日と決まっている。 |
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墓 地 | 開拓当初、墓地は上芭露墓地を使用した。殆どは遺体のままで埋葬した。 其処は当部落より遠く不便なため、現村井玉吉氏の裏北側の高地を使用す るようになった。 此処を使用するように決まった当時は、地元の人とのかなり複雑な経緯があ ったが、結局使用するようになり、第一番目は大正9年石山家であった。野天 で火葬も行われた。 昭和23年以来、湧別町と遠軽営林署との話がまとまり、現墓地を使用するよ うになった。火葬場も設置し、駐車場も造り、静かな環境の中に、最近石碑も 多く建立され、墓地としての面目を一新した。 墓地移転の時は、部落総出動で、旧墓地を発掘して遺体を移し、寺院住職を 頼み供養を営んだ。 老人会員の奉仕作業による清掃、また部落定期出役による清掃により清潔を 保っている。 墓地は生ある人の魂の終着駅、永遠に大切に致したい。 |
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馬頭観世音菩薩 | 開拓以来馬の功績は大きい。 畑の耕転に、木材物資の運搬に、経済動物として入眠の生活に大きな役割を 果たして来た。現在は機械化の時代、部落全体で10数頭の飼育となった。 馬の霊を慰めるということは、家族の霊を祀ると同様、住民の温かい心の発露 であった。 最初、神社の境内の一隅に木の標抗を建てていた。 後程、小田家の敷地の一隅道路傍に、水松に巨木をけずり「馬頭観世音菩薩」 と刻まれて建てられた。(昭和10年頃)、これは、村井豊助氏の長男要氏の筆 蹟を村井豊助、玉吉両氏が刻んだものであり、現在はそのまま墓地の入口の庭 に移され(昭和13年頃)今に至っている。 村井要氏は大東亜戦争に不帰の客となり、なつかしい形見となっている。 お祭りは長い間、お盆の17日であったが、後に7月17日と変更になり、現在は 17日に近い日曜日と決まり、其の日は部落総休みで、敬老会も兼ねて行っている。 |
5,人 物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
人物評伝 |
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大東亜戦争 部落出身戦没者 |
一億総進撃の大東亜戦争中は、60戸の部落民の中に、60名近い応召者が あり、銃後に残った家族の労苦は、前線の勇士に劣らぬ苦難の明け暮れであっ た。 出征の夫や子息、兄弟を偲び、生活物資の窮乏に耐え、ひたすら勝利の日を 祈った過ぎし日の苦しみは、私共の脳裏から消える日はない。 きり深き夏の朝に声もなく発ち征きし友よ遂に還らず 不帰の客となられた部落出身者の霊に心より冥福を祈ります。
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昭和29年よりの 離農者 |
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